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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

妻を斬ったお武家様の話

作者: 黒川えこう

時代劇が好きなので書きました。

 人を斬ったことがある。

 ぽつりとそういって権定は盃を煽った。羽織と袴を脱いだ長着で膳を引き寄せた格好は、どこからみてもお武家の当主そのものだった。

(いいえ。この人は高久家の当主その人だ)

 今年三十九になる。鋭さと華やかさが同居する美しい見た目をしており、日頃から剣の稽古を欠かさない真面目さで、前妻を娶るまで遊びらしい遊びもしたことがなかったと義母からは聞かされている。

「聞いていましたか」

「はい。しっかりと」

「では誰をとか、どうしてとか、聞かないのか」

「聞きたいことがたくさんあって、喉につかえてしまいました」

「そうだった。可愛の喉はとても細いんだった」

 祝言の晩に首を締められた。まだ十日ほど前のことで、その時の痣がだんだん下がってきて今は鎖骨あたりにある。

「あの時へし折ってしまわなくてよかった。お前がいなければ私は毎晩凍えて眠れないだろうから」

 この離れの座敷牢は、堅牢な作りで見た目は立派な住まいであるが、大きな一間は天井を高くして真ん中に木組みの牢をしつらえてある。ふすまを閉め切った無効に簾もかけてあるので、保温はできそうなのになぜか冷えるのだ。

「不思議に思わないんだろうな。君は」

 まるで独り言なので黙っていると権定は猪口を置く。

「なんだって受け入れてしまう。受け入れてくれる。だから君を迎えた」

 まずもって選べる立場ではなかったがと笑う権定けんじょうの横顔は綺麗だと思う。

「さあ、こっちに来てくれ」

 そういうと、権定は敷いた布団に寝転がる。

 今日はあんまり痛くないといいなと思いながら可愛かわいはその隣に寝転んだ。



 可愛は武家の次女として生まれたが、長女が奔放な質で馬が合わず喧嘩ばかりするからと祖母の家に送られ、そのまま忘れ去られたようにその家でただ静かに過ごした。祖母は熱心に可愛を立派な女に育て上げようとしてくれていたようだが、権定に見初められる前に死んでしまった。

 葬式を出して、その次の日の朝には迎えがきて喪が開ける前につれてこられて顔合わせをし、そのまま屋敷に留め置かれ祝言をあげてしまった。

 武家というのはなにかとうるさいのだろうと思うのだが、権定の家はそうともいっていられなかったらしい。

 権定家の当主権定けんじょうが妻女を斬り殺したのは三月前のことだった。妻女が不義密通の末に屋敷を出奔し、追いついた権定がバッサリ切り捨てたのだそうだ。

 愛妻家ではなかったらしいが、しかし潔癖の気がある権定が妻女を殺めたことを誰もが深く責めることはなかった。

 間男共々斬って捨てた権定は、日頃の働きぶりもあって咎を受けることはなく、ただ妻女の実家が割を食うことになったのはいうまでもない。

 その実家というのが可愛の本家だったということで、すっかり忘れ去られていた可愛を引っ張り出してきたというわけだ。

 顔合わせの日。神社の表にある料亭の庭がとても綺麗な座敷に入ると、すでにきていた権定が背筋をしっかり伸ばし座っていた。傍らには可愛の本家筋の男が怯えたようすで権定の顔色を伺いながら見ている。

 権定は可愛を一目見るなり、なんでももうどうでもよさそうな顔をしたのだが、可愛がどうも男を知らないとわかるやいなや態度がずっと優しくなった。それまで感じていたトゲがすっかりなくなって、まるでおろしたての筆先でくすぐるように話しかけた。

「それではずっとおばあさまのお宅に」

「はい。世話をしたりされたりで仲良くしていたのですが、昨日葬式を出したばかりです」

「そうですか。それは寂しいことでしょう」

「ええ。今日権定さまとお会いしたことを祖母にも聞かせたかった」

「あなたは優しい人のようだ」

 にこにことそういうなり、可愛の手をひょいと取って握った。するとあとは二人でと付添で来ていた可愛の母や本家の男にいって手をひき庭に降りていく。

 手を借りて草履を足にひっかけ顔をあげると、すぐそばに権定の顔があった。目をまんまるにして可愛の所作をじろじろと見て、そしてたぶん彼の中で合格したのだろう「うん」と頷いた。

「僕の家にきてください」

 そこではいと応えてしまい、そしてそのまま連れてこられてこの座敷牢にいる。祝言の日は出してもらえたし、特段不便なことはないのだが、しかしここは寒かった。

 寝所と呼ばれるこの座敷牢で、可愛は権定の妻ではなく肉布団扱いされているのだとわかるのは、下女らが話している声が聞こえてきたつい昨日のこと。祝言をあげてから十日が過ぎたころだった。

 こういう状態なので家のことをすることはできない。なにせこの家に入ってからそのまま寝所と呼ばれる座敷牢に閉じ込められているのだから。

 初夜の翌朝、寝所を出ていく権定について出ようとしたら押し戻されてわけがわからないうちに錠前をかけられてそのままだ。

 座敷牢の中には便所もあるし、板戸をしめれば見えないので気にはならないが日中をぼんやり過ごすのは気持ちが落ち着かないし、ただ寂しかった。お武家の奥様といえばある程度時間にもお金にも余裕があって憧れるものだが、こういう形態もあるのかと知りがっくりしていた。

(旦那様が毎晩帰ってきてくれるからこそ、ここにいられるようなものだし)

 ふと思う。権定は前妻とどんな生活をしていたのだろう。



 妻を迎えることになったのは権定が三十になったときだった。しかし父母が嫡男の妻はかくあるべきと選びに選びぬいたせいでなかなか話はすすまなかった。見合いの話が持ち込まれたのは母方の縁者からで、それは権定が出仕する藩での付き合いもあったので、そこからはすんなりと話はすすんでいった。そして嫁を取った権定はそれなりに仕事も順調だった。

 だから嫁を取ってよかったなと、そう思っていたのだ。

 これまで女を大事にしたことなんてなかった。そう、権定の暮らす世界にそんなものはなかったのだ。馴染みの女がいたって、それは恋愛などではない。恋だの愛だのは権定にはとうとうわからないままだったが、しかし妻がいるというだけで任される仕事も変わり、物事はいいように進んでいたように思えた。

 そんな中で突然の出来事だった。昼下がり、権定が出先から戻ると母が飛び出してきた。血相を変えてとはこういうことなのだなと思わせるその顔を見て思う。

「いかがなされた。母上」

「権定。そのように悠長にしてはおられません。あの女、わたくしたちを謀っていたのです」

「はあ」

「間男がいたのよ!あの女は逃げたの!」

 後から思えばその瞬間決意していたのだろうと思う。権定の名を汚したあの女は、『敵』となったのだ。昨晩抱いた女の顔を思い出す。

(あのときも、熱心にこちらを見返していたのに)

 それが愛情の表現だと思っていた。今ならわかる。ただ間男に重ねていただけなのだろう。

 逃げ出してまだ四半刻もしていないと聞き、この屋敷がある城下から抜けて隣国へ出る街道への近道を馬で駆け抜ける。普段より鍛錬を欠かさなかった権定が逃がすはずはないのだ。もともと足の早い中元が息を切らせついてきているのを確認するのを忘れない。

 林を抜け開けたところで顔をあげて見回すと道の先に男女が早足で行くのをみつけた。傍らの男を見る女の横顔を見間違えることはない。手ぬぐいを頭にかけていたがそんなものは関係ないのだ。

(いた)

 馬を急かせて男女の前に回り込むと、女の方が敵意のこもった目を向けてきた。

「帰りませぬ!」

 たぶん、そういうことで彼女なりの決意を表したつもりだったのだろう。

「わたくしは帰」

 バツンと筋や骨を断つ。まずは男の方からだ。この男がどこの誰だなんてどうでもいい。足を斬って倒れたところを胸に刀の先を落として貫いた。

 突っ立っていた女は一思いに斬ろうかと刀を振りかぶる。女は随分と落ち着いた顔で権定を見上げていた。帰らないといったのだ。つまり生きてはいられないと理解していたのだろう。

 命乞いも、問いかけも、実家のこともなにもかもを投げ出し、あっけなく死んだ男と逝こうと決めていたなんて。

 刀を振り下ろし、女の肩に振れるかどうかのその瞬間、女の目が権定ではなく間男に向いた。恋慕とは、たぶんそういうことなのだろう。

 権定にはわからない。

 返り血が思った以上に広くに飛び散り、権定の肩を汚したことのほうが重要だった。中元があとからおいついた実家の下男たちと共に死骸を荷車に乗せたりしている間、羽織を脱いだ。生臭い獣のような臭いがしたのだ。女の返り血から臭ったのだろう。

 自宅へ帰り母が用意していた風呂に入る。庭には権定が斬り殺した妻と間男の死体が仲良く並べられ筵を掛けられているだろう。

(また嫁取りをせねばならないのか。面倒な)

 勝手にあんなことをして、あの二人は死にたかったに違いない。

 湯船に浸かりため息をついた。

(面倒な)

 次の妻を閉じ込めてしまおうと思いついたのは、知り合いが鈴虫を趣味にしていてお気に入りをかごに入れて縁側に置いていたのを見たときだった。アレをやればどこかで男と知り合うこともないだろうし、幸い権定の家は母も元気だったので手は足りている。足りないのは妻という席に座る若い女だけだった。だから権定が殺したあの女の実家が、不貞を働きなおかつ婚家を出奔し間男共々斬る状況になったことを詫びてきたとき、権定は一つの条件を出した。

 権定の妻の席に座る若い女を用意しろといったのだ。

「今、なんと」

「ですから、後妻をそちらでと申し上げました」

「し、しかし。よろしいのでしょうか」

「面倒でしたら他を当たります」

「いえ!探させていただきます。なにとぞ、どうか」

「わかりました」

 嫌がられたら別で探してもらえばいいと安易に考えていた権定は、相手が権定に斬られるのではと怯えているとは欠片も思わなかった。面倒事を早く片付けてしまいたいと思っていただけだったのだ。

「なるべく早くお知らせできるよう骨身を惜しまず取り組ませていただきます」

「ええ。それでは」

 部屋を出て離れに入る。そこでは権定が呼んだ大工が座敷牢を作っていた。離れは権定が妻と使うようにと増築したところだ。もともとは権定の寝所だった。今も離れは『寝所』と呼ばれている。

 寝所に座敷牢を作っていることを、誰も何も言わない。作ってることも、外の世界では咎められることなのかもしれないが、この世界では関係ないのだ。

 権定は自尊心を踏みにじられないためだけに、今動いている。それが権定にとって、一番大事なことなのだから仕方がない。これまでだってそうしてきたのだ。そうするしかないのだ。



 可愛はあまり物事に頓着しない性質らしかった。だから自分が長い間年寄りと一緒に、他の家族から厄介払いされていたことにも気づいていない様子であったし、それはそれで楽しく過ごせてよかったというほどであった。

 権定は顔合わせの席でなんとなく彼女は男を知らないのだろうと思った。彼女の祖母はとても厳しかったそうで、次女とはいえ武士の家に生まれたのだから貞淑でなければならぬと教え込んだらしい。

「この年齢でお恥ずかしいことですが」

 恥ずかしそうに目を伏せた彼女に、それまで一切感じなかった好感のようなものを持った。いや、そうではない。彼女は前妻とは違うとはっきりして嬉しかったのだ。やはり誰かの手垢がついたものではだめだったのだ。自分は新品を自分に合わせて行くほうが良いと身にしみてわかった。

 そうなるとさっきまで興味もなかった目の前の可愛が素晴らしい女性のように思えた。可愛はきっと、権定と出会うために生まれてきたのではとそう思えたのだ。

(そうだ。彼女こそわたしに相応しい)

 見た目も好ましい。痩せ過ぎているわけでも太りすぎているわけでもない。

 もうすっかり彼女に夢中になっていた。

 陽の光の下でも顔が見たいと庭に誘い出す。そのときに握った可愛の手はやわらかくしっとりとしていて、なんだかずっと握っていたいと思わせる不思議な手だった。

(この手に撫でられたら、気持ちよさそうだ)

 草履をつま先にひっかけ顔をあげた可愛は、甘えたくなるような目を権定へ向けた。まだ初対面といってもいいようなくらいなのに、彼女は権定をすっかり受け入れてくれているようだった。

「僕の家にきてください」

 気がついたら口が勝手に言っていた。そんな自分に驚いていたが、今はとにかく可愛をあの中に仕舞ってしまいたかったのだ。大事なものは隠しておかねば。

 寝所に作った座敷牢は昨日夕刻に完成していた。

 座敷牢に押し込めるまでもない。権定にとって可愛を言いくるめることはとても簡単なことだったし、それは可愛にとってもその方が楽とでもいうくらいの様子だった。

 権定の父母は何も言わない。いや言えない。最初の妻をとうるさくいって見繕い、無理やり祝言をあげさせたのに、その妻は間男とともに出奔してしまったのだ。責任を感じているのかもしれない。

「旦那様、ここにいると私は何もできませんが」

「いい。母も達者だし下女もよく働くからな。君はここで、わたしを待てばいい」

「そうですか」

 たぶん他の娘なら、それはおかしいと思ったかもしれない。しかし可愛はそう思わなかった。可愛の祖母は夫の言うことはしっかりと聞くようにと、それは口うるさくいっていたらしい。

 後から知った話だが、可愛の姉はとにかく何事にも楯突くような娘で祖母とは折り合いが悪く、当時家庭内の権力を掌握していた祖母を疎ましく思っていた母親が、祖母に可愛がられている可愛共々鬱陶しがって外に追い出したというのが祖母と可愛の二人暮らしの始まりだったと聞いていた。

「なにかあれば下女に言え。朝食だけは母屋に行かせる」

 それが唯一権定が父母に向けて行う気遣いだった。

「ああ、祝言だが」

「はい」

「三日後行う」

「まあ。わたしの実家は驚くでしょうね」

 おっとりとそういうと、可愛はもう一度座敷牢をぐるりと見回した。殺風景な部屋を少し寂しそうに見ている。

「祝言の用意があるのでわたしは母屋に戻るが」

「……はい」

「なにか欲しいものはあるか」

 突然連れてこられて不安に思っているのだろうと気遣う権定に可愛は微笑む。

「特にありません」

 特に無いとはいってみたものの、やはり人気のない座敷牢は寒々しい。もし祖母が健在で自分がこんなことになっていると知ったらどう思うだろう。

 祝言は滞りなく行われ、実家は驚きつつも厄介払いが済んでホッとしている様子であった。姉は妹の夫となる権定の顔をみて顔を赤くしていたし、それは母もだったので可愛は恥ずかしく思った。

「母と姉がご無礼を」

「いや。慣れている」

 そういうものかと思いながら最後の客を見送った。

「父上、母上。我々はこれで下がらせていただきます」

「ああ。権定、本当にあの中で暮らすのか」

「はい」

「しかし、なあ」

「可愛を守るためです」

 淡々とそういいきり、可愛の手を掴むとすたすたと離れへと入っていった。

 離れの寝所に拵えた座敷牢の中には布団が敷かれ、行灯には火も入っている。

「自分でも、よく堪えたと思う」

 連れてきたその日のうちに抱こうと思ったのだが、祝言の支度に手間取り寝所に戻りすぐ寝てしまったのだ。

「お疲れ様でした」

 可愛には権定が言ったことの意味は伝わらなかったらしい。

「ああ。可愛」

 座った彼女の膝に頭を載せて寝転ぶと、柔らかい手が額に載った。

(やはり心地良い手だ)

 今日祝言をあげるためにいろいろと無茶もやったが、今度こそちゃんとした妻を娶るという権定の思いは強く父母も駆け回っていた。

(この手を選び正解だった)

 これからは毎晩こうして撫でてもらおう。そうだそれがいい。うっとりと目を閉じるとまたすぐに眠くなってしまう。しかしこれからまだやらなければならないことがあるのだ。

「可愛。もう」

「おやすみください。初夜だからといって気を使っていただかなくても」

 本当にそう思っているようで、可愛は自分より大きい権定を簡単に布団にいれてしまった。

「お前もここに」

「でも」

「いいから」

「旦那様に一つ、黙っていたことがあって」

「黙っていたこと?」

「私、その寝相が」

「そんなこと気にしないさ。さあ。来なさい」

 腕枕してやると、彼女の緊張した体がくっついてきた。手のように柔らかい体やその香りを楽しんでいると、疲れていたらしい可愛がストンと眠りに落ちていった。

 眠る妻にいやらしいことをしても面白くないと自分も寝ようとすると夢乃の手がふわりと権定の腕に触れた。まるで温もりでも求めるように触れると、安心したのか動かなくなった。

(可愛も私を求めていたのか)

 そう思うと嬉しくなり、権定も目を閉じ眠った。

 こんなに静かな気持ちで眠れたのは久しぶりだった。妻を斬ってから、いろいろと忙しくしていたからかもしれない。

 うっすら目をあけると、途端に息苦しくなった。何かと思い顔をあげると、自分の胸の上に女の白い足が乗っている。

 可愛本人がいうとおり、寝相はよくないのだろう。

 何度も褥を共にし、その重みもまた心地よくなってきたころ。可愛は薄暗い朝日がゆっくりと照らす障子を眺めながらぽつりと言った。

「私は何をすればいいんでしょうか」

「何とは」

「ここにいていいなら、私は家のお仕事が何もできません。お武家の妻女であれば、なにやらやるべきことがあるように思うのです」

 およそ、武家の妻らしいことはさせていない。夜帰ってきた権定とともに眠るくらいだ。彼女には何もさせていない。

 子作りですら。

「ややこを、授かったらまた変わるでしょうか?」

「ややこ?」

 抱いていない女になぜ子供ができるのかわからず首をかしげると、可愛はどうもそこらへんの知識が乏しいようだった。

「男女がひとつの布団で眠ればややこを授かると」

「……それは」

「祖母から聞きました」

「……ああ。そうだな」

 ここで本当のことを教えてしまうのも、つまらない気がした。それに、子ができたらこの馬鹿げたとても楽しいことをやめなければならないことはわかっていたのだ。

「ややこができたらな」

 そう。できたらの話だ。このまま可愛に子種をやらなければいいだけのことである。幸い権定は今、そういうことをしたくならない。

 丁度良かったのだ。




 夫婦になって三月が経った。

 権定が閨で可愛の膝枕でうとうとしていると下男が申し訳無さそうな顔でやってきて言った。

「大旦那様と大奥様がお呼びです」

「ん」

「あのう。若奥様もご一緒に」

「……よい。可愛はここから出ない」

 さっさと一人で出て格子を閉めると権定は両親の座敷へ向かった。

 顔を出すと父母は顔を見合わせ、「やはり」とでも言いたげに権定を座らせた。

「いつまで可愛をあそこにいれておくつもりだ」

「いつまでとは」

「妻を外に出さないことを、周囲はなんと噂しておるか知っているか。お前がまた殺してしまったのではと言っているのだぞ」

「なにを馬鹿なことを」

「屋敷から出さないのではなく、お前の閨の座敷牢から外に出していないのだと周囲に漏れでもしたら」

「漏らしそうな者を始末したらいかがですか」

「恐ろしいことを言うでない!」

 顔をひきつらせた母に叫ばれ、権定は鬱陶しいとばかりに顔を反らした。

 自分でもこんなことずっとは続けられないことはわかっていたのだ。

 可愛は文句一つ言いやしないが、ただ不思議そうにしているのだ。

「可愛を思うなら外へ」

「外へ出して、また間男でも作らせろと?」

「お、お前まさか本気でそんなことを」

「本気ですとも。いや、本気なわけないでしょう。可愛は男女が同じ布団で眠りさえすればややこができると本気で信じるような女ですよ。わたしは腰巻きの裾だってめくりやしないのに」

 母はおいおいと泣いたし、父は真っ赤だった顔を今度は真っ青にして唇を震わせ始めた。

「権定、お前。一体何がしたいのだ」

「父上。わたしはもうしたいことをしております」

 とはいえ父母を悲しませることはよくなかったと権定も反省した。だから次の日は休みだったので可愛を外に出してやろうと思っていたのだ。

 仕事帰りにいつもなら素通りする菓子屋に立ち寄ったのだって、可愛が喜びそうな落雁でもと思ってのことだったのに、自宅につくと憔悴しきった顔の母が飛び出してきて権定にすがりついて泣いた。

「どうしたのです」

「可愛が、可愛が連れ戻されました」

「なんだと!」

 慌てて閨に入ると、可愛はおらず騒ぎで倒れたのか衣紋掛けが格子にひっかかっている。

「どこに!いや、だれに!」

「可愛の父です。このような恐ろしいところへは置いておけぬと大声で怒鳴り散らしておりました」

「すぐ可愛の実家へ参ります」

 父がやってくると手に持っていた扇子で権定の左頬を殴った。殴られるとは思わず、しかし激高は収まってうなだれる。

「誠心誠意謝罪からだ。お前がしでかしたことを、お前が償え」

「償うとは」

「自分で考えろ」

 気がついたら可愛の実家の前に立っていた。馬ではなく、自分の足で駆けてきたらしく、腰から下ががくがくする。

 可愛の実家から人が出てきて権定の前にきた。それがその家の下男であることはわかったが、びくびくと怯えながら震える声で話すので何を言いたいのかわからない。

「で、ありますから」

「なんじゃ。はっきり申せ。わたしは可愛を連れ帰りにきただけじゃ」

 その頃になってやっとおいついてきた中元が権定の足元にへたり込んでぜいぜいやりはじめると、下男はヒイッと息を止め後ずさりした。

「可愛お嬢様は酷くお疲れなんです。婿様にはおかえりいただくようにと、旦那様が」

「疲れておるなら我が家で休めばよい!」

 感情的に怒鳴ると屋敷からもうひとり出てきた。見ればそれは可愛の父だった。

「娘を罪人が如く牢へいれるなど知っておれば、そちらに送りなぞしなかった。おかえりください」

「それはそちらが前妻の償いをさせてほしいと言って差し出してきたのでしょう」

「後妻であれば何をしてもよいという道理にはなりませぬ」

「可愛は、可愛は嫌がってなどおらなんだ。あの閨だって嫌がらずいたのだ」

「あんなところへ祝言の後からずっと押し込められていた娘が不憫でならぬ」

「可愛に会わせてくれ。可愛ならわかる。あの閨は」

 恐慌状態ともいえるほど、権定は取り乱していたし、可愛の父もまた頑なだった。

 その時塀の上からなにかがドサリと落ちてきた。権定たちがそちらを見ると、可愛がのっそりと身体を起こしてあたりを見回している。

 権定と父が対峙しているのを見るや立ち上がろうとしてふらついた。

「可愛!」

 駆け寄り支えたのは権定だった。外で見る可愛は青白い頬で随分痩せ、また身体も弱っているようだった。

「可愛、可愛!」

 初めて彼女の手を握ったあの庭先での出来事が思い返される。あの時よりも頬はこけ、目の下には隈もうっすらとあるようだ。

「旦那様。落ち着いてください」

「だが、可愛が」

「どうともありません」

 そういいながら権定の肩を抱いてきたので、今度は権定がふらふらと座り込む番だった。

「うぅ、うわああ」

「可愛は旦那様のそばを離れませんから。大丈夫です。さあ、一緒に帰りましょう」

 大の男が声をあげ泣く姿を、周囲は不穏な様子で遠巻きに見ている。可愛の父は気味悪そうにさえしていた。

「帰りましょう。ね。帰りましょう」

 可愛がそういって泣きじゃくる権定の背中を撫でながら帰ってくると権定の父母は驚いていたがそれ以上なにも言うことはなかった。

 もとはといえば権定の父母が可愛の実家に連絡したのが始まりなのだ。そうすることで彼女を自由にしてやるつもりだった。

「旦那さま、つきましたよ。さ、お召し物を替えましょう。お義母さま、権定さまに温かいお食事を用意してもよろしいでしょうか」

「あ、え、ええ」

「だめだ。可愛はここにいろ」

「かしこまりました」

 なにやら嬉しそうな可愛に権定がしがみついている。

「お義母さま」

「用意しましょう。可愛さんは権定とともにおいでなさい」

 台所で食事の用意をしている母のもとへ父が飛んできた。権定と可愛が仲睦まじくしているといって座り込む。

「旦那さま。権定も可愛さんも、最初から仲睦まじい夫婦でしたよ」

 そう。最初から、二人は仲睦まじい夫婦だったのだ。

 閨の座敷牢は最初から錠前もついていなかったのは明らかだった。だから可愛は出入り自由なところにいたのだ。

 可愛は権定の頼みを聞いてそこにいただけである。

「可愛は権定を大事にしてますし、権定も可愛を大事にしていますよ」

「そう、だったな」

 座敷牢は取り壊されることなく、可愛と権定は夜そこで過ごす。二人で過ごす座敷牢は前よりずっと暖かそうだった。

 ややこができるのはその半年後。そしてやっと座敷牢は取り壊され、もっと居心地の良い座敷になって二人の居場所になった。




《 おしまい 》

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― 新着の感想 ―
[良い点] 改めて読むと祝言の晩に首をのくだりに狂気と恐怖を感じつつも、丸く収まったのであれば、それでよかったとも思える印象に残る作品でした。 そして一見めでたしめでたしで片付きそうなところではあるの…
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