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飛んで火に入る

作者: 上州みかん

 深夜三時。就職祝いにと祖母が資金を援助してくれて買ったシルバーの軽自動車に乗って、真っ暗な山道を走る。もう家を出て40分は経つだろうか。今のところラジオや音楽は流していない。エアコンが濁点交じりの乾いた音と共に生ぬるい温風を吐きだす音が、やけに大きく聞こえた。


「寒くない? 温度設定上げようか」


 助手席に向かって声をかける。視線の先には前のめりに体を倒し、膝を抱えている灰色の髪の男。こういうのは何というのだったか、確か、そう、アッシュだ。前に職場の女の子が似たような色に染めてお局から注意を受けていた。でも隣の男の髪は彼女のそれより更に明るく思える。ずっと色もまばらになって、艶もなく、染め直していないのか根元はすっかり黒くなっていた。襟足はすっかり肩にかかり、伸び切った前髪が男の表情を隠している。

 こいつは昔からこうだ。小学生の頃、「だらしがない」と担任に注意され、工作用のハサミで前髪をザクザクと切って怒られていた。目も当てられないほど不揃いな前髪は俺が何とか揃えてやったし、後ろ髪も一緒に切ってやった。

 ルイガは小中の同級生だった。性格は正反対。趣味も得意科目も何もかもが合わない。特別仲が良かったというわけでもなく、教室という社会からあぶれた者同士、一緒になる機会が多かったのだ。

 ルイガは頭が悪い。目つきも悪いし粗暴で、小柄なくせに声と態度だけが異様に大きいから嫌われていた。俺は単純に暗くて辛気臭い奴だったから煙たがわれていた。二人の共通点と言えば、一人が好きじゃないところだろうか。寂しいくせにうまく声を上げられず、上手く行動に移すこともできず、友人同士で楽しそうに遊ぶクラスメイト達から目を背けていた。

 中学に入ってからルイガは学校を休みがちになった。ガラの悪い高校生たちと一緒にいるのを見た、という噂は聞いた。ルイガ本人の口から何も聞かされなかったのが、案外俺は不満だったらしい。まあ、悩みを相談しあうなんて間柄でもなかったが。高校に入学してからはほとんど連絡を取ることもなく、知っているのは失踪したとかいうよくわからない噂だけ。

 それから5年の年月が過ぎ、今日、いや、ギリギリ日をまたぐ前だったかに、ルイガはいきなり俺の家のインターホンを鳴らした。中学の時より肉付きの良くなったルイガは、真っ暗な空を背景に、薄っぺらい背を丸め、幽霊みたいに立っていた。

 冷えきった秋の夜に長袖のTシャツ一枚とジーンズ、クロックスといったいでたちでやってきたルイガにとりあえず厚手のパーカーを着せてやると、俺のサイズが大きすぎたようで袖から手が出ない。不格好に腕まくりをして、昔馴染みは俺の家のこたつにあたっている。なんだか不思議な気分だった。それからどうしていきなり訪ねてきたのかと問うと、小さな口を少しだけ開いて、「助けてくれ」と呟いたのだ。



 車内の設定温度を三十度まで上げて、それから「あ」、と短い音を口から零す。


「あんまり暖かくしたらすぐ腐っちゃうかな。消す?」


 ちらりと視線を助手席にやる。後部座席には途中で寄ったコンビニで購入したシーザーサラダとおにぎり、菓子パンの入ったビニール袋。それから人ひとり入るほど大きなキャリーバッグ。これは大昔に亡くなった祖父の物で、かなり重い素材でできていた。鍵は壊れているのでかけることができない。

 俺の問いかけに、ルイガは答えなかった。一人で喋っているのも気が滅入るため、それからは俺も黙った。コンクリートとタイヤが擦れる音の中に、エアコンはゴウゴウと荒い息を吐きだし始める。するとルイガはその音にびくりと肩を震わせ、軽い一重を見開いた。ただのエアコンの音だと理解すると、あからさまに大きく息を吐く。それから腕を伸ばし、間もなくカチッとボタンを押す音が聞こえてエアコンは息をしなくなった。

 助手席側の窓ガラスがゆっくりと下がっていく音がして、冷たい空気が車内を勢いよく掻き混ぜる。風が荒々しくかき上げた細い髪の隙間から、道路照明灯に照らされた白いうなじ透けて見えた。


「寒いよ」


 視線を正面に戻して、不満の声をかける。ルイガは窓の外を眺めながら、ためらいがちに窓を閉めた。それから蚊の鳴くような声で「ごめん」と呟く。しわがれた声に中学の頃のような覇気はない。いや、あの頃だって、気を張って無理に声を張り上げていただけだったか。

 先ほど軽食と共に買ったコーヒーを勧めた。もう冷めきってしまっているだろうが、喉を潤すには問題ないだろう。ルイガは無言で袖をまくり上げ、カップを手に取り口をつけた。 

俺も自分のコーヒーに手を伸ばす。泥水をこしたら、こんな味になるだろうか。


 車を止めたのはコンクリート舗装もされていないような山奥。当然車のライト以外に明かりはない。今日は曇っていて月明かりも期待できそうになかった。ドアを開け車外に出ると、川の音が聞こえる。せせらぎと呼ぶには狂暴すぎるその音に交じって、甲高い雄鹿の声が聞こえた。時折木の葉を踏みつける何かの足音がして、猪は勘弁してくれと祈る。猿も嫌だし、熊はもっと嫌だ。

 つけっぱなしのヘッドライトに照らされた山の斜面を眺め、さてどうしようかと考えていると、やっと後ろからドアを開ける音がした。


「篤仁」


 俺の名前を呼ぶルイガの声。暗くて顔がよく見えない。スマホのライトをつけて照らしてみると、ルイガは眩しそうにくしゃりと顔を歪めた。その顔があまりに不細工で笑ってしまう。


「今日初めてお前に名前呼ばれた気がする」


 俺の言葉に、ルイガは「そうだったか?」と首を傾げた。それから俺はルイガの横に立って、車に寄りかかりながら空を見上げる。自分の口から吐き出された息が一瞬で白く染まり、星も見えない夜空に消えてゆく。風が吹いて、山がざあっと唸り声をあげた。


「怖い?」


 視線をルイガに移して問いかける。たじろいで視線を落としながら、怒られた子供のように小さな声で呟く。


「篤仁は怖くねえの」


 質問で返ってきたその声に「怖いよ」と短く告げれば、ルイガのただでさえ青白い顔から更に血の気が引いた気がした。寒さもあって青紫色になった唇は、乾燥でひび割れてうっすらと血が滲んでいる。

 目の前に立つこの男には、血が通っているのだ。熱い血潮が白い肌の下を巡り、ぬるい白息を吐いて、俺の目の前に立って、俺を見ている。


「ここから先はオレ一人で行くよ」


 その弱弱しい声を聴いて、ああ、こいつやっぱり馬鹿だなって思った。一人でなんかいられないから俺のところまで来たのに、今更そんなことを言う。


「篤仁はこのまま家に帰れよ。何か聞かれたらオレに脅されて仕方なくって言え」


 俺とお前が顔見知りって時点でもうそんな言い訳通用するはずがないだろう。自分が何をしでかしたのか、わかっていないはずはないだろうに。


 でも、そんな馬鹿と一緒にこんな夜中に死体を埋めに来ている俺も、相当な馬鹿だろう。


 車に乗せてあるキャリーバックの中には小柄な女性が一人詰め込まれている。ルイガの女だったという彼女は、他でもないルイガに首を絞められて死んだ。別れ話を切り出され、つい手が出たのだと言っていた。つい、で人を殺すなんて一体どういう状況だったんだと呆れてしまう。馬鹿だ。本当に馬鹿。

 殺して、恐くなって、逃げ出したのはいいものの、頼れる人間なんていなかった。そんな時、俺の顔を思い浮かべたらしい。こっちはいい迷惑だよ。

 それでも俺は、コイツを突き放すことも自首を促すこともせず、あの家に招き入れた。


「帰らないよ」


 俺がそう言うと、ルイガは困惑した、けれどもどこかほっとしたような顔をした。幼い子供が親にするように、一度突き放してみせて試しているのだろうか? 「自分を裏切らない」と行動で示してほしいとか? よくもまあこんな状況で余裕じゃないか。

 「でも」とルイガが形式だけ食い下がろうとしたので、俺はその言葉を遮った。


「その代わり、俺のお願いを1つだけ聞いてよ」

 



 土臭くなった車内に小さく言葉を溶かしていく。


「高校卒業して、そのまま就職した。ばあちゃんの葬式の時に久々に父親が顔だしてさ、弟の写真だけ見せられた」


 ルイガが俺の顔を見て、「お前弟なんていたっけ?」と問いかけてくる。


「なんか、あの人再婚したらしくて、知らないうちにできてた。今8歳だって」

「ふーん、オメデタイじゃん」


 興味なさげに呟いて、ルイガは爪の間に詰まった土をいじる。そりゃあ興味もないだろう。俺もない。細かい土でざらつくハンドルを握りながら、コンビニでウエットティッシュを買っておくんだったな、とぼんやり考えた。


「弟の分、って言ってしっかり遺産持っていかれたよ。家だけくれてやるってさ。収骨終わる前に帰りやがって、それから一回も顔出してない。とんだ親不孝者だ」


 今の自分はいつもより饒舌な自覚があった。非日常的な状況と経験、それに徹夜明けでハイにでもなっているのだろうか。


「ちょうど、今日……ああ、もう昨日か。で、百箇日だったんだよね。お前知ってる? 百箇日」

「知らねえ」

「故人が死んでから百日目。遺族が悲しみで泣くのをやめましょうって日らしい。別に法要はしなかったんだけど」


 おそらくコジンもイゾクもホウヨウも、ルイガの頭では漢字変換すらされていないし、意味も理解できていないだろう。もう俺の独り言の域だ。

 頭の中に、乳白色の欠片が散らばっている光景が浮かぶ。ほとんど崩れて粉のようになってしまっていたが、散らばった骨は確かにそこに横たわる人間の姿をしていた。

 祖母の位牌やら遺影やらを霊柩車に詰め込んで火葬場から葬儀場へと戻る時、膝にのせた骨壺はまだ熱を持っていた。窓ガラスを叩く雨粒の音を聞きながら目を閉じて、滑らかなそれを撫でる。

祖母は自室の布団の中で眠りながら死んだ。朝、俺が家を出る時間になっても起きてこなかったので様子を見に行くと、すっかり冷たくなってしまっていた。青白い顔をして動かなくなった祖母はなんだか蝋の人形のようで、これは本当に祖母なのだろうか、と思ったのを覚えている。

 



「着いたよ」


 降りて、と言わなくても、ルイガは俺がドアを開ければそれに倣って車から這い出た。そしてよたよたと地面に這いつくばって近くの排水溝へ首を伸ばし、黄色い胃液を吐きだした。呻き声を上げながら地面に転がるその男の背を撫でてやろうと手を伸ばせば、恨めしそうにルイガは俺を振り返る。その頬には涙の跡が痛々しく光っていた。


「なんでそんなに普通でいられるんだ」


 この言葉に、俺は答えなかった。俺のことを巻き込んだくせに随分と偉そうだなあ、と心の中で呟く。


「立てよ」


 自分が思っていたより低い声が、冷たい空気にぽつりと響いた。一緒に口から零れた白息より先に溶けて消えた言葉はルイガの耳にだけ届いたようだ。口の中に残った唾液を吐き捨て立ち上がったのを見て、俺は何も言わずに砂浜へ降りる階段へと歩いた。

 俺の後ろをついてくる足音。蹴り上げた砂がパラパラと地面に落ちていく。靴の中のざらざらとした感触が不快だった。

 風に背を押されるかのように波が飛沫を上げてこちらへと迫り、ずるずると引きずり戻されていくのを立ち止まって眺める。

東の果てでは、空が淡く白んできていた。




「篤仁?」


 背後から飛んできた訝しむような声に返事もさず、俺は黒い海へと一歩足を踏み出す。

バシャ、と音を立てて右足が水中に沈む。左足、右足、左足。膝まで浸かり、肌を切り裂くような冷たさも無視して水をかき分け進んでいく。腰のあたりまで浸かった頃、右腕が強い力で引かれて俺は振り向かされた。


「何してんだよ、篤仁‼」


 割れるような怒声に、視界が澄んでいく。水平線から滴る光の粒が、いつの間にか世界を照らし始めていた。


「何って、」


 呟いて、口を閉ざす。頭の中で適切な言葉を探そうとするもうまく思考がまとまらない。


「戻ろう、死んじまう」


 ガチガチと歯を鳴らしてルイガが俺の腕を引き歩き出そうとするので、俺はその手を振りほどいた。それから逆にルイガの二の腕を強い力で掴む。顔を歪ませるルイガの目を見つめると、言葉が口から落ちていった。


「一緒に死んで」


 目を見開き、ルイガが静止する。波が朝日を反射するように、薄く涙の膜が張ったルイガの瞳もキラキラと光った。


「俺のお願い、聞いてくれるんでしょう?」

「なんで」

「なんで? わからないかな。俺たち、もうこうするしかないんだ。もう居場所なんてないんだから」


 ルイガの腕を引きずるようにして海の底を目指し、足を踏み出す。水に行く手を阻まれて、うまく前に進めない。ルイガは何とか俺の腕から逃れようと抵抗するが、やがて息をすることすらままならない高さにまでくると激しい呼吸音だけが波の音に混ざって俺の鼓膜を揺らした。


「なんで、お前が……お前まで!」


 お前まで、の後に続く言葉は何だろうか? お前まで……なぜ自分を裏切る、とか? 


 馬鹿だな。俺はお前を裏切ったりしないよ。お前が俺を選んだのと同じように、俺もお前以外の誰も選ばない。選べない。一人きりじゃ何もできないんだ。


 遠くで鳴る甲高いサイレンの音を潮風が運ぶ。



 俺はずっと、きっかけが欲しかった。


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