閑話休題3 『姿偸み(すがたぬすみ)』の妄想
ひたすら怠惰な日々を送る。
どうしても手が足りないと頼まれたときだけ働く。
いつも圧倒的な強さを見せつけて終わる。
自称『異界から来た冒険者』、通称『姿偸み』の日常である。
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「…ふぁああぁ~あ……」
だらしない欠伸を洩らし、再び酒場のテーブルに突っ伏した男。見た目は整っているが覇気の欠片もない。金は持っているから居座ることを許されている面倒な客。
件の『異界から来た冒険者』だ。どう考えても嘘の世迷言を吹聴していたにもかかわらず、あまりに実力が優れているため無視されることなく現在に至る。
もっとも、彼の語る出自について信じた者はひとりもいない。
「だってさ、異世界だぞ?んなもんあるって言われても、実感湧かねえよな」
とは、『不屈の闘志亭』本店の主アイナ=セラタの言である。
「…嘘じゃないんですってば……むみゃ……」
「また言ってるよ、このヒト」
「ああ。これさえなけりゃ、話せる奴なのにな」
いつもの賑やかな宵の口、その一角だけ失笑に包まれる。
「……ひゃ~。やりましたよミスリルゴーレム……これで一生……」
「安泰ってか?いるなら俺も拝んでみたいよ」
「伝説上の存在だもんねえ」
「ま、僕達みたいな凡人じゃ一撃であの世行きっすけど」
「『姿偸み』ならやっちまうかもなぁ。本当にいたらの話だけど」
爆笑。結局最後は、同じ言葉で締め括られるのだ。
この男、実力はあるが希代の大法螺吹きなり、と……
「……気を、つけてください。まだどこかに罠があるかもしれません……」
言葉と裏腹に、男の寝顔は安らかだった。
「…ああほら……ちゃんと調べてくだしゃ……ドも目の色変え……君が止めないで誰が……あなた達からも言っ……、ル……」
今は亡き仲間達の名前。それを知る者は、島全体に数える程度。
『過去を書き換えた男』。それが今の彼を呼ぶ、口さがない者達の戯れ言である。
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七色の巨人が、軽い音を立てて崩れ落ちる。
周りには、それを鋭く見つめる六つの視線があった。原初の秘法で造られた番兵――ゴーレムは、頭や腕が壊れても死ぬことはない。身体が動く限りは、休まず侵入者に襲いかかる。一体のゴーレムを無力化するために、彼らは小半時戦い続けていた。
やがて砂色の髪をした華奢な女が、誰とはなしに愚痴を零す。
「…んっ……あぁ~疲れた。さすがに、もう終わりよね?今日はこれで何体目だっての」
背筋を大きく伸ばし、緊張して硬くなった身体を存分に解す。若い外見に反して、その挙動は年寄り臭い。腰を丸めては手を当ててゆっくり反らすという、人生の佳境に入った者特有の動きを、飽きることなく何度も繰り返している。。
もっとも若いのは外見だけ。先端の尖った耳の形が、その理由を如実に物語っている。彼女は美しき森の住人エルフ。二千年の寿命を生きる彼女達は、元より老いというものを知らなかった。
「だよねー。ほんっとウザ過ぎ。あたしの剣じゃまるで歯が立たないんだもん。生き物じゃないから、無神経だしさ」
こちらは猫のような耳と尻尾のある少女――一見十歳くらいに見える――が、痛めたかのように手首を振る。もちろん、そんな柔な鍛え方はしていない。猫の獣人ルーマ族は、天性の盗賊。幼い外見と敏捷性を生かし、様々な場面で仲間達の役に立っている。
「気を抜き過ぎだぞ。こいつは倒したが、まだ仕事は終わってない。僕達の仕事は、この遺跡の危険を排除すること。敵はいなくても、罠があるかもしれないんだからな」
「こやつの言うとおりだ。俺達には罠のことなど分からん。お主らがそれでは困る」
戦士達の苦言に、エルフは一瞬不貞腐れた顔になった。が、すぐ思い直して哨戒行動を取る。お気楽なルーマの娘は……あまり真剣そうに見えないが、こちらも大丈夫だろう。二人とも熟練の冒険者なのだから。
「皆さん、ちょっと来てください!」
不意に、別の声が遠くから呼んだ。
また敵が現れたのか。辟易した顔を見合わせる。
彼らの力を以てすれば、最強の魔獣と呼ばれた竜も倒せる。強いて言えば、ただ面倒臭いだけ。エルフ娘の愚痴ではないが、これまで破壊したゴーレムは今のやつで十七体目。飽きっぽい彼女でなくとも、嫌気が差すのは無理もない。
「どうした。何があった」
娘達を窘めた少年が、自分と同じ顔の相手の元へ駆けつける。
双子ではない。頑健な肉体を欲した男が、何もかも言霊で写し取ったのだ。そのことだけを捉えても、高い実力と異様な精神性が窺い知れよう。自分の記憶を残したまま肉体のみ他人の情報を上書きするなど、容易ではないし危険がある。正気の人間なら、できたとしてもやらないだろう。
「これを見てください」
まだ興奮冷めやらぬといった様子で、書庫を漁っていた男が一冊の本を示す。しかし勉強が苦手な少年には、さっぱり読むことができなかった。
「古代語ですね。文字や単語には見覚えがありますが、私には意味が摑めません」
鎖帷子の上から純白の法衣を纏った聖女が、書物を覗き込んで口を挟む。
「それで、これには何と?」
「勿体つけないで言いなよ。なんかヤバいことでも書いてあった?」
どうやらルーマは、種族の基準からすればかなりの心配性であるらしい。尖った猫のような両耳を、臆病にも小さく畳んでいる。落ち着かない様子の仲間達を一瞥すると、ひとり遅れてきたドワーフが不愉快そうに吐き捨てた。
「こやつが騒いでおるのだぞ。どうせ碌な物ではあるまい。そうさな……魔獣創造の術式でも見つけたか?」
「それはそれで素晴らしいとは思いますが……ああ、いえ。何でもありません。何でもありませんから」
一瞬本音を吐露してしまった男に、非難の視線が集中する。軽く咳払いをして気を取り直すと、彼は自分が見つけたものについて説明を始めた。
「何が凄いかというとですね……実はこの遺跡、まだ生きているんですよ。いえ、正確には仮死状態みたいなものですが」
「へえ……これ、動くの?」
エルフの娘が胡乱気に呟く。精霊の依代であると同時に、彼女は言霊使いでもあった。
正式な資格を持たない真言法師は、区別して言霊使いと呼ばれる。それほど恐れられているからだが、彼女としては正直考え過ぎと思う。
「これだけ大掛かりな装置を維持するには、相当量のマナが必要になるわ。魔力の泉でもあれば別でしょうけれど」
「それがあるのですよ。この遺跡の動力だけに限られてはいますが……ここを見てください」
示された部分は、非常に難解な古代語で綴られている。導師級の真言法を修めたエルフ娘でも、即座に意味を取ることはできなかった。
「…ゴーレムの中に、予備のマナを保管する。これを管制室、かな?…の台座に設置すれば……合言葉は……『幻の都』。うそ、本当?」
エルフは目を見張り、言霊の師匠である男の顔を見つめた。
「恐らく本当でしょう。これが神々の娯楽小説でない限りは。時々いるんですよ。古代語に疎くて騙される、駆け出しの冒険者がね」
冗談めかしているが目は本気だ。この記述を娯楽小説とは考えていない。
「……今日は、もう休みませんか?皆さん大分お疲れのようですし……万全を期して、明日調べることにしましょう」
聖女は一行の長だった。とはいえ、特に命令をするわけではない。仲間達が、ただ彼女の意思を尊重するだけ。
冒険者達は、彼女の言葉を実現することで富と名声を得てきた。
しかし、別にそれだけが目当てではなかった。ゆえに彼らは、今もこうして同じ道を歩いている。偶然知り合ったから。親切のお礼がしたかったから。ちょっと面白そうだったから。綺麗な女性に目がなかったから。姉弟も同然に育てられたから……
六人の冒険者達は、誰からともなく野営の準備を始めた。
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「偉大なる創世の礎セレス。汝が愛し子、我希う……」
歌い上げるような真言法師の声が、周囲に朗々と響き渡る。
「…我が招きに応え、彼の地を滅ぼせ。遍く災厄となれ……」
詠唱が終わり、固唾を呑んで待つこと数秒。
鈍色の海は凪いでいる。極寒の地ゆえ長閑な光景とは言えないが。
何も起こらない。居並ぶ帆船の群れは、湾内の穏やかな波に心地よく揺られている。
「……あれ?」
「あれ、ではないこのたわけが!」
そのとき俄かに曇天の空が禍々しさを伴った朱色へと変わる。
やがて灼熱する巨大な岩塊が雲を押し退けて現れ、停泊していた一隻の船を直撃した。帆が炎上し、柱は折れ、甲板はおろか船底までも突き破られ、船は瞬く間に崩壊する。
真言法における奥義のひとつ。究極の破壊力を持ち、才能に恵まれた者が長年の努力を重ねてようやく習得可能かという高度な術式――云々。
……と、実際の現象がどうなるかはともかく。圧倒的な勝利、大活躍により拍手喝采のはずだったが。あろうことか真言法は全く効果を示さなかった。
創世の女神セレスが力を貸してくれなければ、真言法師などただのヒト。怒り狂う海の荒くれ者達を前に、無力な屍を晒すより他ない。それは嫌だからできることを。覚えたての精霊術で火蜥蜴を宿し、海賊船を一隻ずつ地道に燃やしてゆく。
「早く船を出そう。追手が来る前にここを出ないと」
少年の指示を受け、聖女が慣れない手つきで舫い綱を解く。思いきりの悪さに見ていられなくなり、エルフ娘が声高に叫ぶ。
「それは切ればいいから、早く帆を張って!今は舵取りも風向きも気にしなくていい。私に考えがあるの!」
「わ、分かりました。では……その、ええと」
「こっち!帆布の具合確かめるの手伝って!」
慌てるのは無理もなかった。海賊のアジトを襲い、船を奪って逃げる――このような無茶を企むのには、当然それなりの事情がある。
総勢六名の冒険者達は、神殿の学術調査隊に依頼されて遺跡の安全を確かめにきた。そこで珍しい装置を見つけ、試しに動かしたところまでは憶えているのだが……
次に気がついたとき、彼らは絶海の孤島にいた。空は曇っていて星も読めない。つまり、ここがどこなのかさえ分からない。
使った者を瞬間移動させる、そういう装置があることは知っていたが、それにしてはおかしい。必ず近くに同じものがあるはずなのだ。一方通行など不便極まる。
何にせよ、ここを出てみなければ始まらない。最初は海賊達に陸まで乗せてくれるよう持ちかけたが、問答無用で捕まった。こんなところにいきなり現れたのもあるが、報酬先払いで倍額という申し出は気前がよすぎたかもしれない。結果的に怪しまれ、こうして船泥棒を働く仕儀に至る。
出航の準備が進む間にも敵は次々と現れ、その度に肝を冷やす。火蜥蜴の力を借りて都合四隻を燃やし終えると、男は甲板にへたり込んだ。
「やあ、もう限界です。さすがに究極奥義だけあって疲れますねえ」
「言っとれ。この戯言使いが」
港には、まだ十数隻の船が残っている。仮に一隻でも残せば、素人の彼らに勝ち目はない。いずれ海賊共に追いつかれるだろう。そして一斉に火矢を放たれ、炎上撃沈してしまうのが目に見えていた。
「修行が足らんからそうなるのだ。小手先の技にばかり頼って、お前さんは自分というものを磨こうとせん。少しは弟子を見習え」
これは誇張が過ぎよう。かつては術式を丸暗記していた彼も、今では古代語の論理に自分なりの考えがある。加えてマナの許容量も上がっていた。
カスパルの神官でもあるドワーフは、自己のみならず他人の鍛錬にも余念がない。それが剣であれ奇蹟であれ、更なる上を目指して努力せぬ者には厳しかった。
「まあ、いずれ前向きに善処しますよ。でも、ない袖は振れませんからね。ここはその、お弟子さんに頑張ってもらうとしましょう」
肩を竦めて言うと、彼はエルフ娘を大声で呼んだ。やがて満面に不快感を湛えた真言法の弟子が、風のような速さで駆けつけた。
「腐れ導師が何の用?私、今忙しいんだけど」
エルフ特有の冷酷な表情を浮かべ、甲板に座り込んだ師匠を見下ろして言う。とても弟子が師匠に対して取るような態度ではない。
「いえね、私も慣れない精霊を呼んで疲れたなぁと……ほら、あそこに篝火があるでしょう?ここは偉大なる先生のお力で、残りの船を何とかしていただけないものかと」
真言法師は不機嫌にしてなお美しい、エルフ娘の顔を上目遣いに覗き込んだ。
真言法においては彼が師匠だが、精霊術については立場が逆転する。彼はこの不遜な弟子から、精霊術の手解きを受けていた。
ただ、あまりよい弟子とは言えない。彼女が既に導師級の真言法を修めているのに対し、彼は未だ初歩の精霊術しか扱えなかった。元々野外生活に便利、程度にしか考えていなかったため、ある意味それは当然かもしれないが……
「まあ……仕方ないわよね。見てなさい」
海皇に呼びかけて船を沈めるには、いかにも水深が足りない。腐れ導師の提案に従うのは癪だったが、炎の力で帆と船柱を燃やし尽くすのは確かに良策と思われた。
「破壊と再生を司るフェニックス。あなたの力を貸して……」
精霊術の呼びかけは、真言法ほど厳密な運用を必要としない。一時的に力を借りるだけなら、この程度の言葉でも充分だった。目標と干渉の内容を決めるだけ。
「そう……そこ。そこを中心に炎の嵐を……うん。この船は巻き込まないように注意して。あなたの力に巻き込まれたら、私達まで命がなくなるわ……分かった?なら、お願い」
精霊術の発動は、依代と精霊の対話形式で行われる。ちなみに彼女ほどの術者ならば、もっと高圧的に命令を下したとしても問題はない。
だがエルフにとって、精霊は単なる道具ではない。大切な親友であり仲間なのだ。人間の依代には時折そんな者も見かけるが、やはり少数派には違いなかった。
沈みかけの船を舐め尽くす炎から、一筋の炎が舞い上がる。それから自分の意思で停泊する船団の中央へ移動すると、やがて爆発的に広がり周囲のもの全てを薙ぎ払った。
沈んだ船こそ一隻もなかったが、どの船も航行不能に陥った。
船柱が焼失しなくとも、消火には相当な時間がかかる。海賊達が追跡を再開する頃には、完全に逃げ切れているはずだった。
「これでよし……と。フェニックス、ありがとう。お次はレヴィアタン、あなたの番ね。よろしく頼むわ」
エルフが水面に向かって声をかけると、彼女らの乗った船がゆっくりと動き出した。大した速度ではないが、しかし確実に海賊達の島から離れつつあった。
呑気な海賊達がようやく港に辿り着いたらしい。彼らは自分達の船が全て炎上しているのに気づくと、冒険者達の追跡を中止して消火作業に集中した。
「何とか逃げられましたね。ここがどこか分からないのは、相変わらずですが……」
「そろそろ夜になります。星の位置ですぐに分かるでしょう」
聖女の不安とは対照的に、真言法師は楽観的な意見を言った。
「ああ。それにしても、あれほど大きな海賊団が存在しているとは思わなかったな。いずれこの近海を治める王に申し出て、然るべき手を打とう」
少年が拳を握り締めて力強く宣言する。
「海賊を退治すれば、王様から御褒美が貰えるものね?」
森の乙女が、瞳をくるりと回して楽しそうに笑った。
「そうそう。お金に余裕があれば、好きなときに人助けができるもんね。遺跡だって、いつでも潜り放題!」
やがて仲間達の他愛無いやりとりが始まった。
いつもは真言法師もそれに加わるのだが、到底そんな気になれない。彼には今、どうしても気になることがあった。
(あの海賊達……誰も言葉が通じませんでした。どの言語で話しかけても)
だが青年は、微かに生じた疑問をすぐに打ち消した。仮説の先に導き出される答えが、非常に突拍子なく思われたからである。
(…単に聞くつもりがなかったんですよね。ここが見知らぬ土地でも、それはそれで面白い。好きなだけ見て回ったら、そのうち帰るとしましょう)
軽く背伸びをすると、今度は見知らぬ世界への期待に胸を躍らせた。
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「まいったなぁ……もしかすると迷っちゃったかも」
先頭を行く猫の獣人――ルーマの娘が立ち止まる。
「ここって雪の更新が早過ぎるんだよね。風で足跡も消されちゃうし」
隣を歩くエルフの娘も立ち止まり、単調な景色を見つめていた。
「甘かったわ。見つけてからが大変と思ったのに」
雪混じりの突風が体温を奪ってゆく。吐いた傍から息が凍り、氷の結晶を生み出す。あまりの寒さに、蒸気として存在できないのだ。
「フェンリルは必ず近くにいる」
数日前、海賊達の追撃を逃れてこの土地に漂着した。そして熊そのものの姿をした原住民を見つけ、ここが噂に聞く獣人の島ではないかと推測した。
安易に話しかけたのは軽率だった。獣人達は言葉を耳にするなり襲ってきたのである。負けはしなかったが、問答無用で仕掛けられた事実は重い。この土地で遭遇する者達は、どういうわけか全員が敵対的。
山賊には見えなかった。捕まった後の態度も、誇りや使命感のようなものが感じられる。最初の島にいた海賊とは明らかに違う。
この土地に関する情報を得るため、ルーマは語学力を駆使して襲撃者達との意思疎通を図った。彼女は実に十種類もの言葉を自在に操る。
一応成果はあった。意外にも彼らは、極東に住む『幻の民』と呼ばれる少数民族の日常語を解したのである。
ならば、ここは極東か?熊の獣人がいるなどという話は聞いたことがない。
彼ら六人のうち、意思疎通できるのは三人。真言法師、エルフ、ルーマだが、その珍しさときたら一人でも話せる者がいたことさえ驚きなほど。
聞くところによると、彼らは『白き大地』という部族の戦士。最近氷雪の魔狼が暴れているため、果物が実らないばかりか麓の街道を通る旅人の数も減ってしまった。彼らは狩猟と採集、そして街道の旅人達を護衛して得る品物により暮らしている。このまま猛吹雪が続けば、春が来る前に飢えるのは確実。ひとまず様子を見に来たところで、縄張りに侵入していた冒険者達を発見したのである。
「本当に約束を守るのだろうな?神宿りを鎮めた後で、後ろから殴られては適わん」
ドワーフが故郷の共通語で言い放つ。深読みして睨まれ、注意を促す。
「駄目ですよ。隠しごとをしてると思われるじゃないですか」
仲間の言葉を受け、ドワーフは素直に謝った。一行の隊長格らしい最も身体の大きな男が、幾分横柄な態度で真言法師に尋ねる。
「アイツ何言ッタ。正直、言エ」
彼らの信用を得るため、冒険者達は氷雪の魔狼――氷の現象精霊フェンリルの退治を買って出た。安全な場所で待つよう伝えたのだが、頑として聞き入れない。敵に背を向けるなどあり得ないし、安全な場所などないというのが彼らの主張。
疑いの視線を受け流し、のうのうと言い放つ。
「別に大した話ではありません。彼はただ、寒いと文句を言ったのです。我々は温暖な土地の生まれですから、この気温はさすがに堪えます」
説明を受けた戦士達は、胡散臭そうに真言法師を見つめた。しかし全く動じないと分かると、再び前を向いて歩き出す。
エルフとルーマは、顔を見合わせて皮肉な笑み。何に呆れたのか言うまでもない。
不意に視界が白くなる。更に強くなった風が、降り積もった雪をも舞い上げているのだ。空と地上から容赦なく冒険者達の目を撃つ。隣の仲間がいる場所さえ分からない。
「みんな!大丈夫か!?」
「下手に動かないで!そのうち収まる……」
寒さには慣れているはずの蛮族達も慌てていた。ヒトであれ獣であれ、精霊でさえ――縄張りを侵す者を、魔狼は決して許さないのだと。
耐えかねたドワーフが猛々しく叫ぶ。
「どこだ!?出てきて俺達と戦え!」
「いいえ。フェンリルはもう来ている。彼の攻撃は、私達がこの山に入ったときから始まっていた」
岩肌の陰から、白い狼がのそりと現れる。毛並みだけではなく、瞳の色まで変わっているのが精霊に憑かれた神宿りの証。
それは威嚇をしなかった。意識を奪われた器に生存本能などない。元より精霊は、ヒトの魂を『餌』として欲する。食べきれない豪華な食事、それが無料。一方依代に協力して得られるマナは、ケチな残り物のうえ代価がある。好ましいのはどちらか。
フェンリルの答えは、冷たさを増した雪の嵐。神宿りとなった精霊は、魔力を使い果たせば混沌界へと帰ってゆく。派手に暴れさせ、ひたすら耐えるのみ。
「分散しましょう。狙われたヒトは逃げてください。攻める必要はありません」
聖女が指示を出す。普段は大人しく、荒事に馴染まない性格だ。されど場数は踏んでおり、いつもの落ち着いた姿が仲間達に安堵を与える。
「わんわん殺しても次に移るだけだもんね……りょーかいっ」
「できるだけ干渉してみる。狼って確か、熱の精霊とも親和性が高かったと思うし」
エルフがちらと真言法師を見遣る。エルフは真言法の弟子だ。しかし依代の技術となると立場が逆転する。こちらはあまりよい弟子とは言えない。
「……私もですか?暑苦しいのは苦手なんですが」
「いいから黙ってやる。ここでは言霊が使えないって嘆いてたでしょう?」
偉大なる人柱セレス。それが彼の祈る神の名前だ。これまで何度も奇蹟を願い、彼女の記憶を書き換えることで自分と仲間の危機を救ってきた。
ところが、ここに来てからはセレスが求めに応じない。拒まれるのではなく、自分の声が聞こえていない感じ。
かくして青年は、役立たずとなった。学院で学んだ賢者としての知識も、どこなのか見当もつかない土地では力を失う。先程のエルフの言葉も、何かできることを探して心の負担を減らしてやろうとの配慮と理解できるが。
(情けないことに変わりはありませんね)
普段の言動は、いい加減である。しかし繊細な男だった。
道士の少年とカスパルに仕えるドワーフが前に立つ。少年は無為自然の構えを取り、自らに眠る抵抗力を呼び覚ます。ドワーフは魔神から学んだ秘術を使い、やはり自らの肉体を強化。どちらもフェンリルが巻き起こす冷気への防備だ。
猫の獣人は牽制。少年とドワーフに向けられた注意を引きつけて二人を休ませる。
エルフと真言法師は、他の精霊を割り込ませる余地がないか隙を窺う。
聖女も少年と同じ道士ゆえ、無為自然の構えを取るが効果は違った。心なしか暖かくなり、身体も少し解れた気がする。
熊の獣人達も列に加わった。寒さに対してだけなら、全身を豊かな毛皮に覆われた彼らのほうが強い。
衰弱と戦いながら十日。少しずつ吹雪の勢いが衰えてきた。交替で食事や睡眠を取り、相手を休ませないよう努力した結果。あるとき狼の虹彩が深い蒼から灰色に変わった。身体は力を失い、自らが呼び出した万年雪の上に倒れる。餓死したのだ。
「終わったか……」
少年も仰向けになる。青年は言葉が出ない。未熟な依代の末路と同じ。
「…眠レ。アウラ、愛シ子」
万年氷が解けるのは、当分先のことである。
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山を下りたら街道だった。東へ行っても西へ行ってもニンゲンの街がある――一番大きいものを訊ねると、案内役のウルカスは東を指差した。
小さな町や村を経由して数日歩き、今は港街にいる。王都の玄関口とも呼ばれた、この国最大の軍港だ。街の外に隠れているため、ここは少年とエルフの二人。
「ね?これからどうするの」
砂色の髪をした女が、傍らの少年に語りかける。
「ここがどこなんて、考えもしなかったわ。どうせすぐ帰れると思っていたから……」
後ろで縛った長い髪は、日差しを浴びて控えめに輝いている。
まるで膨らんだ狐の尻尾。少年は見覚えがあった。エルフがこの仕種をするのは、強大な敵と対峙しなければならないとき。
「…どうする、か。ここが知らない土地の可能性は、考えていたんだけどな」
波止場に腰掛けたまま、港の往来を眺める。
通行人は誰しも、彼らを一瞥していった。堅固な封建制度が支配するこの国では、異種族の入国を禁じている。今のところ気づかれていないはずだが、やはり彼女を連れてきたのは拙かったかもしれない。容姿が整い過ぎていて目立つのだ。少年は改めて、知り合ってから一年になる仲間の横顔を見つめた。
隠しているため見えないが、長く尖った耳朶は明らかに少年のものと違う。道を行く人々の耳の形は、どれも少年と同じ形をしている。この場において異質なのは彼女のほう――森の住人エルフ族は、男も女も死人が目覚めるほど美しい。
女は相変わらず狐の尾を弄り続けている。できることなら安心させたかったが、不安なのは少年も一緒。そして互いに熟練者ゆえ、気休めを口にしても分かってしまう。今必要なのは当座の生活費と世界に関する確かな情報。
遠いかもしれない、と覚悟はしていた。それでも場所さえ分かれば、距離は彼らにとって障害とならない。神の奇蹟には、高速移動を助けてくれるものや疑似的な瞬間移動と言えるようなものもあるのだ。それがまさか座標さえ調べられないとなると。
ここへ来るまでの間、近隣の街や国について訊ねた。いつもの拠点に近ければ、多少時間がかかっても歩いて帰ろうと考えたのである。だが帰ってきた答えは、聞いたこともない土地に関することばかりだった。
「このまま帰れない、なんてことはないよね?」
「どうだろうな。海賊の島に戻っても装置が動く保証はない。動力源が向こう側にしかなかったり、最初から一方通行の可能性もある。助けを待つにしても、僕達が行方不明になった遺跡に挑む冒険者なんているか?それに」
「まだあるの?さすがに気が滅入るのだけれど」
言葉を飲み込んだ。それは思いつくかぎり最も暗い予想の結末。
虚無と混沌の海から他の異界を探し出す術式――真言法における最高奥義のひとつ、創造したのは神であると。天才と呼んで差し支えない青年をしても、運よく文献を見つけて死ぬまでに模倣できたら儲けもの。
周囲のマナを極限まで減らし、眠りに就いて時を越える方法もある。だが、その場合も誰かが研究しなければならない。青年に選択肢はないのである。
そして、もうひとつ。熊の獣人達は、とても気になる言い伝えを語った。
この世界は、礎の女神が微睡む夢。よき眠りに恵まれれば、やがて目を覚まし世界は滅ぶ。逆に悪い眠りなら、時が凍えて終わりなき終わりを迎えるという……
(セレス教の神話と似てる。でも彼らは、滅びの予言などしてなかった)
破壊神セラと邪神アウラ、二柱の争いを止めて世界を滅亡の縁から救ったのが調和神セレスと言われている。だがウルカスの神話には、セレスの影も形もない。
歴史は語る者によって変わる。ゆえに問題ない、セラが自由を司る女神でありアウラが世界創造の礎であっても。無為自然の『道』を説く集団――特に名前はない――に身を置き、神を崇めこそすれ信仰しない少年としては。
「気楽に考えよう。多分だけど、道はある」
少年は、あまり希望を感じさせない調子で断言した。
「またそれ。彼らが言ったこと、本当は気にしているのでしょ」
誰に訊いても同じだった。どうやらこの話は、ウルカスだけの伝承らしい。
「いや。みんな言ってただろ?先祖が移り住んだのは確かだけれど、そんな話は知らないって。座標が読めないのも、外部と遮断する結界があるとかさ」
エルフが思案顔で呟く。
「……誰も知らないのなら、壊してもいいわよね?」
「こら。関係者を見つけて、なるべく穏便に進めるんだ」
笑いながら叱ると、少年はゆっくり腰を上げた。
「飯にしないか?この島でも銀貨は使えるみたいだし」
「そうね。私もそろそろ、お腹が空いてきたとこ」
勝手に少年の腕を取って立ち上がる。不意を突かれて身体が傾く。
「お、おい。急に摑まるな……うわっ!」
海へ落ちそうになり、慌てて体勢を整える。エルフは振り回された腕を取り、くるりと回転させて向かい合わせに。色を失くした少年の顔を見て、くつくつと笑う。
「さ。早く行きましょ?みんなも待ってる」
まだ落ち着かない少年の手を離すと、商店街の方角へ駆け出した。エルフの軽くなった足取りを認め、少年は微笑む。
潮風に背を向けると、砂色の輝きを追いかけて雑踏の中に消えていった。
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「えっ。いやいやいや待ってください。我々は『草』などでは」
「騙るに落ちたな。それこそ素人ならぬ言い回しよ」
「ふむ。言われてみれば、そのとおりじゃな」
「納得しないでください!どこの馬鹿が亜人連れで人間の国を探りますか!」
「ここにおろう。西の自治領経由で入国を試みる不届き者が後を絶たん」
国王の崩御。継承会議の停滞。ここに至って見られる有力貴族達の不穏な動き。
地元の情勢に疎い冒険者の耳にも、内乱の足音が迫っているという噂。この土地を離れたほうがよいだろうと、南の国境を目指したところまではよかったのだが。
そこは最前線だった。とある理由で国を分かち、百年争いを続ける仇敵との。
「ルグリアの次男坊め。まだまだ甘い……儂ら『深紅の大熊』は王都を護る盾、不審な輩の徘徊を許しはせんのだ!」
将軍らしき壮年が大見得を切り、図ったように小気味よく兵士達が槍を突きつける。常在戦場の連中とはこういったものだ。恐ろしく統制が取れており、また練度も高い。勝てるとは思うが、相手にも犠牲を出さないのは無理。
一度、大人しく捕まることに。口調こそ厳しかったが、将軍の男は愚かではないように見えた。今すぐ処刑されるということはなかろう。
「…まいりました。まさか、こんなことなるとは……」
「情報不足でした。内紛の原因も隣国との関係にあるようですね」
「気になることを言っとったな。西の自治領からなら、自由に出入りできるのか?」
「着くまでに戦が始まるわ。それこそ敵軍扱いされるのが落ちよ」
「ヤっちゃう?イっちゃう?ここ牢屋じゃないし、不意を突くのは簡単だよ」
「おっかさん。待ってください。まだ結論が出てません」
少年は猫の獣人をそう呼ぶ。見た目は幼くとも歳上、意外に面倒見がよいからだ。
やることそのものは否定しない。よく誤解されるが、本物の冒険者は慎重だ。争いを避けるのも、殺生を嫌ってのことではない。危険が少ないのはいつか、一番の理由はこれ。
気が緩むのを待つのだ。将軍本人や直掩の精兵と戦うのは骨が折れる。
「……南へ行ってみたいな。こうなったのもあるが、どういう国なのか興味が湧く」
「破壊神セラが信仰されているそうですよ。大丈夫でしょうか……」
「ここじゃ自由の女神なんだろ。どっちが本当か分からないけど、要するに大丈夫ってことじゃないか」
歪められた信仰でも、それがヒトをよいほうに導いた可能性はある。
「北も悪くないけどな。王国がいい仕事してるから、武器は要らないんだろうし」
彼らの土地では、争いが絶えなかった。多くの国が覇権を競い、現れては消えていった。その都度法が変わり、迷惑を被るのは民だ。領主は下々のことなどお構いなし、だからなけなしの金を叩いて冒険者を頼る。
数多くの事件を解決して、彼らは富と名声を成した。金持ちからは多く取り、貧しきからは極力取らぬ。王侯貴族との繋がりも得て、これからというところだったのだが。
ここにも苦しんでいるヒト達がいる。ならば、やることは同じではないか。
「……決まりですね」
聖女の一声で、全員が動き出す。相談などはしない。自分が何をすればよいか分かっている。正確には一人だけ、自分が何もできなくなったことを知っていて。
「…セレスよ希う。何者も我が影を捉えられず……」
真言の一節を唱えてみた。精霊へ指示を伝えていたエルフの顔に生温かい笑みが浮かぶ。一応気遣っているのだろう。珍しいことだが、この土地に来てからは多い。
いたたまれない気持ちになる。自分だけ役立たずというのは。見捨てられることはない、頭で分かっていても考えてしまう悪い癖。その一方、だからこそ性格のよい仲間達に物事の裏側を示すこともできたのである。
(書き取りの練習でもしてましょうか)
指先にマナを込め、諳んじた真言の一節を記す。今しがたは声に出したが、真言法の本来の使い方はこのようなものだ。特定の言語で決まった文章を虚空に書き、それを調和神セレスに伝えることで無理から奇跡を起こす。にもかかわらず神官と呼ばれないのは、全く信仰と関わりがない単なる技術と判明しているからだろう。
セレスよ希う。何物も我が影を捉えられず――
こうすれば、誰からも自分の姿が見えなくなる。対抗できるのは同じ真言法か、神王アルフが授けたとされる法創術のみ。
軽微な現象であり、普通は口頭で済ませる。調和神セレスは、常に世界と全てのヒトを見ている。だが先程の反応。これ以上、仲間に心配をかけられない。
効果はなかった。外の小鳥は、間違いなく青年を捉えている。窓越しに見上げれば、雲行きが怪しいようだ。今夜あたり降るかもしれない。
もう一度考えてみよう。ここと元いた場所の違いは何か。重要な違いがあるから、ここでは真言法を使えない。もっとも必要な条件など限られている。特定言語の文字で描くこと、指先にマナを込めること、目標との位置関係を明確にすること、願いの内容を詳しく記すこと、文言のどこかに必ず調和神セレスへの呼びかけを含むこと……
(まさか、ですよね)
森羅万象を見守る女神と、世界を夢見る女神。この二つは、よく似ている。
ほんの思いつきだ。が、確かめてみる価値はあろう。どうせなら大きなこと、とんでもなくヤバい嘘をつくとするか。
アウラよ希う。ここ城塞都市の、あらゆる屋根を吹き飛ばし給え――
書き終えて、我ながら馬鹿げていると失笑した途端。
「うわっ!何だ!?」
「いきなり風通しがよくなったんだけど!?」
慌てる仲間達。しかし、それ以上に青年のほうが狼狽えていた。廊下からも兵士の怒号が聞こえてくる。これは只事ではない。
「とりあえず逃げましょ。話はそれから」
最初に立ち直ったエルフの一声で、冒険者達は窓から脱け出す。やはり牢屋でなかったことが幸いした。鉄格子が填まっていたら、苦労して壁越えするしかなかったろう。
街中騒然、異種族を含む余所者が走り抜けても咎められなかった。本当に全ての屋根が吹き飛んだらしい。こんな真似をする乱心者、心当たりは他にない。
「「「「「お前かっ!」」」」」
いつもは『あなた』と呼ぶ聖女とエルフ、常に丁寧語の聖女も今回ばかりは便乗した。城塞都市から離れてヒト心地つくや、皆で青年を罵倒する。
「この腐れ導師」
「やるならやると言え」
「あまり他人に迷惑をかけるのは……」
「損害賠償請求されたら、払ってよね」
「だから後先考えろと言っとるのだ!」
「いやぁ、まさか使えるとは思いませんで……」
だが、これで確認できた。ここは異世界。セレスとは別の神が、似たような存在として君臨する。綴りにのみ反応し、言霊を聞き流す理由は分からないけれども。
「さあ、行こう。できるだけ離れて、日が暮れる前に野営場所を見つけたい」
全員頷く。青年のことには誰も触れなかった。
無視されているのでも、真言法の件が些細なことと思われているのでもない。散々自虐ネタにしてきたのだから、このまま乗り切ってしまおうと。
(祝福されるのは、性に合いませんからね)
不幸が軽減しただけという認識もある。いずれ仲間達は、足手纏いになった青年を切り捨てたりしなかった。口に出さずとも、この感謝を忘れることはないだろう。
☆★☆★☆★☆★☆
街道を南に進むと、そこは平原だった。
普通の平原ではない。草の一本も生えない――剝き出しの地面すらない、赤い硝子で覆われた広大な空間。その日は好天に恵まれ、爽やかな青空との対比に違和感がある。
正直気持ち悪かったが、東は海で西は逃れてきた国のもう一つの砦。揉めごとを避けるなら、ここを通って南へ行くしかない。
「…夜は出る。絶対出るよぅ……」
「何を言っとる。幽霊は調和神の記憶に焼きついた虚像と解明されておろうが。怨念渦巻く死者の魂など、この世には存在せん」
「この世にはなくても、あの世にはあるかもしれないじゃないかぁ……」
「いいから行くぞ。追手が来とるかもしれんのだ」
泣き言を並べて蹲る猫。その首根っこを摑むドワーフ。
実際、出た。おどろおどろしい血塗れの死者の幻が。しかも一部は、呪いの言霊を投げてくる。実害があるのだから、呑気に構えておられない。
「……そうでしたか。本当に、お辛い思いをなさったのですね」
「姉さん!何してるんですか!逃げますよ」
「ごめんなさい。まだお話の途中で……家族の元へ戻るのは諦めたと。でも死んだ場所が悪くて土にも帰れない……」
誰にでも親身に接してしまうのが、聖女の長所であり欠点である。仲間五人に引きずられながら『紅水晶の平原』を出た。
南の王国へ入り、最初に誰何してきた兵士から教わったところ。ひび割れた硝子の地面は、古の神々が造り給うた魔力供給装置の事故による爪痕。そこに統一王国が分裂して百年、南北それぞれの将兵が多くの血を流した。この大陸に暮らす者なら、言葉を覚えたばかりの子供でも知っている。
「なになに?面白そうなヒト達が捕まったって?」
「あ、クラリス宮司。面白くなんかないですよ。さすがに困ってまして……」
牢獄に現れたのは二十歳くらいの女。グウジなる呼称の意味は不明だが、尊重されているようだ。牢番の半分も生きていない。
「入ってもいいかしら?」
胡乱なことを宣う。快活な金髪碧眼の美女ながら、身形を考えるに聖職者らしい。言葉遣いや印象は違えど、聖女と似たような人種かもしれない。人類皆家族、話せば解ると思っている人種だ。
「だ、駄目ですよ。猊下が人質に取られたらどうするんですか」
「喜ばれるだけでしょ?あの腐れジジイに。あいつ私が目障りで仕方ないのだもの」
「だから困らせないでくださいって、もう……」
青年の企みは阻止された。しかし興味は尽きない。むしろ目が離せない、と言ったほうが近いだろうか。それは彼が、この一行に加わった理由とも関係する。
困る牢番を余所に、クラリスが鉄格子の前で膝をつく。
「あなた達。あの平原を越えてくるとか、勇気あるのね?」
「いやぁ、知らなかっただけというか。何と言いますか……」
思わず這い寄っていた。仲間達の嘆息、冷めた視線は眼中にない。クラリスのほうも、扱い易いカモが見つかったと内心ほくそ笑んでいるだろう。これは青年の病気だ。一度死なないと、いや恐らく死んでも治らない。
「死者の群れのことですか?あんなもの、私の真言にかかればちょちょいのちょいですよ」
牢番の目が厳しくなる。年齢を考えると、あの中に戦友がいたのかもしれない。聖女を除く四人が頭を抱えた。クラリスは気づいているのか、そのまま話の水を向ける。
「へえ。あなた達、強いのね。もしかしてこの牢も、簡単に破って脱け出せたりする?」
「もちろん。私の真言法に、できないことなどありません」
止めようとしたが遅かった。指先にマナを込め、自信たっぷりに頷く。
「これで北の砦を脱け出したんですよ。御覧あれ、希代の真言法師が究極奥儀!」
アウラよ希う。ここ要塞都市の、あらゆる屋根を吹き飛ばし給え――
冒険者達は轟音に備えて身構えた。
「……え?」
何も起こらない。見上げると屋根はそのまま。ここが二階建ての一階とか、そのような話ではなく。そもそも牢へ入れたのに、武器を取り上げただけで手足を縛りもしない。依代は眠らせるしかないゆえ別として、真言法に対する備えがなさ過ぎる。
美貌の宮司がくすくす笑った。
「ごめんなさいね。ここ、マナ安定の結界が張られているのよ」
簡単に言うと、マナを消費できない特殊な仕掛けが施されている。牢屋の目的は、囚人の自由を奪い苦痛を与えることにある。ところが真言法師や魔神に魅入られた者達は、周囲のマナを任意に減らして時間を遅らせることができる。これでは意味がない。
「故人が別の意図で造ったものを、上手く活用しているわけ。どう?賢いでしょ」
凍りついたのは青年だけではなかった。法創術や精霊術、最悪聖女と少年の道術まで封じられる。北が術を侮るからといって、南もそうであるとは限らない。
「…油断、しましたかね」
「ええ。どこから来たか知らないけれど、間抜けなことね」
反対側の壁に寄りかかり、腕組みしつつ不敵に笑う。
「でも、この国で力を持つ者は貴重なの」
牢番の頬に口づけすると、掏り取った鍵を示してみせる。止める間もなく錠に挿し込み、軽い音を立てて回す。
「あなた達、私の仲間にならない?自由と食い扶持を保障するわ」
☆★☆★☆★☆★☆
クラリスは南の王都にあるセラ大社の宮司だった。唯一上役の教統は他国にいるため、事実上の支配者である。故郷では破壊神と呼ばれるセラだが、ここでの神格は自由の女神。教団内の暮らしを見るかぎり、偏見だったと言わざるを得ない。
「さてと。不法入国者であるあなた達の自由を保障したけれど。もちろんタダってわけにはゆかないのよねぇ」
改めて実力を確認、満足した彼女は冒険者達に治安の維持を任せた。何のことはない、皇帝の統治が雑過ぎたのである。北部侵攻に心血を注ぐ一方、他のことは無頓着だった。
特にも最近、王城へ出入りするようになった無神教徒なる連中。彼らは神を憎み、また神を信じる者達をも迫害の対象とした。王権を嵩に着ての乱暴狼藉を恐れ、国教の片割れたるルースア大社の教統は息を潜めている。セラ大社の教統に至っては、神社庁のある聖地クラウベルへ亡命してしまった。
世俗の重臣や官僚達も怯えている。それでは秩序が乱れて経済も細り、逆に北の侵攻を招くとの諫言を耳にしなくなって久しい。
皇帝の神嫌いは、内外多くの知るところ。南の王国は今、間接的な内乱状態と言えるだろう。それも皆、国教を蔑ろにする危険な集団にお墨付きを与えたせいである。
宮司お抱えの衛士として、冒険者達は王都に滞在した。だがしばらくすると、より厄介な問題の解決を依頼される。南の王国や大陸はおろか、アウレア世界全体の存続に関わる重大事だという。
「大陸南西部の『風の森』に、古い魔力の泉が見つかったの。これが非常に不安定で、いつ暴走してもおかしくないらしいわ。異界の技術と知識を持つあなた達に、是非とも様子を見てきてほしい。もしできるなら安全を確保してほしい」
冒険者達は驚いた。出自のことをまだ誰にも話していない。何故クラリスは、彼らがアウレアの外から来たと分かったのか?
「聞いたのよ。同じく外から来たものに」
豊穣神ラフィニア。そのような神は聞いたことがないが、冒険者達が知らないだけかもしれない。また今となっては調べようもない。
「助かってはいる。でも面白くないの。隠しごとも多い気がするし」
そのラフィニアが教えてくれたそうだ。風の森の奥深く、世界に穴が開いている。これを塞がなければ、遠からず大変な災いが起きると。
混沌のマナを浄化できるようになれば、いつか役立てられる日が来るかもしれない。しかし、それは遠い先のこと。今は未来を繋ぐため、ただ封印するしかない。クラリスには理解できなかったが、必要な術式をラフィニアが用意したという。
「これを遺跡の最深部で使って。向こう百年は保つそうよ」
『ぱっちぷろぐらむ』というらしい、古代語が記された紙を青年に手渡した。
至れり尽くせりである。これでは単なるお遣いも同然ではないか。にもかかわらず、クラリスの表情は優れない。
「……面白くないと、言ったでしょう。自分の身が危ないと思ったら、すぐ逃げて。封印も術式も放ってしまって構わない」
いつもアウレアのためを願っている彼女の言葉とは思えなかった。その意味は、実際に遺跡の最深部へ辿り着いたとき知ることとなる。
クラリスの言葉が気になり、青年は術式の解析を試みた。純粋な真言法ではない。ドワーフが身につけている創術も含まれているような気がする。そして故郷の古代帝国と共に失われたとされる法術に近い何か。
完全に理解することはできなかった。しかし判明した事実が一つある。
この術式が発動した者を中心に働くこと。いかなる性質のものであれ、安全な遠くから見守ることはできない。
面白くないと、言ったでしょう――クラリスの言葉が蘇る。その一方で、視界の片隅に虚無と混沌の深淵を捉える。
ラフィニアの警告は、誇張でも大袈裟でもなかった。悍ましい不純物に塗れたマナ、それが千年実験を続けても使いきれないほど膨大に。今にも噴出しそうな不安定さで、冒険者達の目の前に不穏な淀みを揺らめかせている。
「……さすがに今すぐ直さないと拙いのでは?」
「珍しく意見が合うたの。儂もそう思う」
「混沌の精霊を招き入れたみたい。ここにいるだけで気が狂いそうよ」
違う分野を得手とする、三人の術者が同意した。
やはり今すぐ対処しなければならない。だが手元にあるのは謎の術式。見知らぬ神から押しつけられ、新たな友人が疑いの目を向けたもの。
「離れてください。有効範囲がどのくらいか分かりませんから、少なくともこの部屋は出たほうが……って皆さん、どうしました?」
「見える場所にいないと、対処できませんから」
言霊の分かるエルフと、創術を使うドワーフが一番遠く。それぞれ反対側の部屋の隅。戸口に聖女、少年、猫。混沌から異形の存在が現れても駆けつけられる程度に近い。
(見捨ててくれる気はないようですね。そんなの初めから分かっていたではありませんか)
渡された覚書のとおりに術式の起句を記す。見慣れた故郷の文字でも、アウレアの日常語でもない。複雑な意匠のものと、単純ながら種類の多いものを組み合わせてある。
アウラよ希う。フォルダ名『修繕術式03』内のファイルを全て実行せよ――
二十二字の暗証文を入力した。こちらは見慣れた二十六種類のもの。アウレアのアウラは両方理解できるらしい。
異変は唐突に起こった。
冒険者達と魔力の泉の間に、忽然と現れた濾過結界。まだ調べてはいないが、実用に耐えるものと思う。部屋中を満たす不浄なマナが消えている。
(……何があったのです?)
青年は訝る。あまりにも都合がよすぎて。
術式の構成を考えるに、あれが濾過結界を生み出したとは思えない。大量のマナと引き換えに術者を中心とする一定範囲に何かを働きかける仕組みだったはず。
「…あの。大丈夫ですか……?」
知らない声である。後ろにいたのは線の細い優しそうな青年。童顔ゆえ少年と間違われかねない、しかし身に纏う空気は疲れていた。大丈夫ですかなどと言ったものの、むしろ彼のほうが大丈夫ではないと思う。
「神社庁から参りましたニコル=ダナウェイです。ミラノ大社の典仕を務めております」
「あ、はぁ。それは、どうも御丁寧に……」
順次、六人も自己紹介した。無論、本当のことは言えない。セラ大社の宮司クラリスに依頼され、遺跡の様子を確かめていたと。無難に答えたつもりが。
「クラリス宮司ですって……!?」
まるで死者を悼み、惜しむような顔。彼女の身に何かあったのか。
「…はい。仰るとおり、クラリス教統は亡くなられました……今から百十二年前に」
南の王都で別れた後のことを、搔い摘んで聞く。
北の王国で内乱が起こり、講和派の国王が勝ったこと。呼応してクラリスも立ち、皇帝を隠居させて孫唯一の生き残りを新国王にしたこと。しかし耄碌したはずの前皇帝が数年で謎の復活、新国王の粛清と共にクラリスも行方不明となったこと。
北の王国は四つ、南の王国は町単位まで分裂した。戦乱の時代であり、民衆の信仰を広く集めたセラ大社の威光は見る影もない。
なお、教統の肩書は諡名である。最後まで南北の平和のために尽くし、ついに命を落とした彼女への哀悼の意が込められているという。
「クラリスちゃんが、死んだ……?」
「正確には、遺体を確認できなかったと。神社庁は、それゆえ彼女をセラ大社初の聖人――成り神に認定しました」
百年以上経ったのだ。いずれ生きては会えなかったろう。しかし遺体が見つからなかったというのは……
豊穣の女神ラフィニア。冒険者達の頭に、その名前が等しく浮かんだ。
「それで、あなたはどうしてここに?どうやって私達を助けてくれたの?」
クラリスの言葉どおり、結界は百年しか持たなかった。術式の研究機関でもある神社庁はニコルの上司に再封印を命じ、大勢の仲間や護衛と共に遺跡までやってきた。それはよかったのだが主導権争いと原住民の反感が重なり、四十名ほどいた調査団は壊滅。生き残ったのは彼と弟子の少年、副団長の小間使いだった少女の三人だけ。
「僕は……二人を護らなければなりません。しかし、この顛末をどう報告したものか……」
途方に暮れているのではない。クラリスのことを聞いたときよりも具体的、現実的な苦悩が刻まれている。何かあったのだろう。事実をありのままに報告しては、罪なき子供達を苦しめてしまうようなことが。
冒険者達にできるのは、三人を安全な場所まで送ることだけだった。その間にニコルの口から百年の移り変わりを聞き、次に何をすべきか考えたのである。
☆★☆★☆★☆★☆
頽廃する南の王都を見届け、足の赴くままに知らない場所を目指す。
「ねえ、どれくらいかかりそう?」
「すぐだよ~。こっちの島からは、二つ三つのところだし」
エルフが大声で問いかけると、小さな船乗り達は子供のような甲高い声で楽しそうに応じた。甲板の上を忙しく――あるいは落ち着きなく動き回り、船の操縦と手に入れた珍しい果物の奪い合い、その両方に精を出している。
彼らは栗鼠の獣人フェリテ。非常に食い意地の張った種族であり、食糧をくれる者には相手が誰だろうと簡単に心を開いてしまう。その単純な性格ゆえに、あっさり騙されて都合よく利用されることも多いのだが……
「ふん」
樽のような体型の小人が、さも不満そうに鼻を鳴らす。
「大体、何故船に乗らねばならんのだ。こやつらの話では、あの島と地下で繋がる洞窟があるというではないか」
「…話、聞いてなかったの?地下洞があるのは、近海にある小さな島のどれかだって」
驚いて目を丸くするエルフに、ドワーフは再び不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「分かっとる。俺とて、そこまで馬鹿ではないわ。ただ……」
言い淀んだ言葉を引き取る。
「水が怖いだけなんでしょう?聞いたわよ。お祖父さんが昔、湖で亡くなったって」
誰に聞いたのかは秘密だけど――そう付け加え、悪戯っぽく微笑む。だが、そんなものは秘密でも何でもない。広めた犯人は、間違いなく残念な腐れ導師。
ドワーフはむう、と一声だけ発すると、そのまま貝のように口を閉ざした。
沈みかけの夕陽を見つめ、小さな溜息をつく。気の早い満月が水平線から顔を出し、主役の交代を待ち望んでいる。やがて周囲が蒼い闇に染まり、彼は再び口を開いた。
「…他の連中はどうしておる?」
「船室で横になってるわ。緊張が続いたから、疲れてるのよ」
「お前さんは疲れとらんのか?あの宮司と一番気が合うたのはお主じゃろ」
ドワーフの言うとおりだった。少年の揶揄いかたから青年のあしらいかたまで、二人は物言いや態度がよく似ていた。お互い他人とは思えないと、度々笑いあったもの。
異性の好みも近かったかもしれない。クラリスは気が多くて、それを知る機会は頻繁にあった。堅過ぎるぐらい誠実で、概ね心強いが時に弱く繊細なもの。
「……遺体を確認したわけではないのよね」
頭では確かに理解している。王都の荒廃を、戦乱を嘆きクラリスの偶像に縋って祈る人々の姿を見れば。されど実感が湧かない。違和感がある。どう言葉にしたらよいか、まだ見つけられていないだけで。
「ふむ……」
ドワーフは怪力自慢の小人。指先ならばともかく、口先が上手とは言い難い。それでも神官の端くれ、悲しみの深さではエルフ娘が一番と解る。気の利いた言葉をと頭を悩ませるも、不器用な種族に生まれてしまったもどかしさ。
やがて無駄な努力は諦めた。鍛錬を尊ぶカスパルの下僕にあるまじき破戒だが、無粋な真似は避ける。ヒトには天分があり、己が果たすべき役割を果たせばよい。
(本当に不甲斐無い奴だ。こんなとき、お前が慰めてやらんでどうする)
心の中で弟分の少年を叱る。さりとて、ただ放っておくのも気が引けた。
「気に病まぬことだな。明日には明日の山がある」
数少ないドワーフの格言だ。エルフの娘はというと、驚きに目を瞬かせている。愚鈍な酒樽の口から、そんな言葉を聞けるとは思わなかったらしい。
「…明日は雪かしら。それとも槍?」
「たわけ」
背伸びをすると、鈍間な足取りで船室へ下りていった。
☆★☆★☆★☆★☆
ウンディーネの若者達と出会い、彼らの頼みを引き受けた。近頃海を荒らしまわっているという、奇妙な魔獣の退治である。それ自体は恙なく終えたものの、依頼主のウンディーネは水に棲むエルフの亜種。衣服を纏う習慣がない。
「あれだけ美しいものを見せられて、何も感じずにいられますか!」
とは青年の言。前半は理解するが、美しさの点ではエルフも同じ。容姿に心動かされる人間の感覚が理解できない。
感謝を背中に受けて東の孤島へ。百年程前に南の王国から開拓民が上陸したゆえ、人里はある。大陸の都市より小さいが戦火は遠く、また自由な気風を求めて移民する者が後を絶たないという。
奇妙な噂も耳にした。島の最奥に、異界へ続く不可視の門が存在すると。
伝承は大きく二つ。礎の女神アウラがニンゲン時代を過ごした都、神の末裔ニウェウスが侵入を拒む太古の森。どちらも実在を確かめた者はいない。
結果が見えているゆえ、立ち入りの許可は求めなかった。
このとき知ったことは、アウレアのエルフが二種類であること。金髪翠眼で膚の色が薄いニウェウス族、銀髪で紅玉の瞳と色の濃い膚を持つアトルム族。両者は出自が異なるため、アトルム族は二つめの伝承を全く顧みないのだとか。
欝蒼とした森の中を進む。大きな茂みは迂回し、なるべく静かに足を下ろす。
獣を恐れているのではない。現れたところで容赦なく叩きのめす。
先頭を進む猫の獣人が、複雑に絡みあう枝の塊を見つけた。何かを訊ねるように隣のエルフを見上げる。
「…えっと」
腕を組んで瞑目、微動だにしない。もう一度呼ぶ。
「ねえ、あれ……」
反応はない。今度は直に揺さぶろうと手を伸ばす。
「大丈夫。聞いてる」
慌てて引っ込めた。が、エルフのほうも然したる考えはない。やがて砂色の髪をがしがしと搔き乱す。
「あぁぁあああ!…ごめん、もういい。切り開いて進みましょ」
最後は呟き程度に落ち込んだ。仲間から顔を背け、大きな溜息をつく。
エルフにとって草木は友。傷つける行為は、刃物でヒトを斬るのと同じ。
「別の方法を考えよう。急ぐわけでもないしな」
冒険者達は最初、枝の絡まりを解くという選択をした。
しかしそれが無理と分かると、今度は木にロープをかけて綱渡り。軽業の訓練を積んだ三人はともかく、重装備の戦士達や聖女にとってはかなりの難題である。
並の冒険者ならばここで諦めるところだが、彼らは並の冒険者ではない。重い金属鎧と荷物を身に着けていてさえ、熟練の冒険者を上回る。枝の塊を無事に乗り越えた。
「このような場所に遺跡が……?」
額に張りついた黒髪を払い、聖女が呟く。無意識に少年の傍へ寄り、その腕を取ろうとしてやめる。姉のように振舞ってきたが、今では聖女のほうが少年を頼っている。
負い目があった。幼い頃の事故が元で、発達が遅れたことと無関係ではない。
「交通の便は悪いな。神なら一瞬だろうが、蛮族の俺達には」
「あ、自分で蛮族なんて言っちゃう?確かにあたし達は、術なんか使えないけどさ」
「何を言う。使えぬのはお前さんだけだろう。俺にはちゃんと、力と鍛錬の主が応えてくれる。我らドワーフの、偉大なる主神がな」
「それってお願いしてるだけで、使うのは神様だよね?」
「お主、世界中の神官を敵に回すつもりか?」
機転が利くルーマと根気強いドワーフ。議論すればこうなるという典型的な見本。愚直に答える小人、ふわりとかわす猫の獣人。誰かが止めるまで終わらないだろう。
「みんな止まって。精霊力がおかしい」
先頭を交代していたエルフが囁き、青年も進み出る。
「確かに妙ですね。ここから先はマナを感じません。森が幻覚でも、野外なら風の精霊や大地の精霊がいます。それすらも感じないとは……」
「そうなのよ。まるで世界が……なくなったみたい」
「行ってみよう。そういう場所にこそ、手掛かりが隠れているかもしれない」
十数分が過ぎた頃、エルフは何度も首を傾げるようになった。青年も怪訝そうに周囲を見渡している。不安を拗らせたのは、術の類と縁のない獣人族の娘がひとり。
「大丈夫です。みんな一緒にいますからね?」
「進めば進むほど強くなるの。全然感じなかったのに」
「方角を間違えたのでは?」
「まさか。強くなっていると言ったのよ。ないよりは強いとか、そんなのじゃないわ」
方向を確認するため、今来た道を戻ろうとした。だがいつまで歩いても、何故か元の場所に辿り着けない。精霊に力を借りてヒトを迷わせる方法はある。ただしその手が効くのは、精霊と交信できない依代以外の者に限られる。
「少し休もう。無闇に歩いても仕方ない」
皆、疲れていた。その場に座り溜息をつく。肉体よりも精神のほうが重い。森の中ゆえ分かりにくいが、そろそろ陽が沈む。こういうとき獣人の腹時計は頼りになる。
やがて誰からともなく野営の準備を始めた。
言葉を発する者はない。不安を口にすれば、それが現実になってしまいそうで。
ただでさえ他所の世界へ来ているのに。百年後の未来に投げ出された。
頼れるヒトはない。いたが亡くしてしまった。
このまま歩き続けたとして。自分達は故郷に帰れるのか。
(後ろ向きな考えはやめよう。それは道を閉ざす行為だから)
大きく背伸びをすると、少年は火熾しに取りかかった。
枯れ枝を中心に拾ってゆく。生木は燃やしても煙しか出ない。その点、乾燥した小枝なら簡単に燃えてくれる。保存の利く種火を作ることができる。
沢山取れそうな樹木を求め、不思議な植生の森を見渡す。今度は毒の木を選ばないよう――見知らぬ土地では、何気なくあるものが凶器に変わる。
(あれは……?)
視界の片隅に光るもの。最初は雲間から太陽が現れたと思った。が、今の時刻を考慮しても明らかに低い。
「どしたの?何か見つかった?」
猫の獣人は小さく軽い。肩車で見たものの説明に代える。
「あれです。見えますか?」
緑の隙間から覗く黄金色。なら鉱物か?いや生物的な柔らかさを感じる。ただ大きさだけが尋常ならず、遠目に見ても判断できない。
「何あれ」
最も博識な賢者は、即座に思考を放棄した。
「他に知ってるヒトは?」
「……あのように大きな植物を見たことはないと思います」
「もっと近くだな。俺には何なのか分からん」
背の低い仲間がもう一人いたと思い出す。さすがに重装備の彼を持ち上げるのは無理。野営の準備を中断し、黄金色の輝きを目指して歩く。
実際に近寄ってみて、その大きさに圧倒された。幹は太く、手を繋いで一周するのに三十人以上の大人が必要だろう。
様々な色の花が咲き乱れ、また一方では熟れた果実。花の色が複数ある植物でも一色しか咲かないのが普通であり、果実のほうは論外もいいところ。同じ枝に林檎と蜜柑が混在している。悪い冗談としか言いようがない。
接木や宿木ではない証拠に、枝はどれも同じ形をしていた。異なる果実を交互に並べるなど、できたとしても悪趣味極まる。
「面白いかもしんないけどさ。普通はこんなの、やらないよ」
「異端扱いされたのでしょうか。何にしてもこれを報告すれば導師に昇格、ようやく出世の機会が巡って……」
横合いの蹴りを警戒し、僅かに身を固くする。いつもならば、このあたりで直弟子から容赦ない突っ込みが入る。ああ見えて真面目なのだ。
だが彼女は今、眼前の巨大な植物に目を奪われている。法螺吹き導師の戯言に付き合うつもりはないらしい。
「無視は酷くないですか。さすがに心が折れ、ま……?」
仲間が死んだとき、ヒトはどのような顔をするだろうか。自分は冷静だから参考にならない、もし見えたとしても普段と同じ――そう考えてきた。
その答えを確認することとなる。仲間の顔と、図らずも自分自身の声によって。
驚きと絶望に歪められた目と口。滑稽なほど甲高く上擦る、痛ましい叫び。
「…ルーナっ!しっかり、してください……!」
☆★☆★☆★☆★☆
エルフの娘は戸惑った。仲間達の様子がおかしい。
(え、何?私がどうかしたの?)
気がつけば少年に抱えられ、何度も頬を叩かれている。その状況は解るのだが実感は湧かない。どこか遠い世界の、知らない誰かを見ているように。
(ここに私がいて、あそこにも私がいる……)
互いに矛盾する事実。それらは併存しうる。精霊と契約を結ぶときに訪れる、混沌界へと転移させられたのなら。
(……それにしても)
改めて周囲を観察、置かれた状況に溜息が洩れる。
(随分と似ているわね。細部は分からないけれど空気までそっくり。何となく懐かしいような気もするし)
空気が似ているのはよい。ここは森の中、それも当然だろう。
問題は懐かしさだった。霞がかかった意識の中で、この感情だけが強い。敵の精神攻撃に嵌まり、都合のよい夢を見せられているのか。
(あの森はこんなに明るくない……全部幻よ)
強く自我を保ち、今の状況を思い出す。自分の名前、自分の姿。一緒に旅をする仲間のこと。落ち着きを取り戻した頃、どこからともなく謎の声が語りかけてきた。
(ああ、お帰り。皆、君が戻るのを待っていたのだよ)
(辛かったでしょうね。早くこちらへ来て休みなさい)
(こんなに汚れて。だから私は反対したのだ。樹の傍を離れ、物質界へ出かけるなど)
(まあよいではないか。こうして無事に戻ったのだから。今後はもう、外へ出たいなどと言ってはいけないよ)
不思議な安堵感を覚えた。そう感じる自分に軽い苛立ちも覚えたが、今は感情に流されている場合ではない。気持ちのうえで深呼吸、慎重に言葉を選ぶ。
「誰……だったかしら。一斉に話しかけられると分からなくて」
正体が分からない以上、それを探るところから。話を合わせ、情報を引き出す。
(忘れてしまったのかい?いつのことだったか……まあ、そんなことはどうでもいいさ。我々には時間など無意味だからね。君はここを離れ、外の世界へと旅立っていった)
彼らは、ここが娘の故郷だと言う。しかし、それは嘘である。彼女が生まれ育った故郷は、こことは異なる世界にある大陸中原の小さな集落。
「嘘ね」
もう充分である。娘は強く言い放った。
「私はこんな場所知らないわ。父の名はミナモ、母の名はカザネ。二人共死んでしまったけれど、村に帰れば私を温かく迎えてくれる。でも、ここに二人はいない」
(名前?死ぬ?君はさっきから何を言っているのだ?)
困惑を映してか、空間を満たす光が揺らぐ。ここでは精霊力が視覚として感知される。垣間見えた彼らの姿は、エルフのものとよく似ていた。
(同胞というのも嘘ではないのかもね。この感じからすると……かつて存在したという神の末裔ハイ・エルフ?)
ハイ・エルフはエルフの原型。普通のエルフが二千年ほどで生涯を終えるのに対し、ハイ・エルフの存在は永遠。寿命という概念がない。
(待て。みんな落ち着け)
別の誰かが割り込んできた。形が曖昧ゆえ判りにくいが、心の色は違う。まるで不審者を警戒するように、娘の周囲を取り巻く。
(あれは、ここを出ていった同胞ではない)
思わぬ発言に、推定ハイ・エルフは文字どおり色を成す。
(同胞ではない?それは本当か)
(いい加減なことを言わないで!せっかく戻ってくれたのに、あの子が可哀相よ)
(彼女と我々の、どこが違うというのだ)
(違う)
今や彼の言葉は、強い確信に満ちていた。
(その証拠に……よく見るがいい。彼女は肉体を持っている。我々がやむなく出かけるとき、造ってもらう器ではないぞ?)
言われて初めて、娘は自分が肉体を持つ生き物であることを思い出した。
足元――あくまで感覚的な話だ――では、仲間達全員が彼女の抜け殻を不安そうに見つめている。それは嬉しくも心苦しい光景だった。だがそんな想いに構うことなく、ハイ・エルフらしき思念体は再び彼女に殺到した。
(肉体だと!?肉体を持つ者が、何故ここにいる!)
(そうか。君は外で生まれたのだね。よく似ているが、生来の器を持つ点において我らとは違う。遠い昔に分かれた同胞の、風に吹かれ飛ぶ小さな種子)
(血の穢れ、肉の穢れ。死の呪い。魂の牢獄に縛られし、哀れなる同胞達の末裔か)
(肉体は定命の呪いを与え、其は魂を狂わせる。定命の者は、死の恐怖を忘れられぬ。そのような者達に、同等の理性を期待できるはずがない)
(穢れに歪んだ、卑小なる魂。惨めなものだな)
絶え間ない侮辱の言葉。心の色が燃え滾る溶岩へ。年長ゆえ奉られていたことがある。だから無力を蔑まれるのは慣れていた。
だが肉体を持つ者全て、仲間や大切な人々を侮辱されるのは我慢ならない。無礼な連中に渾身の罵声を!――議論の風向きが突然、変わった。
(でも、可哀相な子。生まれ落ちた瞬間から、滅びの運命が定められているなんて)
(そうだな。穢れていようとも、同胞であることに変わりはない)
(何か方法はないものか。彼女の穢れを払い、家族として迎え入れる方法が)
「ちょ、待っ。何勝手に決めて……私は、そんなこと望んでない……」
差別されたかと思えば、いきなり憐れみを受けた。どうも彼らは、真剣に彼女の受け入れを検討しているらしい。話の展開についてゆけない当人を他所に、ハイ・エルフ達の同胞愛溢れる話し合いは進んでゆく。
(樹に頼めばよいのではないか?我らが母なる樹は、真に偉大なる存在。彼女の穢れを払うくらい簡単だ)
(樹か!それはよい考えだな)
(そうね。樹に頼めばできるはずよ)
(だが、他の者達はどうする。彼らは同胞ではないぞ)
(そのまま暮らしてもらえばいい。ここから出すことはできないが、彼らの食事程度なら賄える。天寿を全うして土に還ることは、肉体を持つ生き物の自然な姿だ)
(よし、呼びかけてみよう。最近は少し弱り気味だが、一人くらい大丈夫だろう)
数人が離れてゆく。他は相変わらず勝手な議論を続けている。
「だから、ちょっと待ってって言ってるでしょ!さっきから黙って聞いてれば、穢れてるだの歪んでるだの。他人を勝手な基準で評価するなんて、歪んでるのはあなた達じゃないの!?少しは他人の話を聞きなさいよ!」
ハイ・エルフ達の色が一瞬にして消えた。やがて元の穏やかな輝きへ戻ったが、戸惑いを示す鈍色が入り混じっている。
(どうしたのだね?たった今、樹を呼びにいった。もう少し待っていれば、君も我らの仲間になる。話はその後にしよう)
(君は疲れてるんだよ。本来の姿になれば落ち着くさ。怒りに任せて自滅するのは……何と言ったかな?ああそう、ニンゲン。彼らだけでいい)
取りつく縞もない。このままでは善意により殺されてしまう――不幸中の幸いか、余計なお世話が戻るより早く。異変は起こった。
(攻撃されているぞ!?)
(早く止めないと!幹に火が……あぁ!)
(樹は、この森に住む全ての守護者。それを傷つけるとは……なんと野蛮な!)
足元では、仲間達が壮絶な戦いを繰り広げている。最も異常な存在こそ、異常な現象の原因である可能性が高いと考えたのだ。
少年は襲ってくる枝を払い除け、斬り落とした。ドワーフが幹に斧を振り下ろし、真言法師は容赦なく術式を叩きつける。爆心を石英に変えるほどの力を浴びても『樹』は悠然とそこにいた。動きを止めるには、同じことを何度も繰り返す必要があろう。
熟れた実の幾つかが破れ、中からヒト型の生物が姿を現す。一様に美しく、成人のエルフと似ている。だが所詮は生まれたばかり、戦い慣れた冒険者達の敵ではない。全員剣の腹や鈍器で殴り飛ばされ昏倒した。
黄金色に輝く植物の姿と、新たな魂すら創造してしまう偉大な力。これほど条件が揃えば、答えは一つしかない。
「あなた、黄金樹なのでしょう?私達エルフの祖、ハイ・エルフと共にあり続けた古代種族。その近縁種に遭遇するなんて、夢にも思わなかったわ」
姿勢を正し、声に敬意を滲ませる。
セレスティアの黎明期。多くの種族が神々の生き残りによって救われた。ニンゲン、小人、獣人――滅びの運命を免れた彼らは、調和神セレスを主神と崇めるようになる。
だがエルフだけは違った。友を失った黄金樹が、寂しさを紛らわせるため神々を模して創造した。それゆえエルフは黄金樹を尊ぶ。ニンゲンが神を崇めるように。
「あなた達の言うことは分かる。外の世界に危険が多いのも確かよ。でも……」
慄く同胞達を見つめ、ともすれば楽な道へ転がり落ちそうな自らを叱咤する。
「私は、囚われの鳥になんかなりたくない。たとえ傷つき汚れても、大空を自由に羽ばたきたいと思う。飛べない鳥は、生きていると言えないわ」
若草紋様の白い足環が凛、と鳴った。
☆★☆★☆★☆★☆
「…じめましてリーネさ……らしはサイラ……クダ…ルと申しあす……」
テーブルに突っ伏した後頭部を手の甲で二度叩く。そして女は、普通飽きるだろう長い時間を見守った。やがて意識が混濁、目覚めの近いことを察する。
「……む………」
男は瞼を上げ、そこに知人の顔を認めた。
親しいと言える間柄ではない。女は男に恩がある。それだけのこと。
「ここからが、いいところだったのですが……」
「あの女の名を口にしていたからな。よくない部分へ入る前に止めておいた」
未練がましい男の言葉を切り捨てる。エルフの女リタは、この男『姿偸み』に借りこそあるものの。あまり好意的ではないらしい。
「それだけじゃありあせんよ?大陸を北の山脈から西の果てへ、股にかけて大冒険しゅる」
「という妄想を夢見ていたのだな。お前の話は、どこからどこまで本当か分からん」
「……んぁふ……」
まだ酒が残っているのだろう。大きく左右に揺れている。だが頭のほうは問題ないようだ。少しずつ言葉が明瞭になってくる。
「あぁ……リタさん。御無沙汰しておりました……」
「それはこちらの台詞だがな。世話になっておきながら、挨拶もせず村へ帰ってしまって済まなかった」
深々と丁寧に頭を下げる。クァトゥオルでウィルやエアと対峙したときとは大分違うが、元々律義な性格なのだろう。
「まあ、仕方ありませんよ。あなたも多忙ですしね」
リタはアトルム族の集落イラリオで若長を務めている。今はヒト里にいるゆえ、創術で擬装しているため膚の色が白い。族長不在の村であり、代理は単なる調整役だ。行動力が必要な仕事は全部彼女に回ってくる。
「…そう言ってくれると助かる。私が止めておいて何だが、今日はその悪い夢のことを話しにきた……」
『姿偸み』の瞳が翳る。二十八年の人生において、最も悪意に満ちた出来事と関わりがあるからだ。その過程で五人の仲間を失い、結果としてリタの命を救った。仇を共有する意味において、この男とリタは味方である。
「ネフラが生きているとお前に聞かされた。私もネフラと似た男に遭遇した」
そこで言葉を切る。何か反応があると思ったのだ。
「それで?」
「一人では不安がある。お前が手を貸してくれれば、確実に仕留められる」
肘をついて手を組み、リタの顔を覗き込む。
「彼の傍には、あなたの同胞もいますが?」
「いないときを狙う。あれは友の娘だ」
「そう上手く、いきますかねえ……」
背凭れに体重を預け、椅子の足を浮かせる。軽薄な態度だが、リタは癇癪の虫を抑え込んだ。さもなくば、この男と会話を続けるなど無理。
浮いた腰を椅子に沈め、とりあえず気分を落ち着かせる。
「いつまで泳がせるのだ。これ以上あの子を傍に置けるか」
「ただ殺しても面白くないでしょう?ここは私に任せてください」
「……お前の趣味には付き合いきれぬな」
やる気がないわけではない、それだけは確認できたが。
「前に話していた『白い闇』。それと関係があるのか?」
『姿偸み』は答えなかった。話は終わりだが、肯定とみてよいだろう。リタは真っ直ぐ彼を睨みつけながら立ちあがった。
「…ならば調べてみる。納得できるまで確かめたいからな」
そして肩の力を抜き、ほぅっと溜息を洩らす。
「…私も、ややこしい相手に救われたものだよ……」
林檎と葡萄の酒が、手つかずのまま残っている。
☆★☆★☆★☆★☆
これからイラリオに戻らねばならない、その間ウィルとかいう奴の監視を頼む――帰り際、リタはそう言い残していった。
「ま、いいんですけどねえ。今はどうなるものでもなし」
翌日、男の姿は執政官の館にあった。
一介の冒険者が出入りできる場所ではない。だが実力と経歴、日頃の言動に至るまで規格外ゆえ。無視するわけにはゆかず、誰かを害した事実もなく。今のところ好きなようにさせている。関係者に化けるため、侵入を防ぐのが難しいこともある。
「……『姿偸み』か」
「やはり、分かっちゃいますか」
「こう何度もレオリオが男のところへ来るものか。贋者を疑うのが自然だ」
今回の手土産は、膚の色を偽って街に入り込んだアトルムの話。
「許せませんよねえ?散々争っておきながら、善き隣人の顔をして」
名前や顔は明かさない。それを言えば情報源と割れてしまう。
『氷』と綽名される男は、眉ひとつ動かさなかった。
「どう扱うかは我らが決める。君は余計な真似をしないことだ」
「アトルムだけではありませんよ。ニウェウスにも注意してください。我々が壊滅したときの話、よもや忘れてはいないでしょうが」
「……………」
「これもどう扱うかは、あなた方次第ですがね?」