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灰色の森  作者: 五月雨
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閑話休題2 クララ=クレイトンの挑戦

「クララ様。素敵ですわ……!」


 感極まって連れが叫ぶ。どこから声が出るのかと場違いな疑問を浮かべるほどに。


「とてもお似合いです!やはり私の目に狂いはなかったのです!」


 そういう彼女も美しかった。絹糸の艶やかな輝き、高く結い上げられた髪、指を飾る色とりどりの宝石達。かくなる煌びやかな装いは、ミキャエラ=ジンデルのような育ちのよい女性にこそ相応しい。褒められて悪い気はしなかったが、祭りの珍奇な仮装をさせられているか着られている気がしてならない。


 要は違和感があるのだ。慣れるのにどれくらいかかるだろう――半時?一日?二月?三年?いや、そもそも無理。にもかかわらず、夢見心地の相棒は背中を押す。恐れるものなど何もない、とは陳腐な言い回しだが。そう言わんばかりに。


「さあさ、まいりましょう」


「ま、まいりましょうって。どこへ?」


「決まってますわ。めくるめく秘密の楽園。あなたも一夜の恋を見つけるのです」


 戸惑うクララを強引に、広間のほうへ押し出そうとする。


 頭がついてゆかない。この時刻は社の子達に神の教えを語って聞かせ、難しさのあまり幼い順に墜ちてゆくのを微笑ましく見守っているのではなかったか。


 今すぐ帰りたい。宿舎の薄暗い片隅にある小さな自分の部屋へ。いつもの粗末な木綿を着て、麦藁を伏せ込んだ固い寝台の上。願わくは安らかなる魂の休息を。


(何故こんなことに?)


 どこで間違えた。その結果、かくも世界が狂ってしまった。


 事の始まりは、十日前に遡る。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「ただいま、戻りました……」


 完全な暗闇の中、クララは静かに囁いた。


 誰もいない。陽が暮れて二時間ほどだが、ここでは油を節約するため、祈りや夕餉を済ませたら早々と休む。


 時間に遅れた者が口にするものなどない。今朝オオハラ商店の仕事を終え、その後うどんを啜り、不運な事故の後始末をやんわり断られて。


 切実に稼ぎが欲しいクララは、再び『不屈の闘志』亭へ向かったのだがハズレ。せっかく来たからと安い日替わりの献立を食前酒なしで抓んだ。


 溜息が零れる。今日も無為に生きたか、と……


 ドゥオの街にあるルースア神社。クララはそこで暮らしている。


 孤児だったからだ。最初は幼馴染みのジェフとマルクも一緒だったが、束縛を嫌うジェフが慎重なマルクを巻き込んで社を飛び出した。


 何故自分も連れ出してくれなかったのか、理由を察しつつも激怒したものである。


 それは少年達の思いやり。優しい少女には穏やかな暮らしを送ってほしいと。たとえ数時間で見つかり、やがて一緒に冒険者の店へ足を踏み入れる羽目になったとしても。


 自分の部屋へ戻る前に、やや遠い奥まった一室の扉に手をかける。


 この時刻なら、まだ起きているはずだ。身寄りがない自分を育ててくれた優しいヒトに、帰りが遅くなったことを詫びるとしよう。


「宮司様……起きていらっしゃいますか」


 扉越しにそっと訊ねる。


 しばらくして返事があった。クララかい?と確かめるような声。教え子を間違えるヒトではないから、恐らく眠っていたのだろう。


「はい。失礼します……」


 少し後悔しつつ中に入る。寝台が軋む音を聞いて、すぐさま駆け寄った。宮司は一人で身を起こすことができない。長年の過労が祟り、背筋の痛みを患っているのだ。


「ああ、ありがとう。いつも世話をかけるね……」


「…いいえ。そんな」


 謙遜を返すのも疲れてしまった。


 クララ達孤児出身の神職にとって、宮司は師であり父。身の回りの世話を一年や二年したところで、返しきれる恩ではない。


「暗くなるまで仕事を探していたのかい?」


「…ええ。もっと賢くできれば、皆に不自由をさせなくて済むのですが……」


 私が至らないばかりに、とは言わない約束である。


 冒険者稼業は不安定だ。誰も困らなければ依頼はないし、あったとしても自分の手に負えるとは限らない。幼馴染み二人を亡くし途方に暮れていたクララにとって、エア達と知り合えたことは僥倖だった。


「…賢く、か」


 すでに就寝時刻を過ぎているため、灯りは点けない。師父の顔は見えなかったが、どのような表情をしているのかは分かった。


「宮司様……?」


「少し気になる噂を耳にしてね」


 噂、と彼は言った。しかし曖昧な根拠で滅多なことを口にする人物ではない。確証があるか、たとえ不確かでも看過できない深刻な話。


 その噂はクララも知っていた。よもや病床の師父にまで届いていようとは。


「……ジンデル典仕らのことですね」


「……………」


 暗黙の肯定。社を預かる者として、教えに背くことは戒めねばならない。だが師父として信じたい気持ちもある。よしんばこの身体が動くなら、自分の目で真実を確かめ、そっと教え諭すこともできるのだが……


 社には身寄りのない者が大勢いる。理由は様々だが、親を亡くして路上生活を余儀なくされていた子供達だ。


 幼い頃の恩を返すためにも、彼らの食い扶持を稼いで師父達に楽をさせたい。それができないまでも、せめて心配の種を取り除くことができれば。


「クララ……?」


「私にお任せください」


 憂いの響きに正面から向き合った。


「何かの間違いでしょう。きっと確かめてまいりますね」



 ☆★☆★☆★☆★☆



「それでは宮司様、御機嫌よう……」


「ああ。ゆっくり休むんだよ」


 居室の扉を後ろ手に閉め、寄りかかって嘆息した。


 根拠が何もないのだ。希望的観測を裏づける材料が。まだ表には出ていない――さりとて時間の問題だろう。事実が白日の下に晒されるのは。


 教団の一貫性を問われる。世俗の人々はいざ知らず、愛の素晴らしさを説くルースアの信徒が、金目当てに我が身を売るなどと。


(ジンデル典仕ひとりじゃない。行儀見習いの子達は、皆彼女の真似をする。豪商の愛人になることで安易に寄付を集めている……)


 裕福な育ちの者達は、クララ達を侮蔑していた。


 腐臭がするというのである。下水の汚れは洗っても落ちない。優雅に社交界で恋を囁き、富める者から多額の喜捨を引き出す――それをできるのが選ばれた自分達だと。


 ルースアは性愛を肯定する。しかし、それを道具にして稼ぐことは違う。


「あら……?」


 消灯後にもかかわらず、潜めているとは言い難い声。


 酒の臭いがする。噎せかえるほど濃密な、飲んでいない者には不快と言える強烈さ。自分が酔い潰れたときは、それ以上だったのだろうと反省する。艶やかに咲き誇る『噂』の主は、足元をふらつかせてなどいなかった。


「何かと思ったらクレイトン典仕。あなたが帰ってきたからなのね」


 これ見よがしに袖口で顔を隠してみせる。


 失礼な態度だ。そのうえ今に始まったことではない。


「ジンデル典仕。それはどういう意味でしょうか」


「どういうも何も、そのままの意味よ?」


 亜麻色の長い髪を、挑発的に掻き上げてみせる。


「埃に塗れての便利屋稼業。臭くてかないませんわ……それよりわたくしを呼ぶときは、ミキャエラ様と言いなさいと教えなかったかしら?」


「……酔ってますね。お休みになることをお勧めしますが」


「お黙りなさい!」


 右足を床へ叩きつける。踏み抜かんばかりの剣幕にたじろぐ。


「お黙りなさい!お黙りなさい!お黙りなさい!」


 部屋それぞれから囁きと息を呑む気配が伝わってくる。この騒ぎは師父にも聞こえてしまっているだろう。


(今夜は駄目。一度仕切りなおしたほうがいい)


 そもそも甘かったのだが、何も調べないうちに不意を突かれたのは誤算だった。


「…市井の汚れがお気に障ったのですね。清めてまいりますゆえ、これにて……」


 視線が突き刺さる、見てはいないが何となく分かる。


 逃げるように――いやまさに小走りで短い廊下を通り抜け、クララは社務所と一番近い側にある自分の部屋へ逃げ込んだ。


「ちょっと、待ちなさ……!」


 暫しの間、ミキャエラは肩を怒らせながら立っていた。目元口元からも、その激しさが窺える。聞き耳を立てていた気配が顔を覗かせ、睨まれて引っ込む。


 もう一度、遠慮がちに床を踏みつけた。それから自分の部屋へ戻っていった。


「……まったく、どうしてこう………!」


 ミキャエラの部屋は、クララの部屋の隣にある。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 翌朝クララは、まだ暗いうちに社を抜け出した。


 まるで不良娘、だが仕方なかったのだ。昨夜の様子からして、今のままではミキャエラと顔を合わせれば不毛な言い合いにしかならない。状況証拠を固めるか揺るぎない事実を摑み、そのうえで何らかの決断をする必要があると考えたのである。


 噂が事実なら、ルースアの教えや愛に対する冒涜。それゆえ悔やまれるのだ。稼ぎが少なく子供達を助けられない自分は言い返す資格がないと。


 ミキャエラが来てから、社の台所事情はよくなった。子供達の食事や着るもの、寝具などは目に見えて向上し、栄養失調や病気の不安は過去のものとなりつつある。


(自分が間違っているのでは)


 さりとてミキャエラ達が正しいとも思えない。あれだけ師父を悲しませているのだから、少なくともこのままにしておいてよいはずがない。


 足は自然に『不屈の闘志』亭へ向かったが、着いてみると閉まっている。よくよく考えると明け方のこの時刻は、夜通し騒いだ馬鹿共が眠りにつく頃合い。下の酒場は看板になったばかりで、主も給仕の娘達も眠っているだろう。


 愛人というが、やっていることは潜りの売春。本業の者達はさぞ面白くないと思っているはず。事を荒立てたくないゆえ、衛視に話を聞くのは駄目。となると一番当てになるのは、何とも頼りないことに市井を蔓延る無責任な噂か。


 通称『クガイ』。リトラ島最大の歪な秩序が支配する歓楽街。


 正直、足を踏み入れるのは怖い。しかし今の時刻なら、そう危険ということもあるまい。それに大勢のヒトが暮らしているのだから、夜だけ起きていれば済むというわけでは。明るいうちに外出して用を足す住民がきっといる。


 そういうヒト達に話を聞ければ、何か分かるかもしれない――首から下げた聖印を懐に仕舞うと、速足で歩きだした。色街特有の華やかな門が開け放たれている。この時刻にはもう、働いている者がいるのだ。


 ここのしきたりとして、暗くなってから一定の時間が経つと出入りの門が閉められる。どうせ朝帰りの客が多いからだが、そのつもりなく昼間から買っていて出られなくなり、何とかしようと足搔いたうえ翌朝修羅場を迎える者が少なくないのは別の話。不便があるにもかかわらず改善しないのは無論、揉めごとを塀の外に出さないためだ。


 早朝に門を開けるのは、そういった客を少しでも早く帰して家人が目覚めないうちに寝床へ潜り込ませるため――ではなく。外の世界同様ヒトが暮らしているからと、生活必需品の配達や通いで働く者がいるから。何かと犯罪に結びつけて語られる廓も、衣食住の担い手たる堅気の者がいなければ成り立たない。


 このところ景気はどうか。出入りの業者達に訊ねてみる。


「え?最近かい?特に変わったことはないけどな」


 酒や食料を納める卸売商人の男は言った。


「物がよければ高くても買ってくれる、そんなお店があると聞いたのですけれど……」


「……見ない顔だが御同業か。そいつは多分『アンブロシア』じゃないのかな。塀の内側の話じゃないぜ」


 カマをかけてみただけなのに、いきなり答えを引き当てて驚く。それにしても耳慣れない名前だ。どこの言葉でどのような意味を持つ単語なのか。


「…『アンブロシア』?」


「旧市街に昔からある店だよ。お偉いさんや金持ちが密会するのに使うって。それがこのところ急に伸してきたんだ。廓のほうは落ちてるから伝手のない奴は大変らしいな」


 主に安物を扱う男は、どうにか収入を保てている。しかし廓向けに高級品を仕入れていた知人は大打撃だという。


「他の業界も同じなのでしょうか?たとえば着物とか調度品とか」


 あまり期待せずに訊いてみる。案の定、男はお手上げとばかりに肩を竦めた。


「さあねえ。でもまあ、特別景気がいいとは聞いてないよ……もしかしてあんた、どの商売を始めるかで迷ってるのかい?」


「そんなところです。いつまでも冒険者なんて危ないことできませんし」


 こちらも肩を竦めて返礼。銀貨を一枚摑ませる。とはいえ半分以上本音だ。楽に生計を立てられるなら、危険を冒す必要はない。


「はは。そいつはごもっともだ」


 充分な元手を活かして高級品を商い、上流階級への食い込みを狙う成功した冒険者。


 彼の目には、そのように映ったかもしれない。羨望の眼差しでクララを見つめ、一方で幸運も祈りながら去っていった。


 裏を取るため、他の人々にも訊いて回る。しかし大体似たような話が多い。


 店の名前は知らないまでも、最近クガイの客が減っているという。それもお大尽の客ばかりで、あまり儲からない客だけが残ってしまった。どこかに潜りの高級娼館ができたのではないかと、専らの噂である。


 そして当の『アンブロシア』は、その噂を否定している。紳士淑女の夜会が開かれることはありますが、お客様の秘め事に口を挟むのは野暮なことですよ、と……



 ☆★☆★☆★☆★☆



 何も成果を出せないまま、社に帰ってきてしまった。


 集まったのは噂のみ、決定的な証拠がないのである。


(踏み込むしかないのでしょうか)


 それもまた法的な根拠に欠ける。ルースアの教えに反していても、行政府は売春行為そのものを禁じていないからだ。社の立場を悪くせず、それでいて仲間の不品行を窘める方法は……


 そう簡単には、よい考えなど浮かばない。それができるなら、年長の権禰宜達が既に解決しているはずである。


「…!?邪魔だ!どけよっ」


「きゃ!?」


 男の子にぶつかり、思わず悲鳴をあげる。少年はクララを睨みつけもせず、もうひとりの小柄な影と走り去っていった。どこかで見た覚えがある。微かに覚えはあるのだが、あれはいつどこのことだったか……?


「クレイトン典仕、その子を捕まえてくださいな!」


 息を切らせて現れたのはミキャエラだった。


「え……?」


「え、じゃありません!ジュードが逃げたんですのよ!」


 ジュードとは誰だろう。会話の文脈から先程の少年のことと想像はつくが、何故ミキャエラはクララが知っていると思ったのか。


「…もう、いいですわっ!」


 話が繋がらないクララに見切りをつけ、ミキャエラもヒト混みの中に走り去った。後から来た職員達も、未だ状況が呑み込めない同僚を邪険に押し退けてゆく。


 もう少年達の姿は見えない。正午を過ぎ、ますますヒト出が多くなる。


 あの子らはジェフとマルクなのだろうか?置いてゆかれた寂しさを感じつつ、これから外への扉を開いてもらう引っ込み思案な子がいるのかもしれない。


 捜せなかった。さりとて今、社に帰る気も失せていた。


 足は自然と憶えているほうへ向く。


 滴が落ちてきた。海が近いこともあり、この島ではよく降る。瞬く間に豪雨となり、道行く人々は仮初めの宿を見つけて休む。


 なかなか止まなかったが、クララは歩き続ける。やや弱まりこそしたものの、濡れるのも構わずといった態は珍しい。それもぼんやり歩いているのだ。奇異の視線を浴びせる者、自殺でもするのではないかと心配そうに見つめる者。


 辿り着いたのは、ジェフとマルクが塒にしていた橋の下だった。外の用事を言いつけられれば必ずここへ来て、時々帰りが遅くなっては大人達に叱られた。


 今はもう、誰もいない。こんな場所へ来るなと怒ってくれた二人も。


 水捌けは悪かったが、雨宿りには丁度よい。無鉄砲な浮浪児もそれなりに頭を使うらしく、砂利が敷かれてあった。丸いものを選んでおり、尻が痛くなるということもない。


(二度目にここへ来たときパンと果物を持ってきて……ジェフに絶交されたんだっけ。あのときは泣いたなぁ)


 結局、マルクが執り成してくれて元どおりになった。俺達は自立したんだ、乞食になったんじゃない――どのような手段で生計を立てていたのか、世の裏表を知った今では想像に難くないけれど。


 金は大切だ。しかし、単なる施しでは子供の心を傷つけてしまう。


 クララの場合、ルースアの教えが身体に馴染んだ。だが、そうではない子供達も少なくない。いや、むしろ馴染まないほうが多いだろう。親に捨てられ、親を亡くし、親から逃げてきた子供達が得体の知れぬ『神』とやらの愛を信じられるだろうか?最初はクララも、ルースアではなく師父の人柄と言葉を信じたのである。


 頭のよいマルクは、師父の言葉を理解はできただろう。それでも聡明な少年は、見ず知らずの大人より兄弟分を選んだ。


 そしてジェフの自尊心は傷ついた。冒険者などという不埒な稼業にマルクを引き入れ、遠ざけたはずのクララも巻き込み。結局死んでしまった。さぞ無念だったろうと想像するが、最後に一番護りたいものだけは護れたと安堵して逝ったに違いない。


 何か大切なことが分かりかけている。何か大切なことが……だがこの場所は、クララにとって考えごとをするには思い出が深過ぎた。


 声を潜めて泣く。雨の音に隠れ、今はそのようなこと気にせずともよいのに。


 あのときより落ち着いている。しかし、まだ半月と経っていないのだ。


「姉ちゃん、どっか痛いのか?」


 薄暗がりに誰かいた。すぐ判る、ミキャエラ達が追いかけていた少年らしい。


「あ、いえ。その……」


「じゃあ寒いのか?大人も家出するんだな」


 鼻で笑いながら火を熾そうとする。大人びた口調と対照的に、手際は悪い。使う道具がよくないからだが、それにしても。最近使い方を覚えたクララでさえ目に余る。


「……こうするのよ」


 自分の道具を取り出した。鉄と黒曜石が火花を生み、湿気た木屑に燃え移る。本当は少しズルをしたことに、少年は気づかない。


「凄ぇな。姉ちゃん、もしかして冒険者か?」


 松ぼっくりの欠片を混ぜたのだ。あれは油を含み、入れれば格段に燃えやすくなる。とはいえ火の粉は上手に飛ばせたし、運や知識も実力のうち。技術がなくとも結果を出せるなら、冒険者としては合格だろう。


 自分が突き飛ばした相手ということは言わずもがな。


「ひとり?」


「いんや。相棒とはぐれちまってさ。普通の大人はこんな場所来ねぇから、ここで落ち合うことにしてんのよ」


 口ぶりからすると、社を抜け出したのは一度や二度のことではないらしい。


「今日の昼飯は豪華だったからな。昨夜やるつもりだったのを延期したんだ。夜まで待ちきれなかったけど無事逃げ切れたから別にいいだろ?」


 餞別みたいなもんだな、と笑う。住む家も、恐らく仕事も金もないのに。当て所ない未来を目の前にして、ジェフとマルクもこのように笑っていたのか。


「これから、どうするのです?」


 率直に訊いてみた。ジュードといったか、少年はまた事もなげに笑う。


「そうだなぁ。まずは遣いっ走りか何かだよな……まだ装備も腕もねえし。俺達、冒険者になりてえんだ」


 ずきり、と胸の奥が痛む。やはり、という気持ちと何故、という怒り。どうして男の子は、ただ傍にいてほしいという幼馴染みの願いを無碍にするのか。


「冒険者になれば一日で大金が稼げるって。噂くらい知ってんだろ?『氷』のエリクに『混沌の魔女』ヒルダ。『聖職者』レオリオは……あんま手本にしたくねえけど」


 現在の執政官と評議員の名前だ。仲間を解散した後も活躍を続け、強大な権力を手にしているという。ヒルダは今なお現役。レオリオについては若干よくない噂もある。


 二つ名の『聖職者』という言葉がそれだ。この単語を読むときは日常使われるツォン語やエレン語ではなく、あえて廃れた古代ニケア語を使う。


 色好みが過ぎるセラ教団の宮司――ゆえに『聖職者』であり『生殖者』。自由奔放なレオリオの言動に振り回されて割を喰った者は、深い怨念を込めて彼のことをそう呼ぶ。


 捉え方によっては、ルースア教徒の鑑のような男だ。本能のみに従うのではなく、たとえ一時の迷いでもそこに愛があればだが。


 ジュードを連れ帰らなくては。しかし今のクララは我が身ひとつ養うのがやっと。片や子供達に一度でも『豪華な』食事を与えたミキャエラ。


 自分は彼女に劣るのではないか。束縛する資格などあるのだろうか……?


「だからさあ、俺達を店に紹介してくれないかな?一生懸命働くよ。同じ下働きでも、冒険者の店に出入りしてたほうが有利だろ。そういや姉ちゃん何ていうんだ?俺は」


「止んだみたいですね」


 そそくさと立ち上がる。座っていた場所には、木屑の対価として銅貨を一枚。


「ありがとうございました。それでは失礼します」


 雨上がりの空は、夜更けの星を浮かべていた。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「いいですか、クレイトン典仕」


 社に戻ったクララを待っていたのは、意見という名目の同僚達による吊るし上げだった。


「子供達の面倒も見ないで遊興三昧、昨夜も朝帰りだそうじゃないですか」


「冒険者とかいう無頼な連中と関わるなんて。社の面汚し、いいえ穢れを招く災いですわ」


「少しはわたくし達を見習って、仕事をしたらいかがですの?ねえミキャエラ様?」


 帰るや否や捕まると、寄宿舎の使われていない一室へ連行された。正面にミキャエラ、侮蔑の視線を投げつけてくる取り巻きの女達。


 逃げ出した子供は二人だった。一人はクララが屋根を借りた橋の下の少年。もう一人は彼の相棒と思われる、名はユナという十一歳の少女。それを聞いて少し驚く。また降り出した暗闇の中、ジュードとユナは会えたのだろうか。


 滝のような雨を浴びたクララは、帰るまでに半時を過ぎても濡れ鼠だった。


 かなり寒い。無事に駆け込めた少年はともかく、種火のような燃えさしでは充分温まることができなかったのである。日頃からクララを見ている者には明らかだったが、事の成り行きを見守っていた令嬢は、なおのこと顔色が冴えなかった。


「ミキャエラ様?」


「…これに懲りたら、行いを改めてくださいまし」


 居心地悪そうに咳払いすると、足早に自室へ戻ってしまった。長いものに巻かれてきた娘達も、今度ばかりは首を傾げる。


「どうなさったんですの?」


「さあ……お身体の具合でも悪いのかしら」


 興を削がれたのだろう、密室裁判はお開きになった。


(あの態度はおかしい。後で確かめないと)


 それにしても今日は疲れた。夜明けから色街を歩き回り、昼過ぎには富裕層の歪な社交場を特定するも無駄足。雨に激しく打たれて帰ると、有無を言わさず取り囲まれた。この時刻は湯も出ないが、せめて身体を拭ってから眠りたい。


 また部屋を出るのは気が滅入る。が、このまま寝ては風邪を引く。覚悟を決めて廊下へ出ようとしたとき、控えめに扉を叩くものがあった。


(…誰?こんな時間に)


 権禰宜の誰かなのか。クララが帰ったときの異様な空気は、年配の人々も感じただろう。それで事情を聴きに来たか、悪くすると同じように問い詰められるか。


 寝たふりしてしまおう――さすがに面倒臭くなって、半乾きのまま寝台に倒れ込んだ。着替えくらいはすべきなのだが、下手に音を立てて厄介事を増やしたくない。


「眠って……しまわれましたの?」


(………!?)


 明らかに誰のものか分かる声を聞いて、クララは息を止めた。


 ミキャエラだ。彼女にしては儚い、思わず心細くなってしまう響きだが。


 どういうことなのだろう?何か困っているのか。もしそうなら話だけでも聞かねばなるまい。行儀見習いの彼女と、幼い頃から信仰を重ねてきた自分は違うのである。


「まだ、起きています。お入りください」


 微妙に長い間があった。床に物を置くような気配がして、それから居室の扉が開く。顔を覗かせたのは、やはりミキャエラだった。他の娘達もいるのではと廊下の闇に目を凝らしたがいない。扉あるいは壁に隠れ、先程音を立てた何かは見えなかった。


「何か御用でも……?」


「い、いえ。用、というのではないのですが……」


 慌てている。考えた傍から言葉が蒸発する、そんな風情だ。


 やはりおかしい。いつもの高慢さがないのである。噎せかえるような酒の臭いも。ずっと逃げ出した男の子達を捜していたなら当然だが。そういえば着ているものも、豪奢なフリルではなく社付きの神職達が使う藍染だ。


 緊張しながら頷くと、拾い上げたやかんを胸の前に掲げてみせる。


「…お身体が、冷えているのではないかと……残り湯を、お持ちしました」


「え?」


 わざわざ運んできてくれたらしい。この社では、食後にそれぞれの部屋へ配られる湯で身を清める。余った分も捨てるのは勿体ない、翌朝まで沸かした鉄鍋に貯め置かれる。浴槽などという贅沢なものはないため、残り湯といっても清潔だった。


「……ありがとう、ございます。ちょうど取りにゆこうと思っていたところでした」


「か、風邪を引きますものね?わたくしも、先程帰ってきたばかりで」


「え?」


 また聞き捨てならないことを言う。ミキャエラは今まで少年と少女を捜していたのだ。雨宿りに入って偶然少年を見つけたクララと違い、あの激しい豪雨の中を。


「…御心配をおかけしてはいけないと思い知りました。わたくしが倒れてしまっては、助けられる子も助けられませんもの」


 それで先程の様子に納得がいった。要するにミキャエラも、同じ理由で叱られたのだ。病を圧して現れた宮司に。真相は異なるのだが、確かに居心地が悪かろう。


「意外と似た者同士なのかもしれませんわね、わたくし達」


「え?」


 どうも今夜は驚いてばかりだ。資産家の令嬢と天涯孤独な自分が似ているとは思わないが、驚かされたのは全てミキャエラに関すること。路地裏育ちの卑屈さが、目を曇らせているという惧れはないか……?


「だって、あのような雨の中を……見ず知らずの子供のために。わたくしも他人のことは言えませんけれど、あなたも大概な大馬鹿ですわ」


 やかんから小さな桶に移すと、仄かな湯気が立つ。水で埋めるまでもないようだ――躊躇せず手拭いを入れて絞る。切れ長の視線がクララに訴えかけた。そこまで世話になるつもりはない。横目で様子を窺いつつ、あえて無視を決め込む。


 だがクララは失念していた。何かと驚かされる今宵の星巡りを。思わぬ力で襟首や袖を摑まれ、ぐいぐい引っ張られたのである。荒事は冒険者にとって飯の種だ。しかし全員が得意なわけではなく、クララの腕力は一般の女性と比べても弱い。


「……早く、拭かないと……風邪を、引きますわよ……!?」


「そうですね。その手を放してくれれば、自分でっ、やりますから……!」


「…まあまあ。そんな水臭いこと仰らずに……!」


「いえいえ。私ごときのため、にっ。高貴なミキャエラ様の……お手を、煩わ、せる、わけには……!」


 攻防一分。結局、目力に負けた。


(これもお金、栄養の差……?)


 抵抗空しく身包み剝がれ、妙な感慨を抱いてしまう。だが明らかな誤りだ。その理屈でゆけば、富豪は誰より強くなる。見かけによらずミキャエラは鍛えているのかもしれない。装束一式を後ろ手に隠すと、資産家の令嬢はぴしりと指を突きつけて宣告した。


「さて。せっかくお世話させていただくのですもの。ここから先は、何があろうと絶対服従してくださいまし」


 胡乱なことを言い出した。穏やかならぬ言い回しだが、一方で何をするつもりかと思う。この状況で可能な嫌がらせなど擽るぐらいが関の山。


「……まさか」


「違いますっ!」


 微かに身を捩ったクララ。蒼褪めているのは……きっと寒さのせいだろう。思わず大声で否定、慌てて口を押さえるミキャエラ。年長の権禰宜達すら休んでいる時刻だ。


 ルースアの教義上は問題ない。認められた愛の形を実践するだけのことである。


「……と、とにかく。あなたも大人なのですから、少しは手入れくらいしなさいな。愛を摑むために努力するのは、悪いことではないのでしょう?わたくし自ら、そのやり方を教えて差し上げようと言っているのです」


「……………」


 愛を摑むために。ミキャエラが何気なく使った言葉は、実感を伴わなかった。クララにとって、愛とは幼馴染み二人の形をしていた。


 自分が自分であるというだけで愛してくれる。自分もその愛に応える。返した愛を受け止め、更なる愛を重ねてくれる……


 違う自分になる努力?化粧のひとつもしてみろと、二人のどちらかが冗談を口にしたら変わったのだろうが。


 本当に必要なことは、社付きの神職がみてくれた。クララと同じように拾われ、また同じように面倒をみられ、自分の後から来た少女に恩を返そうとする優しい姉達。


 いずれクララも、そのようになるのだろう。だが今は、稼がねばならない。ゆえに冒険者として、危険を顧みず働いている。


 ふっと、甘やかな笑みがこぼれた。


「な、何ですの?いきなり」


「いいえ。少し、子供の頃のことを思い出して」


 冷めた手拭いを、もう一度湯に浸す。


「……そういえばあなたは、この社で育てられたのでしたね」


「不幸せではなかったのだと思います。あの頃は分かりませんでしたけれど」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 子供達を連れ戻したいと思った焦り。その後悔を言葉にして謝ることはできなかった。


 反省はよいが、敗北は淑女の名折れ。ゆえにクララの背中や腕を甲斐甲斐しく拭きながら、これまでの自分とこれからのことを語っている。


 ミキャエラは裕福な両親の元に生まれた。大陸を逃れたのではなく、西の自治都市連合から商機を見込んで大量の物資と共に。ミキャエラの父は、冒険商人だったのである。そして群雄割拠の大陸を追われた貴族の娘と知り合い結婚。商会長である祖父の反対を押し切り、そのままリトラに定住した。


「…もっとも今では、ちゃんと許しを得ておりますのよ?こちらのお店もジンデル商会リトラ支店として、新たな商圏を開拓した父の名は商会中に鳴り響いております」


 長々話した後で、気まずそうにクララの様子を窺う。今は着物を調えなおし、髪に櫛を入れられている。後ろからでは表情が分からない。


「……わたくしったら。つい……」


 自慢癖がついていた。事実であり、通常ならば問題はない。ただ……両親の顔も知らない相手に話すことではないと思ったのである。


 ミキャエラの悔悟と裏腹に、クララの声は明るかった。


「そのお祖父様は、家族と商会が本当に大切なのですね……だとしたらミキャエラ様も、いつか大陸に戻られるのですか?」


「え?…いいえ。わたくしにとっては、この島が故郷です。祖父が何を考えているのかは存じませんが、自分の相手くらい自分で決めますわ」


 胸を張って言い切り、だがすぐ唇を噛む。その仕種もクララには見えない。


「…社交界へ出ておりますのも、その関係がないわけではありませんの。皆さん早くお相手を見つけて……ここを出たいと。考えている、ようですし」


 つまりは、社の質素な暮らしに嫌気が差したのだ。


 分からなくはない。ジェフとマルクはそれで逃げ出したのだし、冒険者を始めた最初の頃、順風満帆だったときはクララも二度と戻るまいと思っていた。部外者の立場で寄進を続け、自分は成功者として優雅に暮らそうと。


 ミキャエラの言葉には、迷いが感じられた。いずれ結婚して社を出る、そうしたいことに変わりはない。一族や実家の商会も大切だ。優秀な伴侶を見つけるつもり。


 だが、それは今なのか。クララには彼女が急いでいないように――むしろ別の目的を果たす前に見つけてしまうことを恐れていると思えたのである。


「あなたは、どうなのです?ジンデル典仕。あまり真剣に探しているようには見えませんが」


「そうですわねぇ。だってわたくし、殿方にモテますもの。とはいえそれも今だけですし?なるべく気を持たせて愉しみませんと♪」


 ヘアブラシを持つ手が震えたのを、クララは見逃さなかった。髪を引っ張る痛みに顔を顰めながら、あえて素気なく言い放つ。


「遊びも結構ですが……愛を弄ぶのは、褒められることではありませんね……」


 今度は動揺を隠せなかった。紫檀の台底が板張りの床に落ちて響く。


「……ルースアの教えに反すると言われれば、そのとおりかもしれません。ならば、どうしたらよいのです?一言一句従って、愛に飢えた子羊達を見捨てろと?」


 子羊が何を意味するか。ミキャエラの罪は罪。クララの罪もまた罪である。


「…申し訳ありません。また言い過ぎてしまいました」


「いえ……」


 だが、ではどうしたらよい?


 禁忌を犯して進む罪。禁忌を畏れて何もしない罪。


 どちらも罪だ。功が罪を消してくれるとは思わない。しかし。


 柔らかい毛の感触が、再びクララの頭を撫でる。


「…まあ、あなたも素材は悪くないのですから。行儀作法を学んで社交界に出れば、わたくし達のように多額の寄付を集められるはずですわ」


 堰を切ったように話しはじめる。


 どうせバレたと思ったか。己が行いの拙さを自覚しているのだろう。違法ではなくともルースアの神職として。ジンデル商会の跡を継ぐべき令嬢として。さりながら一分の理があることを誰かに分かっておいてほしくて。


 要約すれば、概ね次のような話になる。


 ミキャエラを『選ぶ』のは、いつも同じ男。歳の割に隙がない身のこなしを思うに、商人ではなく落ち延びた騎士の類ではないかという。仮面舞踏会を主宰しているのも彼であり、身も蓋もない話だが一番金回りがよさそうだったから、と。


(この島に勤勉と貪欲の神ファリオの信徒は少ない。住民の大半はセラ教とルースア教を信仰する大陸南部の出身。戦乱を嫌って移り住んだ没落貴族か……それとも)


 答えは限られていた。先へ進むなら、慎重に事を運ばねばなるまい。


 髪に櫛を入れたクララは、それだけでいつもと違って見えた。貧しさが抜け、その代わり不思議な輝きに満ちていたのである。しばらく鏡の自分を見つめていたクララは――初め小さく、次は何かを思い定めて大きく。二度、確かに頷いた。


「……分かりました」


「しかし、その気がないものを無理強いするつもりは……何ですって?」


 目を丸くして固まった。鏡のクララが頭を垂れる。本当に予想外だったのだろう、いつもの自分らしからぬ態度を気にする余裕さえない。


 クララが振り向いて微笑む。ようやく理解が追いついてきた。安堵や嬉しさはある。しかし戸惑いを打ち負かすには至らなかった。


「え、あ。そ、そうですの」


「はい。私も舞踏会に出てみます。是非ミキャエラ様の御指導を賜りたいと」


 この言葉から十日後。即席の令嬢修業に勤しんだクララは、冒頭の激しい後悔に囚われることとなったのである。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「さあさ、どうぞこちらへ。紳士様方に御挨拶いたしましょう♪」


「ミキャエラ様あまり引っ張らないで……」


「ここでは『カトレア』です。早くしないと目ぼしい殿方に唾をつけられてしまいますわよっ?」


 あまりに呑気な――やる気がないとも言える――クララの態度を、ミキャエラは語気鋭く叱りつけた。獲物を狙う猛禽の眼差しに思わず首を竦める。


「いや、そんな。唾をつける、って……」


「あの子達を御覧なさいな」


 ミキャエラの指し示す先には、一緒に来た花嫁修業の令嬢達。既にあたりをつけ、今夜の相手に狙いを定めている。


「出遅れないことは、身を護るうえでも大切ですの」


「…身を護る?」


 鸚鵡返しに訊き返した。


「ええ。あなたのように大人しい方なら宜しいのですけれど……なかには、そうでない方もいらっしゃいますから」


 要するに嫌われ者ということか。


「なるほど……」


 呑気に頷くクララ。それを見たミキャエラは呆れた様子で、しかし内側から湧いてくる温かい何かを堪えているような顔つきになる。先程とは打って変わり、クララの右手を取って優しくエスコートする。


「皆様に御紹介いたしますわ。一見は本来お断りなのですけれど、わたくしに招かれたとあれば問題ありません。堂々としていなさいな」


「……は、はぁ」


「返事は『ええ』。品よく、でも曖昧に。くれぐれも言質を与えないこと」


「………ええ」


 会う前から疲れてしまった。行儀作法や話題の選び方、受け答えひとつまで。どれを取っても窮屈なことが多すぎる。結婚相手を探している娘もいると聞くが。


(そんなに社の生活が嫌なのかしら)


 そう思うと悲しくなった。一時離れたとはいえ、クララにとっては家である。楽しくはないし苦労もあるが、そこにいてよいという慣れのようなものがあった。


「……ましたの。それで愛をお探しに……」


「……わけですな。今宵はもう相手を……」


 会話が遠く聞こえる。紳士の色めき立った視線と、その連れ――行儀見習いのニコル典仕が睨んでいるのは分かった。疚しいところがあるか、横取りを警戒しているか。あるいはその両方だろう。そうでなければ……案外ミキャエラは疎まれているのかもしれない。


 ここ数日で認識を改めたが、ミキャエラはかなり面倒見がよかった。厳しく躾けられてはいても、元より作法とは無縁のクララを飽きずに構った。立ち居振る舞いからテーブルマナー、言葉遣いや暗黙の了解まで。付け焼刃の即席令嬢にもかかわらず、前日にはどこへ出しても恥ずかしくないと持ち上げてくれた。基本的にヒトが好いのである。


 そして努力家だ。箔付けの花嫁修業を自己実現の場に変えてしまう。誰かに手を引かれながら生きてきたクララにはできなかったこと。使命感が強すぎるあまり、おかしなことになりかけてはいるが……


(護らないと。彼女も、彼女と志を共にする子達も)


 絶対だ。もう後戻りできなくなる前に。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「…やあ。また来てくれたんだな。『我が君』」


 呼ばれて振り返ると、背の高い男が立っていた。


 歳は三十過ぎ。濃く髭を生やし、壮年の風格を漂わせている。意外に頑健そうで、だが視線は若い。自分が手に入れるべき何かを見つけていないとでも言わんばかり。


 この会の主催者らしいが、いかなる望みを秘めてのことか。人脈作り?金儲け?あるいはただ遊んでいるだけ?回りくどい言動を好む胸の裡は誰にも判らない。


「これは『主催者』様……ええ。退屈の虫が昂じて、また参加させていただきましたとも」


 艶然と微笑み返すミキャエラ。このあたりはさすが、弱冠十八歳といえども令嬢だ。父は自治都市連合に名だたる富豪、母は元大陸貴族。品格において後れは取らなかった。


 だが、ここまでは前哨戦。本番は今から始まるのだ。この世界における絶対の法――日々入れ替わる序列を定め、その力関係に基づき様々なものを奪い合う戦。多くの場合、それは名誉である。貴族は評判、実業家は信用。一度失えば回復は容易ではない。


(……やっぱり来るんじゃなかった)


 路地裏の孤児が頭を抱える。この戦、口火を切ったのは『主催者』のほうだった。


「…時に『我が君』よ。こちらの見目麗しい姫君はどなたかな?」


 先手を打たれたミキャエラが笑う。クララを連れてくると決まった時点で、この返しは予想していた。よい客を招くのは上客の証。優位に立てるというもの。


「ここでは素性を明かさない習わし。そうお決めになったのは、あなたのはず。いずれの王族……たとえ女神様でも」


 男が驚いたように見えた。しかし、それもほんの一瞬のこと。


「……神様か。そいつは凄い」


「えぇ。もしかしたら、そうかもしれませんわね?…ですから、おかしなことはお考えになりませんよう。素敵な伴侶を見つける前に、大地へ召されたくはないでしょう?」


「…『カトレア』?何を……っ!」


 見えないところで抓られた。黙っていろというのだろう。眉ひとつ動かさないのが怖すぎる。扇を口元に翳しつつ、目だけで獰猛な笑みを浮かべた。


「分を弁えなさいな『主催者』。あなたごとき凡才の相手、わたくしがいれば充分でしょう……?」


 肩の力を抜くと、男も仰々しく騎士の礼を模した。


「それもそうだな。『我が君』……今宵の相手は、どうやら君しかいないようだ」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 ミキャエラが去ると、クララはひとりになった。圧倒されて気づかなかったが、何組か姿を消している。これは始まったとみるべきだろう。


 ニコル典仕もいなくなった一人だ。あの苛烈な睨みつけよう、余程邪魔されたくなかったに違いない。


 未だ立食を続ける『プラム』ことスアレス典仕――今夜は気分が乗らなかったのだろう、歳下の優男を連れ回している――を目聡く見つけ、耳元で囁く。


「…ニコルさんは?」


「え?…あぁ『ウォーターリリィ』。結局あんた売れ残ったのね。あれだけ『カトレア』が後押ししてくれたのに……って、直接名前出したら駄目じゃない」


 澄ました態度はどこへやら、切り分けさせた山盛りのケーキをもぐもぐ。田舎の下働きも斯くやという健啖ぶりである。普通の紳士なら興醒めするところ、この素朴な青年は満更でもないらしい。


「急を要しましたので。あの子はどこへ?」


 ここでは『オレンジ』と名乗っている。が、どうせ部外者には顔と名前が一致しない。あえて、もう一度訊く。すると諦めた様子で青年から水を受け取り、口の中のものを押し流す。それから手にしたフォークを行儀悪く掲げ、薄暗い吹き抜けの向こうへ突きつけた。


「あっち。シケコミ用の部屋があるから。変わった趣味の子じゃなければね」


 再び大口を開けてあーむ、とケーキを頬張る。青年がハンカチを取り出して彼女の口周りを拭く。一瞬驚いて見つめ返し――ありがと、と礼を言った。


「ちなみにどの部屋が……」


「覗いてみるしかないんじゃないかな?」


 身も蓋もない答え。夜会中にニコルが外すのは、これが初めてだという。ここはスアレスの言うとおりにするしか。


 片手を挙げて急ぐ。しかしふと思い立ち、足を止めて振り返る。


「…あなた方、意外にお似合いかもしれませんよ?」


「ぐぶっっっ!」


「あら。御免あそばせ」


「…クララのくせに……何となく貧乏臭い残念美人のくせに……!」


「そっくりお返ししますわ。やたら成金臭い健康的なお転婆さん」


「このっ……奈落に堕ちろ……×××狂いして死ねっ……!」


 噎せる罵声に背中を向け、赤絨毯の上を駆けていった。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 二階へ上がると、華やいだ雰囲気が嘘のように消えた。


 薄暗く肌寒い。理由は異なるだろうが、クララの慣れ親しんだ空気である。


(ニコルさんの部屋は……?)


 消えた社のニンゲンは五人。ミキャエラと、ニコルと、他三名。ニコル以外はミキャエラ本人と彼女に従う者達だ。身寄りがない子供達を養うため、教えに背くことをしていると考えて間違いない。


 最も心配であり、分からないのが小さなニコルだ。十五歳になるが、小柄で幼い雰囲気のためそう呼ばれている。親愛の情と理解しつつも、当人は複雑な気持ちらしい。


 スアレスの見立てによると、ニコルは真面目に結婚相手を探しているという。そう考えると先程紹介された男は何なのか。ミキャエラやクララにまで怪しげな視線を浴びせ、品定めするような態度を取る……


 認識に齟齬があるのではないか。思惑がずれている?相手に望むことが違う――思考が言語化された刹那、それは現実へと変貌した。


 居並ぶ扉のひとつが開け放たれ、ニコルが飛び出してくる。無意識にヒトの多いほうへ、広間へ下りる階段を目指して走る。だがエレン式の夜会服は、そのような動きをするためには作られていない。続いて頬を押さえながら出てきた男に追いつかれてしまう。


 捕まる寸前にクララが割り込み、ニコルを自分の背中に庇った。男は狼狽しつつ、それでも努めて冷静に取り繕おうとする。


「な、何だね君は。他人の恋路を邪魔しないでもらいたいな」


「逃げた仔鹿は諦めるもの。無粋ですよ」


 相手はあの目つきが怪しい男だった。経緯はともかく、やはり二人の間には大きな隔たりがあったのだ。


「『ウォーターリリィ』。私……!」


「大丈夫。怖かったですね」


 縋りつく小さな手を握り返す。


「…『ウォーターリリィ』……っ!」


 ドレスの裾を膝丈まで捲り、きつく縛る。格闘は苦手だが、これで邪魔にならない。森での苦い経験を踏まえ、エアに申し訳程度の護身術も習った。お互い貴族ならば手袋のひとつも投げつけるところ。


 男の仮名は『オオカミ』。由来は不明だったが、本能のまま食い散らかす獣というなら似合わなくもない。


「はっ。随分と可愛らしい騎士様だ。私に構われたいのなら順番を待ちたまえ……そうだな、翌々月は空いているが?…くっ、ふっはは」


「……………」


 言葉も出ない。低俗さに呆れて。思い込みも甚だしく。捕まえた小鳥が逃げ出したばかりなのに、どうしたらこのような勘違いができるのだろう?


 広間へ行かせればニコルは安全だ。しかし……ここへ来た目的を果たすには、殴り倒してでも先へ進まなければならない。


「偉大なる母。優しき姉。無垢なる妹。永遠の恋人。尊き御身の名はルースア……」


「神頼みだと?」


 馬鹿にして嗤う。


「罰当たりな。この私が、慈悲深くも、未だ愛を知らぬ小娘に手解きしてやろうというのだぞ?ありがたいと思いたまえ」


 仮面舞踏会に際しての仮名は、全てミキャエラが考えたもの。


 『カトレア』の花言葉は『優美な貴婦人』。事実そう思うし、彼女自身の目標が込められているのだろう。


 ニコルの『オレンジ』は『結婚式の祝宴』。一際真剣に婚約者を探す後輩の幸せを願ってのこと。本人の可愛らしい印象もあり似合っている。


 スアレスの『プラム』は『誤解』。あのとおりの性格ゆえ初めは誤解していたとか、誤解されやすい立場を思いやってのことか。


 そしてクララの『ウォーターリリィ』は『信仰』。


 今なお未熟ながら、社を離れると決めたとき幾つか奇蹟を授けられている。教え子の息災を願った養父からの贈り物。これは、その際に覚えた最も攻撃的なひとつ。


 ニコルの手を払い、『オオカミ』目掛けて跳びかかった。


「……敵を遠ざけて!我をお護りください!」


 衝撃が走る。石造りの床が割れ、天井に木霊した。


 術者を中心に等しく周囲を吹き飛ばす奇蹟。狙い撃つことはできないが、放たれた瞬間クララとニコルは離れていた。その分だけ威力が弱まり、逆に向かっていった方角へ及ぼす影響は強くなる。


「…のぁ……ッ!?」


 実戦で使ったのは初めて。バルザと相対したときは遠すぎた。憎しみのあまり刺し殺す手応えを望んだこともある。様々な意味で、今とあのときのクララは違う。


 不意討ちは上手くいった。朦朧とした譫言が聞こえる。


 だが次の手はない。このまま意識を失ってくれれば。


「…う……?」


「ニコルさん。大丈夫ですか」


 外傷はない。少しふらついているだけだ。これなら問題なかろう。


「一人で歩けますか?階段を下りてスアレス典仕のところへ」


「……んん……」


 言葉にならない呻きと共にしがみついてくる。首を横に振りたいのだろうか。さりとて他の同僚達のことも気になる。


「お……ね、がい」


 大きく息を吸って吐く。やむを得ず、肩を貸して一緒に下りることにした。よもや、その判断が危険を招くとは思わない。


「伏せて!二人とも」


 ニコルに先立って一段目に足を降ろそうとしたとき。知っている声がして、反射的に従った。俯せに身体を低くし、その勢いでニコルを抱き寄せる――それで視界が開け、後ろに迫っていたものを認識した。前後不覚の『オオカミ』が、二人を階段から突き落とそうとしていたのである。殺意に彩られた必死の形相で。


 攻撃を避けられた男は慌てた。そこへ追い撃ちとばかりナイフとフォークが突き刺さる。肩や腕ゆえ致命傷ではない。が、別の意味では決定的だったようだ。


「うぉ、があぁぁぁぁぁっ!」


 痛みで両腕を振り回し、体勢が崩れる。ニコルを抱き締めたままのクララは、直感的に横へ転がった。少しばかり痛いが、段差が緩くて幸いした。一瞬前まで二人がいた場所をタキシードが過ぎてゆく。その先に人影があることは、仰向けに見下ろす姿勢となってようやく気づいた。慌てて避ける蒼いフレアスカートの所作は、芝居がかって嘘臭い。


「…スアレス典仕……?」


「『プラム』だって。二人とも怪我はなかった?」


 幾つ隠し持っているのだろう、右手の指先でテーブルナイフをくるくる回す。ぴたりと止めて後ろへ放り投げると、悪戯っぽく片目を瞑った。


「…ま、一応の嗜みとしてね。それより、あんたは急ぐんじゃないの?」


 階下の広間では、何事かとざわつきはじめている。場を抜け出してよろしくしようとしていた紳士の一人が転がり落ちてきたのだから当然だ。反射的に姿勢を落とし、スアレスも階段の手擦りに身を隠す。


「後は任せても?」


「うん。くれぐれも『カトレア』のことをよろしく」


「…………?」


 自分が遊ぶのに便利だからと、事実を知りながら見過ごしていたのではないのか。何にせよ、今は詮索している時間がない。


(もしかして、これが誤解……?)


 振り返って下を見る。歳下の少女を支えて立ちあがろうとする姿は、どの神聖画より尊く美しいものに思えた。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 階段の赤絨毯を這って再び二階へ。


 他の三人は後だ。『主催者』を押さえれば全貌が摑めるはず。


 物音を聞きつけ、幾つかの部屋から出てきた男女がいる。着崩れてはいないが、何をしていたのかと思うとクララは顔が熱くなった。


「…き、君。何かあったのかね……?」


「喧嘩です。『主催者』様のいらっしゃる場所を御存じですか?」


 他人事のように言い、二人のよく使う部屋があれば聞き出そうとする。報告と指示を求めにゆくのだろうと勝手に判断した紳士は、間口が広い両開きの扉を教えてくれた。


「あれだよ。特別な客だから、店の側も特別な部屋を用意してるんだ。もっとも、こんな会を取り纏めなくたって、彼は特別なんだけどねえ……」


 三分の一を聞いたあたりでスカートの裾を抓み優雅に会釈し、その場を立ち去る。騒ぎを大きくしないよう、傍目はのんびりと。だが心臓は早鐘を打って。


 部屋の前まで来た。扉に手をかけようとして――思いとどまる。そっと手の甲を当てたが、すぐに下ろす。ノックをしようか悩んだのだ。目を瞑って大きく息を吸い込み、少し吐く。決然と瞼を上げた。


(考えても無駄。今は、行動しないと)


 できるだけ静かに、そっと押し開ける。


 鍵は掛かっていなかった。後ろめたいことをしているという自覚がないのかもしれない。ミキャエラはともかく『主催者』のほうには。暗くて半ば手探り状態。このような場所に二人が?騙されたのではないかと思えてくる。


 少しずつ目が慣れてきた。予想以上に広く、そして思ったような配置ではない。中央に向かい合うソファ、壁際の調度品や絵画、彫刻の類。一番奥まった窓際にあるのは、丈夫そうな木材で造られた大きな執務机……?


 そこにヒト影がある。視線を止めると、それは軽く笑ったように感じた。


「勘のいいお嬢さんだな。いや……女神様であらせられたか?」


 音を立ててカーテンを引く。月影が差し込み、部屋の全貌を明らかにした。最初の印象は間違っていない。ここは誰かの書斎だ。しかし生活感はなく、特別な来客を迎えるときだけ使う部屋といったところか。


「不遜なことを。女神様は、軽率な火遊びなど好まれません」


「ほほう。ならば君は、何故この場にいるのかな……?」


 執務机の向こう、ヒトが腰掛ける足元にミキャエラは隠れていた。


「く、クララ様?どうして」


 驚いたような、少し怯えるような表情で見つめ――息を呑み、胸元の首飾りを隠す。それが出かけたときとは違っていることを、クララは見逃さなかった。


「ミキャエラ。黙っていて」


「う……」


 彼女の性格からして、何かを成し遂げるのに実家の助力を請うたりはすまい。そのようなことをするなら、最初から社への寄付を頼めばよいのだ。


 他の令嬢達が遊ぶため、結婚相手を探すため親の財を頼って着飾ったのとは違い。ミキャエラが身につけているのは、恐らく全てこの男から掠め取ったもの。指輪も、ドレスも、ティアラも、イヤリングも、靴も。頭の上から爪先まで。そうやって手に入れた品の大半を金に換えた。身寄りのない子供達を養うために。


 手段は間違っている。だが心の貴さまで霞むことはない。


「…決まっています。幼き者達を護ろうと自分の身を差し出した、私の友人を返してもらうためです」



 ☆★☆★☆★☆★☆



「俺はレオリオ=アルトベッリ。知ってるか知らんが、一応評議会の議員だ」


 あっさり身分を明かしたことにクララは驚いた。


 一方でミキャエラは心配する。違法ではないとはいえ、褒められた行いではないことも事実。彼の立場に差し障りはないのだろうかと。


 当のレオリオは、少女二人が余計な気を回し過ぎることに苦笑した。侮られたと勘違いしたクララが表情を硬くする。違うと宥めたかったが既に遅い。疑われる者が何を言おうと、この場合は逆効果である。


 ばつが悪そうに、だが一方で理不尽を耐えかねたように反論する。


「裏切られたのは、俺のほうなんだがな?本気で彼女を愛しているし、渡した財貨は気持ちを表したものだ。他人に非難される謂れはないぜ」


「禁忌を唆したではありませんか……!ミキャエラの素性を知りながら、彼女の立場が悪くなるとは考えなかったのですか」


「そうなったら、うちに来ればいい。『汝の欲するところを為せ。ただし結果の責任は自ら負え』――我らが女神様の教えるところさ」


「…何ですって……!?」


 レオリオの答えは単純だった。


 明快ですらある。彼はミキャエラを愛していて、だから嫁に貰う。他のことは些細であり、何もかも放り出して自分のところへ来ればよい。責任は全部自分が持つ、と。


「そんな簡単に……ゆくわけが」


 それをやってしまうのが彼のいる組織――そう理解されている、若しくは諦められているのがセラ教団である。世間体を叩き壊し、暗黙の了解を無視し、法を破って刑死することさえ自由。脱法行為を推奨するものではないが、自分にとって本当に大切なものは何か。深く考えよという教えである。


 この極端とも取れる教えのため、大陸北部での禁教は未だ解けない。聖神の一柱でありながら、半ば魔神と同列の邪神とも呼ぶべき扱いだった。


 レオリオ=アルトベッリは、セラ教団リトラ支部を預かる宮司職。信者達に女神の生き様を説く彼は、自分の大切な想いを成し遂げるべく正直に動いている。


「あの……『ウォーターリリィ』」


「何ですか。黙っててくださいと言ったでしょう」


 今更通り名など。相手が本名を出してきている。この期に及んで自分だけ素性を隠すのは流儀ではない。申し遅れましたクララ=クレイトンです、と一気に棒読み。あからさまな慇懃無礼にレオリオは苦笑しかけ、また怒らせてはと飲み込むことに成功する。


 相変わらずクララは機嫌が悪い。恐る恐るミキャエラが再び口を開く。


「その……これだけは言わせてくださいまし。わたくしは、こちらの殿方以外とお付き合いをしたことがございません。うぅ……」


 恥ずかしそうに顔を赤らめ、両手で覆い隠す。


「それと、この上なく紳士でいらして……」


 徐々に声が小さくなってくる。注意しなければ上手く聞き取れない。


「……その、エスコートのとき以外は。指一本……触れられて、おりませんの」


「へ?」


 今、何と言ったか。


「ですから、指一本、触れられておりませんの」


「……………」


「…………っ」


「……まあ、そういうことだな」


 居直ってはいない。心の底から安堵している、他意はなさそうだった。場が落ち着いたとみて、レオリオが言葉を続ける。


「誰にでもできることじゃない。見知らぬガキ共のために、自分を俺みたいな男へ差し出すなんてな。こう言っちゃ何だが惚れ直したよ。君にその気があるのなら、今後もお付き合いを続けさせてほしいが……」


 初めて覗かせた弱気に、クララは何も言えなくなった。


 ここから先は二人の問題。行き違いがあったにせよ、自分の考えているような話ではなかったのだと。一歩下がり、扉の前で見守る。


 ようやく立ち上がったミキャエラは、俯いたまま小さな声で告げた。


「今夜は……帰ります」


「そうしたほうがいい。ヒトは自由な存在だが、友人に心配をかけるのは感心しないからな」


 去りかけていた足を止め、ぽつりと呟く。


「…友人……」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 翌朝クララは、遅くまで眠っていた。


 門限破りは慣れていたが、張りつめていた糸が切れたのである。


 本当に身を売っていた三人の部屋には『プラム』ことスアレス典仕が踏み込んだ。一見の贈り物としては不釣り合いに高価な品々を発見、あんたにだけは言われたくない黙れ本気で遊んでるんだ悪いか云々。ぐうの音も出なくなり宿舎で謹慎させられている。


 後日知ったことだが、手にした財貨の大半を子供達のために使っていたのはミキャエラだけだったらしい。美味しい思いをできなくなったからかどうか――以後この三人はミキャエラと距離を置き、社交界にも出なくなったと聞く。


 本気で婚約相手を探していた『オレンジ』ことニコル=ニコル典仕はお咎めなし。クララを助けて手柄を上げたはずのスアレス典仕は薪割り十日間の罰。納得いかないと喚き散らしていたが、敬愛する師父に諭されてしまっては二の句も継げない。


 宮司の部屋を出た途端、背伸びと共に欠伸をする。二日酔いのところを審問のために叩き起こされて眠いのだ。


「筋肉ついたら、どうするのさ。嫁にも行けないよ」


「……行くつもり、あったんですか?」


 驚いてみせる。半分くらいは本音だ。


「ないけどねぇ。にしても私だけこの扱いって何なのさ、もう……」


 混ぜ返すクララが権禰宜に昇進したものだから、父親を取られたような気分と相俟って、なおのこと面白くない。


「それより、ミキャエラさんはどうしているのです?」


 膨れっ面を黙殺し、一番気になっていたことを訊ねる。


 あれからミキャエラは、自室に閉じ籠ったきり出てこない。謹慎を命じられたのは事実だが、彼女の場合は他の三人と違う。手段を咎められはしても、動機を否定されたのではない。心根を疑われたわけではないのだ。


 要するに形だけ。何より宮司は同じ宿舎にいる。大変な心配をかけたのだから、何を措いてもまずは顔を見せるべきと思うのだが……


「……ま。しょうがないんじゃない?」


 あの子はあれで繊細だから――放り出したような冷たい言葉と表情の中に微かな色を見つけて、言外の意図を察する。時間が解決するのを待つしかない、と。


「あ、スアレス典仕……」


 礼を言おうと思ったのだ。昨夜から落ち着かなかったため、まともな会話をしていない。


「リリアナ。リリィでいいよ。偶然だけど、あんたの通り名と一緒だねえ」


 じゃね、と背中を向けたまま片手を挙げて薪割り場へ去っていった。


(…リリアナ=スアレス。リリアナ、リリィ……ニコル=ニコル。ニコル……)


 最近、馴染みのできた名前を口の中で転がす。


(……ミキャエラ=ジンデル。ミキャエラ……)


 その響きは、苦味と共に広がった。ジェフ=ワイルド、マルク=マンハイムと同じ。


 しかし彼女は生きている。まだ手遅れではない。


 行くなら今だ。あれから日が浅く、まだ親しみが残っているうちに。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 クララとミキャエラの部屋は近い。謹慎中とはいえ、普通に暮らしていれば偶然顔を合わせることもあるはずだが。十日も姿を見ていない。


 クララとて悪いのだ。無遠慮に部屋へ押しかければ、怒られたり嫌われたりはしようが会うことはできる。それをしないのは、勝手な罪悪感を抱いているせい。


(確かに認められ、昇進した)


 だが自分は、間違ったことをしたのではないか。より正確には、彼女を傷つけずに済む上手な方法があったのではないか。


 栓なき後悔であることも解っている。悩みとは得てしてそういうもの……


 扉の前に立ち、ノックしようとしてやめる。その動作を何度繰り返したろう。拳を胸元へ持ってゆく度に、リリアナの声が蘇るのだ。


「…ど、どうしましょう?」


「どうって……」


「ミキャエラ様とクララ様です。仲直りさせないとっ」


「いや。そもそも喧嘩してないし」


 廊下の角から遠巻きに見つめる二人。一応隠れているのだが、後ろから見ると丸見え。有体に言って間抜けである。姉様達が生温かい笑みを浮かべて過ぎゆく。


 リリアナとニコルだ。上がリリアナで下がニコル、雁首並べて一進一退する戦況に一喜一憂している。もっとも興奮しているのはニコルだけで、リリアナは落ち着いて相方の実況を騒々しく思っていたが。


 これは当分動くまい――見切りをつけて視線を外し、廊下の壁に寄りかかる。


「三日くらいで治ると思ったんだけどなぁ……」


「リリィさんじゃないんですから。ミキャエラ様は繊細なんですぅ」


 ニコルも戻ってきて、論外とばかり詰め寄る。この安定した扱いの差は何だろう?


(たまには反撃してやるか)


 くるりと身体を入れ替え、息が届くほど顔を寄せる。


「……前々から気になってたんだけどさ。クララとミキャエラは様付けなのに、どうして私だけ『さん』付けなの?」


「そ、それは……」


「私はニコルと同じ資産家の娘でクララは違う。だから別に生まれがどうこうってわけじゃないよね?」


「……はい」


「じゃ、なんで?」


「ええっと……」


「うん?」


「……親しみやすいから、でしょうか。ミキャエラ様は高嶺の花、クララ様は浮世離れしてて。その辺リリィさんは普通のお姉さんって感じ……痛っ」


 溜めた中指の一撃が炸裂。額の赤くなったところを涙目で押さえる。


「…何するんですかぁ~」


「生意気だからお仕置き」


 右手をひらひら、左手で曲がり角の向こうを指差す。用は済んだとばかり、その場を離れようとする足取りは軽い。


「どこ行くんですか?もう薪割りはしなくていいんですよね?」


「お手洗い。心配の種、なくなったし」


「え?…あっ!」


「静かにしなよ。見つかるだろ」


「……ごめんなさい」


 反射的に謝りながらも、小さなニコルは興奮を抑えきれなかった。


 再び角から顔を出し、廊下の片隅を窺う。そして見たのである。戸惑いながらも扉の奥に消える、幻めいたクララの姿を。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 振り返って扉を閉め、きちんと向き直る。


 疎かな態度を見せてはならない。ミキャエラの面子を潰した者として、彼女の不幸を糧に昇進した者として。相応の憎まれ役を演じなければ。さもないとミキャエラが救われない。クララはミキャエラに合わせる顔がない。


「クレイトン典仕……いいえ、今は権禰宜なのでしたね」


「…ええ。あの晩が明けて、翌日の審問終了後に聞かされました」


「おめでとう。これは本当に、皮肉じゃありませんのよ?」


「……………」


 額面どおり受け取るほど、クララも純真ではない。最近親しくなった森の住人なら、何の衒いもなくありがとうと返したかもしれないが。


 ミキャエラの口元に笑みが零れる。それは臆病な野兎を侮るというより、強大な獅子を前に狐たる我が身を嗤う。自虐的な類の嘲笑だった。


「聞いてくださいますか。わたくしの懺悔を」


 寝台に入ったまま、身体を起こしただけのミキャエラ。その枕元に丸椅子を運び、腰を落ち着ける。しっかりあなたの話を聞く、という意思表示だ。


 クララの態度は、ここまで特に配慮がない。恨みごとを言えば反論する、泣き喚けば冷たく見下ろすつもり――無論、心の裡は違う。さりとてミキャエラが手加減を喜ぶような女か。そんなことをすれば、本当に彼女は壊れてしまう……


「わたくしは最初から、彼が何者なのか分かっていました。『生殖者』と巷で噂の好色漢、評議員に名を連ねる最高権力者のひとり」


 だから近づいた。下々の上前を撥ねる小悪党から、散々に搾り取ってやろうと。


 しかし関われば関わるほど、レオリオという男が分からなくなった。遊び慣れているようで、初回から大層な贈り物。さぞ要求が厳しいだろうと覚悟すれば指一本触れてこない。暗に見返りを釣り上げてみても嫌な顔ひとつしない献身ぶり。まさか彼が本気だったなどとは、夢にも思わなかったのである。


 政略から生まれる愛。使い古された言葉だが、それだけに真実が含まれていると言えよう。二人の場合、商売敵という対立点も一時的なものでしかない。


「お金が目的がだったからこそ、わたくしは彼を愛すべきでした。愛さなければなりませんでした。愛を偽ることは、愛してくれた者への裏切り。心を酷く傷つけます」


 涙はなかった。その目元だけが赤い。


「分かっておりませんでした。クララ様は、それをわたくし達に教えようとなさっていたのですね」


「ミキャエラ様……」


 そんな大層なものではない。ただ盲目的に、ルースアの教えを信じただけ。他宗の理屈に言い返せず、お情けで見逃されたようなもの。


「ミキャエラでいいわ」


 照れくさそうに微笑む。これまでのことを思うと、クララは戸惑いを隠せない。


「え……」


「あのとき、そう呼んだではありませんか。それともわたくしのことは、友人と思ってくださいませんの?」


 甚く不満気である。が、その緊張も長くは持たない。どちらからともなく吹き出す。瞳には再び勝気な光が宿っている。


「わたくし、あの方ともう一度向き合ってみます……今度は心を裸にして」


 クララも頷いた。真摯に生きる者を救うのは神職の務め。そうでなくとも、今やミキャエラは大切な友人のひとり。


 カトレアの花が季節外れに咲いた。


「せっかく見つけた愛ですもの、そう簡単に諦めませんわよ?」

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