第3章 微睡
魔法戦士の男は、素気ないほど簡単に二人の前から姿を消した。やや癖のある人物だったが、そもそも冒険者とは変わり者が多いと聞く。一応目的の場所には辿り着いたのだから、問題あるかと言われればない。偽装が露見したとは思えなかったし、とりあえず今は気にしないことに決めた。
日暮れの飯時を迎え、それなりに広い酒場は大勢の酔客で賑わっている。
ニンゲン、エルフ、ドワーフ、獣人……さすがに非力なホビットだけは見られないものの、ありとあらゆる人種の冒険者達が同じ一つのテーブルを囲んでいる。外の往来にもニンゲン以外の種族は山ほどいたが、ここはそれに輪をかけて別格だ。単純な数のうえでも、その付き合い方のうえでも。一緒に同じ皿の飯を食らい、同じ器の酒を飲む。唄、喧嘩、怒鳴りあい。たとえ異種族でも遠慮がなかった。お互いの本音をぶちまけ、気に入らなければ本気で殴りあう。さすがに術だけは御法度のようだが、どちらも終わればけろりとしたもの。理性的なエルフ族の二人は、思わず呆気に取られて店の入口に立ち尽くした。
「凄いねウィル……明日から私達、この中で暮らすの?今更ながらに、ちょっとだけ自信がなくなってきたんだけど……」
エアの微かな呟きに、ウィルも同意して頷く。
「森の中とは、えらい違いだな……全部知ったうえで、バルザは経験を積んでこいと言ったのだろうが……」
二人の目の前で、ニンゲンの男が投げつけた皿が頑固そうなドワーフ親父の頭に命中した。両者は相当頭に血が上っており、そのまま椅子をひっくり返して大喧嘩を始める。まわりの冒険者達は慣れたもので、笛吹き手を鳴らし拍手喝采。それだけならばいざ知らず、この喧嘩どちらが勝つかと他愛のない賭け事まで始める始末。
エアは半ば硬直した笑顔でウィルの顔を見上げると、やや口元を引き攣らせながらも遠慮がちに自分の意見を申し述べた。
「……お腹、空いてないよね。今日は……このまま休もっか?」
「ああ……うむ。そうだな。そうするか」
乱痴気騒ぎの横を擦りぬけ、二人が宿泊の手続きに向かおうとしたとき。振り回された空の酒瓶が、興奮のあまり錯乱している野次馬の手を飛び出した。
その先にいるのは、カウンターで酔い潰れているらしいニンゲンの少女。バーテンダーを兼ねる宿の主人が慌てて注意するも既に遅い。ぼんやりと振り返った顔が驚愕に凍りついた瞬間、ウィルの手刀が無頼な酒瓶を向こうの壁まで弾き飛ばした。陶器の割れる硬く澄んだ音が、普段と変わらぬ下町の酒場に大人しく響き渡る。
「俺達も多分に場違いだとは思うが、ここは堅気のニンゲンが来る場所じゃない。女ひとりなら尚のことだ。つまらん怪我をしないうちに帰ったほうがいい」
前後左右に船を漕ぎつつ、ぼんやりと焦点のずれた瞳がウィルの顔を見つめ返す。強かに酔っているのだろう、とても話の内容を理解しているようには思えない。頭を抱えたくなる辟易した気持ちを抑え、ウィルは噛んで含めるように同じ言葉を繰り返した。
「……聞いているのか。ここは危険だから、早く自分の家に戻れと……」
その瞬間。黒髪の頭が大きく項垂れ、驚いたエアは反射的に身を固くした。そして二人が手を差し伸べる間もなく、ニンゲンの少女はそのまま無数の酒瓶を薙ぎ倒しカウンターに突っ伏してしまう。静かな寝息を立てる意外にあどけない横顔を確認すると……今日この街に着いたばかりの二人は、互いの顔を見合わせてゆっくりと嘆息した。
☆★☆★☆★☆★☆
翌朝エアは、両膝の痛みで目を覚ました。見慣れない部屋。窮屈な旅装束。うまく言い表せない爪の先ほどの違和感。
痛みの原因は、すぐに分かった。板張りの床に膝つき座りながら、寝台の枕元で居眠りをしたため。無理な姿勢が祟ったのだろう、背中や腰、肩、肘など身体の節々も痛む。これから暖かくなるとはいえ迂闊。不慣れな街の暮らしが始まるのだ。
「……んっ………あ………く……ぅん」
思いきり背筋を伸ばし、改めて周囲の状況を確認する。
板張りの壁。低い天井。他人を強く意識しているのだろう、無駄に頑丈そうな扉。やたらと色を塗りたがる奇妙な感覚も、アトルムの村において見られるものではない。
「……………………」
ようやく思い出した。自分は今、街にいる。あり得ないほど大きく、異なる種族が行き交う土地。海の向こうにあるドワーフの国も、似たような光景が見られるという。しかしエアが来ているのは、残念ながらそこではない。
トレス・リトラ。ニウェウスは襲わないくせアトルムと見るや殺そうとする、野蛮で愚かなニンゲンの街。
また思い出した。自分は今、ニウェウスに化けている。創術で膚を白く染め、髪の毛を黄金、瞳の色を若草に変えて。目を覚ましたとき、それで違和感を覚えたのだ。頭を載せていた自分の手が、病的かつ不気味な色合いをしていたから。
「そっか。今はニクスになってたんだ……」
無意識に呟いてから息を呑む。
もう一つ、思い出したことがあったのだ。昨夜一階の酒場で拾った、長めの黒髪が綺麗なニンゲンの少女。喧嘩の弾みで飛んできた瓶をウィルが叩き落とし、少しばかり説教をしてやろうとしたところで酔い潰れた娘。
彼女は今、エアと同じ部屋で眠っている。あのまま抛り出してもよかったのだが、何となく気が咎めたのだ。結局エアは一晩中介抱をする羽目に陥ってしまい、また自分も長旅で疲れていたことから、碌に着替えもしないまま枕元の床で眠ってしまった。
(……考えてみれば、私が面倒を見てやる義理なんてなかったんだわ。こいつらが攻めてきたせいで、トリシャ達もアローナさんも危ない目に遭ったんだから)
煙の中を這い回った陰鬱な記憶が甦り、心の中に仄暗い怒りが込み上げてくる。バルザの言うとおり、それがニンゲンの全てではない。全てではないのだろうが……気持ちよさそうに眠る能天気な寝顔を見ていると、このまま一気に絞め殺してやりたくなる。かといって本当に殺すわけにも。ならば離れていようと後ろへ一歩踏み出したとき。
伏せられていた少女の目蓋が、不意に前触れもなく持ち上がる。まだ焦点が合っておらず、薄茶色の瞳は緩やかに彷徨う。半分背中を向けて固まるエアは、胡乱気な視線に捕まってしまった。寝惚けた少女の眼差しが、慌てる彼女をぼんやりと睨みつける。
「あ、あの、えっと、その……」
予期せぬ事態に取り乱し、うまく言葉が出てこない。疚しいことはないのだが、ここで二人になるのは気まずい。何を言えばいいのか。そもそも言葉が通じるのか。
最悪、盗人と思われる。確かに路銀は心許ないが……いや違う。今は、そんなことを考えている場合ではない。この理不尽な窮地を、どうやって無事に切り抜けるか。とりあえず敵ではないことを示すため、ゆっくり両手を上げて少女の身体を気遣った。
「えっと……大丈夫?昨夜はかなり飲んでたけど……その……気持ちが悪いとか、頭が痛むとか。水が欲しいんなら、取ってきてあげるよ」
義父との暮らしで培った知識を総動員、二日酔いを和らげる術を挙げてゆく。誤魔化しではない。頼まれれば下の酒場へ行って本当に水を貰ってきてやるつもりだ。情報を集めるにしても、食い扶持を稼ぐにしても。ニンゲンの街で暮らすには、いろいろなことが不足している。手頃な相手に恩を売っておくのも、悪いことではあるまい。
「私はエルフのエア。昨日この街に着いたんだけど、下の酒場であなたが酔い潰れていたから……危なく怪我するところを、私の連れが助けたの。後でお礼を言ってくれると嬉しいかな。無愛想なのが玉に瑕だけど、根は優しいヒトだから」
「……………」
この寡黙な少女も、どうやら無愛想なことでは人後に落ちないようだ。もっとも昨夜の惨状を見る限り、これがニンゲンの標準というわけでもないのだろう。
やたら威勢がよかった給仕の娘。明るい歌を唄っていた戦士風の女。口喧嘩で男性を負かしていた鋭い印象の女性神職。個人差があるのはエルフもニンゲンも同じらしい。
他のニンゲンから話を聞く機会もあるはず。酒場から朝の喧騒が流れてくる。あれでウィルは早起きだから、さぞ待ち草臥れているに違いない。
「……ず」
疲れたような縋るような。少なくとも幻聴ではなかった。
「……エアさんと、仰いましたよね?お願いします、下の酒場から水を一杯貰ってきていただけないでしょうか。頭が、割れるように痛くて……」
☆★☆★☆★☆★☆
三十分後。ウィルとエアは、二日酔いの少女を交えて遅い朝食を摂っていた。
娘の名はクララ。とてもそうは見えなかったが、一応見習いの神職らしい。
彼女が信仰するのは、逆神に数えられた愛の女神ルースア。守護対象は親愛の情や家族愛に始まり、平等な博愛、男女間の恋愛。単なる肉欲や同性愛に至るまで。相手の気持ちを無視した行いは奨めていないから、見方を変えれば幸福の女神ということも。多くの神々と浮名を流し、最後は自由の女神セラとの愛に溺れて永遠の生命を落としたという。純粋かつ一途な生き様に心を打たれ、ルースア教へ入信したそうだ。
「念のため聞くけど……普通っていうか、クララは男のヒトが好き」
「好き、と言われるのは語弊がありますけれど……いずれ女性の方と、というような欲求はありません。よく誤解されるのですが、大半の信者は一般的な異性愛者ですよ。なかには肉欲の成就だけを祈る、困った人達もいることはいますが……」
「……ふ~ん。森の外には、いろんなヒト達がいるんだね」
頭の後ろに両手を回し、ゆっくりと椅子の背凭れに寄りかかる。
アトルムの恋愛は自由だ。クララの話を聞く限り、同胞の多くが求めているのは肉欲に近い。色惚けフランやゼクスなどは、きっとよい信者になる。エアとて村の仲間は大切だから、教えに共感する部分もなくはなかったが。
「ところでクララ。あなたも冒険者なんでしょ?『暗い森』に冒険者が押し入ってたけど、そういう仕事は今もあるの?」
「……金の感覚がどうもな。原因は主にこいつだが」
「ウィルだって山賊焼き食べたくせに」
不機嫌そうに黙り込むエアを見て、クララは表情を綻ばせた。
「……二十年前なら、あったでしょう。ですが今は違います。ごく少数の夢見がちな人々が、開拓時代に憧れて村を建設したに過ぎません。ウゥヌスのお偉方が何を考えているのかは知りませんけれど……子供の遊びと一緒です」
「子供の遊びで、そんなことしたの……!?」
思わず気色ばむ。これでは化けの皮が幾つあっても足りない。
「…ごめん。何でもないから、気にしないで」
「いいえ、私のほうこそ。すみません」
遊びで殺されるほうは堪ったものではないが。それ以上の詮索はやめておいた。
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「お前さん達、ちょいと話を聞いてくれるか?少しばかり面白いネタがあるんだが」
長めの朝食も終わり、互いの話が一段落した頃。その隙を見計らったように、カウンターで食器を磨いていた男が声をかけてきた。
筋骨隆々の逞しい四肢。熊を彷彿とさせる大柄な体格。昔は彼も、剣のみを頼りに生きる冒険者だったのだろう。宿の経営だけでは明らかに使い道のない、やたら立派過ぎる筋肉が無言の真実を物語っていた。
「ああ、自己紹介がまだだったな。俺は元冒険者のハリス=レンディ。こう見えても金の勘定は得意だ。ギルドの評議会から『不屈の闘志』亭三号店を任されている。この街で仕事をするつもりなら、知っていて損はないと思うぜ」
そう言って差し出された右手を、ウィルとエアはきょとんとして見つめた。街へ出た連中はどうあれ、森のエルフ族には握手をする習慣がない。そんなことをしても騙されるときは騙されるし、彼らは全員が術者だから利き手を封じても全くの無意味。むしろ一定の距離を置いて近寄らないことが、膚の色を問わずエルフ族における暗黙の礼節だった。
「すまない。まだこちらの流儀に慣れていなくてな……俺はウィル。こちらはエアだ。森の東にある、名もない小さな村から来た」
ウィルが手を握り返すと、ハリスは意外そうに目を丸くした。
「ほう……カインの近くからねえ。こいつは珍しいところから来たもんだ。何を隠してるのか知らんが、自分達の領域に近寄る奴は誰だろうと皆殺しだからな。夢見がちな連中の間では、とんでもないお宝が眠ってるって噂だぜ。ありゃ本当なのかい?」
「それについては何とも言えんな。あると言えばあるし、ないと言えばない。我々にとっては価値あるものでも、それがお前達ニンゲンの求めるものだとは限らない」
言外に皮肉を滲ませつつ、謎掛けめいた言葉を返す。だが冒険者の顔役を務める壮年の男は、さも愉しそうに笑いながら穏やかに切り返した。
「はは。こいつは一本取られたな。確かに、お前さんの言うとおりだ。俺達冒険者は宝と言えば財貨のことだが、あんた達エルフは違う。言ってみれば、あの森全体が宝のようなものなんだろ。木の枝一本、腕一本ってな」
「……それで?あんたの話というのは。用があるのなら、手短に頼もう」
溜息交じりの呟きを零すと、無骨な元戦士の顔に取り繕うような照れ笑いが浮かんだ。
「あ、ああ……すまんすまん。客を怒らせてしまうのは、俺の昔からの悪い癖だ。なに、昨夜クララの面倒を見てくれたからな。手っ取り早く金になりそうな仕事を紹介しようと思ったんだよ。嫌なら断ってくれてもいいんだが……」
大きな身体を縮こまらせて、不器用ながら率直に詫びる。先程の冗談ではないが、少なからず路銀に不安を感じていたところ。あえて断る理由はない。
「話を聞かせてくれ。俺達にできることなら、力を貸そう」
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ハリスがもたらした仕事。それは実に分かりやすい代物だった。
このトレス・リトラを発ち、中枢都市ウゥヌス・リトラを経由して港湾都市ドゥオ・リトラへと向かう馬車の護衛。依頼主は島の外から来たドワーフの商人で、これから故郷の大陸へ戻るのだという。拘束期間五日に対し、報酬は一人当たり百イェン金貨五枚。金貨一枚でたっぷり三日暮らせることを考えれば、充分過ぎる見返りと言えるだろう。おまけに道中の食事まで保証してくれるのだから、言うべきことは何もなかった。
依頼人は、ウィルもエアもよく知った相手である。
「仕入れって……やっぱりお酒とか、ミスリル製品なんですか。ラダラムさん?」
御者台で目を光らせつつ、エアが手綱を握った隣の男に話しかける。齢八十を重ねた髭面のドワーフは、正面を向いたまま鷹揚に頷くと僅かに顔を綻ばせた。
「それもなくはないが、今回は別じゃ。故郷の娘から、五人目の孫が生まれたという手紙が届いての。しかし相変わらず間が抜けておってな……驚いたことに、男か女かさえ書いとらんかった。それを確かめに行くんじゃよ」
歴史の浅いアトルムと違って、魔神の被造物たるドワーフ族は極めて完成された種族である。突然変異の魔獣が生まれることもなく、出生率が人間並みに高い点を考えれば、ニウェウスのように強引な不稔処理を施されていないのだろう。それなりに寿命も長く、今では大陸の南東部に一定の勢力を有している。かつて所属したニンゲンの王国が滅びてなお、彼らの暮らしは何も変わるところがなかった。
ちなみにバルザが愛飲する酒は、二百年前まで大陸の全土を支配していたニンゲンの王国から発祥したもの。その王国は今でも続いているが、何度も分裂を繰り返したため昔の栄光は見る影もない。大陸の北東部を有するだけの、貧しい農業国に没落してしまった。
「魔族の子供は嫌かも知れんが……ルースアの禰宜様や。ここで会えたのも、何かの縁。よければ、うちの孫に祝福を賜れんかのぉ」
荷台を振り返り、ラダラムが遠慮がちに申し入れる。だが当の彼女は、思い詰めた表情で空を見上げたまま。答えようとはしなかった。
「……………」
「…えっと」
沈黙に耐えかねたエアが、誰にともなく呟きを漏らす。この件に関して言えば、ウィルを頼ることはできない。彼の反対を押し切り、渋るクララを強引に連れてきたのは他でもない自分なのだから。たとえ針の筵でも、ここは我慢するしかない。
だが頼みを無視された格好となるラダラムは、さほど気分を害した様子もなく独り言のように呟いた。
「儂らとてヒトの子、家族は大切じゃ。子供が生まれれば、それなりに可愛い。姿形は違っても、あんたらと一緒じゃよ」
「……………………」
女神に仕える少女は、なおも呼びかけに応えようとしない。彼女が何を思い、何を悩んでいるのか。さほど信心深くないエアには、その気持ちを理解することができなかった。ただ顔見知りのドワーフを気の毒に思い、そっと手を伸ばして囁きかける。
「……クララ?」
「……私はまだ典仕ですが。後でその子の生まれた日と、両親の名前を教えてください。ルースアの加護を頂戴した、災厄除けの護符を作りますから」
「あいすまんの。女神の祝福を授かれば、きっとよい子に育つじゃろうて……」
翌日の夕方、幌馬車の群れは恙無くウゥヌス・リトラの街へ入城した。
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「クララ。ちょっと、いいかな」
食事を終えて部屋に戻ろうとした少女を、エアがおもむろに呼び止める。
先に済ませたラダラムは、何か用事があるらしく護衛役のウィルと一緒に出掛けてしまった。つまり……今ここにいるのは、エアとクララの二人だけ。クララは覚悟を決めたように頷くと、カウンターへ移動して適当な席に座りなおした。
「……今は仕事中ですから、あまり長くはお付き合いできませんが……」
そう答えてから、ふと赤面して恥ずかしそうに項垂れる。出会ったときのことを思い出したのだろう。目を逸らしつつ、居心地悪そうに身動ぎした。
「あ……うん。そういう意味じゃないから安心して。正直に言うと、私もお酒は得意じゃないんだよね」
ルークが大切にしている林檎酒の味を思い出し、苦笑と共に顔を顰める。
別に甘い物が嫌いなわけではないのだが、あの喉を焼く感覚だけはどうしても好きになれない。バルザの好む琥珀色などは、ますます以て理解不能だ。エアが戦勝の宴を脱け出した理由。男達の下心満載な微笑に加え、それも原因の一つとみて間違いはなかった。
「お酒の話は置いとくとして。気になることがあったから」
水で薄めた果汁の杯を受け取り、唇と舌の先を僅かばかり湿らせる。それは程好い酸味と蕩けるような甘さを持つ絶妙の組み合わせ。余計な小細工などはなく、純然たる素材の味が率直に己の存在を主張している。難しい味に飽きた生の感覚を刺激され、エアは自分が森の住人であるという事実を改めて認識した。
「御守りの……ことですね。ラダラムさんが、お孫さんにと言われていた……」
「うん。どうして迷ったのかな、って。私とウィルには、あれだけ真剣に神様のことを話してくれたのに。こんなこと言いたくはないけど、やっぱり……」
言い淀んだ言葉の先を、硬い表情で頷くクララが引き取った。
「……怖かったのだと思います。相手がアトラと同じ魔族だから。古の魔神に祝福された、忌まわしき不浄の存在……」
不浄の存在。
クララはアトルムのことをそう呼んだ。ならば当然、同じ魔族であるホビットやドワーフも不浄の存在ということになるだろう。あるいは別の道を歩んだ獣人族でさえ、そういうことになるのかもしれない。
分かっていても、聞きたくはなかった。
忌むべき不浄の存在。その身に魔獣を宿す、汚らわしき邪法の徒。顔も知らない昔の先祖が、神の道を目指して中途半端な成功を収めた。ただ、それだけのことなのに。
魔神や先祖が与えてくれた力を、嫌っているわけではない。兄のルークを疎んじているわけでもない。無条件に否定されれば憤りもするし、また哀しくもなる。それにエアは、素朴なドワーフ達のことが好きだった。
「分かっては、いるんです。こんなことじゃいけないって」
果汁に視線を落としたまま、クララが訥々と続ける。
「以前は、ドワーフの方とも普通に話せていました。優しく大らかな人柄の方が多いですから……私は親の顔を知りませんし、彼らの姿に父親を見ていたのかもしれません」
「あ……そ、そうなんだ。ちょっと私には理解できないけど……」
ドワーフ男性の外見は、身長と膚の色を除けばニンゲンの太った中年男性とよく似ている。もっとも世の中にはエルフのように華奢なニンゲンもいるから、どう考えてもクララの先入観が強く影響しているとしか思えないのだが……
「……話の腰を折ってごめん。でも……本当のお父さんが見つかったとか、そういうわけでもないんだよね。あるいは……本当のお母さん」
「はい。両親のことは最初から諦めていますし、恐らく行きずりの冒険者同士だったのでしょう。宮司様のお話では、赤子の私が社の前に捨てられていたそうです」
「…………………」
エアも両親の顔は知らなかった。だが彼らの身元は分かっている。
父の名はリド。母の名はメイア。二人ともライセンの集落で生まれ育った、紛うことなき生粋のアトルム。ウィルを除く村の住人は、誰しも父と母のことを知っている。彼らに話を聞きさえすれば、自分は亡き両親の影に甘く寄り添うことができるのだ。何の手掛かりもなく、望まれずに生まれてきたかもしれないクララとは、明らかに状況が違う。
(本当のことは分からないけど……死んだ可能性もあるよね。私の父さんだって、ニクスとの戦争に行ったきり帰ってこなかったんだから……)
それならば、まだ理解できるように思う。クララの両親が、アトルムに殺されたせいなのだとしたら。やむを得ないこととはいえ、正直自分もニクスの姿を取るのが嫌だ。そこまで考えたとき、ふとエアは別の可能性に思い至った。
「ねえクララ……違っていたら悪いんだけど。もしかして……」
「……はい。私も先日の討伐隊に参加していました。幼馴染みの二人、ジェフとマルクと一緒に……彼らは夢を見ていたのです。人間の領域を広げさえすれば、孤児の自分達でも名を上げられると。そんな夢のある時代は、もう終わってしまったのに」
俯き加減に両目を伏せ、滲んだものをそっと拭う。
「…あの森の戦いで、私は二人を失いました。恋人というわけではありませんでしたが……私は彼らを愛していました。お互い親に捨てられ、子供の頃から一緒に生きてきた二人を。それこそ本当の家族のように……でも」
再び顔を上げたクララの声は、涙を含んで激しく震えていた。
「あのアトラが。恐ろしい魔物達を引き連れた、黒い膚の奴らが……!」
そこから先は、もう言葉にならなかった。大粒の涙と共に、ひたすら嗚咽を漏らし続けるのみ。彼女はエアの大切なものを奪おうとした。そして……逆に全てを奪われた。思わずクララの背中に手を伸ばしかけ――欺瞞に過ぎないと気づく。杯の中身を全て飲み干すと、天井の暗がりを見つめて呟いた。
「……私の父さんも、十五年前に戦死したの。物心がつく前だったから、あまり悲しくないんだけど。でもクララは……辛かったよね」
あのとき、自分は前線にいなかった。いや仮にいたとしても、敵の顔を洩らさず記憶しているということはあり得ない。その程度の認識しかない見ず知らずの相手が、他者の人生を完膚なきまでに破壊する。
そこに悪意などはなく、単に無機質な『敵』という記号が存在しているだけ。運命の分かれ道は、選択の数だけ無数に存在している。もしも同胞の誰かが、ニンゲンに殺されていたとしたら。バルザがルークがウィルが、あのまま帰らなかったとしたら。我儘で聞き分けのない自分は、そもそも話をする気さえ起こらなかっただろう。
「ごめんなさい……こんなこと話すつもりじゃなかったのに。ラダラムさんには、何の関係もないことだったのに……!」
泣きじゃくる少女の背中を、今度は優しく抱いた。
「……強いね。クララは……」
いつの間にか、雨が滴っている。
☆★☆★☆★☆★☆
――政治都市リトラ。表の顔しか知らない者は、この街のことをそう呼ぶ。
始まりの地。冒険者の都。人種の坩堝。呼び方は人それぞれ。捉え方の数だけ、この街の名前がある。だが最もよく聞かれる名前……『ウゥヌス』。そこには何の意味も込められていない。ただ二番や三番に対しての一番というだけ。
建設から百年余り、今や傭兵の数は少ない。一部の豪商が数人雇う程度。ようやく当初の目的を見失い、平凡な日常の中へ埋もれてゆこうとしていた。
「…子供が多いな」
ふと眉を顰め、ウィルが怪訝そうに呟く。
「雨露を凌ぐ場所くらいあるだろうに」
「…宵の社から逃げてきた子じゃよ。あそこは孤児院も兼ねとるでな……女神を信じられず、危険な裏通りで生きる道を選んだ」
財布を取り出すと、猛禽の眼差しがドワーフの手元に集中する。上納金も払えない無力な子供達を、盗賊ギルドが護ることはない。だからこそこんな真似ができるのだ。夜でも目が利く小鳥達は、ここが醜悪な大人の縄張りであることを知っている。
「占い師を、捜してきてくれんかの。道端で業を為すニンゲンの婆じゃ。歳は知らんが……妙な人形を連れておるから、見ればすぐに分かるじゃろう。今夜の居場所を教えてくれたら、一イェン銅貨を五枚やる」
暗闇に潜む影達が、途端にもぞもぞと怪しく蠢いた。
もし銅貨が五枚あれば、ちょっといい飯を食うことができる。ケチに食い繋ぐだけなら、たっぷり二日。こんな場所の仕事にしては、危険もなく身入りの多い話だ。
やがて待つこと数分。十歳にも満たない黒髪の男児が声をかけてきた。
少年の指差す先には、漆黒のローブとヴェールに身を包んだ不審人物がひとり。背はドワーフよりも低く、仮に子供の顔が覗いたところで誰も驚きはしなかったろう。
しかし、それは間違いなくラダラムの指定した人物だった。先程彼が教えたとおり、曰く言い難い不気味なものを従えている。
(……あれが人形?生き物ではないのか……?)
骨格だけの翼、異様に長い爪のような指。か細く貧弱な胴体、破れたスカートのごとく広がる脚のない下半身。中に風船でも仕込んだのか、音もなく浮いている。
何より気味が悪いのは後頭部、上腕ほどの大きさもある不揃いな突起だらけ。剥き出しの牙に覆われた造作のない顔。目も耳も鼻も口さえもなく、生き物であることを否定している。全てが輝くような真白、闇夜の暗がりに驚くほど映えた。いかなる精神が働けば、かくなる異形が造られるのか?答えを知る者は、当の婆を措いて他にいない。
報酬を受け取った少年が逃げるように走り去ると、目の前の黒い物体は身体を揺すって声なき笑い声を上げた。
「おやおや。客がいるからと来てみれば、それはあんたのことだったのかい。わざわざ老骨に鞭打って、損をしちまったかねえ」
ヴェールの向こうから、ぜいぜいと息を切らすような音が聞こえてくる。どうやら、それが彼女の笑い声だったのだろう。占い師の肩が動きを止めると、耳障りな通気音も同時に消えてなくなった。
「……ふむ。あんたに連れか。こいつは珍しい。てっきり見てやるのは、最近生まれた孫のほうかと思ってたんだが……ほぉ~う、やっぱりエルフの男はいいねぇ。酒樽みたいなドワーフと違って、全員が美形揃いときておる。眼福眼福」
好色そうな笑みを浮かべ、挙句に舌なめずりまで。子供達の目が猛禽なら、こちらは飢えた大蛇の先割れ。それも毒のあることで有名な双頭の大蛇だ。
護衛に逃げられても困る。ウィルと老婆の間に立ち塞がった。
「……すまんがジーナ。お前さんの生贄ではない。道中の守りとして雇った護衛じゃ。先約があるからやれんぞ」
「ほうほう、そうかいねぇ。そいつは悪いことをした……で、占うのはどっちだい?あんたの孫か、こっちの綺麗な兄さんか。お代はいつもと同じだよ」
意味深な笑みを引っ込め、商売用の神秘的な顔を引っ張り出す。
占い師が客に売る品は形がない。婉曲で分かりにくく、素人目には詐欺も同然だ。ゆえに雰囲気を重視するのだが、そんなことに気を配っている時点で詐欺と言えなくもない。術によらない神秘とやらをウィルは信じていなかった。
(欺瞞と秘密を好む原種の言葉遊びか。意外に物好きなことだ)
本降りを予感して、蓮花色の空を見上げた。
☆★☆★☆★☆★☆
「じゃあ……始めるよ」
ジーナの右手が素早く動き、虚空に得体の知れぬ文様を描きはじめる。その光景を、ウィルは過去に見たことがあった。
いつのことなのかは憶えていない。だが、これだけははっきり断言できる。老婆が行おうとしているのは、確かに言霊の一種。世界のマナを激しく食い潰し、己が歪んだ欲望を無理矢理に現実のものとする穢れた邪法。
アトルムの言葉は小人族と同じだ。そして言霊の祈りとも。多少しゃがれてはいるものの、特徴的な発音のそれを聞き間違えようはずがなかった。元は多くのニンゲン達が話していたという、廃れた理由は年月に埋もれて分からない。
「……ドワーフ……ラダラムの子ゲランの子……六○三五九九○四○○○から六○三九一四四○○○○……単位三一五三六○○○○……」
これは占いなどではない。明確な論理に基づいて行われる未来視の奇蹟だ。かくなる外法の奥義を、裏街に潜むしがないニンゲンの老婆が会得している。掠れがちな呪文の詠唱をしばらく聞いて、ウィルはその恐るべき事実を認識した。
「……夢に偽りなし、真言の葉のみが真理に至る……我希う、健やかなる眠りを。永久に安らかなれ、世界の礎アウラ……」
最後の一節を聞いたとき、思わず目を細めた。
この老婆は、アウラという単語が持つ意味を知っているのだろうか。もし知っているとすれば、その上で私利私欲のために神子の命を削り取っていることになる。
呪文の意味を理解せず、丸暗記しただけの言霊使いも少なくない。術を誤ったときの影響があまりにも大きいため、一字一句を金科玉条とすることで安全性を確保しようと考えたのである。語順を変えても意味が違ったり違わなかったり。融通無碍な言語だが、彼女は明らかに呪文の意味を理解していた。
「さて……と。じゃあ早速本題に入ろうか。結論から言って、あんたの孫は無事に天寿を全うする。二十歳で災厄に巻き込まれるところを、あたしが書き直してやったからねぇ。まあ大して難しくなかったから、お代は七十イェンに負けとくよ。ほい」
そう言って差し出された左手に、ラダラムが銀貨を七枚載せる。最初から金額を予想していたのだろう、改めて懐を探ることはなかった。
「毎度あり……で、そっちの兄さんはどうなんだい?何ならタダでも構わないよ。千年後というやつを、一度占ってみたくてね」
また息切れのような声で笑う。ウィルは断固拒絶した。
「……俺は、いい。あんたも言霊使いなら、エルフ族に伝わる創世神話を聞いたことがあるだろう。神子の命を削ってまで、自分だけ生き永らえたくはない」
強い口調で伝えると、ジーナはやれやれと残念そうに頭を振った。
「エルフはみんなそうだね。知らなけりゃ、どうしようもないことだってあるだろうに」
「知ったところで、どうするつもりもない。森と共に生き、森と共に死ぬ。それが我々エルフの生き方だ。ドワーフや原種とは価値観が違う」
「そうか……ま、気が変わったら教えとくれよ。あたしの技を以てしても、誰かに基準を置かなけりゃ先のことは読めないんだ。その昔適当にやってみたら、うっかり三日ほど気絶しちまってねぇ。危うく頭が破裂するところだったよ。怖い怖い」
「それは……自業自得だ。命があるうちに、やめておいたほうがいい」
思わず溜息をついて雇い主と顔を見合わせる。
元々ニンゲンの精神は、彼らが思っているほど強くない。処理能力の限界を超えたのだろう。分を弁えぬ占い師の行状に、不快を通り越して呆れた。
☆★☆★☆★☆★☆
「……強くなってきたようだね。そろそろ店じまいか」
額の上に手をかざし、ジーナは月のない空を見上げた。
「じゃあ、あたしは帰るよ。あんたらも気をつけてお行き。この辺は雨が降ると、すぐ浸るからね。くれぐれも雨宿りしようなんて気を起こすんじゃないよ」
「分かっとる。一度酷い目に遭うたから身に沁みておるわ。また孫が生まれたら、そのときは頼むぞ。次は曾孫になるかも知れんが……」
外套の具合を確かめながら、ドワーフが嘯く。普段は鈍重な彼の仕種も、今は何となく嬉しそうだ。孫の無事が分かったため、早く顔を見たいと気が急くのだろう。挨拶もそこそこに背中を向けて歩き出した。
「エルフの兄さんも御機嫌よう。もし未来を変えたくなったら、いつでもおいで。確かに神様は大事だけど、自分が幸せになる権利まで放棄することはないんだからね」
「………忠告に感謝する」
さほど感謝した様子もなく、エルフの青年が去っていった。別に腹は立たない。真言法師を訪ねる護衛として、森の住人を連れてきたのがそもそもの間違いなのだ。ドワーフは素朴で気さくな連中だが、正直もう少し頭を使ったほうがよいと思う。
「さて……と。早いとこ帰って、久々に一杯やろうかねえ」
仕事が終われば、もはや長居は無用だ。冷たい雨に身震いしつつ、物陰の暗闇を警戒しながら家路を急ぐ。物取りを心配しているのではない。この界隈では今、三つの盗賊ギルドが抗争を繰り広げているからだ。真言法の腕は衰えていないが、下手に現場を見てしまったら命が幾つあっても足りない。十五の歳で海を渡り、この島へ来て六十余年。様々なことを経験してきたにもかかわらず、未だジーナは自分の生に満足していなかった。
(ようやく未来への扉を見つけたんだ。歴史を修正する過去への扉もね。この力を使えば、あたしは神にだってなれる。おちおち死んでなんかいられないよ)
過去、現在、未来――この世界における全ての事象を網羅した領域『アウラの記憶』を発見したのが十二年前。エルフ達に伝わる神話は概ね正しく、文字どおり創世の礎たる少女アウラの記憶が残されていた。
この世界は全て、神子アウラの夢が奇蹟の力を得て具現化したもの。人間達が使う真言法――正規の教育を受けた者達はそう呼んでいる――の原理も、元を辿れば夢の記録を改竄あるいは加筆するというのが基本的な考え方だ。
術の対象となる人や物、場所、時間の長さ。自分を起点にそれらを割り出し、奇跡の内容を織り交ぜて最後に祈りを捧げる。無論アウラが解るように、全て神代文明の言葉――旧きニケア語で行わねばならない。魔族の共通語でもあるのは計り知れぬ謎。いずれ神への階梯は、然るべき者を厳格に選んでいる。ジーナはそれを強く感じていた。
(十二年前……神社庁が聖女に認定したセラ大社の教統。あれは最初から人間じゃなかった。魂を保存するために用意された、女神セラの一時的な器)
魂の保存。それを行ったのは誰か。混沌界に放逐された女神の魂を回収し、その劣化を防ぐため人間の身体に転生させる。今の時代には存在しないはずの高度な技術。
アウラの記憶を探さなくとも正体は分かった。その候補は五柱。どれも千六百年前に姿を消した、見捨てられし世界アウレアの守護者たる神々。
孤高と隔絶の神アダム――今なお絶海の孤島に潜み、孤独を守り続けている。
知識と諦念の神カイン――学術都市の街角に座り、裏の情報屋を営んでいる。
安定と堕落の神アベル――小国の貴族に成りすまし、怠惰な日々を送っている。
中立と不明の女神サラサ――ハーフエルフの子供を生し、穏やかに暮らしている。
彼らは世界を捨てたのではない。神と呼ばれた自分を捨て、自ら守護していた人間や小人族、獣人族を捨てて……彼らと同じように一個人として生きる道を選んだ。滅亡した神代文明の復興を諦め、未来永劫に続く終わりなき余生を送っていたのである。
しかし……彼らの上位者たる豊穣の女神ラフィニア。彼女だけは違った。この百年だけでも、実に様々なことを行っている。その暗躍ぶりは、どちらかと言えば『運命の監視者』とでも呼んだほうが相応しい。
大陸の百年戦争に介入した魔神の生き残りグランディスへの報復。それは彼が子飼いとしていた海賊団や盗賊ギルドを、三つほど壊滅させることにより行われた。
かつて魔境域と呼ばれた風の森に住む蛮族の保護。付近の西南海には、混沌界へ続く故障した魔力の泉が存在する。下手に弄られたら、洩れ出した瘴気で世界全体が滅びてしまいかねないからだ。万一の事態を未然に防ぐべく、彼らの再利用を思いついたのだろう。
そして昨年。異常気象の原因究明と称して西南海に派遣された調査隊が、僅か一名を残して全滅した。その生存者は黙して語ろうとしないが、恐らく何事かあったのだろう。あれほど強い関心を示していた以上、ラフィニアが遺跡への侵入者を見逃すはずはなかった。
(そう。女神は忙しい。見捨てられたと思ってる、あたしら人間が想像するよりずっとね。どうしても手が足りなければ……やはり一番信頼できる友達を頼む)
起きて働かない部下と、寝起きの悪い働き者の親友。この究極の選択において、ラフィニアは後者を選んだのである。千五百年かけて準備を進め、ようやく親友に相応しい神の肉体を用意した。そう……この具現化した夢の中で、不用心にも作り上げてしまった。
(今から百十二年前……神社庁地下の一室。瓦礫に埋もれた神代文明の遺跡の中。余人の辿り着けぬ暗闇の奥に、その一部始終がある)
神の肉体は、本質的にエルフと同じ。ニウェウス達が神々の子孫という話も、あながち嘘ではないのだろう。唯一違うところがあるとすれば、それは永遠の生命だ。彼らが定命であるのは、そこに人間の血が混じっているため。片やアトルムは、後世の人間が不完全な技術で中途半端にエルフ化したもの。
どちらも多少参考になるという程度であり、大半の技術が失われたまま。しかし、そんなことはもう関係がなくなった。
自分の手元には、運命の女神が記した完璧な答えがあるのだから。
☆★☆★☆★☆★☆
「うぅ、寒い寒い。これだから梅雨は厭だよ……」
適当な軒下を見つけ、そこへ足早に駆け込む。続いて不気味な人形――彼あるいは彼女――がジーナの傍を離れることはない。アウラの記憶に接触し、女神セラの復活を垣間見て以来ずっと一緒にいる。客達はこれを人形と思っているようだが、少なくとも違う。何の術式も働いておらず、また誰の命令も受け付けなかった。
「ささ、あんたも入りな。別に寒くはないんだろうけど………年寄りのやもめは、何かと寂しいものさ」
雨の中を振り返り、濡れた人形に傍へ来るよう手招きする。
現れた当初は、神の放った刺客ではないかと警戒していた。だが脅しても賺しても反応がなく、恐ろしげな外観に反してふわふわと漂い続けるのみ。そのうち何も害のないことが分かると、やがて日常の中に溶け込んでしまった。
「手拭い手拭いっと……どこにやったかね、一昨日洗濯したやつ」
一人暮らしは独語が多くなる。空しい癖だが、ジーナは生来独身だった。
「曇りで乾きにくかったのを、ちゃんと憶えてるんだからね………ったく、どこのどいつだい。他人を勝手に老いぼれと決めつけるのは。あたしゃ今年で八十二だけど、まだまだボケちゃいないよ」
ぶつぶつ愚痴を零しながら背嚢を漁ると、果たして綺麗に折り畳まれた薄手の麻布が見つかった。木綿と比べて吸水力に劣るが、それでも丈夫で値段は安い。下町の住人の例に洩れず、彼女もあまり裕福ではなかった。
「しかし……あんたって本当は何者なんだろうねえ」
全身の水気を拭き取りながら、また独り呟く。
「見たところ性別はなさそうだけど……家族はいるのかい?親とか兄弟の類は」
「…………………」
人形は何も答えない。そこに漂い続けるのみ。
「生まれ育った故郷、でなけりゃ同じ種族の仲間。帰る場所があるのなら、一度顔を見せに行ったほうがいいんじゃないかい。きっと喜ぶと思うよ」
「…………………」
やはり何も答えない。特に気を悪くした様子もなく、ジーナは独り言を続けた。
「まあ……かく言うあたしも天涯孤独でね。兄弟姉妹はなかったし、叔父や叔母はいたけど……会ったこともない親戚なんか他人みたいなもんだろう。今更帰ったところで、また邪魔者扱いされるだけさ」
五十年前の帰省を思い出し、皮肉めいた苦笑いを浮かべる。故郷の街を離れて十七年、ジーナは一流の冒険者となった。だが錦を飾ろうと凱旋してきた彼女を待っていたのは……人手に渡った懐かしい我が家と、物言わぬ石碑に変わり果てた両親の姿。娘の帰郷を待ちきれず、二か月前の流行病で死んだのである。そのときジーナは、人目も憚らず大声で泣いた。嫁き遅れた彼女には、もはや真言法しか残されていなかった。
「なるほど……そういうことだったのですか。道理で悪人にならないわけです……あなたは自分の人生を後悔している」
「…っ!?誰だい、姿を見せな!」
歌うような嘲るような、嗤いを含んだ男の声に激しい剣幕で怒鳴り返す。慌てて目を走らせるも、怪しい影を見つけることはできなかった。
「あたしは後悔なんかしてないよ。余人の及ばぬ神秘の領域に、自分の力だけで辿り着いたんだ。どこの誰か知らないが、勝手な事をお言いでない!」
「ならば何故、孤独に苦しんでいるのです?あなたは家族の愛を欲している。失われた温もりに恋い焦がれている。もう手に入らないことが分かっているから、その代償として神の力を求めている……」
「違う!」
「何が違うというのです。決して満たされることはないと、分かっているのに」
否定の言葉も聞き入れず、姿なき声が告発を続ける。
心の弱さ、それが呼んだ罪。他人の幸福を祈ることで誤魔化していた欺瞞。これまで犯した業の全てが、ジーナの意識を責め立てた。
「あなたは悩んでいる。未来の扉を開くほうが、過去の扉を開くよりも安全だ。自分の人生をやり直すことで、これまで助けた人々に不幸が及ぶのを恐れている……」
「うるさい!あたしは魔女だ。全部金のためにやってることなんだよ!ひ、他人のふこ、不幸なんか、し、知っ……た………こと……………」
興奮して過呼吸に陥り、それ以上の言葉が出てこない。優しい罪人に引導を渡すべく、大剣を背負った軽装の戦士が雨の中に忽然と姿を現した。
「……ジーナ=ジルクリスト……五〇九三五八九七四四〇から五〇九三五八九七八〇〇、座標一四一三七一六七、二五一三二七四、○。特定しました。以後の処理をよろしく」
「…………!」
驚いて目を見開いたときには、もう遅かった。敵は熟練のジーナでさえ知らない、奇妙な諸元の扱い方を心得ている。少なくとも互いの実力は五分と五分。いや……むしろ上をゆくのだろうか。こちらの存在を摑まれた時点で、いずれ死神の鎌は当てられた。最後の悪足掻きに、敵の存在を摑もうと試みる。そして彼女は驚愕した。
「ば……馬鹿な……あんた、この世界の人間じゃないのかい?たとえ神でも、この世界で生まれた者はアウラの記憶に支配される。転生した四柱神、自由の女神がそうだ。違うのは豊穣の女神ラフィニアだけのはず。しかし、あんたは……」
少年はふっと笑い、肩を竦めながら余裕の表情で頭を振った。
「ええ、違いますよ。女神ではありません。術で姿を変えていますが、一応男ですから。私は、アウラに支配されていない。あくまでアウラには。そういうことです。自力で記憶領域へ達したあなたなら……お分かりでしょう?」
もはや会話は不要とばかり、背中を向ける。
彼はこちらの存在を摑んだ。先程の様子からして、まだ他にも仲間がいるらしい。これで研究を止めればよし、だが続けようとした場合は……
「困るんですよねぇ。女神様の他に、アウラの記憶を知る人がいては。普通の術程度ならともかく、これほど派手に操られてしまうと……あ、そろそろ効果が出ましたか?相変わらずせっかちな方です」
安堵の表情と共に、男の姿が掻き消える。圧倒的な力を誇る彼が、何をそんなに恐れているのか。理由は分からない。しかしジーナも、不意にそれどころではなくなった。
「………………?」
呆然と周囲の光景を見渡し、やがて不思議そうに首を傾げる。
夜半、小雨、裏通り。それらが目に映っている状況。自分は今、雨宿りをするために軒下へ入った。いや……そもそも何故こんな場所にいるのか。自分の家は、市内一等地の丘の上にある。貧民達が暮らす危険な裏街など、全く関わりのない場所ではなかったか。
「……さすがに、ボケちまったかね?あたしも今年で八十二だから……」
思わず泣きそうな顔になり、大きく項垂れて肩を落とす。息子や孫に迷惑をかけたくはない。口煩い嫁の小言もそうだ。こちらは別の理由で御免を被りたいところ。
(……さっきまで、誰かいなかったかね。一緒に雨宿りをしていたような……?)
頻りに首を傾げながら、言霊使いの老婆は小雨の中を歩いていった。
☆★☆★☆★☆★☆
「…ミカゼ。いる?」
自室へ戻り、誰もいないことを確かめて囁く。
ライセンのときと違い、ウィルとエアは別々の部屋で休む。ニウェウスの振りをしているからだが、お蔭で急に帰ったとしても見つかる心配はない。
「ごめんね。遅くなって」
何度も呼ぶ。しかし反応がない。きっと見ている、そう言ったのに。
「……おーい」
ひとりごとに変わった。寝台へ倒れ込む。怒ったのではないが、不貞腐れたのだ。
寝返りを打つ。目を閉じるまでに七度。
(…約束、守れなかったのは悪いけどさ)
ラダラムの護衛が急ぎだったため、バルザへの報告を繰り延べした。よってライセンに戻る口実も消えた。一人で動く理由をつけられない。
クララは社に戻った。育ててくれた老宮司が病んでおり、帰郷を願い出るという。ドゥオの本殿に捨てられていたため、そちらが実家のようなものだと。
「……ウィル。帰ってこないし」
年齢はさほどエアと変わらない。しかし妙に老成したところのある男は、出会って間もない数倍歳上の異種族男性と話が合った。
護衛の依頼を受けて会いに行ったら知人だったというのも縁がある。古くから伝わる魔族の言葉は、口にした内容を実現させる力があると言われていた。よくないことも起きたりするが、再会を約束する別れの言葉が未来を引き寄せたのである。
孫のことで裏通りへ行くラダラムの護衛、それから男同士で気の置けない送別会。酒に強い二人のこと、多分朝帰りだろう。
少し寂しく、少し退屈。エアにとっては急激な変化だ。拾って間もないウィルは勿論、毎日顔を見てきた兄ルークとすら離れている。
誰も傍にいない。こんなことは生まれて初めてだった。
「ミカゼ……?」
返事はない。やはり拗ねてしまったか。
(今度帰ったら、すぐ会いに行こう)
もしかしたら聞こえていない。礎の女神にも眠いときがあるのかも。
だが、あの場所なら確実に声が届くはず。世界全体がミカゼの夢なのに、あの場所だけが彼女の想うことを映すのならば。子供であることを忘れた顔で、そのくせヒト恋しさに溢れた顔で。また不器用に微笑んでくれるだろう。
(…そうだ。あれ見とかないと……)
もぞり、と寝台から起き上がりかけて力尽きる。
明日、ウィルに相談したいことが。そのための下調べを忘れていたのだ。
気持ちのほうは、もう固まっている。反対されても押し通すつもり。
(……朝で、いいよね?一緒に見ながら話をすれば………)
階下の喧騒も届かなくなっていた。
☆★☆★☆★☆★☆
「おはよ。昨夜は遅かったんだね」
「ああ……」
元気そうなエア、対してウィルは疲れ気味だ。
「ドワーフが底なしというのは本当だな……」
ウゥヌスとドゥオは近い。あまりに近すぎるため、市街地から市街地へ道端に灯りが備えられているほどである。
ゆえにラダラムとは、ウゥヌスの街で別れた。ここまで来れば危険はない。どこへ行っても衛兵の目があるからだ。
「それでね?大事な話があるんだけど。食事の前に聞い」
「駄目だ。特に後ろ半分は」
「冒険者やったら稼げないかな?クララも一緒に!」
「……………」
「……………」
「……まだ何も言ってなかったよ?」
「問題ない。予想どおりだったからな」
「大ありだよ!ウィルは私が何も考えてないと思ってるの?」
「……………」
そのとおりだ、とは答えられずに黙り込む。
「全く考えていないとは言わんが……」
周囲に目を走らせる。冒険者達の多くは、まだ寝ているようだ。静かなうちに話しておく必要がある。依頼票で埋め尽くされた掲示板の前に立つ。
「…見ろ。これが冒険者の仕事だ」
『アトラをシメてください』
『親父が妖魔に殺された。仇を討ってくれ』
『求む護衛。予想される敵はアトラ』
『バグベア退治。操っているアトラの殺害でも可』
事実と関わりなく、ニンゲン達はアトルムを脅威と見做している。あるいはブラッドあたりが本当に襲っているのかもしれないが、それだけではあるまい。古の魔獣と変異の魔獣を混同したような文面も見受けられる。
ニンゲンと行動を共にするなら尚更だ。危険な仕事を請け負っていながら、アトルム絡みだけ断るというのは理由が立たない。
「…あぅ……」
「冒険者はエルフも多いと聞く。関わるのは危険だ」
「でもさ。働かないと食べられないよ?」
任務が終わるまでは自給自足。自力で生活費を稼ぐ。
バルザは昔、ニンゲンの街で暮らしたことがある。冒険者の仕事を知らなかったとは考えにくい。知っていて宿を紹介したのだ。つまり。
(上手くやれ、ということか……?)
皿洗いや荷運びでは、稼ぎが少なく他のことをする時間も余力もない。加えて冒険者なら、三つの街を支配する有力者達の情報も得やすいだろう。
実を言うと、既に名前だけは聞き出してある。
――依代の女ヒルダ。
――セラ教の宮司にして衛士レオリオ。
――『氷』の異名を持つ執政官の男エリク。
――トレスの建設に尽力した伝説の真言法師ジーナ。
他にも数名いるが、格別な影響力を持つのは四人。前の三人は現役時代も仲間であり、先輩格のエリクを頭に魔獣討伐で名を馳せたという。
ヒルダは依代ということもあり、エルフの冒険者には気さくと聞いている。
宮司レオリオと執政官エリク、真言法師ジーナには伝手がない。やはり彼らと同じように、冒険者として実績を積み上げるのが確実か。魔獣討伐は遠慮したいが、街道筋の護衛までならブラッド以外のアトルムと争う事態は避けられるだろう。
「…分かった。その代わり仕事は選ぶぞ。街中から街道にかけての雑用と護衛、森へは一切立ち入らない。同じ理由でエルフの冒険者とも組まない」
白化したアトルムをニウェウスと見分ける方法は創術のみ。使えば自分がアトルムとバレるし、本物のニウェウスだったときは殺し合いを覚悟せねばならない。なるべく当人に喋らせ、発言の内容から推測するしかないのが実情である。全面戦争を恐れているのか、ニウェウスのほうも積極的に踏み込むことはしなかった。
「じゃあクララは構わないのね?…やった♪」
「むしろ隠れ蓑になる。今のところ原種のコネは彼女ひとりだからな」
それより気になることがある。最近のエアの言動だ。心なしか幼くなっているような、頼られているような気がしなくもない。歳相応だとは思うが、油断しているのなら戒めなければ。ここはニウェウスに好意的な原種の街。どこに目や耳があるか分からず、警戒するに越したことはない。
そのことを指摘すると、エアはばつが悪そうに頬を染めた。
「…あー、うん。自分でも思う。最近ウィルに甘えてるって」
「何かあったのか?俺でよければ話を聞く」
「そういうところ。こういうお兄さんが欲しかったのかも、って」
「……ルークが聞いたら泣くぞ。それは」
☆★☆★☆★☆★☆
「じゃあ呼んでくるね。朝、一緒に食べようって言っといたんだ」
そのときクララが店に入ってきた。神職の朝は早い。エアとの約束を守るため、律義に空腹を堪えていたのか。そのあたりを察するには、二人とも街へ来て日が浅い。
「…おはようございます」
「すまないな。わざわざ来てもらって」
「いえ……約束しましたから」
時間が遅かったゆえ、軽いものを幾つか。二日酔いではないクララには物足りなかったかもしれないが。
「それでねクララ。話っていうのは、今後のことなんだけど」
「養い親を見守るためドゥオに帰ってきたことはエアから聞いた。これから話すのは、その合間をみながらで構わないのだが」
先の説明はエアに任せる。自分の都合だけ言って話が壊れさえしなければ。誘いたがっていたのは彼女ゆえ、元より適任なのだ。
「本当に暇なときだけでいいんだ。あまり暇じゃないかもしれないけど、気分を変えたいときはあるでしょ?ニンゲンの街じゃお金だって要るし……あ、これは私達に言われることじゃないか」
黙って聞いていたクララがくすりと笑った。内容もさることながら、エアの慌てぶりが面白かったのだろう。
「な、何?私、何かおかしなこと言った?」
「はい。まるで意中の相手に告げるような……いえエルフの方は珍しいですけれど、ルースアの加護を期待して社でされる方が多いものですから」
幸い、残念な結末を見たことはまだないという。そもそも愛を守護する神社に呼び出す時点で、何の話か容易に察しがつく。断るつもりなら行きづらいし、その場に晒して恥をかかせるのも何だから人伝に手紙を届けて断りを入れる。涙を指で払い、時折くふふと笑いつつニンゲンの恋愛模様を語ってくれた。
「…お返事は後でお知らせします。社にも相談しないといけませんので」
「え……そ、それじゃ」
エアが明らかに落ち込む。それを見てクララはまた笑った。すぐ理由に思い当たり、激しく身悶えする。クララの冗談が事実だと認めるようなものではないか。
「…あ……いや違っ!そうじゃなくて……!」
本当に相談したかっただけ。クララにとっては家でも、他の者には神社である。あれこれいろいろと考えなければならないことがあるのだろう。
「あなたなら大丈夫ですよ?最初から男の人を相手にするのは怖くて、若い女の子同士というのも見かけますし」
「……そこから離れて。お願いだから、その話は忘れて……」
冗談である。後日クララはエアより二つ上と聞いたが。年齢に拠らず理解は深く、愛の形に決まりはないことを諭されたのだった。
☆★☆★☆★☆★☆
朝食の後、クララは神社へ戻っていった。
よい返事が来ると思う。かなりエアに懐いた様子。ウィルは不思議だった。自分がラダラムと出かけた晩、二人は何を話したのかと。
エアは日課の散歩……といっても今日からなのだが。土地勘の向上と情報収集を兼ねて、なるべく街の中を歩いている。ちなみに金は、飯代くらいしか持たせていない。
「…エルフが二人とルースアの神職。代表は兄さん、あんたかい?」
「ああ。名はウィルだ」
「エルフだから依代はいいよな。他は何ができるんだ?具体的には、前で戦える奴がいるのかどうか」
「俺は問題ないし、エアも少しならできる。弓矢も扱えるそうだ」
「精霊が呼べるなら要らないよ。手加減できないと困るしね……一般的には、ここで真言法師を加えるところなんだが」
「嬉しくはないな。俺達エルフの考え方は知っているだろう」
「まあまあ。郷に入りては郷に従え、ってな。ちょうど空いてるのがいるんだ。入れてやってくれよ?」
呼ばれてきたのは、トレスの街でウィル達を冒険者の店に案内した男だった。
初心者には見えない。空いているとはどういうことか。
「愉快な話じゃないが、魔獣に襲われて仲間を亡くしたんだと。通り名は『姿偸み』、真言も剣もできる魔法戦士さ。腕のほうは三号店のお墨付きだぜ」
一瞬、嫌な気配が漂うのは同じ。だが、それは間もなく笑顔に塗り潰される。霧散するのではない。隠れて見えなくなってしまうのだ。
「どうもお久しぶりです。こんな偶然があるものなんですねぇ。いや実は路銀が心許なくなりましてね?手頃な仕事がないか見ていただいたところなのですよ。はい」
訊かれてもいないことを喋る。それにしても……考えざるをを得ない。仲間を殺されたばかりで、この軽薄さは何なのかと。
最初のときも感じた毒気の正体は不明のまま。この態度だけでもエア、いや大半は拒否感を示すだろう。クララなど何をしでかすか分からない。
二人にこの男を見せたくないのか、この男に二人を見せたくないのか。判別に苦しむところだが、多分どちらも正解である。
「…いや、まあ。ヒトにはそれぞれ、悲しみ方があるからな?」
二号店の主アサダが執り成そうとする。彼はクララの身の上を知らない。同情を買いたかったのだろうが、この話は間が悪すぎた。
「どうにも……参ったね」
ニンゲンを嫌う気持ちはウィルの中にもある。ただクララと出会ったことで、彼らもエルフと同じように泣いたり笑ったりする存在だという実感を得た。
男の態度は、あの戦いを汚すもの。くだらない功名心から始まったとしても、そこで命を落とした者達の真実には変わりがない。
この男と組むべきか。答えは既に決まっていた。
「悪いが受け入れられない。他を当たってくれ」
クララでさえ不安なのだ。これ以上の厄介は持ち込めない。あんたの言動は混乱を招く、俺の仲間は訳ありでな――理由を訊かれたら、そう答えるつもりだった。
一瞬、またあの嫌な感じが漂う。
「仕方ありません。御縁がなかったと諦めましょう。幸運をお祈りしていますよ?」
妙に明るい。どこまでも不可解な人物だった。
☆★☆★☆★☆★☆
正式に冒険者登録をしてから六日後。ウィル達に仕事の依頼が舞い込む。
普通は実績のある者達を求めるが、今回は一見のほうが望ましいという。怪しければ断ると前置きしつつ持ちかけられた話は商家の用心棒。信用は確かであり、麻薬の取引や人身売買など後ろ暗い影はないと二号店の店主が太鼓判を押してくれた。
商家の家族構成は店の主、妻、娘の三人。年頃の娘がいることもあり、三人中二人が女性のウィル達を頼ることにしたらしい。またエルフと神社の関係者なら、裕福なニンゲンの家庭で聞こえたあれこれを言い触らさないだろうとの読みもある。
仕事の時間帯は夜だ。『満たされぬ者』ルースアの時刻から翌『豊穣の女神』ラフィニアの刻限まで。分かりやすく言えば日没から夜明けまで。
昼は大勢の使用人がいるため、まず危険なことは起こらない。対して夜は住み込みの番頭が一人だけ。近頃物騒だから何となく不安になった、と。
心配の種とはアトルムの報復か、との質問には意外そうな顔をされた。ウゥヌスに住む一般市民の間では、あまり知られていないらしい。
「特に何か、というわけではないのですが。用心ですよ、用心……」
それだけで余分に三名を養うのか。クララによると、何もないかもしれない用心棒代で一人一日八十イェンは破格の報酬だという。珍しい食べ物や飾りに目移りするエアが散財しても金に困ることはない。
「では、本日もよろしくお願いいたしますね」
「…あれ。ウカイさん、出かけるの?仕事はもう終わりだよね?」
店先で番頭と擦れ違ったエアが声をかける。真面目一辺倒の彼は夜遊びをしない。それが祟って四十を過ぎても独身のまま、お陰で主の信頼を受けてもいる。
「ええ、まぁ……」
珍しく言葉を濁した。クララの瞳が妖しく光る。
「いってらっしゃいませ。こちらのことは心配なさらず、私達にお任せください」
ぐぐいとエアの腕を引き、店の奥へ引っ込む。大人しく攫われてきたエアには、何が何やら分からない。
「察してあげましょう。良いヒトのところへ行くのですよ」
「良いヒト?」
「恋人のことです」
聞かされたエアは生温かい笑みを浮かべる。最初はクララの言葉を真に受けていたが、近頃は少々。物事の見方が恋愛に偏っているのだ。
それはさておき、今宵も重要な儀式がある。仕事を始める前に、これだけは必ず三人一緒で。何を措いてもやらねばならない。
『夢魅せる者』セラの刻から順番に一人ずつ、それぞれ二時間仮眠する。
ジャンケン勝負だ。勝った者が先に休み、夜明けまで働くための鋭気を養う。
「…せーの」
「せっ、せっ、ほ?」
「……勝ちました」
「今度こそ……せっ、せっ、ほ?…あぁあ!」
「お前の負けだな」
「……うぇええ……」
結果はクララ、ウィル、エアの順。今日までエアは連戦連敗である。
仕事を始めて四時間後、クララが庭の片隅で膝を抱えた。
「ではお先に失礼して。お休みなさい」
間もなく寝息を立てはじめる。休めるときに休む、そのあたり彼女は慣れていた。無謀な幼馴染み二人にアトルムの縄張りを連れ回されていただけのことはある。
「あーあ。可愛い寝顔しちゃって……」
毛嫌いする魔族と同じ屋根の下。ゆっくり羽根を伸ばしながら。
実際にクララと話してみて、エアのほうは含むところが消えている。家族や親しい者に被害がなかったこともあるが、根に持たない性分なのだ。
「…折角だから、少しだけ……」
脇腹に迫ったエアの指をウィルの手が叩く。音はしないよう加減されている。その割、思いのほか痛い。
「それで?若長への報告には行ったのか」
「…ううん。まだ、なんだけど。そうしてるうちにこうなっちゃったし」
ラダラムの護衛からこっち、トレス――ウゥヌス――デュオと渡り歩いて暇らしい暇などなかった。足掛かりに使えそうなニンゲンを見つけた以上、多少の遅れは甘受しても街での地盤固めを急ぐべきと考えたのである。
「村へは俺が戻ろう。エアはここに残ってくれ」
この仕事を続ける限り、金銭面は保証される。
クララを繋ぎ留めておくのは、エアにしかできない仕事だ。一方クァトゥオルでアトルムの女と戦ったのはウィル。どちらが報告に適しているかは明らか。
ミカゼに会いたい一心のときは忘れていたが、エアにもライセンへ戻りたくない事情がある。ニンゲンの動きを変えるのはともかく、動向を探るだけならエアひとりでできなくもない。ウィルと一緒に送り出されたのは、養父なりの親心だと分かっていた。いずれ望まぬことならば、少しでもマシと思えるほうを選べ、と。
ウィルもそれを察した。アトルムの社会では、古くからの習わしである。
「逃げたって……思われてるよね」
「……………」
誰が、何から?訊ねてくる視線を受け止められない。
「あ、あのさ」
気づいたときには口走っていた。自分で自分を止められない。自分が何を言っているか分からない。喉が痞える。まるで別人のような上擦った声。
「…ウィルさえよければ、私……!」
草色の瞳に苛立ちが表れて消えた。
「……おはようございます」
二人の視線が引きつけられる。土蔵の壁を背負っていたクララのほうへ。
「眠れたようだな」
「はい。お蔭様でゆっくりと」
「……………」
塀を攀じ登り、瓦屋根の上から外を見張る――相棒のぎこちない挙動を黙って見過ごし、ウィルはそのまま仮眠に入った。
屋敷の二階から塀の上へ歩いてゆく道がある。瓦を直したりするためであり、特別な心得のない普通のニンゲンでも大丈夫だ。冒険者の端くれなら尚更である。
その割に時間がかかってしまい、挙句ふらついてエアの手を借りるクララだったが。数分後どうにか渡りきった。見晴らしのよい場所へ戻り、エアの隣に腰を下ろす。何度か深呼吸すると、ようやく腹の底が落ち着いた。
☆★☆★☆★☆★☆
「……何を、話してたんですか?」
尋問のように感じたとしたら、それは聞く側に問題があろう。クララの声は、いつもと変わりなかった。優しく諭すような、でも少し面白がっているような。
傍から見れば悪い癖だが、彼女という人間の素直な親しみの表れ。それが分かるくらいには、エアも相手の内面に興味を抱いている。
「秘密、って言いたいところだけど。クララには分かっちゃうよね」
「ええ。というと、やはり?」
無言で頷く。何度も訊かれて否定しなかった事柄がある。
「私からウィルに言い寄ったの。返事はなかったけど、何となく」
相手にされなかったと。子供と見られたか。正気を疑われたか。本音は不安。少し怖い。思い当たる節ばかり、嘘の多い言葉だったと自分でも解る。
「私ね。族長の血筋だから、そういう話が沢山あるの」
「人間の世界も同じです。権力者やお金持ちに取り入って楽をしたい。自分で築くより簡単だと考えてしまうヒトは後を絶ちません」
ルースアの教義では、愛を至上のものと見做している。それゆえ他の何かを得るため愛を使うことは認められない。愛への愚弄、愛に対する冒涜だからだ。
実力主義のエルフにも権威の概念は存在する。力ある者がエアを求め、飾りとして傍に置こうとしたら。不幸なことだが、今の彼女に自分を護る力はない。頼り甲斐のある無欲な若者が都合よく現れてくれた――そんなことを考えたりはしなかったか。
「本当に逃げてるのが、彼には分かったんだと思う」
求められぬゆえ与えず、ただ欲しいものを手に入れる。それではいけない、与えなければと思ったこと。エアの嫌う卑劣な打算に他ならない。
「エアさんはウィルさんの、どういうところがお好きですか?」
「……はっきり訊く?今にも恥ずかしくて死にそうだけど」
「訊かないと教えてくれませんから」
「…飾らないところ。優しいところ。でも時々、叱ってくれるところ」
「他には?」
「いろいろ隠そうとするところ。私を心配させないように……とか。これくらいでいいよね?いいでしょ?もう」
「はい。それだけ言えれば充分です」
満足して微笑む。悪戯な目の輝きは相変わらずだ。
「あなたは愛を偽ってなどおりません」
だから大丈夫。心配しないで。これからも気持ちのままに。
時間はかかるかもしれないけれど。受け容れてもらえるまで。
エルフの生は長い。
ただ。ただ想いを伝え続けること……
「こんな可愛いのに。要らないなら私が取っちゃいましょうか」
「…え、あの……クララ?」
抱き締めてきた少女は、とてもよい香りがした。
(あ。カスパルの鐘……)
交代の時間だった。そのまま眠りの底へ落ちゆく。
「よい夢を。あなたに豊かな恵みがありますように……」
『満たされぬ者』ルースアの下僕の腕に抱かれながら。
ルースアの愛は届かない。『霊感を授ける者』リネーアの刻が、『夢魅せる者』セラの前に立ちはだかる。月影は理性を狂気に、狂気を理性へと映し返す。
満たされぬ愛は祝福か、呪いか。
クララが自分への問いとして考え続けた命題である。それはヒトによって、状況によって違うとしか言えない。
もはや叶う見込みのなくなった、ジェフやマルク達死者への愛。新たな想いを見つけるまでは祝福だろう。それを心の支えに生きてゆくことができる。しかし次を見つけた途端、忘れることは許さぬと心の傷を抉り苛む。
一方で相手が生きている、しかし叶う見込みの分からぬ愛も呪いである。これは最も性質が悪く、ほとんど熱病も同じ。周りに否定されても本人から拒まれても燃え上がることがあり、周囲を巻き込みながら相手と自分の双方を焼き尽くす。
俗に云う火傷をする、というやつだ。
しかしクララは思う。だからこそ愛は面白い、と。渦中に身を置けば、また新しい愛を見つけることができるのではないか。
「…手間をかけたな」
「いいえ。ですが……」
今のところウィルは気づいていない。曖昧な態度の後始末を、お節介な専門家が勝手にしてくれたものと思い込んでいる。
エルフの少女を気に入ったゆえ、全然ないというわけではない。エアの愛を応援し、できることなら成就させようとの気持ちはある。だが半分は自分のためだった。全てを灰に帰し、新たな愛を芽吹かせる燎原の火に焼かれてみたい。
よって種を蒔くのだ。どちらの心にも、燻る大きな茜色の火種を。
「いっそ気持ちに応えてみては?嫌いではないのでしょうに」
言葉では突き放すように、しかしながら慈愛を込めて。特段障害のない相思相愛の二人なら、これだけで前進する。障害がある場合も、神職という身分が大いに役立つ。
「……分からないのだ。どうすればエアのためになるか」
かかった。あとは自主的に悩みの澱を吐き出してくれる。
これがルースアの奇蹟。心に深く入り、対象の本音や願望を暴き出す。
相手は選ばなければならない。さもなくば血を見ることもあろう。このような罪なき想いを、クララは久しく見ていなかった。
「最初は兄を求めていると言った。事実だと思う……それでいて先程の話。俺が答えに窮しても、気に病んだ様子はない」
「……やはり取っちゃいましょうか」
諧謔の一押し。義理の兄と妹が結ばれた例は数多くある。
「それくらいのほうが、あなたにはよいのかもしれません」
「悪い冗談だ。本気のつもりなら、族長と義父を紹介するぞ?」
エルフの父祖にニンゲンを紹介できるはずがない。何よりクララは女だ。
「…それこそ悪い冗談ですね」
愛の使者は花が咲くように笑った。それでこの話は何もかも終わったのである。
☆★☆★☆★☆★☆
翌朝。六時を過ぎても寝ていたエアは、慌てる使用人の声に飛び起きた。
「何があったの?ねえ」
「行くぞ。表だ」
番頭のウカイが殺されたという。遺体は今しがた、店の若い衆が引き取りに行った。
誰が何のために?知り合って十+日足らずだが、恨まれるようには見えない。それこそクララが思ったように、遅い春が実は火遊びだったとか。そういうことでもない限り。
ウカイは天涯孤独らしい。店の者達は彼が夜中に出かけていたことさえ知らなかった。とすれば主人夫婦か娘、同じ屋根の下で暮らす三人に訊ねるより他はない。
「あれ?そういえば旦那さんは?」
「…いないな。まだ寝ているということはあるまいが……」
商人の朝は早い。騒ぎがなくとも、この時間には起きているはず。
「行きましょう。奥様の姿が見えないのも気になります」
居間では奥方がひとり片隅で震えていた。
番頭が死んだことは、もはや耳にしていよう。ひたすら譫言を呟いている。
「……ごめんなさい。ごめんなさい。でもまさか、こうなるなんて思わなかったの。娘のためとはいえ長年尽くしてくれたあなたを……こんなことなら行かせるんじゃなかった。下手な考えを起こさなければよかった……」
「………何だ?」
「分かりません。説明していただかなければ」
「ユカリさん、どうしたの?旦那さんと娘さんは?まず何があったのか教えてよ」
クララが神に祈りを捧げ、夫人はすぐに落ち着いた。商人の妻だけあり、話を纏めて効率よく要点を伝えるのは上手い。
それで分かったことは三つ。まず娘のアユミが夫婦の実の子ではなかったこと。貧しいやもめの男に頼み込まれ、子供のいない夫婦が引き取り育てることにした。当の娘は幼かったため、そのことを知らない。
二つめは本当の父親が近くにいて、ここ半月ほど返してほしいと絡まれていたこと。暮らしが落ち着いて昔の自分とは違うからと言われたものの、養い親としては八年も我が子として育てたのに今更何をという気持ちもある。
最後のひとつは残念ながら手遅れだった。使用人では唯ひとり、番頭のウカイがこれらの事実を知っていたこと。
「理解できなくもありませんね。子は親にとって命を懸けるものです」
「クララ。話がややこしくなるからやめよう?」
「…ウカイさんは、あの子の父親と会っていました。少しでも時間を稼げると思って……私が止めるべきだったんです。ちゃんと止めていれば、ウカイさんは死なずに」
「順を追って話してくれ。時間を稼ぐとはどういうことだ?待っていれば解決する見込みでもあったのか。ウカイは何をしに行ったのだ」
「それは……」
「話してください。とても重要なことなのです」
ユカリはようやく語り始めた。夫のショウゴは娘を預けにトレスへ向かったと。ユカリの実家は有数の大店、昼間でも大勢の傭兵がいる。血縁はなくとも孫、両親はアユミを猫可愛がりしてくれた。何があろうと必ず護ってくれるはず。
「…なるほどね。私達は繋ぎだったんだ……」
「失礼かと存じましたので。今となりましては、隠していたのが仇になったと……」
「いや、構わない。それより別の護衛は頼んだのか。実の父という男は、腕の立つ者なのか。道中、万が一ということもあり得る」
ユカリは首を横に振った。
「サヤマは料理人ですから、それほど強くはないと思います。ただ荒れていた時期があったとかで、暴れると素人では……」
「…おかみさん。番頭さんの遺体が戻りました……」
店番をしていた手代の男が呼びに来る。奥方を居間に残し、ウィル達が向かう。
「庭蔵へ回してくれ。できれば見せたくない」
そのとき店のほうで悲鳴が上がった。何やら差し迫ったものを感じる。惨たらしさのあまり恐れをなしたのとは違う。
急ぎ駆けつけると、店先に出刃包丁が陣取っていた。
歳の頃は三十五。無精髭の目つきが胡乱な男だ。少し酒が入っているかもしれない。だが足取りは酔っておらず、その気になれば多くの犠牲が出るだろう。
逆手に構えて脅しつつ、招かれざる客は大声で叫んだ。
「よくも騙しやがったな!全部手前ェらの入れ知恵か!?」
行儀見習いのためウゥヌスの知人へ預けることにしたと、偽情報を流したウカイの策略にまんまと嵌められたらしい。
「旦那を出せ。おかみもだ!ぶっ殺してやる!」
当たるに任せて商品棚を蹴り倒す。綺麗な小物や雑貨を売る店だが、これではもう商品にならない。撒いたばかりの打ち水や埃が染みてしまっている。
ここは用心棒の出番。まずウィルが暴漢の前に進み出た。
一瞬怯む。エルフはほぼ全員が冒険者と知っているのか。それでも男は分の悪い賭けを続行した。続行しようとした。後ろに矯めて突き出そうとした刃の利き腕を、横合いからエアが攫う。俯せに引き倒し、捻り上げて腕を極める。落ちた包丁はクララが回収。特に打ち合わせはなかったが、この程度の相手ならわけはない。
「……もしかして解決?呆気ない終わりだね」
馬乗りのエアが嘯く。これで職を失うことに気づいていない明るさだった。
「そいつも蔵へ放り込んでおけ。後で衛兵を呼ぼう」
☆★☆★☆★☆★☆
土間に寝かされたウカイの遺体は、見たところ傷らしいものがなかった。
毒殺?溺死?驚きの表情ではあるが、それにしては苦悶が少ない。運んできた若い衆のひとりが衛兵に聞かされたことを教えてくれる。
「背中をバッサリ、だそうです。後ろから襲われたら、誰だって振り向いたりすると思うんですが……」
遺体を裏返してみた。細長い斜めの線、ウカイは一太刀でやられている。
「……仕掛人か」
金で殺しを請け負う者達。いかにも反社会的だが、ニンゲンの国ではそのような仕事さえ成り立つ余地があると聞く。
しかし、そう考えると腑に落ちない。これほどの腕利きを雇っておきながら、何故自ら店に乗り込んできた?確実に夫婦を殺るなら玄人に任せておけばよい。それとも騙された怒りで我を忘れたと。高い金を払っておきながら、いとも簡単に。
厭な予感がする。この男はまだ、重大な秘密を隠しているのではないか。
「…暗殺者はどうした」
クララが息を呑む。薄汚れた笑みを見るまでもなく理解した。もはや自らの手で娘を取り戻せる望みはない。矛盾する態度に潜むものとは。
「どうしたと訊いている!」
「凄腕のエルフよ。俺のもんにはできなかったが……あいつらにもやらねェ」
「馬を貸して!早く!」
エアが飛び出していった。念のためクララは店に残る。神社の者なら衛兵との繋ぎも取りやすい。余所者のエルフでは、どうしても遠慮が先に立つ。
娘を逃がすと知っていたのは、この家に暮らす四人だけ。偽情報に踊らされたと気づき、ウカイを捕まえて本当のことを吐かせたうえで殺したのだろう。それから自分は店へ、暗殺者はショウゴとアユミを追ってトレスに。
もう止められない。サヤマが心変わりしても、凶行を防ぐ手段はなくなった。
(いや……まだだ。ウカイが殺されてから半時と経っていない。今すぐ追いかければ、賊が二人を襲う前に捉えられるはず)
そこに馬の用意を終えてエアが現れた。
「ウィル!急いで!」
エルフに獣を駆る習慣はない。が、今は非常時だ。後ろへ跨りつつ、迷いなく手綱を緩めて走り出した小柄な背中に問いかける。
「乗れるのか?」
「多分ね。飛ばすから摑まって!」
馬の脚は、平地においてもバーゲストより遅い。しかし進み続ける体力だけは、変異の魔獣を上回っていた。陽が高くなる頃には、道行きの大半を駆け抜けたのである。
☆★☆★☆★☆★☆
放たれた暗殺者を追い、ドゥオを発ってトレスへ。海辺の港町から内陸の交易都市までは、最近造られたばかりの石畳を通ってゆく。
例外はない。街より土に慣れていて、星を読むことに長けた野の賢人達を除いては。
街道を外れ、道なき道に入る。この方角を突き進めば、賊より早く追いつけるはずだ。サヤマの言うとおり暗殺者がエルフなら、まず馬の扱いには慣れていない。幼い時分からルークの背中に揺られてきたエアのほうが特別なのだ。
(それにしても……)
揺れの酷さに閉口しつつ、ウィルはニンゲンの言葉を思い返していた。
(凄腕のエルフ――あの男は、確かにそう言った。しかし味方を敵に回すような愚行をニクスがするだろうか?)
有体に言えば、そういうことである。
ニウェウスもエルフ、ニンゲンは嫌いだがアトルムより狡猾だ。そして彼らの祖たる四柱神が、ニンゲンを滅ぼすのではなく導くべきだと教えたことも大きい。
すなわちライセンを襲った男のように、はぐれ者の仕業と考えられる。逸脱者が何をしても、部族全体では与り知らぬという立場だ。
そのような言い訳を認められるはずもないが、さりとてニンゲンの側もエルフと戦争などできようか。元より彼らには、侵略者の自覚がある。ようやく存在が黙認された現状を捨ててまで、有力な先住民と事を構える動機はない。
ニウェウスの側も、背後にアトルムを抱えている。勝てぬとは言わないが、甚大な被害を被るのは必至。それゆえ与しやすいと思われるほうの足元を見ているのだ。ニンゲンとは愚かな生き物であり、容姿の美しさに惑わされ容易く敵意を忘れてしまう。
整っているのはアトルムも同じだが、彼らには魔獣の問題がある。噂の独り歩きを差し引いても、それらの偏見が解けるまで共存の道はあるまい。
その問題と偏見の元が、ウィルとエアの行く手に立ち塞がっていた。
下等の魔獣である。それも言葉を理解しないヘルハウンドやスライムなど。口蓋の形が適さないからではなく、知能が低過ぎるため理解できない。懐かせようにも複雑な意思疎通は不可能であり、結局いずれは野生化してしまう。。残飯を漁り歩く捨て犬や野良猫と同じ、いや劣るというのがアトルムの認識である。
「…厄介なのが出てきたね」
「ああ。遠回りしていくか?」
それでは道を外れた意味がない。昼までに着けず、凶行を許してしまう惧れもある。
「ウィルならやっつけられるでしょ。こないだのお兄ちゃんと師匠みたいに」
出発前、エアがミカゼと会っていたときのことだ。直接は見ていないはずだが、地面の荒れ具合から何があったか察したらしい。
昔はもっと行われていた相棒同士の真剣勝負。二人の実力は知っているし、それと肩を並べる依代の腕があるなら。たとえ視界を埋め尽くすほどの数がいても。
「…このまま走れ。絶対後ろを見るなよ」
何も起きなかった。しばらくの間、同じように馬を進めたのみ。堪えきれなくなったエアが視線を送り、無言で窘められる。
変化があったのは、かなり近づいて魔獣の群れに見つかったとき。獰猛な数匹が向かってこようとする。しかし牙やら爪やら触手やらが届く前にウィルの身体が閃光を放った。まともに見てしまった個体は眩しさのあまり動けなくなる。光の精霊は無色透明であり、そこから繰り出される攻撃は完全な不意討ち。下等な魔獣に退けられるものではない。
下等といっても生存本能だけはヒト以上。未知の現象に恐れをなす。異形の者達が蠢く原野を抜け、再び街道へ戻った。悲鳴も遠ざかる頃、ぽつりと呟く。
「…優しいんだね。ウィルは」
「そういうわけではないが……」
エアの前で殺すことに遠慮がある。ルークと知り合うまで、彼の身近に魔獣はなかった。
「知性のないやつだから。そこまで情けをかけられないよ」
ウィルの耳には、言い訳がましく響いたのである。
☆★☆★☆★☆★☆
オオハラ商店の主ショウゴは、子煩悩な男だった。
愛娘が転んだと聞いては即座に駆けつけ、熱を出せば仕事を放り出して看病しようとする。そして妻に叱られ、意気消沈して使用人達の苦笑と同情を買う。どこぞの小路を少年と歩いたら、嫁に貰う気があるのか幸せにできるのか云々。娘のアユミは十歳である。
「…ん……あれ……?」
ここはどこ――琥珀色の瞳が問う。不機嫌に映るのは眩しさのせいだ。反抗期を迎えてなお、この娘が父親に八つ当たりめいた言葉を浴びせた例はない。
「起こしてしまったか。もう少し休んでもよかったんだが」
荷台の中、隣で幌の外を見張っていた男がぎこちなく微笑む。知人が経営する商会の深夜輸送に紛れ込ませてもらったが、想像以上にきつかった。手足の軋みは勿論、剝き出しの木板による尻擦れ。幼い娘は、なおのこと辛いはずである。
「アユミ。お尻が痛いだろう?父さんの膝に座りなさい」
「でも……」
図星のようだ。先程から落ち着かない様子で位置を変えたり、もぞもぞと動いたりしている。誰かに見られたらと恥ずかしがっているのだ。
「大丈夫だよ。いるのは御者さんだけだから」
その御者とは布一枚隔てており、仕事中の今は安全確保に余念がない。二人が悲鳴でも上げない限り、わざわざ覗くことはないはずだ。
「…それなら……」
幌の外を窺い、ちょこなんと座る。微かに寄りかかってくれるものだから何とも。
(…この温もりのためなら何だってやるさ。絶対アユミを護ってみせる)
誓いも新たに娘の背を抱く。最初は反感だったと思う――稼ぎが悪いからといって娘を手離したいなど。親は子を育てるもの、できない理由があるものか。
親は、なろうとしてなるものだ。産んだだけでは、産ませただけでは親にならない。羽振りもよかったにせよ、ショウゴ達は大枚惜しまずアユミを我が子に迎え入れた。その機会を投げ出した男とは違う、それだけに。
(アユミは私達の子だ)
改めて念じる。ここまで育てた以上はショウゴとユカリの子。お腹を痛めていないとか、血が繋がっていないとかは関係ない。
「…お父さん。苦しい……」
小さな手が藻掻く。いつの間にか抱き締めていたらしい。
「…あ。ごめんな、つい」
「人前じゃダメだよ?友達に笑われちゃうもん」
家の中なら構わないのだろうか。思わぬ言葉に嬉しくなった。数年もすれば、どうせ然るべき相手を連れてくる。こうしていられるのも今だけなのだから。
「…そろそろですよ」
御者が教えてくれる。長かった不安の道行きもこれで終わりだ。
妻の実家へ赴き、サヤマが捕まるまで娘を預ける。離れるのは辛いが、家族同然の番頭さえ殺されるに至っては。
「お世話になりました。タオさんによろしくお伝えください。明後日には私も戻りますが、改めてお礼に伺いますと」
「……………」
「…ベイカーさん?」
不意に馬車が止まった。何があったのか訊ねようとして驚く。
声が出ないのだ。口や喉は動いているのに。そういえば車輪と石畳の擦れる音も。
怯えるアユミに目で大丈夫と伝え、ショウゴは御者台の様子を窺う。が、そこにいるはずの姿は消えていた。視線を泳がせると、地面で苦しげに倒れている。
タオ商会の御者は冒険者あがりが多く、一線を退いても半端な夜盗などに後れは取らないという。それゆえ遠慮して用心棒を残してきたが。
(これは一体……?)
思わず目を奪われ、幌から身を乗り出す。
そのとき激しく馬車が揺れ、不安定な姿勢のショウゴは荷台から放り出された。何らかの術によるものだが、ヒトならぬ獣に知る由もない。蹄鉄の届かない場所まで御者を引きずり、そこで自分を刺そうとした黒い膚の存在に気づく。
今度こそ震えた。娘を取り戻すためとはいえ、よもや悪魔に取り入るなど。
(……アユミ……!?)
賊と娘の間を遮るものはない。このまま攫われてしまえば終わりだ――そう考えたかどうか。御者の腰から短剣を抜き、矢も盾もなく吶喊する。
「…『変わらざるもの』よ。近づくこと能わず……」
男は微動だにしなかった。にもかかわらずショウゴの刃は届かない。まるで見えない壁に阻まれたかのよう。目深に下ろしたフードから一瞥、荷台へ登ろうとする。
アユミの悲鳴は聞こえない。恐怖のあまり気絶したか、それとも泣き叫んでいるか。どちらも父親としては想像するに余りある。再び突っ込むと、今度は剣で弾かれた。しかしショウゴを殺すつもりはないらしく、悠然と得物を仕舞う。
(万事休す、か)
御者は目を覚まさない。敵は一番脅威になりそうな相手を潰したのだ。言い換えれば、素人の商人などは何人いようと障害にならない。
状況は絶望的だった。横合いから突き進んでくる一頭の馬を見つけるまでは。
☆★☆★☆★☆★☆
荷台の前を弓矢が掠め、フードの男は馬車から落ちる。
形勢は逆転していた。それでも諦めない。邪魔者を迎え撃つべく、こちらも弓矢を取り出す。近距離特化のクロスボウだ。戦より狙撃や暗殺に向いている。
「これ!どうやったら止まるの~!?」
慌てるエア、やはり兄の背中とは違うらしい。もっとも普段は乗るより乗せられている。後ろのウィルは、姿勢を低くして転がるように滑り落ちた。若干の擦り傷はあるが問題ない。依頼人の安全を図るべく、短剣を片手に挑みかかる。
「どこの部族だ。先日小競り合いがあったのを知らぬではあるまい」
当事者に断りなく勝手な真似を。襲われたのはライセンなのだ。
「……!?」
襲撃者のフードが揺らめき、隠れていた髪の色を覗かせる。
赤褐色。自然なエルフの色ではなかった。熱の精霊を宿し、全身の色を変えている。恐らくニウェウス。捕まえれば何か判るかもしれない。
触れれば火傷をする熱の依代は、全身が武器のようなもの。殺さず捕らえるには厄介な相手だ。不利と見たのだろう、この場を離れようとしている。
行くなら追手の片割れが翻弄されているうち。そう考えたのか、牽制の駄目押しに灼熱の小石を投げつけてきた。全部は払いきれず、追撃の足を鈍らせてしまう。賊はにやりと笑い、背中を向けて駆け出した。
ウゥヌスへ逃げ込まれたら負けだが、藪の中を馬で追うのは難しい。さりとて大人しく見送るわけにも。となれば一か八か。
「エア!」
ウィルの光彩と髪が淡い翠に変わる。エアも馬を飛び降り、打ち身だらけで短弓を構えたところだった。どこか捻ったのだろう、小刻みに頬が歪む。
「直線で狙え。重さや風向きは気にするな」
「分かった」
弓を引き絞る。しかし的が思うように定まらない。
遠いのだ。最初の牽制とは違う。致命傷を避け、確実に相手の足を止める。
飛距離は相棒が稼いでくれる。限界はあろうが、慌てる必要はない。仰角、天候、動きの読み。重要な補正を一つずつ、慎重に巻き戻してゆく。
全ての準備が調ったとき、エアは気負いもなく囁いた。
「……行くよ」
バルザの頭に腐りかけの林檎を命中させた実績はある。
あれは遊び半分だった。練習もまだ足りない。
それでもやらなければ。賊が同胞ではないことを証明するために。
依代と化したウィルは応えない。エアの一挙手一投足に細心の注意を払う。
狙いに全てを傾けた右手指は、慎ましく短弓の弦を離した。矢は風精の加護を受けて進み、後ろから光のように獲物を貫く。
当たったのは肩。脚ほどではないにせよ動きを止めるのに都合がよい。すぐには死なず、痛みのあまり気を失うこともあるからだ。
「大丈夫?どこも怪我はしてないよね」
右足を引きずりながら幌へ。娘の無事を確認する。見たところ父親も問題なさそうだ。むしろエアのほうが心配かもしれない。あれは確実に挫いている。
二人を任せ、ウィルは賊のほうへ歩いていった。
まだ意識がある。できれば今のうちに話を聞きたい。
「何が狙いだ。ニンゲンと事を構えるつもりか」
「お前こそ何者だ……何故、我々の邪魔をする?」
バレてはいないようだ。それより仲間がいるような口ぶりのほうが気になる。
「一応、仕事だからな。我々というのは誰のことだ?どこぞの集落か」
「……………」
「お前の名は。それくらい……いや」
口を噤んでしまった。ならば今は、このまま続けても意味がない。
「……そいつ、どうするの?」
「監禁する。泥を吐かせたい」
死んだことにすれば、衛兵に渡さなくて済む。エルフなりの弔いがあるなどと言って。
「村まで連れてく?」
「いや。遠すぎる。緩衝帯の北、獣人族も立ち入る場所がいいだろうな」
最先住民という経緯から、獣人族はアトルムとニウェウスどちらからも受け容れられている。アトルムは魔族の誼、ニウェウスは女王ティターニアの強い希望で。ここに隠れ処を造り、錯乱した怪我人を匿うと言えば。おヒト好しの栗鼠らが面倒を見てくれる。そのうち騙されて逃がすかもしれないが、こちらの正体を知られなければ問題ない。
「しばらく眠っていてもらうぞ」
首筋を打って気絶させた。馬のところまで運び、俯せに積む。
タオ商会の御者が目を覚ます。賊に手もなくやられたと知るや恐縮し、安堵の表情も見せた。商品に死臭が移ることを恐れたのかもしれない。
「『変わりゆくもの』よ。残り寿命と生殖制限の有無を教えて」
応急手当のみ施し、創術の神に伺いを立てる。色が白いゆえニクスだとは思うが、未知の擬装という可能性を考慮して。
「…どうだ?」
「『雪』。どういうつもりで『闇』に化けたの……?」
それぞれニウェウスとアトルムを示す隠語。ニウェウスとは『雪のように白い』ことを、アトルムは『闇のように暗い』ことを指す。ちなみに蔑称として用いられる『ニクス』『アトラ』は『雪』『闇』そのものである。
「…ど、どうかなさいましたか……?」
まだ落ち着かないショウゴが娘の肩を抱きながらやってくる。あまり見せるものではないが、ここは重要なところだ。二人が有力商会の関係者ということもある。馬の背に載せた荷物を示し、彼らの身に起きたことを搔い摘んで説明した。
「こいつはニウェウスだ。同胞として恥ずべきことだが、あんた達を殺してアトルムに罪を着せようとしたのかもしれん」
そのとき丁度マナが尽きて襲撃者が正体を現す。精霊の依代は、宿した精霊の種類によって膚や髪、光彩の色が変わる。
謝罪を匂わせたウィルの言葉に、ショウゴは慌てて首を振った。
「め、滅相もございません。娘を護っていただいて、そのようなことは」
「あんた達は命の恩人だ。失礼な真似はできないよ」
御者ベイカーも同意する。ひとまず上手くいった。このことを含めてニンゲンの反応、特にも先の戦に対する考えを知っておきたい。上層部もクララと同じ認識なのか。
(…『我々』と言っていた。よもや小金が目的ではあるまい)
ニウェウスの全体または一部で、何やら謀略が動いている。ニンゲンを警戒しての任務だったが、アトルムを陥れるつもりなら見過ごすわけにはゆかない。
掲示板にもアトルムや魔獣絡みの依頼が多かった。あれは普通のことではなく、このところ急激に増えているのだとすれば。
調べておく必要がある。どこの誰が、どのような事件を起こしているのかを。
☆★☆★☆★☆★☆
「じゃあね。おじちゃん、お姉ちゃん。助けてくれてありがと!」
襲われた恐怖の影もなく、アユミは父と共に祖父母の店へ入っていった。
「……おじちゃん、だって。ウィルだけ、おじちゃん……っ」
「…老け顔で悪かったな」
「ううん。形じゃなくて、いつも顰め面してるのが悪いんだよ?」
「これも生まれつきだ。それより」
『遺体』の始末。首尾よく任せてもらえたが、閉じ込めておくつもりの場所までは遠い。ウゥヌスから見てトレスと森は東、海に面したドゥオは南だ。
アトルムが犯人とされる事件には、どのようなものがあるか。全てとは言わずとも、傾向が分かる程度には調べておきたい。ドゥオで待つおかみとクララへの報告も。よってここから先は、手分けして進める必要があろう。
ウィルは森とトレスへ、エアはオオハラ商店とドゥオへ。それぞれ十日ほど調べた後、ここウゥヌスの待ち合わせ場所に戻る。店は街中の一方、隠れ処はこれから造るもの。エアのほうが楽そうだが、創術で治したはずの足の具合が思わしくない。療養を兼ねてゆっくりと、場合によってはウィルが二つの街を調べてくるのを待つことも考えている。
記録しておいた身体情報に上書きする法術はニウェウスのもの。特定部位だけの時間を巻き戻す創術は、非常に高度でありライセンではネロとグスマしか使えない。
「…じゃあ、先に帰ってる。ウィルも気をつけてよね」
やや肩を落として見えるのは気のせいだろうか。思うように働けなかったうえ、足を痛めた理由も飛び降り方が悪かったためでは無理もない。
今度は穏やかに、手綱を握って揺られる背中を見送った。ウィルが頼む前に、ショウゴのほうから馬の貸付を申し出てくれている。言うまでもなく無料。娘や自分を護るために怪我をしたのだから、これも一種の危険手当だと。
ウィルには娘を連れ出すのを黙っていたことへの詫びと謝礼。正規の報酬は別として、ショウゴの懐から百イェン金貨十枚を受け取った。これでドゥオへ戻るまでの間、食い扶持や調査費用など諸々を賄うことができる。
(聞き込みは後だ。まず身軽にならなければ)
そのほうが結果として早く用を済ませられる。
まず森へ。賊を葬りにゆくウィルにもショウゴは馬を出させた。返却不要とのこと、完全には割り切れていないのかもしれない。味方を欺いたようで……いや事実騙されたのだが、番頭が殺されたこととは関係ない。多少なりとも心が痛む。
途中、珍しい果物を扱っている店に立ち寄った。
手土産である。これを渡す相手こそが、今から行うことの成否を握る。この程度で歓心を買えるなら、金貨の一枚や二枚安いものだ。
他はトレスの街をほぼ素通り。水と保存食を三日分買い込んだだけ。道行くエルフに目を走らせ、そのうち何割がアトルムなのだろうと思いを巡らす。こうしている限り、アトルムもニウェウスも大差ない。秩序を受け容れてニンゲンの街に順応している。街の空気は、ヒトの心を自由にするのかもしれない。種族の軛を解き放って。
そうなると考えてしまうのだ。仮にニンゲンが消えたとしても、このまま争いを避けられるのではないか。街の外でそれができないのは何故だろう、と。
ここから先に道はない。いつもラダラムが護衛の魔道兵と一緒に歩いてくる場所だ。獣人達が長い年月をかけて踏み均したとはいえ、無骨な荷馬車しか通れない。自分の力で大地を踏みしめ、一歩ずつ進んでゆくしかないのである。
(この辺りでいいか)
買ってきた果物を一つ、包みから取り出して刃物を入れる。瑞々しさが売りのそれは、途端に甘い豊かな香りを周囲にばら撒く。自分は干し肉と水で腹拵えをして待つ。
やがて視界の端に、茶色い小柄な影が姿を現した。茂みの中からぴょこんと頭を出し、慌ててまた潜り込む。他にも誰かいるのだろう、罠だ何だのと言い争っている。
こうなれば時間の問題だ。結局最後には「でも美味しそうだよ?」という身も蓋もない一言が聞こえ、水を打ったように静まり返る。やがて叢の奥からぞろぞろと、前に道案内を頼んだのと同じ姿の連中が集まってくる。
「ね、エルフのお兄さん。ここで何してるのかな?」
個々の違いなど分からないが、恐らく年長のひとり。周りに押し出されつつ、半分以上逃げながら闖入者の意図を確かめようとする。
あまりにも率直な訊き方だ。お前らを殺して皮を剝ぎ売るつもりだと答えたらどうなるだろう?実際匂いに釣られて集まったのだから、要らぬ心配というわけでもない。
「少し休ませてもらっている。今からひとつ、ここで大仕事があってな」
へぇー?ふーん?そうなの?――口々に囁き合うが、皆の視線は一点に釘付けだ。先程ウィルが半分に割った果実。片方を取り上げ、さも美味そうに咀嚼する。金貨を奮発しただけあって本当に美味い、影達の口から「あぁぁぁ……」と切なげな嘆息が零れる。あえて気づかない素振り、そのまま残る片割れに手を伸ばすと。
「お兄さんっ!その大仕事って、僕らでも手伝えるものなのかな?」
☆★☆★☆★☆★☆
「……ここ、は」
「起きたか」
栗鼠にしては大きい褐色の毛皮が寄ってきた。両手には水の入った小さな器。おヒト好しで食い意地の張った獣人フェリテ族だ。男の口元に杯を押しつけ、噎せないように気遣いながら少しずつ流し込んでいる。全部飲み切って空になると、不器用な会釈をして茂みの向こうへ駆けていった。しかし気配はまだ残っている。一匹、二匹、三匹……沢山。事の成り行きがどうなるのか、一族総出で見張っているのだろう。
ウィルも水筒で喉を潤し、寝転んだ男に樹の幹を背負わせてやる。
「見てのとおり緩衝帯だ。獣人族が縄張りのな」
エルフにとっては無法地帯でもある。軍勢を率いて踏み込まない分、あらゆることが個人間で処理される。よい関係を築いていればフェリテ族のように力を貸してくれる者もいて、一方知性に欠ける獰猛な種は出会い頭に喰われてもおかしくない。
「心配するな。殺すなら既にやっている」
情報を得るため生かしておく。そう教えたつもりが伝わらなかったようだ。いずれ捕まえたときより話ができそう。幾つか訊ねてみる。
「誰の指示だ。どの集落から出てきた」
「…北のタルカス殿だ。あなたも知っているだろう」
「……………」
知らない。だが北の大集落はサラサ。アトルムとの境界にあり、ライセンとは数百年に亘って睨み合いを続けている。最前線の者達が謀を企んだのか。
「村の総意ではない。族長も与り知らぬことだ。ニウェウスの未来を憂う我らが、独自に決意を固め立ち上がったのだ」
アトラは千年、ニンゲンは百年足らず。島の外から上陸してそれくらい経つ。
そろそろ聖地を浄化せねばならない。ここはニウェウス発祥の地。これ以上劣等種共に踏み荒らさせるわけにはゆかない、と。
アトラのみとなら戦って勝つ自信はある。しかしニンゲンは数が多い。ゆえにまずはニンゲンにアトラを滅ぼさせ、それから消耗したニンゲンを片付ける……
だがウィルには、そう都合よく運ぶとは思えなかった。いやこの島からニンゲンを一掃するところまでは上手くゆくかもしれない。一度根絶やしにするところまでは。しかしニンゲンは、この島の外にもいる。突然交易相手がいなくなれば怪しむのが普通。
最悪、新たな侵略者を招くだけ。次は共生を望まぬ者達が来るかもしれない。今より状況がよくなる保証などどこにもないのだ。
ウィルは詳しく知らないことだが、先日幻の都でエア達と争い全滅したのが島の外から来た者達である。彼らはニンゲンの覇権を確実なものとするため、礎の女神アウラの加護を得ようとした。その神格を否定し、豊穣の女神ラフィニアを神々の首座に戴きながら。
神社庁を名乗る集団は、本気でエア達を殺しにかかったと聞く。しかと確かめてはいないにせよ、そのような連中が愚かな冒険者の元締めよりマシだとは言い切れない。
(ニンゲンはニウェウスと共存している。ドワーフやホビット、獣人は更に距離が近い。アトルムもドワーフを通じてニンゲンと関わりを持っている)
是非はともかく安定していた。概ね平和だということである。ニウェウス北の大集落サラサがアトルム最南端の村セシルを滅ぼして二十年。以来、格別大きな戦はない。
見たところウィルより幾つか歳上のようだ。しかしニウェウスは攻め寄せた側、当時子供だったのなら戦場の恐怖など知るまい。記憶を失くしたウィルにしても二十五歳、状況は変わらないはずである。成人年齢はアトルムもニウェウスも十五歳だ。
とりあえず話は聞いた。この状況を受けてニンゲン側はどう動くか。サラサの謀略を知っているのか。それをウゥヌスで調べることになろう。
「…お前の名は」
「ユアンだ。本当にあなたは……」
フェリテ達を一瞥、隠れ処に背を向けた。
「養生するがいい、ユアン。また近いうちに来る」
☆★☆★☆★☆★☆
「…族長も与り知らぬことだ。ニウェウスの未来を憂う我らが、独自に決意を固め立ち上がったのだ……」
何者かがウィルとユアンの会話に耳を澄ませている。クァトゥオルの廃墟を調べたとき、襲い掛かってきた女だ。が、今は砂色の髪に病的なほど白い膚。街へ出るアトルムは、例外なく創術で見た目を変える。
「なるほどな。では女王も知らぬことか」
「……あの方は、お優しい。ニンゲンはおろか魔族にまで、攻めてこないなら見逃してやれと仰せになる。それでは禍根を断てぬというに」
タルカスなる人物の独断と考えてよさそうだ。それなら安心である。対処を誤らなければ、全面戦争は避けられるだろう。それよりも。
(…怪我人を連れてきた男。あいつは自分をアトルムだと言っていた)
それは女の認識と違う。事実ユアンはウィルを敵と捉えていない。しかしまた別の者からも、彼の素性について聞き捨てならない話が持ち込まれたのである。
――彼、『闇』ですよ。あなたと同じ。とても綺麗な白い闇……
それを教えたニンゲンは、女リタにとって命の恩人だった。蔓延する疫病の原因を調べるため緩衝帯へ足を運んだとき、遭遇したニウェウス達に犯人扱いされ問答無用で殺されかけた。その男を含む冒険者の一行は、証拠がないからと助けてくれたのである。後に元凶は太古から存在する魔獣フンババと判明し、冒険者の一行に倒されたと聞く。
戯言の多い男だった。仲間内でもそのように扱われていたと記憶している。あのウィルとかいう男のことは、クァトゥオルの廃墟で見かけて以来、遠巻きに監視を続けている。尾行してウゥヌスへ向かおうとしたとき、冒険者達のひとり『姿偸み』と再会した。先程の言葉は、その際に聞かされたものである。
(どう見ても『雪』だ。弄ばれたのだろう)
ウィルが去った。別れ際、何かの包みを栗鼠達に渡している。彼らは食べ物に目がない。森の外で採れる珍しい果物などを持ってくれば、大方のことは請け負う。
――同胞で争うのはおやめなさい。泳がせたら面白いものが見られますよ?
耳に残る『姿偸み』の言葉を振り払った。
(何が同胞なものか。ディムの母親を、私の友を。私の故郷を。私の右腕を……一度は奪っておきながら)
リタの腕を元どおりにしたのは、カスパルに仕える神職のドワーフ。『姿偸み』の仲間だが、どういうわけか今は行動を共にしていない。
仲間は他に四人いた。異教を奉ずるニンゲンの男女、猫の獣人、そしてニウェウスの女。最後が一番解らなかった。膚の黒いリタを物珍しそうにはするものの、敵意が見当たらないどころか一方的な親しみすら抱かれて。そう、あれはまるで……
(アトルムの存在自体を知らない。そのようなことがあり得るのか……?)
全てのニウェウスは島で生まれ、十五歳まで家族が育てる。同胞と故郷への忠誠を尊び、その過程でアトルムに対する近親憎悪も植えつけられる。ハーフエルフやニンゲンの両親から生まれた取り換え子でもない限り、この無頓着さは考えにくい。
ニウェウスの女も、『姿偸み』と一緒にいなかった。彼女だけではない、猫の獣人もニンゲンの男女も。トレスの街でリタを呼び止めたのは、言霊使いの男ひとり。
何かあったのかもしれない。彼らがリタを救った後に。
(ライセンの末裔と共にいる男。他人の空似などではない)
問題は、どうやってアトルムの村に潜り込んだか。今後も同じ手口が増えるかもしれない。早急に調べ上げ、対策を練る必要があろう。
栗鼠達が巣穴へ戻ってゆく。捕虜の面倒を見るよう頼まれたが、四六時中張りついていろというのではないらしい。リタにとっては不都合、言葉足らずである。
「お前達!ものは相談だが……」
気配を隠さず近づいていった。飛び道具は持っていない。充分離れており、危険はないと判断したのだろう。皆その場で立ち止まる。
「エルフのお姉さん?こんなところでどうしたの?」
「理由があってな。お前達に頼みたいことがある」
運び込まれたニウェウスの男、自分も死なれては困ること。だから最低二人は常に張りついていてほしい。運んできた男が頼りないからだが、もしも自分が手を出したと知れば怒る。そうならないよう黙っていてほしい、と。
与太話を信じたものか、栗鼠達は二つ返事で頷いた。
「あの男が来たら教えてくれ。私がこの辺りにいるときで構わん」
「はーい。毎度ありがと様です♪」
大きな林檎と葡萄の房を五個ずつ受け取る。餌をくれる相手なら、フェリテ族は常に忠実な友人だ。上手くゆかないときは、能力以上の仕事を頼んだか頼み方が悪い。
「…ああ、それとくれぐれもだが。私がこうして頼んだことも教えるなよ?筒抜けでは意味がないからな」
言われたことしかできないのである。が、言われたことはやり遂げるのである。
☆★☆★☆★☆★☆
また陽が傾く頃、エアはドゥオに辿り着いた。
飲まず食わずである。捻挫の痛みに食欲を奪われ、従った結果は言うまでもない。
「……お腹、空いた………」
道行きの三分の一あたりから耐え難くなっていたが、この足で野生の獣を狩るのは無理。倍の太さまで腫れあがり、治療の奇蹟を願うこと三度。とはいえ安静にしなければ、完全な治癒は望むべくもないのだ。
「…痛い。眠い……も、ダメ……」
馬の背中に突っ伏す。意識が遠くなりかける。辛うじて摑まり、身を起こしてオオハラ商店へ向かうよう指示を……出そうとして分からない。場所ではなくやり方が。知性のない獣は、どうすれば言うことを聞くのだったか?
「暴走させたら、拙いよね……」
今度こそヒト死にが出る。街を出たときは無我夢中だったし、早朝で往来も少なかったし。準備を調える間に店の使用人達が触れまわったのかもしれない。
降りて歩くか。クララには悪いが、急がずとも事件は終わったのだから。
「…おや。あなた、大丈夫ですか?」
「……?」
のんびり進む横合いから、間延びした声がかけられる。
「足。かなり腫れてますけど、折れてるんじゃないですかねえ」
「いや、その……」
そうなのか。痛みが酷くて考えられない。口を聞くのもやっとだ。
荒い呼吸と脂汗を見て、話しかけてきた男はふむと頷いた。そして端綱を取り、姫に仕える従者よろしく馬を引いて歩きはじめる。
「…誰……?」
「憶えてませんか?トレスの街で道案内をした者ですよ」
ようやく顔を見た。ニンゲンの男が大きな剣を背負っている。傭兵か冒険者?会ったような気もするが、あの日はクララのことばかり印象に残って。
「……ごめん」
「あらら。さいですか」
片膝曲げてみせる、芝居がかった仕種も好ましくない。行動や態度が愚直な分、ゼクスやフランのほうがマシに思える。面倒な相手に絡まれたのかもしれない。
馴れ馴れしい男は、エアの行き先を知っているようだ。逗留先の宿ではなく、小間物屋が多い隣の道へ迷わず進んでゆく。
「ちょっとした騒ぎになってるんですよ。大店が暴漢に襲われたって。相方さんの姿が見えませんけど、上手く解決されたのでしょう?」
「…トレスに残った。賊の後始末もあるし」
「では殺したので?相変わらずエルフの方は容赦ない」
引っかかる言い方だった。命を狙われれば戦う、結果どちらかが死ぬこともあるのは当たり前ではないのか。
「いやはや、仰るとおりなのですがね?常日頃から戦をされている方々は覚悟が違う。ええ、そりゃもう」
リトラは冒険者が拓いた国。大陸と違って自己救済が禁じられていない。
群雄割拠の南部はともかく、かつて大陸全土を支配した王国の流れを汲む北部は、今でも庶民が武器を持つことはないという。騎士階級の者でさえ、従軍しているときを除けば丸腰だ。騎士団が貸与し、厳重に管理を行っている。その感覚を知る者からすれば、常在戦場のエルフは些か殺気立って見えた。
もっともエアは、島の外など知らない。国という概念自体、最近ようやく分かりかけてきたところである。
「…したくてしてるんじゃないよ。戦なんか」
「そうでしたか?これは失礼」
「……………」
もう何も考えずに休みたい。頼むから早く着いて――願望交じりに顔を上げると、最近知ったばかりの声が飛びついてきた。
「エア!?」
「…あ、クララ。ただいま……」
「どこか痛めたのですね。そのまま楽にしていてください」
右足の前で跪き、仕える神に祈りを捧げる。愛の女神と呼ばれているが、実のところ叶えられる奇蹟と神格の間に関係性はほとんどない。そして神への祈りは、ニウェウス語と似た発音の暗号めいた言葉を使う。癒しの力を込めて患部に触れると、身震いするほどの硬直がクララの右手に伝わってきた。
「大丈夫。もう痛くないはずです」
「…へ?あれ……?」
まさに奇蹟だった。あれだけ苦しかった右足首の重石が消えている。腫れも引いており、まるで初めからなかったみたいに。
馬から降りて軽く跳ねてみる、異常ないどころか調子がよくなった気も。得意満面と期待の眼差し――クララが望んでいる言葉は何となく分かった。だが世界の成り立ちを知るエアとしては、残念ながら応えられそうもない。すなわち神とは何か、である。
人工的に進化したニンゲン、というのがその答え。アトルムの始祖と同じことを、より高度に成し遂げた者達。『神』という天然の種族がいたわけではない。
エアの足を癒したのも創術。言葉は違うが同じ力。エアは直接、クララはルースアを通じて『変わりゆくもの』に願う。信仰の有無は……恐らく関係ない。
ならば『変わりゆくもの』とは何者か?本当に分からない。それこそ何も伝わっておらず、正体不明という意味で神と呼ぶしかないもの。
何はともあれ、願ってくれたのは彼女。強いだけの故人や得体の知れぬものに、感謝する気などさらさらないのである。
「ありがとう。クララのお蔭だよ?」
「いいえ、神の御加護です。ところでウィルさんは」
「…森。賊はエルフだったんだけど勢い余っちゃって。私は足を痛めてたから」
やったのは自分だと暗に告げる。
「そうでしたか……遅いので心配しました」
「うん。それと用事ができたみたい。しばらく仕事を休むって。取り分はショウゴさんが足してくれた分を持たせてあるから大丈夫」
オオハラ商店のおかみに、主と娘は無事ウゥヌスへ着いたと報告。報酬の後金は二人で山分け。三等分より多かったが、そこはそれ何となく。
馬を返して表へ出ると、すっかり暗くなっていた。
そういえばもう一人、招かれざる同行者がいた。押しかけでも世話になっている。恩知らずと吹聴されても面倒ゆえ、とりあえず奢ろうと思いついたのだが。
(…帰るなら挨拶くらいしなさいよ)
いつの間にか消えていた。
クララも気づかなかったらしい。足を治している間に去ったのだろう。
「この仕事を続けていれば会えますよ」
半端者が集まる職業、冒険者。されど下には下がいて、多くが半年ほどで犯罪者に転落する。生活を立て直し、堅気へ戻れた者は幸運だという。どちらにせよ居続けは珍しく、それゆえ古株は大抵が顔見知り。クララのように他の生活基盤を持っていて、己の実力を活かしたり副業で稼ぎたい者の片手業。
「……会いたいわけじゃ、ないんだけどね」
「それでも。神の贈り物は、どこに隠れているか分かりません」
「中身によるでしょ。アレは受け取りたくないかなあ……」
互いの顔を見合わせて吹き出す。袖摺りあっただけの見知らぬ相手を、手酷く扱き下ろす自分達が可笑しかったのだ。
狭い村で生まれたエアに、そのような経験はない。
クララも同じだった。肩肘張らず気楽に話せる、恐らく歳の近い友人。それが森の中に隠れていたとは。神社は家だが職場でもあり、手放しに安らげる場所ではない。
運命はクララから家族を奪い、代わりに友を贈ったのである。
(ありがとうね。ジェフ、マルク。私はもう、大丈夫だから)
亡き幼馴染み達の冥福を、心の底から強く願った。