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灰色の森  作者: 五月雨
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第2章 喧騒

 一か月後の昼過ぎ。若長バルザはエアの小屋に続く道を歩いていた。


 その理由は一つ。もはや日常の習慣だが、毎度のことながら温かい食事を分けてもらうためである。ほぼ全ての家事を恋人に任せきりだったバルザは、根本的に生活力というものが欠けていた。


(もし子供が生まれていたら、多少は違っていたのだろうな)


 今は亡き恋人のことを思い出し、漠然とそんなことを考える。


 エアも確かに娘のようなものだが、彼女を引き取ったときは既に八歳。もうほとんど手がかからなくなっていた。それどころか、亡くなった叔母に最低限の家事を仕込まれたのだろう。むしろバルザのほうが面倒を見られていた節がある。こちらで万事世話をしなければならない乳飲み子とは、全く事情が違っていた。


 エルフ族は老いるということがないため、相手さえいるなら新しい恋人を見つけるのは難しくない。他の若長二人も戦で恋人を亡くし、それぞれ孫ほども歳の離れた新しい恋人を見つけている。アトルムの恋愛は基本的に自由であり、大らかな性格のシェラなどは恋人が何人いるか分からない。人口の少ないライセンの村では、子を成さずにいることが極めて重い罪なのだ。一度子が生まれているならともかく、そうでない場合は……尚更強く村への貢献を求められる。決まった恋人を持つ必要はないが、同じく恋人がいないエアの相手をバルザが命じられる可能性もあった。


 確かにエアは可愛い。目に入れても痛くないほど可愛い。だが、それは彼女を娘あるいは弟子として捉えているからだ。女性として見たことはないし、そのように考えるつもりも全くない。もし本人が望んだとしても、そのときエアは恋人を得る代わりに父親を失ってしまう。もう子供ではないのだから、新しい父親が見つかることは決してない。


 その点、恋人のほうは充分に可能性が残されている。他の連中が厭なら、今後生まれてくる別の男の子に賭けてみるのも悪くはない。今いる六人の子供達は全員が女だから、五年も待っていればエアだけが付き纏われるようなことはなくなるだろう。


 そこまで考えを進めたとき、バルザはふと可笑しくなって微かに口元を歪めた。


(……俺は何を考えているのだ。グスマとシェラはともかく、あの厳格な族長が五年も見逃してくれるはずはあるまいに)


 近い将来、エアの成人を知った村の男達が足繁く彼女の元を訪れるだろう。


 村への貢献を考えるならば、彼らとの関係を拒否することは難しい。それを避けるためには決まった恋人を持たなければならないのだが……肝心のエアは、部族の誰に対しても全く気がないときている。加えて危機感が欠片もなく、親代わりのバルザとしては頭を抱えたくなるほど絶望的な状況だ。しかし……


(……他の選択肢もある、か……?)


 それは単なる思いつきだった。実現する見込みは限りなく小さい。だがエアにとっては……彼の愛娘にとっては、それが一番幸せな道かもしれないと思えた。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「エア、いるか?…すまんが、また飯を頼む……っと」


 頭を小さく動かし、問答無用に飛んできた杓子をかわす。それを後ろから駆け寄ってきたルークが空中で受け止め、そのままバルザに不意討ちを仕掛ける。しかも光の精霊を憑依させて、周囲の景色に溶け込み姿を見えなくするというオマケ付きだ。なかなか見事な連携であり、それこそゼクスやフランあたりでは瞬時にやられるだろう。


 もっとも若長のバルザを倒すには、まだ詰めが甘い。全身を一時的に気化し、擦り抜けて足元に転がったルークの腹を思いきり蹴飛ばす。きゃうん、と意外に可愛らしい悲鳴を上げるも、それは無視して本命のエアを押さえにかかる。弓の腕前では年長者達を上回る彼女だが、どちらかと言えば接近戦は苦手だ。ここは父親ならぬ師匠として、厳しく指導を与えねばなるまい。彼の意図を読み取り、エアが幼く不器用な舌打ちをする。


「行儀が悪いぞ。それに詰めも甘い……む」


 拳骨の一つもくれてやろうと足を踏み出した瞬間、バルザの顔に大きな腐りかけの林檎が命中した。いささか子供染みているものの、精神に与える衝撃は大きい。


 林檎を溜めておく篭の後ろ。事前に予測できたはずの新たな伏兵が姿を現す。風の精霊を宿したウィルの膚や髪の毛は、元素マナの影響を受けて淡い翠色に変わっている。


「これで詰んだ、な。攻撃用の術を使っていれば、あんたの首は飛んでいた。本物の戦場では、伏兵が常に一人であるとは限らない……」


「………………」


 憮然とした表情のまま腐った林檎を拾い上げ、窓から小屋の外に放り出す。確かに負けは負けだし、自分はウィルの存在を失念していた。しかしエアとルークだけなら、こちらが勝っていたことも事実である。


 やはりエアは、未だルークの実力を生かせていない。一対一で戦う限り、バルザとルークの実力は伯仲しているのに。


(まだ早いか。留守番が安全とは言えんが、前線にいるよりマシだからな)


 対してウィルは、なかなか優秀であるようだ。バルザの顔に林檎をぶつけた腕前。明確な自我を保ちつつ精霊を憑依させなければ、ここまで器用な真似はできない。


 実は今、少しばかり差し迫ったことになっている。アトルムがニンゲンの旅人を襲った報復などと称し、冒険者共が森への侵攻を企てているとの噂を耳にしたのだ。


 連れてゆくならウィル。監視する意味でも、エアの安全を確保する意味でも。信用に値するなら、村での地位を確かなものとしてやるためにも。


 若輩のゼクスとフランも置いてゆけば、更に未熟なエアが留守番になるのは当然だ。万一の場合に備えて、子供達を護るという大事な役目もある。そう言い含めておけば、よもや文句を言うことはあるまい。


「あの……師匠?やっぱり林檎は拙かったですよね?…私、お兄ちゃんには何度も反対したんですけど……とにかく、ごめんなさいっ」


 拳骨を恐れているのか、いつになく神妙なエア。しかし当のバルザは、渋面を作って腕組みしたまま動かない。そもそも彼が気にしているのは、悪戯がどうとか食べ物を粗末にするなとかいう、平穏かつ日常的な問題ではなかった。


 先程バルザが格闘戦を仕掛けたとき、追い詰められた彼女はどんな反応をしたか。反射的に目を瞑り、容易く観念してしまったのではないか。そんな者を戦場に連れてゆけるはずがない。最初から死ぬと分かっていて、娘を危地へと駆り出す親がどこにいる。たとえ甘やかしと罵られようが、エアを無駄死にさせるつもりはない。


 やがて静かに溜息をつくと、バルザは疲れた様子で専用の椅子に腰掛けた。


「……まず昼飯を頼む。俺の話は、それからだ」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 その三日後。森の外縁を巡回していた戦士から、不揃いに武装した原種の一団が近づいてくるとの報告が入った。


 構成は様々。金属鎧で全身を固め、長大な槍を携えた者。武器は護身用だけ、動きやすそうな旅装束の者。小剣と革の軽鎧を身につけた、両者の中間くらいに位置する者。


 このうち軽装の敵に関して言えば、いずれ何らかの系統を深く修めた専業の術者である可能性が高い。もっとも世の中には武器と術の双方を使いこなす強者もいるから、重武装の戦士達が専業であるという保証はない。事実エルフ族の戦士は単独行動を想定して鍛えられ、ほぼ全員が広く浅く様々なことを身につけていた。


「それで、俺達は何を……?」


「外縁部の威力偵察だ。ある程度近づいて牽制攻撃を仕掛け、族長率いる主力の待つ本陣まで後退する。充分に引き寄せたら、潜伏しているグスマとシェラの両翼が敵を一気に叩き潰す。分かりやすく言えば囮だな」


「がぅ」


 身も蓋もない表現だったが、ルークも短く同意する。


 優れた機動力を持つ彼と、精密射撃を得意とするバルザ。幾多の戦場で囮役を務めてきた二人には、見え透いた誤魔化しの言葉など要らない。むしろ現実が伝わる分、かえって気が引き締まるというものだ。


 この最も危険な任務に、バルザはウィルを同行させた。裏切れば生命に関わりかねない状況、それを利用してウィルが信用に値する人物か見極めようというのだろう。無事やり遂げれば、ゼクスを始めとする村の戦士達も彼の貢献について認めざるを得ない。言下に込められた若長の意図を感じ取り、ウィルは深く頭を下げて感謝の言葉を口にした。


「すまない。この恩は戦場で返すと約束しよう」


「ああ、そうしてくれ。だが無駄死にはするなよ。正直今回は、他人の面倒まで見ている余裕がない」


 生き残ってくれれば、エアの選択肢も増えるからな――そう心の中で付け加える。


 と、何やら不穏な空気を読み取ったルークが、いきなりバルザの左脚に噛みついた。バーゲストの硬く頑丈な牙は、下手に磨かれた剣よりも遙かに鋭くて大きい。


「……っ……!…ルーク、お前な……今は、そんなことを気にしている場合じゃないだろう……っ!」


「……ぐるるるるる……」


 低い唸り声と共に、恐るべき殺傷力を秘めた牙がますます深く打ち込まれる。そろそろ血が出ようかといったところ、バルザは舌打ちと共に諸手を挙げて降参した。


「…分かった、分かったよ。お前が認めるまでは手出しをさせんと約束する……本当に相変わらずだな。妹のこととなると容赦がない……」


 脚の痛みに顔をしかめつつ、呆れたような苦笑を浮かべる。


 自分が重度の親馬鹿なら、こいつは極度の兄馬鹿だ。その気持ちも分からなくはないのだが……視線を横に転ずると、さも不思議そうな顔をしている事情に疎い青年がひとり。適度に鈍感なウィルは、今の話を全く理解していなかった。


「エアがどうかしたのか?ここから村までは離れているし、戦いに巻き込まれる危険性は低い。わざわざ主力を迂回して、彼女に手を出すとは思えないのだが……」


「……ああ。まあ、そうだな。確かにお前の言うとおりだ……」


 分からないのなら、とりあえず今はそれでよい。娘の素直な気持ちに任せたいバルザとしては、変に意識されるより遙かに好都合だった。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「よし。そろそろ来るぞ。基本は手筈どおりだが、危なくなったら即座に逃げろ。敵を主力の前に誘い込めなければ、危険を冒す意味がないからな」


「了解。そちらも武運を祈る」


 それから待つこと数分。金属同士の擦れあう不快な音が聞こえてきた。


 森は静かなところではなく、その場所に見合った相応しい音というものがある。野鳥の囀り、木々の葉擦れ、獣の咆哮。薄暗い森の奥には、遠く人智の及ばぬ幽冥の世界が存在するのだ。街の文明化された者達が、立ち入ってよい場所ではない。


(創世の異端、理の影。生命と変化を司りし闇の精霊よ。我が身に宿れ……)


 ウィルの身体が光を吸収し、やがて完全な黒一色に染まる。いや――空間そのものを切り取った、人型の穴に見えると表したほうが正確だろうか。外枠こそ明瞭に分かるものの、顔の造形などは渾然一体となって見分けがつかない。決して光に侵されず、そこに独立して在る主体的な闇。混沌界に住まう精霊達は、純粋な概念そのものである。依代という器がなければ、現世に存在することさえ叶わない。


 精霊を身に宿している状態は、自分の心を半ば彼らに譲り渡したようなもの。火の精霊を呼べば激しい怒りに駆られ、水の精霊を呼べば精神が落ち着く。


 だが彼らの意識に飲み込まれてしまうと……その場合、ほぼ確実に依代の生命はない。『神宿り』と呼ばれる危険な存在となって、その精霊が持つ本質のままにマナが尽きるまで力を揮い続けるのだ。


 精霊がマナを使い果たすまでには最低でも十日。それゆえ一度取り憑かれた依代は、解放された途端に餓死してしまうのが常だった。


(さあ……お前の力を見せてみろ。世界は光に満ちているぞ。全てを白日の下に晒し、悉く差別の洗礼を与える残酷な光に……お前の慈悲を教えてやれ)


(……ショウチシタ。ウツワノカタチニトラワレシ、ムナシクアワレナモノタチヨ……)


 密やかな声が脳裏に響く。精霊の意思であって精霊の意思ではないもの。闇の本質を、ウィルがそのように思っているだけだ。


 身体から深い闇が滲み出し、慎重に歩を進めていた二十人程度の集団を覆う。


 どこから闇が現れたのか分からないため、恐慌状態に陥る冒険者達。バルザとルークの駄目押しを受け、彼らの士気は崩壊した。風の精霊が運ぶ矢の雨に続いて、十数体の変異魔獣が一斉に後ろから襲い掛かったのである。


「…どうしたマルク?つまらん冗談は……お、おい!?」


「くそっ!化物だ!化物がいやがる!みんな気をつけろ……ぐぅっ」


「ジェフ!?…い、いや……そんな嘘よ。絶対……いやぁぁぁぁぁぁぁ!」


「落ち着け!」


 大剣を手にした金属鎧の壮年が、不意に野太い声を張り上げた。


「いいか、これは精霊術だ。こんな搦め手を使うからには、敵の数も決して多くない!仲間の仇を討ちたい奴は、俺の後に続け!」


 野蛮な鬨の声と共に、冒険者達が進軍を再開する。闇の囲いから抜け出すべく、気力を振り絞って前へ前へと突き進む。この闇そのものには大した力などない。一気に駆け抜けてしまえば、倒すべき敵の姿は目前にあるはず――そう信じて。彼らの推測は、ある意味において正しい。だが別の意味では……彼らの致命傷ともなりうる別の意味では。取り返しがつかないほど大きな誤りを犯していた。


(闇よ……彼らに付き纏え。しかと抱きすくめ、決して離すな)


(……イワレズトモ…………フフフ……フフ……ハ……アハハハハハ……)


 冒険者達の走る速度に合わせて、精霊の闇も彼らを包んだまま移動する。ウィル自身に闇を見通すことはできないが、闇そのものである精霊には可能だ。闇を恐れるニンゲン達には迷惑だろうが、どこまでも追いかけて無差別の慈悲を与えようとする。


 正面から矢を射かけたこともあり、敵は味方の本隊がいる方角へ向かってまっすぐに突き進んでゆく。このまま後を追い、味方が包囲したところで闇を待機させれば任務は完了。精霊と矢の雨が一斉に襲いかかり、不埒な侵略者共を一網打尽にするだろう。


 今のところ、ウィルが立てた作戦は順調に進んでいる。


 少しはエアに恩を返せたか。余所者の自分を庇ったことで、きっと彼女も肩身の狭い思いをしたはず。寝る間を惜しんで懸命に看病してくれたこともある。村へ戻ったら、近いうちに改めて礼をするとしよう――漠然とそんなふうに考えつつ、闇の残滓が消え残る薄暗い戦場を後にした。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「……うぁあああぁ…………ジェフ……ジェフぅ…………!」


「……………?」


 すすり泣く女の声を聞いて、バルザはふと足を止めた。


 ルークとウィルは敵の後を追っていったため、今ここに二人の姿はない。得物を構えて周囲を睥睨し、やがて苦もなく声の主を見つけた。


 変異体に喰い殺されたのか、うつ伏せの遺体に縋りつくニンゲンの少女がひとり。長めの黒髪が幾分大人に見せているが、本当の年齢はせいぜい十五、六といったところ。全体的に華奢な印象であり、腰から提げた護身用のダガーでさえ満足に扱えるとは思えない。厚手の旅着という身軽な装いを考えるに、恐らくは何らかの系統に特化した術の使い手。


 術による攻撃は、時として弓矢よりも遠くまで及ぶ。警戒しながら弓を引き絞ったとき――不意に少女の身体がびくりと震え、その小さな顔を持ち上げた。


「……あ……あ……!…ああああ…………!」


 無言で弓を向ける敵の存在に気づき、まだ幼い顔を恐怖と絶望の色に染める。腰を抜かしたまま後退りするも、地面から大きく張り出した古木の根に突き当たり往生してしまう。どこにも逃げ場所がないことを悟ると――やがて聞き分けの悪い子供のように、涙を流しながらイヤイヤと頭を振った。


「……嫌ぁ……死にたくない。死にたくないの……私まだ死にたくない……!」


 命乞いをするでもなく、神に祈るでもなく。非情な運命を呪い、ただ己の不幸を嘆く。絶対的な死を予感して、少女は力の限りに喚き散らした。喚いて、喚いて、喚いて……あまりの見苦しさに辟易した死神が、どこか遠いところへ行ってくれるように。


 いや、そうではない。もう自分が死ぬのは分かっている。これは、その覚悟を決めるための準備。思う存分取り乱して、死にたくないと喚き散らして。自分の醜さを知られたくない相手は、不幸にして誰もいなくなった。いつ殺されてもいいように、いくらでも気が済むまで騒いでやる。今更格好をつけても、どうせ助かりはしないのだから。


 朧気にそんなことを考え、再び息を吸い込む。と、そのとき。バルザが構えた小さな弓から一本の矢が放たれる。これで終わり――そう認識する間もなく、矢は少女の頬を掠めて古木の幹へと突き刺さった。


「……ひっく……!……ひっ……ひっ…………ぁあああぁ……!」


 涙で顔をぐしゃぐしゃにしつつ、色白な喉を大きく仰け反らせる。乱れた呼吸に胸を激しく上下させたまま、地面に両肘をついて上体を起こす。やがて少し落ち着くと、ニンゲンの少女は疑惑と敵意のこもった視線でアトルムの若長を睨みつけた。微かな苛立ちを覚え、溜息と共に威圧的な言葉を投げかける。


「…いいから早く行け。この森に二度と足を踏み入れるな」


「……………」


 ニンゲンの少女は、しばらくの間すっかり脱力した様子でその場に転がっていた。怪我などはしていなかったはずだから、恐らく一気に緊張が解けたのだろう。また仮に負傷していたとしても、わざわざ手当てをしてやらねばならぬ道理はない。今回は思うところあって見逃すことにしたが、そもそも侵略者たるニンゲンはアトルムの敵。もし次に会うことがあれば、確実に殺すべき相手である。


 魔獣に喰われて死にたいのか――余計なことを言いかけてやめる。そのまま背中を向けて立ち去ろうとしたとき。


「……村……」


「村……?…村が、どうかしたのか」


 思わず足を止め、振り返って問い質す。


「村がどうしたと聞いている。言え!」


 再び弓を引き絞り、エアと大して変わらない小さな身体に狙いを定める。いい加減な答えを返そうものなら、今度こそは本当に撃つ。やがてバルザが本気であることを理解した少女は、内心の動揺を押し隠すようにアトルムの視線から顔を背けた。


「……別行動を取った他の連中……今頃きっと、あなた達の村を見つけてる。女も子供も関係ない……妖魔は危険だから、全員容赦なく殺すって……」


「何故それを教える?お前が黙っていれば、俺達は完全に嵌められていた。そいつらの言うように、我々を根絶やしにすることもできただろう」


 そう詰問されて、少女はようやくバルザの顔を見つめた。ぼんやり定まらなかった褐色の視線が、厳しく睨む若長の元で再び焦点を結ぶ。その表情に酷く切羽詰まったものを感じ取ると、瞳の奥に狂乱の光を浮かべて仲間の仇を睨み返した。


「そんなの決まってるわ……あなた達にも私と同じ苦しみを与えるためよ。目の前で大切な人を奪われる、この耐え難い苦しみをね……ジェフとマルクを殺したあなた達を、私は絶対に赦さない。あなたの大切な人達も、死んでしまえばいいんだわ……!」


「……………!」


 強烈な怨嗟の奔流を浴びて、バルザの胃に重いものが圧し掛かる。無意識に歯噛みした表情の変化を、ニンゲンの少女は見逃さなかった。


「憎いでしょう?あなたの家族を奪った私達のことが!?いいから殺しなさいよ!早く殺しなさい!私にとっては、ジェフもマルクも大切な家族だったの。捨て子だった私には、他に身寄りなんかなかったのよ!」


 護身用のダガーを抜いて、いきなりバルザへと斬りかかる。互いの距離は五、六歩、熟練の戦士ならば一瞬で間合いを詰めることも難しくない。だが仲間の少年達に護られてきた少女は、一度も他人に刃を向けたことがなかった。容易く腕を極められ、無様に地面へ捨てられる。愛の女神ルースアの聖印が、勢い余り千切れて飛んだ。


「……この森を出ろ。三度目は言わん」


 奪ったダガーを放り投げ、適当な木の幹に突き立てる。慌てて駆け寄り引き抜こうとするも、貧弱な少女の力では自分の手を傷めることしかできない。ようやく諦めて周囲を見渡したとき、もうバルザの姿は消えていた。不意に大粒の涙が溢れ出し、苔むした地面へと力なく座り込む。暗く不気味な陰樹の森に、今は残された自分がひとり。


「うっ……うぅ……うぁ……」


 森の中で泣いてはいけない。冒険者になりたての頃、そうマルクが教えてくれた。たまたま運が悪ければ、お腹を空かせた恐ろしい魔獣を呼んでしまうかもしれないから。


「……う……ふぐっ……うぅ……ぁあああぁ……!」


 危険なことは分かっている。だが声を押し殺しているのは、もう限界だった。


 夕闇の空に、少女の悲痛な叫びが木霊した。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 乾いた音を立てて、文字どおり扉が木端微塵に砕け散る。


 敵の先頭に立つのは、分厚い金属鎧と巨大な両手斧で武装した大柄な戦士。一気に飛び込んでくる気配はなく、こちらの様子を慎重に窺っている。扉を一撃で粉砕した膂力もさることながら、場慣れした感のある冷静な判断力。決して油断することのない、恐るべき残忍な殺戮者だった。


 戸口に現れた瞬間を狙って、エアが素早く三本の矢を放つ。日が傾き薄暗くなっているとはいえ、ここは姿を隠しやすい森の中とは違う。獲物の輪郭だけでも分かれば、狙いを外すことなど考えられない。一撃必殺を狙った手製の太矢は、確かに敵の胸甲を貫いた。貫いたはずなのだが……全く傷ついていない敵の姿を見、一瞬心の中で首を傾げる。やがて騙されたと気づき頬を歪めた。


「幻影術!?」


「御明察。君の言うとおりだよ、道を踏み外した不遜なるヒトの子の末裔」


 幻の向こう側、痩身の男が姿を現した。


 凄まじい轟音と共に、反対側の勝手口が勢いよく吹き飛ばされる。爆発の直撃を受けたフランは、そのまま意識を失い仰向けに倒れてしまう。


 エルフが扱う系統には、これほど分かりやすく見た目も派手な奇蹟はない。神々去りし後にニンゲンが生み出した異質の体系――真言法。意図する奇跡の内容を虚空に記し、無理から現実のものとしてしまう。また他の体系と違って、真言法はいかなる呪文も即座に明確な効果を顕す。複雑な論理を省略して結果だけを追求するところが、短絡的かつ少ない寿命を生き急ぐ愚かなニンゲンらしいと言えなくもなかった。


「言霊なんか使って……!」


 矢を番えることも忘れて、感情のままにニウェウスの男を怒鳴りつける。


「エルフのくせに恥ずかしくないの!?あなた達の神様も、それくらいは教えてるはずよ。言霊を使い続けたら、いずれ世界が滅ぶって!あらゆる法則を無視した言霊は、大量のマナを消費するわ。それを、こんな軽率に……!」


「使ったのは私ではない……が、利用できるものは利用する。それだけのことだ。お前達の歪んだ肉体を滅ぼし土に還せば、その魂が黄金樹の糧となる。元は充分に取れるだろう」


 冷たく言い放ち、懐から小さな壺らしきものを取り出す。それが何かを悟って矢を番えるも遅かった。壺は爆発の残り火へ投げつけられ、膨れあがった炎が小屋の内部を壁伝いに嘗めつくしてゆく。ニウェウスの男は即座に身を翻すと、闇霊の力を借りて外の景色に溶け込んだ。一度見失えば、敵を見つけられる確証はない。悔し紛れに放った矢は表の戸口を手応えなく通過し、そのまま夜の闇へと消えていった。


「エアっ!ここはもう駄目だ!早く正面から表へ逃げろ!」


「だ、だけど……このままじゃ子供達とアローナさんが……!それにフランだって」


「フランのことは諦めろ!言霊を忘れて扉に近づいたのは、あいつ自身の失策だ。それにこの煙、ガキ共はもう手遅れだろう。お前もさっさと外へ出るんだ。いいな!」


「ちょっ……こらゼクス!待ちなさい!」


 エアの制止にも耳を貸さず、ゼクスは小屋の外へ飛び出していった。


 彼の言うとおり、子供達や妊婦のアローナ、それに意識不明のフランが助かる見込みは薄い。まだ敵が残っている可能性もあるのだから、合理的に考えればゼクスと協力して脱出を図るべきなのだろう。頭で考えるだけなら、彼の言い分は正しい。しかしエアは、どうしても納得できなかった。


「なんで……なんで簡単に諦められるのよ。死んでるのを確かめたわけじゃないんだし、助けが来るのを待ってるかもしれないじゃない!?絶対に諦めないわ。たとえ一人になっても、必ず全員を連れ出してみせるんだから!」


 手近な桶を逆さにして、頭の先から水をかぶる。幸か不幸か、ここは普段ルークとエアが住んでいる小屋だ。どこに何があるのか、どんな構造をしているのかは全部頭の中に入っている。適当な布切れを探し、それを水甕に突っ込む。充分水を浸み込ませたら、フランの口元に当てて煙の侵入を防ぐ。ただし窒息されては意味がないため、くれぐれも完全に塞がないよう気をつける。


(ごめんねフラン。子供達とアローナさんを助けたら、すぐ戻ってくるから)


 歳上の青年に心の中で詫びる。ゼクスの言葉ではないが、彼も村を守る一人前の戦士だ。たとえ危険な状態でも、子供達より先に助けるわけにはゆかない。


(……さて。次は大仕事よ。私、腕力ないからなぁ……)


 妙に落ち着いた気分で、自分の寝台からシーツを剝がす。予備のものと合わせて三枚を丸ごと水甕に浸し、そのうち一枚だけを取り出してフランの全身を覆った。これで少しは類焼を遅らせることができるだろう。


 続いて濡らした端切れを自分の口元に当てながら、地下へと続く階段の大きな落とし扉を開く。すると白い塊に行く手を塞がれ、エアは一瞬躊躇して足を止めた。ここも既に煙が充満しており、二段先から下は何も見えない。慌てて姿勢を低く保ち、急な勾配の階段を慎重に下ってゆく。


「リシェル、ノーラ、ペニー!?みんな大丈夫!?ここは危険よ。早く外に出て!」


 噎せないよう注意しながら、床に這いつくばって子供達の名前を呼ぶ。だが白い闇は変わらず沈黙を守り、呼びかけに応える者はなかった。


「マレーネ、ケイト、トリシャ!アローナさんも!お願い、生きていたら返事をして!」


 悲痛な叫びも空しく、天井の落とし扉から黒い煙が侵入してくる。火元である一階の状況は、今まで封鎖されていた地下室より確実に悪い。フランも助けようとするならば、ちょうど今ぐらいが限界だろう。


 水の精霊と契約していたなら、苦もなく全員を助け出すことができたのに――そんな思いが頭を掠める。


 今エアが契約しているのは、慢性的な修業不足もあって熱の精霊一つだけ。まず自分の身を守るため、精霊に呼びかけ室内の高温を遮断しておく。火や煙に巻かれたら為す術はないが、とりあえず暑さにやられて脱水症状を起こすことがなくなる。


 せめて七人の生死だけでも確認しておこう――そんなふうに考え、黒いものが混じり始めた煙の中を懸命に這い進む。と、そのとき。何度も痞えながら助けを求める小さな声が、既に現実感を失って久しい彼女の耳に聞こえてきた。


「……あ……エ、エア……?……くっ。う……来て……来てくれたのね。みんな、まだ生きてる……っ。こ……子供達は、無事よ……」


「……アローナさん!?待っててください、今すぐ行きますから!」


 煙を掻き分けながら近寄ってみると、衣服の袖を口に当てていた六人の少女達が、ぱっと表情を輝かせた。それほど煙を吸わなかったのか、気絶した者はいない。先頭を最年長のトリシャに任せ、続いて年少の順にペニー、ノーラ、リシェル、マレーネ、ケイト。最後はエアが支えながら、妊婦のアローナと一緒に上る。まだ発育途上の小さな子達には厳しい勾配だったが、それでも何とか無事に上り終えた。


 敵の姿を確認する余裕もなく、水浸しのシーツを被せて七人を小屋の外へ出す。先に出たゼクスが仕留めたものか、正面入口には小屋に油を撒いたニウェウスの死体が転がっている。いずれ姿が見えないことを考えると、そのまま他の敵を追っていったのだろう。村での留守番が決まったときにも、彼は不満そうに愚痴を零していた。目先の手柄に気を取られている以上、助けを呼びに行ってくれたということはあるまい。


「ありがとう、エア……お陰で助かったわ。私も、この子の命も……」


 自分のお腹に手を当てて、アローナがにっこりと微笑む。その様子につられたのか、ようやく子供達も煤だらけの顔を安堵に綻ばせる。やはり自分の判断は正しかったのだ――小さな胸に熱いものが込み上げる。


「みんなは裏の畑に避難しててください。私はフランを助けに行ってきます」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 フランの皮膚は既に火傷が始まっていた。濡らしたシーツも乾ききってしまい、あとは小さな火の粉が燃え移るのを待つだけ。当然のことながら、体温は抜き差しならないほど高くなっている。周囲の高温から身を護るため、また熱の精霊を呼び覚ます。元より褐色の膚は変わらないが、涼しげな銀色の髪は赤い褐色へ。深い輝きを宿した紅玉の瞳は自らの膚と同じ暗褐色に変わってゆく。


「……っ!…お、重い……!」


 フランの身体を肩で支え、ずしりとした感覚に膝が折れる。


 一見華奢だが、やはり男。女のエアとは基本的な作りが違う。背丈は自分のほうが上でも、意外に鍛えていたということ。ひ弱な頭でっかちだと思っていたフランの印象を、エアはほんの少しだけ修正した。もっとも面倒をかけられるという意味では、結局何も変わらなかったが。


(腐れゼクス。フランを見捨てるなんて!リオさんが知ったら、どう思うか)


 早くに両親を亡くしたフランは、ゼクスの母リオにより育てられた。リオはフランの父親の姉で、血縁から言えばゼクスとフランは従兄弟に当たる。既に亡きリオは二人を分け隔てなく育てたが、実の子たるゼクスにはそれが不満だったのだろう。頭はよくとも荒事の苦手なフランを、彼は何かと足手纏いに感じていた。


(とにかく、こんなところで死ぬのは早過ぎるわ。今までの乱暴な態度も合わせて、絶対あの馬鹿を謝らせてやる)


 膝に力を入れて、もう一度フランの身体を背負いなおす。


 小屋の内部には大量の黒煙が充満、視界は絶無と言えるほど悪い。下手に転べば出口の方向が分からなくなるだろう。なるべく慎重に落ち着いて。だが急ぐことも忘れず――そう心の中で唱えながら足を踏み出したとき。エアの耳は、何かが一斉に崩れるような甲高い轟音を聞いた。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「遅かったか!」


 炎上する小屋に駆けつけたものが二つ。大きな四つ足はルーク、元より闇色に染まった変異体の魔獣だ。


 人影はウィル。既に闇の精霊を解放し、今度は水の精霊を呼び出すべく精神の集中を始めている。今は雨季であり湿気も充分。局所的な俄か雨を降らせて、燃え盛る炎を一気に鎮めてしまうつもりだった。


「ルーク!」


 闇色の毛皮を見つけて、水桶を抱えたアローナ達が駆け寄る。バルザが来たと思ったのだろう。しかし余所者と気づくや、最年長のトリシャは妹達の前に立ちはだかった。村の決定がどうあれ、まだウィルのことを疑っている者は少なくない。微妙な緊張感に戸惑いを見せつつ、アローナはルークの首筋に抱きついた。


「エアが……エアが戻らないの。フランを助けるって、また中に入ったきり……」


「私達、みんなエアお姉ちゃんに助けられたの。だからお願い、お姉ちゃんを助けて!」


 子供達も口々に哀願する。


 ルークとアローナは同い年の生まれ。大人達の眼を盗み、よく一緒に遊んでいた。お互い成長してからは疎遠にならざるを得なかったが、それでも彼女が大切な存在であることに変わりはない。


 幼馴染みの唇を優しく一舐めすると、ルークは尋ねるような視線で余所者の顔を一瞥した。鷹揚に頷き返すウィルの瞳が半透明な薄蒼色に輝く。


「大丈夫だ……これならいける。火を消すだけでなく、充満した煙も全部洗い流してくれるだろう……」


 依代の祈りに応えて、最初の一滴が空から地表へと舞い降りる。それが大粒の雨、更に局所的な豪雨へと変わり……赤と黒の狂宴を力任せに鎮めてゆく。やがて降りはじめから五分と経たないうちに、小屋の鎮火は完了した。


 ここは元々エアが暮らしていた小屋だから、匂いを頼りに探すのは難しい。だが頻繁に出入りしていたわけではないフランなら、容易に見つけることができるはず。慎重に瓦礫を取り除けながら進むと、意外なことに地下室へ続いている。そこは落とし扉が固く閉じられており、開けた途端に大量の煙が湧き出した。


(…絶望的だな)


 たとえ火に巻かれなくとも、煙を吸い過ぎれば死ぬ。そんな当たり前のことを、エアは理解していなかったのだろうか。契約した精霊次第では助かることも可能だが……短い共同生活の間に、ウィルは彼女の依代としての実力を知っていた。


 口元に手を当てながら、漂う黒煙の塊をかわして地下室の奥を目指す。ルークは元より煙に強く、お構いなしにさっさと進む。


 ウィルの想像が正しければ、この先にあるのはエアともう一人の焼死体だ。自分はこれ以上進まないほうがよいのかもしれない――そんなことを考えはじめたとき。何となく嬉しげなルークの声と、やや慌てたような少女の笑い声がウィルの耳に聞こえてきた。


「……ちょっとお兄ちゃん。くすぐったいからやめて……んむっ……やめてってばぁ!…ごめんなさい、もう許して。本当に死んじゃう……!」


 星明かりが差し込む、薄暗い地下室の壁際。顔中を舐め回され、笑いながら転げまわる真っ黒なエアの姿があった。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 その夜。ライセンの村では、長い宴が開かれていた。


 戦勝の祝いである。本陣と両翼の戦士達は、誘き寄せた敵を一匹残らず殲滅した。


 右も左も分からず逃げ惑う侵略者達を、夜目の利く者達が次々と。闇の外へ逃げてくる敵は、態勢を整える前に数の力で圧倒する。


 犠牲は知能なき変異の魔獣が七体ほど。奇襲を受けた村の被害も少なく、エア達の小屋が全焼した他に数軒の扉が壊されただけ。


 それらしいものと言えばフランが意識不明の重体に陥ったことだが、グスマの創術により癒され事無きを得ている。精神的な部分はどうあれ、命に別条はなかった。


「……若長と一緒に囮役を果たした功労者。しかも僕にとっては、ほとんど死ぬところを助けてもらった命の恩人だ。まったく、いくら感謝しても足りないよ」


 なみなみ注いだ酒盃を嘗めつつ、自虐的な笑みを浮かべてウィルに語りかける。


「もちろんエアにも感謝してるけどね。ゼクスの言うとおり、あの状況では見捨てられても仕方がなかった。彼女は熱を遮断できるし、時間を遅らせれば窒息せずに済むけど……その前に火が回ってこないという保証はない。ゼクスが惚れ込むのも頷けるよ」


「そうなのか?」


「気づいてなかった?君に噛みつくのもそれが理由さ」


 ぐっと酒盃を呷り、再び大きな溜息をつく。


 芋から造った村の酒は、非常に甘くそして強い。まだ二杯目にもかかわらず、フランの手許は小刻みに震えている。


 元々酒に弱い体質なのだろう。それでも飲まずにいられないあたり、深刻な傷心ぶりが窺える。理由云々は聞き流して、わざと大袈裟に恩を着せた。


「…次はこちらが助けてもらうさ。創術となると、俺は全くの素人だからな」


「そう、それだよ。僕が分からないのは、そこなんだ」


 俄かに生気を取り戻し、ウィルの瞳を覗き込む。


「優秀な戦士であるにもかかわらず、君は創術を使えないという。得手不得手はあるにしても、普通はマテリアライズくらい知っている。ここまで真っ更なのは珍しい……」


「……………」


 言いたいことは分かる。要はウィルが本物のアトルムではない可能性を疑っているのだ。しかし、その点については若長のバルザが保証してくれている。記憶と一緒に忘れたのか、已むに已まれぬ事情があって学ばなかったのだろう。


 君は何者だ――あえて訊かないフランの視線に、ウィルはそんな意思を感じた。


 それに答えられたら、苦労はない。誰よりも答えを知りたいのは、記憶を失った彼自身なのだから。


「……あまり飲み過ぎるなよ。そんなことで死なれたら、お前を助けた甲斐がない」


 自分の酒盃を飲み干すと、ウィルは宴の場を後にした。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 月が翳る。理性と狂気の神リネーアの加護を失ってなお、狂乱の宴は過ぎてゆく。


 いや……今宵の月が与えていたのは、狂気ならぬ理性の光だったのだろうか。夕月の出る前に戦が始まり、雲間から望月が現れて戦も終わった。


 森の中には、拾う者とてない侵略者共の屍が転がっている。死んだ者が土に還るのは、大地の掟。肉の身体は新たな生命を生み出す滋養となり、その魂はマナとなって黄金樹に還る。マナは世界の礎、世界の源。枯渇すれば世界が滅ぶ。


 マナは魂から生まれるが、魂は混沌界のマナからしか生まれない。ニウェウスの幻影術師が言っていたのは、そういうことだったのである。


「はぁ……」


 古木の幹に寄りかかり、エアが大きな溜息をつく。傍にはルークの豊かな毛皮、まだ薄ら寒い晩春の夜には暖かくて心地よい。酒でも入っていれば暑いくらいなのだろうが、今夜の彼女は一滴も口にしていなかった。


「ふぅ……」


 明るい空を見上げ、また一息。


 ああいうお祭り騒ぎも、本当は大好きだ。大人達が浮かれているのを見て、子供の時分どれだけ羨ましく思ったか分からない。でも……それは一面に過ぎなかった。今は、参加したくない理由がある。


(…ゼクスだけじゃなかった。彼だけが特別なんじゃなかった。村の男のヒト達は、みんな私が成人するのを待ってたんだ……)


 小屋の焼失を聞いた男達から、今夜は泊まりに来るよう誘われたのである。


 下心とまでは言いたくない。親代わりのバルザは別格としても、みんな昔から親切にしてくれた。そのことは充分よく分かっている。分かっていてなお、未だエアの心は晴れない。優しさの裏側に潜んでいる、声なき声を聞かずにはいられなかった。


 アトルムの恋愛は、一生油断がならない男と女の真剣勝負。そもそも特定の恋人を決める義務などはなく、お互いの気が向けば誰と寝ても構わない。近親相姦だけは禁じられているが、それ以外は全くの自由。村の人口を増やすため、むしろ推奨されている。


「………がぅ?」


 犬にしては大きな首をもたげ、ルークがエアの頬を舐める。


 彼の前には、もはや芯だけとなった林檎の残骸が三個。日頃の感覚で言えば明らかに食べ過ぎだが、今夜は同胞の無事を祝うお祭り。宴の場を逃げ出してくるとき、中に入れてもらえないルークのために林檎をごっそり奪ってきている。


 命を助けられたこともあるし、今日くらいは羽目を外してもいいだろう。麻袋の中をごそごそと探り、熟れた大きめの林檎を摑み出す。


「はい、御苦労様……ルークって、本当に林檎が好きだよね……」


 無心でかぶりつく兄を横目に、ふっと小さな微笑みを浮かべる。


「……アローナさんと、どっちが好き?…まあお兄ちゃんは、女の子になんて興味がないのかもしれないけど……」


 創術の粋を極めた偉大なる奥義の失敗作。それがルーク達変異体の偽らざる実体だ。元より生殖能力を欠いているため、彼らには異性を求めるだけの本能的な理由がない。訊ねたところで何が変わるわけでもないのだが……ただ何となく。この寡黙な兄の気持ちを、隠された本音を。余すところなく訊いてみたいような気がした。


 顔形が犬同然のルークは、全く言葉を話すことができない。しかし同時にエルフ並みの知能も有しており、間違いなくエアの言うことを理解している。食べかけの林檎が放り出されたのを見て、彼女は小さくない衝撃を覚えた。


「……そっか。そう、なんだ……」


 蹴飛ばした林檎を拾いに、ルークの尻尾が闇の向こうへと消えてゆく。夏至を迎える雨上がりの風は、冷たさと温かさを同時に運んだ。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 小雨舞う黄昏。仮拵えの小屋に忍び寄る影があった。


 その数は二つ。大柄な割に素早い影と、小柄にもかかわらず鈍重な影。こそこそと木の陰を渡り歩き、十六夜の月をもろに浴びないよう細心の注意を払っている。あまり上手とは言えない忍び足だったが、既に対策は練っておいた。少々の音を立てたところで、絶対に気づかれないという自信がある。


 小柄なほうが水の精霊に呼びかけ、俄か雨を降らせたのだ。その静かな音に紛れて、小屋の中へと忍び込み……崇高にして至尊の目的を達成する。


 全ては部族のため。愛しき故郷ライセンの更なる発展のため。そんな一見もっともらしい理由はある。だが今、現に二人の若者達がやっていること。結局それは単なる夜這いとしか言いようがなかった。


「……おい、もっと静かに歩け。音を隠せるといっても限度があろう。あの腐れ犬は化け物だけあって、恐ろしい地獄耳なんだぞ」


 大柄な影――ゼクスが小さな声で囁く。さも忌々しそうに顔を顰め、また器用なことに舌打ちの音までも潜めてみせる。だが相棒の小さな影――兄貴分のフランは、微苦笑を浮かべつつ大きく横に頭を振った。


「相変わらず心配性だね。でも、その点は既に調査済みだよ。若長は族長に呼ばれて昼前から留守。そして今夜はウィルが見張り番に当たってる。最近はルークも一緒に行くみたいだし、これだけ条件が揃っていれば充分なんじゃないかな」


「うるさい。そんなことは貴様に言われんでも分かっている」


 乱暴に言い放ち、ふいと顔を背ける。そして光の精霊に呼びかけると、少しずつ周囲の景色に溶け込んでいった。


「念のためだ。お前も早く姿を消せ。若長の帰りを心配して、あいつが外を見ていないとも限らん」


「うん。エアは優しい子だものね……でも、あまり意味がないと思うよ?雨は僕達を避けてくれないから」


「……………!」


 思わず脳天が沸騰しかけるも、今はぐっと我慢する。ここで大声を上げたら、準備に費やした時間と労力が水の泡だ。努めて優しい声を捻り出し、前々から気になっていた些細な疑問を口にする。


「そう言えばお前……そもそも何のためについて来てるんだ?まさか……いや。さすがに二人がかり、というわけにはいかんだろう」


 色が黒いため分かりにくいが、微かに頬を赤く染める。フランの飾らない言葉が、彼の純情を容赦なく踏み躙った。


「そんなの決まってるじゃないか。従弟の君が想いを遂げるのを、この目でしかと見届けるためだよ。これでも君よりは経験豊富だし、何か分からないことがあったら遠慮なく僕に訊いて……」


 言い終わるよりも早く、ゼクスの物言わぬ拳がフランの顔面を直撃した。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「……とにかく、ここから先は俺一人でいい。お前はさっさと自分の女のところへ行け」


 犬か猫でも追い払うように、顔を背けたまましっしっと手首を返す。そんな態度には慣れているのか、フランは平然とにこにこしながらついてくる。


 こいつはいつもそうだ。俺より頭がいいくせに。ちゃんと鍛えれば強くなれるくせに。どれだけ虐めようと、必ず最後は俺の味方だ。理由は分からない。いや分からないからこそ、見ていて余計に腹が立つ。


(頭がおかしいんじゃないのか?いや絶対にそうだ。そうに決まってる)


 と、そこから一歩踏み出した瞬間。不意に足元の地面が持ち上がり、麻縄製の大きな網が二人の身体を包み込んだ。そのまま豊かな新緑の中へと運ばれてしまい、頑丈な木の枝に引っかかって落ち着きなく揺れる。


 ここが戦場なら、間髪を入れず一本の矢が飛んでくる。あるいは数人の敵に囲まれ、味方を売らされた挙句死ぬまで殴られるといったところか。どちらにせよ、生け捕りにされた捕虜の運命など碌なものではない。


 幸いなことに、その拷問吏は最近村に住み始めた記憶喪失の同胞だった。


「……相変わらず懲りない連中だな」


 冷たい霧雨の中、小屋から出てきたウィルが呆れた様子で呟く。


「これでもう七度目か?多少は頭を使って、俺達の留守を狙ったつもりなのだろうが……」


 網の中でじたばたと藻掻きながら、ゼクスが殺意のこもった視線でウィルを睨む。


「どうしてここにいる!?貴様は今日の……」


「不寝番なら代わってもらった。今夜お前が来るのは、大体予想がついたからな」


「……何だと……!?」


 ますます信じられないといった様子で、ゼクスが言葉を失う。そこに雨避けの外套を纏ったエアが現れ、じっとり生温かい視線で網の中の二人を見つめた。


「あんた達……もしかして馬鹿?毎度雨を降らせてたら、誰だっておかしいと思うわよ。あまり頻繁に降らせるから、普段は雨が降らないしね……」


「ぐっ……」


「だから言ったろ?毎回雨を降らせたら、むしろ逆効果だって。たまには少しくらい、僕の意見を聞いてくれてもいいんじゃないかな」


 網の中で器用に肩を竦めつつ、不貞腐れたフランが失笑する。両目を庇いながら宙吊りの網を見上げると、エアは幾分困ったような表情を浮かべて小さな溜息をついた。白む空気に寒さを覚え、ふるっと全身を震わせる。


「……ところでフラン。まさか、あなたも私と…………わけじゃないわよね?何をどうしても、私は一人しかいないんだけど……」


「あ、その心配には及ばないよ。僕は別のところを使わせてもらうつもりだから……あ」


 そう口にした途端、彼の周囲がいきなり氷点下の冷たさを帯びた。


 濡れるのが嫌いなルークは終始暖かい小屋の中。若長のバルザは未だ族長の家から帰ってこない。無言のウィルは憐れみの視線でフランの顔を見つめている。


「……一生そこに吊られてたら。気が向けば、林檎の芯くらいは差し入れてあげるから」


「……貴様。やはり、そういうことだったんだな。最初だけは手を貸しておいて、最後の最後に奪おうと……!」


「え……ええええ!?ちょっとゼクス、落ち着いて……ウィルっ!?」


 その晩フランは、シェラとの約束を破った。彼女の機嫌を損ねてしまい、向こう一か月間『優しく』扱われたという……



 ☆★☆★☆★☆★☆



「原種の街?」


 夕飯の後片付けをしていたエアは、洗い物の手を止めて鸚鵡返しに呟いた。


 余程意外だったのだろう。きょとんと首を傾げる。父親を自任する男は、やはり晩酌の手を止めて鷹揚に頷いた。


「そうだ。ニンゲンの街だ」


 ウィルにも話を聞くよう促し、同じ言葉を繰り返す。


「お前も成人したことだし、そろそろ外の世界を見てきていい頃だろう。森を侵しているのは確かだが、それが連中の全てというわけでもないからな」


 透明な硝子の器を傾け、喉に琥珀色の液体を流し込む。この器も名高いニンゲンの職人が作ったものであり、酒などに至っては遠く海の向こうから運ばれてきた代物だ。ドワーフ達が持ってきてくれる肉や魚は、元を糺せばニンゲンから買い取ったものだと聞く。エアの好きな銀製の小物も、実はニンゲンの手によるものが多かった。


 食料、雑貨、嗜好品。どれ一つを取ってみても、アトルムの生活はニンゲンの経済活動と切っても切れない関係にある。誰を殺したの殺されたのと、それだけ言っていれば済むような状況ではない。


「先日の戦は、俺達の完全な勝利だった。敵がクァトゥオルだけならこれで終わりだろうが、その後ろにはトレス……あるいは大元のウゥヌス・リトラが控えている。第二派の準備を進めている可能性も含めて、お前達には連中の動向を探ってもらいたい」


「ニウェウスに化けて……ということか?森の外のニンゲン達は、我々アトルムを敵視しているからな」


 もはや確認でしかないウィルの質問に対して、バルザが大きく首肯する。


「そういうことだ。もう膚の色くらいは、変えられるようになったんだろう?お前は術全般の筋がいいからな」


「……ああ」


「…………?」


 微妙な返事に違和感を覚え、ウィルの視線を追う。


「…ニンゲンの街は嫌か?お前なら喜んでくれると思ったんだが」


「いえ別に。何でも……ありません」


 それだけ口にすると、再び洗い物に戻った。娘の機嫌が悪い理由を量りかね、憮然として首を傾げる。


「……何だありゃ。お前、エアに何かしたのか?あるいは何もしなかったとか……」


「それこそ分からないな。何もしなくて怒られるものなのか?」


 真顔で訊ねる。本当に覚えがないらしい。


「いや、まあ……時と場合によるな。この場合、どちらかと言えば何もしないほうが」


「私の修業が足りないだけです」


 唐突に口を開き、逸れかけたバルザの言葉を遮る。驚く男達を尻目に、壁際まで毛布を運んだ。そこはエアの定位置、眠るときの習慣だ。しかし。


「油がもったいないので、二人とも早く寝てくださいね。じゃ、お休みなさいっ!」


 頭から潜り込み、勢いよく背中を向けた。


 まだ日は暮れたばかり。いつもならルークの毛皮を堪能しつつ、たっぷり二時間はその日あったことを喋り続けている。


「……どうしたんだ?」


「分からん。さっぱり分からん」


 自分達が原因とは夢にも思っていない。


 努力した。創術の腕は上がったし、今では小さな怪我を治すこともできる。実は中途半端で少ししか伸びなかったけれど。


 才能はあるはずだという。族長の係累だから。多分。きっと。


 それなのに。だからといって。察してくれても。気づかれたくない。


(こんなのじゃダメだ。明日、会いに行こう)


 その晩エアは一度も寝返りを打たなかった。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「じゃあ、ちょっと出かけてくるね」


 朝餉の後、エアは片づけもそこそこに告げた。


「夕方には戻るから、悪いんだけどお昼は残り物で何とかして」


 相変わらずルークは、ウィルと目を合わせない。代わりにバルザを見遣ると、居心地が悪そうに囲炉裏の火と自分の身体を見比べている。


 遠慮がちにウィルが右手を挙げた。


「バルザの分は……?」


「え?家族だから同じでしょ?」


 きょとんとして振り返る。落ち込む若長の姿に心の中で合掌。


 表へ出て見送る。意外なことに、ルークは火の前から動かなかった。


 エアが出るとき、ルークは必ず一緒に行く。ライセンへ来て日の浅いウィルは、そういうものだと思っていた。ニウェウスや原種との諍いもある。そうでなくとも、森の中では危険な魔獣が出るからだ。


 島への入植が始まって数百年。その間に先住種族との戦で追い詰められ、多くの先人達が魔獣化したという。自我を失った彼らは、アトルムとそれ以外の区別などつかない。よって縄張りに侵入する全ての生き物を襲う。


(それにしても……)


 ウィルは怪訝そうに首を傾げた。


(目的は何だ?ルークが残るからには、戦士としての務めではあるまい)


 珍しく視線が合う。相変わらず威圧的――エアの後を追うなというのだ。すなわちルークは、どこへ何をしに行ったのか知っている。


 訊ねても無駄。とすれば自力で探り出すのみ。バルザがここにいる今こそ好機。


「…俺も出てくる。残り物だけでは淋しいからな」


「お、おお。気をつけて行けよ」


 言葉どおりに受け取ったか、快く送り出してくれた。が、そう簡単にゆかないのがルーク。何食わぬ顔で立ち、ウィルの後に続こうとする。その巨体をバルザが抱き留めた。


「よぉ、相棒。久方ぶりの水入らずじゃねぇか。今夜は俺と飲み明かそうぜ?」


 昼間から何をと言いたくなる台詞だが。この状況ではありがたい。


「ぐるるるるる!」


 興奮している。戦友の裏切り騙し討ちに。一方バルザの言い分。結論は任せる、しかし二人だけで話す機会を積極的に作らないとは言っていない。


「がるるるるる……」


「何だやるのか?なら表へ出ようぜ」


「…がるっ!」


「おう。今度こそ決着をつけてやる!来い!」


 育児方針の違いによる保護者の対立は、ついに決定的な局面を迎えた。


 見えない風の刃がウィルを襲う。とはいえバルザやウィルも依代、精霊の動きから多少攻撃が読める。バルザが山を築き、ウィルはなお回折して迫る鎌鼬を避けた。山の向こう側はバルザのマナが強く、ルークの意を受けた精霊達は思うように動けない。


「腕が落ちたんじゃねえのか?次はこっちから行くぜ!」


 熟練者二人の稽古を見たい気持ちはあったが、早急にこの場を離れた。それがバルザの奮闘に応えることとなる。彼も娘がどこで何をしているのか気になるのだ。


(残り半分の期待は……困ったものだが)


 本音では妹を手離したくないルーク。娘に伴侶のひとりも見つけてやりたいバルザ。ここ数日の夜這い騒ぎで、鈍いウィルもさすがに状況を察した。


 どちらの考えも解る。特にルークの妹を大事に想う気持ちは。普段はとろいだの優柔不断だの思っていても、いざとなれば命を懸けて護る。それが兄というもの。


(……俺は今、何を考えていた……?)


 立ち止まり、思索の糸を辿る。




 ――大事に想う。

 ――命を懸けて。

 ――妹。




 とろくて優柔不断?エアには当たらない評価である。


 あるのだろうか。過去の記憶と関わる何かが。もしかすると妹がいたのかもしれない。常に見ていないと不安を覚えるような……実在するなら心細い思いをしているだろう。


「……見ぃつけた?」


「っ!?」


 獣道を急いでいたエアがいない。茂みに隠れるあたりで回り込んだのだろう。爪先が朝露に濡れている。


「らしくないじゃない。どうしたの?」


「あ、ああ……」


 尾行がバレたにしては機嫌がよかった。創術も精霊も格闘も、このところウィルにはしてやられっぱなし。その彼を出し抜けたのが嬉しかったのだ。基本的にエアは負けず嫌いである。薄い胸を反らして仁王立ち、自慢げに嘯く。


「ふふん。ウィルもまだまだだよね。師匠に認められたって聞いたけど、私と同じでルークの助けがないとダメなのかもね」


「そうだな。俺もゼクスやフランのことばかりは言えん」


「あっ!落ち込まないで。さすがにあいつらとは違うから」


 尾行のことを追及されずに済みそうである。ルークまで使って足止めしたのに、本物の勘違いだったか。


「じゃあ夕方には戻るから。留守番よろしくねっ!」


 熱源と足音を読みながら、より慎重に後を追う。視力が低いルークは、精霊の力で周囲の状況を把握しているらしい。それを真似できないか練習したのだ。


(エアもまだまだだな……っと)


 不意に立ち止まり、倒木の幹に腰掛けた。ニウェウスとの緩衝帯近く、僅かに開けた石畳の残骸が散らばる森。どうやら、ここが目的地らしい。


 こんな場所で何を?ルークは知りながら隠していた。余所者の誰かと会う?よもやニウェウスではあるまい。妹とアローナ以外、全てを拒絶する彼が隠しているのだ。


「…ミカゼ。来たよ……」


 秘密の呪文を唱えるように、エアの口が初めて聞く名前を呼んだ。すると下草が生い茂る藪の向こうから、十歳にも満たない少女が姿を現した。色は白い――しかし病的というほどでもない。まさかニウェウスとのハーフエルフ?いや……違う。


(原種……?何故、森の中に)


 少女の耳は、笹の葉の形をしていなかった。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 エアが嬉しそうに手を振る。少女も微笑みを浮かべ、駆け寄って隣に座る。足音すら聞こえたかどうか。物静かで存在感が薄い。


 ひとしきり笑い合うと、どちらからともなく話を始めた。


「…でね。私、今度ニンゲンの街へ行くことになったんだけど」


 エアの何気ない言葉を聞き、ミカゼと呼ばれた少女の顔が曇る。


(え……?)


「どこに行くかは決まってないの。四つ全部行かないといけないのかな?ウゥヌス、ドゥオ、トレス、クァトゥオル」


 古い言葉で順番に一、二、三、四という意味らしい。後ろにこの島へ来たときのニンゲンの長の名前をつけて街の名としている。


 そう教えたのはミカゼだったが、彼女にとって大事なことは他にあった。


(……ここには来られなくなるの?いつ帰ってくる?)


「え?…あああ、そうだよね。自分のことしか考えてなかった……」


 ごめん、とわざわざ立ち上がって頭を下げる。


 奇妙な会話だった。少女が原種のニンゲンなら、エアもニンゲンの街へ出たほうが楽に会えるはず。ここが両エルフ族の緩衝帯で滅多に足を踏み入れないとしても、他種族にとって危険なのは同じ。そもそもウィルには、一人で喋っているようにしか聞こえない。


 ミカゼも倒木から降り立ち、頭一つ半ほど高いエアの顔を見上げた。


(…わたしのほうこそ、ごめんなさい。エアだって不安だからここへ来たのに。自分のことしか考えてませんでした……)


 ミカゼは普通のヒトではない。見かけはニンゲン、ヒトではあるが、肉体の時間を停められた存在。エルフ族の伝承では彼女の夢が世界であり、本体は人知れずどこか遠いところで眠っている。本人の言によれば、このミカゼは夢の中で動くために造った分身だと。


 どこにでもいて、どこにもいない――謎かけのような友人の言葉を、エアは都合よく理解した。要するにどこでも会えるのね、と。


 もっとも、そう簡単ではない。礎の女神アウラとして知られるミカゼは、文字どおり世界創造の神だ。実在を知れば、よくないことを企む者が必ずいる。


 事実エア達は、過去を書き換えようとする言霊使いの目論見を潰した。その過程でエアとルークは女神に出会い、今なお彼女の意識が緩衝帯の森――正確にはエアに向いていることを隠している。ミカゼはただの友達、そう思っているから。


「……ニンゲンの街にも、林檎ってあるのかな?そもそもどんなものを食べるの?虫とか海の魚とか、怪しいものを食べたりしないよね?」


(海の魚は怪しくないと思うけれど……わたし達も普通に食べましたし。生で)


「嘘っ!そんなことして大丈夫なの?」


 この程度の理解である。友達と言っても、時間と文化の壁は厚い。


 初めて森を出ること。原種について知らないこと。街で暮らすこと。心配の種は沢山。しかしウィルは違うのかもしれない。彼にはどこか謎めいたところがある。


(…そのヒトも、ライセンの方ですか?)


「ううん。今はそうだけど、村の近くで倒れてたの」


 発見から村の総会、リトラの冒険者達との戦いで活躍したところまでを話す。


 連日繰り広げられる色ボケ兄弟との勝負については触れなかった。笑える顛末も多いのだが、事の発端がアレだけに詳しく説明するのは憚られる。


「ホント凄いのよね。術も弓も上手くて、おまけに強い。これでゼクスみたいに威張り散らすなら文句の言いようもあるけど、そういうこともないし」


 夢中で話した後、偽りない感想を述べて結ぶ。本人の前では口惜しくて、恥ずかしくて言えない。とっくに負けを認めていることなど。


(……………)


 エアが喋っている間、口を挟まないのはいつものことだが。そのときのミカゼは気になった。エアの右手がさっと伸び、小さな頬をみょいっと摘まんだ。


「やっぱり。触ると気持ちいいね。ミカゼの顔」


 右に傾いたため、左手も同じくみょいっと摘まむ。両手を離して倒木に寄りかかる。連日の雨、久方の晴れ間は土の香りが濃い。


「見えるんでしょ、私のこと」


 指の隙間から木洩れ日を見上げる。


「それなら一緒。どこにいてもね」


(……違う)


 視線を追わない。ミカゼはエアを見つめている。


(声を届けても、エアはすぐ応えられない。わたしの存在を知られないように)


「寝る前とか。一人になれるときだってあるし」


(でも……)


 一度思い出した寂しさは、簡単に忘れられない。


 このときのミカゼがそうだった。エアの遠出を受け容れるまでに、長い沈黙を要したのである。


「…もうこんな時間」


(……………)


「大丈夫。偵察だから早く戻れるって」


 ニンゲンの街を見てこいとは言われた。しかし具体的にどこを、いつまでにとは示されていない。先の戦を受けてのこと、とりあえずの報告が必要か。


「七日後に一度。その先は……分からないけど」


 恨みがましく見つめ、それから頷いた。


(…行ってらっしゃい)


 きっと見ている。大丈夫、と。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「じゃあ七日後ね!」


 弾む足音を隠れてやり過ごした。同じ姿勢のまま視線を戻す。


 いない。煙のように消えてしまった。


 まだ近くにいるはず。エアのときと同じ、精霊に音や振動を調べさせれば。


 遠ざかる足音。これはエアのものだ。それより小さい――鼬、狼、山猫。むしろ大きい――熊、リュンクス。羽ばたくもの、これは……?


 厭な気分になる。呼吸が乱れて棒立ちのまま動けなくなる。


 不安?恐怖?嫌悪?判別はし難い。いずれ負の感情だ。雀や鴉程度ではない。もっと力強く獰猛な――それが遠いどこかで地面に足を着けた。


「っ!」


 微かな振動を感じる。精霊が伝えたのではない、直接肌で感じたものだ。我に返り、金縛りからも解放される。


 冷や汗をかいていた。確かめなくとも分かる、魔獣というやつだ。察するにヒポグリフかグリフィン。よもやドラゴンなどではあるまいが。万一遭遇すれば、大人でも隠れるのがやっと。そのようなもののいる森の中を、原種の子供が一人で歩く……?


 普通のニンゲンに見える、それが既に普通ではない。解っていて兄以外の者には黙っている。ルークは何を以て問題なしと考えたのか。


 次は七日後の概況報告。ここで会うのなら、伝令役を望むだろう。ニンゲンの街でなら、もっともらしい理由をつけて拒むはず。いずれにせよ、そのときウィルはエアの傍にいない。やはりバルザには話しておくべきか。


 再び揺れが伝わってきた。先程より大きい。魔獣が近づいているのだろう。


 アトルムの親から生まれた偉大な失敗作ではない。創術の奥儀『魂消しの秘法』を用いて変化し、強大な力を手にしたもの。ヒトだった頃の記憶がなく、出会えば種族の別なく襲われる。縄張り意識が強いからだが、ゆえに数は少なかった。余程強力なものを除き、魔獣の年齢は普通のエルフと大差ない。


 また手足が竦む。一つ揺れる度、その感覚が強く増す。


 魔獣は脅威。ならば何故すぐ逃げようとしない?金縛りにあっているのとは違うのだ。魔獣と関わる忌まわしい何かが、失われた記憶の中にある……?


(直接向き合えば思い出すのだろうか)


 ともすれば奈落へ踏み出しそうな自分を止める。


 それは最後だ。先にやるべきことが残っている。ニンゲンの街へ行くよう命じられたのは、自分の記憶も探してこいと。村の外から来たものは、必ず村の外に原因がある。このまま眠らせていても解決しないと踏んだのだろう。


 バルザの言うとおりかもしれない。初めて行くはずのニンゲンの街は、どういうわけか知らないという気がしなかった。


(とりあえずエアを護る。あとのことはそれからだ)


 足を地面から剝がすようにして帰路につく。粗方エアが済ませたが、出立の準備もまだ少し。残照に送られながら、今夜は早く休もうと決めた。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 翌日の黄昏。二人はトレス・リトラを目指してライセンを出発した。


 途中、クァトゥオルの村も見てゆく。膚の色を変えて遠くからそっとだが、万一のことを考えて荷物は少ない。着替えと数日分の食糧、そして僅かな路銀が背負い袋の中に仕舞われている。ゼクスとフランの目を盗み、また心配そうなバルザの視線を背中に受けつつ、二人は馴染みのドワーフ商人が所有する幌付き馬車に潜り込んだ。


 陽が傾いてから出発したのには、当然それなりの事情がある。


 時に魔獣の子を成すアトルムは、半ば怪物と見做されているため人間社会における身分の保証がない。ニウェウス達が聖なる神々の末裔として尊敬を受けるのに対し、魔神の眷属アトルムは見つけ次第殺しても罪になることはない。森へ乗り込み村の一つも壊滅させれば、むしろ英雄として孫の代まで語り継がれるほどだ。


 より理性的なニウェウスにしても、その実態は残念ながらニンゲンと近い。先天的に完全な存在である彼らは、制御できない急な変化や不安定さを激しく嫌う。


 完璧の近くにありながら、その先は望まず種として自然な道を歩もうとするアトルム。近親憎悪の念も働いているのだろう。魔神によって創造されたドワーフやホビットなどの小人族、更には野蛮な獣人族よりも、自分達とよく似たアトルムを最も強く嫌悪していた。


 そんな事情があるものだから、たとえ近道でもニウェウスの支配領域を突っ切るわけにはゆかない。捕まれば殺されるか泥を吐かせられるのが落ち。先日の小競り合いより大きな火がライセンの村に飛んでくる。それゆえ森を反対側に抜けて北から西の海辺を回り、獣人族の領域を経由しつつトレス・リトラの街を目指すことにした。


「ラダラムさん。クァトゥオルにはどれくらいで着くんですか?昨日栗鼠さん達に聞いたら、もうそろそろだって言ってましたけど……」


 栗鼠さんというのは、もちろん本物の栗鼠ではない。この辺りに住んでいる小柄な栗鼠の獣人フェリテ族のことだ。食い意地の張った彼らは、食糧さえ渡せば何でも頼みを聞いてくれる。元来お人好しな種族、騙されて酷い目に遭うことも多い。


「…む……お…おお?いかんいかん。すっかり寝入ってしまったようじゃな」


 御者台に座った壮年の男が、大きく身動ぎして寝惚けた声を上げる。小柄な割に逞しい、酒樽のごとき見事な体格。立派な髭を蓄えた、団子鼻の四角い顔。髪も瞳も烏羽玉の黒、膚は釉薬をかけたような薄墨色と何から何まで全く違う。どれも魔神により創造された古代種族ドワーフ族の特徴だった。


「いやー、単調な道じゃて。ついつい気持ちようなってしもうてのぅ……ケンタウロスの領域は抜けたし、もうそろそろ見えてくる頃じゃろ」


 暢気な照れ笑いを浮かべつつ、申し訳なさそうに頭を掻く。


 最初は裏切りを警戒していたウィルも、一応彼のことを信用している。確信あってのことではないが、そもそも悪意がないことを証明するのは難しい。たかが二人を売って得る目先の小さな利益よりも、アトルム全体の信用を守るほうが遥かに大切。それに裏切りを働けば、どんな報復を受けるか分からない。消極的な結論だった。


 御者台の上で座りなおし、大袈裟に頭を振って眠気を払う。


「いかんいかん、すっかり忘れておったわ。先日食糧を届けたがの、代金を受け取っておらんのじゃ。お前さんらも一緒に来るか?」


「……………」


「そうだな。是非、同行させてもらおう」


 親しいヒトが敵に物資を届けていた。しかし商いとはそういうもの――割り切ってみせるのもエアには初めて。言葉を返すには覚悟が足りなかった。


「馬車を見ていてくれ」


「…分かった。気をつけてね」


 獣人族の縄張りを出る前、念のため幌の中で膚の色を変える。あまり使いたくなかったが、無用な争いを避けるためには仕方ない。


 クァトゥオルの村は、急拵えの砦のようなものだった。若木を倒して造った貧弱な小屋の群れを、端材と思しき枝や板が取り囲んでいる。


 小首を傾げる。傍目にも荒れ、ヒトなどいないように思われたからだ。ラダラムとエアを残し、ウィルだけが寄ってゆく。


 やはりおかしい。壊され方が奇妙なのだ。丁寧に釘を抜き、板が外されている。火を放った形跡もない。ここは本当にエルフとニンゲンの最前線なのか。


「…ふむ。取り逸れたかの」


「どうして後払いにしたんです?」


 なら私も、と口にするほど厚かましくはない。ただ気になったのである。貸した相手が死ねば水の泡。だから代価は貨幣で受け取れと常々言うラダラムが何故、と。


「取引の筋に頼まれれば、嫌とは言えんのじゃよ」


 それも商いというものらしい。敵対する双方と臆面もなく付き合う、付き合うことができてしまう。欲得ずくを許してしまう。まさに貨幣が持つ魔力だろう。


(納得いかないけれど説明がつく。好きになれないけれど予想できる……)


 これを信用と呼ぶことに、エアが慣れる日は遠い。


 釈然としない気持ちのまま、偵察を続けるウィルに意識を戻した。


 小屋の数は四軒。そのうち一軒は途中まで、残る三軒は手をつけていない。


 扉が外されており、慎重に中を覗き込んだ。単純な構造だったのか、奥へは入らず出てくる。他の三軒も壁越しに気配を窺いつつ、扉を開けたが誰もいなかった。


「……逃げ出したようだな」


「一人もいないの?ニンゲンって、もったいないことするよね……」


 戦に敗れたのだから無理もない。そもそもバルザが見逃してやった少女以外に、果たしてどれほどの生き残りがいるのやら。


「金目のものでも持ってゆくか?それなら手伝うが……」


 厭に生々しい台詞を吐くウィル。


「大したものは出まいよ。ここにおったのは食い詰めの冒険者もどきじゃから」


 諦め風情のラダラム。半人前のごろつきが使っていた鉄屑など、重いばかりで値がつかない。骨折り損のくたびれ儲け。


「大丈夫なのか?」


「当てはあるでな。元は取引の筋と言ったじゃろ?」


 冒険者もどきと引き合わせた人物に背負ってもらう。あるいは今後の付き合いかたが変わる。商人というもの、転んでもただでは起きないらしい。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 話の合う男達を余所に、エアはエアで初めてのことを試していた。


 今年五十八歳のルークだけでなく、二十五歳のウィルもこれほど強いのは何故か。兄は言葉が話せないゆえ、師匠のバルザに訊ねてみた。熟練の戦士である彼にもできないことだが、ルークとウィルは広く精霊に呼び掛けて周囲の状況を教わっているという。


 最初バルザも、変異の魔獣ならぬウィルがそこまで精霊と親しんでいるのには驚いた。フランは創術の基礎すら修めていなかったことを訝っていたが、抜きんでた依代の才能があることと関わりがあるのか。その答えは生まれ育った環境にある。それを確かめることは過去を知ることと同義であり、記憶を取り戻すことにも繋がってゆくのだろう。


 そういった周辺の事情までは聞かされなかった。育ての親でも親は親馬鹿、未熟な娘に余計な屈託を与えたくなかったのである。


「…えっと。心を無にして、それで……」


 夕餉の支度など気にしてはいけない。兄の盗み食いごときに怒ってはならない。後で散々当たり散らしてもよいが、今だけは忘れることだ。


 全ての精霊と等しく、親しく。どれにも偏らず、同じだけ魂を開いて招き入れる。ほんの少し、何かを頼めるほど明け渡さなくて構わない。浅過ぎても深過ぎても駄目。浅ければ何の効果もないし、深くては相性の悪い精霊同士が喧嘩を始めてしまう。


(難しいな……)


 揺れ動く気持ちを宥めながら、最後に外縁を一回りしようとする連れの背中を見た。彼らしくもない、本当に寛いだ足運びである。建物の中に誰もいなかったため、緊張が緩んだのだろう。最悪、ニンゲンを相手に一戦交える覚悟もしていたのだから。


(…いやいや。余計なこと考えてたら……!?)


 その瞬間は、唐突に訪れた。そして再び消え失せる。感覚にして刹那、気のせいや勘違いではないかと思うほどの短さ。


 しかし間違いない。エアは確かに感じ取ったのだ。微かな息遣いと心音――強烈な殺気を身に潜めつつ、断じて悟らせまいとする何者かの存在を。


 ウィルが廃屋の角に差しかかったとき、それは精霊との感応が切れても伝わるほどに膨れあがった。油断する彼には、そのことが分からない。


「ウィルっ!」


 エアが叫ぶ。と同時に、物陰からアトルムの女性が現れて襲いかかった。


 反射的にかわす。辛うじて警告が間に合ったのである。一人だったら死んでいた――それほどまでに鋭く、向けられた殺意は本物だった。


 アトルムがアトルムを襲っている。事実はそうでも見た目は全く違う。ウィルとエアは膚の色が白くなる創術を使っていた。仇敵ニウェウスを殺すのに理由は要らない。


「待て。お前はどこの」


「やはり生きていたか!」


「……………!?」


「だが納得だ。貴様が全ての黒幕ならばな!」


 会話はエアのいる場所まで聞こえなかった。ウィルを誰かと間違えているらしい。いずれにせよ迎え撃つ。戦況も徐々に押し返しつつある。


(やはりウィルは強い)


 安堵を覚えると同時に、いきなり無礼を働いた女への怒りが湧いてきた。


「あなたね!どこの誰よ!?名乗りなさい!」


「ニクスに教える名などない」


 にべもなく言い放つ。エアのほうを見向きもせず。


「そんなのどこにいるの。これでも私達がニクスだって言うつもり?」


 色素擬態の術を解除した。生まれつきの膚色に戻る。ウィルもエアに倣う。それでも女の態度は変わらなかった。


「武器を捨てて。話はそれからよ」


 油断はできない。同じアトルムでも味方とは限らないからだ。


 好戦的な部族ブラッドをはじめ、歴史が長いライセンの地位を狙う部族は少なくない。あえてニウェウスと誤解し、事故に見せかけて力を削ぐつもりだろう。


 そう考えれば理解できる。だが証拠を見せられてなお敵意を剝き出しにする理由は。こんな偶発の争いに命を賭す理由も。彼女の挙動は理解できない。


「私はライセンのエア。こっちはウィル」


 予想外の反応は、思わぬ瞬間に訪れた。


「エア……だと」


 今のほうが狼狽えて見える。自分の名前が何だというのか。


「…私を知ってるの?」


「始祖ライセンの直系にして英雄ネロの末裔。名前くらいは知っているさ」


 嘘だ。この女は嘘を言っている。


 そう直感した。何故なら女の意識は、元よりウィルに向けられていた。エアの名を知っているのが事実でも、それは恐らく重要ではない。


(捕まえて吐かせようか)


 ウィルの記憶に繋がるかもしれない、との思惑が場の空気を揺さぶる。そのことは女にも伝わった。小指ほどの暗器が三つ、刹那のうちに放たれたのである。


「ウィル!?」


「大丈夫だ。それより伏兵を」


 ラダラムの傍へ戻り、周囲を警戒する。


「…怪我はないな」


「うん。そっちも」


 女は走り去っていた。ウィルも馬車へ戻る。


「…何だったんだろ」


「分からん、だが……」


 他の部族も動いている。襲われたのはライセンだけではなかったかもしれない。襲撃者の中にはニウェウスもいた。個人の意思か、それとも。


 またしても思わぬ言葉が、思わぬところからかけられる。


「…見たことはあるの。二、三十年前のセシルじゃったか」


「ラダラムさん。それって」


「今はない名前じゃの。そうか、生き残りがおったのか……」


 一番新しいアトルムとニウェウスの大戦争。それが二十年前であり、幾つもの村や集落が地図上から消えた。うち最も大きな一つをセシルという。


 滅びこそ免れたが、深刻な被害はライセンも例外ではなく。最大勢力の座を新興のブラッドに譲った。他の始祖三集落と共に抑えているものの、いつまた暴走するか。未来の族長と目されたエアの父リドもその後の小競り合いで亡くなっている。


 対するニウェウスの側も、アトルムの領域と境界に臨む『日の眠る里』サラサを中心に多くの死者が出た。家族に先立たれた者やその教えを受けた子孫達は、断絶が生む偏見と日常的な刷り込みにより、アトルムへの激しい憎悪を育てていると聞く。


 サラサは北の村とも呼ばれ、ニンゲンの街へ出てくるニウェウスは西か南。前線から遠く神聖な黄金樹からも離れた、戦慣れしない土地柄の若者達が多かった。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 クァトゥオルの解体は先程の女に任せ、日が暮れないうちにトレスの街を目指すことにする。丁寧な仕事ぶりからして、森の友人たる樹木をいたわってのこと。彼女の目的が何であれ、任せておいて大丈夫な気がする。


 単調な道行きは変わりなかったが、エアが退屈することはなかった。島の地理を熟知するドワーフに、あれこれ教えを乞うたからだ。


「まず獣人の領域。これは森と街の間にある」


 元は島の全域だったが、ニウェウスが黄金樹の周りに集まったため東の森林地帯を譲った。


「次はエルフの領域。お前さんらは北、ニウェウスは南じゃな」


 アトルムはその五百年後。大陸から海底隧道を渡り、島の西端に辿り着いた。


 四人の始祖らは、獣人やニウェウスの生活圏を避けて北へ。不便な土地だったが、争いになるよりはと辛抱して住み着く。傾斜地と寒暖の差が激しい気候に適した林檎を植え、主食に酒にと様々な創意工夫を凝らして現在に至る。先祖伝来の赤い果実は、アトルムの生活そのものと言ってよい。


「最後がニンゲンと小人族。ニンゲンは平原の西に街を築き、港を開いて大陸と交易を始めた。儂らドワーフは、どこへでも現れるからの」


 遡ること百年前。大陸で北の王国が三つに分かれ、また南の王国が滅亡した。居場所を失くした人々が集まり、船出した末の新天地がここだったのである。


 なお小人族の国は、海底隧道を抜けた大陸東端の山岳地帯。容易に往来できるため、島に住むドワーフやホビットは少なかった。


「前にも聞きましたけど……国っていうのが分からないんですよね。すっごくヒトが増えた大きな村とは違うんですか?」


「恐らく違うじゃろうな。それだけなら街に近い。国にもいろいろあるから一概には言えんが……外側は敵で内側は味方。そういう線引きをしたものじゃよ」


「ふぅん……?」


 だとしたら、ライセンは国だ。ヒトの数が少なくとも。他の始祖三集落とは、同じ国と言えるかもしれない。謀略を巡らすブラッドは……そうだと思いたくない。


 黙っていたウィルが、唐突に呟いた。


「…ニウェウスはどの部族も、長老ティターニアを崇めている。彼女は部族に属さない。全体が国と言えるのではないか?」


 敵と戦うことに限れば、一枚岩のニウェウス。この島に住むニンゲンも同じ。他方アトルムは、そう簡単にゆかない。先程の女然り、ブラッド然りである。


 何となくだが、ラダラムの言葉が理解できた。今はまだニウェウスも、ニンゲンもそこまでの統制が取れていない。しかし本格的に連携を始めたらどうなるのか。そのための素地はアトルムになく、彼らのほうにはある現実。獣人は群れすら作らないこともあり、そういった姿形の個体は徐々に数を減らしていると聞く……


(関わらないと駄目なのかな。生き残るためなら、敵みたいな相手も味方にする?)


 礎の女神を利用して覇権を手に入れようと考えたニンゲン。アウラが幸福を望んだ者は、周りを皆殺しにしてでも保護される。ティターニアは後悔し、女神の加護を放棄したというが。虚栄を望む者の気持ちなどエアには分かりようもない。同胞のアトルムにもそのような者がいる一方、ニンゲンにも様々な願いを持つ者がいることを知った。


 それはきっと、ウィルや若長達はおろか族長にとっても難しいことなのだろう。だからこそバルザは、自分達を村の外へ出した。世界を知ることは勿論、あるべき部族の未来を正しく選び取れるように。心を無にして学ばねばならない。


 馬車がひとつ大きく揺れる。が、それからはむしろ静かになった。幌から顔を出すと、四角く刻まれた石が地面に規則正しく並んでいる。今度は御者台から身を乗り出し、見晴るかす先まで同じ構造が伸びてゆくのを確かめる。これがニンゲンの道だろう。


「ほれ。あの林の向こうに、突き出た灰色の尖塔が見えるじゃろ?少し分かりにくいかもしれんが……あそこじゃよ」


 ドワーフの示した先、鈍色の雨雲に紛れて細長い形をした不思議な建造物が見える。森は見通しが悪いため、エア達アトルムには高いところから敵を見張るという発想がない。ずっと森の中で過ごしてきた彼女には、それだけでも驚きだった。


「じゃあ、あれは私達を見張るために造られたの?こっちから攻めようなんて、全然これっぽっちも考えていないのに……」


 ラダラムの説明を受け、理解及ばず首を傾げる。それに対し、こちらも初めて見るはずのウィルが説明を加えた。


「……連中は、そうは思わんのだろう。俺達の祖先も同じだが、土足で上がり込んだ自覚があるのさ。生まれたときからいる以上、他に行く当てもあるまいしな」


「ま、そういうことじゃの。ニンゲン達は、お前さんらが怖いんじゃよ。儂らドワーフは付き合いが古いから、今はこうして信用されとる。ホビットや獣人達も同じことじゃ。少しずつ関係を深めてゆけば、いずれ時間が解決するじゃろうて」


 それまでに何人の命が失われるか分からんがの、と溜息を洩らす。長い時を過ごした小人族の言葉に、エアは黙っていることしかできなかった。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「へい、らっしゃいらっしゃい!旬のトビウオが何と一イェン!安いよ安いよ!」


「お客さん、今夜の宿をお探しですか?何ならうちへどうぞ。いい部屋空いてますよ」


「エルフのお嬢さん、真銀製の耳飾りはいらんかね。正真正銘のホビット製、こいつは他所にゃない代物だ。今なら特別、千のところを五百に負けとこう。いかがかな?」


「えっ、何なに?ミスリルの耳飾り?それって綺麗?可愛い?できればお揃いのもあると嬉しいんだけど……痛っ」


 あっさり捉まったエアの後頭部を、ウィルの拳骨が直撃する。


「遊びに来てるんじゃないんだぞ。いいから、ちゃんと前を見て歩け」


「……ぇううぅ……あぅ。はいぃ……」


 涙目になりながらも、すごすごとウィルの後をついてゆく。エアが客引きに捉まるのは、トレス・リトラの街へ入ってから四度目。沈着冷静が身上のウィルも、さすがに我慢の限界を迎えつつある。


 一番最初は、大通りに露店を開いていた実演販売の石細工屋。赤や青の綺麗な石をナイフで削り、意のままに花や動物の形を作り出す。奇蹟を使っているわけではないのだが、手先の器用さと作品の美しさに魅せられ、思わずエアは舌を巻いてしまった。


 二回目もやはり道端の露店。何とも美味しそうな匂いを放っている、あまり見慣れない不思議な串焼き料理の店だ。島の南部で取れた香辛料を、大陸から連れてきた家畜の肉にかけ炭火で焼く。たったそれだけの単純な料理だが、味覚の貧しいエアには珍しいことこの上ない。お腹が空いていたこともあり、まずは二本を買い求めて仲よく一緒に食いついた。


 次は街の中央に店を構えた瀟洒な仕立て屋。色鮮やかな染物の数々が、黒一色の短衣しか身に着けたことのない質実剛健なエアの目を惹いた。


 もっともニウェウスに化けている今は、あまり目立たぬよう一般的な冒険者の衣服に着替えてある。せっかくラダラムに用立ててもらったのだから、さすがに今すぐ取り換えようという気にはなれない。いずれ客として来ることもあるだろうと思い、このときは冷やかしだけで早々に立ち去った。


「……バルザに聞いた話では、この辺に店があるはずなのだが……」


 怪しげな小物商を後にして、周囲の街並みを見渡す。やや後ろ暗い雰囲気を持つこの一角は、見たところあまり治安がよさそうではない。大半の敵に後れを取らない自信はあるが、それと騒ぎを起こさぬよう気をつけることは別だ。ただでさえエアから目が離せず、ほとほと疲れ果てているというのに……思わず途方に暮れていると、全く聞き覚えのない弛緩した男の声が、やけに馴れ馴れしくウィルの背中を呼び止めた。


「おや、あなたは……どちらへ、行かれるのですかな?…宜しければ、私が御案内して差し上げますが……」


 長剣を背負った男。先程の口調と毒々しい視線が年齢を読みづらくしている。


(……冒険者か。それなりに腕は立つのだろうが……)


 革鎧の薄さが気になった。専業の戦士なら、鎖帷子か板金鎧を選択する。


 エルフの創世神話は伝えている。直感と本能の魔神フイユが、ある目的を果たすために自らの愛娘を依代としてアウレア世界を創造したと。


 世界に穏やかなマナが満ちれば女神の子は甦り、そのマナが尽きるか混沌に溺れてしまえば彼女は死ぬ。


 力を呼び込む精霊術や消耗の少ない法創術はともかくとして。膨大な魔力を必要とする言霊は、女神の子アウラの寿命を削るに等しい。無知蒙昧なニンゲンは、愚かな迷信と決めつけて未だ信じようとしないが……


「どうしました?エルフさん。この街に慣れていないのなら、行きたい場所へお連れしますよ。何、お礼は要りません。見たところあなた方も冒険者のようですし……お互い明日は我が身の浮き草。なるべく同業者は大切にしませんとねぇ」


「……………………」


 こちらの内心に気づいたのかどうか、訊いてもいないことをべらべらと話す。さすがに胡散臭いと思ったのだろう、エアも相棒の背中に隠れつつ小剣の握りを確かめている。それを片手で制すると、この油断ならないニンゲンの男を鋭く見つめ返した。


「…『不屈の闘志』亭という、冒険者の店だ。五十年前からある老舗らしいが、出てきたばかりで街のことは知らん。面倒をかけるが、教えてくれると助かる」


 軽く頭を下げると、年齢不詳の魔法戦士は驚くほど人好きのする顔に豹変した。


「いいですよ。ちょうど私も、そちらの方向へ行くところでしたから。そうそう、この辺りは治安が悪いですからねぇ。可愛い子を連れて歩くときは、くれぐれも注意したほうがいいですよ。人買い人売り……そんな連中に狙われたら、命が幾つあっても足りません」


 また訊かれてもいないことを、先に立って歩きながらべらべらと喋る。先程の毒は、嘘のように消えていた。


「ほら、見えてきました。あそこですよ。戦神ディアナを象った、妙に艶かしい看板が見えるでしょう?」


 斜陽を浴びて煌く、茜色の戦乙女が微笑みを浮かべていた。

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