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灰色の森  作者: 五月雨
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第1章 記憶

 林檎の花が咲いている。


 季節は晩春。桜の花も散り、黒々と逞しい樹幹は、薄く爽やかな翠に衣替えを済ませている。天蓋のごとく絡み合う枝葉も、日差しの全てを遮るのは難しい。こんな陽気の日には、軽く汗ばむくらいの暑さになる。此方の天気は快晴。太陽神ディアナの恩恵は、遍く平等に投げかけられる。生きとし生けるものを愛し、分け隔てなく慈しむかのように。


 その恵みを幾分疎ましく感じつつ、ひとりの少女が森の中を歩いていた。


 短めに切られた癖のある銀髪。生気に満ちた褐色の膚。鋭く尖った細長い耳朶。そして大粒のルビーを宿したような、深い真紅の円らな瞳。やや小柄で敏捷な身のこなしは、若い雌鹿を思わせる。だがヒトというものは見かけによらない。彼女は里のニンゲン達から恐れられる森の守護者――邪悪な妖魔アトルムだった。


「…んんっ……くぅ………はぁ~」


 危険な存在が、呑気な仕草で背筋を伸ばす。


 少女の名はエア。見たところ十五、六歳。ヒト目を気にする習慣がないのか、無造作に片手を突っ込んで肌着の中をぼりぼりと掻く。身体に密着した袖なしの短衣であることも手伝って、控えめな胸の双丘が見事にはだけてしまっている。直視に堪えない格好だが、とりあえず傍にいるのはひとり。突然変異により生まれた四足の魔獣、バーゲストのルークだ。こう見えても知能は高く、エアとは血を分けた実の兄妹である。アトルムの社会では珍しくもない。ニンゲンやニウェウスに忌み嫌われる大きな理由のひとつだった。


「…う~。どこ行っちゃったんだろ」


 唇を尖らせつつ、隣を行く闇色の毛皮を弄ぶ。


「まだ完全に治ったわけじゃないのに……」


 もふもふの艶やかな毛並みは、天日に干した布団のような心地よさがある。暫時されるがままのルークだったが、いつまで経っても止みそうな気配がない。やがて妹の右手が奇妙な熱意を帯びてくるに及び、ものぐさな彼もついに抗議の唸りを上げた。


「………ぐるるるる……」


「え?…あ……ああっ!」


 素直に足元を見遣れば、今咲いたばかりの黒い花が無数。ようやく自らの所業に気づいたエアは、慌ててその場に両膝をついた。


「ごめんなさいルーク!大丈夫!?血は出てない!?痛くなかった!?」


 大抵の場合、彼女は兄を名前で呼ぶ。他種族同様、アトルムにも『兄さん』『姉さん』と呼ぶ習慣はある。だが、それは正常に生まれてきたヒト型の肉親に対してのこと。突然変異を起こした異形の個体は、生まれてすぐに奴隷の身分へ落とされる。彼らは身体能力に優れているが、その代わり知能が絶望的に低い。ほとんど獣も同然であり、言葉を理解できる者は珍しかった。彼らを対等に扱う――たとえば名前ではなく『兄さん』と呼ぶこと――は、部族の掟により禁じられている。


「本っ当ごめんなさい!今すぐ治すから、ちょっとだけ我慢して……」


「………ふうぅ~ん……」


 不満を漏らしつつも、大きな舌でエアの頬を舐める。


 変異の魔獣は生命力が強く、この程度の傷は怪我のうちに入らない。局所的にごっそり毛が抜け落ちていても、その跡地が無残に赤く腫れあがっていたとしても。またルークがエアに望んでいるのは、そもそもそんな言葉ではなかった。


「…余は流れに逆らうもの。時をさか……さか?…とにかく時間には縛られないの。欲しいものはみんな創りだせる。えーと、それから……何だっけ。そうだ、『変わりゆくもの』。一生のお願いだから、今すぐルークの怪我を治して」


 姿なき神に祈りを捧げ、エアが癒しの術を発動する。あまり得意ではないが、この程度の初歩ならば扱えなくもない。不向きではなく、単に彼女が修行をサボっているから。


 エアの家系は代々優れた術師であり、古くは創術の奥義を極めてアトルムの祖となった伝説的な原種ライセンまで遡る。曖昧かつ適当な呪文は正しく顕現し、ルークの惨めな肌荒れを瞬く間に癒してしまう。それを見て安心したエアは、どこか甘えた微笑みを浮かべてルークの首筋に抱きついた。


「帰ったら、お詫びの印に林檎をあげる。ちょっと古くて甘過ぎるやつだけど、そっちのほうがお兄ちゃんの好みだもんね?」


 ようやく希望が叶えられた魔獣は、初めて嬉しそうに小さく喉を鳴らした。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 百年以上も前に掘られた、古井戸と併設の洗い場。全身に包帯を巻いた妖魔の青年は、そこで大量の汚れ物を洗っていた。


 滝のような銀髪に褐色の膚、細められたルビーの瞳。そして先の尖った細長い耳朶。性別による違いや個体差こそあるものの、それらは全て紛うことなきアトルムの特徴。もっとも今の姿は雑用を押しつけられた敗残兵の捕虜か――妻の暴力に恐れをなす、臆病で気弱な主夫のよう。


 ……多少間違っているような気はしなくもないが、とりあえず今の状況はそんなところ。事実彼が洗っている洗濯物は、その八割以上が女物の肌着や下着類だった。


 遡ること三日前。青年――実は名前も忘れてしまっている――は、森の中に倒れているところをエア達兄妹に拾われた。ここで即座に『救われた』と言わないのには複雑で面倒な事情がある。


 エアの安全を第一に考えるルークが、青年の救助に断固として反対したからだ。ここから近いアトルムの村は二つ、そのうち片方の部族はニウェウスの村と戦争をしている。


 それだけではない。ニンゲンの街が放った冒険者という名の傭兵に、しつこく狙われているとかいないとか。下手をすれば、エア達の住む村が戦争に巻き込まれてしまうかもしれない。そんな理由もあって、ルークは青年を助けるのに強く反対した。


 こんなとき、直接言葉を交わせないのは何とも歯痒い。獣型のルークが説教できないのをいいことに、向こう見ずでお人好しのエアは青年を自分の家へと連れ帰った。いや……そのことはもうよい。だが、それにしても……


「……うふふふふふん」


 隣を歩く少女が、にへらと顔を崩して笑う。


「ルークは優しいから、私の言うことなら何でも聞いてくれるもんねー。ご飯作るのは無理にしても、掃除と洗濯は全部やってくれちゃうんだもん。こんな優しいお兄ちゃんがいて、私ったら最高の幸せ者だわ。うんうん」


 そのせいで半人前なのだがな――これは兄としての微妙な心の声。


 魔獣の中でも極めて高い知能を誇る彼は、言葉を使う必要のない精霊術なら扱える。様々な元素精霊と親しいこともあって、掃除や洗濯などの家事は季節や時間、屋内外を問わずお手のもの。一家に一匹バーゲスト……というのは大袈裟にしても、いずれルークは家事が得意だ。成人したばかりの妹が、炊事以外全部丸投げしてしまうほどに……


 この三日で記憶した臭いを辿り、行き倒れの青年がどこへ行ったのか探る。本音を言えばこのまま消えてほしいところだが、その望みは絶たれたと考えたほうがよいだろう。地面に残された不快な臭いが向かう先は、村の果樹園がある方向。空腹に耐えかねて盗みを働きに行ったのかもしれないし、あるいは水浴びでもしたくなったのか。いずれにせよ、今すぐ村を出てゆくというのではあるまい。


 不機嫌なルークとにこにこ上機嫌のエアは、やがて洗濯篭を抱えた男が血色の悪い顔で歩いているのを見つけた。包帯を巻いていることからも分かるとおり、彼の怪我は完全に治ったわけではない。エアの創術が未熟なことも理由の一つ、だが最大の原因は他にある。発見されたときの青年は、意識不明の重体だった。小さな悲鳴を上げたエアが、慌てて駆け寄り洗濯篭を奪う。妹の身を案じるルークも、その後に続いた。


「こぉ~らぁ~!他人の話聞いてる!?病人は寝てなさいって何度も言ったでしょ!そんなんじゃ治るものだって治らないんだからね!」


 重い洗濯篭をルークの頭上に載せると、今にも噛みつきそうな勢いで説教を始めた。相手が病人だろうと容赦ない。対する男は、まだ顔色が優れなかった。熱はないようだが、やや足元がふらついている。


「あ……すまない。ただ世話になるのも悪いと思ったから」


「そういう問題じゃないでしょっ!病人は大人しく寝てるって昔から決まってるの!」


 確かに、そういう問題ではない。見ず知らずの若い男に、年頃の娘が勝手に下着を洗われたのだ。少しは恥じらいを感じるとか、年齢相応の警戒心を持ってくれればと思うのだが……天真爛漫な彼女は、あまり他人を疑ったことがない。ルークの嘆きが妹の元へ届くのは、当分先のことになりそうだった。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「じゃあ、ちょっと出掛けてくるけど……静かにしててね。すぐ戻ってくるから」


 青年を寝台に横たえると、エアは幾分硬い声でそう告げた。


「ルークは留守番をお願い。くれぐれも喧嘩はしないように。相手は病人なんだし」


 近頃やたらと機嫌の悪い兄に、念のため釘を刺しておく。約束の林檎はあげたから大丈夫だと思うが、それでも注意しておくに越したことはない。エアの安全が第一のルークは、いざとなれば妹の意向を完全に無視する。この隙に青年の寝込みを襲って殺し、どこか遠い場所へ捨ててこないとも限らなかった。


「……俺の処遇を話し合ってくるのだろう?はっきりと顔に書いてある」


 剣呑な雰囲気のルークを一瞥し、それから心配そうなエアを見返す。


「追い出すことに決まれば、大人しく従う。俺を気遣ってくれる必要はない……」


 言葉とは裏腹に、布団を被って静かに瞑目する。その様子は覇気もなく、今すぐ出てゆけるとは思えない。きょとんとした顔で首を傾げるエアに、薄目を開けて説明した。


「……エルフの会議は長いからな」


「……………がぅ」


 林檎を齧る甘い音に見送られて、エアは自分の家を後にした。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 エアとルークの住んでいる村は、さほど人口が多いほうではない。男性十八人に女性が二十一人、うち成人として認められる十五歳以上の者は全部で三十三人だ。ニンゲンの街には遠く及ばないものの、ニウェウスの集落と比べれば格段に子供達の割合が高い。その理由は簡単、アトルムのほうが自然に近い――要は子宝を授かりやすい種族だからだ。


 また二つのエルフ族は互いに争うことの多い種族であり、出生率の高さは村の平均年齢に大きな影響を及ぼす。アトルムには突然変異の忌み子が生まれる場合もあるからニンゲン並みというわけにはゆかないが。それでも子を成さずに死ぬニウェウスよりは、ずっと村の若返りに貢献している。エアの母親は彼女を産んだ際に命を落とし、父親も恋人の後を追うように戦で還らぬ人となった。


 今族長の家に集まっているのは、会合に参加する資格を持つ大人のうち二十六名。村の警備を疎かにはできないため、この場に大人達の全員が揃うことはない。今日の巡回当番は四名、そして動けないほどの重傷者と体調不良の妊婦が一名ずつ。残る一名が姿を現せば、今日の会合に参加する者達の全員が集まることになっていた。


 エアは先月十五歳になったばかりだから、会合へ参加するのは今回が初めてである。多産とはいえ少人数の村、同年代の友達などは一人もいない。エアの次に若いゼクスという男でさえ、実に倍ほども年齢が違うのだ。


 自分より情けない奴がいれば、未知の世界へ飛び込む不安も少しは和らいでくれたのに――そんな虫のいいことを考えていたエアの右肩を、硬く大きな掌が包み込む。


「……退屈だからって、子供がこんなところに来てはいけないな。遊ぶ場所なら、他にいくらでもあるだろう」


「バルザ師匠……」


 そう言って見上げた相手は、件の迷惑極まりない遅刻の常習犯だった。幼い頃からエアに弓矢と術の手解きをしてくれている、族長に次ぐ実力を持つ村の若長。その寛容な性格は親の愛を知らぬエアに父を感じさせたが、あまり寛容過ぎて大雑把なところが玉に疵。こうして今も平然と遅れてきたあたり、相変わらず悪い癖が直っていないのだろう。


 また心配性の兄ルークとは戦場での腐れ縁、よく喧嘩していたと聞かされている。世の中には喧嘩するほど仲がよいという言葉もあるから、彼がルークを対等の存在と見做していたことは間違いない。そんな幾つかの理由もあって、エアは親しみやすい雰囲気を持つバルザのことが好きだった。


「先月で十五歳になりました。私も会合に出る資格はあります」


「何?…おお、そうだったな。すまん。忘れていた」


 一瞬怪訝そうな顔をした後、バルザがぽんと相槌を打つ。


「そういえばルークの奴、今はお前と組んでいるのだったか。煩いとは思っていたが、喧嘩する相手がいないと物足りなくてなぁ」


「直接言ってあげてください。きっと喜びますよ」


 照れて頭を掻くバルザに、子供扱いされた不愉快さも忘れて嬉しそうに微笑みかける。だが当の本人は、苦笑半分本気半分といった様子で大きく頭を振った。


「馬鹿言うな。あいつが喜ぶわけないだろう。そんな可愛げがあるなら、もっと仲よくやっていたさ……っと」


 議場の一角が引き潮のように割れ、長身痩躯の男が姿を現した。


 氷雨の銀髪を滝のごとく流し、また紅蓮の隻眼で周囲を厳しく睥睨する様は、威風堂々という言葉こそが相応しい。彼の名はネロ、この村を治める老練な族長。ここで生まれた者は全員が始祖ライセンの末裔だが、その中でも五代目に当たる直系の子孫だった。


 九代目のエアにとっては四代前の先祖に当たるが、実を言うと見るのも初めてだ。当時乳飲み子だった彼女を引き取り育ててくれたのは、八歳のとき戦争で亡くなった母方の叔母。その後ルークとの縁からエアを引き取ったバルザも、結局彼女をネロの元へ連れてゆこうとはしなかった。


 感慨を覚えるでもなく、肉親の情を感じるでもなく。初めて見る遠い祖父の顔を、エアは何となく見つめていた。髪や瞳の色はアトルムに特有のものだから、そもそも似ていて当たり前。加えて彼女は父親の顔を知らないから、他の部分がどうだったのか見当すらつかない。また自分自身の姿が似ているとは到底思われず……心の片隅に淡く期待するところのあったエアは、他人と変わらぬネロの風情に微かな落胆を覚えたのだった。


(……四代も昔のヒトだもんね。似てなくて当たり前か)


 そんなことより今は会合。過半数の同意を得て、エアひとりでやったことをライセンの総意に変えなければ。勝算は薄いが、それでもやるしかない。


 決意を新たにする。揃えた膝の上で強く拳を握りしめた。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「……以上が彼を保護したときの状況です。非常に弱っていましたから……生かしておくためには、とりあえず連れて帰るしかありませんでした」


「判断の是非には議論の余地もあろうが、済んだことを言っても仕方ない。問題は今後、村の総意として彼をどのように扱うかだ」


「そうね。昨日意識を取り戻したそうだけれど、何か聞き出せたことはあるの?」


 先任の若長二人が、それぞれ意見や質問を口にする。


 村の会合において、彼らが個人的な考えに基づいて発言することはない。先に発言したほうの男性は若長になってから長く、あらゆる立場に否定的な見解を示すのが役目。


 次いで発言した女性は、全てを寛容に受け容れて活発な議論を促す役割だ。


 そして一番若いバルザは何も振られていない。あえて言うなら若長見習いといったところか。養父の視線に励まされ、エアは更に詳しく事情を説明していった。


「えっと……まだ何も聞き出せていません。というより、あの……実は彼、ほとんど自分のことを憶えていないみたいでして……」


 言い淀んだエアに、男の若長が再び詰問口調で問い質す。


「すると何か。その彼とやらは、自分の名前も知らないというのか?自分がどこから来たのか、どの部族の出身かということも?」


「あ……はい。自分が部族の戦士だということは、憶えてるみたいなんですけど……その他は何も憶えていないそうです。年齢や家族のことも全然」 


「……………………」


 溜息混じりの沈黙が、議場全体を支配する。


 実質的に判断材料がないのと同じ。不審な余所者を受け入れるためには、何か決定的な論拠が欲しい。さもなくば無用な危険を避け、不確定因子を残らず排除することになる。昨今の不穏な情勢を鑑みれば、慎重すぎるということはなかった。


「何も意見がないのなら、基本的には報告者の判断を尊重することになるわね。実態を一番把握しているのは、その彼と直接に関わった者なのだから」


 髪の長い女の若長が、淡々とした口調で纏めに入る。


「もっとも彼女が会合に参加するのは、今回が初めて。いきなり反論するのが可哀想なら、応援や賛成の意見でも嬉しいのだけれど……」


 今度は媚態を滲ませて、集まった一同の顔を順番に見回す。


 彼女の妖艶な笑みは、男性のみならず女性までも魅了してしまう力を持つ。奇蹟の類ではなかったが、免疫不足の若者達は言葉を捻り出そうと未熟な頭を働かせている。自分の仕事はひとまず終わり。族長に目礼すると傍らの席に腰掛けた。


(……シェラさん。相変わらず化けるなぁ)


 裏表のないエアは呆れつつも感心する。自分の心を護り、同胞を鼓舞するためとはいえ疲れないのだろうか。本当の彼女が弱いことを知る者は少ない。


 頼もしい応援を期待して、年長者達の反応を窺う。


 バルザは若長ゆえ、心情的にエアの味方でも自分の意見を口にすることはできない。族長と他の若長達が発言しない以上、彼に意見できる者など誰もいないからだ。


 反対意見が出なければ、その役割は自ずと男の若長――グスマが担うことになる。彼の理不尽なほど執拗な尋問を経て、議論は採決へと集約されるのだ。猛き野生の竜は、小さな兎を狩るのにも全力を尽くす。エアが議論に慣れていなくとも、この実直な若長は絶対に手加減などしてくれないだろう。


「……ふむ。誰も意見のある者はいないのか?ならば……」


「お待ちください」


 グスマが議論を打ち切ろうとしたとき、後ろの壁際から一人の男が立ち上がった。


 先月大人になったばかりのエアは、小さな部族とはいえ必ずしも全員の顔を知っているわけではない。それぞれの家が広く森の中に点在しているため、村の会合に出席しない限り全く顔を合わせない相手も存在するからだ。しかしエアは、この男の顔を知っている。


 まだ彼女が子供の頃から幾度となく付き纏い、その都度バルザやルークに追い払われていた懲りない男。相変わらず浮いた話の一つも聞こえてこないのは、きっと何か大きな問題があるからに違いない――たとえば傲慢で独りよがりな性格とか。要するに色々と誤解されやすい男なのだが、とにかくエアは彼のことをそう認識していた。


「…戦士ゼクス。発言を許可しよう」


 グスマの厳かな言葉に頷くと、村で二番目に若い戦士は自らの持論を展開した。彼の言いそうなことなど別に聞かなくても分かるのだが……ここは村の会合、まさか無視するわけにもゆかない。内心ぐったりと疲弊しつつも、毅然とした態度を装いなおす。


「私は、その男を受け入れるのに反対です。いかに同胞とはいえ、素性も知れぬ怪しげな男を……裏切りと騙し討ちは世の常。相手がアトルムというだけで信じるのは、いささか無邪気に過ぎるでしょう」


「異議あり」


「戦士エア。発言したまえ」


 すかさず挙手したエアを、グスマが指名する。


「ニクスの法術には、膚を黒く見せるようなものがあるんでしょうか。幻影術なら一時的にはできるでしょうけど、三日も騙しとおせるとは思いません。朝から晩まで私とルークが傍にいましたし、こっそり術を使ったような気配はありませんでした」


「…あ、朝から晩まで……!」


「……?…言いたいことがあるなら、はっきり言いなさいよ」


 首を傾げて睨みつけるエアの視線に、ゼクスの長身が大きく仰け反る。


「べ、別に……いや違う。異議あり」


「…戦士ゼクス。お前は平静を失っているようだ。一度休憩に入ってもよいのだぞ?」


 珍しく憐れむようなグスマの口調に、周囲の年長者達がくすくすと笑う。これ以上の醜態を晒すのは本意ではなかったが、ゼクスとしても退くわけにはゆかない。一息ついて気を取り直すと、頭の片隅から最後の切り札を取り出した。


「…お前の言うとおり、奴らの術には色を変えるようなものがないかもしれん。だが原種の術はどうなのだ?我々は連中のことをよく知らん。十二神の奇跡、逆神の奇跡。そして言霊。この中に我らの術を真似たものがないと、お前は言い切ることができるのか?」


 はっきり言霊とは言わなかった。十五歳の誕生日前日、初めての任務を与えられたエアはニンゲンの言霊に嵌められている。ゼクスの落ち度もあるのだが、そのことに彼はあえて触れない。もしエアのほうから触れれば、ゼクスの意見を補強してしまうことになると分かっているからだ。余計なときだけ大人の狡猾さを見せる古馴染みが憎い。


「……そ、それは確かに……だからって!今すぐ追い出す理由にはならないわ!どうしても疑わしいって言うんなら、彼の身体を調べてみればいいじゃない。原種の寿命は短いから、姿だけ変えても誤魔化しが利かないでしょ」


「……ぬ…………」


 今度こそぐうの音も出なくなり、ゼクスが歯を食いしばって黙り込む。


 アトルムの創術師達は、時と物質を司る神『変わりゆくもの』に祈ることで、いかなる存在の物質的状態をも知ることができる。


 もし青年が原種なら、言うまでもなく不老長寿の秘術は施されていない。四柱神の子孫たるニウェウスは、元よりニンゲンとは若干違う生物種のため生得的に不老長寿。またニンゲンの創術師から興ったアトルムは、世代を重ねることにより自然に種としての形質を定着させていった。その秘術も今では完全に失われているため、後天的なエルフが生まれる可能性は無きに等しい。つまり青年の寿命がエルフ族並み――千年単位で残っていれば、彼がニンゲンの工作員であるという疑いは晴れるのだ。


 そしてニウェウスの身体には、ルークのような変異体が生まれるのを防ぐ特別な処置が施されている。エルを主神とする聖の神々は、自らも肉体に手を加えておきながら、変異体をのみ忌まわしい存在と見做して生殖能力を部分的に封印したのだという。むしろ敵対的な部族のアトルムと考えたほうが、いくらかは合理的というものだった。


 これ以上の議論は望めないと見做し、バルザも含めて三人の若長達が族長に視線を送る。それに頷き返したネロは、やおら立ち上がって全員の顔を見渡した。


「では……採決を行う。戦士エアの意見に賛成の者は挙手せよ」


 主として若い女性達を中心に、ぱらぱらと五人程度の手が挙がる。割合に直して考えるならば、およそ二割程度というところだろう。


「続いて戦士ゼクスの意見に賛成の者。挙手せよ」


 こちらは男性を中心に約二倍の九人、割合で言えば三分の一ちょうどだ。エアの賛同者よりは多いが、それでも過半数には達していない。大多数の者達が棄権したため、行き倒れの青年に対する処遇は族長の裁定に委ねられた。沈思黙考する族長の元に、同胞達の張りつめた視線が集中する。やがて、その時間は唐突に終わりを告げた。


「…若長バルザに、その男の調査を命ずる。確実に同胞ではないと分かったときは、我が命を待たずに即刻追放せよ。判断がつかぬ場合、真のアトルムだった場合はお前と戦士エアの二人が責任を持って監視すること。軽率に殺めてはならぬと厳命する」


 結論の先延ばしとも取れる裁定を聞いて、エアは安堵の溜息をついた。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 青年の身体に関する調査。それは言葉で聞いた印象ほど大袈裟なものではない。碌に修業をしていないエアでさえ、失敗する惧れは皆無と言ってよい。創術の神に祈りを捧げ、その答えを聞く。それだけのことだから。


「……結果はどうだったんですか?まさか本当に原種なんてことは……」


 難しい顔のまま黙り込むバルザを見て、エアが不安そうに訊ねる。それとは対照的に、ゼクスは頗る余裕の表情だ。もしニンゲンだった場合、族長からは直ちに追い出せとの命令を受けている。もし違っていれば現状は何も変わらないのだが、そんな都合の悪い話は頭の片隅にも残っていないのだろう。元より思い込みの激しい彼は、最初から自分が聞きたいことしか聞かなかった。


「覚悟はできている……念のため、今のうちに礼を言っておくとしよう」


 自分の命が懸かっているからか、青年の顔は心なしか蒼褪めて見える。額に汗をかいているのは、何も傷の痛みだけが原因ではないだろう。一見興味なさそうなルークも、その実バルザの言葉に耳を澄ませているのは間違いない。所在なく揺れる豊かな尻尾を適当に撫でると、見習いの若長は幾分顔を綻ばせた。


「…うむ。ゼクスには悪いが、こいつは確かにアトルムのようだ。生まれる前に変異体を殺すニウェウス特有の処置が行われていない。それと残りの寿命は千九百七十五年、今は二十五歳になる……お前、意外と若かったんだな?」


「ああ……!」


 少なくとも異種族ではないことを確信して、青年が安堵の表情を浮かべる。


 エルフ族の寿命は、基本的に個体差というものがない。ニウェウスとアトルム。男性と女性。その他一切の要素に関わりなく、彼らの寿命は全て同じ二千年だ。しかも生まれたばかりの赤子を調べた場合は、僅か一日のズレさえないことが確認できる。


 もっともニウェウスは比較的新しい種族であり、アトルムに至っては発祥から千年ほどしか経っていない。それゆえ寿命で亡くなった者は一人もおらず、少なくとも族長の年齢――満四百五十一歳までは、若く健康でいられることが証明されているだけだった。


「…余所者、命拾いをしたな」


 大きな舌打ちをしつつ、ゼクスが忌々しげに呟く。


「怪しい素振りを見せたら、すぐにでも叩き出す。覚悟しておくんだなっ!」


 吐き捨てるように言い残すと、乱暴に扉を叩きつけた。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「ん……?」


 竈の前で鍋の様子を見ていたエアは、ふさふさの柔らかい肌触りを感じて足元に視線を落とした。見れば隅のほうで寝ていたはずのルークが、お腹を空かせた仔猫よろしく彼女の太腿に首や頭を擦りつけている。


 姿形こそ頭の大きな犬だが、バーゲストの習性はどちらかと言えば猫に近い。餌付けをしても芸はしないし、普段の行動は基本的に我儘勝手な個人主義だ。しかし妙なところで犬の習性も残っており、夜は必ずエアと一緒の布団に寝ると言って聞かなかった。


「あー……ごめん。もう少しだけ待っててね。そろそろできると思うから」


 エアが作っているのは、ミルクと野菜をふんだんに使った羊肉のシチューだ。野菜は裏の畑から採ってきた新鮮なもの、人参の瑞々しい甘さにはちょっと自信がある。ならばミルクと羊肉はというと……こちらは村の近辺で取れたものではない。森と共生した暮らしを営むエルフの集落では、大型の家畜を放す広い牧場など最初から望むべくもなかった。


(結構奮発しちゃったけど……大丈夫だよね?次の新月には、またラダラムさんが持ってきてくれるんだし)


 ドワーフやホビットなどの小人族は、互いに魔神を信仰している縁もあって、頻繁にアトルムの村を訪れる。その際に珍しい薬草や果物を用意しておき、等価の肉や魚、穀物に酒。あるいは鍋釜などの金属製品と交換してもらうのだ。彼らは魔神信仰を否定しないニンゲンの国に属しているから、望めばニンゲンの職人が作った装飾品なども手に入る。


 もっともニンゲン達のほうでは、たまに店頭で見かける高価な品々の一部が、忌み嫌うアトルムにより供給されていることなど知る由もないのだろうが……


「……よし、と。今日はうまくできたほうかな………うん」


 余熱で煮詰まり過ぎないよう、竈に灰を入れて微かな残り火を消し止める。ルークの期待を裏切るようで悪いが、とりあえず夕食はお預け。何故なら今日は、その前に大切な話をしなければならない。ルークにお詫びの頬擦りをして振り返ると、エアは居心地が悪そうにしている青年の向かい側に胡坐を組んだ。


「とりあえず今日は、このままうちに泊まればいいよ。他に行くとこ、ないと思うし」


 遠慮がちな性格を気遣い、わざと冗談めかして言う。そのうち記憶が戻れば自分の村へ帰るのだろうが、今の彼は島の地理を忘れてしまっている。手当たり次第に探し歩いたのでは、故郷の村を見つけるなど無理。バルザの創術で怪我が治ったとはいえ、このまま外へ放り出すのは心許なかった。


「……いいのか?俺を監禁しなくとも」


 意外そうに首を傾げたが、青年の目に疑惑の色は混じっていない。バルザとエアが監視を命じられたことも含め、会合で決まった内容を包み隠さず話したからだろう。


 むしろ強く感じられるのは、快復したにもかかわらず他人の家で居候することへの違和感。これ以上世話になっては申し訳ないという、純粋な遠慮の気持ちだった。大袈裟に微笑んで見せ、彼の憶測を否定する。


「すぐ新しい小屋を建てるのは無理だし、当面ここで寝泊まりすることになるんじゃないかな。これは一応禁句なんだけど……バルザ師匠、ずっと昔に恋人を亡くしてるから生活力がないのよね。それに……」


「それに……何だ?」


「うん。本音を言うと、私もちょっとだけ嬉しかったりするの。歳が近くて話せる人、この村にはいなかったから」


「……そうか」


 一瞬ゼクスという男のことが思い浮かぶも、とりあえず今は触れないでおく。先程の血気盛んな様子を考えるに、この優しい少女と折り合わなかったのかもしれない。複雑な事情を何となく察して、神妙に頷いた。


「…まあ、そういうことだからよろしく。それで、あなたの名前なんだけれど……」


「ん?」


「これから同じ家で暮らすんだし、やっぱり名前が分からないと不便よね。というわけで……いくつか名前の候補を考えてみました」


 急な展開に面食らったが、言われてみれば確かに自分の名前が分からない。別に二つあって困るものではないし、かといって一つもなければ間違いなく困る。あくまで仮のものだから何でも――そう伝えるとエアは一瞬面白くなさそうな顔をしたが、すぐに気を取り直して最も気に入っているらしい名前の候補を口にした。


「…ウィル、っていうのはどうかな?神様が使っていた昔の言葉で『意志』。あなたの記憶が戻りますように。きっと故郷が見つかりますように。そんな願いを込めてね」


「……………」


「あ、駄目かな?それなら二番目以降の候補も出してみるけど……」


 青年が押し黙ったことで、むしろ真剣に考えてくれていると思ったのだろう。どこか嬉しそうな、明るく弾んだ声で次々と名前の候補を挙げてゆく。


「そうねー、他にいい意味の言葉っていったら……ハッピーとかラッキー?あとはホープっていうのもあるかなぁ……え?どしたのお兄ちゃん。夕飯前に林檎なんか持ってきて……あれ、食べるんじゃないの?」


 無言の意図を察すると、青年は憮然として左右に首を振った。


「いや……さすがに遠慮させてもらう。そのうち食べられてしまいそうだ……」


「うん。駄目よ、お兄ちゃん。今は真面目な話をしてるんだから」


 少し遅れて理解したエアも、呆れた表情でルークを叱る。


 だが彼女の提案した名前も、安直という意味では大概なものだ。気のせいだろうが、犬や猫の名前でも決めるようなつもりかと疑いたくなる。本人に悪気はあるまいし、ふざけているのでもないのだろう。要は、さっさと決めてしまうのが吉。


「…ウィルにしよう。お前の言ったとおり、今の俺には現実を認める強い意志が必要だ。それを憶えておくためにも、この名前は決して悪くない……」


 卓上に視線を落としたまま、独り言のように呟く。やがて青年――ウィルが静かに顔を上げると、エアは満面の笑みを浮かべて頷き返した。


「ようこそライセンへ。これからよろしくね、ウィル」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 その夜、彼はひとりで散歩に出た。


 変わり映えしない、いつもの道である。獣道ゆえ、幼馴染みや妹を連れてきたことはなかったが。


 ここに来ると時々よいことがある――彼は経験的に知っていた。妹が短気を起こしてリンゴを隠されたとき、村に特別なことがあったときなど。余所者の扱いに最初の区切りをつけたのが今夜。きっと素晴らしいものが待っているに違いない。


 鬱蒼と茂る、起伏に富んだ森を駆けてゆく。進んだ先のいつもと同じ場所に男がいた。空を見上げながら漠然と立っている。何のつもりか、目的があるのかさえ分からない。なるべく邪魔をしないよう、物音ひとつ立てずに待つ。


 獣の存在に気づくと、男は懐から赤く丸いものを取り出した。肩まで届く氷雨が土に濡れるのも構わず、屈んでそれを彼のほうへ差し出す。獣は思わず喉を鳴らした。かなり大きい――今宵の土産は極上だ!


 獣は躊躇いなく傍へ行き、しゃりしゃりと音を立てる。食べ終えた後もその場を離れず、何かを催促するように佇む。額に掌が載ると嬉しそうに頭を擦りつけ、喉の奥からにゅぅ、と啼いた。いい子だ……と、男も独りごとのように囁く。


 暫くそうしていたが、やがて獣は枝葉の向こうへと走り去る。


 姿が見えなくなるまで、茂みを揺らす微かな音が届かなくなるまで。氷雨の男は、獣が去った方角をじっと見つめていた。

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