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灰色の森  作者: 五月雨
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第9章 終焉

「来ました!ニクス共です!」


 斥候の張りつめた声が、急拵えの陣中に響く。


「その数、百!サラサだけとは思えません」


 悲鳴混じりのどよめきが起こった。ここはライセンの集落外れ。筆頭若長グスマを総大将として、族長を除いた村の戦える者全員が集まっている。


「…早かったな。ブラッドは張り子の虎だったか……?」


「戦いの有無は分かりません。火をかけられておりましたので」


「ふむ……」


 抵抗があったとしても、少数だったというわけだ。考えられるのは、今も生き残りが森の中を逃げ回っている可能性。


「あれらは獣と同じだ。保護を求めてきても無視せよ。今、そのような余裕はない」


 奴隷階級だった者など、恐らく何の役にも立たない。足手纏いを抱え込むには、もう少し情勢が落ち着く必要がある。戦士階級なら、そもそもの元凶ではないか。


「シェラ率いる先鋒隊、先行して手筈どおり敵を誘導せよ。バルザとルークは……」


 少し喉が痞え、思わず言葉を切った。


 味方の動揺が広まっている。風に乗せて運ばれた妙な演説のせいで。


 発言者の意図は不明。こちらの油断を誘うためとグスマは直感した。無視してもよかったが、念のためバルザを族長の元へ遣わしたのである。総大将の彼が今、本陣を離れるわけにはゆかない。またこのような話を、滅多な者には聞かせられない。


 族長の返事は、筆頭若長を困惑させた。




 ――お前達が生き残るために必要なことは全てやれ。




 これだけである。聞きようによっては、恐るべき解釈も成り立つ。


 いかなる手段も忌避せず選択せよ――それには長年の仇敵たるニウェウスとの休戦や共闘も含まれるのか、と。


 族長は『我々』と言わなかった。その事実が、ますます不安を掻き立てる……


「…好きにやれ。ただし目的を忘れるな」


「了解ッ!」


「がう」


 頼もしい後輩の後ろ姿を見送る。共に駆けるルークも、ヒトでこそないが優秀だ。自分の恋人アローナと特別親しい関係にあることも知っている。


 嫉妬はしない。さりとて肯定もできない。族長の末裔だろうと変異体であることに変わりはない。見下してなどいない。不稔だからといって気にならないわけでもない……


(雑念だ。私情は控えるべきである)


 目指すは完全なる勝利。それはグスマにとって、死を覚悟しているらしい族長の生存と幼馴染みの無事を喜ぶ恋人の笑顔も含まれる。


 改めて、自分の周りにいる者達を見渡す。成人している戦士の半数はシェラが連れていった。後方の本陣に残した者は、控えめに言って半人前が多い。


 先日成人したばかりのトリシャ、それから若い順に族長の末裔エア、ゼクス、フラン……乱戦において、恐らく一番マシなのがフラン。身体能力は劣るが、バルザの報告では周りが見えていると聞く。その点に関して、実はグスマも他人のことを言えない。見どころは親衛隊に扱かれたゼクスがどこまで成長したかだろう。


 そして……此度の戦。できればエアは、族長の元に残しておきたかった。ライセンの直系だからではない。ニンゲンの街から戻って以降、様子が優れないのだ。


 その理由は明らか。あの新参者とはぐれてしまったため。


 先程の考えと矛盾するが、氏族の一員としては安心した部分もなくはない。前回の小競り合い同様、トリシャ共々留守番を命じればよかったのだ。そうすれば族長も、無理することなく御身の安全を考えてくださるはず……


(族長は何かを目論んでおられる。それゆえヒト払いをなさったのだ)


 だが今は考えても栓なきこと。嫌な予感を振り払う。


「…若長。シェラ様の隊が戻ります」


 伝令に出ていた者から予定どおりの報告。本隊の役目は、敵の進軍を受け止めること。先鋒隊が機動力のある敵を撒き散らして戻るまで、この戦線を支えなければならない。


 嚆矢のバルザが最初にシェラ達と同じことを行い、シェラの隊は一斉射を放って後退した。グスマ達は、それを拡大して再現する。族長と子供達に危険が及ぶゆえ、すぐ退がることはできないが。未熟な若者達に釘を刺す。


「この作戦は機動力が命だ。無理に狙って遅れるな」


 だが最初の一撃だけは別。確実に敵の数を減らさなければ。


「若長、お下がりください!」


「危険です!攻撃は俺達が」


 後退する味方の反対側、左翼になら大きな火力を撃ち込める。


「…『変わりゆくもの』よ。汝の見えざる手は魂までも挽き潰す」


 場所そのものに現象らしい何かは見えない。だが狙った一点から半径十歩ほどの空間に飛び込んできた者は残らず転倒する。そしてひしゃげた叫びをあげ、最後は赤いものを撒き散らしながら潰れてしまう……収穫が遅れたトマトのように。場所がよくなかったかと嘆息する。開けた場所には畑も多い。


(あとで作物を分けてやらねばな)


 グスマの畑は、もっと泉に近い場所。そこでアローナと一緒にハーブを育てている。


 上手くいったら皆にも教えてやろう。食事が華やかになるうえ、交易に使うこともできる。森には様々な固有種があり、その秘密を盾にすれば……


(…発想がバルザに似てきたか?)


 この島にニンゲンが現れたのは百年前。既に八十歳を迎えていたグスマは、おいそれと森の外へ出られる立場ではなかった。必然、森の外のことについては若者がもたらす情報に頼らざるを得なくなる。


 気持ちが置き去りにされていた。ニウェウスとドワーフが一緒に酒を飲んでいるところを、彼は一度も見たことがない。


 ちゃぷり、という音が耳を打つ。それで物思いから我に返る。


 水だ。足元をせせらぎにも届かぬほどの水が流れている。積もりはじめた雪を解かしつつ量を増し、畑地へ流れ込む。そうと知らずに踏み込んだ運の悪い敵が、足を取られて無様に転んでゆく。地味ながら卒がない、フランの仕業だろう。


 その隙を見逃さず、炎弾の苛烈な雨が降る。こちらは当たるに任せた無駄の多い力押し、一撃で薙ぎ倒す威力は見事なものだが……あれでは二度三度と続くまい。後退するゼクスは青色吐息、作戦を充分に理解しているのか疑問が残る。


 敵の目が向きにくい左翼の後方から、少し遅れて一本の矢が飛んだ。ゼクスの炎が生んだ熱の嵐に巻き込まれ、ひょろひょろ流れた挙句敵の足元に突き刺さる。一斉に視線を浴び、トリシャは小さな悲鳴をあげた。その拍子に足を滑らせて転び、今度は声にならない悲鳴をあげる。反射的に動きかけたが、グスマの心配は杞憂に終わる。


 熱の嵐をものともしない一陣の風に乗って三本の矢が奔った。攻撃より牽制を重視したそれらは、しかし二人の敵を貫いて蹲らせる。怒りと復讐の予感に酔いしれた敵にとっては、身震いするほどの冷水だったに違いない。敵が勢いを取り戻す前に駆けつけ、怯えるトリシャに肩を貸しながら引き揚げてゆく。


 元々得意な弓に精霊を組み合わせたものだ。力の消耗が少なく、いつ終わるとも知れない長期戦に適している。四人の中では、エアの成長が最も著しい。


 しくじった者はいないようだ。これなら犠牲を出さずに勝てるか――それも二度続けて。稀有な連勝の予感に、若長の胸は言いようもなく弾んだ。



 ☆★☆★☆★☆★☆



(もう一撃。これで大勢を決める)


 再び同じ奇蹟が炸裂した。しかし予想より戦力を削れなかったと思う。後退する味方から若干遅れ、最前線で突出する形となったことには気づかなかった。


 ニウェウスの側からも二人、グスマの左右に突出してくる。


 タルカスは機会を逃さない。いや――初めから窺っていた。


 そして唱和する。それぞれ右手と左手を掲げて。


「「…『変わらざるもの』よ。此の身と彼の身は世界を分かつ」」


 祝詞が終わるや、グスマの後ろにいた者達の世界は激変した。正しくは前にいた者達の世界も同じくらい変わったが、その変わりようが違う。エア達からは、グスマと敵の最前列が見えなくなる。ニウェウス達からは、トリシャとエアが見えなくなる。


「え……?」


 戸惑うトリシャを庇いながら、見えている敵を撃つ――法術を展開する二人の片割れだ。予想していたのだろう、護衛が現れてエアの矢を叩き落とした。自分ともう一人を護れる程度の小さな結界。その隣に一人、また一人と増えてゆく。


 ライセン側からの介入を拒んでいるのだ。見えない向こうがどうなっているか、何をするつもりなのか想像に難くない。


「グスマさん!?」


 ニウェウスは集団戦闘を得意とする。苦戦が続いても、有利な状況が訪れるまで辛抱強く耐える。彼らにとっては、その時が今なのか。


 弓矢による飽和攻撃。どれも風の加護を受けている。速度と範囲からして詰み――退路を塞がれ、かつ先にマナを使われてしまった。必要な手順であることに加え、グスマの選択肢を減らす効果もある。道が限られている状況下、反射的にとった行動は。


「『変わりゆくもの』よ!我にマナを集めよ!」


 横に跳びながら叫ぶ。


 『収束』の奇蹟だ。副作用として時間の流れが速まる。その結果、相対的に周囲の者より素早く動くことができる。ただ、集められた量が少ない。


「『変わらざるもの』よ。平衡せよ」


 グスマを取り囲むヒト壁のどこからか発せられた。時間が均される前に、辛うじて土砂降りの矢を脱け出す。『収束』か『圧潰』か――一瞬の迷いが命脈を断つ。いずれにせよ無事では済まなかったろう。一本の矢がグスマの左手を地面に縫いつける。反動で跳ねた右半身を矢の奔流が押し流す。両軍を隔てる歪みの壁より高く、赤い飛沫が舞った。


「どいてよ……」


 エアの呟きで我に返ったトリシャも自らの弓を拾う。反対側の敵を狙ったが弾かれた。こちらにも盾役がいるようだ。異常に気づいた本隊の一部が引き返してくる。反撃するつもりがないニウェウス達は、ライセン側の総攻撃を一顧だにしない。確実に一人を殺す――その執着。その愉悦。その悪意。


「どいて……っ!」


 赤い塊に変わり果てても、グスマはまだ生きていた。


 慟哭が聞こえる。遠くから、数えきれないほど。仲間に応えようと蠢くが、喉を震わせることは叶わなかった。代わりに血の咳を吐く。


 これで準備は調った。最後の力を振り絞るには、二言か三言あれば充分。


「…『変わりゆくもの』。我、解き放つ……」


 瀕死の肉体が瞬時に膨れ上がろうとする。欠けた右半身を補い、元のままではない何か大きなものへ。若いニウェウス達の間にどよめきが起こった。タルカスを始めとする年齢を重ねた戦士達は、戦慄に顔を歪めながら攻撃の構えを取る。


「撃ていッ!」


 これまでとは比較にならない殺意の嵐が吹き荒れる。弓矢、炎、氷柱、石礫、鎌鼬、稲光までも。それら全てが瀕死の肉塊を貫く。


 明らかにやり過ぎだ。もはや死を通り越して、ヒトの原形を失いつつある。それでも腕を伸ばそうとした。摑みかかろうとした。既に亡き者となったはずのそれは。


「…『変わらざるもの』よ。光なき翳、全てと呼ぶには小さな全て。其を永久の虚無に成さしめたまえ……!」


 術式の完成と共に、タルカスの前からもグスマの姿が消えた。その代わり大きな球形の歪みが現れ、周囲の景色を曲げる。それは徐々に縮み、やがて見えなくなった。後に残ったのは誰かが倒れていたらしい潰れた雪と、それを塗り込める鮮烈な赤。


 歪みの壁が晴れる。見通しのよくなった畑地に再び現れた侵略者共は、不敵な笑いを浮かべていた。ニウェウス達の戦術を破るには、今のライセンでは力が足りない。その事実を双方が理解している。


 今すぐ仕切りなおさなければ――誰が?筆頭若長という心の支えを失くし、自らも未熟な歳若いアトルム達に為す術はなかった。


 一方タルカスも攻め手を欠く。四倍の戦力を以て森に潜む敵を掃討するのは容易い。しかしそれでは戦力が分散されてしまう。彼の個人的な狙いが果たせなくなる。


 他の氏族からも戦力を募った名目は、非業の死を遂げたナスカ族長の仇を討つこと。この場の誰も面識がないタルカスの父親のため、最も恐ろしい敵の前に自らの命を投げ出すことではない。


(ようやく、ここまで来たというのに……!)


 タルカスは臍を噛む。


 連れてきた戦士達は、タルカスの戦術に忠実だった。それだけに無謀な危険を冒して村へ進もうと考える者は少ない。着実に敵の戦力を削ってゆき、不利とみれば迅速な撤退命令があるものと信じている。諸悪の根源ブラッドを滅ぼしたうえ最大集落の筆頭若長まで討ったとあらば、示威行動としては充分過ぎるほど。


 今のライセンは手負いの獣。また同じ手にかかってくれるとは限らない。ならば一度村へ戻り、この勝利を主戦派の地固めに利用すべきではないか……?


「……けられない」


 その呟きが金縛りを解く。


 エアだ。決然と並みいる敵を見渡す。


 ブラッド王ハルマーがウィルなら。ここまで来た彼らは恐らくウィルを殺した。


 遺体すら残っているかどうか。丸ごと消されたグスマのように。


(…クララの気持ち、やっと分かったよ)


 仲間を。大切な家族を奪われるということ。


 ああ……そうだ。命ある限り、一人でも多く殺してやる。グスマとアローナの生まれて間もない子供のためにも。


「負けられない!こんな奴らなんかに!」


「よくぞ言ったわ!アトラの小娘がっ……!」


 タルカスが愉悦に満ちた声で嗤う。


 それが引き金となった。言葉未満の罵声と共にゼクスの炎が爆ぜる。今度はニウェウス達も防戦一方ではない。盾役を前に出しつつ、孤立させた敵を積極的に取り込もうとする。ライセンの側も同じ手は喰うまいと、格闘に長けた者達が戦線を築く。


 とはいえ、本来の戦術ではない。アトルムの戦は遊撃こそが本領。よりにもよって敵の真似事では、どう考えても分が悪かった。いつ後ろに回り込まれるか――たった一人送られるだけでお終い。ここで退いたら子供達はどうなる?族長はむざとやられたりすまいが、最悪の想像が彼らの足と判断を鈍らせる。


「…駄目だ!持たない……!」


 後方でフランが喚いた。気力を振り絞って招いた精霊は、マナ不足により露と消える。零れた嘆きを隠すように、轟音が鳴り響く。


 遥か高みの空から、無骨な円錐が落ちてきたのだ。それを大陸のニンゲンが見れば、騎士と呼ばれる兵が使う馬上槍に似ていると思ったかもしれない。もっとも大きさは非常識、背丈の三倍から四倍――太さもそれに比例してあったが。土砂を巻き上げ、偶然居合わせた肉を貫き、何もかもを蹂躙した。爆発的に。


 法術による空間の歪みを以てしても、これほどの質量は逸らしきれない。次々と降り注ぎ、タルカスの軍勢を取り囲んでゆく。


「な、何事だっ!?」


「分かりません!ただ槍が降っているとしか」


「ええい、そんなもの見れば分かるわっ!」


 高所から射かけるのが飛び道具の基本。逸早く動いたエア、それに続こうとするトリシャ。地面から生えた柱の上に登れば、有利になると踏んだのである。しかし二人の思惑は直前で止められた。その声が誰のものか――ライセンの戦士達は知っている。時に筆頭より頼もしい、氏族きっての武闘派。


「退きなさい!」


 五本目の槍が両軍の間に弾着した。周囲を吹き飛ばし、風圧が木々を押し倒す。生じた土埃がアトルムとニウェウス双方の視界を奪う。


「総員、散開!」


 ライセンの戦士達に躊躇いはない。指示に従い、別々の方角へ逃げてゆく。


「何してるのエア!早く!こっち!」


 半年違いの少女に急かされ、やむなく撤退する。


 振り向きざま、無骨な円錐を構築するシェラを偶然見つけた。『創造』――材質と形状は思いのまま、あらゆる物体を造り出す奇蹟。それ自体は難しくないが、あれほど大きく早く造ること、できたものを放り投げられるのは並みいる剛力の中でもシェラだけ。


 六度目の投擲を済ませると、彼女の姿は瞬く間にその場から消えた。敵陣から遠いゆえ、あの様子なら捕まる心配はなかろう。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「どうにか助かった……な」


「お互いにね。前の戦と同じなら、死んでたかも」


「それこそ互いにな。お前も腕を上げたろう」


 ゼクスとフラン。従兄弟同士、無事を確認して一息つく。


 とはいえ、ゆっくりしてもいられない。ほぼ全ての戦力が撤退した以上、村は丸裸も同然だ。あの場にいなかったバルザとルークも今は様子を窺っているはず。


「…他の皆は?」


「分からん。固まると意味がないからな……」


 何気ないゼクスの言葉に感心するフラン。言外の意味を察して怒髪天を突きかけ……諦めたように溜息をつく。


「ああ、ああ。言わなくていい。分かっている」


「本当に?」


 くすくす笑う。憮然とする。


「…少しは馬鹿が直った。そう言いたいのだろう」


 自覚があったのだ。以前は考えなしに突き進むことしかできなかったと。


「うん。ほんの少し、ね」


 無言で拳骨を振り上げた。とはいえ逃げるのは容易い。昔と違って、そこにも手加減が感じられる……と、ゼクスの背後から今にも泣きそうな女の声。


「フランっ!」


 呼ばれたほうは鷹揚に左手を挙げて応える。


「ああシェラ、君も大丈」


「怪我はない!?無事!?また踏み潰されたりしていない!?」


 殺到して抱き締める……と、シェラの足元から今にも死にそうな男の声。


「…いや。あなたの大事な同胞が、今まさに踏み潰されかけておりますが……」


 目尻に涙を浮かべた番いを抱え、従弟を死の縁から救ったのはフラン。そのまま一緒に二つほど回って降ろされたシェラは、ばつが悪そうに咳払い。


「…ゼクスも無事で何よりだわ。成長したのね」


「ええ、まあ。それより今後のことですが」


 意外そうに瞬くシェラ。今度はゼクスが咳払い。とりあえず話を進める。


「二人には偶然会えたから伝えるけれど。実は私達に、もう作戦らしい作戦はないの」


「それはつまり、村を諦めてとにかく生き残れってことなのかな」


「そういうこと」


 フランとシェラが会えたのを偶然とみるかは措くとして。ゼクスに関しては、そのとおりだろう。皆とりあえず手近な同胞と組むしかなかった。


「今はリシリア様と親衛隊が足止めしてくれている。あのヒト達なら、簡単に死んだりしないと信じられる」


 リシリアは族長の妹の末裔、かつ族長を除けば最高齢のアトルムだ。そのリシリアを女神のごとく奉る親衛隊――ナガメ、ノワキ、フキョウは、三人で連携したとき若長をも凌ぐ戦闘力を発揮する。四人はライセンの最大戦力と言ってよい。


 シェラの話を要約すると、命令は「何が何でも生き残れ」。


 確かに伝える必要はない――実際に聞けば、気力を奮い立たせはするとしても。


 指示を与えながら、シェラは頭の中で疑問を抱く。


(リシリア様が何かを命じたことはない。だとするとこれは族長の命令?)


 不吉な想像である。族長はライセンが現在の状況に陥ることを予見していたのか。


「シェラ、ここにいたんだ」


「リシリア様……?」


「用事ができたの。抜けて来ちゃった」


「……………」


 唖然とする。グスマを殺めたほどの敵、来ちゃったでは済まない。


 後ろにもうひとり隠れている。エアと一緒に離脱したはずのトリシャだ。


「…私が、リシリア様にお願いしたんです。ひとりじゃ怖かったから……」


「どういうことだ。分かるように説明しろ」


 食いつくゼクスを、フランが当たり前のように押し退ける。


「ごめんね、こいつの顔怖くて。じゃあトリシャ、話してくれるかな」


 誑しの面目躍如。時折若長の不穏な気配に怯えつつも、トリシャは必要な事柄を説明した。ほんの一瞬、目を離したときに起こったという。


「…エアがいなくなったんです!襲ってきたニクスを倒してほっとしてる隙に。私がもっと、ちゃんと見ていれば。様子が変だと前から分かってたのに」


「あの馬鹿。まだあいつに未練があるのか」


 そこは例の畑地から、さほど離れていなかった。ニウェウスの牽制を親衛隊に任せ、逃げ遅れた同胞を探すリシリアと会ったのである。


「あの子達も限界に近いの。戦術の幅を持たせるために応援を呼んでくれって」


 そこに思わぬ用事ができてしまった。最初はシェラを連れて戻るつもりだったという。しかし他に重要な役目があるのなら……


「シェラ達はエアを捜して。私は戻ってノワキ達を助ける」


 大切なヒトがいるシェラには、親衛隊の思惑が自分のことのように解った。


 応援が間に合えばよし、間に合わなくてもリシリアが危険から遠ざかればよし――リシリアの案は、彼らの希望を無碍に打ち砕くもの。


「…失礼ながらリシリア様。あなたは空気を読めなさすぎます」


「え?」


「私とゼクスが戻ります。連携の意味でも、無理をさせない意味でも、私達が適任です」


 今度はフランが泣きそうになる。だが言葉にはしない。あれほど取り乱し、心配してくれたシェラが決めたこと。それは受け容れねばならないと思うから。


「ごめんねフラン。あなたを連れてゆくと、無理をしない自信がないの」


「ま、これが最善ということだな」


 無駄にゼクスが力んでみせる。


「…分かった」


 リシリアも頷く。


「あなたの番いは預かるよ。だから……必ず帰ってきて」


 シェラとゼクスの二人を送り出すと、リシリアはトリシャに向きなおった。


「あなたは村にいて。子供達を護るヒトが必要なの」


「えっ。でも」


 まだ族長がいるではないか。この期に及んで、戦場にも現れず何を――顔に出さないようにしたつもりだったが、リシリアはお見通しだったらしい。


「あの方にしかできない仕事があるの。辛いだろうけれど、信じてあげて」


「いえっ。私は、そんな」


 信じるも信じないもない。最初から疑うつもりなどなかった。


「…御武運を」


 トリシャも去る。リシリアとフランだけが残った。


「…もっと強くなります。シェラを護れるくらいに」


「そうだね。そのためには、まず生き延びないと」


 当たり前のことだった。


 それができない子供達を、大勢見送ってきたのである。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「「「…三位一体。出でよ『テュフォン』……」」」


 秘めやかに囁く。『水』『風』『凍』――それらを混ぜ合わせ、等しく溶け合い、強大な一つの力として顕現する。


 現象精霊『嵐』。その怒りに触れし者は、遥か海の彼方まで飛ばされるという。


 協力して現象精霊を喚ぶなど、普通では考えられない。依代の技は主観によるところが多く、個人であっても均衡させるのは難しいというのに。それを彼らは成功させた。ナガメ、ノワキ、フキョウの三人が重ねた努力は想像を絶する。


「依代を探せ!どこかにいるはずだ……っぁ!」


 それどころではない。普通の現象精霊ならまだしも、親衛隊が召喚した『嵐』は特別だ。


 四柱の現象精霊は、八柱の元素精霊から近しいもの同士三柱を重ねて召喚する。たとえば『雷』は『光』『火』『風』、『森』は『土』『水』『闇』といった具合に。


 現象精霊の力は、よく積算で表される。六の力を持つ依代が元素精霊を召喚したときの力は六。ところが二の力を三つ組み合わせて現象精霊を喚び出せば、同じ六の力で二×二×二=八の力を生み出すことができるわけだ。


 現象精霊と契約することが、熟練者への一歩であることは間違いない。そのうえで全力に近い力を各精霊に振り分けられること。その割合を十割に近づけることこそ、依代の唯一にして絶対の方向性と信じられてきた。


 ナガメ、ノワキ、フキョウが選んだ道は違う。競って個々の実力を伸ばし、鍛えられた同等の技量を以て精霊を宿す。凡庸ながら経験を積んだ彼らの力は、並の依代を三とすれば四。その全力を発揮したなら、自ずと結果は見えている。


「若長。よもや『神宿り』では?ならば無視してもよろしいかと」


「だったら、あれは何なのだ!我が軍の弱味を適確に突いておるではないか!」


 苛立ち紛れに怒鳴り返す。そうなのだ――この嵐は恣意的に過ぎる。逃げ出そうとする者の前に立ちはだかり、隙を見せれば否応なく蹂躙する。まさに悪意の塊、そのくせ力だけは自然の暴威と比較にならない。


(…何か手を打たねばならぬ。それも早急にだ)


 とりあえず今は、大小様々の『結界』により防いでいる。しかし雨風というものは小さな隙間からも入り込み、折からの雪と相俟って戦士達を凍えさせてしまう。


 長くは持たない。同胞の悲鳴を追い出し、タルカスは必死に頭を働かせる。


 一方の親衛隊は、まだ余裕がある。初撃こそ最大出力をお見舞いしたが、自分達に対抗できる依代がいないと分かるや、長期戦に切り替えた。リシリアを護るためだけにしてきたことが、図らずも村のためになったという事実は決して悪い気がしない。


 今は風の精に音を運ばせ、次の展開に備えた作戦を打ち合わせている。


(…上手くいっておるようだな)


(ああ。こうしている間に皆が態勢を立てなおせば)


(我らが本領は遊撃。地の利を活かし削りきってくれようぞ)


 三人が最も期待するのはバルザ。彼とルークが未だ健在であり、機動力はライセンでも随一。有象無象の若い連中に隠れて戻り、敵将の斬首を成功させてくれるのではないかと思っている。囮にシェラが加わってくれれば最善だろう。


 そう考える心の声が届いたのか。ニウェウス達が防壁代わりにしていた六本の槍と同じものが、今度は地面すれすれを飛んでゆく。双方とも圧し折れて砕け、防衛線の一部が崩壊した。そこに爆炎が投げ込まれ、何人かの命を奪う。


「相変わらず、さすがね。その技、皆にも教えてほしいわ」


「…請われれば、いつでもお教えしますぞ。あやつは我らの弟分です」


 ノワキの元に現れたのはシェラ。ゼクスには防御が破れたら好きなように撃てと命じてある。いろいろと問題のある男だが、こういった攻めの勘は悪くない。ゆえに打ち合わせは自分ひとりで充分と判断したのだ。


「誰が適任かしらね?あの子と組ませるのは」


 更に槍を構築、防壁を突き崩してゆく。


 だが今度は思うようにゆかない。直ちに『結界』の接ぎが当てられ、防衛線は再構築された。もはや警戒されており、同じ手は効果が薄いだろう。


 すすす、とあからさまにシェラとの距離を広げながら質問に答える。


「……ゼクスのマナ許容量は高くありません。合わせられるなら誰でもよいのですが……従兄のフランは対極にあるゆえ噛みあう類。恐らく難しいかと」


「そう……」


 面白がって再び距離を詰めるのはやめておく。背中から抱きついたり、頬擦りしたり、息を吹きかけるなんてのは論外だ。


 ほっとしたような残念なような。大切な番いのひとりを、あの獰猛な男にこれ以上近づけなくてよいという安堵かもしれない。


「とりあえず今は、自由にやらせるしかありません。他の二人とも風は繋がっております。何かあれば仰ってください」


 言いながらシェラとの間に回路を追加、構築する。戦いを続けながらも、このように器用な真似をできてしまうのが親衛隊だった。他の戦士と共闘するときは、三人のうち最も『風』を得意とするノワキが必然的に仲介役を務める。


 片目を瞑って礼を言い、その場を離れた。現象精霊を介して繋がる三人はともかく、もはやシェラにはゼクスと彼らがどこにいるのか分からない。


 昔のことを思い出して、堪えきれず吹き出してしまう。


(……もう少しヒト前で上手く話せたら、あなた達絶対モテるわよ。強いし、不器用だけれど優しいし。何なら誰か紹介しても)


(((お断りします)))


 三人同時、息の合った即答だった。


 以前、シェラを先輩と慕う女性達から相談されたことがあった。男の若長であるバルザからも似たような話を聞いたことがある。


 言い寄る女達を全員、嘘見え見えの言い訳で遠ざけたのだ。族長が強制的に宛がわなかったのは、今考えても不思議でならない。


(分かってる。あなた達三人はリシリア様一筋。他の子なんて眼中にないのでしょ)


(((……………)))


 返事がない。現象精霊は健在ゆえ、一応死んではいないようだ。


「いっそ全員で襲ってみたら?受け容れてくれるかもしれないわよ」




 ――ぶぁおおおおっ。ずざあああああ。しんしんしんしん。




 一瞬、現象精霊の制御が激しく乱れた。


(…お、お喋りをしている暇はありませんぞ)


 最初に我を取り戻したフキョウが指摘する。話を逸らしたのかと思ったが、本当に動きがあったようだ。


 どうやら攻勢に出るつもりらしい。このまま防御を固めても埒が明かない。そもそも自分達が何をしに来たか思い出したのだろう。


 彼らが取った戦術。それは戦術とすら言い難いが、この場では有効な手段だった。


 全く無秩序に、それぞれの判断で動く。現象精霊が狙いを定められないようにするつもりなのだ。依代を見つけたら再び集まり、数の力で圧し潰そうと。


 誤算だった。統制を旨とするニウェウスが、よもやこのような奇策に出るなど。ここまでの優勢は、親衛隊が三人揃っていてこそ。一人も欠くわけにはゆかない。


(…ごめんフラン。私、帰れないかも)



 ☆★☆★☆★☆★☆



 最もヒトが多い場所に、空から降ってきた槍が突き刺さる。敵を炙り出す期待――勝利の予感がニウェウス達を色めき立たせる。


「こっちよ!」


 取り回しの利く槍を手にしたシェラが、あえて親衛隊とは真逆の方向に走ってゆく。囮になるつもりだろう。それくらいのことは、戦歴が短いゼクスにも判る。


「あの女が……ひとりで何とかなるつもりか!」


 生来の口の悪さは、簡単に直るものではない。


 親衛隊の指導を受けて、依代としては確かに成長した。協調性の低さや視野の狭さも、多少は改善されてきている。


 だが彼は、今なお『女』に拘っていた。アトルムにとって親とはまず母親。叔父の番いが戦場に出たりしなければ……二人揃って死んだりしなければ、まだ幼い息子が泣くこともなかったろうに。


 本来シェラは近接戦闘のほうが得手だ。三人以上の敵に囲まれるのを避けてきたが、懐に潜り込めるなら別である。致命的な奇蹟で味方ごと攻撃すれば、確実に責を問われる。よもや、そのような真似はすまい。


 ゼクスも同様である。フランからは筋肉馬鹿と揶揄われてきた。全身に炎を纏い、闘争本能の赴くまま突撃する。男は女を護るものだ――口では立派なことを言いながら、異性に関しては全く頼りにならない先達の言葉が浮かぶ。


 だが、百人を相手にするなど土台無理だった。四方を『断絶』の盾に囲まれては強化した跳躍力を以て逃れる、それを繰り返すも捕まるのは時間の問題。マナ濃度の副作用による時間の速さを利用したものではないゆえ、『平衡』で足止めされることはない。さりとて一つの誤りが死を招く、綱渡りの状態に違いはなかった。


 先に追い込まれたのは、やはり未熟者のゼクス。避け損ねた刃が薄く利き腕を切り裂く。シェラも自分の身を護るだけで精一杯だ。二人を巻き込まないよう敵を吹き飛ばしていた現象精霊の嵐が、ぴたりと止む。


 まさか――嫌な予感が奔る。しかし次の刹那、猛烈な突風と豪雨と冷気が辺りを包んだ。吹雪ではない、それぞれ独立した『風』と『水』と『凍』である。元素精霊とは思えない力で敵を吹き飛ばし、叩きつけ、凍えさせ――偶然力が噛みあった場所では雪混じりの大嵐となる。シェラやゼクスも例外ではなく、配慮など微塵も感じさせない。


 別の嫌な予感が脳裏をよぎった。それを肯定するかのように、意識を失くした三人の男が茂みの中から迷い出る。萌黄、水縹、銅銹の輝きを帯びて。




 ――男は、命を賭して女を護るものだ。憶えておけ、弟分よ……




 記憶とは違ったが、声なき声が誰のものかゼクスには分かる。やや前時代的な――というよりエルフには最初から存在しなかったはずの思想。後れたニンゲン共のありがたがる何とかいう……思えば三人は、ニンゲンの街に出たことがあったのだ。別々ではあろうが、ある時からリシリアの傍に影のごとく侍りだしたのは一緒。


 『騎士道』。そう衒いもなく言い放ったのを、彼は聞いたことがある。


 傷口を押さえ、片膝をついたまま叫んだ。


「兄達よ、どうしてだ!俺は女ではない!救うべき相手ではないはずだ!」


 勢いを増した猛威が、ゼクスの声を切り裂き、押し流し、凍らせてゆく。


 もはや戦いどころではない。三人は『神宿り』と化したのだ。魂を精霊に明け渡し、本質の赴くままマナが尽きるまで荒れ狂う存在を、そのように呼ぶ。


 基本、『神宿り』と化した依代に先はない。マナの残量にもよるが、これほど強大な力を得てしまっては餓死してなお動き続ける。


 『神宿り』に対しては、『平衡』の奇蹟も効かない。依代が精霊を宿す行為は、正確に言えば混沌界との間にマナの通路を開くもの。その瞬間にあるマナを均しても、次々と湧いてくるのでは意味がないからだ。


 現世の存在たるヒトの精神が、自らを濾材として混沌のマナを認識できる形へと変換する。精霊術とは、マナを消費する概念ではない。世界を力で満たし、繁栄と豊穣を導く。


「ええい!逃げるな!?進めいっ!」


 鎮静を図るタルカスの言葉も空しく、無秩序な撤退が始まった。撤退などという行儀のよいものではない。単なる散逸、逃走だ。『神宿り』が落ち着くための生贄にされては適わないという、当然至極かつ自己本位な理由による。


 今も彼の周りに残っているのは半数。それぞれの事情と都合により若長への忠誠を誓った者、アトルムに対して余程の憎しみを募らせている者だけ。


 その状況を好機とみた者達がいる。


 バルザとルークだ。


 今なら敵将の護りが薄い。若長タルカスを討ち果たせば、首謀者を失った烏合の衆は自然と瓦解するはず。最初の牽制を仕掛けた後、この時機を待っていた。


 ルークに跨ったバルザが敵陣に突撃する。目指すはタルカスのみ、必要最小限の敵だけを触れるに任せて斬り払う。


「…あの馬鹿共……!」


 親衛隊のことだ。バルザの口から思わず悪態が突いて出る。


(覚悟を無駄にはできん。必ず仕留める)



 ☆★☆★☆★☆★☆



 不確定要素が大きい精霊の力には頼らず、近づいて直接刺し殺す。原始的かつ野蛮な手法だが、これに優る堅実な方法はない。バルザにシェラほどの創術の技はなく、それゆえ編み出した戦法だ。ルークにマナを集め、身体能力を強化し、ヒト型ではあり得ない敏捷性を実現する。その背に跨ったバルザが、目の前の敵を討つ。


(どこにいやがる……!?)


 バルザはタルカスを見たことがあった。小競り合いの場で二、三度。あの強烈な不快感は忘れようがない。差別意識と歪な優越感が滲み出る視線の陰湿さは。何かと性急かつ容貌が整っていないニンゲン共より卑しいのではと思ったほど。若い頃のバルザも、その意味ではエルフ優位の考え方を持っていた。


 程なくして目標を見つけた。敵に気づかれないよう、あえて取り巻きは無視する――そのあたりは以心伝心だ。口にせずともルークはバルザの思考を汲む。共に長く戦ううち、やり方が似てきたのかもしれない。


 このまま一気に迫り、加速を活かして首を刎ねる。


「…『変わりゆくもの』。我が腕に巨人の力を」


 反作用で腕を持っていかれないよう、あるいは途中で得物を落とさないよう。刃を握る利き腕に筋力強化の奇蹟を願う。黄昏の薄暗がりが味方し、未だタルカスは二人の接近に気づいていない。これならば……殺れる。


 片刃の剣を逆手にしっかりと持ち、刃を進む先へ向ける。これがバルザの為すべき全てだ。あとはルークが軌道を選ぶ。敵の動きに合わせて多少の調整することはあるが。


 エルフの長剣使いは珍しかった。窮屈な木立の中で戦うことが多いため、取り回しのよい短剣を好む者が多い。バルザも白兵戦のときは短剣を使う。しかし彼が最も得意とする、ルークの敏捷性を活かした戦術をとる場合は別だ。ニンゲンの街に出ているとき、この戦い方を思いついてドワーフの鍛冶師に造らせた。一度斬れば刃毀れしてしまうため、研ぎなおさなくては使いものにならない。鋭さのみに粋を注いだ必殺の武器。


 ルークが最後の加速。僅かな直線距離を駆け抜けた。手応えを待つ、その瞬間。


「若長、危ない!」


「!?」


 利き腕にかかる重み。それは期待したとおりだった。赤いものを撒き散らしつつ、男の身体が上下に分かれる。しかし、絶命したのは目標ではない。取り巻きのひとりが身を挺してタルカスを護ったのである。


 こうなっては隙だらけだ。敵はバルザとルークの存在に気づいている。横合いから無数の『断裂』を受け、二人は雪の上に投げ出された。四つ足のルークは体勢を立て直すのが早い。集中的に狙われたバルザは……致命傷とまで言えないのがせめてもの救い。


「バリーは義兄弟だったのだッ!下郎の分際で」


「手前ェもグスマを殺ったろうが!勝手なこと抜かしてんじゃねえ……っ!」


 剣幕に怯みかけるも、自らの優勢を思い出して取り繕う。この出血では、どうせ戦えまい――バルザの顔を見下すと、嘲笑を浮かべて納得したように頷いた。


「…貴様は。そうかそうか、残念だったなぁ……?」


 素早く短剣を抜き、止めを刺しにかかる。タルカスも戦士として一流だ。二つめの大きな果実を逃すつもりはない。しかし先程の恨みごとが余計だった。僅かな気の緩みがルークに反撃の余地を与えてしまう。


 肩に喰らいつき、鋭く牙を突き立てた。咄嗟に身を退いたため間に手を入れられてしまったが、ルークの狙いは別にある。姿勢を崩させ、そのまま押し倒すのだ。


「できそこないの化物め!私の邪魔をするか」


「ぐるッ!ガアァァァァッ!」


「この……下等生物が!」


 タルカスの力は意外に強く、やがて振り払われるも身を翻して鮮やかに着地。


 十数人のニウェウス達に取り囲まれる。斬首は失敗、バルザも重傷を負った。親衛隊の三人は『神宿り』、シェラとゼクスだけでは力が足りない。ルークの勘は今すぐ去るべきだと告げている。だが、ただでは逃がしてくれないだろう。


「この男と、あの女のほうは若長だ。確実に殺れ。『神宿り』と出来損ないの魔獣は放置して構わん。それが済んだら……いよいよだ、諸君」


 あえて溜めを作り、全員を見渡すタルカス。


「巨悪ネロを討つ!聖なる森に我が物顔で押し入り、穢そうとした四人の者共の末裔たる首魁!奴を滅ぼせば、残った連中など烏合の衆に過ぐまいぞ!」


 敵の連中がタルカスの演説をどの程度聞いていたかは分からない。しかし少なくとも行動を開始した。言及すらされないゼクスを牽制しつつ、未だ奮戦するシェラと、バルザを護って立つルークの元へ集まってくる。


「若長が見逃してやると仰った。どきなさい」


 ニウェウスの女のひとりが無造作に言い放った。が、元より反応は期待していない。激しさを増した獰猛な唸り声を聞き流す。


「…急いでくれ。あまり長くは持ちそうにない」


 防御班から声があった。精霊の起こした現象は世界の法則に従う。空間の断絶により逸らすことはできるが、力が強ければ回り込まれる。隙間風や雨漏りに近い。


 共に失笑を浮かべ、ルークを無視して素通りしようと踏み出した瞬間。


「なっ?こ、これは……?」


 黒いものが纏わりついている。そう思ったのは粘つくような感じがしたからだが、どうやら実体はない。慌てて振り落とそうとするも取れなかった。ならば拭い去るしか――やはり取れない。触れることも叶わない何かが、確かに存在している。


「何だこれは!一体何なんだ!?」


 激しい疲労を感じる。心が揺さぶられる。気持ち悪い。黒い何かは徐々に膨らみ、全身を呑み込もうとする。だが周囲に目を向ければ、それどころではない光景が広がっていた。他の仲間達も同じように取りつかれている。この現象を生み出した源は……若長が放っておけと言い捨てた、やはり漆黒を纏う大きな犬型の魔獣。


「……こいつは……まさか、こいつが変異の……?」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 実体なき泥闇は、ルークの身体から溢れ出ていた。


 八柱全ての元素精霊、四柱全ての現象精霊を統合する混沌精霊。いや元より世界は混沌、それが便宜上仕分けられて四つか八つに認識されていると言ったほうが正しい。


 精霊であって精霊ではない。混沌は世界の根源たるマナそのもの。法創術が精霊術の上位であるとか、そのような理屈は関係ない。


 この世界のものが適切に仕分けられていない根源のマナと触れあったらどうなるか?答えは単純である。力の強いほうが、力の弱いほうへ自らの在りようを押しつける。


「えぁあああ!うやぁぁぁぁあ!」


「ぉごっ!ぼ!がっ!」


「いや、嫌ああああああ!」


 其処彼処で悲鳴が迸った。異様な形に膨れ上がった己の腕を抱え、嫌悪感を露わにする者。姿形はそのままに全身を波打たせている者。もはや原形を失くした者。どれとして同じものはなく、取り止めがない。暴力的、冒涜的とすら言えるかどうか。全く意味不明な現象だ。意味を求めることすら難しい。


 惨事の中にあってシェラとゼクス、バルザや親衛隊の三人は無事だった。


 それというのもルークは『神宿り』ではない。四肢を小刻みに震わせており、限界の近いことを感じさせるが今のところは落ち着いている。


「…や、やめろ……ルーク、やめろ……」


 混沌精霊の召喚は、頑健な肉体を持つ変異体にとっても負担が大きい。元々変異しているとはいえ、混沌がもたらす変化は次元が違う。混沌界への『門』を開いているルークこそが、その影響を最も強く受けているはずなのだ。


 彼が影響に屈すれば、無論『神宿り』となる。今暴れている親衛隊の三人とは比較にならない被害を島中に及ぼすだろう。しかし長年連れ添った腐れ縁の相棒が心配するのは、そのようなことではない。


「誰がアローナを慰めるんだ!?お前が帰らなかったら、エアが泣くだろう!」


 バルザの叫びにルークの遠吠えが応じる。


 いつの間にかタルカスの姿はなくなっていた。混沌を浴びずに済んだ者達も消えており、また足手纏いの味方を切り捨てて先へ進んだに違いない。この場に残された敵は、総員百名の半分の半分。まだ動ける者も十数人いる。


 ルークに絡みつく虹色の闇が気配を増した。自分だけではなく、敵の内側にも『門』を開いて異界の侵食を浴びせる。程なくして意識のある敵は全滅した。弱い混沌のマナは、やがて周囲に中和されて消えるだろう。親衛隊の三人はタルカスを追っていった。それを見止めると、ルークは力尽きたように倒れ伏す。


 『神宿り』はヒトの魂に惹かれやすい。その誘因力は『門』の数と個体の生命力に比例する。


 この場にいる四人のうち、最も軽傷なのは一番未熟なゼクス。敵から侮られ、その評価を覆す働きができなかったゆえ。


 恐る恐る歩み寄り、ルークの脈を測ろうと大きな前足に触れる。途端に「ぐるるるる」と唸られ、慌てて指先を引っ込めた。シェラとバルザが吹き出して笑う。


「…ひとまず生き延びたけれど。村に入った連中は叩き出さないといけないわね」


「ええ。すぐ向かいましょう……っとと」


 応じて立ち上がりかけたバルザがふらつく。傷を塞いでも失われた血が戻るわけではない。シェラに両肩を押され、そのまま地面へ戻される。


「あなたは残りなさい。万一のことを考えれば、私とあなた両方が死ぬわけにはゆかない。もうグスマはいないのよ」


「いや、それは……っ!」


「族長が無事という保証はあるの?私達は最悪の事態を考えて動かなければならない」


 一番無理をしたルークも待機。ゼクスは二人の護衛。シェラひとりで族長の援護と子供達の救出に向かう。


「シェラこそ今にも倒れそうじゃないですか……!」


「俺も反対です。せめて俺だけでも連れていってください」


「駄目。こういうのは、順番だから……ね?」


 聞き分けのない子供を諭すように。今バルザが為すべきは生き残ること。そのためにできることは何でもする、そう決めつけられては反論できない。考えを改めさせようとフランを引き合いに出すのも躊躇われた。


「……ありがと。引き止めてくれて」


 シェラが去った後。独り身の野郎三匹がいたたまれない顔を見合わせる。


「…俺らは足手纏い、か」


 呟いて嘆息したのはバルザ。手近な木に摑まり、どうにか立ち上がった彼の先を行くルーク。その鼻先は南東、ブラッドの方角を向いている。


「…どこへ行くのです?」


 見咎めこそしたが、反対する様子はなかった。


 二人の目的を知りたがっている。場合によっては、いや確実に同行するつもりだろう。


「最前線は無理でもな、やるべきことはまだあるだろ?」


「………?」


 相変わらず鈍い。照れ臭かったが、噛み砕いて教えてやる。


「…迎えにいくんだよ。あいつの家族として、それくらいはしないとな」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 ユリアナが視力を失い、タルカスの軍勢とライセンが正面からぶつかった頃。


 ヨルマは村の入口に座っていた。片膝を立て、その脚に頬杖を突きながら。低木と宿木が密集した茂みの手前、その奥に皆の住まいがある。


 最も新しいアトルムの集落イラリオは、戦の恐怖を乗り越えられなかった者が多い。同胞意識はあるのだが、それでも手足が竦んでしまう。


 結論――無理なものは無理。下手に頑張ってもよい結果は生まれない。ならば自分にできることをして皆の役に立て、というのが村の創始者イラリオの教え。


 初代族長イラリオは、暴虐な隣村ブラッドの『王』と相討ちして果てた。ヨルマは今、亡き戦友の代役を務めている。


(イラリオを知らない住人も増えてきたな……)


 懐から煙管を取り、ふかと紫煙を燻らせた。


 名前は全員が知っている。直接の面識がないという意味だ。


 精神核の再生を試みていることも、知る者は少ない。必ずしも信仰に背かないが、アウラの穏やかな眠りを妨げるのは確か。始祖四氏族の庇護下にないのをよいことに、断りもなく多量のマナを投じていると知られたらどうなるか。


 精神核の再生は、始祖四氏族の族長会議にて承認されたときのみ行われる。実際は認められた例がなく、死ねば終わりというのが普通になっていた。もし認められるのなら、遺族が精神核の回収を諦めなかった可能性もあるはずなのだ。


 イラリオの再生は遅々として進まない。自己流の技術に問題があるにせよ、これはあまりに遅すぎた。異常が発生するならともかく、何も変わらないというのは。


(誰かがマナを盗んでいるのかもしれない)


 自分達のことを棚に上げて思う。このまま続けるべきか、それとも引き返すべきなのか。頭を狙って放たれた一本の矢が、物思いに沈みがちなヨルマの思考を遮った。


「…ようやく来たか」


 矢は当たらない。しばらく前で失速、やがて地面に落着した。いや速度を打ち消されてからは、逆の方角へ戻ったようにも見える。風向き次第であり得るとしても、これはさすがにその範疇を超えていまいか。


 次は十本飛んできた。一人に対しては矢衾、飽和攻撃と言える。狙いもよく、僅かに間が置かれていて大きく避けるのも個別に対処するのも難しい。


 先程は不意討ちを防ぐための最小限だった。これほど仕掛けてくれるなら、反撃しても力の効率は悪くない。


「『変わりゆくもの』よ。外なる異物を拒みたまえ、より強く」


 鏃が下を向いた刹那、奇蹟の願いを上書きする。十本の侵入者達は、それぞれ最も風の抵抗が少ないほうへ奔ってゆく。やおら立ち、その行方を見守る。


「ひとりくらい死んだかな?」


 期待と願望。叶えられないことは元より分かっていて。


 木立の暗闇から再び、精霊の力を借りて重みを増した一斉射。直接精霊をぶつけてこないのは、結界の力を増すことになると分かっているから。これも結界で向きを変え、撃ってきたほうへ。あまり正確ではないが、射返した矢はこれまで以上に速い。 


「…諦めるつもりはない、か」


 ここにいるのは、誰よりアトルムを敵視する者達。しかし、いずれ矢玉が尽きよう――その前に次の手を打ってくる。必ず。


 飛び道具で決着がつかなければ、白兵戦。古来より戦の作法は決まっている。アトルムのやり方は非対称だが、ニウェウスは遊戯盤を指すような戦を好む。数に走って徒な犠牲を生むことはないが、それ以外の点では戦の作法に忠実なのだ。


(……あれは?)


 木立の暗闇から飛び出した戦士数名が、二手に分かれるのをヨルマは見逃さなかった。全員が『盾』の結界を構えている。またしても常套手段をとるつもりだろう。


 ただし今回は、確実に後ろを取られていない自信がある。イラリオの戦士達は勿論、隣接の村々も見張りを欠かしていない。間抜けな斥候は残らず捕まえてきた。


「…『変わらざるもの』よ。平衡せよ」


 ヨルマが展開する『斥力』の結界に阻まれながら、どうにか少し近づいた敵が奇蹟を呟く。結界は球形を成しているゆえ、直線での切断が可能だ。マナの分散を地道に繰り返してゆけば、結界の強度と効果範囲を狭めてゆくことができる。


 ヨルマの敗北は、すなわち時間の問題だ。しかし今は、同胞が安全な場所へ逃れようとしている現状では。その時間こそ、彼が自らの命を擲つ理由に他ならない。


「イラリオ。使わせてもらうよ」


 懐から取り出した小さな石。大事そうに摑んだそれは、淡い輝きを放っている。色は定まらず、覗く度に違う趣を見せる。命を落としたヒトが稀に遺す、魂の形を秘めたもの――精神核。見つけたときは小指の先ほどの大きさしかなかったが、ヨルマの手により大量のマナを惜しみなく注がれ、今や指先では収まりきらないまでに育っている。


 そのマナを利用して、結界を補強するのだ。イラリオの復元はできなくなってしまうが、同胞の逃げ延びる時間を稼ぐため。リタも解ってくれるだろう。


 ちなみに見つけられなかった精神核も、周囲のマナを自然に吸収して輝きを放つことがある。それを魔晶石と呼んでありがたがるニンゲンの冒険者共は、自分達の忌み嫌う邪悪なアトルムの魂でできていることを知らない。実用一点張りの不粋な連中ゆえ、知ったところで何ら気にしたりはすまいが。


「『変わりゆくもの』。彼らの頭上に汝が鉄槌を」


 前列でマナを拡散する二人に鉄の柱が降る。躱されてしまったが、術の集中を乱すことはできた。盾役を増やそうと、潜んでいた連中が何人か出てくる。


 その後も牽制を続けた。あえて強力な手は打たない。倒しきれる自信はなく、できればリタ達が戻るまで持たせたいと。イラリオの件だけではなく、大きな理由は他にもある。奇妙を承知で言えば……敵がこの村の攻略を諦めないように。


 最悪の事態は、迂回して先へ進まれること。広く展開しているものの、その惧れはあった。ここにはヨルマ以外誰もいない。ただの囮と看破されたら。


 掌の中で、イラリオがまた少し小さくなった。彼とリタ、十数年来の想いが削れてゆく。全部なくなったとき、イラリオの理想は成就しているか。それとも……


(いずれ私は、自分の目で確かめられそうにないな)


 友の亡骸を見つめて、ただ静かに微笑んだ。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「……遅かったな」


 書斎の机に向かい、悄然と手を動かしていた男が呟く。


「もっと早く来ると思っていたぞ。慈悲なき女神の走狗達よ……次は何が望みだ。私の生命か。島の統一か。それとも……我ら魔族の完全なる滅亡か」


 力なく右手を落とし、ペン先のインクが書きかけの羊皮紙に滲みを作る。


 そこに記されていたのは……無残な嘆願書。ニンゲンの権力者に膝を屈し、その代わりニウェウスへの執り成しを依頼する正式な外交親書。


 彼の独断であり、他の始祖三氏族はおろか膝元のライセンでさえ承認を受けていない。たとえ最古参の族長――ニウェウスにおける女王ティターニアと同等の存在でも、これほど重要な案件を勝手に決めることは許されなかった。


(……和平が成った暁には、我がライセンの部族をリトラ連盟へ参加させる。当面は議席を要求せず、私自身がヒト質となろう…………いや、これはこれは)


 羊皮紙とネロの周りを、小さい鳥のようなものが羽ばたいている。鳥のようなものであって鳥ではない――その証拠に、それは生きていなかった。よくも複雑な構造を創りあげたと思うほどの模型。材質はどこにでもある木、骨格というより特徴を捉えた意匠。羽毛はないゆえ、ひと目で自然な飛び方ではないと分かる。


(惨めですねえ!哀れですねえ!あんな余所者を受け容れなければ、こんな苦境に陥ることはなかったのに!…あなたのせいですよ。あなたの遠いお孫さんは、あなたのせいで死んでゆくのです。報われぬ愛を持て余しながら、その不毛な愛のために!)


 ネロの意識は、やたら騒々しいそれとは別のものに向けられていた。


 小柄な猫耳の獣人。女の指先が踊り描くと、その姿は彼と変わらない背丈の――砂色の髪を持つ色白なニンゲンに変わる。


「…君は……!」


「Lange nicht gesehen, Dr.Barr. Äh……(お久しぶりね、バール博士。ええと……)」


 すぐ言葉に詰まり、乱暴に頭を掻く。


「……ごめんなさい。あなたの母国語、あまり得意ではなくて」


「構わないよ。僕はこちらで不自由しない」


 アトルム語またはドワーフ語、古くはニケア語とも呼ばれた言語に切り替える。


(何です?今更隠しごとですか!?僕とあなたの仲じゃありませんか。全てを包み隠さず、余すところなく教えあいましょうよ!ちなみに僕は、最近湯漬けにハマっ)


「うるさい」


 さっと追い払う。虫でも除けるように。しかしひらりと躱され、女の顔に苛立ちが刻まれた。その感情は、直ちに実行へ移される。


「…『変わりゆくもの』。我が双脚に倍する力を……」


「…『変わりゆくもの』。時を越さしめよ。三が二の如し」


「…『変わらざるもの』。体内にて二酸化炭素を還元。6CO₂+6H₂O→C₆H₁₂O₆+6O₂」


「…『変わらざるもの』。遅行術式、接触対象との彼我を隔てたまえ。発動起句は『今』」


 俄かに書斎の害虫駆除が始まった。無言で追う女、それを嘲るように躱し続ける木鳥。部屋の主は、その光景を黙って見つめる。溜息ひとつ洩らさずに。


(…よっ!ほっ!はっ!何とっ!)


 余計な合の手を入れる余裕さえあった。このままでは埒が明かないと思ったのだろう、ネロの右手が流麗な光の一文を描く。すると木鳥の動きが刹那鈍り、その隙を見逃さなかった女の指先が翼の先に触れる。


「『今』っ!」


 鳥の意匠を真似た模型は、光の歪みに呑まれていった。ニウェウス達が扱う『断絶』の結界と同じものである。しかし任意に発動を遅らせるなど、精緻さは比較にならない。


 使い魔を操っていたのは『姿偸み』。あれと女は面識がある。


「君は……カスキ博士ではないのだね」


「ええ。そのヒトの記憶を植えつけられた別人……ッ……あなたと、同じ」


 言葉の途中、左手で頭を押さえた。激しく痛むのか、しばらく目を閉じて動かない。呼吸が乱れるに及び、床の軋みとなって現れた心配を片手でやんわりと制する。やがて落ち着きを取り戻すと、先程の苦しみが嘘だったように説明を促した。


「…そう、なのか。僕の場合は、ある朝突然別の記憶があることに気がついた。自分がおかしくなったのかと思ったが、それらの情報はアカシャの記憶と違わなかった」


「ダイチの仕業かしら?若しくは本人……」


 それはさておき、と強引に話題を切り替える。戦火を潜り抜けてここへ来たのは、幾星霜の時を超えて旧交を温めるためではない。


「あなたの邪魔をするつもりはないの。その親書も、よければ私が届けるわ。ただ……」


 そこで言葉を切り、記憶と異なる元同僚の姿を見つめなおす。


「世界の記憶を改竄する真言法の奥儀。それだけは忘れてもらわないと。あの子――ミカゼのためを思うなら」


 氷雨の髪を揺らしながら、ゆっくりと立ちあがった。その表情は、いつにない苦渋の色を浮かべている。


「…不憫な子だったんだ。父にも母にも先立たれ……親の顔を全く知らない。唯一の肉親として、より善き未来を約束してあげたかった」


 エアの母親は、彼女を産むと同時に亡くなった。その後を追うように、父親も小競り合いで命を落としている。彼女の祖父母も、その前も。皆同様に戦で亡くなった。族長の務めにかまけて、家族を守ることができなかった。他の誰でもない、家族を顧みなかった自分にこそ全ての責任があるのではないか。


「それは、あなたの傲慢。誰だって最後は幸せになりたい。満足できる一生だったと、思い出に浸りながら死んでゆきたい。でも、そんなふうに死ねるヒトなんて現実は一握り。況してや誰かに用意してもらうものではないわ」


「……………」


 アウラの記憶を戻したとき、死の運命を回避した者は例外なく消える。過去と現在は等価であり、始まりから終わりまで揺らぎなどというものは存在しない。


 全ては神子の儚い夢。蓋然性ある未来を知り、必死に生きて運命を変える。その限りにおいて、女神はヒトの邪魔をしない。真摯に生きる限り、女神はヒトを祝福する。


「最初から結果を保証することで、あなたは彼女の努力を穢した。たとえ本人が気づかなくとも……あなたは彼女の魂を侮辱したのよ」


「違う。生命なき者に幸せは訪れない。たとえ努力しても死は平等に訪れる。戦多きこの島では、幸福を摑むまでに長い時間を要するのだ」


「それも思い込み。生まれ変わって百年、エル教の宮司の娘として過ごした短い時間以上に幸せな時は訪れなかった。ただ長く生きたとしても、幸せは絶対にやって来ない」


 途中からバール博士ではなく、ネロ族長としての言葉に変わっていた。


 並ぶ者なき古豪を前にしても、女に畏れる様子はない。少なくとも同等、それ以上の力を有している。そう確信するゆえの余裕が。


「…どうすればいい?僕は何をすればいい?」


「あなたの望むままに。神とか旧文明を滅ぼした責任とか、どうでもいい。それは偽の記憶であって、私達自身ではないのだもの」


 しばし黙考する。


 最初は『バール博士』の温情に訴え、舌の根も乾かぬうちに『ネロ族長』の好きにしろと。同じ結論に至るならともかく、真逆の選択を導きかねない。


 旧知であるらしい女の話によると、そう認識していること自体が後付けであり本物の記憶ではないという。また種族が異なるネロは、さほど忠実に元の人物を模っていない。だが彼女の肉体は、不気味なほど正確に再現されている。


 この差は何か。技術的手順?蘇らせた目的?――恐らく、その両方が違う。それだけではない。自分と彼女とでは、必要とされた理由や求めた人物すら異なるのだ。


 何となく解る。ならば、ここはこうするのがよい。秘密を共有した九人の仲間のうち、ひとりだけ裏切ったあの女を懲らしめるために。その重苦しい決意さえ、偽りの記憶がもたらした偽りの感情に基づくものでしかないのだが……


「…矛盾しないか?」


「ヒトは矛盾する生き物よ。ええと、二兎を追う者は」


「今の我らに相応しい言葉ではないな」


 溜息交じりに頭を振る。諦められないがゆえ、それぞれの二兎を追う。


「覚悟、決まった?」


「ああ。君はやはり、カスキ博士ではないのだな」


 再び口を開くと、古の賢者は完全に姿を消していた。


「最初に言ったでしょう?誰かさんの思惑どおりに動きたくないのよ」


 旧友と似た何かは、似ても似つかない不敵な笑みを浮かべた。そこに力を、堅固な運命に抗うための僅かな勇気を得て立ちあがる。


 愛しき末裔が、これまでの短い生涯を独力で切り拓けたものと信じて。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「全員、止まれ」


 号令としては静かな声に、軍勢はのろのろと従った。


 士気が低いのでも、不満があるわけでもない。元々彼らは、そのような手合いである。一歩踏み外せば無頼の冒険者、形式的な規律とは縁がない。


 号令をかけた男、エリクが後続に告げる。


「ここからは三人で行く。お前達は別命あるまで待機だ」


 冒険者の主は金と自分。手柄のお預けなど不満以外の何物でもないが。


「何かあったら各自で判断するんスよね?」


「当たり前だ」


 相手の顔を見もせずに言い返し、鬱蒼と茂る木立へ続く道の終点に立つ。


「ようし、行くか!」


 瀟洒な髭の優男レオリオ。浅黒い膚と蜜色の髪が目を惹く女ヒルダ。三人とも名を馳せた冒険者であり、仮称リトラ評議会に議席を持つ実力者である。今は建国を間近に控え、争いを望むつもりは毛頭ない。だが一方で、島の危機的状況を座視したゆえに影響力を失うことも避けねばならないと考えている。


 彼らには夢があった。全ての種族、全ての民族が平等に暮らせる国。かつては大陸西方にほんの一時だけ存在したが、今や凋落して頽廃の坩堝と化した儚い夢。


「…御武運を」


「おう……って、戦いになったら駄目だろうが」


「そうっスね。じゃあ何て祈りましょうか?」


 見送りが雑談になる、いつものことだ。それをヒト差し指で制したエリクは、付近の物音を窺う。他の仲間達は、まだ誰も気づいていない。


「…どうしたの?」


「何か来る。多いぞ」


 ヒルダが瞼を閉じると、その姿が薄蒼に染まった。全ての色を混ぜ合わせれば黒になる――だが少し足りない、知らぬ者には禍々しく映る。リトラに並ぶ者なしと言われた依代の異名は『混沌の魔女』、宿した精霊の力を借りて周囲の状況を把握する。


「…ヒト。これはアトルム?」


 一行が色めき立つ。今回の敵――事件の火種と認めたのがアトルムだからだ。即座に攻撃はしないが、最も警戒すべき情報を得たことは間違いない。


「数は?」


「百……百十四。でも、ちょっと待って」


 言うが早いか、ひとりで森の中へ入ってゆく。


「あっ。お前また勝手に」


 レオリオが追う。しかし間もなく立ち止まった。問題の集団と出くわしたからである。警戒は緩めず、だが刺激しないよう穂先を下に向けておく。


 現れたアトルム達は、贔屓目に見て敗残兵だった。エルフに男女差はないが、子供を多く含むとなれば事情が違う。彼らは……もしかして難民か。


「あなた達は誰?どこから来たの?」


「あたしはサツキ。イラリオの若長リタ様一番の手下さ」


 質問に答えたのは、集団の後ろにいた痩せすぎの女。背だけは高いため、不健康に骨張った印象を受ける。何故か偉そうに言葉を続けた。


「若長の命令で、戦えない連中を逃がしてきたんだよ」


 得意気に胸を反らすが頼りない。その余裕を自分自身が信じていないと判る。


(…何か隠してんのか?)


 居丈高な態度だ。それなら、まだ手を変える必要はない。とりあえず是々非々、何なら対抗して叩き潰す。優しくするのは、向こうの心が折れてからでよい。


「あなたと、イラリオのヒト達のことは分かった。でもここには、そうじゃない人達もいるわよね……?」


「ぎくぅっ!」


 分かりやすい反応にレオリオ、呆れて髭を弄る。演技なら大したものだが。


「本当のことを話してほしい。嘘をつけば、全てを偽りと看做し判断することになる」


 『氷』の異名が囁く。一番の手下様、ごくりと生唾を飲み込む。


「…退がってサツキ。あんたじゃ不足。私が代わりに話をする」


 頭ひとつ小柄な女が、サツキを押し退けて前に出た。こちらも痩せているが、発育不良の貧しさを得体の知れない凄みが上回る。必要最小限の筋肉を鎧う柔らかさは乏しく、譬えるならば崖の上に追い詰められた――我が仔を護る手負いの母鹿。


「私はヤヨイ。そこのサツキの姉。元はブラッドの戦士だった」


 エリクとレオリオは武器を構えるが、態度に大きな変化はない。ある程度、予想はしていたようだ。居穢い連中のこと、沈む泥船から逃げ出す輩はいるだろうと。


「ちなみにサツキは半奴隷。年端もいかない自分の息子に連れ出してもらった、半人前の役立たず」


「おおおお姉ちゃん!その話は今いいからぁ!?」


「大事な話。あんたより私のほうが交渉相手に相応しいことを説明してる」


 しかし『氷』は、生温くなりかけた空気を拒絶する。


「…つまり、こういうことか。君は実の妹が悲惨な境遇に置かれているのを黙認して、自分だけいい思いをしてきたわけだな」


 無言でレオリオが槍を向ける。ニンゲンは――というよりブラッド以外のあらゆる社会は、家族の情愛が基本だ。その当たり前を踏みにじっておいて信じるもない。


「いいいいやいやいや!ででもお姉ちゃんは」


「事実。反論できない。でも他のヒト達は違う。サツキと同じ半奴隷か、もっと虐げられる奴隷だった。見て見ぬふりをしてきたのは……私ひとりだけ」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 それは竜。この世で最も強き者。


 それは竜。この世で最も荒ぶるもの。


 それは竜。この世で最も哀しきもの。


 強大な力と引き換えに、己が総てを差し出したもの。


《…ヴァルマァァァァァァァッ!》


《出てこい!姿を見せろ!わたしと、僕と戦え……!》



 ☆★☆★☆★☆★☆



 息が白い。低めにかかる夜半の月影を浴びて。


 眩い新雪の中、エアはニウェウスの男と斬り結んでいた。剣舞は既に十合を数え、互いに拮抗したまま譲らない。技量は五分と五分、腕力に劣るエアのほうが不利だ。加えて戦場が移動したため、二人の周囲には誰もいなくなってしまっている。生き残るためには、どちらも自分の力だけで敵を倒さなければならなかった。


 男の小剣が走り、エアの左腕に薄い傷をつける。切り返した彼女の剣も、やはり急所を外れて脚の表面を滑る。これまでは刃が触れることもなかったのだが、さすがに双方疲れてきている。傷口から血が滲み出し、それぞれ苦痛に顔を歪めた。


 この程度の傷ならば、創術で癒せないことはない。だが精神を集中するには、敵の存在が邪魔である。それは向こうの法術も同じ。小さな傷を受けるに止め、こちらは致命的な一撃を繰り出す。危険な賭けだが、他に勝つ方法はない。


(大丈夫……私も一人前の戦士。師匠やお兄ちゃんも、だから私を連れてきてくれた)


 敵を幻惑するような足取りから、雪に滑って躓いたような素振りを見せる。ほんの一瞬だけだが、敵は見逃さずにいてくれたらしい。それが罠とも知らずに、こちらの急所を寸分違わず狙ってくる。見たところ若い、真面目そうな青年だった。その強い視線は、瞳の色こそ違えど別の人物を思い起こさせる……


「……ごめんなさい。私は今、こんなところで死ぬわけにはいかないの」


 心臓に突き刺した小剣を、力任せに引き抜く。彼の口から洩れるのは、意味を成さぬ微かな呻きだけ。迸る鮮血が、地面に無数の赤い花を咲かせた。


 エアのほうも無傷ではない。左腕を斬り飛ばされ、切断面から夥しい量の血が溢れ出している。族長か若長のグスマなら元に戻せるだろうが、彼女自身の力では無理だ。とりあえず止血のために、傷口だけは塞いでおく。


「…………っ!」


 踏み出した足がもつれ、そのまま近くの木に凭れかかる。創術の初歩における癒しは、怪我や病気を治しても失われた血までは戻してくれない。体力を回復するには、過去の時点に遡る高度な術式が必要だった。


 ここにいる限り、まず敵は来ないだろう。前線からは大分遠く離れている。血の匂いを嗅ぎつけた森の魔獣が現れる可能性もあるが……そのときは仕方がない。そのまま樹の根元に座り込み、星の多くなった夜空を見上げる。


 仲間は皆、散り散りになってしまった。その中には産後の不調を圧して加わったアローナもいるのだが、むべなるかな彼女を護るという約束は果たせていない。これでは村に帰ったとき、ルークに何を言われるか。


(そういえば師匠は……もし男の子が生まれたら、厳しく鍛え上げて私にあてがうつもりだったんだっけ。そう考えると、少しだけ不思議な気持ちがする)


 血の気が引いた蒼い顔で、くすりと忍び笑いを洩らす。


 確かに期待するところはあった。師匠のバルザに任せておけば、立派な青年に育つだろうと。あるいは兄達の代わりという、倒錯めいた意識も働いていたか。


 今のエアにとって、アローナの息子は愛すべき村の男の子でしかない。かつて抱いた複雑な邪念は、霞のように消えてなくなっている。我ながら勝手だとは思う。他の相手を見つけた途端、一方的に婚約を取り消したようなものだから。


 月影の照り返しを受け、今宵は真夜中でも明るい。そろそろ行こうと冷たい地面に右手をかけたとき。いきなり吹いた突風に煽られ、エアは姿勢を崩して雪の中へ突っ込んだ。そのまま転がって仰向けになり、頭上を眺めて驚愕する。


「魂化しの竜……!」


 見紛うなき強大な獣が、今や煉獄と化した森の上空に佇む。


 究極の生命力を持つ存在、竜。創術の奥義を究めれば、その姿を自らのものとすることも可能。堅い鱗は刃を弾き、紅蓮の炎は魂まで燃やし尽くす。彼らを滅することができたのは古の神々だけ。生身のヒトが太刀打ちできる相手ではない。しかし……


(あれは多分、ライセンの方角)


 竜化の秘法は、術者の肉体と精神を著しく侵す。敵味方の区別がつくのは最初だけ、数日を待たずに完全な魔獣へと変貌する。身体の構造が大幅に変わるため、二度と元の肉体には戻れない。時折意識だけが戻ることもあるが、記憶の大半は既に失われている。


 記憶をして人格の定義とするならば、それはまさに魂の生変。己の存在を他者に委ねる――自己の認識という点において、実質的な死を意味していた。


 今後も戦いは続く。そして『魂消し』は抑止力だ。族長はグスマの身に起きたことを知らないのか。脅しの効果は薄く、指導者を失う弊害のほうが大きい。


(……何かあったんだ。族長の身にも)


 きつく奥歯を噛み締める。一度だけ訪ねていった、あの短い時間を思い出す。


 同じ屋根の下に暮らしたことはなかった。幼い頃に可愛がってもらったような記憶もない。エアにとっての家族とは、産んでくれた亡き両親に兄のルーク。八つの歳まで育ててくれた叔母と、その後を引き継いだ師匠バルザのこと。


 実感は、まだない。しかし小さな部屋の中で交わした素朴な言葉と謝罪。自分がこのヒトの子孫であるという事実に、エアは身の引き締まる思いがした。あのように親しく話すことは、もうあるまい。


 眠ろうとする身体を叱咤し、膝をついて立ちあがる。


 戦況は最悪だ。今も前線に残るバルザとルーク、何より自ら進んでブラッド王の汚名を被った大馬鹿者のことが心配。


 今回の戦は、彼の過去と関わりがある。サラサの侵略やリタの逃避が元凶だとしても慰めにはならない。生みの親の仇とはいえ育ての親を死なせ、二十年共に過ごした家族や仲間を傷つけてしまったのだから。


 彼に逢いたい。会って大丈夫だと言ってあげたい。バルザも、ルークも、リタも。そして自分も……絶対に見捨てたりはしないから。彼の居場所はここ。ライセンが難しいならイラリオ。それも駄目ならどこだっていい。自分が一緒にいて護るから……


「……ウィル」


 エアが見つけた希望は、あの先にいるはずだった。禍々しき紅に燃える、煉獄と化した南の森に。戦いは終わりへ向かっている。もはや一刻の猶予もない。


 身体の揺れを抑えつつ、樹霜の中を歩いていった。



 ☆★☆★☆★☆★☆



《…アウラよ希う。『ナガメ』『ノワキ』『フキョウ』の三名について高次領域経由のマナ供給を縮小。単位時間当たりの効率を初期設定に。『変わりゆくもの』よ、我が元にマナを。『変わらざるもの』よ、彼我を隔てたまえ……》


 記述式の真言法で親衛隊の『神宿り』状態を解除。三人を安全な場所に横たえ、卑劣な侵略者共に向きなおる。


「…ふん。ようやく出てきたか」


 さも不快そうに舌打ちする。できればヒト型のうちに決着をつけたかった――戦術的な意味でも、敗北の屈辱に歪む仇の顔を拝んでやる意味でも。


 魂消しの魔獣が法術を用いたことには気づいていないようだ。創術の粋を極めれば、似たような真似ができると思ったのかもしれない。


 気圧されつつも不安を隠し、配下のニウェウス達に指示を下す。


「散開しろ!この化け物に武器は効かぬ!術で決着をつけるのだ!」


 軍勢が隊列を変更する。敵の周囲を取り囲み、的を絞らせず、四方八方から一斉に攻撃を叩き込む算段だろう。


 彼らの得意とする法術は、空間自体に干渉するため防御が利かない。それでも避けようとするならば、殺られる前に殺るか対抗結界を構築するのみ。安全確実なのは後者だが、熟練の法術師にしかできないこと。強靭な生命力を誇る『魂化しの竜』も、無韻の衝裂をかわすことはできなかった。


「……ゥウグシュアァァァァァァァァァァァァァァァア…………!」


 身の毛もよだつ咆哮と共に、白銀の竜体から蒼白い火炎が吐き出される。


 対峙する五人のニウェウスが、瞬く間に巨大な火柱へと変わった。傷口からはどろりとした黒い血が零れ出し、朱に染まった雪を融かしつつ皓々と燃え滾っている。だが竜体そのものに影響は見られない。全身を覆う柔らかい鱗は、身体に熱が伝わるのを防ぐ未知の物質でできているのかもしれなかった。


「依代は消火を急げ!閉鎖式の防御結界を張り、その中に奴を封じ込める!」


 若長の命令を受けて、残った法術師達は牽制の『断裂』を放ちながら距離を置きはじめた。戦術と言えば聞こえはよいが、実質的には単なる後退と変わらない。竜体から流れ出す血が周囲の地面を覆い尽くし、樹齢数百年の木立を薙ぎ倒してゆく。足場を失ったニウェウス達には、他の手段が残されていなかったのである。


「…余は流れを誘うもの。法を変え、法を生み。全てを意のままに操ってみせようぞ……『変わらざるもの』、彼の者を異空の彼方に消し去れ……」


 詠唱の完了と同時に、魔竜を球状に囲む不可視の結界が出現する。それでも認識することができるのは、結界の内部が別の次元に切り離されているため。音や光も届かず、同様に出てくることも不可能。闇とも影ともつかぬ異様な空間は圧縮により高密度化し、やがてマナに変換され混沌界へと還ってゆく。『魂化しの竜』とて所詮は神ならぬ魔物。強靭な肉体を誇ったところで、神々の奥義に敵うはずがない。


「…ぇ。ぁ……ぉっ」


 言葉の代わりに嘔吐きが洩れた。


 思考の内言化は、今なお保たれている。爪の先に魔力の煌きを燈す。




 ――アウラよ希う。

 ――座標指定一四二五八二三六、二五○九七一一、八。半径九―十一。

 ――内容指定、隣接領域より複写充当。




 歪みが消え、再び白銀の竜が姿を現した。


 元より知能において、竜はエルフに劣らない。記憶の消失と共に言葉も忘れるだろうが、今はまだネロとしての自我を残している。


 森に巣食う忌まわしき病巣が呻く。覇権を望むあまり、同胞の死すら利用して徒に戦火を拡げた。その卑しさは度し難いことこの上ない。奴さえ殺せば、あとは若長達が上手くやってくれるだろう。ニンゲンを牽制するため、ニウェウスの力は適度に残しておく必要がある。いや……ならばいっそのこと、完全に意識が無くなったふりをして……


「馬鹿なッ!あり得」


 正面から炎を吹きかけて消し去る、他は放っておいた。あんな連中でも火を消し止める役には立つ。これから自分は、理性的な行動を取ることができない。取るわけにはゆかない。森は相当な被害を受けるだろうが、これもライセンを護るためだ。


「……ゥグァアァァァァゥ……フシュアァアァァァァァァォォォォォ……」


 言葉が分からなくなってきた。早く島を離れなければ――自分という危険から、同胞と故郷を遠ざけるのだ。その前に、ひとつだケ、やリ残シ、タコト……


「……長。ネロ族長……」


 足元の茂みから、微かな呼び声がする。


 まだ忘れていない。ネロというのは自分のことだ。ライセンを護る戦士の長。こんな姿の自分に臆せず呼びかけるのは……豊かな銀髪を後ろに束ねた、やや背が高い同胞の女。男好きする微笑を、気弱な己を隠しとおす責任感の強さを憶えている。


「族長、シェラです。先程の攻撃によりニウェウスの主力は敗走しました。ブラッドは張り子の虎だったようで。もはや脅威となる者はおりません。ライセン、イラリオ、他の始祖氏族とも死者は少数。そのまま残敵の掃討に移りたいと存じますが……」


 不快も露わに小さく咆哮する。


 これ以上、戦いを続ける意味はない。そんなことをしても、傷口を広げてニウェウスの恨みを買うだけ。好むと好まざるとにかかわらず、今後アトルムは島の外にも目を向けなければならない。同じ森に住む者同士、争っている余裕などないのだ。


「…分かりました。仰せに従います。それと……グスマが戦死しました。敵の法術で跡形も残さず。これでは精神核の見つけようも」


 そこまで話したとき、シェラの目に初めて光るものが浮かんだ。


 遊撃のバルザは未だ健在。シェラの隊に死者はいないが、皆負傷して動ける者はいない。グスマの本隊は先に長を討たれたため、散り散りにさせたという。言霊を使えなくなった今、彼らの安否を知る術はなかった。


「グスマが無事ならば、助かる者もいました。ですが私の力では、どうにもならないのです!傷を癒すことはできても、失くした腕を取り戻すことはできない。彼らに元の暮らしをさせることができない……!」


 同胞を護るべき戦士として。以後のライセンを導いてゆく若長として。その重圧を抱え、シェラは今にも潰れそうだった。


 目の前にいる族長は、数日以内に死ぬことが決まっている。それは絶対に動かすことのできない事実だ。偉大なる先人の跡を継ぎ、この難局を乗り切ってゆかねばならない。ニウェウスとの和解。勢力を増すニンゲンによる威圧的な干渉の排除。そのためには、小人族との間に結ばれた友好関係の維持が前提である。今考えただけでも、頭の痛くなる課題が山積みだ。意外に気弱な彼女でなくとも、不安を覚えるのは無理もない。


「……族、長……?」


 月の翳りに気づいて、ふと涙に濡れた顔を上げる。


 差し出された黒曜の爪。そのまま短剣として使えそうな、鋭く美しい代物である。ホビットの名工に頼んでも、これほどの逸品は造れないだろう。


 意図を読めないまま、恐る恐る右手で触れる。と、それは根元から綺麗に外れた。慌ててシェラが抱え込むと、すかさず反対側の腕を出してくる。さすがに今度は慌てなかった。左の爪をマントで包み、残る一方の爪も同じように受け取る。二振りの刃を両腕に抱え、物言わぬ先人の巨体を見上げた。


「これは……?」


 強い魔力を宿す竜の爪は、手にした者をあらゆる災厄から護るという。普通は屍から取るものゆえ、どれほど力があるか。彼女の手元には、今それが二つ。


「エアと、リシリア様に?あなたの名代として二人を護れと?」


 シェラの言葉を聞いて、竜は満足そうに喉を鳴らした。それから早く行けと言わんばかりに、激しく威圧的な咆哮を上げる。目元の涙を片手で拭うと、新しいライセンの長は微笑みながら大きく頷いた。


「お任せください。必ずや、あなたの末裔を」


 竜は三度咆哮する。深い哀しみと、小さな歓びに満たされていた。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 ヤヨイの告白は、己の断罪に等しかった。単純に言いきれないのだが、力を持ちながら誰も救おうとしなかった卑怯者。正しき者の目からは、もしかするとそのように映る。


 彼女には、それが分かっていた。しかしながら分かっていなかったこともある。この場にいるニンゲン共は、必ずしも心の清らかな者達ではない。


「…もう一度訊こう。ブラッドの戦士ヤヨイ。君は、どうしてここにいる?非道なブラッド王は逃げ出す者を容赦すまい。これは想像に過ぎないが、死ぬより重い責め苦を受けたのではないか?君も王の被害者だったのではないか?」


「……………」


 全員の視線が集まる。


「何でもいいから、正直に言ってみて」


「……………」


「ね?」


 ヒルダが見抜いたとおり、アトルム達の出自は二つ。片やイラリオ、片やブラッド。後者が難民全体の八割を占める。争いを逃れてきたとはいえ、乗っ取りも同然だ。


 ああ見えてリタはヒトが好い。サツキの姉だからと安易に気を許したのだろうが……奴隷は虐げられることに慣れている。多数派になったとき起こりうる影響は。


 エリク達はブラッド王ハルマーを知らない。だが、その支配を嫌って森を出るのなら、今後はリトラの法に従ってもらう必要がある。


「…………た」


「うん?」


 ヒルダが訊き返す。ヤヨイの声は低くて小さい。このときは、いつにも況して聞き取りにくかった。


 ブラッドの民は、驚きの色を浮かべている。非難するような、それだけでもないような?妹のサツキさえ、異様な空気に慌てるしかない。


「大丈夫」


 戸惑うヤヨイに笑顔で頷く。


「ここにブラッド王はいないわ。誰もあなたを虐めたりしない」


 ますます俯いてしまう。安心させるつもりが、どうやら逆効果だった。


 汚れた残雪を見つめながら、ぽつりと呟く。


「…『王』が、いない……?」


「お姉……」


「わたしたち、一緒いるよ?」


 しっかり手を握ろうとする幼子の声も届いていない。


 固唾を呑んで見守る。


「…現れた日に、三人死んだ」


 微かなどよめき。事実だが、誤解を招く言い回しでもある。殺したのはヤヨイであり、囚われの弟と妹を取り戻すためだった。その前に女を助けたウィルは手を下しておらず、他の争いも向こうが絡んできたゆえの正当防衛。


「…家に火をかけた。刃向かう者を野晒しにした。魔獣の餌にした。見殺し前提の囮にした。凍える川に飛び込ませた……」


 気まずそうに視線を逸らす男達も。ヤヨイの声に涙が混じる。


「…潮臭い魚をっ……食べさせられ、た……」


 それがどう酷いのか、日頃から海のものを食べるニンゲンには分からない。同じアトルムのサツキでさえ、積もり積もった恨みが言わせたことと感じてしまう。


「ブラッド王ハルマーは暴虐の化身」


 ヤヨイは震える声で、だが力強く言いきった。


「私達を……助けて」


「……了解した、元ブラッドの戦士ヤヨイ。君達の身柄は、我らが預かる」


「エリク!」


 詰問らしく聞こえるが、レオリオ自身も迷っている。


 二人はブラッド攻撃に反対した。ブラッドを滅ぼしても止まらない危険性を考慮してのことだが、やはりと言うべきかニウェウスは暴走している。ここで難民を保護すれば、ニンゲンがアトルムに味方したと思われかねない。


「彼女らを連れて撤退する。エルフの森は今後も聖域として残すわ」


「そんな理屈が通るかよ!」


 領土を求めず、ヒトだけ迎え入れる。ヒルダが言ったのは、そういうことだ。最終目標は島の統一、思惑とは少し違うが。いずれ自分から出てきたものを返せもない。


「私達は平和に暮らしたい人々を護る。その願いはエルフも人間も一緒」


「じゃあ何か?今ここでニウェウスが助けてくれったら認めるのか」


「そうよ」


「『知性ある変異の魔獣』でもか?」


「ええ。誰であれ死にたくないヒトは見捨てられない!」


「それこそ無謀だ!爺さんもそこまでは言わなかったろうよ!」


 賛成のリウ老人、反対したジーナも今この場にはいない。後輩冒険者達がレオリオとヒルダに物申すのは至難。いずれにせよ論点は示された。


 執政官の役目とは、議長や調整役にとどまらない。皆の考えを知り、その中から全体の利益を最大化する未来を選ぶもの。


 現実に軸足を置きつつ、時には先んじて踏み出すことも。レオリオの言うとおりヒルダの考えは無謀だが、内容それ自体は間違っていない。百年後に目指すべき理想の姿として――進むことを諦めたら、睨みあいは千年経っても続くだろう。


 エリクには解っていた。リタからウィルの計画を知らされた時点で、このような事態を迎えることが。いや心の中では、既に覚悟を済ませていたのではないか。


「…皆、聞いてくれ。重要な話だ」


 自分が動かなくとも、事態は先へ進んでゆく。ならば彼にできるのは……歴史の流れに喰らいつき、仲間が溺れないよう繋ぎ止めることだけ。


「ウゥヌス・リトラの執政官として、今ここにリトラ共和国の樹立を宣言する。既に我らが法の下で暮らす者だけではなく、この島に生を享けた圧政に苦しむ者全てが愛すべき我らの民だ。これよりイラリオとブラッドを逃れてきた難民達は、リトラ共和国の庇護下に入る。何人たりとも……始祖四氏族の長だろうが、ニウェウスの女王ティターニアだろうが彼女らを害することは認めない」


 レオリオが力任せに摑みかかる。だがエリクは微動だにしない。やがて根負けしたのか、レオリオのほうが視線を外した。


 神妙に頷くヒルダ。清冽な風のマナが満ちてゆく。


「――我、リトラ自治都市連盟代表エリク=ハーレイは、今ここにリトラ共和国の樹立を宣言する。また執政官の戦時権限により、リトラ共和国の法が及ぶ範囲において新たにアトルムを我が国の保護対象とした。この決定に背き、種族の違いを理由としてアトルムを害した者は、リトラ共和国憲法に基づき公平に裁かれることを告げるものである……」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 魂の隙間に潜り込んだ精霊が目標を拘束する。素早く駆け寄った宿主が喉を掻き切り、術の類を使う暇も与えずに止めを刺す。


 村を出立してから、これで十人目だ。イラリオの若長リタは、殺された少年達の帳尻を合わせるため、見かけるニウェウスを当たるに任せて襲い続けていた。


「くそっ……」


 悪態が零れる。こんなことをしても、死んだ二人は戻ってこない。皆で守り育てた十五年は、呆気なく無へと帰した。手に入れるときは苦労するのに、失うのは一瞬――そういうものだと理解しても、徒労感が減るわけではない。


 先程も敵が現れた方角を注視、緩みなく警戒を続ける。


 戦況に動きがあったようだ。やたら慌てた敵が無防備に走ってくる。あれは逃げているのだろう――そこまでする怖ろしい何かから。あの方角はライセン、ならば答えは決まっている。ネロ族長か筆頭若長のグスマが、魂消しの秘術を使ったのだ。


 亡き友のことを想う。彼女の場合、望みはほとんど叶わなかった。故郷は焼かれ、息子は行方不明となり、しかし敵に育てられ生きていた。これを幸運と言ってよいのかは……その者の捉えかた次第だろう。


(…私はそう思えるほど、ヒトができてはいないな)


 朋友の息子ディム、今はブラッド王ハルマーにしてウィルのことを考える。ネフラという名は思い出したくもない。殺されかけたこともそうだが、よもや彼女自身が友の忘れ形見に刃を向けることになろうとは。


 茂みの中から赤い暗闇を覗く。


 火が放たれたらしい。エルフの戦術としては邪道だが、我を失くした魔獣に道理を説いても仕方あるまい。血に飢えた連中を少しでも減らせるのが不幸中の幸い。


 敵の流出が絶えた。もしかすると、これでおおよそは終いか。


 ならば、イラリオの村に戻る。無人のはずだが、族長代理ヨルマの死体が転がっているだろう。骨くらい拾ってやらなければ。


 歩き出そうとした矢先、堂々と近づいてくる気配が。リタに気づいていないか、脅威ではないと思っている。または脅威になるつもりがないことを伝えたいのか。その場で警戒しながら待つ。下手に反応すれば、害意を持っていると誤解されかねない。


 開戦前にも、同じようなことがあった。あのときと違い、今はお互いひとり。


「動けるか」


「…ああ。お前も生き残れたようだな」


 ウィルだ。向こうに驚いた様子はなく、ここにいるのが彼女と分かって来たのだろう。


 ところが、安堵の溜息をつくリタに早々と背を向ける。


「待て。どこへ行く?」


「無事を確認しただけだ。巻き込んですまないと思っている」


 一度は命を狙ったが、それは友の忘れ形見と知らなかったときのこと。アトルムに対する差別的な行動など、彼にも少なからず問題があった。


 口には出せないものの、今でもリタは親代わりのつもりでいる。事情を全部知ったうえで、この男は今のような態度を取るのだ。申し訳ないより腹が立つ。


 茂みを掻き分けてきて、ウィルの隣に並ぶ。


「………?」


「あれの発狂には、私も関係があるからな」


 今度こそウィルは驚いたようだった。


「…そうか」


 ネフラがリタに冤罪をかけ、それに憤った冒険者達との諍いが原因である。


 悔い改めさせるために言霊の罠を仕掛けたと『姿偸み』が嘘をつき、それに過剰反応したネフラは冒険者達を毒殺してしまった。一服盛られたことに気づき、死の直前どうにか時間を巻き戻すことができた『姿偸み』を除いて。


 川に落ちて流され、死んだものと思っていた。『巻き戻し』の真言は、自らの全情報を事前に記録しておいた状態へ戻す。実は記憶の一部が失われていることを、ネフラと争った事実は状況証拠と伝聞から導いた結論でしかないことを、ウィル達は知らない。


「……すまない」


「謝るな。前にも言ったろう」


 サラサを逃れてきたとき、そう教えた気がする。


「…憶えていないな」


「なら、今後そうしろ。この先辛くなるぞ」


 置き去りにされた子は、親を責めるもの。その親がいなければ代わりの誰か。


 ここでもリタは認められなかった。しかし再び謝りはしなかったのである。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 ブラッドの焼け跡。苛々と爪先を動かすニンゲンの男がひとり。


 『姿偸み』である。端麗と言ってよかった仲間の少年の姿を模していても、今ではすっかり冴えない。表情に翳りの少なかった頃は仲間くらいしか見分けられなかったものが、もはや誰の目からも瞭然。男の視線には、異様な熱意が纏わりついている。


「どうしてでしょうねえ……?」


 思うように死なないのだ。懇切丁寧、ああも心を込めて準備したのに。


 これまで殺れたネフラの関係者は三人。養父にしてサラサの族長ナスカ、ライセンの筆頭若長グスマ、同じく族長のネロ。この島の政治力学には甚大な影響を及ぼすだろうが……今のところはまだ、彼の帰る場所を失くさせるまでに至っていない。


「…もっと近く。もっと親しいモノを失わせなければ、この気持ちを味わわせられないじゃないですか……!」


 真言の究極奥義――運命の監視者ラフィニアより授けられた『全知の間』の力を以て、『姿偸み』はこの島で起きたことの一部始終を視ていた。


 養父の死により、サラサへは帰りづらくなったろう。ところが驚いたことに、遺されたネフラの家族はなおも彼を受け容れるという。


 ライセンの側で死んだのは、まず最も疎遠だった筆頭若長。これは正直どうでもよい。ネフラの私生活に与える影響は僅かだ。一方のネロ族長は、記憶喪失のネフラを拾った少女の先祖。これで多少は関係が気まずくなるのではないかと期待するが……所詮はその程度だろう。少女本人が族長と疎遠だった。


 実は《あの女性と同じ》だったらしい族長のほうからは、最上級の真言を駆使した『災厄回避』を施すなど涙ぐましい努力を重ねていたが。


「…そうですねえ」


 にたり、と笑って妄想を続ける。


 ネフラが一番嫌がるのは、大切な者が大切なモノを失って苦しむことだ。


 ああ、その意味では。傍から見て、ネフラが養父を殺したように見えなくもない死に方をしてくれたのは最高だったかもしれない。


「ふうむ……」


 『大切な者』の役に最も相応しい者は誰か?


 決まっている。リーネとエアだ。あえて残した弱い者を嘆き悲しませ、それらに手を差し伸べられない無様な自分を堪能してもらう。


「……っんぉっ?…お、っはぁあ……」


 ぞくぞくぞく、と背筋を快感と寒気が奔る。


 二人を慰められる者が残ってはならない。それができる者こそ、次の標的に相応しい。


「…とするとリーネさんのほうはセインとかいう脳筋。エアさんのほうは……」


「黙りなさい変態。そうはさせないわよ」


「ふぁッ!?」


 どうやら声に出してしまっていたらしい。いやそれよりも、彼を変態呼ばわりした声は誰か。よく知っているうえ、よりにもよってあの声に変態呼ばわりされるのは心外。そのくせ焦がれて已まぬ、懐かしい響きを伴っている。


 木陰から睨みつけているのは、ネロ族長の書斎に現れた獣人の女。


 正確に表すのは難しい。確かなのは、これが本当の姿ではないこと。使い魔の視界越しに窺った彼女の姿は、『深淵』へ向かうとき社の外から見たもので。


「…猊下?宮司様でいらっしゃいますよねえ!?わたしですよ」


 のらりくらりとかわす『姿偸み』に舌打ち、一際大きな『断絶』を繰り出す。それは情けなく地面に平伏した頭の上を通過し、未だ燻る残り火を切り裂いて終わる。


「……ひっ」


「まだ勘が摑めないようね。それなら」


 身体を慣らすように、しかし怒りのまま打ち据える。


 不意を突かれた。『姿偸み』の知る彼女は、格闘などできない。『自由の女神』セラを信奉する教団の宮司だったのである。弱肉強食の帝国社会で広く民衆に愛された彼女は敵も多く、身の安全を守るために彼らのような懐刀を手元に置いていたはず。


 だが、心当たりはあった。当時は正体不明であり、現在は一応分かっているもの。危機的状況にもかかわらず皮肉な笑みが浮かぶ。


 『豊穣の女神』ラフィニア。またの名を『運命の監視者』。


「…そういうわけですか。だったら、あなたも彼女の犬じゃないですかァ!」


 最後まで言い終えられなかった。更に苛立ちを深くした獣人が拳の雨を降らせたからである。的確に急所を狙っており殺意満々。


 しばらくその場に呻いていたものの、遠くに足音を感じて視線を逸らした瞬間逃げ出す。四つ足で這いずりながら、それはもう無様に。


 釣られて走りかけ、だがすぐに立ち止まる。


「この先は……魔獣の縄張り?」


 うろ覚えの――自分のものとは思えない、あやふやな知識を思い出す。こういうとき、洩れなく頭痛が襲ってくるのは何とも慣れない。さりとて死にたくないから、額に脂汗と冷や汗を浮かべて必要な情報を捻り出す。


「…っ!…んん……くっ………」


 一番危険と言われるウィル・オ・ウィスプの領域。カシコウセンによる光のサンゲンショクと見えないシガイセンの四つの光源が群れを成す『魂消し』の魔獣。


 動物ですらないモノを魔獣と呼ぶ感性は理解し難いが。元はヒトだったと言われれば、部外者としては納得するしかない。


 ウィル・オ・ウィスプ。アトルムの四始祖が自らを魔獣に変えた存在。


 大きな四つの光球が本体であり、離合集散しながら周囲を幻惑する。


 幻惑された者は光に魅せられ、棲処とする沼地の底へ誘われる。


 突然輝きを増すこともあり、正面から見た者は永遠に視力を失うとか。


 混沌界のマナを濾過して供給する機能があることは知られていない。存在自体を知らなかったこともあるが、『監視者』に聞かされるまで彼女自身も知らなかった。


(案外、ここから術式を盗んだのかも。それくらいやりそう)


 神社の宮司をしていた頃。『姿偸み』を含む異界の冒険者達に、混沌のマナが噴き出す源泉の封印を依頼したことがある。そのとき彼に渡した『ぱっちぷろぐらむ』とかいう真言法の一篇は、まだ正体を明かされる前の『監視者』から授けられたものだった。


 術式は効力を発揮し、魔境の拡散は食い止められた。樹木が柔軟化して歩き回るような異常事態が広まるのを未然に防いだのである。その意味において、『監視者』と彼女のしたことは正しい。冒険者達を凍れる時の中に閉じ込め、巻き添えにしたことを除けば。


 彼らの出立に際して、宮司はくれぐれも自分達の安全を優先するよう伝えた。隠しごとの多い『監視者』を信じきれなかったのである。結果として最悪の予想は的中したものの、そのときの言葉があってか救出された彼らは宮司を恨みに思わなかった。時間が経ちすぎており、宮司も殺されて死んだことになっていたからかもしれないが。


 情報は、いつも正しかった。命拾いしたこともある。しかし、それは主要な部分だけで、他の疎かにできないことに対する配慮が全くない。


「あれには近寄るなと言われているのよね……」


 信じてよいものか。あの女の情報を元に行動してよいのか?


 この人間離れした肉体を与えられ、見知らぬ他人の記憶を植えつけられ。


 少しずつ自分がなくなってゆくような。本当に、このままで……?


 軛を壊す必要がある。だが今はまだ、その時ではない。


 ふ、と。溜息を洩らす。


「…放っときますか」


 魔獣を倒せたら倒せたで、そのときは『監視者』の驚く顔が見もの。


 ヒトの気配が更に近づいてくる。


 まだほとぼりは冷めていない。人外に堕ちた者は、世間との関わりも慎重にしなければならないのだ。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「…待て」


 リタがウィルを制して立ち止まる。


「ここで争った跡がある。奇蹟と格闘、両方らしい」


 鋭利に切り裂かれた樹木、踏み荒らされた下草など。かなり激しかったことは読み取れるも、二人の追う敵が一方的に攻めたてられたとは知る由もない。


「…小さいな」


「ああ」


 エルフやニンゲン、ドワーフの足跡では考えられない特徴がある。動き方からみて、恐らく押していたのは獣人のほう。


「だが、あいつは死んだ」


 俺が殺した――と、言外に付け加える。


 リタも無言で頷く。その一方で二人とも、同じ足跡の何者かが、この島に潜んでいることを知っている。


(あの猫なら、リウ老人の食客を続けていたはずだが……?)


 護衛兼家宰兼親族のリンファに憤懣を溜めさせながら、捕虜という名のタカリ暮らしを満喫していた。獣人が森にいても不思議はないが、余所者となると少し違う。


(…メリルに化けていた奴か)


 サツキの息子サユキがイラリオの村に来たときのことだ。


 早く村に馴染もうと肥料小屋の見張りを買って出たサユキに、ブラッドからの追手がかけられた。母親のサツキだが、真夜中の物音に機嫌を損ねた猫耳と小競り合いに。理由は眠りを妨げられたからと、まるで『姿偸み』らしくない。


 あのときリタは、思わずメリルの名前を呼んだ。「旅先で知人のふりをしたら、自分が知らない知人の友人に会ってしまった」ような反応を見せたのである。


 あれはメリルでも『姿偸み』でもない。樹上に消えただろう足跡ではなく、粗雑に押し退けられた茂みと僅かな血痕を追う。


 森の中で気配を消すなど、森育ちの二人には造作もない。加えて現象精霊の加護があれば、ほとんどの者が接近に気づくまい。


 いた。


 沼に背中を向けて木の幹に寄りかかる、襤褸雑巾みたいな男。リタにとって命の恩人であり、ウィルにとっては養父の仇となった言霊使い。


 自称『異世界から来た冒険者』。得体の知れない人物だが、胡乱かつ大層な呼び名に真実味を与えるだけの力を有している。


「…私が行く。お前は隙を窺え」


 リタと冒険者達は、比較的友好的に出会った。ネフラに魔獣被害の黒幕という濡れ衣を着せられ、冤罪を晴らしてもらったのだから言葉に苦しむが。いずれにせよ、リタなら普通に会話できるはずだ。復讐をやめさせられるとは思っていない。正当な仇討ちと認めたうえで、彼女は友の忘れ形見につく。


(確実に仕留める。でなければ奴の怨念は、いつか島全体に及ぶ)


 とはいえ難題だ。好んで魔獣の棲処、それもウィル・オ・ウィスプに近づく者などいない。『精霊の目』で挙動不審な影を絞り込んだ際も、ウィルが幻惑されかけた。カイン氏族に教わったという対策を取るゆえ、全くの偶然を装うのは無理。


 半分だけ偶然と言い張ることにした。アトルム側へ移動する争いの跡を見つけ、念のため調べていたらウィル・オ・ウィスプの領域へ辿り着いてしまった……我ながら、どうしようもなく下手な嘘だと思うが。


 リタの側からは声をかけない。現場の検証にとどめる。実際、その必要もなくはなかった。あの危険な隣人とは、今後も付きあってゆかねばならぬ。


 変異体でも天才でもないリタは『精霊の目』を使えない。『姿偸み』も同様のはず。


「…おや。意外なヒトに会いましたねえ」


「お前か。それは私の台詞だ。どうして森の中にいる?」


 リタの標的は、期待どおり弛んだ声で呟く。いるはずのない者に戦場で会ったのだ、少しくらい緊張しても大丈夫と自分に言い聞かせて。


「エリクの演説は聞いたが、こちらも自動的にニンゲンを受け容れるわけではないぞ。大方その怪我も、手負いのニウェウスあたりにやられたのだろう」


 軽く呆れてみせる。動けるうちにさっさと行け、と片手で追い払う。だが『姿偸み』は心底驚いたように首を傾げ、それから肩を震わせて笑い出した。


「…くっく……いやあ傑作です。よもや、あなたの腹芸を見ることになろうとは」


「何?」


 まだ喉を鳴らしている。それは獲物を前にした獰猛な獣に見えなくもない。


「バレバレなんですよ。あなたもわたしを裏切った……」


 そこで、ふと言葉を切る。


「…違いますね。あなたとわたしは、そこまで一蓮托生じゃあない……」


 おおそうか、と会心の笑みを浮かべて掌を打つ。


「バレバレなんですよ。あなたがわたしを切り捨てたことはね……!」


「…………っ!」


 何故わざわざ言い直した。緊張感のなさが、ますます気持ち悪い。


「彼はどこです?いるんでしょう」


「さあな。言霊を使えば見つけられるのではないか」


 投げ遣りに言い返したが、案外事実だろうと思っている。サラサの追手からウィルを救い出したとき、ルークは『精霊の目』を展開していたが何も言わなかった。セシルの跡地で再会したときも。ウィルは隠れているリタ達の存在に気づいたが、接近を警告したのは魔獣グリフィンについてのみだった。


「何故、私があの男の居場所を知っていると思う?」


「勘ですよ。今のあなたからは、母親の匂いがします」


 にこりと穏やかに笑う。それから堪えきれなくなり肩を震わせた。この男が今は亡き仲間達から『戯言使い』と呼ばれていたことを思い出す。


 捜索系の言霊は、複雑な術式を文字に表す必要がある。その隙に不意を突ければと考えたのだが、乗ってくれなければ仕方がない。


「…私には、お前と争う理由はないのだがな」


「それも嘘でしょう。が、わたしはそのとおりかもしれません。このまま放っておけば、煮えきらない釜茹でに悶える姿が見られるのですからね。いや、これはこれで」


 自分の言葉に陶酔――恍惚と両目を瞑った、その瞬間。


(今だ!)


 リタの心の声がウィルに届く。


 風の刃。短剣。石礫。少し遅れて『断絶』の切れ端。明らかに言霊を意識したもの。合わせてリタも現象精霊を喚ぶ。逃げられないよう草木の腕を絡みつかせて。


 攻撃が飛んできた方向を見る。これだけ属性が揃わない攻撃をすれば、一つか二つ当たったのではないか。ウィルの表情も期待の色が濃い。


 だが思惑は外れた。原因は……どの攻撃も致命傷を狙ったから。防御側の過剰反応を招いたのである。


「さすがに死ぬかと思いました。過去を弄るのは危険を伴うんですよ?」


 そう言われてもリタとウィルには分からない。


 過去を変えられたら、過去は最初からそのようなものだったと認識する。変えた事実を『姿偸み』が認識できていることの原因は不明。そもそも真実かどうか。


 いずれ高度な術を使ったのは確かのようだ。彼の言葉を信じるなら、「未来の自分に術を使われ、副作用として高濃度のマナにあてられた」。吐き気や眩暈、『神宿り』を脱した直後の依代と似ている。


 膝と片方しかない腕を杖に、よろりと立つ。


「…深手は負いました。ですが、あなた達ごときに敗れるわたしではありません」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 リタとウィルを見下す大言壮語は事実だった。


「わたしがあの人に負けたのは、まだ死にたくなかったからなんですよ」


 小刻みにふらつきながら、妙に間の詰まった早口で捲し立てる。


 常軌を逸した量のマナを集めているのだ。このような無茶をすればどうなる?かつて『姿偸み』が、記憶を失う前のネフラに説明していたこと。


 しかし、だから何だというのか。言葉が足りない。まさか大陸の辺境にある『深淵』で見た化物を再現してみせるとでも。


「猊下と争って死ぬのは無駄です。でも、あなたを殺せるなら。それは本望じゃありませんかね……!」


 足元の砂を蹴り上げる。埃となって宙を舞い、『姿偸み』を隠す。精霊の力によるものだ。でなければ加速する時間の中で、ここまで長く持つはずがない。


 飛び道具が来る――二人とも何となく察した。異形化の危険を負ってまで得た時間速度差を、最も有効に活用する方法。それは敵に近づかないこと。格闘戦になれば、マナの恩恵を相手にも与えてしまうことになる。諸共に異形化するつもりなら、検討の余地はあるかもしれないが。


 それは剣として用いるには小さな、尖端が鋭い刃物だった。専ら暗殺に使われるゆえ暗器とも呼ばれる。無頼の冒険者にあってさえ、まともな素性の男ではない。暗器が迫る速さは想像を凌駕した。致命傷を避けながらもウィルは二つ、リタは一つ貰ってしまう。


「大丈夫か?」


「自分の心配をしろ。また来るぞ」


 土煙の中から突然現れ、緩やかに減速する。つい過剰反応して早く大きく避け、無駄な隙を作ってしまう。そこに追撃を受けて何度も冷や汗をかく。少しずつ慣れてきたが、四度目の攻撃は更に陰険だった。集めたマナをこっそり霧散、三度目の連携と四度目の牽制を意図的に遅らせた。四度目の本命をこれまでにない速さで撃ち出し、慣れからくる気の緩みと錯覚を利用しようと考えたのである。


 その試みは成功した。最後の一撃がリタの膝を撃ち抜く。


「…ぁあ……ッ!」


 投げ出されるように転ぶ。激痛のあまり動けなくなる。すかさず放たれたとどめを、防御に専念したウィルが叩き落とす。


「立てるか?…無理そうだな」


「…大丈、夫だ。流矢くらいなら防げる。私のことは気にせずやれ」


 押し退けようとするが、その力は弱い。完全に破壊されており、今も大量の血が溢れ出している。せめて異物を取り、傷口を塞がなければ。


「一時後退する」


「な……」


 反論する暇も与えず、リタの身体を担いで遁走。だがウィルの足は弧を描いて沼のほうへ向かっている。


「ここで待ってくれ。自分の身は護れると言ったな」


「どうするつもりだ?」


「あんたのマナを、限りなく無に寄せる。これで攻撃は届かなくなるはずだ」


 その分をウィルが貰い、『姿偸み』に挑むのだ。


 本質的には間違い。遅く見えるだけであり、いつか必ず到達する。そして狙われた本人には、対処の術がなくなる。殺されたことに気づきもしないだろう。


「…全部任せろ、ということか」


「……………」


 沼の畔に、そっとリタを降ろす。囮も同然だが、彼女自身そのつもりで協力を申し出た。本当にそうするあたり、ネフラの外道は相変わらず。


「『変わりゆくもの』。マナを此方より我へ」


 より動きの鈍くなった暗器を五つ、纏めて叩き落とす。水縹色の輝きを宿し、淀んだ水面へと踏み出した。


「来るがいい!ここから先は、俺と貴様だけだ」



 ☆★☆★☆★☆★☆



「どうした、来ないのか?」


 沼の中央から手招きする。安い挑発だが、今の『姿偸み』には効いたようだ。


 怒り心頭に顔を歪めて駆け出し、だがすぐ泥に足を取られて傾く。ナスカを罠に嵌めたときは得意気だったが、依代としては自分で言うとおり未熟らしい。『水』の元素精霊と親しんでいないのだろう。


「あれだけ優れた師がいたのにな?ルーナとかいう女やリタが教えるまでもない、お前などリーネの片手間で充分だ」


 大事な義妹に指一本どころか、同じ空気も吸わせはしないがと心の中で付け加える。これも安い挑発なのだが、浮かべた嘲笑に怒り冷めやらぬ様子で無造作に突き進む。傍から見ればウィルの思う壺。肩で息をしながら嘯く。


「…これで動きを封じたとでも?」


「強がるな。こちらの攻撃を避けられないだろう。それに動けないのでは、どこから仕掛けてくるかも簡単に読める」


 今度は『姿偸み』のほうが嘲笑を浮かべた。


「動く必要がありません。見縊らないでください」


 素早く左手が踊る。


 しかし何も起こらない。念のため周囲を警戒しておく。


「………?」


 頭上から滴が一つ。水面に波紋を作った。


 二つ。三つ。次から次へと落ちてくる。思わず手を伸ばし、灼けつく痛みに仰け反る。


「触らないほうがいいですよ?…まあ、もう手遅れでしょうが」


「………っ!」


 雨はウィルを中心とした範囲にだけ降っている。ただし、かなり広い。自由に動けるとはいえ、脱け出すまで身体が持つかどうか。


 足下を覗いても、魚の類は浮かんでこない。元々いないか、毒ではなくヒトにのみ害を及ぼす呪いの類か。いずれにせよ、このまま何も手を打たなければ死ぬ。


「…『変わらざるもの』よ。我が頭上に断絶の盾を」


 一枚板の薄い歪みが出現する。普段なら何も見えないだろう。しかし今は、これでもかと滝のような殺意が降り注いでいる。


「始原の奇蹟は厄介です。でも、まだ手詰まりではありませんよ」


 再び左手が踊る。同じ動きを見逃すウィルではない。


 雨宿りしたまま、小さな礫の群れを飛ばす。威力には欠けるが、牽制できれば充分。『姿偸み』には土壁を立てて防ぐほど依代としての技量がない。背負った長剣を横に構え、それを以て盾と為す。かなりの業物だろう、石塊は泥汚れをつけるのみで弾かれた。


 右手で真言を描こうとし、上腕から先がないことに気づいて諦める。以前戦ったときウィルが斬り飛ばしたのだ。あからさまな苛立ちを見せる――得体の知れないこの男も、肉体の再生まではできないらしい。


(いや。過去への干渉に不可能はない……何かを恐れているのだ)


 命が惜しくないというのも虚言。彼はまだ生き残ることを諦めていない。さもなくば直接致命的な内容を書き込み、共倒れの危険を冒してでもウィルの死を実現させているはず。または自分の手で殺したという、復讐の実感を味わいたいから。


 足元の土を隆起させ、まず確かな地面を造る。それから力任せに剣を突き立て、その陰に隠れた。かなり無様だったことは言うまでもない。片腕を失くした時点で、両手持ちの得物は無理。軽めのものに切り替えるのが普通だ。


 だが彼にとって、これは武器ではない。そもそも彼の所有物ではない。腕に巻いてなお太さが足りない脚絆。純白だったらしい色褪せた外套、体格に合わないため腰に巻きつけている。若草の紋様をあしらった女物の足環。片手だけの手甲で、順番に触れる。


「それで隠れたつもりか……?」


 精霊の攻撃は縦横無尽。依代の視線が届く範囲なら、どこまでもどこからでも現れる。沼の畔から石礫を投げつけ、『姿偸み』の額に当たった。一瞬意識が飛んで傾く。致命傷ではないが、捨ておける傷ではない。


「…まだです。まだ終われないんですよ……!」


 石の雨を浴びながら、渾身のマナを指先に込める。


 『姿偸み』は、今度こそ自らの命を棄てた。




――アウラヨコイネガウ。中心座標(一四六五二三六九、二五三七一〇六、一)、半径一〇〇。絶対温度三七三、維持継続。




 灼熱の空気が肺を焼きかける。『水』で冷やそうとしたら、『土』で遮断しようとしたら蒸し焼きだったろう。先に『酸の雨』を見せられなければ、また条件づけによる行動阻害と侮っていたかもしれない。


 あらゆる術は、精霊に何らかの影響を及ぼす。その中和を願っておけば、何が起きても身を護るくらいの時間は稼げる。


「『変わらざるもの』。断絶を!」


 景色の歪みが球形を成し、やや遅れて驟雨も悪臭に変わった。遅々たる時の彼方に佇むリタの元へは届かず、より遠い場所の『姿偸み』ひとりが咳き込む。


 視界は晴れない。『姿偸み』にとっても誤算だったが、座標に宿命づけられた灼熱は隣人の渇きを癒やそうとする沼の水も許さなかった。蒸発の傍から沸き立つ湯に戻り、白い闇の向こうを見えにくくしている。この状況を続ければネフラは身動き取れなくなるが、『姿偸み』のほうも彼の死を確認できない。


 現状を維持するための負荷は『姿偸み』のほうが上。そのことは双方共に理解している。問題は、どこで見切りをつけて戦術を変えるか。


 暴れて収まる風。流れは向きを変え、冷たい空気が吹き込む。


「…へへっ。へはは……ふはははははは………はぁ」


 一瞬だけ極限まで温度を上げたのだ。毒は燃え尽き、水蒸気ごと空高く舞い上げられる。いずれ雨となり戻ってくるだろうが、今日明日のことではない。


「…まあ。動く必要がない、というのは言い過ぎでしたね」


 ほぼ剝き出しになった沼の底を歩く。


 水面に位置していた球体の下端は、『姿偸み』の頭と同じ高さだった。底なし沼と言われていても実態は違う。ただヒトを溺れさせるに足るということ。沼の中央あたりは、本当に深いのかもしれないが。


 歪みに直接触れようとする。しかし、その先へ進むことができない。宙を泳ぐだけ。引き止められているのでもない。道具を介せば、硬さのように感じるのか。


 物見高さを脇へ押しやり、早速作業に取り掛かる。


 罠を仕掛けるのだ。せっかく得た有利を、無為に手放すのは惜しい。


 沼底の一部を僅かに隆起させ、乾かして地盤固めを行う。そこに鋲を打ち込み、丈夫な縄を張って毒塗りの棘を仕込む。空間の歪みで支えるように回り込ませる――そのように見えるが、本当は真っ直ぐだ。摩擦もないのにどうやって?という疑問は、形の印象に騙されて投石機の原理を思い浮かべるからでしかない。


「こういうのは案外、単純なほうが効くんですよ」


 同じものを三つ。『断絶』を解除した途端、毒の茨が力なくネフラを襲うだろう。


「省マナ省マナ。限りある資源は大切にしませんと……おお、そうでした」


 忘れていたとばかり、ぽんと手を打つ。


「あなたにも是非、片腕の仇を看取っていただきませんとねえ」


 今は再生されているが、ネフラに片腕を切られたのは『姿偸み』だけではない。無防備な姿を沼の畔に晒すリタのほうへ。


 あと十歩のところで立ち止まり、指差しによる対象指定。マナ量を正常化する。苦悶の表情で静止していたものが、途端に生々しく動き出す。力ずくで手足を押さえつけ、一気に膝の暗器を取り除く。気絶しなかったのは、心の強さによるものだろう。


「…『変わりゆくもの』よ。我が傷を癒やせ」


 異物が消えたのを見て取るや、無感動に傷口を塞ぐ。


「別に感謝してほしいとは言いませんが……知っていますよ。体力までは戻せないのでしょう?その身体でわたしと戦うのは無理です」


 哄笑する。見過ごすリタの目には、怒りの熱も冷たさもなく。


「は……」


 それから二時間が経過した。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「…しかし、遅いですねえ」


 苛々と呟く。東の空を見れば、星は薄れて淡く白い。


「わたしがあなたを絶対に殺さないとでも思っているのでしょうか」


「……………」


「だんまり、ですか。まあ意図が分からない以上、下手に喋るとわたしを利するかもしれませんしね」


 熾火を掻き混ぜる恩人の背中に嘯く。


 『姿偸み』の退屈と不安を紛らわすため、ウィルに仕掛けられた罠は高度化の途を辿っている。単純が一番などと宣いつつ、結局言霊に戻るあたりは玄人の業か。


 視覚を奪う、認知障害を起こさせる、一瞬だけ動きを縛る時限式――どれもマナは消費されず、僅かな濁りを帯びてアウラの元へ還っていった。


「…おかしいですねえ。空間が断絶しているからでしょうか」


 不思議そうに首を捻る。落ち着きなく歩き回っては、時々足を取られそうに。一度蒸発しても、これだけ時間が経てば水量は戻る。土地のアトルム達に底なし沼と謳われた泥の質も変わらない。


 ゆらり、と。視界の端で何かが閃く。


 顔を背けるリタと対照的、『姿偸み』は目を凝らす。全身が傾きかけて持ち直し、慌てて背中を向けた。沼のほう……は見られないゆえ、腹いせにリタを睨みつけて。


「……何てモノ呼んでくれたんですよ。さすがに逃げるしかないじゃないですか」


 もはや命など惜しくないが、仇の死を確かめられないのは困る。とりあえず置き去りにして、数時間後また様子を見に来るか?しかしその間に結界を解除して幻惑され、自ら沼の底へ足を進めてしまったら?先程の真言法――どういうわけか個人を上手く捉まえられなかったことが気になる。


 『歪み』に手を触れて引っ張るなどという芸当はできない。道具を使っても同じだ。触れられないからこその『歪み』であり、唯一対抗し得る法創術を『姿偸み』は扱えない。彼の得意とする真言法は、定めし世界の内側を書き換えられるのみ。


 左手の指が苛々と小刻みに腰を叩く。止まったかと思うと駆け出し、だがその動きは突然爆ぜた熾火の炎に妨げられる。


「…今は見逃すと言っているんですよ。その身体で戦うのは無理でしょう」


 リタは答えなかった。髪を明るい日緋色に染め、休みなく攻撃を続ける。しかし衰えた命は呼び込むマナの量も減少する。牽制以上にはならず、同じ熾火から吐き出された一本の矢が彼女を打ち据える。水筒の中身をぶちまけられ、あえなく消えてしまう。


 あまり時間はかけられない。危険な魔獣が迫っている――懐の暗器へ伸ばそうとした左腕を、何者かが背後から極める。逃れようと藻掻くが、万力で固めたように外れない。


 またこのような技の特徴として、動けば動くほど痛くなる。何とか首だけ回して敵の姿を確認。分かっていても驚きを隠せなかった。


「…ネフラっ……!?」


「危ないところだった。が、大体予想どおりだな」


 ここに来る前、ウィルとリタは『姿偸み』の居場所を探した。手掛かりは何もなかったため、どこか近くで高みの見物を決め込むだろうという微妙な人物評のみを根拠としたものだ。方法は限られるが、条件的にうってつけの手段を持っていることも事実。


 まずは網羅的に探した。二人が合流した場所を中心に、できるだけ遠くまで。ヒトの気配があれば精霊達に詳しく教えてもらう――だが見つからなかった。とある場所の一人を残して。ここを覗くのは、たとえ間接的にでも危険を伴う。


「強い刺激を与えれば、正気に戻るのだな?」


「ああ……」


 フーベらカイン氏族の戦士達に救われたときは、そうだった。


「なら問題あるまい。私がいる」


 予想どおり錯乱したものの、拳骨と引き換えに『姿偸み』であることを確認。それだけにとどまらず、ウィルは恐ろしく単純な動きをするものに気がついた。


 ヒトや大きめの獣が近づけば、同じ速さを保ったまま寄ってゆく。しかし大分遅いゆえ、一定程度離れたら戻ってゆく。リウ老人の屋敷で見たことがある――絡繰り仕掛けの時計のような正確さだ。遮るものの多い森の中で……?


 あの場所にあるものは何か。拳骨の痛みは、まだ消えていない。


「提案がある。かなり危険だが、上手くやれば戦わずして勝てる」


 ティターニアの助言と自らの体験を伝える。普通に倒せるなら、そのほうが安全だ。無理せず戦い、やはり難しいと考えたときは利用できるよう備えておく。


 雪は止み、晴れ間も広がった。森の住人であり創術の使い手たるアトルムにとって、今の状況は時間の経過を知る術に事欠かない。ウィル・オ・ウィスプの移動速度を割り出して稼ぐべき時間を逆算する、それが二人の賭け。


 浅く蘇った泥沼に降り立ち、隙だらけの後頭部に右手を伸ばす。


「こいつはマナの偏りに引き寄せられる。最初に遭遇したとき、それが分かった」


 結界を解除したウィルが、悠々と『姿偸み』の頭を摑んで光のほうへ向ける。目を閉じて凌ごうとするが、ウィスプの幻惑は網膜からも神経を侵す。一方のウィルは、フーベから習った視界を曖昧にする法術のお蔭で影響を受けていない。


「一体どうやってっ!わたしがいつ真言を解くかなど、分からないはずでしょう……!」


「確かにそうだ。が、今この状況で時間稼ぎを許すと思うか?」


 勝ち誇って敵に手口を明かすなど愚か。そのような暇があるなら、さっさととどめを刺すべき。命に別状はないが、リタの手当てもある。できるだけ早く休ませたい。


「…俺は、お前の大切なものを五つ奪った」


 返事を待たず、『姿偸み』の顔を泥水に突っ込む。当然抵抗するが、身体能力ではエルフのウィルが上。創術で更に強化することもできる。手と口を塞がれては言霊や真言は無理。そもそも聞こえているのか?それでもウィルは、語ることをやめない。


「お前も俺の大切なものを一つと、大切なものの大切なものを二つ以上奪った」


 やがて意識を失う。身体から手を離すと、更に水嵩を増した泥の底へと沈んでゆく。自らの業と成し遂げた何かを、神妙な面持ちで見送る。


「……それだけだ」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 沼地を静寂が支配する。


 まだ陽は昇っていないが、既に明るい。弱々しい白んだ日差しは冷たく、暖かさよりも寒さのほうを際立たせる。


 生き延びた者達にとっては、地獄の夜明けを迎えられた証。今宵は一転、穏やかな夕べとなるだろう。誰が勝ち、誰が負けたのか――そのような余録を今は措いて。互いの無事を喜び、還らぬ同胞を悼みながら。


 踊る虹色の真下。頑なに目を閉じ、顔を背ける者がいる。


 ウィルだ。視界を曖昧にする法術の加護は既に尽き、独力で幻惑の影響から逃れようとしている。陽光に中和される昼間なら、照り返しを過剰に恐れる必要はない。しかし正面から直視すれば、偉大な四始祖の威光に抗えなくなってしまう。


 渾身の力を込めて右足を抜き、従前より浅く踏み込む。これを繰り返し、どうにか岸まで歩こうというのだ。今度は左足を抜き、やはり浅く踏み込む。再び右足を動かすとき、それは前と同じ深さまで填まり込んでいる。


 永きにわたり流入した泥土は、水気が増すほど粘りも増す。膝丈まで水位が戻れば、もはや動くことは叶わない。


 精霊の助けを乞うべきか、少し迷う。あの男の話を何度も聞かされたせいだ。


 マナ被爆の過剰による変異――樹木が融合して動き回る、元の形を保ったまま弾力を持つ、など。断じて鵜呑みにしたわけではないが、あまりにおどろおどろしい。とはいえ、このままでは溺死だろう。大量の泥が肺を満たして窒息する事態は避けたい。


「『変わりゆくもの』。我が身は鴻毛の」


 軽さを得るより早く、固い地面が足に触れた。そのまま盛り上がり、水面の高さまで達する。泥が跳ねるのも構わず、俯せのまま安堵の笑みを浮かべたリタを攫って走り出す。


 気力で駆けた。足が縺れて転び、二人とも硬い雪の上に投げ出される。


 硬いと思ったのは最初だけだった。寒い日の朝には、外気に触れない内側の雪が外側の雪より柔らかいこともある。


 空が近い。止んでなお雪を含む雲は、今も低く垂れこめる。


 いつまた降ってくる?誰にも判らない。しかし遠い将来のことではないだろう。


 こうしていられる時間は僅か。ウィルの存在は、取り戻しかけた平穏に不和の種を蒔く。気の抜けた手足に力を込めて起き上がった。


「…行くのか」


「ああ」


 どちらかといえば確認。ここを出ることは何となく分かっていた。


「大陸へ。物見高い性分ではないが、知らないものばかりだ。当面退屈しないだろう」


「……なるほどな」


 微かな不満。気分が伝わったとみるや、ここぞとばかりに開き直る。


「少しは親代わりらしいことをさせてくれ。私も行ってはいけないか」


 これまでにもリタの好意を感じることはあったが、はっきり言われたことはなかったと思う。どこか贖罪めいた亡き友への想い。ラウラの影を追いながら、だが今はウィル自身のことも確かに見ている。


「…あんたには大事な役目があるだろう」


 イラリオのこと。ニンゲンやニウェウスとのこと。エリク達の信頼厚く、サラサのリーネとも面識がある彼女は、共存の形を探ってゆくうえで欠かせない。


「リーネと仲よくしてやってくれ。元ブラッドの民達のことも頼む」


「……私が断れないと、最初から見透かして頭を下げるのだな。お前は」


 そういうところがあいつと同じだ、などと表面的に嘆いてみせる。リタの口から在りし日の実母を聞くのは初めてのこと。最初で最後になるかもしれないが……


「供養になるものな?」


「年長者を揶揄うな」


 どこか吹っ切れた笑みを浮かべる。


「だが、まあ……そういうことさ」

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