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灰色の森  作者: 五月雨
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第8章 燎火

 その日は、朝から雪が降っていた。役目を終えた紅葉が眠り、土へと還ってゆく色鮮やかな寝床を染めて。


 この島の森は、全てが常緑なのではない。聖域と呼ばれた黄金樹の付近はそうだが、里のある西の森は違う。季節ごとの花を咲かせ、やがて大きな実をつける。それがエルフ達の糧となり、幾つもの村を栄えさせた。およそ千年前、海の向こうからやってきた黒い膚の者達を含めて――森の営みは、太古の昔から何も変わっていない。


 舞い散る風花を仰ぎ見つつ、バルザとルークは偵察の任に就いていた。


 秋の初めから、もう何十日もこうしている。ライセンの部族だけではない。ブラッドもイラリオも、南の最前線に位置する部族はどれも斥候を放っていた。


 二十年前、セシルの部族を滅ぼした北の大集落サラサ。魔族との戦で活躍したこともある彼らの長が、何者かによって暗殺された。噂によれば、族長の養子と瓜二つのアトルムが実行したのだという。ニウェウス達は創術で化けたものと考えているが、そのように便利使いできる奇蹟はない。仮にできたとしても、問題はその後である。そこまで大掛かりな擬態は、身体に不可逆な変化を及ぼしてしまう。一生その顔と付き合うつもりがなければ、最初から無理な注文でしかなかった。


「なあルーク……お前は、どう思う?」


 漆黒の相棒に視線を落とし、バルザがぽつりと呟く。


「今回の件、本当にあいつじゃないと思うか?」


 今更である。状況とこれまでの言動から、信じることに決めたはず。


 あいつというのは、他でもないウィルのことだ。村の会合で受け入れを決定し、バルザとエアが監視を命ぜられた若者。敵対的と思われた場合は、族長の裁定を待たず部族の保護を取り消すこととされていた。


 彼が犯人なら、結果としてライセンを巻き込んだことに。村を護るため、二人はウィルを殺さねばならない。真意はどうあれ、今の彼はブラッド王ハルマーなのだ。


 加えてイラリオの若長リタの存在。懺悔も含んだ衝撃的な告白。ここに至る不穏な空気の元凶が、あの行き倒れであることを示唆していた。


「どこでどう間違ったんだか……」


 苛々と管を巻くバルザに、ルークも溜息で応じる。


 青年を案じているのか、それとも愚痴に辟易したか――どちらとも取れる。バルザ自身、両方だった。自らの不注意も、今の状況を招いた原因のひとつゆえ。


「……分かってるよ。あいつのことなんか、どうでもいいんだろう?エアが泣きさえしなければ。エアが傷つかなくて済むなら」


 寡黙な闇色の毛皮は、それ以上何も反応しなかった。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 ライセンから西の集落イラリオは、一触即発の空気に包まれていた。


 仲間割れをしている……のではなく。十五に満たない少年のひとりが、自らも出陣すると言って聞かないのである。


「…どうして僕は行っちゃいけないんだよ。村の危機なんだろ」


「お前は成人していない。子供は大人しく避難していろ」


 ブラッドから逃げてきた親子の片割れサユキと、二人を受け容れると決めた若長のリタだ。サユキは今十二歳、まともな教育がない場所で育ったため、未だ満足に字も書けない。創術が使えないのは無論のこと、依代としても我流ゆえ最初の精霊と意思を通わせるまでに何年かかることか。とても戦場には連れてゆけない。


「ちょっとサユキ。あまりリタ様を困らせるんじゃ」


「母さんは黙ってて。僕くらいの歳の頃、あんたは泥の中で震えてただけだろ」


 実の子としては、かなり厳しい言葉を投げつける。ブラッドを出た切欠もサユキの蛮勇であり、事実そのとおりではある。サツキは序列が上の戦士に脅されて連れ戻しにきただけ。まあ母親失格だろう……今しがたの会話を聞くかぎりでは。


 サツキの身体は、不格好なほど痩せている。誰が見ても最初の印象はそうなってしまう。与えられたものも口に入れず、とにかく息子に食べさせてきた結果だ。そこまでしてきた――それくらい愛しているのだから、もう少し優しくしてくれてもと思う。


「…えぅ……」


 心の傷を抉られ、後ろを向いて涙を流す。でも息子だ。たった一人の大切な息子だ。サユキは母親の自分が護らなくてはならない。決意を新たにする。


 背中からリタの声が聞こえてきた。


「…そもそもうちの村は、戦士とそうでない者を分けている。お前を戦士または戦士見習いと認めた覚えはないが」


 息子を外へ出さずに済む口実を見つけて、俄然サツキも言い募る。


「そうだよそうだよ!だから大人しく留守番してな。きっとすぐに」


「あんたも留守番だろ。偉そうに言うな」


 サツキも戦士として優れているわけではない。まあ一人前といったところだが、精神面があまりにも弱すぎる。隠密行動に支障はなくとも、絶対逃げられない前線を維持するなど戦争特有の場面では、不安定な性格が命取りになることも予想される。


「……反抗期なんだ。きっと反抗期なんだ。うん、そう……」


 ぶつぶつと呟きながら、気分を落ち着けようとする。その背中に苦笑しつつ、だが真剣な表情を取り戻したリタはサユキに語りかけた。


「お前には、村を護ってもらいたい。族長代理のヨルマは、あのとおり荒事が苦手でな。下手をするとお前より弱い。頭だけは回るから、手足になってくれると心強いのだが」


 じっと顔を見つめる。やがて根負けしたように、少年は肩で溜息をついた。


「…仕方ないな。あとで戦い方を教えると約束してよ?」


「ああ。お前に才能があればの話だがな」


 しっかりと頷く。だが言ったとおり条件付きだ。向かないことを続けさせて、他の才能を葬ってしまっては勿体ない。


「その言葉忘れんなよ」


 微かな笑みを浮かべ、サツキの元へ駆けてゆく。


 優しい子である。口は悪くとも、抜けたところのある母親を助けながら生きてきた。同じ覚悟を胸に秘めるリタ。必ず帰ってこい、そう言われたような気がして。


(ああ、忘れんさ)


 族長代理ヨルマの家へ向かう。招集した戦士達は広場に集まっていた。


 リタを含めて六人。これを二つの班に分ける。片方は熟練者のみ三名、リタが率いるのは成人したばかりの少年達だ。初陣としては厳しい戦場だが、何とか凌ぐしかない。


「お前達は、先に行ってくれ。私達は後から向かう」


 口々に頷き、先行する三名が発ってゆく。


 残された二人の緊張はひとしお。村のため役に立ちたい気持ちはあるが、同じくらい大きな恐怖もある。いつも軽口ばかりの族長代理まで言葉少なになっているのだ。本当に恐ろしいことが起きるのではないかと。不安を隠せない。


 戦力として考えれば、精神の脆さを考慮してもサツキのほうがマシ。それでも彼女を置いてきたことには理由がある。この場所でやらねばならぬ仕事があるからだ。


 実を言うと、リタもヨルマも最初はサツキを信じていなかった。ブラッドの中に『飼い主』がおり、適当なところで裏切るだろうと思ったのである。


 しかし待てど暮らせど、サツキの態度は変わらない。鬱陶しいほどリタに張りつき、粘着し、纏わりつく。ヨルマや他の男性に対する苦手意識も。


 新たなブラッド王が立ったとき、彼女を洗脳している者が死んだ可能性もある。そしてウィルが現地入りしたら会うように勧めたヤヨイは、サツキ自身の母親違いの姉だという。洗脳ではないにせよ、充分ありそうな話ではないか。


 支配者が変わり、自分を脅かしていたものは確実に消えた。それでも態度が変わらないということは……元から嘘などついていなかったのだろう。軽く自己嫌悪を覚えながら、ヨルマとリタはそのように結論した。


「では行ってくる。村のことは任せた」


「ああ。結界を張れるのがニウェウスだけじゃないことを教えてやるさ」


 リタと二人の若者が木立の中に入り、そこで足を止め振り返った。


 瞑目するヨルマの周りが急激にマナ濃度を増す。それにつれて時間の進みも速くなり、創術の詠唱はもはや聞き取れないほど。同じ光陰の流れを突っ切る者がいたなら、そやつは最後に聞いたことだろう――我、全てを拒むと。


 無言で頷き、ヨルマとイラリオの村に背を向ける。それから一片の迷いもなく駆けていった。残る二人も、慌ててリタの後を追う。


 涸れた喉を労り、何度か咳き込む。


「……頼んだよ。未来を……」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 ……エルフの森は広い。


 双方の支配領域が接する緩衝地帯だけでも、東西へ抜けるのに三日かかる。これを幅と呼ぶのなら、厚さはおよそ半日。その程度しかないだけに、一部の幸運な――あるいは不幸な者達は、誰とも遭遇せず敵の村へ辿り着いてしまったりする。


 無論、彼らを待っているのは過酷な運命だ。大人しく引き返すか、友軍を待つか。そのどちらかを選ばない限り、圧倒的な戦力差を前にあえなく死ぬ。古今東西、戦で功を焦った者は最終的に生き残れない。それは、この戦場でも同じことだった。


「斥候は戻ったか?」


 ゆっくり腕組みを解くと、若長タルカスは周囲を固める護衛の戦士達に呼びかけた。


「まずは敵の布陣だ。数、位置、練度。それらの状況を詳細に知らせ」


「はっ」


 やや年齢を重ねた――と言っても外見では分からない――男性のニウェウスが、若長の傍に歩み寄る。二十年前も共に戦った彼だが、戦友というよりは腹心に近い。部族内における今の地位を手に入れられたのは、彼の尽力があってのこと。実力者達の動向を始めとする様々な情報収集、寄り合い前の根回しや彼に有利な質問の下準備。


 ニウェウス最大の人口を誇るサラサには、世代を問わず優秀な人材が多い。熾烈な競争を勝ち抜き、タルカスは現在の地位を手に入れた。戦場での指揮能力を買われたのである。他の二人は教育や対外折衝など平時の才能。理性的なことで知られるエルフの社会も、戦士が力を持ちやすいのはニンゲンと同じだった。


(魔族の討伐に慎重だったナスカ族長は死んだ。もはや私を止められる者はいない。今後ニウェウスは、ニンゲンや亜人種共を従えて世界を狙ってゆくことになる。四柱神の末裔たる我々には、何とも相応しい未来ではないか)


 右手で口元を隠し、思わず込み上げる笑いを必死に耐える。


(まずは戦果を上げ、次期族長の地位を確実にする。他の二人は戦下手だ。それは放っておいても難しくあるまい。どちらかと言えば……問題は次だろう)


 他の大集落には、彼より歳上の族長が二人いる。どちらも二百五十歳を超える高齢であり、カイン氏族の象徴たる女王ティターニアに至っては千四百歳を数えるという。普通のことをしていたのでは永遠に彼の順番が回ってくることはない。


 年長の彼女らを押さえて、ニンゲンの冒険者共と対等に渡り合うためには。


 近々成立するリトラ連盟とやらを、エルフの万年王国へと作り替えるためには。


 その偉大なる建国王として、このタルカスが歴史に名を残すためには。


 此度の戦を華々しい勝利で飾り、ニンゲン共に格の違いを見せつけなければならぬのだ。


 神々に連なる真の後継者として、いずれ世界をあるべき姿に戻す。


(もはや女王など不要だ。族長も。族長の息子も。族長の娘も)


 ナスカの忘れ形見、ひとりでは何もできない臆病者のリーネ。その後ろに立つ許婚のセイン。思えば奴も不運なものだ。ナスカ族長の御代が続けば、恐らく百年後には確実に若長となっていたことだろう。世の中には実力があっても覆せないものがある。後ろ盾の族長亡き今、彼の身分は単なる一戦士に過ぎなかった。


 今や立場は逆転。妬ましさのあまり養子のネフラを殺そうとしたこともあったが。そんなことはどうでもよい。生きているタルカスは、死んだナスカに勝ったのだ。


「私に従え。悪いようにはせぬ」


「……………」


 正式な権力こそないが、族長の娘たる彼女の影響力は依然として大きい。将来の地位を約束してでも、味方に引き入れておく価値は充分にある。


 しかし相変わらず体調が優れないリーネの返事はなかった。


(…まあいい。黙ってここにいる限りはな)


 すなわちタルカスを自軍の長と認めたことになる。彼こそサラサの意思であり体現。またニウェウス全体を救った者として、ゆくゆくはティターニアの帝国を継承するのだ。


(私だけに許された夢だ。他の誰でもない)


 願わくは跡を継がせる者が欲しかったが……エルフの時間は余りある。支配が盤石となれば、その機会は幾らでもあるだろう。


 しかし、横合いから挟まれた声が夢想に水を差す。


「…行くぞ、リーネ」


「!?」


 俯いた顔をあげ、唐突に自分の名を呼んだ恋人を見つめる。その両肩に義姉が後ろから手を置く。戸惑いに目を丸くするも、頷き返してセインの元へ駆け寄る。周囲の戦士達も何事だろうと目を向けるが、状況を理解している者はいない。分かっているのは……自分の誘いを無碍に断られた、驚きを隠せぬタルカスのみ。


「本当にそれでよいのか?私ならば、お前達を正しく評価できる。戦そのものに及び腰な、他の若長達とは違う。お前の望みを叶えることができるのだ」


 セインにちらと視線を送り、意味ありげに笑ってみせる。どうせお前も、権力のため族長の娘に近づいたのだろう――そんな意味を込めたつもり。タルカス自身、結ばれた相手は野心を叶えるための小道具に過ぎなかった。


「あんたの言う評価は、戦のことだけだろ」


「何だと?」


「私達は、あんたの評価なんて要らないの。家族三人、どこでも生きてゆけるわ……そういえば一人、わざわざ迎えに行かないといけない残念なのがいたっけ」


「……嫁がそれ言うのかよ?」


「嫁だから言うのよ。リーネも遠慮なく言いなさい」


 けたけたと楽しげに笑う。不謹慎もいいところだが、妙な迫力がある。セインはおろか、年長の者達もユリアナを咎めることはできなかった。


「ま、待て!勝手な真似は許さんぞ。私はサラサの」


「だから俺達は、サラサを抜けるって言っただろ」


 思わぬ視線の冷たさに怯む。その事実に苛立ちを覚える。才能があることは認めよう――だが今は間違いなくタルカスのほうが上。何を恐れる必要が?もし逆らうとしても、腕ずくで従わせればよいではないか。


 二の足を踏む若長を、セインは軽く見返しただけだった。


「私達は家族です。他には……何も要りません」


 リーネの頭をセインの大きな手が撫でる。ユリアナが口笛を鳴らす。


 三人の姿は、雪の向こうに消えていった。


 得体の知れぬ苛立ちと、白けた空気を残して。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 サラサとブラッドの間を流れる川の下流。三人のアトルムが悪臭に顔を顰める。


 リタの組より先に出発した、イラリオの戦士達である。サツキから聞いたブラッドの場所をもう一度調べているのだが、どうやら本当に引っ越したようだ。川向こうにある奴隷達の掘立小屋だけでなく、戦士達の一人住まいまで。


 村の移転が新たな王ハルマーの指示なら、王の武威はここで示されたはずである。ところが森にも村にも争ったような形跡がない。ブラッドにはイラリオ一の戦士であるリタでさえ油断ならない相手がいたが……それほどまでにハルマーという男は強いのか。余程の実力差でなければ、あの蛮族共が大人しく従ったりしないだろう。


「どういうこと?隠れてるわけじゃないのよね」


「ああ。ヒトの気配は感じないな……」


「魔獣の気配もな。もっとも、あいつら隠れる必要なんてないんだろうが」


 三人揃って怖気を震う。


 魔獣は強いからだ。貧弱な変異体は別として、太古の昔から存在する『古の魔獣』や『魂消しの魔獣』は危険。縄張りから逃げ出す程度ならともかく、とても一対一で渡り合えるような相手ではない。少なくとも積極的に挑戦する者は皆無である。


「…怖いこと言わないでよ」


 女が連れを睨む。口惜しそうなのは、普段から虚勢を張る癖があるのか。対する男は、自分で言った割に難しく捉えてはいないようだった。


「悪い。びびらせちまったか?」


「びびってなんかいないってば!」


 大声で言い返す。それが魔獣を呼ぶ行為であることに気づき、三人ともすぐ押し黙る。仲よく茂みに飛び込み、肘で突きあう。しばらく息を潜め、何事も起きないのを確認して……安堵の溜息をつく。そんなところまで図ったように一緒だ。


「……誰よ。最初に大きな声出したの……」


「お前だろ、お前」


「煽ったのは、こいつだけどな?」


 また言い争いになりかけたとき、三人の後ろから物音がする。


 心臓が飛び出すかと思ったが杞憂だった。リタと二人の若者である。遅れて村を出発した三人が、ようやく追いついたのだ。


「驚かせないでよ……」


「それは、こちらの台詞だ。大声がしたから来てみれば、ただの戯れ合いだったとはな」


 先輩のお前達が、そんなことでどうする――無言の圧力が重い。


「……すみません」


「始祖四氏族に我らの存在を認めさせる好機だ。抜かるなよ」


 元の二班に分かれ、調査を再開する。とはいえ、川向こうには渡らないが。奴隷だけニウェウス側に集落を作らせ、いざというときの囮にする。燃やされて狼煙が上がれば、敵の侵攻を察知できるというわけだ。同胞に対してあるまじき仕打ち。


(…サツキやサユキの言うとおりだったな)


 疑ったわけではない。だが話に聞くのと実際に見るのとでは違う。ここまであからさまな光景を見せられると……幼少期をブラッドで過ごしたという亡き族長イラリオの心中が、思いやられて余りある。


 土地や水の扱いも、ただ好き放題に使い潰して次へ移るといったところ。家が欲しければ木を伐り、喰らいたければ森を荒らす。無限に増え続ける害虫のようなものだ。


 このような蛮行を許していては、いずれエルフの森全体が遠からず消えるだろう。惨憺たる有様を目にして、若者二人も認識を共有してくれたようだ。ニンゲンやニウェウスの力を用いてでも絶対に止めなければならない。


 もっともウィルが王になったことで、多少の変化はあろう。


 彼ならやるかもしれないと思ったが、この短期間で本当にブラッドを掌握してしまうとは。もっとも当初の計画とは大分違う。恐らく手に負えないだろう一番強い者に取り入り、無謀な戦を起こさせる予定だったのだ。


 ブラッド王ハルマーはウィル。ハルマーとは法創術の言葉で『灰色』を意味する。決めておいたわけではないが、知っている者に対してはいかにもな符丁ではないか。


 現状を伝える隠喩の類を探してみるも、何ひとつ見当たらない。


(…だとしたら難しくなるかもしれん。生贄がないのでは、あいつ自身を)


 ふと勘が働き、反射的に立ち止まった。他の二人にも注意を促す。


 川沿いに上から下へ、草を踏む音がする。


 三人以上。近づいていることを隠そうともしない。


 一番大きな建物の陰に隠れた。若者二人は今にも心臓が飛び出しそうな顔をしている。姿は見えないが、先行班の三人も同じだろう。リタとて余裕があるわけではない。


 足音は、なおも堂々と近づいてくる。余程自信があるのか、それとも。


(…む?あれは……)


 やはり数は三人。下卑た表情から、まともな連中ではないと分かる。


 ただ、少しばかり様子がおかしい。まるで何かに怯えているような。やたらと後ろのほうを気にしているような……?


 いずれにせよ間違いない。あれはブラッドの住人だ。


 今すぐ討つべきか?その判断は、若長たるリタがしなければならない。


(こちらは足手纏いを除いて四人。無傷で勝つこともできるだろう)


 捕まえて情報を吐かせるのだ。また斥候が戻らないとあっては、こちらに戦力を振り向けさせることもできよう。ニウェウスを助けるのは業腹だが、確実にブラッドを消し去るためだ。敵を引きつけて村に籠れば、それだけ前衛のライセンが楽になる。


 最初に私が飛び出す、こちらに注意が向いたら牽制しろ――事前に決めておいた『作戦概要その三』を手指の符丁で表す。二人とも緊張の面持ちで頷く。


 時機を計る。そのとき俗物共の後ろに、もう一つ足音があることに気がついた。


「…六人。俺の知っている者もいるのではないか……?」


 四対四である。だがリタには、もはや戦うつもりなどない。


「私だ。よく……生きていたな」


「やはり、あんた達だったか。サラサにしては少ないと思った……」


 イラリオの若者達は、拍子抜けして顔を見合わせる。


 前を歩いていた三人とは、明らかに雰囲気の違う男。冷淡で物静か――しかしリタのほうは声を和ませる。あれは安堵というより心配だ。


 男女の仲には見えない。連れの三人に対する扱いを見れば、万年の恋も冷める。


 この集落に罠を張るつもりらしく、自分は何もせず顎で彼らを使っていた。そのことについて、リタは触れない。当然のことと思っているように。


 何やら情報交換を終えて戻った若長に、堪えきれなくなった二人が訊ねる。先行班の皆も、この状況を計りかねているようだ。こっそり聞き耳を立てているのが分かる。


「あれ、誰なんですか」


「ライセンの戦士だ」


「はぁ……思ってたのと違うっていうか。ライセンって、あんな怖いのでした?」


「いろいろ都合があるのだろう……それよりもお前達、今すぐここを離れるぞ。魔獣が移動しているらしい」


 魂消しの魔獣グリフィン。二十年前に滅ぼされた集落セシル、その若長クレオが創術の奥儀を用いて変態したもの。あまりに骨格が違うゆえ、元の姿には戻れない。理性も失ってしまうため、かつての同胞を見分けることもできなくなる。哀しき諸刃の剣。


 恐らく青年は気づいている。あの魔獣が自らの母なのだと。高所から突き落としてネフラの記憶を奪い、結果としてアトルムの側に戻る切欠を与えられた。そして再び、島の未来を賭けた戦にも現れようとしている。あまりに運命的な話だと、リタは思った。


(…礎の女神アウラよ。願わくは、我らに相応しき試練を……!)



 ☆★☆★☆★☆★☆



 リタ達は即座に廃村を離れた。そして更に下流の、もう一つ古い集落へ向かう。


 あんな臭いところを使う気は知れないが、万一サラサの拠点にされては困る。風化が進んでいるものの、念のため浄化を兼ねて燃やしておこうと考えたのである。


 臭いは同じだが、少し弱まっているように感じた。すなわち利用される恐れが高まるということであり、懸念は間違いではなかった。鼻を覆いながら、小屋それぞれに火を放つ。泥混じりの木でできた廃墟は、簡単に突き崩されてゆく。


 次は対岸だが、そちらは別動班と合流してからのほうがよいかもしれない。魔獣グリフィンから逃れるとき、全滅を避けるため別々の方向に走った。万一見つかっても腕の立つ連中であり、逃げるだけなら犠牲を出さずに済んだと思うが……


(クレオのほうが殺られたとしても、そのときはそのときだ。あいつの心が残っていたら、若者の成長を喜んでくれるだろう)


 自分が矛盾したことを考えているのに気づき、可笑しくなる。そもそも心が残っていない――元の魂が消えているからこそ襲われるのだ。一部変異の魔獣と同じく意思疎通できるなら、アトルムは今の窮地に陥っていない。


 物思いに耽るリタの耳を、若者達の声が過ぎゆく。


「おい、あれ見ろよ」


「何だ?」


 若者の片割れが仲間の肩に触れる。


 二人とも歳の頃は十六、七。実戦経験はなく、一昨年成人したばかりの少年である。先日圧倒したライセンのエアより遥かに未熟だ。浅黒い膚の上からも、明らかに蒼褪めて見える。微かに震える手で川の対岸を指差した。


「…変なものが、さ」


「え……」


 やはり大きく肩を震わせ、その示した方角に視線を飛ばす。


「……敵じゃ、ないよな。ここは前線から離れてるし……」


 強張った顔を無理矢理笑いの形に変える。平時の見張りしか経験のない二人は、実質今回が初陣だ。虚勢の張りかたも知らない、その怯えようは憐れに映る。


「おう……まさか、だよな」


 相棒の同意を得られて安心したのだろう。最初に異変を見つけた若者は、堰を切ったように抱えていた不満をぶちまける。


「そうだよな、そうだよな……それに疑われてるのはブラッドとライセンだろ。大体うちは小部族だし、そもそも事件と関係ない。狙われる理由なんか」


「任務中の私語は厳禁だ。私の話を聞いていなかったのか」


 女の低い声が割り込む。悲鳴を上げた未熟な戦士達を、リタは不機嫌そうに睨みつけた。容赦ない叱責を受け、思わず身を竦ませる。


 寄せ集めの集落イラリオは、基本的に人材が払底している。人口も少なく、熟練の戦士達には各自の判断で動いてもらったほうがよい。若者を教え導く役目は、自ずと若長の彼女に回ってこざるを得ないのだが……


「死にたくなければ、私の言うことを聞け。何かを見つけたのなら、すぐ私に報告しろ。お前達は未熟なのだから、何事も自分で判断しようとするな。何度言えば分かる」


「う……すみません」


「これから気をつけます……申し訳ありませんでした」


 項垂れて謝る戦士達を、リタはますます不機嫌そうに睨みつけた。


「…私は、謝るなとも言った。そんな暇があるなら、さっさと状況を報告しろ。行動で示さない者には死あるのみ。それが戦場の掟だ」


 そう言ったところで口元を緩め、少年達に微笑みかける。


「心配するな。お前達を簡単に死なせたりはしない。そのために私がいる。お前達には、村の未来を背負ってもらわなければならないからな」


 彼ら二人は、イラリオの村で生まれた初めての子供だった。


 戦で村を失い、身寄りをなくした者。好戦的なブラッドを嫌い、温和なイラリオ族長に従うことを選んだ者。故郷で罪を犯し、氏族の保護を受けられなくなった者。出自や背景は様々だが、村の全員に共通していることが一つだけある。


 すなわちイラリオを生まれ故郷とする者が誰もいないこと。心の重荷を背負った者達は、なかなか新しい一歩を踏み出そうとはしないもの。次の世代が生まれなければ、いずれ村は滅ぶしかない。皆がそんな想いに囚われたとき。二人の女達が、ほぼ同時に一人ずつ赤子を身籠った。その後も三人の子供達が生まれ、元気な成長を見せてくれている。彼らは村の、いやリタ自身にとってさえも。かけがえのない大切な希望だった。


「それで、お前は何を見つけた。くれぐれも下手に指差したりはするなよ。こちらが気づいたことを気取られてしまうからな」


「…あっ……」


 既に犯してしまった愚行を指摘され、気まずそうに頭を掻く。リタの視線が再び鋭さを増したが、話さなければ始まらない。とりあえず説明しようと口を開きかけたとき――少年の細い首に弩用の太矢が突き刺さった。驚きの表情を浮かべながら、為す術もなく瞬時に絶命してしまう。唐突に迎えた己の死を、彼は理解することができなかった。


「…あ、あ、あ……!」


「動け!早く!狙われるぞ!」


 放心状態に陥った背中を、どんと強く押してやる。何とか木陰に隠れてくれればと思ったが、それは叶わない。ふらふらと当てもなく歩き出し、瞬く間に矢衾となってしまう。苦悶の表情を浮かべつつ、やがて彼も幼馴染みの後を追った。


「……………っ!」


 きつく唇を噛み締め、川の向こう岸を睨みつける。


 ついにニウェウス共がやってきたのだ。長年の怨恨を携え、それを憤怒の炎で焼き尽くすために。争いの芽となる仇敵を、全て根絶やしにするために。


 連中は恐らく、幻影術を使い潜んでいたのだろう。雪の照り返しに知覚暗示を乗せ、動かないものは存在しないと思わせた。素人同然の未熟者が偶然に見つけるまで、リタも全く気がつかなかったのである。


(……何が心配するなだ!何が死なせたりはしないだ!お前達を護るが、聞いて呆れる!私は結局、お前達を身代わりにすることしかできなかった……!)


 憎しみの心を滾らせ、混沌界から直接火の精霊を召喚する。彼らが司るのは、激しい怒りを伴う破壊と殺戮の衝動。今の自分ならば、たとえ契約を結んでいなくとも全てを焼き尽くせそうな気がした。短い銀糸の無骨な髪が、次第に焔の緋へと変わってゆく。


「……復讐の炎、断罪の虚無。我命ず……彼の者達を捉え、清浄にして無垢なる灰塵に」


 阿鼻叫喚の地獄絵図は、瞬く間に現れて幻のごとく消えた。


 その場に残されたのは、元が何だったのかも分からない塊と、連中が身につけていた何振りかの寸鉄。それによると、倒した敵の数は五人。イラリオが失ったのは、手塩にかけて育てた若者が二人。割に合う話ではなかった。


(ディム……私は賭けに乗った。お前の道を示してみせろ……!)



 ☆★☆★☆★☆★☆



「…お帰りなさい。ハルマー」


「ああ。ただいま」


 前の集落から戻ってきたウィルを、ヤヨイが出迎える。この会話を何度繰り返したろう――今や馴染んでしまい、最初から家族だったのではと錯覚しそうになる。


「……どうしたの?」


「何でもない。それより準備が調った。サラサからの侵攻があり次第、計画を実行に移せるだろう」


「……………」


「どうした。何か気になることでもあるのか」


 計画の実行。それはブラッドの消滅と、恐らくだが住民達の離散を意味する。


 せっかくここまで改善したのに。今やこの村は、昔のブラッドではない。皆が自分のできることをし、得られたものを公平に分けあう。


 外の世界を知らない自分が言うのも何だが、ヤヨイはここを素晴らしいと思う。兄弟姉妹に見せてやりたかった――二度と会えないムツキとキサラギは特に。


 理由は、もう一つあった。しかし……自分の立場で口にするのは憚られる。


「偶然イラリオの若長に会えたから、細かいところまで話をつけてきた。戦士の三人と私を除き、他の住民はイラリオに投降する。ニンゲンの街まで行く必要はなくなったが、予定どおり君には全体の指揮を……」


「私も戦士。一緒に行っては、駄目?」


 無意識にウィルの裾を摑んでいた。すぐ気がついて、親指と人差し指を放す。思わぬ自分の行動に驚いている――珍しく潤んだ瞳を俯かせて。


「……君にしか頼めないことだ。他の者では任せられないか、そもそも信用できない」


 加えてヤヨイには、護らなければならない弟と妹がいる。せめてイラリオへ辿り着き、留守番をしているという妹のサツキに族長代理のヨルマと繋ぎをつけてもらうまで。彼女は死ぬわけにはゆかない。皆が新しい暮らしに馴染むのを見届ける義務がある。


「……やはり『王』は意地悪。そう言われたら、断れない……」


「すまないな」


 全く心が込められていない謝罪を遺して、男は小屋を去っていった。


 もう二度と、会うことはあるまい。


「お姉……」


「どこか、いたいの?」


「…大丈夫。みんなのことは、私が護るから」


 それから半時の後、計画は実行に移されることとなる。


 イラリオの若者二人が射殺され、その仕返しに若長リタがタルカスの配下を消し炭にした頃――この島で最も凄惨な戦が、密やかに始まった。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 ヤヨイ達を送り出して間もなく、ニウェウスの先鋒がブラッドに現れた。


 村の中へ誘い込むのではない。まずは出戦、それから一番近い魔獣の棲処へ。


「さあ、行こうか」


「じょ、冗談じゃねえっ!死にに行くようなもんじゃねえか」


「今すぐ死にたいのなら、それでもよいが」


 随分な言いようである。ブラッドの『王』は絶対だが、さりとて他の住民達にこのような態度を取ったことは一度もない。


 この連中がヒトの屑だからだ。乱暴者がのさばっていたときはその尻馬に乗り、疫病でいなくなれば自分達より強いヤヨイの弟と妹をヒト質に取る。昔の支配者達は盗賊行為を働くなど曲がりなりにも稼いだが、こいつらは村の中で粋がっただけ。悪党と呼ぶのもおこがましい、ただの卑劣な肉の塊としか言いようがない。


「上手くできれば、お前の命は助けてやる。できなかったときは……俺がお前を殺すから、そう思え」


「ひ、ひっ……」


「わ、分かった。分かりました」


「あいつらを誘い込めば、いいんだよな?」


「ああ。生死は問わん」


 お前らのな――心の中で、そう付け加える。


 元よりウィルには、この低俗な者共を生かしておくつもりなどない。仮に失敗しても進軍の足並みを乱して時間を稼げれば、ライセンは迎撃の準備を調えられる。一方的な復讐に燃えるタルカスが、ライセン侵攻を諦めるはずはないのだから。


 中央広場に陣取り、精霊の声に耳を澄ます。三者三様、それぞれ別の方角へ進むよう命じておいた。その時点で、敵に遭遇したとき逃げ込む先が決まる。


 東のワイバーン、西のウィル・オ・ウィスプ、ひとつ古い集落のグリフィン。北のバグベアだけは、ない。南より進軍してくる敵の位置から遠いのだ。


 東――出会い頭に射られて死んだ。西――何故か立ち止まる。命乞いでもしているのだろうか?ブラッド王ハルマーは外道だ、自分は義憤に駆られて逃げてきた。何なら道案内をする、とでも……やはり無駄。あのタルカスがアトルムを受け容れるなどあり得ぬ。


 残る一人は、成功したかもしれない。ひとつ前の集落があった場所までは辿り着いている。褒めてやってよいが、どうせウィルが行くまで生きてはいないだろう。


(よりにもよって、そこか……)


 驚いたことに、敵の戦力が最も多い。主力と呼べる数が集まっている。


 村の位置を間違えた――というより、古い情報を頼って動いたのだろうか。確かに一箇月ほど前まで、ブラッドの集落はあの位置にあった。それどころか更に情報が古くて、元はセシルの近くというから、今は何もないだろうと思ったのかもしれない。


 何にせよ、間抜けで助かった。これで作戦を始められる。とりあえず緒戦は『鳥獣の王』グリフィンから。そしてブラッド王ハルマーが姿を現し、散々に挑発して逃げる。次から次へ魔獣の縄張りを梯子し、少しずつ敵を削ってゆくのだ。


 元凶タルカスを仕留めたら、どこかでウィルも死ななければならないが。そのあたりは、さほど心配していない。どれも名だたる強大な魔獣だ。縄張りで目撃された後に行方を晦ませば、誰しもハルマーが死んだものと思うだろう。


 今の時点では、まだ本当に死ぬわけにはゆかない。あの『姿偸み』を殺し、養父とサラサの戦士達の仇を討つまでは。


 かつての集落に着いたとき、囮の男は役目を終えて死んでいた。


 グリフィンの姿も見えない。だが遠からずやってくるだろう。この場所は変わり果てた彼女の、変わり果てた故郷でもあるゆえに。


「…ここはお任せを。若長は先へ……」


「…うむ。任せたぞ……」


 この状況を最初から予想し、充分な戦力を率いてきたのだろう。側近と共に十名を残す。自分は百三十名ほどの本隊を引き連れて先へと進む。


 明らかに多い。サラサだけでは、これほどの人数を集められないはずだ。


(…アダムとアベルからも募ってきたか。これは……拙いな)


 皮肉なことだが、想像以上にナスカの人望が厚かったのである。


 もはやブラッドにはウィル以外の戦力がない。とりあえず村を焼き払うにせよ、このまま突き進むだろう。ライセンの手に負えないどころか、避難させたヤヨイ達に追いついてしまう惧れすらも。


「…『変わらざるもの』よ。汝が口づけは小さき綻びを生む……」


「…『変わらざるもの』よ。彼我を隔てよ……」


「…風の精シルフよ。彼の空を舞うものに乱れを。戒めの刃を」


 十名だけ残した戦士達も、無駄死にさせるつもりはないようだ。全員腕利きであり、攻守を分担することで魂消しの魔獣とも互角に渡り合っている。


 未だ決定的な状況には至らないが、タルカスの配下達は巧みだった。法術と精霊術によりグリフィンの行動範囲を制限、味方のいないそこに飽和攻撃を叩き込む。空を支配する偉大な鳥獣の王は、まともに近づくことさえ叶わない。


 業を煮やして一度空へ逃れ、突撃を試みるも結果は同じ。『断絶』の結界に阻まれ、その表面をなぞるように攻撃を逸らされてしまう。結界を変形させて包み込もうとしたが、グリフィンも素早くそれを察知して離れる。一進一退の攻防だ。


 他の魔獣が倒されても構わない。しかし、あの美しい翼を持つ魔獣だけは。


「…『変わりゆくもの』よ。我にマナを集めたまえ」


 まずは時間速度差を確保。マナとは変化の可能性であり、濃度が高い場所ほど時の流れが速くなる。その一方で世界の箍を外れた異質な変化が起きることもあるという。


 自滅は本意ではないゆえ、程々を保ちながら石礫を飛ばす。相対的に遅い時の流れからは岩の嵐と感じられる。落ち着いて連携するどころの話ではない。


 隊を率いる男が頷き、二人ほどウィルのほうへやってきた。時間速度差と距離があるため、実際はやってこようとしただけなのだが。


(どうするつもりだ……?)


 この時間速度差では、恐らく何をしようと無意味。敵がウィルの存在に気づかなかった時点で、向こうを倒せないまでも負けることはない。何をしてこようとも、必ず先手を打つことができるからだ。


 ところがニウェウス達は、ゆっくり両手を掲げたまま動かなくなる。


 いや――彼らは急いだつもりだろう。動きに妙な力感があった。


 二人の視線を追う。それはウィルの身体を貫き、遥か後方に向かっていて。


(…しまった!)


「か わ ら ざ る も の へ い こ う せ よ」


 ――『変わらざるもの』。平衡せよ。


 後ろから聞こえる間延びした声は、そう高らかに謳いあげた。


 時間操作はアトルムの常套手段。よもや伏兵がいるとは思わなかったが……あるいは最初から読まれていたのかもしれない。


 ウィルとその周り、三人のニウェウス達が作る直線の内側。


 法則を枉げて、あらゆる要素が等しくなる。


「…くっ!」


 三方からの同時攻撃。時の流れが揃った今、これを避ける術はない。


 あくまで普通のアトルムには。


「『変わらざるもの』よ!彼我を隔てよ!」


 自らを囲んで一瞬だけ『断絶』の結界を構築する。


 ネフラが得意だった技。記憶を失っている間は忘れていた――それらを全て思い出す。様々なことを教えてくれた、亡き養父の思い出と共に。


 土の精霊を宿し、それぞれの足元から繰り出した突起が三人を貫く。


 あと八人。ナスカが指揮する追っ手に比べれば、どうということはない。


「…お前は、何者だ……!?」


 アトルムは法術を使えないはず――驚くのも無理はなかった。


「私はハルマー。ブラッドを統べる王である」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 最初の三名に続けて、あと二人倒した後は一方的な虐殺だった。魔獣グリフィンの猛攻を防ぐには、ヒト手が足りなかったのである。


 自分が次の標的とならないよう、ウィルは少しずつ距離を取って魔獣とニウェウス達の戦いを観察した。そのまま呆気なく総崩れと思われたが、タルカスに指揮を任されていた男が思わぬ意地を見せる。グリフィンに摑みかかり、座標を固定して自分ごと『断絶』の結界により真っ二つに引き裂こうとしたのである。


「…『変わりゆくもの』よ!汝が腕は全てを抱く!」


 両者が突然、強烈な勢いで地面に叩きつけられた。ウィルの足腰にも同様の負担がかかっているが、事前に分かっていれば耐えられる。宙に舞う姿勢のまま受け身も取らず落下した魔獣と戦士は、幾つもの関節があり得ない方向に曲げられた。


 どちらも重傷である。しかし巨体の下敷きになり、そのうえ発動しかけの『断絶』に切り裂かれた戦士のほうは致命傷に等しかった。曖昧な意識を振り絞り、自らの役目を果たそうと必死にしがみつく様は……敵意や恐怖を通り越して痛々しい。


 事情は知らないが、タルカスに余程の忠誠を誓っていたのだろう。名前しか憶えていない戦士の瞼をそっと伏せ、彼の冥福を祈る。


(さて……)


 視線を横に動かす。暗褐色の羽毛が、ぬめりを持った黒に輝いている。


 さしもの魔獣グリフィンも無傷とはゆかなかった。


(これなら大丈夫。すぐ治療を施せば)


 体格の割に、流れた血の量は少ない。応急処置を行い、ただちに傷を塞ぐ。ウィルにできるのはそれだけだが、魔獣の生命力なら助かるだろう。


 はっきり聞かされたわけではない。実の母クレオは、魂消しの魔獣となり戦った。その後どうなったのかは、リタさえも知らないこと。


 だが……何となく分かる。自分達は、彼女のお蔭で生きている。


「…『変わりゆくもの』よ。彼の者に癒しを……」


 羽毛の塊が身動ぎした。が、まだ万全ではないゆえ起き上がらない。


 あまり傍にいるのは危険だ。襲われないうちに離れておく。


 心残りはある。辛抱強く向き合えば、いつか馴れてくれるのではないかと。だが今は、そのようなことを試している時間がない。


 未練を捨てて振り返る――そしてウィルは、自らを包み込む矢雨を見た。


 咄嗟に風の精霊を宿し、できるだけ多くの矢を逸らす。しかしグリフィンの巨体を護りきるには、まるで足りない。


(まだ伏兵がいたか……!)


 それ自体はあり得ると思っていた。背後に一人いたことを知ってから。


 だが仕掛けてくることはないだろう、とも。創術の加速対策に数名、その程度が生き残ったところで何ができる?一度撤退して情報を持ち帰るのが定石だ。


 ゆえに驚いたのは退かなかったこと。魂消しの魔獣を狩って名を上げたいと考えた?若しくはブラッド王ハルマーの首級?あえて名乗ったのは、先へ進んだ者達をこちらに呼び戻す狙いがある――恐らく最も効き目があるだろう撒き餌を使って。


 どれも間違いだった。驚きの理由は、瞬時に全く違うものへと変わる。


「…本当に王をやってるんだな。魔獣まで庇うとは思わなかったが」


 声の主と物言わぬもうひとりが、それぞれ茂みの向こうから姿を現す。


 見覚えが。聞き覚えが。その雰囲気。動悸。語り尽くせない。


 今なおネフラの多くを占めるもの。


 ユリアナとセイン。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「どうした、久しぶりの再会だろ。家族に言うことはないのか?」


「…『変わりゆくもの』よ。我にマナを集めたまえ」


「まあ、そうだよな。捕まえてから、じっくり訊いてやる」


 割り切りがよい。もっと時間を無駄にしてくれればという期待は外れた。


 いずれにせよ同じ。ユリアナとセインの間を駆け抜ける。攻撃が交差する一点を、二人の予想より早く。よもや自ら向かってくるとは思うまい。


(…なに……!?)


 ところが、ユリアナとセインは退いた。最初からウィル――ネフラの動きを読んでいたかのように。一撃も繰り出さず、ただ後ろに逃げただけ。ウィルが足を止めれば、二人もその場に留まる。これはどういうことか。


 右へ動けば右へ、左に走れば左に。後退すれば間合いを保とうとする。


(……そういうことか)


 内心、失笑する。それでは駄目だ、と。


 正直者のユリアナとセインは、動きのほうも正直すぎる。


 何のことはない、先程タルカスの配下達が取った戦術と同じなのだ。


 未だ姿を現さないリーネが、その事実を物語っている。


 二人に背を向け、全力で駆け出す。慌てて追ってくるが、もう遅い。


「あっ……!?」


 走り抜ける勢いのままリーネの身体を横抱きに攫う。そして円の動きを利用、思いきりセインのほうへ投げ飛ばした。受け止め損ね、縺れあって転ぶ。


 容赦なくネフラを罵ってきたユリアナの口は、未だ閉ざされている。ひたと見据え、音もなく迫る。ただ、迫る。感情が見えない。


 愛用の小剣を振り下ろしてきた。ウィルも短剣を抜いて迎え撃つ。事情を知る者以外、これが夫婦だとは思わないだろう。


(このままでは持たんな)


 接近戦を挑んだユリアナの判断は正しい。自らの時間速度を上げるマナ収束も、肉体の内側にマナを閉じ込められるわけではない。息が届くほど近づけば、敵にも恩恵を与える。結局何も変わらなくなってしまうのだ。


 ウィルが体勢を崩して膝をついた、そこへ上段からの斬撃。辛うじて防いだが、やはり続きそうにない。力ずくで押し込みながら、半眼の妻が呟く。


「あんた、リーネを傷つけなかったよね」


 動けないのをいいことに、なおも言葉で嬲ろうとする。


「やればできたはずなのに。若長の取り巻き共は、容赦なく殺してる。元からそういう奴だったけど、あんたに良心なんかないんだ」


 支える腕の重みが増す。これ以上は限界である。


 言葉とは裏腹に、ユリアナの表情が歪む。


「…ネフラなんでしょ?どうして何も言ってくれないの。私達に助けを求めてくれないの。私達は家族なのに……どうしてアトラのほうを選んだの!」


 ウィルは答えない。何も答えられない。


 ユリアナは拒絶と受け取った。更に力を込める――元々彼女はネフラより力が強い。そろそろ本当に危なかった。このままではウィルの頭が割れる。


「よせ!義姉貴!」


 セインが叫ぶ。転んだままのリーネが手を伸ばす。刃を逃れようとウィルの姿勢が後ろに傾く。避けられたとしても一時的だろう。追撃があれば、今度こそ命はない。


 刃先がウィルの胸に届く寸前、何か大きなものがユリアナを撥ね飛ばした。暗褐色のそれを見間違えようはない。魔獣グリフィンだ。応急処置を施しただけだが、あれほどの傷を負ってもう動けるのだろうか。恐るべき生命力である。


「邪魔を……するな……っ!」


 分厚い羽毛に剣を突き立てる。しかし思うようにゆかない。ヒト相手には有効でも、獣の身体を傷つけるには刀身が細すぎるのだ。


 辛うじてしがみつく。叩きつけられたら、気を失ってお終い。何度も急旋回、ユリアナを振り落とそうとする。想像が当たっていたのだろう。上体がグリフィンの羽毛から浮く度、リーネが甲高い悲鳴をあげた。


「義姉さん!」


 ウィルから注意が逸れている。離脱の機会を逃してはならない。


 慎重に足を運ぶ。枯れ枝などを踏んで余計な音を立てないように。雪はまだ積もっておらず、足跡を追われる心配もない。木立に紛れたところで一目散に駆け出す。


 セインに気づかれた。二の足を踏む。ユリアナが気になるのだろう。


「行って!」


 遅れて状況を察したユリアナが叫ぶ。


「こいつは私が引き受けた!あんたはネフラを!」


 枝葉の中へ飛び込み、空を舞う巨体からの離脱に成功。擦り傷だらけになったが意識はある。一番低い枝まで伝ってきて降り立つ。かなりの衝撃を受けたのだろう、まだ足元がふらついている。まともに動けるのか。


(どう考えても無理だろ)


 だが、もう一度ネフラを見つけられる保証もない。


 逡巡は刹那。急ぎ、姿を消した方角へ走る。


「一人では無理だ!リーネは残れ!」


「は、はい!」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 古い集落を離れたウィルは、東を経由して北へ。


 争いの跡はなかった。しかし恐らく運がよかっただけだろう。魔獣の正確な居場所はアトルム、それも棲息域の只中にあるブラッドの民しか知らない。他の集落では、今も縄張りに迷い込む事故が結構ある。不案内なニウェウス達はなおのこと、ライセンへ辿り着く前に一戦を余儀なくされるはず。


(早く追いつかなければ)


 気が急く。だが、まずは追っ手を撒いてからだ。


 途中で木に登り、枝を伝って移動する。『敏捷』と『重力低減』の奇蹟を願ったゆえ、折れたり時間がかかったりということはない。最初に東へ走ったときも、加速して相当な距離を稼いである。ワイバーンの縄張りすれすれまで。つまり散々時間をかけて追いかけた挙句、無駄足にしてやろうという算段だ。


(このあたりでいいか)


 適当な枝の上で一息つく。低い位置から二股に分かれた杉の巨木は、少し落ち着いて休憩を取るのに丁度よい。


 水筒を取り出し、一口飲む。ライセンを出たときから使っている品だ。これを根拠にされたら言い逃れはできなかったろう。過去に繋がりそうな例は他にもあったが、全部何らかの説明がつくものばかり。それゆえ見落としてしまった。拾われたとき幼かったとはいえ、セシルで過ごした記憶を忘れていたことも大きい。リタの顔が分かったなら、それ以前に母の膚が浅黒いことを憶えていたなら。こうはならなかったろう。


「…今更、考えても始まらないことだ」


 わざと声に出して呟く。自分が今すべきことを思い出すために。


 『精霊の目』で戦況を確認、次の行動を検討する。現象精霊の神宿りになりかけた経験が活きているようだ。以前よりも詳しく、遠くまで周辺の状況が分かる。


 一番目立ったのはタルカスの軍勢。数が多いゆえ当然であるが。奇妙なことに、あれから再び二手に分かれている。八割はライセンへ、二割はイラリオを目指している。


(……甘く見たものだ。その数でネロ族長を倒せると?)


 魂消しの魔獣とは、本来それほどまでに強い。あのグリフィンは変態してから最も日が浅く、かつヒトの意識と記憶を完全に失うだけの時間が過ぎている。つまり魂消しの魔獣としては、今が最も「弱い」時期なのだ。『魂消し』を用いた直後の創術師は、自分の意識が消えるまでの間、強靭な肉体と術の力を併せ持つ。


 これがいかに恐ろしいことか。巨大な魔獣が高速で動き、必殺の一撃を次々と繰り出す。回避はおろか、満足に姿を捉えることすら叶わない。


 念のため、三人と一羽の所在も確認しておく。


 ニウェウスの領域と近い川原に二つ。元は疫病の魔獣フンババの棲処だったあたり。未だ他の魔獣が寄りつかないことを考えれば、その行動は正しい。グリフィンも無理を悟ったのだろう、自身の塒に戻っている。


 これでしばらく持つ。ユリアナとリーネは、彼がどこへ行ったか知らない。次に会うのは、恐らくタルカスの軍勢を止めるとき。あの三人は自らの意思で動いている。状況次第だが、単純な敵にはならないはず。


 最後にセイン。上手く撒けたか確認する――と、ここで妙なことに気がついた。


 川原近くの気配二つ。これがセインとリーネだった。経緯は不明だが、囮と追跡の役割を入れ替えたらしい。『目』の精度は、契約した元素精霊の数に比例する。見知った個人の判別は六柱あれば充分。ユリアナとリーネを、況してや男と女を間違えたりしない。


(追手はユリアナか。とすると厄介だな)


 執念深さもさることながら、いつの間にかネフラの後ろを取っていたことがある。居場所が分かった理由を訊いても勘としか答えなかったが。こちらの術中に嵌まったセインが投げた匙をユリアナが拾ったのだろう。


 捜索範囲を広げる。油断すると虚を突かれるかもしれないと思ったからだ。しかし再び妙なことに気づく。どこを捜してもユリアナの気配が見つからない。一定以上離れれば感じなくなるが、修業の成果で森の半分が有効範囲内。時間的に不可能である。


 諦めたとは思えない。それができるなら、このような敵地まで来なかったはずだ。


 『精霊の目』が有効範囲内にいる者を判別できなくなる原因は二つ。一つは遠く離れすぎること、もう一つは眠りに就くなど対象が意識を失って……


(………っ!)


 嫌な予感がした。想像に過ぎない勘を事実が裏づける。


 古い集落を挟み、ここと反対の方角――西の沼地。『始祖精霊』ウィル・オ・ウィスプの縄張りに、沈黙する気配がひとつ。


 タルカスの配下や近隣集落の誰かが迷い込んだのか。それならウィルの関知するところではない。平時であっても助けたかどうか。木から降り、着地と同時に急いだ。全く動かないのが気になる。忽然と消えたユリアナの行方も。


「『変わりゆくもの』よ、我にマナを集め給え。『変わりゆくもの』よ、我が双脚に倍する力を。『変わらざるもの』よ、汝が指は彼方と此方とを繋ぐ!」


 目の前にある樹木の並びが突然変わり、後ろから凄まじい轟音が響いた。原因は振り返らなくとも分かる。空間の一点と一点を無理矢理繋いだことにより、余った地面と樹木が弾き出されたのだ。樹木の密度が異様に高い小さな丘ができているだろう。言うまでもなく危険、高速で駆け抜けられるからこそ巻き込まれずに済んでいる。


「…『変わらざるもの』よ、汝が指は彼方と此方とを繋ぐ!」


 足元の僅かな盛り上がりを感じた刹那、木と木の隙間へ飛び込む。どうしても方角の誤差は生じるが、時折『精霊の目』で未確認人物の居場所を確かめながら。


 普通に急いでも一時間はかかる距離を、ウィルは五分ほどで駆け抜けた。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 底なし沼とその周辺。元より危険が多く、誰も立ち入らない森の一角が『始祖精霊』ウィル・オ・ウィスプの縄張り。


 ここで云う始祖とは、最初の精霊という意味ではない。アトルム始祖四氏族の名前の由来ともなった四人――ライセン、ウォルト、アンバー、リアムのことを指す。己の死期を悟った彼ら彼女らは、魂消しの魔獣に転生してニンゲンやニウェウスの侵攻を阻む守護者となることを望んだのである。


 ところがアトルムの子孫達は、思わぬ逞しさを発揮して勢力を拡大した。


 四始祖が想定した防衛線を越え、更に南へ東へと。獣人族の緩衝帯まで肉迫し、やがて友好的な関係を築き。アトルムの生活圏が劇的に拡がった結果、護ろうとした末裔達にまで被害が及ぶようになった現状は皮肉としか言いようがない。


(ユリアナ……どこだ……!)


 沼の周辺を捜しまわる。水の精霊力から程近く、生きたヒトの気配。このままでは、いつ引きずり込まれるか。ヤヨイの話では、明滅する光に魅入られて自ら沼へ足を踏み入れる者もいると。幸か不幸か、今回は気絶のほうを引き当てたようだ。


 少しでも役立つ情報はないか。そう考えて、意外な人物の助言を思い出す。


 ティターニアの元を訪れたとき。タルカスの軍勢を魔獣の棲処に誘き寄せる作戦への協力を要請すると、断られはしたものの別れ際に奇妙な忠告を賜った。




 ――膚にひりつく感じを覚えたら、その間は下を向いているようにしなさい。




 よくは解らなかったが、何か見てはいけないものに近づいた徴と思われる。そして古の魔獣か魂消しの魔獣に関係があること。グリフィンとワイバーンは、単純な身体能力に優れた魔獣だ。疫病の魔獣フンババが倒されたことはティターニアも知っていよう。


 すなわち残る二体いずれかの対処法を教わったのだ。バグベアは視線に特殊な力を持ち、ウィスプは宙を漂う光の球体。どちらも関係がありそうではないか。


 問題は下を向いたら、敵の姿が見えないこと。多少なら動けるが限界はある。『精霊の目』だけで肉眼並みの空間識を得られるルークほど器用な真似はできないのだ。視力が正常なウィルは、どうしても見えるものに頼ってしまう。


 顔を上げそうになっては戻すの繰り返し。直接見たら沼に引き込まれるかもしれない。さりとて急がなければ目を覚ましたユリアナに殺される。今なおネフラだと信じている様子だが、それだけに裏切り者と見做される可能性は高い。


 だとしても見捨てる選択はなかった。ユリアナは妻であり、そうなる前も元々家族だ。この作戦を思いついたときから、家族や仲間と戦うことは覚悟していた――彼女らを護り、自分自身も生き延びるために。


 だから今は、心を強く持って動かなければ。重圧に耐えながら慎重かつ素早く。視界の狭さを補うため、より集中して『精霊の目』の精度を高めつつ速足で進む。すぐ隣にいるのを見落とすのではないか?そう考えると実にもどかしい。


(……いた!)


 俯せに倒れるユリアナを発見。光の強さが音もなく入れ替わり、混ざって様々な彩りに染まる。赤、青、緑――基本は何故か三色。そして皮膚にひりつく感じを覚える。ティターニアが伝えたかったのは、ウィル・オ・ウィスプに遭遇したときの対処法だろう。念のため視線を背けておく。間接的にでも影響を受けるかもしれないと思ったからだ。


 ユリアナの位置は左斜め前、概ねセラの方角。こちら側が影になっていたゆえ、魔獣はその延長線上にいる。意識して顔を背け、沼の方向へ突き進む。既に操られているのでは?足を止めてみる。どうやら今のところは大丈夫のようだ。


 水の気配が強くなる。かなり沼に近づいたらしい。しかし未だ足元にユリアナの姿は見えない。先程は動転して気づかなかったが、方角は間違っていないはず。とにかく慎重に、手が届く範囲の反対側だけを見るようにして。


 逸る気持ちとの戦い。ここまで来たら、あと少し。途中から引いてきた線を見るに、概ね真っ直ぐ進んでいる。


(…落ち着け。慌てるな……)


 少しずつ光が増してくる。雪の照り返しが明滅、恐らくウィスプはウィルの存在を察知した。瞼を閉じ、『精霊の目』に集中する。膚をひりつかせているもののせいだろうか、剝き出しの腕や地面を手探りする指先が痛む。


 色の違いは分からなくなった。これで催眠効果も消えるはず。幻影術の一種だろうが、子孫のアトルムに全く伝わらなかった理由は何なのか?そのような些末事を考えていられる自分の余裕に驚く。


 と――温かく柔らかいものが指先に触れた。無遠慮に何箇所も掌を当て、全体の形を確かめる。説明するのは難しいが、間違いなくユリアナだ。


 両脇に手を差し込み、そのまま地面を引き摺って後退する。無様に見えても、一番簡単かつ迅速な方法だ。私は軽いんだから担ぎ上げて運べなかったの、くらい言われそうである。そんな他愛ない話をできる日が再び訪れるのなら。


 精霊の視界では、四つの光が揺らめいている。照り返しを肉眼で見たときは三色しか分からなかったが、存在するのは事実らしい。


 同じ色の光が二つあるのか?それとも四つ全てが次々三色に変わる?疑問は尽きない。その間も四つの光は、風に揺らめく焔のようにゆらり、ゆらりと。大きくなったり小さくなったり不思議な調べを奏でている。


(そういえばリーネがエリクの館で使っていたな)


 ウィスプの動きは、彼女の幻影術と少し似ていた。目標を催眠状態に陥れ、様々な命令を与える。精霊術や法創術を介したほうが高度な術を使えるが、絶対そうしなければならないというものではない。それらは飽くまで道具に過ぎないのだから。


 あのときは助かった。警戒厳重な罠屋敷の門番を一時的に操り、符丁の類を聞き出した。それによりニンゲンの様々な本音を知ることができたのである。


「……………」


 溜息ともつかぬ小さな声。


 意識が遠くなる。どことなく淡い、そうと分かる夢でも見ているような。


 ウィルの両手が不意にユリアナから離れた。本当に軽いそれは、控えめな音を立てて地面に崩れ落ちる。しばらく呆然としていたが……今までと反対の方向に一歩を踏み出し、躓いて転ぶ。足元に転がる邪魔なもののせいであり、そのお蔭で怪我もなかった。


 何事もなかったように起き上がると、またゆっくり進む。薄く開いて正面を見据えた瞳は、赤、青、緑に瞬く三つの光球を映している。


(……見え、ない……?)


 思考が錯綜する。迷走する。そもそも自分は何を探していた。


 見つけたつもりになっていたけれど、あれは勘違いだったかもしれない。自分の求めるものは、この先にきっとあるのだから。早くしないと誰かに先を越されてしまう。


「……………」


 一歩。また一歩。


 ゆっくりと着実に。目指す場所へ近づいてゆく。


 膚の痛みは増したが、気にすることもできなくなっていた。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 観客をひとり得て、水の上の舞台も華やぐ演目に変わる。


 同じ火でも、こちらは躍りあがる紅蓮。何もかも焼き尽くさんばかり、見る者の闘争心を呼び起こすもの。しかしウィルは立ち止まったまま。術の対象に元から乏しい感情を増幅できるほど幻影術は万能ではない。


 更に光の調子が変わる。青から紫を主体にした熾火の微かな揺らめき。時折濁った緑や褐色が混じる。心の沼底から泥を掬い上げれば、このような彩りに出遭えるだろうか。生命あるもの全てを襲う、怨念と憎悪の暗示が仕組まれている。


 闘争心と好悪の情は別物だ。競争は好むが敵に感情を抱かない者。敵を憎むが争いを好まない者。どちらかと言えば、ウィルは後者だった。


 踵を返し、ゆっくり近づいてゆく。


 憎むべき敵の元へ。気を失い倒れている今こそが好機。燻る静かな殺意に導かれ、腰から短剣を抜いた。傍に寄り、顔の見えない位置で屈む。苦しそうに寝返りを打つと、細く白い首筋が顕わとなった。それを目掛け、全力で振り下ろす。


「ネフラ=サラサ!」


「!?」


 刃先が止まる。既に届いており、やや食い込んでいた。しかし致命傷ではない。今すぐ適切な処置を施せば問題ないだろう。


 どこかで聞いたことのある声が、なおも呼びかけてくる。


「目を覚ませネフラ=サラサ!お前の目的は何だ?」


「…わたしの、目的……」


「そうだ。お前の目的だ。ティターニアに大口叩いてみせたのを忘れたか!」


 ぼやけた半透明の領域を顔の前に浮かべた人物、声から男だと分かる。その者の合図に従い、やはり顔の見えない数人が駆け寄る。まだ暗示が解けきらないウィルは混乱、ゆえに彼らの敵ではない。容易く腕を極め、それから気付けの術を施す。ウィルの意識が戻る頃には、二人を抱えてこの場を離れようとしていた。


「…あんた達は……」


「ようやく気づいたか。火種に祀り上げられし欲深き白魔の子よ」


 最初の声が嘯く。別に怒っているわけではないらしい。そういう話しかたをしてしまう癖があるようだ。どうにか瞼を開くと、やはり見覚えがある。女王ティターニアに付き従う、監視という名の護衛達。


「……ああ」


「フーベルトゥスだ。長いからフーベでいい」


 そういえば名前も聞いていない。あのときは必要なかったからだが、向こうも名乗ろうとはしなかった。他の四人は、今なお黙っている。


「念のため来てみれば、この様だ。ここで貴様が死ねば、戦を起こしただけで終わる。無駄な血を流しても千年前と変わらぬ」


 責任を果たせ、ということだ。最初は巻き込まれたのかもしれないが、それを積極的に利用してやろうと考えたのはウィル。途中で投げ出すことは許さない。


「…ティターニアからの言伝だ」


 ウィル・オ・ウィスプの伝承。先の会見で助言を与えたが、後から充分ではなかったと思い直したらしい。あのときは時間がなかったのと――弱肉強食のブラッドに住む者達が、他人のために便宜を図ってくれるか心配になったのだ。


 ティターニアの判断は、結果として正しかった。魔獣の跋扈する土地を切り拓いた連中は疫病で死に、その話を聞く機会も永遠に失われていたからである。


「ウィル・オ・ウィスプの正体。これは知っているな」


「ああ。だが疑問がある。何故三つしか見えない?『精霊の目』では四つあるように感じたのだが」


「…それが原因か。普通は目を閉じれば大丈夫なのだが、お前に対しては誤った助言となったかもしれん」


 半透明の領域を通して、千変万化たる光の饗宴を目の端に捉える。色彩と輝きを抑えるもの――恐らく法術だろう。これもティターニアの知恵か。


「俺も詳しくは知らぬ。だが光というものは、目に見えるだけではないそうだ」


 あの膚を刺すような感覚こそが、第四の光によるものだという。あれを長時間浴び続けると、奇病に冒されて最後は死ぬとも。見ればフーベ達は目深に頭巾を被っており、乾季にしても過剰なまでに膚の露出を抑えている。防寒用のマントで頭から首を覆いつつ、ウィルはなるほどな、と溜息をついた。


 そして四つの光には周期性があり、見る者に様々な暗示を施す。意識の薄弱を経て闘争心の高揚、際限なき憎悪の植えつけ。それらはウィルも体験済みだ。


「言伝は、もう一つある」


 幻惑の光が届かない木立の中に入ると、フーベは落ち着く間もなくウィルに告げた。


 怪我などもなかったゆえ、ウィルの身体に問題はない。だが同じく無傷に見えるユリアナは、未だ目を覚まさなかった。気がかりではあるが、今ここで顔を合わせても泥沼の展開になるだけ。木の幹にもたれて眠る妻の顔を遠巻きに見つめる。


「…すまない。それで、もう一つというのは?」


「今から伝える。お前に対してだけではないのでな」


 フーベが風の精霊を宿す。他の四人もそれぞれ法術の祝詞を唱え始めた。全部は聞き取れないが、恐らく音に関するもの。戦場全体に言葉を届けるつもりなのか。


 やがて準備が調ったのだろう、無言で頷く仲間にフーベも応える。威厳ある壮年の声が、森と鈍色の空を震わせる。




 黄金樹の麓に寄り添う者達よ。我は女王ティターニアの代理人である。

 これよりニウェウス四氏族の決定を伝える。繰り返す、ニウェウス四氏族の決定だ。

 当然カイン氏族も含まれる。文字どおりニウェウスの総意に他ならない。

 我らが朋友ナスカ殿は、アトルムの一派ブラッドの謀略により非業の死を遂げた。

 女王をはじめ、ニウェウスにこのことを許すつもりはない。

 しかし我らの敵はブラッドのみ。またナスカ族長の仇以外と敵対する意思もない。

 女王と四氏族は、ナスカ族長の遺族に仇討ちを認めた。

 その者らの名はリーネ、ユリアナ、セイン。

 仇討ちの対象は、ブラッドとそれに味方する者。他のアトルムに危害を加えるニウェウスがいたら、そやつはその時点で氏族の保護を失う。

 ただし、前述の三名を害する者には、断固として報復する。

 女王ティターニアの名において。フーベルトゥス=カイン。

 繰り返す……




 もう一度同じことを伝え、風の精霊を解放した。


 戦場はおろか、森の外縁を越えて島中に届いたはずである。


 事実上の和平申し入れに等しい。罪なきアトルムは敵ではない――女王と四氏族の名において、そのように宣言したのだから。


 大半のニウェウスは、もはや戦に疲れている。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「…んっ……」


 ユリアナが目を覚ました。しかし何やら様子がおかしい。


 目の焦点が合っておらず、地面を手探りしている。


(まさか……!)


 雪を踏む音に、ユリアナの肩が跳ねた。駆け寄ろうとするウィルを制するフーベ。無言で首を横に振り、この場を離れるよう促す。


「……我々はカイン氏族の者だ。貴殿はユリアナ=サラサで間違いないか……」


 ユリアナにフーベの仲間達が話しかけている。声でネフラと知られる惧れを考慮し、気を逸らせてくれたのだろう。


「…あの女はティターニアの元で保護させる。お前は、自分の為すべきことをやれ」


「……………」


「しっかりしろ。生きてさえいれば、また……」


「会えると思うか?『色無し子』の俺が?」


 フーベは答えなかった。慰めの言葉より誠実な沈黙もある。


「……すまない」


「謝るな。この先それでは持たぬぞ」


 苛立たしげに溜息をつく。


「…ブラッド王ハルマーは死なねばならぬ。どのような形であれ、影ひとつ残さずにな」


 俺に任せろ、と言いおいてユリアナの元へ向かう。少し離れてウィルも後に続く。ここは他人の口を借りるしかない。


 丁度フーベの仲間達が、ユリアナに事情を聴いているところだった。


「…仲間二人と一緒にブラッド王を追っていて、裏をかかれるかもと思ったから私は先回りしたの。でも奴が来る前に……強烈な光を浴びて、それで気を失って」


 ひとつだけ嘘をついている。リーネとセインにはウィルを追う余裕などなかった。彼がネフラではないかと疑っているから、その前提で行動を推測したとは言えない。ブラッド王ハルマーがネフラだと知れれば問答無用で殺される。家族以外の他人の手で。


「俺達が来たのは、その直後だったらしいな。倒れているお前を見つけて、そこにブラッド王らしき男もいた。中和結界を持たない彼奴は、そのとき既に幻惑されていた……捕らえる間もなく沼の底へ落ちていった」


 こちらは概ね正しい。ブラッド王ハルマーが今も生きていることを除いては。


「それがお前の仇である確証はない。全く実感もなかろう。だが……」


 既に仇討ちを果たしている、と。すなわち彼女の戦いは終わったのだ。


「え……?」


「箍の外れた連中はアトラにでもくれてやれ。目の治療が先だ」


 これ以上はニウェウスの問題ではない、とでも言わんばかり。業腹な物言いだが、この場合はウィルにとっても好都合である。


「…あ……あ」


「立てるか?ティターニアならば、お前の目を治せるだろう」


「……い………!」


「おい、どうした?おい」


 それきり動かなくなった。目を見開いたまま、呼びかけにも反応しない。


「……っ」


「早く行け。ここでお前にできることはない」


「……………」


 ウィルが去った後、戦士達はユリアナの搬送を始める。


 ヒトの身体は存外重い。驚くとは思ったが、よもや自失状態にまで陥るとは。自らの手で養父の仇に引導を渡せなかったことが、それほど口惜しかったのか……?


 フーベルトゥスらティターニアを見守る戦士達は、全員家族がいない。皆アトルムとの戦で親を亡くした子供達である。成人して十年もすれば、別の何かを見つけて女王の元を離れる。とはいえ常に例外はあるものだ。


 手に入れる者もいれば、失くしてしまう者もいる。後者はこれから更に増えるだろう。得たことも失ったこともない男は、目を細めて俯く。


「あの女は、何の因果か……」


 失くした者同士が知らずに寄り添った結果、新しく得たはずのものを失った。


 これでよいのか。そうまでして誤りとは糺さねばならぬのか。


(ならば俺は、正しさの犠牲を少なくすると誓おう)


 両手を強く握りしめる。墜ちゆく全てを一つたりとも取りこぼすまいと。さすればいつの日か――最も罪深き咎人さえ、赦されるのではと信じて。

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