第7章 水底
南東の最果てに島がある。半分を森が占め、山が一つあるだけの小さな島だ。
海に囲まれているが、山の洞窟を通ってゆけば辛うじて他の陸地と繋がる。それゆえ辺境の割にヒトの往来も多く、ここで見られない人種はないほど。そもそも世界にある人種は五つ、そのうち二つがこの島を故郷にしているというから驚く。
獣の身体的特徴を持つ獣人。その部位は形態により様々だが、大抵は耳と尻尾と一部体毛や鱗。中には全部などという変わり種もいる。性向は単純、概ね賢くない。
美しい容姿と笹の葉の形をした耳のエルフ、そのうち金髪翠眼白皙のものをニウェウスという。獣人よりは劣るものの優れた身体能力、総じて高い知能が特徴である。
この二つが、概ね先住民だ。大陸東部に住み、洞窟で鉱石を拾っていたドワーフが出入りするようになり、前後する千年前に銀髪と赤い瞳、黒い膚のエルフ――アトルムが上陸した。ドワーフは定住しなかったゆえ問題視されなかったが、ニンゲンの迫害を逃れてきたアトルムと彼らに酷似するニウェウスの争いは今現在も続いている。両エルフ族の間に近親憎悪の念があることは否定できない。
そして最も新しい住人がニンゲンである。ヒトの原種であり、数が多く繁殖力も強い。特段秀でたところはないが、能力の個人差が激しく時折極端に優れた個体が現れる。
まさにそのような英雄に率いられ、今にも沈みそうな船で現れたのが百年前。素朴な獣人から土地を掠めつつ、神の末裔を自称するニウェウスには節操なく下手に出た。ドワーフとは馴染みながらも彼らと親密なアトルムを毛嫌いする。
表向きの情勢は、ニウェウスに敬意を表すニンゲンと彼らの存在を黙認するニウェウスの緩やかな協力。ニンゲンとアトルムの間にドワーフ、全ての外側に獣人。
これだけ聞くとアトルムが滅ぼされて終わりに見えるが、話はそう単純ではない。ドワーフは同じ魔神を信仰するアトルムに同情的であり、ニウェウスもアトルムの次は自分達が攻められるのではないかと疑っている。
加えてアトルムのみニウェウスに姿を擬装できることが事態を複雑にした。紛れ込んでいるのは確実にもかかわらず、街中のアトルムは大人しいこと。ドワーフの武装商人を介して持ち込まれるアトルムの産品は、ニンゲンにとっても得難いこと。単純な力の均衡だけで語れない現在のリトラ島は、歪な三竦み状態にあると言ってよい。
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ニンゲンの国リトラは、三つの都市とその周りを囲む農村から成る。
第一の都市ウゥヌス。ニンゲンの入植者が最初に築いた居留地。現在は政治の中心。
第二の都市ドゥオ。ニンゲンの入植者が最初に上陸した入江。現在は島の玄関口。
第三の都市トレス。内陸に向けた守りの要。衛視と冒険者の数が特に多い。
第四の都市として造られたクァトゥオル砦は、とうに解体されてなくなった。砦と呼ぶのもおこがましく、エルフの森に肉薄して建てられた数棟の丸太小屋である。
政治都市ウゥヌス、執政官公邸。その執務室に、六人の男女が集まっている。
一人は館の主、執政官エリク。あと四人も国の評議員を務め、特に有力と言われる者達だ。セラ神社宮司レオリオと『混沌の魔女』ヒルダ、この二人はエリクが現役冒険者だった頃の仲間。トレス建設の立役者でもある真言法師ジーナ、島の経済に多大な影響力を持つ運輸業組合の長リウ=ズーシュエン。評議員は他にもいるが、国内の意見は概ね彼らに収束する。政府、神社、冒険者、住民、実業家それぞれの視点から。
最後の一人は、この国の民ではない。それどころかニンゲンですらない。
アトルムの集落イラリオの若長リタ。それほど長く付き合った呼称ではなく、彼女の経歴は身分の変遷そのもの。今は存在しない集落セレスの若長から冒険者を経て、再びイラリオの若長に至る。大きな失意を二度、どちらも心を折られかけたが、その都度大切なものを見つけて抗ってきた。彼女を跪かせるのは運命でも難しい。
リタは今、最初に見失った大切なものを取り戻した。それを冤罪から救い出すために、未だ緊張関係にあるニンゲン達の警戒厳重な真っ只中にいる。
「それで話というのは?窓硝子を弁償してくれるのだろうか」
館の中で敵対するニウェウスを見かけ、窓を破って脱出したときのことを言っている。
エリクは感情が読みづらい。現役時代は『氷』と呼ばれたこともあるという。
リタとの間にレオリオが割り込む。
「お前の冗談は分かりにくいんだよ」
「…そうか」
「そうだよ。こいつ固まってんだろうが」
やや大袈裟だが、少なくとも寛いだ様子はない。全員で円卓に着いたことも、非常事態に緊張しているだろう客人への配慮。エリクの冗談は、それらを台無しにしかねない。エルフの集落は、どこも金銭的に貧しい。
「……申し訳ない。弁償は私が必ず責任を持って」
リタの謝罪をヒルダの笑い声が遮った。
「いいのよ、そんな……外交は国と国との秘めごとだもの。何があっても処理できるわ。ねえ、エリク?」
執政官の不器用な首肯を、先達二人が補足する。
「金の使い途としては、些か愉快ですな。ニンゲンは老いやすく、あなたより遥かに若輩の儂が窓ひとつ破ることもできません」
「ヒルダの言うとおりだね。こんなところで揉める意味はないさ。それよりあの坊やが、何か派手なことをやらかしたんだろう?」
ジーナが対面の老人をじろりと睨む。あの坊やというのは、先日この館にリウ老人が連れてきた青年のことだ。
「信じ難い話ばかり聞こえてくるね。サラサの族長ナスカは息子に殺されただの、その息子が実はアトルムだっただの。または全然息子でも何でもなくて、ブラッドの刺客がライセンとサラサの両方に潜り込んでいただの」
「さらに信じ難いのもあるぜ。それら全部があのネフラだって話だ」
「我々は混乱している。どの噂が真実を含み、どの噂が意図的に流された虚偽なのか。それを見極める手伝いをしていただきたい」
エリクが締め括った。
すなわち情報の共有である。互いに全部を明かせないのは承知のうえ。相手の目的や価値観を知ることは、どのように騙してくるかを知ることに他ならない。
「…断片的だな。私も直接見聞きしたのではないが……」
多くは件の護りたい人物、つい先頃まで憎んでいた男から聞いたもの。不倶戴天の敵から恩人の罪を知らされる、普通なら信じるどころの話ではない。
だが信じた。理屈は通っているうえ、その敵が後のことを頼まれた友の忘れ形見と気づいてしまっては。
何を伝え、何を伏せるべきか。ライセンの若長バルザと綿密に口裏合わせをしてきた。友の忘れ形見を生かし、不毛な戦を終わらせるために。
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「結論から言う。全ての黒幕は『姿偸み』だ」
「どういうことだよ。『姿偸み』ってアレだろ?」
即座にレオリオが反応する。引退したジーナ、そもそも冒険者ではないリウ老人も知っていた。自称『異世界から来た冒険者』、世間の評価は『実力があるのに大法螺吹き』という微妙な男。しかし彼が有名なのは、そのことが原因ではない。
「…サラサへの復讐?でもネフラを殺すなと言ったのは彼自身のはず……」
「ああ。だからこの半年ほど、私もネフラを捜さなかった。ところが突然、奴は行動を開始した。二月前、ある男の姿を目にしたときから」
およそ七箇月前。エルフの森に棲む『疫病の魔獣』フンババが活発化し、棲息域に最も近いニウェウスの集落サラサから退治の依頼がもたらされた。それを請け負ったのが『姿偸み』を含む流れの冒険者達。しかし見事フンババを討伐した彼らを、族長ナスカの息子ネフラが毒殺した事件である。
六人中五人まで死んだが、一人だけ難を逃れた。その者の通り名を『姿偸み』という。子供や獣など明らかに体格の違う存在を除けば、自在に姿を変えられる真言法の奥儀を修めていることからつけられたもの。
「…ウィル殿か。彼はネフラに酷似していた」
「そうだ。奴はナスカ族長を殺害し、その罪をウィルに着せようとした」
ここで新たな人物が登場する。やはり七箇月前、アトルムの集落ライセンに拾われた記憶喪失の青年。族長の末裔エアによりウィルと名づけられ、情報収集の任務と称してエアと一緒にリトラへやってきた男だ。
実はネフラ本人なのだが、そのことを確証と共に知る者は少ない。ライセンの若長バルザ、変異の魔獣ルーク、その妹エア。リタと最近ブラッドから逃げてきたところを彼女が保護したサツキの五人だけである。
「…おかしくないか。お前もウィルをネフラだと思ってたんだよな。心変わりの理由を聞かせてくれるか」
「……………」
説明するのは容易い。また隠さなければならないことでもない。
リタにとって、ここまでの会話は成功だ。今のところ、エリク達はウィルとネフラを別人だと思っている。このままゆけば、彼を日陰者にせず助けられるかもしれない。
重大な秘密を漏らすように、あえて言いにくそうな振りをする。
「…私がセシルの民だったことは伝えたな。あやつもその生き残り、我が亡き友の行方知れずになっていた忘れ形見であると判明したのだ」
それは事実であり、間違いなく嘘ではない。
ただし根拠の説明は憚られる。忘れ形見ディムが色無し子のアトルムであること。ネフラがセシルの廃墟で拾われた銀髪赤眼の子だったこと。ネフラとウィルの容貌が酷似、かつネフラの消えた時期とウィルの現れた時期が一致すること――つまりネフラがウィルでなければ、ウィルはディムではないかもしれない。可能性としては極端に低いが、どこか別の集落で生まれた別の色無し子ということも考えられるからだ。
アトルムという時点でウィルはネフラと別人。そう考えるのが普通である。
(…ディムが色無し子だったこと、ネフラがナスカ族長の養子だったことを知られてはならない……)
これもバルザと口裏を合わせたことだ。
両方とも露見すれば、ネフラがニウェウスだという前提が崩れ去る。賢明なエリク達のこと、真相に辿り着くのは時間の問題だろう。ネフラのことはサラサの民に訊ねれば分かる。しかしディムの身体的特徴が洩れることは絶対にない。
「…なるほどな。これもアトルムだからネフラじゃない、か」
レオリオがヒルダに視線を送る。
「お前さんの見立てとも一致するな。アトルムと見抜いた子の同郷だから、だったか」
「ええ。アベルの支族からと言っていたけれど、まあ嘘。あそこは一番冒険者が多いから、アトルムが街へ出てくるとき建前としてよく使われるの」
エアがアトルムだという根拠は、ハーフ・アトルムであるヒルダの素性を知ったときの反応。本当にニウェウスであれば、僅かでも嫌悪や緊張が読める。ニウェウスは街への出入りを認められているゆえ、隠す必要がないのだ。
一方アトルムは複雑である。用意周到な者は、第三者の目がある場所で同族と遭遇したときの対応を予め考えている。しかし成人したての純朴な少女は、そこまで考えてはいなかったらしい。見るからに態度が好転し、むしろ心配を覚えたほど。
「仲間にルースア神職の子がいるのよ。それがクァトゥオルの生き残りらしくて」
手を叩いてレオリオが愉快そうに笑う。
「ウィルと同じならライセンだろ。殺りあったばかりだってのに、もうこっちの空気に馴染んでるのか。若いってのはいいねえ!」
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「…ところでリタ殿。ナスカ族長を殺害したのはウィル殿ではなく『姿偸み』、その情報はどこから?まさかサラサに潜入したわけでは」
「ああ。最初に言ったとおり、直接見聞きはしていない。奴がサラサへ連行されたのは知っていたからな。念のため獣人族の緩衝帯を捜していて正解だった」
エリクの頬がぴくりと動いた。彼の疑問をジーナが引き継ぐ。
「すると何かね?今の話は、例の坊やから聞いたものなのかい」
冤罪の根拠は容疑者の証言。疑わしきを罰するかは司法の文化によるが、少なくとも検証なしに信じる者はいないだろう。だが一方で、ウィルがナスカを殺したとする根拠も出所不明の噂しかないのだ。
「詳しく聞きたい。ウィル殿と再会したときの状況を」
「…ああ」
正直、これを話すのはウィルにとって有益とは言えない。リタ達が駆けつけたとき、現場には無数の死体が転がっていた。満身創痍の彼が今にも倒される、その瞬間に叫んだバルザの声が意識を呼び覚まして九死に一生を得たのである。
「死体の数は十ほどだったと思う。確認はしていないが、全てニウェウスだ。ウィルは敵の女と戦っていて、危ういところを助け出した。こちらは四人だったうえに『知性ある変異の魔獣』もいたからな。逃げきるのは難しくなかった」
「…済まぬ。『知性ある変異の魔獣』とは?」
リウ老人が控えめに訊ねる。
「言葉どおりだ。形がヒトではないため会話はできないが、知性は同等以上にある」
「アレだよ。アトルム以上の偏見に晒される、近くて遠いヒトの一員さ」
話の腰を折るんじゃないよ、とジーナが不機嫌そうに呟く。
人工進化の副産物として、時折エルフには異形の子が生まれる。それを神の奇蹟により完全に封じたのがニウェウス、自分勝手な無慈悲と嫌い何もしなかったのがアトルム。変異体にも様々あり、不定形の羊水からヒト型の色無し子まで。概ね精霊との親和性が高く、獣の形をした強靭な肉体を併せ持つ者もいる。まさに色無し子がウィル、大きな犬の形をしたルークは『バーゲスト』と呼ばれる特に優れた存在だ。
広い意味では、ブラッドの一部も変異体と呼べるかもしれない。優れた知能と理性を持つはずのアトルムから、短絡的かつ粗暴な個体が大勢生まれている。または進化を打ち消すような変異が発生し、固定され、致命的な先祖返りを引き起こしたのだろうか。
「イラリオにも『知性ある変異の魔獣』がいるのかい?村ができて二十年も経たないと聞いているけど?」
「いや、彼――ルークはライセンの末裔だ。若長バルザが連れてきた。あとは私と、イラリオから私についてきたサツキという女だ」
サツキがブラッドから逃げてきたことは伏せる。話がややこしくなりかねない。
「ウィルは我々に提案した……自分の冤罪は恐らく晴れない。リーネと『姿偸み』は、自分がライセンのウィルであることを知っている。このままではサラサとライセンの戦が始まってしまう。その前にブラッドへ逃げ込み、濡れ衣を着せ替える――と」
結局、ほぼ全てを明かしてしまった。リタは自分が謀りごとに向いているとは思わない。彼女にできるのは、言いたくないことを聞かれないようにする程度である。
「……………」
「……………」
「……何というか、大胆だな」
「ああ。サラサを利用してブラッドを潰すつもりか」
「敵の敵は味方。遠きに交わり近くを攻む。古よりの倣いじゃよ」
「ふん。またツォン人の言い伝えかね。まあ間違ってはおらぬが」
「でもサラサとライセンは仇敵よ。ブラッドを倒したところで都合よく終わるの?」
ヒルダの疑問はもっともだ。ナスカ族長を暗殺したのはアトルム――そう一括りに捉えられてしまえば、最後のひとりが死ぬまで続く殲滅戦になりかねない。
「そこは考えてある。これもウィルからの情報で恐縮だが、サラサの主戦派は若長タルカスを中心とする者達だそうだ。その連中を排除し、リーネに主導権を握らせる。あれは子供ゆえ夢見がちだが、それだけに争いを嫌っているのはお前達も知っていよう。ウィルにはまだ何か、他の策もある様子だったが……」
若長タルカスが火種であることは、リーネに訊ねれば確認できる。
だが確認しなければエリク達は動けない。いや確認できたとしても、リタの思惑どおりに動くかは別問題だ。リトラにはリトラの国益がある。
いずれブラッドは倒したいと思う。しかしニウェウスと敵対する危険を冒してまで、暴走するサラサがライセンやイラリオに襲いかかるのを止めるべきなのか。
ここで力を失えば、新国家樹立の目論見は瓦解する。遅れるだけならまだよい。最悪の場合、リトラの民は居場所を失う。戦禍渦巻く大陸を逃れてきた人々の末裔にとって、ここから更に逃げ込める場所は世界のどこにも存在しない。
エリクが改めて現状を纏める。
「…ウィル殿は既に、ブラッドへ逃げ込んだ。これはよいな?」
「ああ」
「我々が何もしなくとも、いや何もしなければ彼の思惑どおりにサラサは動く。ライセンのほうは……あなたが既に押さえているのだろうな」
「理解が早くて助かる」
本当はバルザの口車次第、まだ会合やネロ族長の承認を受けていないのだが。ここは些細なことだと割り切っておく。
「サラサの主戦派がブラッドを倒してなお衰えないときは?」
「……仕掛けてくるなら、戦わねばなるまい。だが、そのときこそ貴公らに仲裁を頼みたいのだ。ブラッド攻めにも参加してほしい。友軍とあらば話くらい聞くだろう」
この台詞を言うために、ここまでやってきた。
サラサの主戦派がブラッドに敗れたときは、イラリオとライセンの側からサラサを攻撃しないと約束して話を結ぶ。
「…大体、分かった」
エリクの言葉に四人とも頷く。
「まずは情報提供に感謝する。そして今後の方針だが、これはニウェウス側の話も聞かなければ決められない。ウィル殿の計画については、各自の信仰と命に懸けても口外しないと誓おう。我々に十日の猶予を与えてほしい」
聞きようによっては、悠長に取れる。だが戦の危機に瀕しているのは、アトルムとニウェウスであってニンゲンではない。回答の期日を明示しただけでも誠実と言える。
「……承知した。それまでの間に戦が始まったとしても、交渉は継続したい。我々はニンゲン、ドワーフやホビット、獣人……ニウェウスとも。共存を望んでいる」
リタの望みは、一部しか叶えられなかった。
十日後エリクが伝えたのは、ブラッドへの非難表明と冒険者による積極的な威力偵察そして戦後の仲裁――すなわち両エルフ族による新国家への参画推奨。それらは概ね以前から計画していたことであり、事件が起こる前とあまり変わらなかったのである。
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第二の都市ドゥオ。島の外に開かれた港街では、様々な神が祀られている。
自由の女神セラ、愛の女神ルースアもそのひとつ。移民の大半が大陸南部の出身であり、そこで信仰されていたのがセラとルースアだからだ。
ウゥヌスから戻った足で、レオリオはルースア神社の宿舎へ向かう。
まだ問題は解決していないが、ここドゥオとウゥヌスは近い。この日は用事が一つしかなく、紛糾する予想に反して肩透かしを喰らった。残念な回答を伝えた客人よりも仲間の抵抗が激しかったほど。
「やあ。ミキャエラはいるかな?」
レオリオを出迎えたのは、ルースア神職のクララ。
「……個人のお付き合いに口を挟むつもりはございませんが。堂々と他所の宿舎に顔を出されるのはどうかと思いますよ」
「……………」
いつもなら戯言を返すところ。「責任取る気満々だからいいんだよ。何なら今すぐにでも」とか「今の俺は一匹の獣。誰も止められはしないのさ」とか。常に辟易させられているクララだが、これはおかしいと思う。
「…どうかなさいましたか?」
「……女神様にまでバレてんのか。ああ、そうだよ。俺は今、すげえ気分が悪い」
ある事件を切欠にクララと知り合った彼は、恋人の同僚をそう呼ぶ。
詳しいことは言えないが、仲間と言い争いになったという。
「…くそっ。年寄りと女を苛めて楽しいわけあるかよ」
論点は、国としてブラッドを攻撃することの是非。賛成はヒルダとリウ、反対はレオリオとジーナ。賛否同数のため、議長裁定により否決された。
(レオリオさんの仲間といえば……)
女というのは間違いなくヒルダ。リトラ最高の依代と言われる『混沌の魔女』。ハーフ・アトルムの生まれという、冒険者の間では半ば公然の秘密があり、エルフ絡みで何らかの特別な役目を負っているとの噂がある。
年寄りというのは真言法師ジーナ=ジルクリスト。あの老女はいろいろと手厳しいらしいが、わざわざ年寄りと女を言い分けるのは遊び人のレオリオらしい。
「エリクのやつ。今度行ったら一番いいワインを開けさせてやる。でなけりゃ割に合わん……おっと、ミキャエラには内緒にしておいてくれよ」
心配は要らないようだ。結局いつものレオリオである。面白くないゆえ、普段の仕返しに少し揶揄ってみる。
「どちらをでしょう?ヒルダさんと密会していたこと、それともミキャエラに黙って美味しいお酒を独り占めすること?」
「語弊があるぞ!?別にヒルダとだけ会ってたわけじゃねえ!エリクのトコだって行くときは仕事だ!変な言い方するな!」
「…なるほど。他の女性もおられましたか。両手に花、羨ましいですね」
「エリクは野郎だ!爺さんと婆さんもいる!」
「愛の形は、ヒトそれぞれですよ?」
最上の微笑みをにっこり。今回はクララの勝利である。
「……もう何でもいいわ。そうだよ、それ……俺は女神様も愛してるからな。抱かれたくなったら、いつでも来いよ?」
「ミキャエラに言いつけますよ?」
「…お願いですから、それだけはやめてくれなさい」
抜け殻になりかけたが。水を得た切り花のように麗しく戻る。
「まあ、レオリオ様!わざわざ迎えにお越しいただけるなんて」
「用事が早く終わったもんでな。待ちきれなくて……来ちまった」
「ま(はぁと♪)お上手ですこと」
二人を見送ると、クララも外出の準備。遊びにゆくのではない。神社の家計を助けるため、冒険者の店で割のよい仕事を探すのだ。
「お。出かけるのかい?」
「お供しますよっ!」
行儀見習いの資産家令嬢リリアナ=スアレスとニコル=ニコル。レオリオと知り合う切欠になった事件が元で親しくなった。
とても行儀がよいとは言えないリリアナことリリィは、仲間のエルフが都合により一時帰郷したことを知ると相棒を買って出た。最初は無論反対したが、今では手癖の悪さを活かして小狡く器用に立ち回っている。
小さなニコルは、本当に単なる付き添いだ。十六歳という歳に似合わず全体的に幼い。子供が大好きなお姉さんの後ろをついて歩く風情である。
だが本当はよろしくない。足手纏いになるうえ、頻繁に一緒のところを見られると弱味に思われてしまうからだ。攫えばクララとリリィに言うことを聞かせられる、そう考えられたらニコルの命が幾つあっても足りない。
冒険者とは、そのような稼業である。通いの護衛や警備に絞るなど後ろ暗いことに関わらないよう注意はしているが、用心に越したことはないのである。
(…それにしても)
道すがら雑多な通りを眺め、クララは思考を巡らせる。
いつも賑やかな場所だが、最近はそれに慌ただしさが加わったような。何をそんなに焦っているのか、レオリオが十日間もウゥヌスに詰めたことと関係があるのだろう。
有力なエルフの族長がひとり暗殺された噂は、ここドゥオにも流れてきている。内容はまちまちで、互いに矛盾するものも。ただひとつ確かなのは――ネフラとウィルの名前が犯人として囁かれ、それに先立ってエアが故郷からの迎えと共に街を離れたこと。その後ひと月が経過した今、エルフの姿をほとんど見かけない。
何が起きたのか。あるいは起きようとしているのか。
クァトゥオルの村を興したときも、似たような感じはあったかもしれない。だが、あのときとは雰囲気が違う。希望と野心、どちらも満たしてやるぞという理屈抜きの迫力。対して今あるのは、変なことに巻き込まれはしないかという怯えや疲れ。
(あなたは、その中心にいるのね)
ウィルの名が出た以上、少なくとも無関係ということはあるまい。
分からなかった。自分は何をすべきなのか、すべきではないのか。そもそも事実が分からないゆえ、二人を心配してよいのかも。
「クララさーん?」
「余所見してると、置いてくよ~?」
呼ばれて初めて、立ち止まっていたことに気がつく。
(これではいけない。私も進むと決めたのだから)
どちらへ向かうか見当もつかないが。
「クララ~?」
「どうしたんですかぁ?早くしないと美味しい仕事取られちゃいますよ~」
まったく騒がしい。ミキャエラもそうだが、新しい友人達はクララを悩みに沈ませてくれないようだ。思わず笑みが零れる。
「何でもありません。今、行きますから……」
アトルムを仇に持つ娘は、仲間の後を追って歩き出した。
☆★☆★☆★☆★☆
リトラの冒険者達が有事に備え、ブラッドは総出で冬支度に勤しんでいる頃。ニウェウス最大の集落サラサでは、ほぼ全員参加による会合が開かれていた。
ここサラサは、ひと月前に族長が殺されたばかり。議長を務めるべき人物の不在など、そう頻繁にあるものではない。一応年長の若長が役目を代行することとされているが、どうにも不慣れの感は否めず。堂々たる者、声の大きな者の専横を許してしまう。
「諸君!聞いてもらいたい」
場の中央で声を張り上げるのは、最年少の若長タルカス。ナスカ族長殺害の前日、もうひとり死に追いやられた被害者ユアンの遺族とも言うべき人物である。
早くに両親を亡くしたユアンを、やはり戦場で息子を亡くしたタルカスは長年気にかけてきた。息子に続いて息子同然の若者に先立たれた彼を、同情の目で見る者は多い。
「ナスカ族長と我が子ユアンらは、族長の子ネフラを名乗る何者かに殺害された。そのことに異議のある者はいないと思う」
「異議あり」
聴衆を見渡し悦に入ろうとしたタルカスを、不機嫌な男の声が遮る。
「だ、誰だ!無礼なっ!」
否が応でも場の一点に視線が引きつけられた。今は亡きナスカの家族達が、ヒト目も憚らず寸劇を繰り広げている。
「…馬鹿っ。いきなり手を挙げてどうすんの!」
「あ?何言ってんだ。前提が間違ってたら、話も変な方向に進むだろうが」
「そうだけどっ!今は大人しくして。やるときは指示するから」
「……分かったよ」
舌打ちするセインの隣、リーネが困惑した微笑みを浮かべる。そのまた隣は、義妹の頭越しに夫の義兄弟をどやしつけるユリアナ。こちらは愛想笑いの表情が硬い。
「何でもありません!どうぞ続けてください」
「……異議のある者は……いるかもしれぬが、概ね皆も同じ意見だと信じている」
三人に非難の視線を向ける者は少なからずいた。ユリアナはナスカの養女、リーネは実の娘、セインはその許婚である。普通は悲嘆に暮れるはずの彼女らが、何故いつもどおりなのか?特にリーネは、父の死を伝えられたときから笑顔を保ち続けている。
ヒトが大勢いる場所では、心に働く精霊の力が分かりにくい。一緒にいることの多いユリアナとセインなら、依代としては未熟でもリーネの胸の裡が分かったろう。
「族長の命を受けて追跡の任に着いた者達は知っていると思う。彼らを殺した罪人は、ネフラ殿に瓜二つだったことを。悲鳴を聞いてユアン殺害の現場に駆けつけた私も、その姿を見ておる。まず間違いはあるまい」
ここで静まりかけた声を、改めて張り上げる。
「諸君はどう考えるだろうか?行方不明だったネフラ殿が帰ってきて、わざわざ同胞を手にかけたと?…否!アトラ共の汚らわしい邪法のことは、皆も知っていよう!連中がネフラ殿に擬装して害を為したと考えるほうが、遥かに合理的である!」
身振りを交え、アトルムへの敵意を巧みに煽ってゆく。タルカスの説は、概ね受け入れられつつあった。この場には遺族と呼べる者が十人以上いる。ネフラの贋者らしき男を追っていった族長以下十一名が全滅した時点で、ユアンの死は半ば埋もれてしまった。死亡直前にタルカスとも一緒にいたことが重要視されなくなったのである。
(あれが贋者……?)
ユリアナは信じられなかった。何故ならあの男は、彼女の名を呼んだゆえ。
他人から訊いたふうでもない。姿を借りただけの余所者が、ネフラの妻の名前をどうやって調べたのか。口にすべきではなかったのに思わず洩れてしまった、そんな風情。
一方でアトルムと共にユリアナの前から逃げ去ったことも事実である。誰より信ずべき伴侶を置いて……父親と同胞の亡骸を残して。そのうえ明確に宣言したのだ。貴様らの族長ナスカは俺が抹殺した、と。
(何か裏があるんじゃ)
ユリアナはそう考える。あれが本物のネフラだとしたら。
(重要な点は二つ……いや三つか)
あの男がネフラだとして、ユリアナとすら話そうとしなかったこと。
(あのときは頭に血が上ってたし、まあ逃げ出しても無理はないけど……でも、ちょっと腹立つかな。付き合い長いんだから、いい加減慣れてよって)
犯人が川向こうのブラッドへ逃げ込んだという噂も。それ自体は不思議でも何でもないが、流れてくるのが少しばかり早すぎる。アトルムの中でも際物扱いのブラッド、おまけに最近加わった出自の分からない新入り。その情報が事件からひと月足らずの今、もうサラサまで届いている。ブラッドへ駆け込むところを直接見たニウェウスはいない。となると目撃者からアトルムの集落に、ニンゲンに、街のニウェウスに、ようやくサラサへ。積極的に広めよう、または特定の誰かに教えようとしなければ、伝わるものではないのだ。
悪事千里を走る、と昔から云う。さりとてあの時刻に――薄暗く寒い明け方の払暁に、わざわざ用もなく起きてきて、特別危険な太古の魔獣がうろつくブラッド付近を、命懸けで見張ろうとする物好きがいるだろうか?
(犯人がブラッドへ逃げ込んだというのは擬装。若しくは本当に逃げ込んだとして、うちとブラッドを戦わせようとする謀の可能性が高い)
ただし気になるのは、逃げ込んだのがアトルムと断言されている点。あの男をネフラだと考えるユリアナには、矛盾が生じてしまっている。
最後のひとつは、より根本的な話。本当にあの男は、ナスカ達を殺したのか。これはネフラだろうとあるまいと、証拠がなければ認められない。彼が殺すところを見たという者は、とりあえず誰もいないのだ。ユリアナ自身、多くの屍に囲まれて立つ彼と遭遇したものの、直接手を下す瞬間は見ていないのである。
(分からないよ……あれがネフラだったとして、積極的にブラッドと潰し合わせる動機が。どんなにタルカスが馬鹿でも、そいつに従う同胞を見捨てていいわけがない)
だが、そのようなことをやってしまうのもネフラだと分かっていた。罪の意識に怯えながら、必要なことはそれとしてやる。後で死ぬほど震えるくせに……
状況が見えた。あとは行動するのみ。
(…いいよね?あいつの邪魔をしても)
ネフラがアトルムに擬装してブラッドへ行ったのなら、それは捨て身だ。ニウェウスとして最も選びたくない方法のひとつ。だが、そうまでしなければ冤罪を晴らせない――積極的に彼を陥れようとする敵が存在するのではないか。
ネフラを憎んでいるか、邪魔に思う。考えられる者は僅か。ナスカとその家族を疎ましく思っていたタルカス、そしてもう一人は……
(これ以上、勝手に苦しませない。あんたのことは、私が護る)
☆★☆★☆★☆★☆
「…おい。コラ聞いてんのかクソ義姉貴」
「え?…何」
セインが肩を突いてくる。本気で抓り返したが、震えながら悶えるにとどまり悲鳴をあげなかったのは見事。
「寝てたのかよ。若長、ライセンも一緒に攻めるとか言ってるぜ」
「…はぁ!?」
大声で叫びそうになり、慌てて口を塞ぐ。
「どういうこと?うちに全面戦争する余裕なんてないよ」
「十二人も死んだばかりだしな。仕返しはいいが、今やれるわけない」
ナスカと共に死んだのは、全員彼の信頼が厚い者達。ユアン殺害への関与を疑われていたタルカスの暴走を防ぐためだったが、それが結局裏目に出た。
生き残っているサラサの戦士達は、タルカス寄りか中立の者が多い。ナスカと近かった者達も報復を唱える。ゆえに氏族の意思は開戦へ傾いてしまう。
「…どうするよ」
場の中央で話すタルカスを見遣る。
彼の演説は、説明に変わり小一時間続いていた。班編成や装備、魔獣対策など具体的な事柄の提案である。詳細な日時は少人数で話し合い、直前まで伏せるとした。恐らくタルカスに近い者だけで占められるだろう。
ユリアナ達は留守番に回される可能性が高い。手柄の横取りや横槍が入るのを嫌ってのことだ。この戦で活躍した者が、サラサの主導権を握る。
「止まらないなら、向きを変えるしかない」
議論が中弛みに陥ったのを見計らい、ユリアナはさっと手を挙げた。議長を務めるのは最年長の若長、あらゆる見地から中立であろうと努めている。誰かの発言を遮ったりしなければ、同胞の具申を止めることはない。
「…ユリアナ。意見を述べなさい」
「ありがとうございます、カレン様」
議論の中心がユリアナへ移り、やや表情を強張らせるタルカス。自分の思惑どおり誘導していたのに、邪魔が入ったとでも考えているのだろうか。そのような意図はなく、むしろユリアナ自身もブラッド討伐には賛成だ。しかし方法に問題がある――どこで戦を終わらせるかの準備もせず、ただ突き進もうとする今の流れには反対。
「最初に申し上げておきますが、ブラッドを攻めること自体は反対しません。私達だけでやるのか、戦の目標をどこに置くのか」
発言の許可も得ず、直ちにタルカスが反論する。
「他の三氏族に応援要請を出している。どうせカインは体のよい無視を決め込むのだろうが……目標は当然、アトラ共の殲滅だ」
どよめきが起こる。ブラッド攻撃に賛成していた者も、そこまでは考えていなかったのかもしれない。ライセンを攻めるのも今後を見据えた牽制だろうと。
「ブラッドなど前哨戦に過ぎぬ。真の目標はライセンだ。連中を滅ぼさねば、我らの安寧は決して訪れまい」
「それには戦力が足りないのでは?向こうには『魂消し』があります。敵を倒したとしても、こちらの被害が大きければ意味はありません」
「……将来の平和のための礎だ。どれだけ犠牲が大きくとも、やるだけの価値はある。お前は戦士達の死を愚弄するのか?族長の養女でありながら、仇を取りたいとは思わんのか!養父の死を何と心得る!?」
論理的な反駁ではない。一見筋は通っているが、ユリアナの戦力不足という指摘には答えていないのだ。憎むネフラと同じことを彼の妻に言われたため平静を失ったのだが、周りはそう思わなかったようだ。同調する呟きもちらほら聞こえる。
(あんたに言われるまでもなく、仇は取りたいわよ)
だが、その相手は本当にブラッドなのか。今回の件とは関係なく滅ぼしてもよい敵だとは思うが、無駄に消耗するのは避けたい。ユリアナの目は、焦りの色を浮かべるタルカスなど最初から見ていなかった。想像上の遊戯盤を挟んで彼女と対峙するのは夫のネフラ。彼の思惑がどこにあるのか、まだ読み切れていない。
「戦力が足りないなら、足せばいい。それで少しは被害を減らせます。敵の敵は味方、つまりニンゲンです」
「……………」
ニンゲンと同盟を結ぶ交渉をしていることは、タルカスも知っている。連中の戦力が手に入るなら、確かに望ましいことだ。しかし借りを作ったなどと思われてはならない。ニウェウスを崇め奉り、従属するように仕向けるべきなのだ。
純然たる種族間の生存競争と捉えていることを除けば、ユリアナの認識もタルカスと大差ない。アトルムは滅ぼし、ニンゲンは遠ざける。その前提で話を続ける。
「…ここまでやっても、ライセンを攻めるのは危険だと思います。他の氏族とそれに連なる者達も参戦しますし、追い詰めたら何をするか分かりません。今すぐライセンを滅ぼさなくてはならない明確な理由があるのなら別ですが……」
「理由ならあるぞ」
タルカスがにやりと笑う。許可なく発言したことに気づいて、後付けながら議長に対し挙手してみせる。円滑な進行を優先し、カレンは黙って頷いた。
「では説明しよう。聞けば族長の贋息子は、ニンゲンの街でウィルと名乗っていたそうではないか?」
「……………」
どこから聞いてきたのか。そもそもネフラを連れ帰ったリーネは、笑顔のまま塞ぎ込んでいる。彼が自分はアトルムだと思い込んでいるという話は聞いたが、急ぎ追いかけなくてはならなかったため仔細までは聞いていなかった。
「そのウィルという男は、ニンゲンの実力者達の前で術を解いてみせたとか。髪は白かったゆえ、熱の精霊を宿したのでもあるまい」
依代は宿した精霊に応じて外見が変わる。光なら周囲の景色を映し、闇なら実体ある影、風なら翠、水なら半透明、凍なら蒼、熱なら褐色といった具合に。
熱の精霊を宿したニウェウスは、髪を隠せばアトルムと区別がつきにくい。ユリアナは知らないことだが、死んだユアンはそうやって罪をなすりつけた。ニンゲンの馬車を襲い、アトルムと対立するよう仕向けたのである。
「どこから来たと問われ、ライセンからとはっきり答えたそうだ……これでも無関係と言えるかね?それどころか全ての黒幕という可能性もあろう」
「……ライセンとブラッドが結託していると?」
「互いに同族。我らがニンゲンと手を組むより余程ありそうではないか?」
「利用されるかもしれません。連中の内輪揉めに」
タルカスの考えでは、ライセンとブラッドは結託している。ゆえに両方叩くべきであり、またニンゲンの手は借りない。ここで力を見せつけ、従属を迫る。
ユリアナの考えでは、ライセンとブラッドは敵対している。いずれ両方とも叩くが、今は力が足りない。ブラッドのみに専念、かつできるだけニンゲンを前に押し立てて共倒れを狙う。ライセン討伐は先のこと、まだ考えなくてよい。
「…意見は出尽くしたようね」
筆頭若長カレンが議論を集約する。
「要約すると、具体的な論点は二つ。ひとつは目標をどこに据えるか――ブラッドのみ、ライセンのみ、ブラッドとライセンの両方。戦わない選択肢も」
一応触れたが、最後の選択肢はあり得ないと思っている。犯人が誰にせよ、族長を殺されて黙っているなど後々どのような弊害があるか。
「もうひとつはニンゲンの力を借りるべきか。これは複雑かもしれない……ナスカ族長は生前、ニンゲンとの同盟を進めていた。でもここまでの議論から考えて、一時的に利用する若しくは今までどおり消極的な関わりを維持することでいいかしら」
反対の声はなかった。元はニンゲンとの交流が最も深いアベルの氏族に持ちかけられ、それを知ったリーネが父親を説得。風の噂で女王ティターニアも好ましい旨の発言をしたと聞き、アダムの氏族を誘って参加したものである。
「リーネも、それで構わない……?」
義姉と慕うユリアナから、事実上の白紙撤回に近い案が出ている。婚約者のセインも、それに反対しない。普通は了承済みと考えるところだが、全く何も言わないのは気になる。以前のリーネなら納得できないような発言がされているときも、今日の会合ではずっと微笑みを浮かべていたではないか。
「どうなの、リーネ?事実関係の訂正や、あなたの思うところは」
「え……?」
カレンの声は、優しく語りかけるようなものだった。亡き兄の幻を見せられ、父を失ったばかり。精霊の働きを見なくとも、平静でいられるはずがないのは分かる。ならばこそ父の遺志を継ぐ機会を与えようと――何かしら動いたほうが楽になると。
それゆえの気遣いだったが、このときは裏目に出た。リーネの顔から微笑みが消え、両腕を自分の身体に回して震える。尋常ではない。
「…リーネ!?」
呼吸を乱して倒れそうになる婚約者を、セインが受け止めた。
「俺の意見はユリアナから聞いてください。失礼します」
抱きかかえて寄合所を後にする。その背中に頷く義姉の姿を、リーネは確かめることができなかった。
☆★☆★☆★☆★☆
「あ……」
「気がついたか?」
誰かに背負われている。一瞬驚いたものの、それがセインだと分かって力を抜く。彼に対しては、無用な虚勢を張る必要がない。
「…降ろして。もう大丈夫……」
「そうだな。俺も同じ姿勢は疲れた」
言うほど歩いていない。目指す族長の家と寄合所は目と鼻の先にある。
「運び方を変える。お前が重いって言ってるんじゃないぞ?」
「もう……」
そんなことを言われるほうが、本当は重いのではないかと疑ってしまう。
だがセインなりの気遣いというか、あるいは馬鹿正直なだけか。兄とは違った率直な優しさが嬉しく、また愛しいと思う。
微かに弱々しい笑みが零れた。それを落ち着いた証と認め、セインも内心で安堵の溜息を洩らす。まだふらつくリーネを路傍の石に腰掛けさせ、傍らに控える。
「どうだ?」
「ええ。心配かけて……」
ごめんなさい、までは言葉にならなかった。気持ちを伝えたいが、はっきり口にするのは水臭い。お互いのことなら、言わずともそれなりに何となく分かるゆえ。
「気にするな」
こちらも簡素なもの。リーネを護るのは自分の役目だと思っている。それは戦場においても、日常においても全く変わらない。
月のない空を眺める。どこに視線を向けたらよいか分からない、今の状況を表したような。せめて明るい星のひとつもあれば違ったのだろうが……リーネにとっての月は消え去り、星の片方は別の道を。もう片方は今、こうして一緒に空を見上げている。
(父さんと兄さんはいない。義姉さんは戦いに臨もうとしている)
自分ひとりでは止められない。セインが手伝ってくれれば心強いが……もしもそれが上手くゆかず、そのうえ彼までも失ったら。
その懸念は正しかった。
「…俺も義姉貴と同意見だ。いや……もっと前のめりかもな。やはり族長のことは不問にできない」
「戦に、なるの……?」
考えることは沢山あって。それらを束ねると、出てきた言葉がこれだった。
説明できることと、できないことがある。どれを話せば自分の想いに近づけるのか。リーネの願いは、争いを終わらせること。誰もそのための犠牲にしないこと。ウィルと名乗った兄に酷似するアトルムが、状況に押し流されて誤った決意をしないこと。妙に物分かりのよい彼は、自分に降りかかる理不尽を受け容れてしまうところがある。
「……ああ。残念だが……」
躊躇いながら呟くセインの腕に触れるものが。肩を震わせ、押し殺した声で泣くリーネ。彼女は額を押しつけていた。胸元で握り緊められた両手――何かを捕まえるのではなく、弱い自分が全部投げ出してしまうことを防ぐため。
「…そうならないようにしたかったのに。何があっても、それだけは絶対避けようとしてきたのに……!」
実を言うと、ニンゲン達の間にもニウェウスを敵視する者達はいる。彼らが言うところの開拓初期、先住民達に異物として排除された冒険者の遺族だ。殺された側にしてみれば、同じ先住民でありニウェウスもアトルムもない。
公衆の面前で石を投げられはしなかったが、ヒト知れず嫌がらせを受けることはあった。神々の末裔という肩書きは、親の仇という現実の前に無力だった。
カイン氏族のこともある。最もニンゲン社会に馴染んだアベル氏族や、両者の中間的な立場を守るサラサ氏族及びアダム氏族とは違う。今なおカイン氏族はリトラと冷戦状態にあり、余所者が森へ踏み込めば問答無用で殺す。エリクの館における先の会合で同盟の意思ありと表明したのは、族長が存在しない彼らの象徴的な位置づけとなっている女王ティターニアの意思を伝えたものだ。それとて始祖神カインの因子を色濃く残す第一世代というだけであり、敬うべき先人の言葉に耳を傾ける程度のこと。
会合の噂を聞き、カインの戦士達は苦々しい思いをしているはず。必要ありと判断すれば、彼らは同じニウェウスのリーネをも粛清しようとするだろう。
成人して間もない二十歳の乙女が、努力を重ねてここまで来た。大人達の助けがあったとはいえ、並大抵のことではない。兄ネフラの呪縛から解き放たれ、半ば反動により逆方向へ突き進んだだけだとしても。
それは結果として争いの火種を蒔くことになった。本人や理解を示した者達、単純にリーネのことが好きで応援した者達の意思に反して。
憎しみを煽る者。戦を望む者。敵の顔をした味方。味方の顔をした敵。誰しも敵の攻撃には驚かない。しかし味方の攻撃は裏切りと映る。
「お前が悪いんじゃない」
リーネの頭に手を置く。それは半ば抱き締めるように。大柄なセインの身体は、地面に座ってなお頭半分リーネより高い。
「お前は悪くない。お前は頑張った。みんなのために気持ちを尽くして働いた」
そっと撫でる。それは見棄てられた子供をあやす手つきだった。
(お前は、悪くない。悪い奴がいるとすれば……ネフラを騙って、リーネの心の一番柔らかい部分を傷つけた野郎だ)
絶対に赦さない。そいつだけは。何があろうと見つけ出して潰す。
銅の月が顔を出した。
サラサの宵は更けてゆく。仄暗い闇を、早めの夜露が濡らして。
☆★☆★☆★☆★☆
川の反対側でも議論が行われていた。
他の始祖四氏族が衰えるなか、未だ威厳を保つライセン。ならず者の巣窟ブラッドの宣戦布告に対し、どのように対処すべきかを話している。
提案者は末席の若長バルザ。ブラッドの新たな王ハルマー――正体は彼の養女が拾った行き倒れの青年ウィル――彼がニンゲンの冒険者から着せられたサラサの族長殺害という濡れ衣を、丸ごと着せ替えてブラッドの悪名ごと葬り去る。そのためにはライセンの参戦と、ブラッドに敵対する新興集落イラリオ、加えてニンゲンの協力が必要なのだ。
「…川向こうの緩衝帯で不穏な気配がありましたゆえ、俺とルークで威力偵察に出ました。そこでサラサの方角から逃げてきた白いエルフと遭遇戦になり、同じく様子を探っていたイラリオの二人と出会ったんです。彼女らの手も借りて撃退しましたが、捕えるには至りませんでした。今思えば、あれがハルマーだったのでしょう」
……という筋書きである。とりあえず、ここまでは打ち合わせどおり。
だが事実は異なる。冤罪を着せられて逃れてきたウィルを、万一の事態に備えて駆けつけたバルザ達四人が救った。そこで事情を聴き、彼を信じることにした四人とウィルは一計を案じたのである。ブラッドの悪名を生贄とした和平工作を。
「…お前が、か?」
いつもは率先して発言しない族長が、いきなり口を開いた。その事実に場がざわめく。付け加えるなら、厳しい質問を浴びせるのは筆頭若長グスマの役目である。
「はい。ハルマーは手練れでした。俺とルークだけでは、生きて帰ることすら難しかったでしょう」
内心はともかく、堂々と答えた。
「……そうか」
全身の力が抜けそうになる。しかし、本番はこれから。
議事が若長シェラの元へ戻る。彼女の役目は議論を活発にすること。意見する者がなければ、彼女自身が質問者となって議論を深める。
今回の提案者はバルザ。倣いに背くものであり、予想したとおり手を挙げる者はいなかった。末席とはいえ若長に面と向かって意見するのは難しい。
しかし皆の顔を見れば、複雑な感情が渦巻いていると分かる。バルザの提案には、ニウェウスやニンゲンと手を組むことも含まれているからだ。不倶戴天の敵サラサと、アトルムを害獣の如く追い立ててきた冒険者――そのような連中と結ぶくらいなら、他の三氏族に加えて新興のイラリオを味方にする。徹底的に防御を固め、ブラッドとサラサが潰しあった後で漁夫の利を得ればよいではないか、と。
リトラに対しても同様である。先の小競り合いから未だ半年、ほとんど全滅させたとはいえ、侵略の尖兵となった冒険者に対する憎しみは消えていない。
「誰も意見はないのね?それなら……」
「いいえシェラ様。意見ならあります」
手を挙げたのはトリシャ。近頃成人したばかりの少女だ。エアより半年若く、緩衝帯の森で『幻の都』が発生したときも、リトラの冒険者達が押し寄せたときも、未だ幼き身として護られる立場だった。とくに後者のときは、避難していた家の地下で煙に包まれ、あわや窒息死するところを妊婦のアローナや他の子達共々エアに助けられている。
無力な自分を歯痒いと思った。半年しか違わないのに、エアは二度の実戦を経験して一人前の戦士になろうとしている。将来を嘱望された『ライセンの直系』と同じようにゆかないのは分かるが、ならばせめて考えることだけでも。それが蛮勇とすら呼べるかもしれない、若長に立ち向かう気力の源だった。
そのバルザは落ち着いたもの。自分のような小娘の相手も手慣らしには丁度よい、そう考えているのだろうと気を引き締める。
「まず質問から。バルザ様は、逃げてくる同胞と戦いになったと仰いました。それは向こうから襲ってきたということでよろしいのでしょうか」
「ああ。こちらは擬装していなかったし、ルークを連れていた。アトルムだということは分かったはずなんだが」
このあたりは完全な創作である。今にもユリアナに殺されそうなウィルを救い出した、というのが事実。しつこく突かれると矛盾が出てくるかもしれないのだが、トリシャはそれ以上深く追求しようとはしなかった。
更に質問を続ける。
「いきなり攻撃してきたんですね。勿論迎え撃ちますし、報復を考えて当然だと思います。冒険者共に焼き殺されかけた私も、よく分かります」
ここで言葉を切り、会合の場全体を見渡した。
「ニンゲンやニクスも同じです。いずれブラッドを滅ぼすべきという考えは、私も変わりません。しかしそのために、私達の同胞を何人も殺した連中と手を結ぶのはどうなのでしょうか。納得のゆく説明をしてください」
「和解しなければ、これからも死ぬということだ。ニンゲンやニウェウスを滅ぼしたところで、その先には何もない。手打ちの機会があるなら活かすべきだろう」
「…信用できると思ってるんですか?」
「ドワーフほどじゃないにせよ、それなりにな。エアを送り出すときにも話して聞かせた。襲ってくるだけが連中の全てじゃない」
トリシャの家でも、造った薬などをドワーフの武装商人に売っている。それが街へ出てニンゲンとの取引に使われ、場合によっては大陸まで渡り、そこから仕入れたものがライセンの村へ戻ってくることもある。女達が好む銀細工やバルザの琥珀色の酒、それらは全てニンゲンの職人が作ったもの。既に両者の関係は、憎み殺し合ってさえいればよいというものではなくなっているのだ。
「ニンゲンの街に行ったことのある奴は分かると思うが、本当に様々だ。ニウェウスでさえ街に出てくる奴の大半は柔軟な思考を持っている……想像できるか?あの高慢な連中がドワーフと肩組んで酒を呑むんだぞ?」
一番重要なことである。この感覚が背景にあるからこそ、バルザは謀を持ちかけられて二つ返事に了承した。まさに若かりし日の血が騒ぐ想いがして。
「喧嘩をしても後腐れはない。命だけは絶対取らない。法を破った者は、ドワーフや獣人だろうがエルフだろうが……ニンゲンだろうが平等に罰せられる。俺はあの街に、『国』というものに可能性を感じるね」
ウィルの件がなくとも、以前から考えていたことだった。しかし彼が街にいた頃は時期尚早であり、またライセンの出であることが災いした。前の執政官もエリク同様、いきなり始祖四氏族の盟主に対話を呼びかける勇気はなかったのである。
☆★☆★☆★☆★☆
「では、一番新しくニンゲンの街を見てきた者に話を聞いてみましょう。フランとエア、よろしいかしら?」
「あ、はい」
「……………」
シェラの指名を受け、二人がその場で立つ。
「では、まず僕から。滞在期間が一日もありませんでしたので、ほとんど役に立たないかもしれませんが……」
「よい。感じたままを申してみよ」
またネロ族長。今度はざわめきも起こらなかった。
「…は、はい。では申し上げます……最初に目が向いたのは、石造りの巨大な城塞でした。もっとも我々には精霊の加護がありますから、大した障害にはならないでしょう。創術で壁を歩く手もあります……」
元よりエルフに大軍はない。夜のうちに忍び込むことさえできれば、やりたい作戦はできるのである――都市基盤の破壊や要人の暗殺など。現時点ではニウェウスに化ければ侵入できるため、その必要もないのだが。
「市中に関しては、豊かのひと言でした。店には様々な品が溢れ、ドワーフ商人が持ち込むものは一部に過ぎなかったのだと思い知らされます。あの富が手に入ればどうなるか、想像もつきません……他の種族に関しては、よく獣人を見かけました。女の子の耳と尻尾がかわ……いえ、何でも。それとドワーフが少数。幸か不幸かエルフと遭遇する機会はありませんでした。そのあたりの説明は、長く滞在したエアに任せます」
深く一礼する。含みのある笑みを浮かべたシェラが御苦労様、と締め括った。
「……………」
「さ、エア?」
ウィルがライセンへ戻らなかった顛末を、シェラは事前にバルザから聞いている。ネフラと見間違えられたことは言わざるを得なかった――ネフラはライセンとの小競り合いで前線に立ったことがない――優しく励ますように頷きかける。
一度深呼吸、訥々と話しはじめた。
「……先日、村を襲った生き残りと親しくなりました。家族のような二人が死んだとかで、アトルムだけじゃなくドワーフまで嫌いになっていました。でもそれが間違っていることは分かっていて、克服しようと頑張っていました」
冒険者仲間の神職クララのこと。ハーフ・アトルムの依代ヒルダのこと。宿の主人アサダのこと。ヒト買いに攫われた間抜けな衛視ユリシーズのこと。ヒルダと一緒に捕まえたヒト買いのこと。主人一家のために命を懸けて死んだオオハラ商店の番頭ウカイのこと。我が子を取り戻すために殺人まで犯そうとした料理人サヤマのこと。うどん店トシマヤのいつも優しくしてくれた女将のこと。
「…ブラッドみたいな奴もいれば、みんなと変わらないようなのもいました。争いをやめたら、ニンゲンという塊じゃなく……ひとりひとりを見られるようになるんじゃないかって。ニウェウスもそうなのかは、まだ分かりません」
まだ何か言いたそうにしていたが、とりあえず一礼。バルザとシェラが頷きあう。
「エアも御苦労様。私は行ったことがないのだけれど、ニンゲンの街を知っているヒトから違う意見は?…この点に限らず、何か意見があるヒトは?」
フラン、エアともニンゲンとニウェウスの敵意を否定していない。バルザとしても同様であり、トリシャは反論できなかった。
そろそろ集約すべきと考えたのか、シェラが続けて発言する。
「…私は、敵を許せないというみんなの気持ちも大切だと思うの。だからトリシャの言ったことは、強ち間違っていない」
意見を肯定するのが彼女の役目だ。初めての会合でよく勇気を出したと、賞賛を込めて微笑む。それから小さく息を吸ってバルザに視線を向けた。
「もう少し具体的なことを……ニンゲンとの繋ぎ、ニウェウスとの繋ぎは考えているのかしら。既に伝手があるのか、あるなら使者は誰を。ないとしたら、それこそ使者の選定が重要になる。ニンゲンはまだしも、ニウェウスのほうは生きて帰れないかもしれない」
「そのことなら、考えてあります。リトラへの使者はエアが相応しいかと。先程話に出たヒルダは評議会の実力者です……ニウェウスのほうは俺とルークが。最初から危険なのは分かってますし、少数精鋭かつ死んでも全体に影響しない俺達が適任でしょう」
「イラリオも任せていいかしら?礼儀の点から見ても、若長以上がひとり出向くのが適切でしょう。私やグスマでもいいけれど、あなたは既に面識があるみたいだし」
「ええ、まあ……了解です。決まったら早速向かいましょう」
シェラの質疑はここまでだった。族長に一礼して下がる。
次はグスマの番だ。ここから先は容易くゆかない。
「では私から問おう。イラリオと同盟すべき、これは一見合理的である。しかし敵を増やす恐れはないのか。イラリオは行き場のない者達の集まりだ。ブラッドのみならず他のところから逃げてきた者もいよう。それらを敵に回すことはないと言えるか」
「…確かめたわけではありませんが、罪人はいないと聞いています。もしいたら……今回の功績を元に恩赦を認めさせるしかないでしょう」
「殺人などの重罪でもか」
「それは……難しいと思われます。ニンゲンの街へ行ってもらうなり、アトルム社会から追放するしかないと」
「イラリオがそれを呑むならよしとしよう。交渉はシェラの言うとおり君に任せる。次は、そもそも現時点において我らがブラッドと戦う必然性だ」
「……はい」
正直、これは少々厳しい。
獣人族の縄張りで襲われたこと自体が嘘だからだ。ライセンはブラッドから戦を仕掛けられていない。少なくともバルザの知る限りにおいて。自ら意味もなく危険に飛び込むのは、愚か者のすることである。
「これまでどおり防御に徹するのではいけないか。仕掛けたのはブラッド、やり返すのはサラサ……どちらも我らにとっては敵だ。傍観して生き残りを叩けばよいだろう」
「ニンゲンとサラサの同盟は、かなり具体的なところまで進んでいます。日和見をすれば、我らも置き去りにされかねません」
「旗幟を鮮明にせよ、ということか?ニウェウスもアトルムも関係なく、今後は一番数が多いニンゲンに尻尾を振る者だけが生き残れると?だから同盟に加われと?」
「語弊はありますが、そのとおりです。リトラの内側に入り込み、その中で勢力拡大に努めるべきかと。確実に滅亡を免れ、今より暮らしを豊かにできるかもしれません」
「……隷属化する危険はないか」
「単独で戦うより恐れは低いものと思われます。力を温存しておけば、そのような動きがあったときに決起しても遅くないでしょう」
「そうか。では……」
挑発的な言葉が並べど、ここまでの問答はグスマの想定内だったようだ。
合格ということである。現実から逃げず、得られる利益と危険性を冷静に見ているか。氏族の皆に公平な判断材料と選択肢を――自ら提案者になるという変則的な形ではあったが、若長としての役割を無事に果たせた喜びは大きい。
だが安心するのは早かった。未だグスマは、議論の終結を宣言していない。これで終わりと思っていたバルザは、一転凍りつくこととなる。
「…次が最後の質問だ。議員という名のヒト質を求められたら、どうする。応ずるのか、応じないのか。応ずる場合……差し出すのは、誰か」
☆★☆★☆★☆★☆
(何だって……!?そんな話、聞いてねえぞ)
内心バルザは慌てた。
同じ国になる、というところまでは知っている。しかしそれは対外的な判断を統一するだけで、互いの暮らしには干渉しないものと思っていた。
言われてみれば理解できる。それが最も簡単かつ確実な裏切りを防止する策だと。表向きは敬意を示しているようでいて、こちらの重要人物を押さえることができる。普通に考えれば族長か、それに連なる者ということになるのだが……
(族長本人は出せない。となるとリシリア様かエアか……若長の俺の養女でもあるから、エアということになるかもしれん。いやいやいや、しかしそれは)
押し黙ってしまったバルザを、グスマの声が嬲る。
「どうした?答えを用意していないのか。それでは採決など望めんな」
他人の苦悩など知らぬといった風情で嘯く。彼の血族はと云えば、最近恋人のアローナが元気な男の子を産んだばかりだ。二百歳を過ぎての初めての我が子、目の中に入れても痛くないほど可愛いに違いない。聡明な彼は、その子をヒト質に差し出す可能性もあることを――身を切り裂かれるような辛さを理解したうえで言っているのだ。
(……相変わらずやってくれるぜ。筆頭殿はよ……!)
どうする。いざというとき逃げだすことを考えれば、やはりリシリアか。彼女には優秀な三人の護衛がいる。誰も頼んでいないが、そもそも勝手に傍を離れない連中が。
ノワキ、フキョウ、ナガメ――通称『リシリア親衛隊』。彼らが召喚する嵐の現象精霊は、格段に強大な力を持つ。本来ひとりで『風』『凍』『水』三種の元素精霊を一度に呼び出すものだが、修業により息を合わせて分担することに成功したのである。
最近は弟子としてゼクスという若者も加わった。前より成長した彼が攪乱工作を防げば、リシリアの安全はなお確実なものとなるだろう。
バルザにとっても、リシリアは亡き恋人の先祖に当たる。全く情がないかと云えば、断じてそのようなことはない。それゆえ案として持ち出すことも、辛うじて許されるのだが。しかし全体のために家族を売る、冷酷さへの誹りは免れまい。
逡巡するバルザを、天の声が救った。またしても族長のネロである。
「グスマ。採決だ」
「ですが……まだバルザの答えが」
「よい。ヒト質には、わたしがなる」
耳を疑った。どういうわけか、今日はいつもと違う言動が目立つ。
「……は?今、何と」
「問題はあるまい。お前達だけでも充分やってゆけよう」
「……………」
本来ならば、この発言に対しても質問せねばならない。
それがグスマの、年長の若長が果たすべき役割だ。全ての考えに対し、否定的見解を述べる――氏族の決定を、より慎重なものとするために。族長も間違いを犯す、百年君臨してきた偉大な人物でも。始祖より続くアトルムの知恵。
だが真意は明らかだった。
裏切りには死を――敵の腹の中へ、最も強い毒を送り込んでおく。積極的にヒト質として使わぬなら、執政官と数人の首級を取るだけで済ませよう。だが国ぐるみで罠に嵌め、ライセンやアトルム全体を滅ぼそうとするなら……
そのときは戦である。生き残りを賭けた壮絶なものとなろう。自らも同様の選択肢を持つ彼は、族長の覚悟を察した。
「……では、採決を行う」
族長が意見を述べたゆえ、仕切りはグスマの役目となる。
「論点は五つだ。ブラッドを攻めるべきか。イラリオ、リトラ、サラサそれぞれと同盟すべきか。リトラが議員を求めた場合、応ずるべきか。その人選は族長でよいか……」
淀みなく言葉を並べながら、不吉な想いに囚われる。
一体何なのだ、これは。まるで代替わりの予行演習ではないか、と。くれぐれも無駄になってくれることを願う。
(馬鹿馬鹿しい)
眉間の皺を深め、挙がった掌を数えてゆく。
結果は概ね、予想したとおりだった。
ブラッドを攻めるべきか。賛成十一、反対十四、棄権なし。
イラリオと同盟すべきか。賛成二十五、全会一致。
リトラと同盟すべきか。賛成十、反対九、棄権六。
サラサと同盟すべきか。賛成なし、反対二十二、棄権三。
リトラに議員を出すべきか。反対二十五、全会一致。
「……皆の考えは、分かった」
同胞の意思を汲み取るのは、族長の役目である。
責務と言ってよい。深めた議論の中から、最も賢明かつ納得できるものを選ぶ。
たとえ己の意思が否定されようとも。
「ブラッドを積極的に攻めることはしない。あくまで防備を固め、そのためにイラリオと同盟を結ぶ。サラサへは使者を出さぬ。ニンゲン達には、戦後の同盟を仄めかしておく……議員への就任やヒト質の要求には、決して応じないこととする」
☆★☆★☆★☆★☆
「師匠」
自分の小屋に入るなり、エアは養父を振り返った。
会合の後、そのまま歩いてきたのである。出かける準備のため――バルザはルークと共にイラリオ、エアはひとりでドゥオの街外れに住むヒルダの元へ。
最後になるかも、とまでは思っていない。だが家族三人、一緒に食事をする機会は訪れなかった。ここ数日、ずっとエアが塞ぎ込んでいたせいもある。
さりとて炊事や洗濯など、必要なことは普段どおりやっている。会合が開かれることを知らせなかったバルザのほうが、居心地の悪さを覚えたほどで。
そのうえ、娘に嫌われるだけのことはした。恋する乙女の慕う相手を、冤罪で死に追いやろうとしている。秘密の保持を優先して、エアには本当のことを話していない。
言い逃れは許すまじと、視線を逸らすバルザの正面に回り込む。
「師匠は……あれがウィルじゃないと思ってるんですか。だから倒すべきだ、って」
「ん?」
あえて分からないふりをする。ここで言い争っても得るものはない。
ナスカ族長暗殺とウィルの間には、深い関係がある。ウィルはナスカの養子ネフラであり、『姿偸み』は復讐のために親殺しの罪を着せた。それを逆手に取る――この謀を成功させるうえで最も重要なのは、それらの繋がりを悟らせないこと。
エアが拾った唐変木の朴念仁は、今も街のどこかで冒険者をしていなければならない。事件とは何の関わりもなく、全部終わった頃に帰ってきて皆から苛められるのである。
しかし本当に分からなかった。あのときエアは、獣人族の緩衝帯に来ていない。それなのに何故、ウィルがブラッドへ逃げ込んだことを知っている……?
「だって、おかしいじゃないですか!あれはどう見てもウィルだよ。何か事情があって嘘をついてるかもしれないのに……!」
バルザの顔から一斉に血の気が引く。
「お前……ハルマーに会ったのか!?」
「会いました、三日前。お兄ちゃんも一緒です」
「……いや。他人の空似と、いうこともある」
悪足搔きだった。直接見たとなれば、一緒に暮らしたエアを欺けるとは思えない。
バルザが選んだのは沈黙。ただ否定しない。事実上の肯定である。
「じゃあ師匠は、ウィルがどこへ行ったと思いますか?」
「……それが分かれば、苦労はせん」
一つ前の会合で、族長は言っていた。同胞ではないと分かったときは即刻追放。アトルムだった場合は監視し、軽率に殺めてはならぬと。
この命令は今も生きている。色無し子もアトルムであることに違いはない。言葉が通じるヒト型ゆえ、同じ変異体とてルークのように奴隷扱いされることもないだろう。つまりウィルが帰ってくる道は、未だ閉ざされてなどいないのだ。
「…族長と話してきます」
「あいつのことを言うのか?」
事実を伝えても、恐らく何も変わらない。ブラッド王ハルマーを名乗るウィルと同じ姿の男が現れ、エアとルークに宣戦布告をしていった。島全土の支配が目標であり、ナスカ族長殺害は最初の一歩だと。ウィルが言い出したことゆえ当然だが、それに加担したバルザの提案を後押しする結果にしかならない。
積極的にブラッドを攻めるつもりだったバルザも、こうなってみれば族長の裁定は適切だと思う。恐らくニンゲンも同じ選択をする。彼らの説得を受け持ったリタは、大変な苦労をしたのではないか。最初から見込みの薄い果敢な徒労を。
(やめておけ)
その言葉が喉に詰まる。
我関せずの毛皮と共に、未熟な父親は娘の背中を見送った。
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族長の家がある場所は知っている。小さな頃、誰からともなく先祖だと聞かされて見にいったことがあるからだ。そのときは外に出てこなかったため、自分とあまり似ていない姿を確認できたのは成人して最初の会合の場だったが。
近づいてゆくと、家の前には知らない三人と見慣れた男がひとり。
「ゼクス?…あんた、ここで何してるの」
「護衛だ。まあ、その必要もあるまいがな……」
珍しく歯切れの悪い様子。だが確かに言うとおりだろう。村の中で族長に危害を加えようとする者などいるはずがない。いたとしても返り討ちだ。
「……?」
他の三人は誰だろう――教えてくれるのを期待して視線を送るも、気遣いを母親の身体に忘れてきた男が分かるはずはなく。諦めて戸口へ進む。止められるかと思ったが、エアの血筋によるものか同胞全般を妨げるつもりはないのか。
とにかく入っても構わないらしい。少なくとも他所の族長や若長が来ているということはなさそうである。となるとゼクス以外の三人がますます以て謎なのだが。
「…ごめんください。失礼しまーす……」
我ながら間抜けな挨拶だと思うが、シェラやアローナに用があるときは、これで通っている。考えてみると、バルザ以外の男性の家に入るのは初めてだ。アトルムは所謂『通い婚』、他の恋人を持たないグスマもアローナと一緒には住んでいない。
(…何だろう。でも、これって……)
奇妙な家だった。しかし間違いなく見覚えがある。
この建物が、ということではなく。似たような造りを最近見た。
ニンゲンの住処。『部屋』と『廊下』を壁で仕切り、全体が見えないようにしてある。
(どういうこと……?)
深い意味などないのかもしれない。アトルムとドワーフの付き合いは古く、特別に頼んで造らせたのだろうか。便利だからという単純な理由で。
「お入りなさい。待っていたわ」
穏やかな声に目を向けると、廊下の角に短髪の女性が立っている。落ち着かない微笑みを浮かべ、溢れ出る何かを抑えるような。
見ていると、こちらまで胸が温かくなる。見下したり嘲ったりというのは違う。確証はないが、もしかすると面白がっているのかもしれない。
名前も告げず突っ立っていたことに気づき、慌てて頭を下げる。
「エアです。その、族長と話しに」
「知ってる。さ、奥へどうぞ?」
まるで自分の家みたいに。
廊下の角を曲がり……扉をひとつ素通りして、その更に向こうの片隅。木と紙で造られた異様に低い引き戸がある。
「ここから先は、脱いで上がるの。不便だし変よね」
振り向いてくすりと笑う。
アトルムの床は板張りだ。裸足になることもヒトによっては珍しくない。エアの家も同じであり、そのまま座って毛布を敷いたりして寛ぐ。
この家が奇妙なのは……履いたまま入るにもかかわらず、ここでだけ裸足になること。
どのような考えに基づくものか分からない。さりとて粗相を働くわけにも。女性の言葉に従い、足の泥を丁寧に落としてから狭い入口を潜る。
何やら匂いのよい敷物、中央だけ四角く空いた隙間にささやかな囲炉裏がある。そういう形と思ったが、小さな長方形を幾つも並べているようだ。
エアから見て左側、火の傍に族長。それと向かい合うように、ここまで案内してきた女性が着座する。どうしてよいか分からず戸惑っていると、掌を上に向けて族長の隣へ座るよう教えてくれた。話をしに来た相手と、同じ方角を向いて横に座る。何とも奇妙な感じだが、正面から顔を合わせるよりは緊張せずに済むかもしれない。
「あの……?」
「リシリアだ。お前も知っていよう、我が妹の五代後の末裔だ」
何も言わず微笑むと、リシリアは囲炉裏の火に取りかかった。それから全く顔を上げようとしない。無視してくれてよい、ということだろうか。一方家主のネロも、彼女を空気として扱う素振りである。
ひと抱えほどもある大きな鉄の器が、やはり鉄でできた台座の上で盛んに湯気を立てている。そこから柄杓で湯を汲み取り、陶磁の椀へ一杯ずつ丁寧に注いでゆく。小屋の中に不思議な香りが立ち込めた。しばし三人とも無言になる。
「…これって……?」
沈黙に耐えかねたエアが、鉄製の器を指差す。
「舶来の品だ。『ナンブ』という」
「はあ……」
アトルム語では南を意味する言葉だが、大陸北部の名産である。その曰くについて故郷がどうのと言われた気もするが憶えていない。緊張して頭に入らないのだ。
まずネロの前に椀が置かれ、続いてエアにも。器の中では得体の知れないどろりとしたものが、ゆらゆらと揺蕩っている。
ちらり窺うと、また笑顔のリシリア。覚悟を決めて一息に飲む……意外と甘い。
「話があって来たのだろう」
「…!?は、はいっ」
威勢よく返事したものの、言葉が出てこない。
ここへ来る前は、あれもこれもと考えたのだが。いざ話すとなると、余計なことばかり浮かんでしまう。自分が生まれたときや父が死んだときのこと。
だが、それらは雑念だ。今は、今為すべきことがある。
器を置き、揺らめく小さな炎を見つめた。
「……族長は、ハルマーの正体を御存知でしょうか」
その問いが全て。ウィルは支配など望まない。少なくともエアの知る彼は。
「大体、見当がついている」
こちらも椀を戻し、オテマエ頂戴したと不思議な言葉を呟く。
「バルザの言葉は正しい。だが、どうしてもそのとおりの未来を描けないのだ」
ライセン、サラサ、リトラ。どの勢力も本気を出せば単独でブラッドと戦える。全力を傾けた後、手負いのところを襲われる心配さえしなければ。ブラッドが倒れても、その歩みは止まらない。目先の敵の向こうに見ゆる、真の敵を倒すまで。
サラサはブラッドの先にライセンを、ライセンはサラサを見るだろう。リトラは両者を相争わせ、共に従える夢想を抱くか。
意思を伝える時宜を選び、参戦の好機を窺う――だが如何なる思慮、謀略を以てしても。ネロの脳裏には、焦土と化した故郷が浮かぶ。道を誤ってはいないはずなのに、どこをどう進んでも穏やかな未来が見えてこないのだ。
彼ひとりの頭で考えたことではない。打って出る限り、必ずライセンの民に大きな被害が及ぶ。間違いないことが分かっている。なれど、その確かさを説明する言葉がない。教えられぬ事情がある。ゆえに覆さないことの理由を他に求め、お茶を濁す。
「お前がウィルと名づけた若者。あれは元気にしているのか」
「…ええ。まあ」
「ならば、よい。ここにいなければ危険もないゆえな」
バルザが未だ結論を保留するウィル。まるで彼が存在しないかのように扱うこと。それ自体が優しさであり、皆のエアを思いやる気持ちだ。
感づいた者は、恐らく他にもいる。事件が起きたのはウィルが消えた直後。主犯とまでは言わずとも、何か関係があるのかもしれないとは思う。
見えないところで死ぬのなら、死んでくれてよい。ライセンを巻き込まず、エアを傷つけず……そのまま消えてくれれば。元々彼は、ここにいなかった存在。
「皆を護るためだ。辛いだろうが、理解してほしい」
「………!」
エアに向き直り、深々と頭を下げるネロ。それを見て、リシリアも彼に従った。
無事でもよい。不意討ちを受ける危険さえなければ。少なくともネロは、ウィルの抹殺を勝利条件にはしていない。
それだけ分かれば充分だった。自らニンゲンのヒト質になると言った遠い祖父。徒に責める気はないし、その言葉を信じたいとも思う。
「…御馳走様でした。失礼します」
二人と同じ仕草で頭を下げ、狭い部屋から退出する。
鉄の器が変わらず湯気を立てていた。閉め切っているせいか、少しばかり暑い。
椀を手水で濯ぎ、白湯を淹れなおす。
無言で受け取り、啜る。それから一息ついて呟いた。
「ゼクスをお前に預けたのは失敗だったな」
思わぬ糾弾に、リシリアは心外そうな顔をする。半人前と言うしかなかった若者は、ナガメ達の指導を受けて一人前の戦士になろうとしている。
「…成長したと思いますけれど?」
「だからだよ。これで四人目か」
リシリアに心酔するナガメ、ノワキ、フキョウの三人は、ライセン氏族の一員でありながら会合には参加しない。それというのも、リシリアが隠居同然の暮らしを送っているからだ。有望な若者が育っても、同じことになっては堪らない。
「…どう考えても濡れ衣ですよね……?」
首を捻りながら帰ってゆく。それでも飯時には、また世話をしに来るだろう。
彼女が生まれる前から、ネロはひとり暮らしをして長い。自分で作れないわけではないが、好きなようにさせている。とりあえず今のところは。
バルザも面倒を見られていると聞く。このままでは、同じことの繰り返しだ。
茶道具を片す手の動きが止まる。
「……エア。僕は……」
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あえてヒトの手が入らない森。
島の東側、アトルムとニウェウスが睨みあう前線からは少し遠い。自然のままにしてあるのは、外敵の侵入を難しくするためだ。ここで暮らす者達にとっては、木々の枝が伸び下草が生い茂っても慣れ親しんだ庭に他ならないゆえ。
その中を進む余所者がいる。
ウィルだ。今はブラッド王ハルマーと呼ばれているが。
養父殺しの濡れ衣を着せられた彼だが、本当にやっていないことまで罪を被り殺されるつもりはない。生き延びられるよう最善を尽くすため、この場所に来ている。
(…始原の森。実際に足を踏み入れるのは初めてだが……)
ニウェウス始祖四氏族のひとつカイン。彼らは極めて閉鎖的な社会を形成した。礎の女神アウラよりも、世界にマナを循環させる仕組み『黄金樹』を護ることに力を注ぐ。
外部との関わりを断ち、自らの領域に立ち入る余所者は全て殺す。ニウェウスかアトルムか、獣人やニンゲンであるかは関係ない。誤って迷い込んだ者は尻尾を巻いて逃げだせば許されることもあるが、幸運に命を賭けるのは愚か者のすることだ。
彼らは世界の存続を望んでいる。礎の女神アウラの健やかなる目覚めを託されたにもかかわらず、女神にとっての悪夢たるアウレアの維持を願う。
古き一神教の聖典に謳われるカインも、人類最初の殺人――弟殺しの罪を犯したとされる。殺された弟の名はアベル、やはり始祖四氏族の名前だ。同じくアダムは兄弟の遠い先祖、残るサラサだけは記述が見当たらない。
いずれにせよ、こちらのカインは更に酷い裏切り者と言わざるを得ない。造物主より与えられし使命を棄てたうえ真逆の方向へ進もうとする。
とはいえエルフ達は古き一神教のことを知らず、大陸北部に細々と残る古き一神教の信者達はエルフ社会の成り立ちを知らない。そのような感慨を持ち得ないのである。両方を知る者がいるとすれば、それは女神アウラ自身か――彼女と同じように故郷の世界から記憶を永らえ、アウレアの隅々まで見通す目を持つ者だけだろう。
斯くも危険と見做されるカイン氏族だが、ウィルは何も彼らと戦ったり話をするために東の森を訪れたのではない。用があるのはただひとり、カインの子にして唯一の生き残り。ニウェウスの女王ことティターニアだ。
明確な支配こそないが、ティターニアの言葉は大きな影響力を持つ。あの傲慢なタルカスでさえ、彼女には注意を払っていた。どこからどう伝わるのか――小さな呟きが遍く広がり、皆の意識を変えてゆく。謀略の主にしてみれば堪ったものではない。
最後のひと押しに、その力を利用させてもらおうと考えたのである。少しでも反感を和らげるため、今は黒い膚の擬装を解いて生来の色無し子に戻っている。女王の住処があるという古の森の外縁を目指す。
だが、その認識は甘いと言わざるを得なかった。いつ境を越えたのだろう――十人を超す戦士達が、ウィルの前に立ち塞がる。
「止まれ、余所者」
「ここから先は、黄金樹の領域」
「同胞といえども無闇に立ち入ることは罷りならぬ」
「俺はサラサのネフラ。女王にお目通り願いたい」
戸惑い混じりに視線を交わす戦士達。
彼らの間ではサラサ、若しくはネフラの名前が何らかの意味を持つようだ。武器を降ろし、対話に応じる姿勢を見せる。その一方、剣呑な空気は変わらないまま。
「女王だと……?」
ひとりが吐き捨てるように呟く。
「あれは罪人だ。とても救いようのない、な」
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ティターニアの住処は、本当に小さな丸太小屋だった。ブラッドの雑魚寝小屋、サラサやライセンの集会所はおろかエアの家よりも慎ましい。
カインの戦士達は、武器を取り上げると目隠ししてウィルを連行した。
理不尽な措置だが、ここで逆らえば戦うしかなくなる。また依代や法創術師にとって、武器など飾りでしかない。肉体派のユリアナやセインには厳しいだろうが、基本的にエルフは全員依代であり法創術師だ。そのことはカインの戦士達も分かっている。争うつもりがないという意思表示の問題なのだと。
「ついてこい。お前の望みを叶えてやろう」
言われるまま歩き、目隠しを外して現れたのが先程述べた小さな小屋。
だが手入れは行き届いており、荒んだ印象はない。罪人という言葉や、それを口にしたときの態度は気になったが、一応大切にされているらしい。女王に関することが不機嫌の理由、されど彼女の責任を問うようなことでは――そんなところ。
「入れ。俺達は、ここで待つ」
「本当にいいのか?俺はサラサの族長を殺した男だぞ」
あまり簡単すぎるため、思わず訊き返してしまう。
「その噂が事実ならな。だが仮に事実だとしても」
ここで初めて、僅かに言い淀む。
「貴様は後悔していよう。死人のような面構えを見れば分かる」
「……………」
これ以上は時間の無駄とばかり、ウィルを小屋のほうへ追い立てる。元よりそのために来た、ここは素直に従っておく。
背中に刺さる視線を感じつつ、あえて足音を隠さず扉の前に立つ。大きく三度、等間隔に戸板を叩く。シルフの悪戯と間違われないように。
「…誰?」
「『日の眠る里』サラサが族長ナスカの息子ネフラです。ティターニア陛下にお力添えを賜りたく参上しました」
「……………」
反応なし。後ろから溜息が聞こえる。何か下手を打ったのだろうか。
よく分からないが、勝手に入るわけにも。途方に暮れていると、百を数えるあたりで中から再び声があった。
「……入って。ネフラさん」
「では……」
失礼いたします、と言いかけてやめる。もしかしたら、慇懃な態度を好まないのかもしれないと思ったからだ。初対面とはいえ、自分より遥かに歳下の若輩者に敬称をつける。罪人と呼ばれることも、あるいは関係しているか。
だが一定の敬意を示す必要はあろう。これからウィルが伝えることは、いつもの無愛想な態度で話したら誤解される類の内容ゆえ。
「こんにちは。立ったままも何だし、まあ座って」
外見と違わず、女王の住処は板張りの簡素なものだった。椅子や寝台、敷物の類もない。あるものは辛うじて寒さを凌げそうな囲炉裏と薄い毛布だけ。
冬支度が順調とは言えない。このような有様で、本当に乾季を越せるのか。
不躾な視線の意味を察し、さりとて気分を害したふうもなく疑問に答える。
「…私は、死ねないの。どれだけ飢えて凍えようと……祝福を失った今でも力が残っているのは、アウラが私のことを憶えている証だから」
たとえ罰でも嬉しく思うわ――無表情のまま呟いた。
誰も憶えていない過去。それがティターニアの罪だ。聞きようによっては、注目を集めたいがために嘘をついたとも勘繰れる。
ティターニアはかつて、礎の女神アウラと昵懇になった。女神にとっては最初の話友達だったらしいのだが、寂しさに耐えかねていた女神はそのことを感謝するあまり極端な行動に出てしまったという。
ニウェウスを世界の頂点とする帝国を築かせてしまったのだ。
君臨する皇帝は、無論ティターニア。アトルムは未だ存在しなかったが、獣人、ドワーフ、ホビット、ニンゲン――あらゆる異種族は奴隷となった。皇帝とその眷属に逆らうことは許されず、何をしても必ず失敗した。世界の運命が自ら収束をかけたように。
埒外にいたのはアウラとティターニアの二人。そこにニンゲンの真言法師リュドミーラが現れ、存在を抹消される危険も顧みず帝国の不当性を主張した。ティターニアは何もしていない。ただ与えられたものを、他人に言われるまま棄てただけである。
物語としての構成などあったものではない。作り話にしても出来が悪すぎた。それゆえ後世のヒトビトは信じたのである。何の根拠も物証もないティターニアの罪業を。
「私の力を借りたいと言ったけれど、それが礎の女神を意味するのなら今すぐ帰って。彼女は私を許さないし、私自身も二度とあの子を頼るつもりなんてない」
「言葉どおりの意味です。あなたの協力を得るために参りました」
カインの戦士達が、すんなり通してくれた理由も分かった気がする。同じ罪人と会わせれば、ティターニアを慰められるとでも考えたのか。
(安直だな)
しかし間違っているとは限らない。他者の罪を知ることは、自らの罪を乗り越えることに繋がってゆく可能性がある。
まずはウィルも、己の罪を自覚することから始める。
「…ブラッド王ハルマー。今は、そういうことになっています」
ティターニアは驚かなかった。サラサのネフラと聞いた時点で、ナスカ族長の息子を装った何者かがブラッドへ逃げ込んだ噂も思い出したのだろう。
「最近ブラッドの王になったのは事実です。しかし私が父を殺したという、そちらのほうが事実ではありません」
色無し子のアトルムとして生まれたこと。二十年前のサラサとセシルの戦の折、孤児としてナスカ族長に拾われたこと。ニウェウスとしての彼は差別的であり、異なる種族に対して卑劣な騙し討ちを繰り返していたこと。その復讐としてニンゲンの冒険者に狙われ、膚の色を変えられたうえで記憶を失い……今度はライセンに拾われたこと。
「…『姿偸み』の復讐は続いています。私を苦しめるためだけに、奴は今回の事件を引き起こしました。ニウェウスとアトルムの対立を煽り……私を救ってくれた、私が大切に思っている二つの氏族を戦わせようと」
事件がなくとも、サラサでは陰謀が動いていた。若長タルカスを首魁に戴く、全てのアトルムを直ちに滅ぼすべしと考える一派だ。彼は同胞の死を利用してまで、戦を止めようとしたネフラを冤罪に陥れた。『姿偸み』の思惑に乗せられているとも知らず。
「あの男がいる限り、ブラッドを滅ぼしても戦は終わりません。タルカスはライセンに個人的な恨みがあります。ブラッドについてはアトルムからも疎まれていますが、ライセンに侵攻した時点で……他の氏族やイラリオが黙っていないでしょう」
そうなればニウェウスの側もアダムとアベルが参戦。つまり……
「……全面戦争」
「そうならないようにしたいのです。ブラッドは私が力ずくで押さえましたが、もはや戦は止められません。今できるのは、被害を最小限にすることだけ。そのためには、女王と呼ばれるあなたの影響力が必要なのです」
ブラッドを押さえるのは意外と容易かった。暴力的な支配を行っていた戦士達が、約半年前の疫病で概ね死んだからである。穏やかな暮らしを望む大多数の者達と協力し、今のブラッドは見違えるほど生まれ変わっている。
しかし一度広まった悪名は消えない。そのことを逆に利用するのだ。
「…タルカスのような主戦派を近衛として集め、ブラッドへ侵攻していただきたい。私は王として彼らを迎え撃ち、古の魔獣の縄張りに誘導して一掃します」
戦う力を持たない者達は、イラリオの庇護下に置く。王の代理ヤヨイとイラリオの戦士サツキは姉妹であり、この話は若長リタの内諾を得ている。王たるハルマーがいなくなっても、周辺に無秩序な混乱をもたらすことはないだろう。
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「…仮初めの平和を得るために、また多くの罪を犯せと?」
「母の友を傷つけました。妹を泣かせました。妻を忘れました。恩を仇で返しました……」
それでもリタは、友の忘れ形見が生きる道を探そうとしている。リーネは……あれから一度も会っていないが、恐らく今もウィルのことを兄だと信じているだろう。思わず名を呼んでしまったユリアナ……彼女は諦めてくれるはず。アトルムに身を穢されたと怒り、殺してくれるなら本望だ。我ながら残酷な仕打ちとは思うが。
エアは……恨んでいるだろうか。彼女の故郷を巻き込んだことを。
最後に顔を合わせたとき、ブラッド王ハルマーを名乗ったにもかかわらず彼女はウィルを説き伏せようとした。ヤヨイが攻撃してくれなければ、ルークが気を利かせてくれなければ、あのままついていったかもしれない。島中に混乱をもたらした責任を放棄して。
だが去り際に見せてくれた表情。ようやくエアは覚悟を決めた。どのような結果に終わるとしても、今なお相棒だと思っている彼女に恥じぬ働きをするしかない。
「…あなたも罪を犯したのね」
「償わねばなりません。命を投げ出しても」
「簡単に言わないで。命を投げ出したくらいで償える罪など……大したものではないのだから。あなたは自分の罪を、その程度のものだと思っているの?」
言葉の後半は、見えない涙に濡れていた。
実感があるのだろう。声音に字面ほどの厳しさはない。
「……言い過ぎたわ。ごめんなさい」
「いや……」
この家に入ったとき感じた、言い知れぬ隔絶のようなものは消えていた。代わりに胸を満たすのは……同じ苦悩を抱える者同士の凄惨な共感。憐れみとも傷の舐めあいとも違う、互いの傷を抉りながら、自分と相手の生きてゆく意思を確かめる。
ティターニアの結論は、ウィルにとって厳しいものだった。
最初から予想できたことではある。優しさと気高さで知られるニウェウスの女王に、このような卑しい提案が受け容れられるはずはなかったのだ。
「でも、あなたの気持ちは分かった。カインの同胞達には手を出させないし、戦を終わらせるために全力を尽くすと約束する」
「……ありがとう。あなたの温情に心の底から感謝する……」
女王との謁見を終えたウィルを、カインの戦士達は同じ場所で待ち続けていた。
微妙な表情を浮かべている。満足気なところが理解に苦しんだのだろう。
「…面倒をかけたな」
無理に通してもらったはずが、そのようなことを言う。彼は、最初に女王のことを罪人と罵った男である。
再び、吐き捨てるように呟く。
「ティターニアは、罰せられることを望んでいた」
さも不快そうに。忌々しげに。それでいながら、戦士の声音は驚くほど優しい。
「ゆえに我らは、あの者を『罪人の女王』と呼んだのさ」




