第6章 漂流
欝蒼とした森の中を、一人の青年が駆けてゆく。
透き通るような白い膚、色の乏しい後ろで束ねた銀髪。まだ若い野鹿を思わせる、無駄なく均整の取れた健康な肢体。細く尖った長い耳朶に、甘く繊細な顔立ち。一瞬女性と見間違えてしまいそうなほどの並外れた美貌だが、その身体つきを見れば確かに女性ではない。高貴にして聡明なる存在、森の守護者エルフ族だった。
「いたぞ、こっちだ!」
「!?」
意外に近くで上がった声を聞いて、青年の整った顔が恐怖に歪む。
「え、どっちよ……あ、本当だ。いたいた」
行く先から姿を現したのは、やや濃い砂色の髪をした女の同胞。もっともエルフ族は、見た目に大きな男女差があるわけではない。彼女の身体も胸や腰の肉付きに乏しく、華奢な男性と言って通じる、誠に不本意な体形をしていた。
「……くっ!」
このままでは囲まれてしまう。足の遅いニンゲン娘やドワーフ戦士の姿は見えないが、いずれ足止めを食っていれば追いついてくるに違いない。
奴らは忌まわしい妖魔とも平気で手を結ぶ、無節操極まりない下衆な不届き者。ニンゲンの余所者――入植と称して百年ほど前に突然現れた侵略者達――に金で雇われた、獰猛かつ欲深な恥知らずの無頼漢。金のことしか頭にないが、それなりに腕は立つ。上手く言いくるめて共倒れにしようと策を練ったはいいのだが……
近くで風が軋む。怖気の走る太い矢が足元に突き刺さった。矢尻に躓き、頭から転んでしまう。擦り傷程度で済んだが、逃げられないことは確実。弩を抱えた童顔の獣人が近づいてくる――一見能天気に、だが嗜虐的な笑みを浮かべながら。
「だめだよー、逃げるなんておイタしちゃ。あたし達は、ちゃあんと優しくしてあげるって言ってるのにさ。あんなコトとかこんなコトしてぇ……気持ちよくなったら、イロイロ教えてもらおうと思ってるだけなんだからね?」
口元の涎を拭いつつ、ぬふふふふふと好色そうな笑みを浮かべる。
外の世界には、異種族を辱めて喜ぶ変態がいるらしい。落ち着きなく頻繁に向きを変える猫の耳と、肘上膝下を覆う三色の毛皮。この島に存在しない猫の獣人ルーマ族の特徴だ。海の向こうから現れた、忌まわしくも穢らわしい侵略者。
「野暮用はさっさと済ませて、夕餉を摂るとしましょう。こういうときの選択肢は、昔から一つと決まっています。裏切り者には、死を……ほぐわぁっ」
「戯言終了。馬鹿は埋めるわよ」
女の蹴りが決まって、よろけた青年が頭から木に激突する。
追われる男と同じく、膚の色は白い。だが目や髪の色は違っていた。砂色の滝と翠の果実、笹の葉の形をした細長い耳。かような身体的特徴の人種をニウェウスという。よく似た種族が現れる前は、単にエルフと呼ばれていた。ニウェウスと呼ばれることを頑なに拒む彼女は、邪悪な妖魔のことさえ「土地変われば毛色も違うでしょ」くらいに考えている。
「汚れて可哀想だから、ちゃんと綺麗にしなさいよね。話はできないけれど、彼らも真剣に生きてるんだから」
「…………………」
死んだふりを続けても、慈悲は与えられなかった。言われてみれば木の幹や草叢に微かな血飛沫。どう考えても生育に影響するほどではない。
沈黙したままの青年を踏みつけ、ルーマの娘が歓声を上げる。
「やったー。じゃあ、あんなコトやこんなコトをしてもいいんだね?効率よく有用な情報を引き出すには、まず拷問からってことでぇ……」
「却下」
無碍に言い切り、全力で頭を叩く。涙目で抗議しようと構いはしない。
「ええー」
「ええーじゃないっ」
あくまで無視。この色ボケは、完全に目的と手段を取り違えている。
「どうしてもー?」
まだ食い下がる。いたいけな顔と声でおねだりしても、頭の中にあるのは煩悩極まる下劣な欲望だ。そんなもの絶対に認められるはずがない。
「どうしてもっ!残虐行為や変態行為は禁止っ!私が幻影術で口を割らせるから、黙って大人しく見てなさい!それから言うまでもないけれど、身包み剝ぐのも全面禁止っ!」
「……がっかり~」
残念そうに肩を落とす。多少は品性というものを弁えているらしい同胞のお蔭で、とりあえず貞操の危機は回避された。
だが根本的な問題は解決しない。このまま捕まれば、確実に秘密を喋らされる。
闇への恐怖や繰り返される音、明滅する光、炎の揺らめき。幻影術は、それらを道具にして他人の心へ入り込む。単純な幻を見せるものから、洗脳して奴隷に変えるものまで様々。一度は抵抗したものの、余程の負けず嫌いらしく諦めようとしない。意識を取り戻したときには自白させられており、絶対逃げ出せないよう固く縄で縛られていた。
「さて……と。みんな集まったな」
踏まれた青年と同じ顔の戦士が全員を見渡す。
俄かに信じられないが、中には黒い膚のエルフ――忌むべき魔神の下僕アトルムも混じっていた。右腕を失っており、顔色が非常に悪い。やったのはこの連中、しかし原因はニウェウスの青年にある。疫病の魔獣を操っていると嘘を吹き込んだのだ。
神々の末裔ニウェウスと、ニンゲンが魔道に堕ちたアトルム。姿形こそ似ていても、出自は全く違う。たとえ一時的にせよ、両者が協力するなどあり得ない。朦朧とする意識を必死に保ちながら、同胞の女を睨みつける。
「…裏が読めた、ぞ……貴様……妖魔が、化けて……いるな?……さもなくば……あの穢らわしい連中と……慣れ合えるはずが、ない……」
挑発めいた言葉に、アトルムの女が一瞬だけ怒りを覗かせる。しかし非難の矛先たる白い膚の娘は、特に反応を示さなかった。むしろ憐れむような、悲しそうに取り繕った顔を馴れ馴れしく寄せてくる。
「同胞の誼ってわけじゃないけれど……私達にあなたを殺すつもりはないの。その代わり、ちょっとした罰を受けてもらおうと思ってる。正々堂々と戦いを挑むのならともかく、騙して罠に陥れようとした。それは決して許されない行為だわ」
「あなたの罰について、私達は真剣に議論を重ねました。復讐なさりたければ、いつでもお越しください。ですが、これはあなたのためでもあるのです」
そう口にしたニンゲンの娘は、センニンとかいう耳慣れない存在を崇める教団の修道服を纏っていた。そんな神の名前は、今までに一度も聞いたことがない。
この世界における神とは、古代文明の担い手だった十二柱の神々を指す。またエルフの主神は、世界の礎たる女神アウラ。逆神や中立神はおろか魔神にも名を連ねない神など。そんな贋物が吐く世迷言を、誰が信じられよう。
「……すまんの」
これは魔神カスパルに仕えるドワーフ。小人は魔神の被造物、アトルムと同じ不浄の存在である。こちらは本物の神職だが、それだけに許せるものではない。
「…この屑の始末は、お前達に任せる。今までどおり森の外には手を出さないし、ニクス共に報復するつもりもない。あとは勝手にしろ」
吐き捨てるように言うと、アトルムの女は暗闇に姿を消した。魔族の扱う邪悪な奇蹟――創術は、自らの肉体を様々に変化させる力を持つ。今彼女が唱えたのは、皮膚の色を変化させて周囲の景色に溶け込むための呪文だろう。押し殺した足音が次第に離れてゆき……やがて、その気配は完全に消えた。
「……では始めるとしましょう。真言法の粋を極めた私には、そもそも不可能などありません。早速あなたの魂を奈落の底に突き落として……ぐべ」
「いい加減、しつこい。腐れ導師の戯言を聞いてる暇はないのよ」
今度は脇腹を蹴られ、潰れた蛙のような声を出す。強靭な肉体を写し取った彼のこと、この程度で動けなくなることはない。ぐりぐり足蹴にされたまま精神を集中すると、マナを込めた指先で虚空に文字を描きはじめた。
「……私を、どうするつもりだ……くっ……は、離せ……!」
「大丈夫だよー。痛いのは最初だけだからねー?」
ルーマの娘が、厭らしく嗤う。両手の指をわきわきと、愉しそうに動かしながら。悦びも露わ、涎を垂らし。今度は同胞の女も止めようとしない。
「や、やめろ」
連中は恥知らずにも罰だと言った。その実体は、偽りの美名を掲げた仕返しである。
言霊が完成したとき、自分はどうなってしまうのか。ふざけた態度を見る限り、どうせ碌な運命ではあるまい。
「いや頼む、お願いだ!何でもするから、助け……」
強烈な魔力の奔流を浴びて、青年の意識は深い闇の底へと沈んでいった。
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ネフラが拘束されている間に、魔獣の討伐は完了した。
疫病の蔓延を引き起こした魔獣の名はフンババ。太古の昔から存在し、それはアトルムが世に現れた千年前よりも古い。
すなわち今回の事件とアトルムは無関係だったことになるが、それは初めから知っていた。要は敵を陥れられれば何でもよい。敵同士を争わせて双方弱体化できれば何よりではないか――毒を以て毒を制す、というわけである。
だが失敗に終わった。そのうえ罰と称して何らかの術をかけられる羽目に。
恥辱である。そもそも原種ごとき、何の資格があって神の末裔を裁く?道理の原点に立ち返るなら、ニンゲンは無条件でニウェウスに従うべきなのだ。始祖神のありがたい御託宣により、ニンゲンは滅ぼすのではなく導くべしと。御慈悲を賜ったのだから。
討伐完了後、ネフラは即座に解放された。
かなり拍子抜けしたが、疫病の魔獣を仕留めたうえはネフラが何をしようと関係ない。どうでもよかったのである。
だがその油断、あるいは慢心が命取りになった。
野営の夕餉において、ネフラは毒を盛ったのである。
「貴様らの下賤な味付けは好まぬ。我々は別のものを探す」
「…あなたねえ。まだ懲りないの?」
「まあよいではないか。料理の好みはヒトそれぞれ。強制しても始まらん」
「リーネちゃんは食べるよねー?一昨日おかわりもしてたし」
「あ、はい。いただきま……」
「お前も来るのだ。これ以上、下賤の暮らしに馴染む必要はない」
「そんな言い方しなくても。リーネさんのしたいようにさせればいいじゃないですか。妹さんはあなたの所有物じゃない!」
「……家庭の事情に口を挟むつもりはございません。ですが……これでお別れなのです。妹さんを少しお借りできませんでしょうか?お願いします」
「…エリザさん、そんな。私は……その」
「リーネ!!」
「まあまあ。いいじゃないですか?この程度では発動しないように組みましたから……陰口する都度死んでいては、命が幾つあっても足りませんよ。御一緒できないのは残念ですが、リーネさんにも立場というものがありますし、ね」
「……………っ!」
貴様が元凶ではないか、と言わんばかりの目つきだった。
しかしそれ以上は反論せず、強引にリーネの手を引いて野営地を離れる。
そして……間もなく惨劇は起こった。
「…こん、な……どうして、こんなことを……?」
採集から戻ってみると、冒険者達は全員倒れていた。
ニンゲンの女と青年の二人――戦士か言霊使いか区別つかない――は即死。残りの四人は、まだ息があるのだろう。苦しげに呻いている。
「どうして……答えてください、兄さん!」
「エルフが原種に救われたなど、あってはならない」
「…ニャぁああああアアァッ!」
最後の力を振り絞ったルーマの動きにも精彩はない。とても敵う相手ではなかったが、この状態ならネフラはおろかリーネでも倒せる。赤子の手を捻るように。
ドワーフも遅れて息を引き取った。一番厄介なのは彼だったが、言語不明瞭になる薬を選んだのが正しかったようだ。彼ほどの神職、毒を癒す程度は造作もない。創術の神に祈られては、全ての企みが水泡に帰す。
「…冗……談、じゃないわよ………」
驚くべきことに、まだ立ちあがろうとする者がいる。
「これ、くらいの毒……!…別に、どうってことないんだから……!」
「ルーナさん!?…よかった……あっ」
「余計な真似はするな」
黙って見ていろ――その視線だけでリーネは動けなくなる。不器用な兄は好きだが、こちらの彼は心底怖ろしかった。自分はユリアナやセインのようにはなれない。兄を叱るなど、況してや力ずくでも逆らうなど……
「食い意地の張った貴様にしては珍しいな。あまり口にしなかったか」
「…女の子に、言う台詞じゃないでしょ。それ……っ」
「まだ減らず口が叩けるのか」
依代相手に油断は禁物。言葉ひとつ、指一本使えなくとも戦える。確実に仕留める方法は、頭を粉砕すること。首と胴を切り離しても思念が残る。数秒は安全ではない。
だが、それも防ぐ自信がある。強大な力を持つ現象精霊とて、たかが数秒では。風の刃を飛ばし、女の首を斬り飛ばした。最後の足搔きか、気流の乱れにより刃先が鈍って何度も撃ち込まなければならなかったが。余計な苦しみを長引かせただけ。
「……あ。あぅ……あぁ……!」
喘ぎ悶えながらも、必死に逃れようとする。青年の下にある地面が盛り上がり、そこから飛んでくる石礫が三つ。風の壁を突き破るには速さが足りない。
どうやら言霊使いのようだ。依代の技には驚いたが、恐るるに足らず。地中から土の精霊を呼び出しては、小さな石を投げつけてくる。何度繰り返したところで致命傷には遠い。さっさと片づけてしまうに限る。
最後の抵抗か。特に激しい隆起が起こった。石礫も岩と呼べるほど。風だけでは防ぎきれず、二歩退いて避ける。次の手もなく、攻撃はそこまで。
予想外だったのは、言霊使いが川に落ちたこと。
かなりの急流だ。どうせ中毒死するが、あれはあれで助かるまい。
「やった……のか」
信じられない気持ちだった。あの化物染みた連中にひとりで勝てるなど。
「は……はは。はははは……」
これで威信は保たれる。神々の末裔たるニウェウスの。
今まで、そして将来も。ニンゲンに救われるなど、あってはならないのだ。
☆★☆★☆★☆★☆
事件から半月経った。あれ以来、リーネは口を噤んでいる。
いや正確には、兄ネフラとだけ口を聞かない。父ナスカ、義姉ユリアナ、許婚セインとはぎこちないながらも会話する。前のような笑顔は見られないが。
今朝初めて、また村の者と挨拶をした。ユリアナに連れられ、散歩がてら畑の様子を見にいったとき。家の中でネフラと顔を合わせても、無表情のまま通り過ぎる。
「…大丈夫か、お前」
兄妹仲を心配して、義兄弟のセインが声をかけた。
家にいるのは辛いだろうと、自分の歩哨に無理矢理付き合わせたのである。
「何が」
「何が、って……リーネのことだろうよ」
「だから、何が」
「……………」
意地を張るのも大概にしろよな、と思う。
ニンゲンや魔族のことなど別にどうでもよいが。まとめて始末した同胞の女も、裏切り者だったゆえ仕方ないと思うが。
リーネは、まだ若い。五年や十年の違いなど、いずれは消えてゆくものだとしても。今のその時間差は、全体の数割に相当する。経験の差は如何ともし難い。
これは生存競争なのだ。アトルムとは倶に天を戴けない。優しいリーネにそのことを理解させるのは骨が折れるだろう。ゆっくり丁寧にやるしかないか……
兄は兄のほうで、面倒臭い男である。常に正しくあろうとし、また正しくなければ自分の存在意義がない、存在を脅かされると勘違いしている。
だから自分に厳しいし、他人にも厳しい。
そのネフラが、今度のことでは妹を責めなかった。あるいは自分も間違えたところがあるのかもしれないと、煮え切らぬ想いを抱えて苦しみ悶えているのだろうか。
気難しい兄妹二人を、ユリアナは見事に掌で転がしている。セインが彼女のようになれるのはいつの日か。そのような日は……永遠に来ないかもしれない。
とりあえず黙っていることにした。時には見守ることも、心の支えになることがある。完全に無視を決め込むリーネ、やたら気を遣うナスカ、攻めのユリアナ。一人くらい普段と変わらない奴がいても、それはそれで気が休まるのではないか、と。
「…おし。俺は、いつもどおりにするぞ」
「………?」
「何でもない。お前は気にするな」
有言実行。見張りと警戒に集中する。
それから半時。たまに経路を間違え、それをネフラに指摘されながらもセインは歩哨をこなしていった。本来は別の者と組んでいるが、やはり相性はよい。
「待て。この先七十歩、隠れている奴がいる」
「……分かった」
動物的な勘は、セインのほうが優れている。術を使わない純粋な格闘に限り、セインはネフラの上をゆく。年長の戦士達にも後れを取ることはない。
雑な隠れ方だった。本当に隠れるつもりがあるのか、疑問を覚えるほどに。
慎重に近づいてゆくと、それは向こうから姿を現した。警戒していることがバレたのかもしれない。敵意がないことを示すように、肘から先を上に掲げて。同胞が持つにしては異様に大きな長剣を背負っていることが、奇妙と言えば奇妙だったが。
西の集落アベルでは、ニンゲンの街へ出て冒険者稼業に精を出す者が多いと聞く。見慣れない武装の女は、小さくもよく通る声で言う。
「…サラサの方々……ですよね?」
「そうだ。お前はどこの者だ。何が狙いで待ち伏せしていた」
弓矢を突きつけるセイン。この距離では精霊より確実。余程腕が立つ依代でもなければ、風の力で叩き落とすのは難しい。
縄張り荒らしにしては、最初にサラサの者か訊ねたのが気になる。それなりの歳に見えるが、戦士としての力は未知数だ。満足に気配を消すこともできないのか?それともこちらが警戒していることに気づいた、勘のよさのほうが実力か……?
「昔、大変お世話になった者です。どうしてもネフラ様にお礼が言いたくて」
セインは言葉を失った。いつの間に他所の女と?ネフラ本人が追い討ちをかける。
「おい」
「ん?」
「…お前、先に帰れ」
「あ?」
しばらく考えた後、やがて訳知り顔に。何やら勝手な解釈が成立したらしい。
「…義姉貴には黙っといてやる」
「妙な勘違いをするな」
癇に障る笑みを浮かべながら離れてゆく。別の問題を引き起こしそうな気もするが、とりあえず誤魔化せたようだ。
最後まで殺り遂げる。これはネフラの問題であって、他の誰のものでもない。
「……何者だ。何故その女の姿をしている」
「おや。お解りにならない?ならば思い出させて差し上げましょう」
信じられないことが起こった。女の身体が僅かに大きくなり、髪が砂色から漆黒へ、光彩が薄い翠から茶褐色へと変わる。顔も別人、丸い耳朶は明らかにニンゲンのもので。それがドワーフの男に変わり、続いて猫の獣人の女。体格が違い過ぎるからか、後ろの二人は膚の色と顔貌を似せたのみ。
それらの大きさが正しくないことを知っている。戦慄するネフラの前で、最初ニウェウスの女だったものはニンゲンの男に姿を変えた。
「思い出していただけましたか?先日あなたに殺されかけた、冒険者の生き残りですよ……!」
長剣が振り下ろされる。刃を避けきれず、斜めに斬り裂かれてしまう。
賊にとってネフラの動きは予想どおりだった。不利に陥れば躊躇いなく逃げるはず――同じ臆病者だからこそ考えることが分かる。速さで牽制すべく、再びエルフの姿に変わった。『姿偸み』の狙いは、このままネフラを斬り殺すことではない。
「…何のつもりだ」
「何とは?…あぁ、もう死にたくなったのですか。残念ですが、そう簡単には楽にしてあげられません」
長引かせて苦しませようとの魂胆か。
精霊の力を借りようにも、打ち込みが激しく集中できない。
だが鍔迫り合いを繰り返すうち、ネフラには少しずつ解ってきた。格闘の実力に関しては、相手より自分のほうが上だと。
突然、『姿偸み』が大声を上げた。
「ああ、いけません。自分の苦手な分野で勝負してどうするんですか」
一瞬男の姿に戻り、大振りの牽制を一撃。素早く距離を取る。
両手のヒト差し指にマナを込め、さらり、さらりと文字を描く。
真言法だ。慌てて距離を詰めるが遅い。役目を終えた輝きの羅列は、光の粒子となって消えた。何やら変化を感じる。気温や湿度、気圧といった肌で感じる類のもの。いや……おかしな表現を許すなら、空間それ自体が暴れているような。
「分かりますか?あなたにも。さあ、どこまで耐えられるでしょうねぇ」
☆★☆★☆★☆★☆
問われもしない真言法の仕組みについて、『姿偸み』は語った。
世界は、礎の女神アウラの記憶により編まれている。その記憶を改竄すれば、大抵のことは現実となる。それを女神自ら行ったのが、誰もその存在を憶えていない『ティターニアの帝国』。及び短命の覇権国として歴史に名を刻まれるリュドミーラ帝国。
これらは極端な例。通常の真言法は、より単純な変化を起こすために使われる。
(…マナが、濃くなっている……!?)
マナとは、あらゆる事象の変化する可能性。固く凍りついた世界――すなわち時間を、未来に向かって進める力を持つ。
昔話をしましょう、と『姿偸み』。
「私達がセラ教団のクラリス宮司に依頼されて向かった場所。あれは酷いところでした……森がですね、歩き回ってるんですよ。好き勝手に」
おかしなことを言う。森は木の集まりではないか。動物の群れならともかく、ひとつの意思を持って動くなど。そもそも木は歩いたりしない。
「高濃度のマナが原因のようで。樹木と樹木が融けあって、ひとつの生き物みたいになってました。信じられませんか?…信じられませんよねえ。見た私でも、そう思います」
このままこうしていれば、いずれ二人ともそうなる。
だが、その前に。
「…眠ってしまいましたか」
ウィルの意識が持たなかった。術者としての力――マナへの耐性は『姿偸み』が上。
注目を集めるように、ぱん、と両手を打つ。
「今からあなたはアトルムになります。生命力溢れる褐色の膚が美しい、優雅な闇のエルフに。考えただけでも……ぉあっは、ぁあ」
不快な嬌声を残して言霊使いが去った後。放心したまま立ち尽くすネフラの元に、思い出すことのできる一番古い記憶――鷲獅子の巨躯が悠然と現れた。
☆★☆★☆★☆★☆
「……私は……」
遠くで風が泣いている。夏の終わりを惜しみ、死の季節の到来を予感して。
ヒトは秋を実りの季節と呼ぶが、それは果実を収穫する側の視点に過ぎない。枯れゆく植物達にとって、秋は死の季節そのもの。確かに子を生しはするが、その一部を掠奪者達に奪われる。子孫の繁栄に手を貸さない者共に喰われ、挙句の果てに自分は死ぬ。彼らに絶望を感じる心があれば、さぞ嘆き悲しんだことだろう。
あれから魔獣に襲われ、崖下に落ちた自分は記憶を失った。それを見つけた妖魔の娘は、何の疑いも持たず彼女自身の家に運んだ。手厚い看護を施され、新しい名前まで付けてもらって。すっかり回復した後も、世話好きな少女は甲斐甲斐しく面倒をみてくれた。
「私は……!?」
現実へ戻る。その凄惨さは、狂おしいほど生々しく。
言葉を失い、目を瞠るユリアナ。彼女が妻であることは、たった今思い出した。
鮮血の海。中央には……事切れた族長ナスカ。
孤児の自分を拾い、亡き母と共に育ててくれた父親。
いくら感謝しても足りない。にもかかわらず……私は父を死なせた。
「どうして」
譫言のように呟く。それは私の口から出た言葉ではなかった。
同じ両親に育てられ、私が唯一頼りにし、それゆえ強く愛していた妻。
「どうして!!」
俺のほうが訊きたかった。
ライセンの若長バルザは言った。創術で身体を調べた結果、俺の生殖機能は自然のままだと。それはつまり、変異体の発生を制限したニウェウスではないことを意味する。記憶を失っていた俺は、その事実を素直に受け容れた。
「…『変わりゆくもの』よ」
本来あるべき姿に戻る。ユリアナは俺の顔と膚の色を見比べて、驚きと共に戸惑いを滲ませた。
「……アトラ?でも、あなたは……」
「そこを退け」
吹雪の声で宣告する。
「貴様らの族長ナスカは、俺が抹殺した。大人しく道を空ければよし。邪魔立てするのならば……」
「ふざけるなぁァァあッ!」
言い終える前にユリアナが得物を抜いた。
「本物のネフラはどこ。言えッ!」
「さあな。魔獣に喰われたりしていなければよいが」
「殺す……!」
力任せに斬りかかってくる。それは結果として正しい選択だった。今の俺では未熟な子供の攻撃も避けられるかどうか。加えてユリアナは術より格闘。純粋な斬り合いでは彼女のほうに分があると言わざるを得ない。
(風の精よ……っ)
俺の全身が再び薄翠色を帯びた。
依代としての力も、それほど残っていない。突き進む勢いを減らせるのみ。
どうにか攻撃をかわした。しかし同じ手は何度も通じない。
死神の鎌を当てられている。逆にそのことが、正常な判断力を呼び戻す。
(終わったな)
冷静に考え、そう結論づける。
限界まで神宿りに近づけば、あるいはユリアナを倒せるかもしれない。だが、その選択肢は最初からなかった。俺は今、創術で擬装したアトルムと認識されている。これを覆すなら、当座は助かるだろうが再び事態の悪化を招く。
一連の事件を起こした者は、ニウェウスのネフラであってはならないのだ。
アトルム崩れのブラッドは外道の巣窟。もしも犯人が逃げ込めば、そこから来たと思うだろう。たとえ事実が異なるとしても。
その目論見が絶たれようとしている。
さすがに限界だ。負傷したまま逃げ回り、多くの敵と戦った。少しだけ眠ったが、ほとんど何も食べていない。水も飲んでいない。
(…君に、討たれるのか)
それも悪くないと思った。俺を殺したのがユリアナなら、リーネも彼女を責めないだろう。義姉は立派に戦士の務めを果たした、父親の仇を討ったのだと。今後は兄の幻を見ることも、追いかけることもなくなるだろう……
「避けやがれ馬鹿野郎!」
「!?」
無意識に身体が動いた。紙一重の差で急所をかわし、地面に転がる。
☆★☆★☆★☆★☆
「こっちへ来い!まだ生きているな!?」
入れ替わるように前へ出たのは漆黒の獣。乗っていた男が飛び離れ、ユリアナに斬りかかる。しかしすぐに退き、また入れ替わりで別の女が薙ぎ払う。それは剣戟を生まず、両者の間が大きく離れた。
身軽になった獣は、一直線にウィルへ向かう。襟首を咥えて宙に抛り出し、それを背中で受け止めた。自分でしておいて、どこか不満そうに唸り声をあげながら。
「…ルークか……!?」
猫のしなやかさを持つ巨大な漆黒の犬。そのような生き物を彼は他に知らない。離れた位置から牽制の風刃や石礫を繰り出し、バルザとリタの後退を支援する。近くの木陰には手招きする知らない女がひとり。恐らくリタの仲間だろう。
「サツキ!遅れるな!」
「ぁあわわ。待ってリタ様ぁ!」
先頭にいたはずの女が、いつの間にか殿を務めている。肩越しに追い縋る鬼の形相を見止めて、また一目散に逃げだす。本来の殿ルークには、まだ余裕があった。お荷物のウィルを背中に載せてなお、他の三人を先に行かせて牽制。姿が見えなくなったのを確認すると、人外の速度でユリアナを置き去りにした。
全力で駆け抜ける間も、ルークは精霊の目を宿している。視力が低いためだが、これこそ変異体の力であり呼吸も同然の自然な行為。そういえばサラサでは、同じことをできる者がいなかった。記憶を失う前のネフラを除いて。
(素質のある者は、いただろう。だが実際には、変異の魔獣とその周囲にいる者達しか知らない力だったのだ……)
拾われる前のネフラも、身近にルークのような存在がいたのかもしれない。その毛皮に埋もれたまま、そっと頭だけを起こして振り返る。
二十年の時を過ごした故郷が離れてゆく。懐かしいはずの森は冷たく、どこか自分を拒んでいるようにも感じられた。
銅は狂気を。黄金の弓張りは惑いを。蒼き氷輪は分別を。
冴々と降り注ぐ光は、ネフラの――ウィルの理性を強く呼び覚ました。
☆★☆★☆★☆★☆
「…追ってこないようだ。降ろしてくれ」
より完全な精霊の目を持つルークは、言われたことの正しさが分かる。全員足を止め、とりあえず休息となった。
ウィルにしてみれば、この顔ぶれは奇妙と言わざるを得ない。現在身を寄せる集落の若長と、問答無用で襲いかかってきた女。リタはバルザの知り合いだったのか?だとしても疑問は残る。あれほど殺意をぶつけておきながら、一転して今度は助けたことの。
全員が含むところを持っていた。しかし、このまま睨み合っているわけにもゆかない。言葉を話せる者のうち、比較的マシな気分を抱えているのはバルザで。
「…話はリタから聞いた。彼女にお前をどうこうする気はない。恐らく一番の味方だ」
「……………?」
「その様子だと、いろいろ思い出したようだな。サラサのネフラ。いや……」
敵意はおろか、声音に詰問の色がないことを訝しむウィル。未だ彼は、自分とリタの古い繋がりを知らない。
「私は、お前に詫びねばならん。憶えていないだろうが二十年前、サラサの族長一家に拾われる前のことだ」
「…俺はネフラだった。だが同時にアトルムでもあった。あの頃の俺は、創術など使えない。父ナスカは、何故俺を連れ帰ろうと思った?それに育てることができた?俺は何故、膚の色が白かったのだ……?」
「生まれつき、そうだったからだ。そこのルークと同じように、お前も変異体だ。恐らく異常は二つ、精霊との親和性が高いこと、色が薄いこと。よく考えれば分かることだが、ニウェウスの髪は白くない」
ネフラ少年に幸いしたのは、瞳の色があまり濃くなかったこと。色無し子の赤は光彩に色がないことによる血の色だが、アトルムのほうはそれ自体が赤い。身体的特徴の原理に暗いニウェウスは、そこまで考えが回らなかった。全体的に色が白ければニウェウス、その程度の認識だったのである。
「お前はセシルに生まれ、お前の母親ラウラと私は若長を務めていた。あの戦でラウラは大型の魔獣と化して戦った。族長が先に殺されなければ、その役目が回ってくることはなかったろう。末席の私は村の留守を任されたのだが」
サラサを中心とするニウェウスの軍勢は、防衛線を突破してきた。
最後の一人を倒したとき、リタの周りには誰もいなくなっていた。ラウラの小屋へ戻ると、そこに隠れているはずの姿は消えていた。
死体も残っていないことを不思議に思うべきだったのかもしれない。色無し子は忌み子。生まれ故郷のセシルですら、堂々と出歩くことはできなかったのだから。大抵すぐ捨てられるか、『色素擬装』を学ぶまではヒト目を忍んで育てられる。少年は言葉を覚えるのが極端に遅く、創術はおろか満足に会話もできなかった。
「…私はラウラに、お前のことを頼まれていた。お前の存在を知るのは、彼女の他に私ひとりだけだった。お前を命に代えても護らねばならなかった」
同じ膚色のエルフ達を見て、幼い彼はどう思ったろう。何の疑いもなくついていったのか?母の姿がないことを怪しんだのか?初めて見る大人の男に恐怖を抱いたのか。ウィルが忘れてしまった以上、今となっては知りようもない。
そこから先は憶えているとおり。サラサのネフラとしてナスカ夫婦に育てられ、結果アトルムとニウェウス双方に害を為したのである。
故郷を失ったリタは、しばらく彷徨っていた。ニンゲンの街で冒険者となり、刹那的に糊口を凌ぐ日々。そんなときイラリオと出会い、新たな居場所を見つける。奴隷制を敷くブラッドから脱け出してきた彼は、戦で故郷を失くしたヨルマと行動を共にしていた。同じ境遇の戦災孤児や荒事に向かない者達を保護しているという。
それから十年。ブラッドとの大きな抗争があり、リタとヨルマは族長にして盟友のイラリオを失った。一方でブラッドの初代『王』殺害に成功、敵の戦力を大幅に削れたこともあって概ね平穏な日々が続く。半年前、疫病の魔獣が森に現れるまでは。
「今回、お前を陥れようとしたのは『姿偸み』だ。ほぼ間違いなく、殺された仲間の復讐だろう……」
リタの憎しみは、ネフラがラウラの子と分かった時点で消えている。今度こそ護らなければならない――たとえ命の恩人を敵に回すとしても。
「許してくれとは言わない。だが私は、お前のために戦う。それが同胞のために命を捨てた、大切な我が子を私に託した友への手向けだ」
心配そうに覗き込むサツキの頭を、宥めるように撫でる。誓いは本物だろうが、他にも大切なものができたらしい。ウィルの実害は皆無であり、襲われた理由もネフラだったときの自業自得と分かった。過去の罪に苦しむ母の友を、これ以上責める謂れもない。
☆★☆★☆★☆★☆
「……大体、事情は分かった」
ゆっくり立ちあがる。
「休息と食事を摂ったらブラッドへ向かう。あそこへ逃げ込めば、サラサも簡単に手を出せなくなる。あんた達に迷惑がかかることもない」
反対したのは、黙って話を聞いていたサツキ。一箇月前、彼女は息子と共にブラッドを脱け出している。あの地獄に進んで入るなど彼女には考えられない。
「やめときなって!あんたマジで死ぬよ!?あそこのヤバさ分かってんの!?」
涙目で震えながら左右に首を振る。自分が行くわけではないのだが、ブラッドと聞いて何らかの忌まわしい記憶を刺激されたのか。
「どれほどのもんを見てきたか知らないけどさぁ……あそこだけはやめときなよ。あるのは血と汚物だけ。あんなトコで育ったら、絶対マトモな奴にならない」
ウチのサユキは別だけどォ、と言った傍から。サユキというのは十一歳になる彼女の息子だ。ブラッドを出る切欠も、元はと言えば彼の脱走で。
「いや……確かに」
頷くリタ。バルザとルークも反対しない。
「お前ならブラッドでも生きられるだろう。今更こんなことは言いたくはないが……ネフラの姑息さは常軌を逸していた」
「…ああ」
「それでも無理はするな。身の危険を感じたら、いつでも来い。顔を変えればニクスの目は誤魔化せる」
創術の為せる業だ。『姿偸み』ほど便利使いはできないが、時間をかければ多少は背丈も変えられる。別人になることさえ可能。
リタから手持ちの保存食と水を分けてもらう。これから行く場所は蓄えなど皆無。あったとしても新参者からは奪うだけ。食べる以外の使い途も、念のため持ってゆく。
「…世話になった。もう会うことは」
挨拶の途中、いきなり顔を殴られた。
最初に口火を切って以来、黙っていたバルザである。
「餞別だ。持っていけ」
考えていることは分かった。それ以上に、黙って置いてきたエアの気持ちも。
今は顔を合わせられない。合わせたくない。お互いに。
もう一度、リタを振り返る。
「昔の、俺の名前は?」
「ディム。お前の母親がつけたものだ」
唯一の経験者にもかかわらず無視され、不満そうにしていたサツキが呼び止める。
「まだ生きてたら、ヤヨイって女に会うといいよ」
「………?」
どのような人物か。いずれ敵ではないのだろう。当座の道標に丁度よい。
「いろいろ考えてた。多分、もう死んでると思うけど」
☆★☆★☆★☆★☆
眠れなかった少女は、悄然と寝床から這い出る。
煙が立ち並ぶには、まだ早い薄暗さ。
竈に松ぼっくりを並べ、種火から小さな焔を移す。それから薄く切って乾かした木片を寄せ、ひとつずつ丁寧に燃やしてゆく。松ぼっくりは多くの油を含むため、手早く火を育てるのに役立つ。
半年前に拾った若者は、このような知識に乏しかった。その代わり聞き耳や勘が異様に鋭く。まるで戦うことばかり考えてきたみたいに。
「熱っ」
木片を放り出す。手元まで燃えていたことに気がつかなかったのだ。
水甕に手首まで突っ込み、また考えごとをする。だが何を考えているのか、自分でもよく分からない。
火傷した指先は、白く腫れていた。そっと触れてみる。周りを包むように。
すぐ冷やしたのがよかったらしい。とはいえ……少し疼く。
問いを確かめないまま答えを探しても。
この先は。
「馬鹿」
☆★☆★☆★☆★☆
青年は、土の中で目を覚ます。
暑いときは涼しく、寒いときは暖かい。乾季も日が進み、そろそろ着のみ着で眠ると衰弱死しかねない季節。
「ありがとう。戻しておいてくれ」
念のため痕跡を消しておく。声に出して頼むと、元の平らな地面に戻った。精霊に地面を陥没させてもらい、その中で一晩休んだもの。
万全とは言えないが、気力のほうは充実している。
早速ブラッドへ向かわなければならない。族長の殺害に揺れるサラサの村へ、その犯人が無頼の巣窟へ逃げ込んだとの噂を届けるために。
情報の拡散については、ニンゲンの街に詳しいリタとバルザに頼んである。幸い二人とも、ウィルのネフラとしての心情も理解してくれた。アトルムとして考えればニウェウスの内輪揉めは歓迎するところだが、族長ナスカの死が相当な混乱をもたらすことは確実。共通の敵を作るためには、族長の息子が犯人では困る。
あとは事件を起こすだけだ。獰猛なブラッドの奴共は、ただ蛮勇を誇るために後先考えない行動を取る。魔獣に襲われたようなもので、そこに意味はない。狙って濡れ衣を着せるわけだが、これまでの行いが悪すぎたと諦めてもらう。
リトラの執政官エリクにはリタが、ライセンの族長ネロにはバルザが。それぞれに対して必要な情報を伝える。
余所者の冒険者『姿偸み』がサラサの族長ナスカを殺害、その罪をブラッドに着せようとした、と。事実か疑わしい――無論事実ではないのだが、それはこの際関係ない。
表向きは本当にブラッドの一員がやったことにして、ニンゲン、ニウェウス、アトルムそれぞれの融和派が協力し、共通の敵を叩く。『闇』と『雪』の、森と街の争いを終わりに導く千載一遇の好機なのだと。
養父ナスカの死は悲しい。だからこそ最大限に活かさねばならぬ。彼が望んだだろう平和な未来を作るために。たとえ自分が家族の元へ帰れなくなるとしても。
適当な果実を幾つか、朝食を終えて集落に向かう。場所は逃げてきたサツキに聞いて分かっている。目印を間違えなければ小一時間で着くだろう。
(!?…これは……)
思わず立ち止まったが、またすぐに歩き出す。
臭いが徐々に酷くなる。やがて粗末な小屋の群れに行き当たった。
誰もいない。汚物と血の混ざり合った臭いは、もはや耐えられないほど。さすがに住めなくなって放棄されたのだろう。この近くで探すとすれば、ここより風上かつ川上か。汚れや臭いの影響を受けにくくなる。
新しい集落は、大体予想どおりの場所に見つかった。小屋の数は五十軒以上。何となく違和感を覚えるが、正体は不明だ。広場や通路もなく、まるで蟻塚だ。
いると思っていた見張りはいない。夜が明けたからだろうか。方々で恨みを買っている割に不用心である。そして先ほどの場所よりマシだが、やはり臭い。一度噎せたら止まらなくなりそう。慎重に息をしながら、なるべく音を立てずに近づいてゆく。
広場まで辿り着いた。気配はあるものの、外を歩く姿はない。どこか適当に覗こうとして、違和感の正体に気づく。扉や窓がないのだ――朝が来ても目覚めないのは頷ける。
同時に疑問もあった。この家は、どこから出入りすればよいのか。全体的にはライセンやサラサと同じ丸太小屋、その入口を土で塗り固めてある。ニンゲンの街で見かけるような精密さはなく、ひとまず塞いだだけといった感じ。
(…どういうことだ?)
サツキは何も言わなかった。ウィルの障害にならないからだろうか。土の精霊に力を借りれば、簡単に崩すことができる。
見方を変える必要がありそうだ。身を護るために造ったのではないと仮定する。だとしたら、この中で息を潜めているのは。
「おい。誰かいるのか。俺は――」
警戒させないよう、慎重に言葉を選ぶ。
「…迷子の、冒険者だ。お前達に危害を加えるつもりはない」
息を呑む気配がした。少しでも話す気になればよいが。
「ここはどこだ。何故、入口を塞いでいる?」
「……………」
巻き込まれることを恐れているのだろう。弱いからこその奴隷、自分の身を護れるなら惨めな立場に甘んじたりしない。
ひたすら待つ。沈黙の長さが、絶望の深さを物語っている。
「……分かった」
広場を離れ、風上に位置する林のほうへ。再び穴を掘り、その中に隠れる。保護色を活かすため、精霊は解放せずにおく。
観察すること半時。ウィルの耳は微かな物音を捉えた。小さな石が転げ落ちるような……勘違いではない。集落の中からだ。
音は少しずつ大きくなり、どこから発しているのか分かった。物置程度の小さな建物、その入口を封じた土壁が崩れている。ヒトが通れるくらいの穴が開いたところで痩せこけた小柄な影が這い出す。そのまま不安そうに見回す様はヒトより獣に近い。
(脱走か……?)
女の髪は土気色をしていた。しかし、それは栄養状態の劣悪さを意味しない。確かによくはないのだろうが違う。今はウィルも同じ色をしている。
元の姿に戻ると、女は泣きそうな顔で笑みを浮かべた。そして不思議なことに、なかなか逃げようとしない。その場でへたり込み、薄く雲の懸かった日差しをぼんやり眺めている。
話しかけるべきか戸惑う。彼女が何を考えているのか、この状況が意味することの見当もつかない。
やがて弛みきった雰囲気の男が、川上の方角から現れた。何度も眠そうに欠伸している。ライセンの朝と比べれば大分遅いにもかかわらず。
男の姿を見つけると、女は慌てて立ち上がった。先程と同じ奇妙な笑いを浮かべ、上目遣いに男のほうを見つめる。男は一瞬驚いた様子で「おっ」と呟き、のんびり歩いてゆく。
「…へ、えへへ。できた……」
「おォ、そうかよ」
満足そうに頷くと、馴れ馴れしく女の背中に手を回した。
「じゃあ今日から昇格な。戦い方を教えてやンよ」
「!…う、うん。ありがと……」
そこで唐突に、男の拳が女の顔に突き刺さった。ほとんど反応できなかったため、頭から地面に転がり落ちる。
「ございます、だ。間違えてんじゃねェよ。俺と対等になったつもりか?」
追い撃ちに蹴りまで加える。
「ちがっ、違う。違います……」
両腕で頭を護るが、防ぎきれるものではない。これ以上は見ていられなかった。
ヒト質に取られても面倒ゆえ、攻撃に専念する。女を助ける素振りさえ見せなければよい。見たところ、それほど腕が立つ相手でもなさそうだ。とりあえず考えるべきは、念のため殺さずにおくこと。
穴を埋め戻し、その勢いを利用して飛び出す。『土』を解放する手間を省き、『水』と『闇』を招き入れて上位の現象精霊『森』に切り替える。下生えの草が急激に丈を伸ばし、男の両脚に絡みつく。更に蹴りを見舞おうと片足を揚げていた男は、大きく体勢を崩して顔から転んだ。とりあえず一撃、気絶しない程度に男の足へ叩き込む。
「げッ!?な、何だ手前ェはッ!」
もう一撃。今度は足を庇った左腕の肩に。
「ぶぼッ!まさかイラリオの……」
「違う」
既に『森』は離れている。再び『土』を宿し、下から突き上げて吹き飛ばす。
攻撃が止んだことを不審に思い、女は両腕の隙間から視線を覗かせた。何が起きたのか分からず、茫然とウィルを見つめている。
「全員と話したい。手伝ってくれるな?」
☆★☆★☆★☆★☆
林のほうへ連行し、男に木の枝を絡みつかせる。一軒ずつ土壁を壊し、中にいた者を陽光の下に連れ出す。閉じ込められていたのは総勢四十二人、ライセンの人口より多い。男女を問わず子供から大人まで。戦う力を持たない、奴隷とされた者達だ。
この場で一番強いのはウィル。次は例の男だが、今は動けなくなっている。
「これから幾つか質問をする。俺がこのまま立ち去ったらどうなるか、そういうことを想像しながら答えるといい」
脅しである。意図的な嘘をつけば、彼は暴徒に圧し潰されるかもしれない。
「奴隷は、ここにいる者達で全員か。五秒以内に答えろ。五、四」
「全員だ。昨夜は誰も遊んでなかった」
少し驚く。不快な言葉にではない。あまりにも回答が速かったゆえ。
「……お前は戦士か」
「そォだよ」
「戦士は何人だ」
「七十四人」
随分と多い。両者の中間、奴隷戦士とでも呼ぶべき者がいるのかもしれない。
「合計百十六人。これで全員か」
「ああ」
「…ふむ」
ここまで順調だ。周りの連中を見たところ、嘘はついていない。
だが、これらは全て当たり障りのないことばかり。今後の質問にどう答えるか。それによって、この男の扱いが決まる。
「…小屋の入り口を塞いだ理由は」
「に……」
「どうした。早く答えろ。五、四、三」
「逃げられねえようにだっ!」
「閉じ込められた者が外に出るのは禁止か」
「…いや。自分で壊せるなら……別に」
あの崩れ方は精霊だ。依代になれば戦士として認められるのか。
「ならば何故、先程の女を殴った。出てもよいのなら必要あるまい」
「………っ」
苛立ちが窺える。まともな理由など元よりないのだから当然だ。女のほうが震えているのは、後で八つ当たりされるのを恐れているのか。
「役に立つかもしれないものを潰してどうする。そんなことも分からないくらい、お前は馬鹿なのか?だとしたら罰せられるべきは、お前のほうだな」
男の肩が一瞬激しく震えた。なけなしの忍耐が限界に達する。
「ムカついたからだよ!?手前ェだって同じだろうが!?」
「ああ、同じだ。勘違いするなよ?俺は別にお前を責めているのではない」
軽く聞き流し、男の前に立つ。
「…では、これが最後の質問だ」
皆によく聞こえるよう、ゆっくり言葉を発した。
「この村の者を、殺めたことはあるか」
太々しい態度が一変。息を詰まらせる。
「…五」
目を見開く。
「四」
身動ぎする。
「三」
息を荒げる。
「二」
噎せる。
「一……」
「…や、殺ってねえ!俺は殺ってねえ!本当だ!」
「そうか」
ウィルは男のほうなど見ていなかった。奴隷達の顔――その一瞬の変化。怒り、悲しみ、憎しみ。それらが少しでも現れるか。結果は……予想したとおり。
川の対岸、林の中。巧妙に隠された小さな集落を見つける。
「戦士の住処は、あれか?」
「な……待てって!」
居丈高な哀願を無視。水の精霊を宿す。
流れに注意しなければならないが、これで川面を歩くことができる。
「頼む!置いていかないでくれ」
さも面倒そうに、視線だけ振り返った。
「お前に価値があれば、戒めを解いてくれるだろう」
☆★☆★☆★☆★☆
精霊の目によると、奴隷達の他は誰もいない。つまり訊く必要はなかったのだが、奴隷達の目に戦士の地位が絶対ではないと見せつけるためにやった。今頃あの男は念入りに甚振られているか、若しくはひと思いに消されているか。それは分からない。
戦士の集落は上流にあるゆえ、川を渡る前に少し遡っておく。道が動くような違和感には、すぐ慣れた。あるいはこれを応用すれば、荷運びにも使えるのではないかと思う。
(リウ老人とは……もう会えないだろうな)
ナスカとユアンを殺したのがウィルという認識なら、リウ老人の朋友がニウェウスとの同盟に泥を塗ったことになる。裏切りと捉えられても仕方がない。
『姿偸み』は、その線で工作を進めるだろう。仲間を殺したネフラに復讐するため。対策はリタとバルザに任せ、ウィルは自分ができることをやるのみ。
軽く頭を振り、雑念を払って対岸へ降り立つ。
木陰から様子を窺う。大きめの丸太小屋が目を引き、その周辺に小さなものが七軒ほど。小さなもののほうが造りは堅い。大きなほうは奴隷戦士の塒で、結局また閉じ込められているのだろうか。自由を認められた者との違いが分かりにくい。
陽が高くなってきた。一人、また一人と小さな小屋から出てくる。皆、どことなく機嫌が悪い。あの男を捕らえたことで、何か普段との違いを生じさせてしまったか。
四番目に出てきた男が首を傾げ、大きな小屋の戸口へ向かう――そして閂を外した。中から奴隷よりはマシな程度の精彩を欠く男女が大勢出てくる。本来、外へ出ていなければならない時刻なのだろう。まだ眠そうな戦士の前で這いつくばるように膝をつくと、錆びついたり刃が欠けたりした貧相な武器を受け取り集落の外へ。かつてのサツキがそうだったように、主人への貢ぎ物とする何かを探しにゆくのかもしれない。
もう少し様子を見るべきか悩む。奴隷戦士がいなくなれば動きやすくなるが、一方で奴隷村の異変を感づかれる恐れも。あれをやったのがウィルと知れたら、戦士達全員に敵と看做されるかもしれない。郷に入りては郷に従うのが得策か。
堂々と近づいてゆく。足音も隠さない。木立を抜けると、小屋の閂を外した男がウィルの存在に気がついた。
「何だ手前ェは?どっから来た?」
「これから世話になる。名前は」
「んなもん訊いてねえよ。何しに来たって訊いてんだよ」
「ならば、そう訊ねればよかったではないか。それに言ったろう、世話になると」
「あぁ?」
拳を固める間もあらばこそ、いきなり殴りかかってくる。だが訓練されたものではなく、ウィルにとって避けるのは容易い。
「…っ!とと……」
足をかけて転ばせたりはしなかったが、油断ならぬ相手と認識されたらしい。格下でも寝首を掻かれることはあろう。程よく疑わせることが、この村では有利に働く。
「やるじゃねえか。でもよ、ちぃとばっか態度がよくねぇなぁ」
「ああ……もしかして、こいつがアーロンをやったのか?」
「だから開いてなかったのかよ!じゃあ、あっちはどうなってんだ」
「知らねえよ。てめーが行ってくりゃいいだろ」
「るせぇ!俺に指図すんな。さっさと殺んぞコラ」
それぞれ精霊を宿し、ウィルを取り囲もうとする。遠くから嬲る算段らしいが、それを待つ義理はない。たまたま近くにいたひとりへ石礫を飛ばす。
「がっ……」
当たりどころが悪かったのか、倒れて動かなくなった。生命の気配は感じる、とりあえず死んではいない。挨拶代わりの石礫を全員に――避けられたのは一番遠くにいたひとり。あとは精霊を宿していたにせよ無防備に喰らった。それほど難しいことをしているようには見えなかったが、ほとんど神宿り状態だったのかもしれない。
(…この程度なのか?)
拍子抜けする。あまりの呆気なさに。
確かに人数は多い。だが全く相手になっていない。近隣の村が恐れ、警戒してきたブラッドは虚像に過ぎなかったと……?
「挨拶のつもりだったが……どうやら不要らしいな」
「…今朝までは、そいつが二番だった。一番は今ここにいねえ」
遠くの男が指差したのは、最初に気を失った男。まだ意識が朦朧とするのか、地面に座ったまま呻いている。正直手応えがなさ過ぎて、使い走りとの違いが分からない。
「では、一番はどこにいる」
男共は顔を見合わせた。そして一様に黙る。隠すというより本当に困っているようだ。
「わ、分かんねえ。明るいうちは好きにさせてるから」
「………?」
ひとりが口火を切ると、次々言い募る。
「半奴隷なんだよ。そいつは」
「負けるくせに言うこと聞かねえからさ」
「野放しは怖ぇだろ?それで」
毎晩閉じ込めているらしい。といっても本人が家族といることを望むからとか。
獰猛なだけの人物ではなさそうだ。今は大人しく従っているゆえ、条件付きとはいえ表に出している。少なくとも会話が成り立つ相手とみた。
「ならば待つとしよう。そいつの名前は」
「ヤヨイだ」
三番目になった男が、ゆっくり身を起こしながら答える。
「最初の『王』の娘だよ」
頭の傷を押さえて、ふるりと怖気を篩った。
☆★☆★☆★☆★☆
ヤヨイの帰りを待つ間、ウィルは更に男共の話を聞いた。どこまで本当か分からないが損はない。内容は使い走りの男と同じ、得にもならなかったが。
下に置かないもてなしは無視した。奴隷を扱き使っての馳走など気分が悪いし、見たところ貧しい。真の心尽くしならば受けるが、何が入っているか分かったものではない。
ブラッドの連中は、どこまでも力の掟に忠実のようだ。半奴隷達を稼ぎに送り出してから、ゆっくり朝食を摂るつもりだったのだろう。ウィルがもてなしを受けなかったものだから、昼を過ぎても村外れに溜まったまま。揃って腹の虫を泣かせている。
「俺のことは気にするな。お前らが餓死してもつまらん」
猛烈な勢いで食べ始めた。いつか始末するとしても、今はまだ理由がない。
すっかり日が暮れる。他の半奴隷達は戻ってきたが、ヤヨイらしき姿はない。上前を撥ねるのにも顔色を窺ってくるのには閉口した。あえて視線を逸らすと、思わぬ取り分を得た男が嬉しそうに雑魚寝小屋へ駆け込んでゆく。つまり普段は、もっと搾取されているということ。しかも残っているのは保存が利かないものばかり。
「遅ぇな……」
誰かが呟く。日没前に戻る約束らしい。家族をヒト質に取り、脱走を防ぐ念の入れようだ。奴隷を母親任せにした結果、親子揃って逃げられたことも関係していよう。
(敵の数が多すぎる。この状況で護りきるのは難しい)
ウィルとしても見捨てる選択肢はない。サツキの紹介もあるが、ヒト質が有効な時点でブラッドの水に染まりきっていない気がする。
「ヤヨイの家族は?」
「雑魚寝小屋だよ。奥座敷に閉じ込めて」
退屈そうに呻く男は、最後まで口にすることができなかった。
首の根元から赤いものが噴き出す。一番遠くにいたため、運よく攻撃を免れた男だ。よく目を凝らすと、男の後ろに淡いヒト影のようなものが見える。闇の精霊を宿して忍び寄り、首筋を掻き切ったのだろう。
初見のウィルを除き、動けそうな者から順番に狙っているのかもしれない。適当にあたりをつけ、慌てる男共のひとりを横合いから突き飛ばす。直後、その場所を炭で黒く染められた細身の刃が薙ぎ払った。続けざまの一撃を短剣で受け止める。
「…!?」
「悪いが邪魔させてもらう」
賊は女だった。そして恐らくはヤヨイ。
アトルムの社会における子供は、女のものという意識が強い。それはブラッドも同様であり、結果として常に女が足手纏いを抱える。その違いが、ここでは格差を助長するのだ。戦士は大半が男。奴隷や半奴隷は女が多い。
「お前がヤヨイか」
答えない。無言で牽制、別の目標へ向かう。また妨害されれば次の目標へ。とにかく数を減らしたいようだ。彼女の置かれた状況を思えば、その考えは理解できる。
「…ヒト質を取り戻してこい。できるな」
鍔迫り合いの形から勢いをつけて雑魚寝小屋の方向へ押し出す。棒立ちの戦士ひとりを行き掛けの駄賃に斬り捨てたが無視。そのまま後を追い、中に踏み込んだ。
壁に張りつき、自分と子供の身だけでも護ろうとする女達。居心地は悪かったが、割り切って奥へ進む。板張りの片隅、抱きあって身を固くする子供二人と近づいてゆく男の姿が見えた。こちらの騒ぎには、まだ気づいていない。
「フヅキ……ハヅキっ!」
その声に子供達の顔が輝く。あれがヤヨイの家族だろう。
男は一瞬迷ったが、身の安全を優先した。ヒト質を確保しても、同時に自分が殺されては無意味と考えたのである。
その反応は思惑どおり。子供達と敵の間に氷の壁、危害を加えられないようにする。精霊による牽制はないと察して、ほんの少し男に余裕が戻った。そこへ大きな水球が三つ、ウィルが後ろから放ったものだ。油断していたこともあり、ほとんど視界を失う。
ヤヨイは一気に間合いを詰め、男の首を絞めた。意識を狩るにとどめ、邪魔者を放り出す。子供達の無事を確認する間、辛抱強く待つ。
「あなた、名前は」
「…ハルマー、という」
「明らかに偽名っぽいけど……私はヤヨイ。あなたが新しい『王』?」
「いや……」
「私は、ブラッドで一番強い。でもあいつらを抑えられなかった。だから私は『王』じゃないし、私より弱いクズ共も当たり前だけど『王』じゃない……ひとりで倒せたのなら、あなたは間違いなく『王』ね」
床に膝をつき、芝居がかって首を垂れる。
「好きにするといい。この村で『王』の言葉は絶対。生かすも殺すも、あなたの自由」
「…ざっけんな!手前ェはそンでいいのかヨォッ!?」
彼女が言うところのゴミクズ共が集まってきた。
「ワケの分かンねェ新入りが!!好きにするだァ!?…いいから俺達に手ェ貸せ。さっさと殺っちまおうぜ!」
「……………」
短い溜息をつくと、ヤヨイは渋々身構えた。それを見て男はにやりと笑う。火の精霊を宿し、浅黒く変わった己の拳を高々と掲げる。
たとえ火を放っても、ウィル自身に問題はない。焼死を防ぐ方法は、今思いつくだけでも二つ。まず土の精霊に穴を掘らせる、密閉すれば煙は入ってこない。熱の精霊を宿したうえで時間を遅らせる、これは以前エアが使った方法だ。
雨を降らせれば火は消せるだろう。しかし全員を助けられるとは思えない。確実を期すなら、今すぐ殺す。ヤヨイに注意しつつ、それができるか。
(…風の刃で切り刻む)
攻撃の暇を与えず、死んだことすら理解できないほどの一瞬で。
結論に達したとき、ウィルが行動へ移す前に男の姿はそのとおりとなった。
五体が完全に切り分けられ、床には赤い水溜まり。壁まで飛沫が届いている。沈黙が生きるための武器であるブラッドの女達も、これには微かな悲鳴をあげた。
一番強い仲間を惨殺され、押しかけた男共は色を失くす。ひとりが怒りを滲ませかけるも、ヤヨイが機先を制して威圧する。
「お前達に手を貸す謂れはない。言ったはずよ」
怒りなら自分のほうが上。これまで貴様らは、自分と自分の家族に何をしてきた?
これは正当な復讐だ。より強い者の力を嵩に着て、あるいは数の力を恃みにして。横暴の限りを尽くしてきたではないか、と。クズ共全員を圧倒できる者が現れたとき、力の均衡が崩れる。恐らくヤヨイは、それを待っていた。
だが一方で、剣を交えても最初からウィルを殺そうとはしなかった。動きを見れば分かる。手加減はしていないが、明らかに戦いを避けていた。本気でやれば、状況次第でどちらが勝つか分からないにもかかわらず。ある程度数を減らせば、次はウィルを消しておいたほうが後々有利になると判っていたのに。
「何故だ……?」
「あいつらよりまともそうだったから」
しかとウィルを見据え、無感動に告げる。
「それで。新しい『王』は、私に何を望むの?」
☆★☆★☆★☆★☆
その日のうちに、ウィルはブラッドの『王』となった。
解せない。そもそもリタからは、何人か手に負えない相手がいると聞いていた。ゆえに正面から戦うのではなく、上手く立ち回ってブラッドを暗殺の主犯に仕立て上げる――事件に幕を下ろしつつ、共通の敵を作ることで島の和平を推進するつもりだった。
そのためには、強力な敵が要る。ニウェウスの女王ティターニアやライセンのネロ族長ほどでなくともよいが、それなりの敵を。適任と言える『姿偸み』は、別の意味で相応しくなかった。あれを集団で追うと犠牲が増えるし、ネフラの正体についてあらぬことを広めかねない。とはいえ養父の仇、いつか絶対に倒すと決めているが。
ちなみにヤヨイも失格だ。そもそも悪人ではないし、ウィル個人の手に負えないというほどでもない。
「弟のフヅキと妹のハヅキ。取り戻せたのは、あなたのお蔭。改めて礼を言うわ」
集落から外れた川の畔。弟は十二歳、妹は十歳だという。初代の『王』は子供も子供を産ませた女も全く顧みなかったため、姉のヤヨイが面倒をみていたと。
弟のほうは、既に自立心が芽生えているようだ。妹を背中に庇い、油断なくウィルを値踏みしている。何なら姉も自分が護ると言わんばかり。
「私は、このヒトと話がある。二人で遊んでいなさい。でも遠くへ行っては駄目」
「すまないな。少し姉さんを借りるぞ」
複雑な表情で睨みながら妹の手を引いていった。言葉にするなら「必ず返せよ」といった感じ。水切りの石探しを始めたところまで見届ける。あれなら迷子の心配もない。妹は少々大人しすぎるようだ。とにかく兄を真似ようとする姿に目を細める。
「サツキに君を訪ねるよう言われた。ブラッドの現状に否定的だそうだな」
「…そう。あの子に……死ななかったのね」
「向こうも似たようなことを言っていたな。彼女は君の」
「妹よ、母違いの。私達は皆、十年前に死んだ『王』の奴隷から生まれたの」
周辺を荒らしまわったブラッドの『王』は、十年前にイラリオの初代族長と相討ちになった。信望厚かったイラリオ族長と違って、精神核の再生を試みる仲間などいない。当然、『王』の子だからといって忠誠を捧げるような殊勝さもない。
結局、秩序なき群雄割拠が始まった。表向き団結し、外部の干渉を排除しながら。新たな『王』が立つこともあったが、すぐ殺されるなど長続きしなかった。
やがて腕の立つ者が少なくなり、ブラッドは乱暴なだけの小物と臆病者の巣窟に変わり果ててゆく。最後に『王』を自称したのは、狡猾さだけが取り柄の男。今残っている雑魚共よりは強かったため、数の力とヒト質を駆使して支配者の地位に就いた。ところがこの男、疫病の魔獣が猛威を振るった半年前にあっさり病死してしまう。
「ムツキとキサラギも、そのときに死んだわ。ウヅキとミナヅキはサツキが脱走に成功したと確信するや出ていった。どこの誰か分からない男の子供を連れて」
それからブラッドは、坂道を転げ落ちるように勢いを失った。狡猾な男の遺した卑劣な手段がヤヨイを黙らせ、中途半端に膠着した状況が続く。
「私はあいつらより強かったから、殺されなかった。手を出したら、その倍は殺してきた。でもひとりで弟と妹を救えるほど強くはなかったの」
遊ぶ二人の姿を愛おしそうに見つめる。
「俺はブラッドを生贄にするつもりだ。概ね自分の都合だが、この島で暮らす者にとっても悪くない話だと思っている」
搔い摘んで説明した。自分がニウェウスに育てられた色無しのアトルムであること。ニンゲンの冒険者に嵌められ、養父殺しの罪を着せられていること。その冒険者に恨まれること自体は、正当な復讐であり仕方がないこと。更にブラッドへ罪を着せ替え、共通の敵とすることで各勢力の和解を図りたいこと。無論滅ぼすのは名前だけで、ヤヨイとその家族や虐げられてきた無力な者達は救う。そのうえで密かに冒険者――『姿偸み』を討ち果たすこと。争いの源であるニウェウスのネフラとアトルムのウィルを葬り去ること。
「……訊いても、いいかしら」
「何を……?」
「あなたこそ、どうして。冤罪なら、そこまで自分を殺さなくても解決できるはずよ。誤解しないでほしいのだけれど、別に疑っているわけじゃない」
「…説明すると長くなるが」
首を傾げるヤヨイ。
「こうすれば、丸く収まるのだ」
呆気に取られた。そして嘆息を洩らす。
「本当、長くなりそうね」
☆★☆★☆★☆★☆
その晩、ウィルは奴隷の集落へ。正直臭くて堪らない、しかし『王』となった以上は民を護らねばならぬ。今夜のところは半端者共のほうを閉じ込めておいたが、曲がりなりにも戦士ゆえ自由に出られる。放っておいたら何を仕出かすか。
ヤヨイ達三人は、今までどおり半奴隷の雑魚寝小屋で休んだ。数の力を失った死にぞこないの雑魚共など、もはや彼女の敵ではない。
木に縛りつけておいた男の行方は不明。そろそろ寝ようと奴隷の集落に戻ってみたらいなくなっていた。あれはどうでもよかったゆえ、特に訊いたりはしない。全部ウィルが『王』となる前に終わってしまったことである。
ここから去りたい者は、去るに任せた。しかし出ていった者はおらず、その事実が逆にブラッドの抱える問題の深刻さを表している。奴隷になったのは、強制されたからだけではない。彼ら自身が支配されることを望んだのである。小屋の入口を塞いでほしいと恐る恐る頼まれたときは、さすがに閉口せざるを得なかった。
翌朝、無表情なヤヨイの顔が少しだけ勝ち誇って見えた。数少ないまともな住人の彼女には、乱暴狼藉を働く半端者同様、無気力な奴隷根性も気に喰わなかったのだろう。
起きて最初に指示したのは引っ越し。特に奴隷の集落は、衛生的な問題がある。
聞けば、かつては戦士の集落だったものを流用しているという。戦士達が野放図に使い潰した土地と建物を、そのまま宛がったのだそうだ。
「戦士と奴隷は……いや違うな。そう、職人は……今後、同じ場所に住むこととする。役割は変えないが、働いて得たものは一度全部差し出せ。役割に応じて公平に分配する」
奴隷は職人、奴隷戦士は従士。職人の取り分を一として、従士は二割増し、戦士は五割増し。この計算が成り立たないほど稼ぎが少ないときは、全員平等になる。よい暮らしをしたければ村全体を豊かにするか、半端者共より強くなって戦士になればよい。
従士は半ば職人として、一切生産を行わない専業の戦士を養える数は人口の一割程度。ブラッドの成年人口はおよそ百人、元からいた戦士七名のうち三名をヤヨイが殺し、一名は行方不明となった。ウィルとヤヨイを専業の戦士に数えて合計五名だから、まだ五人ほど増やす余裕がある。
一度戦士になれた者も、その地位は決して安泰ではない。弱ければ従士に格下げすることとし、常に努力を続けなければならない仕組みだ。もっとも、戦いで負傷したり疲れを感じて休みたくなることはあろう。そのような場合は双方合意のうえで従士の昇格を推薦し、本人は従士か職人に降りてもらうことも考えている。
子供は村の宝に位置づけ、働くより学ばせる。とはいえ仕事がそのまま学ぶことにもつながるゆえ、今までどおり畑や採集の手伝いを基本としつつ、弓の稽古を兼ねた狩猟、依代と格闘の訓練及び創術の勉強もさせることになろう。
一番重要なことだが、住民同士の争いは禁止する。
例外は戦士昇格の試練のみ。戦士になりたい者はまず従士を目指し、見込みのある者や一芸に秀でた者をウィルかヤヨイが承認する。そのうえで戦士のひとりに試合を挑み、勝てば戦士となり負けたほうが従士となる。当然、相手を殺してはならない。同胞殺しは原則死刑、酌量の余地があった場合でも正当防衛を除いて村からの追放とする。
「…こんなところか。お前達のやり方と、ニンゲンの王国とやらを組み合わせてみた。意見があれば遠慮なく言ってくれ」
一息ついたウィルの顔を、ヤヨイがじとりと見つめる。
「……ニンゲン?」
「疑うのはもっともだが、俺は一昨日まで自分がどこの誰か分からなかった。ドワーフとニンゲンの知り合いがいて、彼らからいろいろ教わった」
リトラの執政官エリクなら、もっと沢山のことを知っているはず。いつでも遊びにこいと誘った神職レオリオも……いろいろくだらないことを。訊ける立場ではなくなってしまったが、名前や顔を変えて会いにゆくことまでは諦めていない。あのリウ老人になら、本当のことを話してよいかもしれない。眷属のリンファは……烈火のごとく怒るだろう。
「…『王』……?」
「ああ、いや……その呼び方は疲れるな」
改めてハルマーと呼ぶように伝える。
どうせ使い捨てる名だ。適当に選んだ『灰色』を表すエルフの言葉。
よもや長い付き合いになるなど、このときは思いもしなかったが。
☆★☆★☆★☆★☆
ひと月経過した。日に日に寒くなり、空気も乾く。厳しい冬の到来である。
今のところまだだが、そのうち降るだろう。大地が白くなれば、森は休息の季節。食べるものとて充分になく、冬眠する獣人もいるという。
にもかかわらず、ここブラッドでは満足な準備ができていない。
というより、完全なその日暮らしだ。そもそも交易をしないため、漬物など保存食を作るための塩がない。加えて奴隷が稼ぎを残そうものなら、もっと取り上げても大丈夫だったと粗雑なことを考える。昨年まではどうしていたのか訊ねると、まず鹿や兎の狩り。それから暖かい季節より略奪を増やして足りない分は我慢したとか。
無論、奴隷のことなど考えない。個人的に親しい奴隷戦士が、自分の食べる分をこっそり与えて生き延びることもあったそうだ。数が減ったら、また暖かい季節に攫ってきて補充。半端者三人の頭を、今度こそ胴から首が落ちる勢いで殴りたくなってくる。
「来年からは商品作物を考えるとして……とりあえず今どうするかだな」
まだ可能性があるのは森に棲む獣の肉。ここに至っては、戦士も従士も職人もない。食べるものがなければ、皆平等に餓死するのだ。
(そういえば……)
ふと気がつく。ニンゲンの奴隷はいなかったのだろうか、と。
ニンゲンの馬車を襲っていたのなら、塩や保存食など冬越しに役立つものもあったはずだ。保存食は食い潰したとして、使わなかった塩がどこかに捨ててあるかもしれない。大分遅きに失した感はあるが、何もしないよりマシである。
早速ヤヨイに相談すると、言下に切り捨てられた。
「…あいつらの馬鹿さ加減は見たでしょう。何を期待しているの……?」
予想以上の厳しい言葉をいただく。
曰く塩辛い味の物珍しさから、積んであった酒と一緒に舐め尽くした。
曰く暑い日の無聊に塩、水、塩、水、塩、水……と延々繰り返す。
曰く飽きたら投げつけて遊ぶ。独特の手触りが面白い……らしい。
「……何だ、それは」
「私に訊かないで。全然分からないから」
三馬鹿を連れてこようか?と視線のみで訊ねられ、要らないと即答。今あの連中の下卑た面を見たら、本当に殺してしまうかもしれない。
「殺してもいいんじゃない。あんなのを共通の敵にしたって誰も協力しない。それと」
今日二度目の空気を呼んだヤヨイが、三度目の空気を読む。
「ニンゲンの奴隷は、去年の今頃までいた。ニンゲンは壊れやすかったし、前の『王』が死んで攫ってくる腕のある奴がいなくなったから」
ブラッドの傍若無人ぶりが身に染みて、商人達が優秀な護衛を雇うようになった。タオ商会の引退冒険者然り、ドワーフの行商ラダラムに雇われたウィル達然り。そういえば冒険者の店の掲示板にも、所狭しとアトルム退治の依頼が。
「それで、どうすればいい?私としてはとりあえずあの三人を殺して、少しでも口を減らしたいところだけれど」
会話が成り立つゆえ忘れそうになるが、ヤヨイ自身まともなアトルムの村で暮らしたことはない。すぐ血腥いほうへ考えが傾きやすいこともそう。それから肉の干し方、根菜の漬け方、果実酒の作り方。具体的なことは何も知らないのだ。
「…君は君で、外の常識を学ぶ必要があるな……」
☆★☆★☆★☆★☆
使えそうなのは動物の肉。ウィルとヤヨイの意見は一致した。
狩場の確認から始める。まず期待できそうなのは川。村の中央を流れているのだから、これを利用しない手はない。
ただし、食べられる魚がいるかは不明。これまで散々汚してきたうえ、そもそも上流の村に美味しいところを持ってゆかれたら獲物は残らなくなる。
「…さすがに今、ここで漁をする気にはなれないな」
汚物塗れの村はどちらも放棄、全員同じ側の岸に新しい集落を築いた。戦士の家は各自、土の精霊に頼んで好きなように造る。従士と職人は特に分けない。共通の雑魚寝小屋を建て、家族が一緒にいられるように。
併せて行ったのが、濫りに汚物を捨てることの禁止。衛生上の危険もさることながら、汚物は肥料になり得る。適切に管理すれば、邪魔なだけの存在ではない。川から遠ざけて穴を掘り、そこに捨てさせる。そのままでは使えないゆえ、今後の課題だろう。
「ここより下流の村はあったか?」
付近の地理を思い浮かべる。昔のことだが、サラサにいたとき地面に描いて教わったような。ライセンに来たばかりのときも、やはり同じようにバルザから。
「ない。下流になると皆、逃げだす」
「…それはつまり、ブラッドが上流に移動すると」
「力の弱い支族は引っ越す。比較的強いところとは……戦になる」
十年前にイラリオ、十三年前はライセンと。
「二十年前も動いたりしなかったか……?」
「二年に一度は動いてる。いつどんな影響を与えたかまでは」
それもそうだ。長年の恨みが重なることはあろうし、支族に頼られて始祖四氏族が出張ることも。相手がニウェウスなら余計に事情が分かりにくい。
だが今重要なのは、ブラッドの下流に村がないこと。すなわち他所の縄張りを侵さず、海まで川を辿ってゆくことができる。
「…気味が悪いかもしれないが、海の生き物も食べられると聞く。ドワーフやニンゲン達は、海で捕った魚を好んで食べるそうだ」
「……………」
閉口するヤヨイ。どうやら気乗りしないようだ。ライセンでもそうだったが、アトルムはそれらを食糧だと思っていない。肉といえば、鹿や兎が基本である。
ウィル自身、港町ドゥオで一度だけ口にしたことがある。ドワーフの行商ラダラムが大陸の故郷に帰る前の晩、朝まで相伴したときのこと。
正直、味のほうは憶えていない。何やら白いものを纏わりつかせて煮え滾る油に具材を投入した『てんぷら』なる料理。細長い胴の先に赤い尾がついていて、身は白く柔らかい。食感は……まあ悪くなかったと思う。
実は、考えがある。川と海の境まで下れば、水の汚れが少なくなるかもしれない。もしそうなら、川と同じ手法で漁ができないか。汚れていない海のものが獲れないか。
翌日。実入りの薄い採集に出ようとする職人を捕まえ、簡単に事情を説明。興味を示した二人と川辺を歩いてゆく。ヤヨイは留守番として、念のため村に置いてきた。昼間は一緒にいることが多く、顔を見ないのは今日が初めて。
思ったとおり。異様に繁茂した水草が下流へ進むほど減ってゆき、そこから魚影が覗いている。あれは病原塗れゆえ遠慮しておくが、ブラッドが生み出した汚れは浄化されているのだ。ヒトが関わらない自然の復元力によって。
川と海の間には、明確な境界線などない。川の側を淡水域、海の側を海水域と呼び、中間の両者が混じり合う場所を汽水域という。そのような言葉をウィルが知っていたわけではないが、物事には大抵どちらとも言えない部分がある。森と草原の間の茂み。川と森の間の土砂利。ハーフ・アトルムのヒルダ。色無し子の変異体たるウィル自身。
「よし。このあたりでいいだろう」
川原の石が細かくなってきた。ほぼ砂粒であり、海が近い。
水の精霊と契約していれば、水中のことは概ね分かる。どのくらいの速さで流れているか、どこに何があるか。感覚的に。
動くものは特に目立つ。泳ぐ向きと水の流れを合わせ、上手に加速してやれば……
「…とまあ、こんな具合だが」
川原を跳ねる小魚。連れてきた二人は激しく横に首を振った。
「難しすぎたか。では……」
土の精霊を招き入れ、川原の地形を変える。分岐を作り、水を呼び込むのだ。本流と間違えて来る魚を捕まえれば、依代としての技は要らない。手早く教えるため精霊の力を借りたが、これなら適切な道具さえあれば誰でもできるはず。
「……凄く冷たいんですけど」
「我慢しろ。死にはしない」
「!?は、はいっ」
二人とも震え、それからヒトが変わったように潜って魚を摑もうとする。この日は朝から冷え込み、水温も低かった。そこまでしろと言ったつもりはない。
「おい。あまり無茶は」
彼らの耳には届かず、小一時間ほどで潮溜まりの魚はいなくなった。
成功である。無様な濡れ鼠が残ったことを除けば。
熱の精霊に頼み、二人の身体と服を乾かす。枯れ葉を集めて火を熾し、松ぼっくり、枯れ枝と順番に移してゆく。これは精霊の力と別。
獲物の魚を一匹ずつ、小枝の串に通す。
焼けるまで少し間がある。その前に説教を済ませておく。
「…何故、あのような真似を?」
「……………」
落ち着かない様子で視線を合わせる。互いに相手が言ってくれればと思っているようだ。それだけで内容が想像できる。
「殺される、と思ったのか」
「…『王』は、絶対だから」
「だとしても、無駄に消耗する必要はない。効率的な手法を選ぶべきだ」
網を使う、潮溜まりを堰き止めて水を抜く等々。やりようは幾らでもある。結果を出しさえすれば手段は問わない。一番損失の少ない方法で構わない。
そのようなことを伝えると、職人二人はきょとんとした。
「奴隷が、楽をしてもいい……?」
「奴隷ではないがな。役目を果たす限りにおいては」
より多く稼ぐか、別のことに時間を充てるか。全て本人次第。
「言ったはずだぞ。自分の頭で考えろと」
「…はあ」
よく分からないようだ。それも無理はない。生来ずっと、考えることをしないように強制されてきたのだから。
「今は、俺の指示に従ってもらう。しかし本当に必要なことだけだ。それ以外は全部、好きにするといい」
焼きあがった魚の串を差し出し、熱いゆえ気をつけて食べるように促す。
すると今度も二人は顔を見合わせ、しかし先を争って言い募った。
「…これを持ち帰りたいんです。駄目でしょうか」
「それは……構わないが」
一箇月前まで奴隷だった。扱いがマシになったとはいえ、村全体が貧しいことに変わりはなく。『王』のウィルでさえ、充分な食事を摂っているとは言い難い。
「……俺が言ったことだからな。好きにするといい」
とりあえず一匹だけ食べてみせ、危険がないことを示す。持ち帰りたいというのは、誰かに食べさせるためだろう。それにしても自分が知らないものを渡すのは無責任ではないか、と理由をこじつけて二人にも一匹ずつ食べさせた。
最初は潮の香りに戸惑ったものの、どうやら気に入ったらしい。余程思うところが強いのか、決して二匹目に手をつけようとはしなかったが。
「…今、戻った。変わりはないか」
村に帰りつくと、すぐヤヨイのところへ顔を出した。
これが半ば日課となっている。彼女しか対等に話せる相手がいないからだが、傍から見れば家族に近い。弟と妹もいるゆえ、できるだけ面倒はかけたくない。
「…そいつらは?」
「え?」
振り返ってみると、職人達がヤヨイの家までついてきていた。
思い詰めた顔をしている。おもむろに焼き魚の束を取り出すと、二人一緒にヤヨイのほうへ差し出した。
「……へ?」
今度はヤヨイが驚く番。状況は理解しても、それが何を意味するのか分かっていない。ブラッドの文脈で考えれば主人への貢ぎ物だろうが。ニンゲンの街にいた頃、これと似たような場面を見たことがある。主に愛の女神ルースアを祀る神社で。
「…くれるの。私に……?」
「助けて、くれましたから。自分も辛いのに……奴隷の俺達を」
「恩返しがしたいんです。受け取ってください」
「……………」
そろそろと伸びかけたヤヨイの手が、途中でぴたりと止まる。そしてじりじりと……後退りを始めた。いつもの無表情が、心なしか蒼褪めて見える。
「……どうした。顔色が」
優れないぞ、と訊ねる前に。脱兎のごとく走り去った。
海へ行くことを伝えたとき、そういえば返事らしい返事もなかった気がする。無愛想はいつものことだが、今朝は顔すら見ていない。それらが意味するところは。
「……そういうことか」
何となく分かった。あのヤヨイが必死になって逃げ出した理由。
居住まいを正し、威厳を込めて宣言する。
「…ヤヨイを捕まえてこい。これは『王』の命令だ……そして絶対に賞味させよ。お前達がずぶ濡れになって用意した、最高の心尽くしを」
「「はい!」」
その日、彼女を捕まえるのに夕方までかかった。従士達を総動員、焼き魚の一部を捕縛した者への見返りに提供して。ヤヨイは強力な使い手、実戦形式の訓練相手に丁度よい。頑強に抵抗したものの、数の暴力を以てすれば時間の問題。最後は弟妹達の無邪気な勧めに屈し、半泣きになりながら潮の香りを堪能したという……
☆★☆★☆★☆★☆
翌朝、ウィルは散歩にヤヨイを連れ出した。付近の狩場と魔獣の縄張りについて、詳しい話を訊くためである。
「あの辺りはマンティコアとヒポグリフか。退治すればよい狩場になるな」
「……………」
「バグベアはさすがに無理だろう。下手に刺激して失敗したときの危険が大きすぎる。その点、君はどう考える?」
「……………」
「…ヤヨイ?」
「…無理矢理、不気味なモノを食べさせた。『王』は性格が悪い」
視線を逸らしたまま呟く。
「まだ怒っているのか……」
「……別に」
魔獣の棲息域を図にした、貴重な羊皮紙を投げつけてくる。
確実に怒っている。またしばらく名前を呼んでくれなくなるのだろう。
「他の狩場を見てくる。魔獣が入り込んでいるかも」
別の獣道を選び、さっさと離れてゆく。多分ヤヨイなら一人でも大丈夫だが。
村の外は危険ゆえ、弟妹達は小屋に置いてきた。苛烈な支配と搾取の時代を、共に乗り切った連帯感か仲間意識か。今のブラッドは住人同士仲がよく、何事も協力しあう関係ができている。フヅキとハヅキをヒト質にされる心配はもうない。
(まさか、ここまで改善するとはな。節約次第で冬を越せる)
都合よく進み過ぎていた。これではブラッドを犠牲にできない。
当初の考えとは、大分状況が違ってきている。そもそもの目的は、ウィルに着せられるだろう冤罪をブラッドに着せ替えることだった。役柄に相応しい猛者共が七箇月前の疫病で全滅。傍若無人なブラッドの脅威は、過去のものに過ぎなかったのである。
奴隷や半奴隷にされていたなど、罪のない住人が多かった。生贄にできる者は少なく、業火に投げ込めるのは実体を失くした悪名の虚像だけ。高まりつつある戦の機運を鎮めるには、自分自身を燃やし尽くさなければならないかもしれない……
(…ん?これは……)
ヤヨイから渡された羊皮紙に視線を落とす。アトルムとニウェウスの間には、二つの緩衝帯が存在する。一つは獣人族の居住域。もう一つは自然境界であり、引っ越し前のブラッドを貫通していた川である。
アトルムが島に上陸したのは約千年前。最先住民の獣人、僅かに遅れたニウェウスとの間に、当然のごとく争いが起こる。戦という名の生存競争だ。
他種族との境界は必然的に激戦区となり、結果として『魂消し』の秘法が用いられる。野生化した魔獣は縄張りを持つようになり、あらゆる種族の村を遠ざけてしまう。集落が均等に存在する森の中で、時折見られる空白地帯。その最も大きい場所にブラッドが造られたのは、断じて偶然などではない。
故郷を追われた知性なき変異の魔獣も、安住の地を求めて彷徨う。夜に奴隷小屋の入口を土で固めるのには、それらの侵入を防ぐ意味もあったのである。
「……使えるな」
ブラッドのほうが他の村より魔獣の棲息域に詳しい。情報の格差を利用し、敵の侵入を防ぐ壁としたり敵だけを縄張りに追い込んで全滅させたり。『姿偸み』やタルカスだけを、上手く罠に嵌めることはできないか。
(それには、あの方の協力が要る。何とか繋ぎを取らなくては)
だが、まずは具体的な作戦だ。よい案がなければ、誰も納得させられない。もう一度地図を開く。ブラッドを囲むように、特別な力を有する魔獣の縄張りが五つ。
東の森。六百年前。『腕無し竜』ワイバーン。
西の沼地。千年前。『始祖精霊』ウィル・オ・ウィスプ。
北の瀝青層。いつから棲んでいるのか不明。『虹色の視線』バグベア。
南の川原。『疫病の魔獣』フンババ。これには✕印がついている。
旧セシルの集落。二十年前。『鳥獣の王』グリフィン。
最も新しいひとつを、指先でなぞる。
殺されかけたこともあった。もはや何も分からないのだろう。『魂消し』の秘法は、術者から全てを奪う。懺悔するリタは、ウィルにそう教えてくれた。
「……ここは」
ふと足を止める。そして周りの景色を見渡す。
いつの間にか、知っている場所に出ていた。最近のことではない。さりとてネフラだった頃ほど古くもなく。となれば、いつの記憶かは自明である。
「……ライセン……」
すぐ引き返すべき。そう思ったが、ウィルの足は自然に前へ踏み出していた。この道を真っ直ぐ進めばライセンに着く――ニンゲンの街へ出るとき、エアと一緒にラダラムの馬車で揺られながら通ったゆえ間違いない。
更に進めば、七箇月前に倒れていてエアとルークに拾われた場所。そのときのことは憶えていないが、意識がなかったのだから当然だ。処分保留の判決を受け、バルザから創術の手解きを受け始めた頃に息抜きとして案内された。
その前の記憶は、森の中をグリフィンに襲われながら逃げ回るというもの。ここは丁度、魔獣の縄張りとライセンの中間。納得のゆく話である。
川を遡れば、病み上がりの身体で洗濯をして寝ていろと叱られた場所。さすがにそこまで近づく勇気はない。集落から遠ざかるように、獣道を折れ曲がる。
だが、そちらの景色もまだウィルの記憶にあった。
いつのものだったろうか。さほど詳しくは憶えていない。何やら恐ろしい記憶と一緒のような気がする。巨大なものが羽ばたく音?ここはグリフィンの縄張りに近い。
(…そうか。あのときだ……)
エアの家に来てから二箇月ほど。雨季の盛りが始まった頃。エアが珍しくルークを伴わずに出かけると言い、心配したバルザと追わせまいとするルークが本気の喧嘩をやらかした。バルザから無言の依頼を受け、ウィルが跡を尾けたのである。
一度見つかって慌てたりもしたが、目的は無事達成した。そのとき見たものは……幼いニンゲンの少女と楽しそうに話すエアの姿。あれをどう捉えてよいのか、今でも分からない。全く見当もつかないゆえ、今まですっかり忘れていた。
無意識に足が向く。エアと少女が座っていた奇妙な場所のほうへ。
本当に奇妙な場所だった。周りは生い茂る普通の森。にもかかわらず、ところどころ見たこともない石畳のようなものが落ちている。その当時は、何なのか分からなかった。いや現在も正確なところは分からないが、後からニンゲンの街で見たものと似ている。材質は違っているかもしれない。しかし形というか造りというか、ヒトの歩く道を硬いもので敷き詰めようという考え方が。
あれは何だったのか。今にして思えば、大変な秘密だったのかもしれない。隠しごとをしないエアが、師匠にして養父のバルザにすら黙っているもの。
調べて何かしようとか、役立てようと思ったわけではない。どちらかといえば……言い訳だった。このまま先へ進もうとする、自分の足が止められないことに対しての。
その場所は、簡単に見つかった。それこそ拍子抜けするほど。
できれば見つかりたくなかった、漆黒の獣に跨る小柄な少女と一緒に。
少女は、譫言のように呟く。
「ウィル……!?」
☆★☆★☆★☆★☆
「…あ……?」
思わず戸惑い、即座に反応できない。
本当に予想できなかったのか。心の奥底で期待しなかったと言い切れるか。
「ウィル……!」
その名を否定できない。否定したくない自分がいる。
受け容れてしまいたい。もう一度、元の暮らしに戻りたい。
だが、それは決して許されないこと。
「ウィル!!」
自分の大事なものと。彼女が大切にするものを護るために。
「…帰って、くるんだよね?今は無理でも、必ず戻ってくるんだよね……?」
「……………」
こちらの意図を察しているのか、ルークはその場から動かない。もし妹が自分の背中から降りようものなら、力ずくでも止める覚悟だろう。そこまで気が回らないのか、エアはそのまま何度も呼びかけてくる。
その瞬間は、ついに訪れた。こちらへ駆け寄ろうとエアが地面に降り立つ。ルークの身に精霊が宿る気配。そこで耳慣れた、しかし緊迫した声が場を切り裂く。
「…『王』!?離れて!」
ヤヨイだ。エアとルークの姿を見るや、珍しく慌てた様子で凍の精霊を宿す。それは弓に矢を番えるのと同じであり、敵対行為と看做されても仕方がない。
「……ぐるるるるる………」
「!?…駄目っ!ルーク!!」
石礫と鎌鼬がヤヨイを襲う。ウィルは土壁を召喚して庇った。その陰から氷柱の精密連射で反撃する。とはいえ、この程度でルークは倒せない。精霊と完璧に親和する彼は、『神宿り』にならずとも同等の力を発揮できる。二人がかりでも勝てるかどうか。
今は退くべきだ。バルザが話に乗ったからといって、ルークも最後まで味方という保証はない。妹のためと判断すれば、彼は他の全てを切り捨てる。
ヤヨイは指示に従うだろう。ここで死んでも、弟や妹を護ることにならない。土の壁を解除し、片手で憑依を解くように命令する。
「ライセンの戦士よ、自己紹介しておこう。私はブラッドの『王』ハルマー。力を蓄えた我々は、まず近隣の集落へ……最終的には、大陸全土を掌握するために侵攻を開始する。サラサのナスカ族長暗殺は、その布石だ」
とりあえず一番伝えたかった情報を伝える。これでライセンとサラサ、リトラは共通の敵を認識するはず。初代『王』の死から復活したブラッドは、やはり危険な存在だと。アトルム、ニウェウス、ニンゲン、小人、獣人――あらゆる種族が手を結んでも、彼らを滅ぼさない限り本当の平和は訪れないと。そして邪悪な存在の言葉を伝える役目に選ばれた少女は、この期に及んでも別のことばかり気にしている。
「ウィルは……私の相棒は、どこに行ったの」
「さてな。そのような男、最初からいなかったのではないか」
「……………」
二の句を継げないばかりか、ルークの背中で俯くエア。
バルザの指導が活かされていない。リトラで得た冒険者としての経験も。戦場で敵から視線を外すなど以ての外。このままでは次の戦を生き残れるか。渾身の突風を叩きつける。漆黒の毛皮にしがみつき、辛うじて吹き飛ばされることだけは回避した。
「帰ってネロ族長に伝えるがいい。貴様の首も、近いうちに貰い受けるとな」
まだ去ろうとしないエアに、今度はヤヨイが攻撃の構えを見せる。何かを察してくれたのかもしれない。余裕めいた緩やかな動きは、明らかに手加減されていた。
エアを乗せたルークがライセンの方角へ走り出す。エアはどこか後ろ髪を引かれている様子だったが、やがて決意したように前を向く。
「………っ」
刹那、一度だけ振り返る。
その視線に、哀しみの色はなかった。




