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灰色の森  作者: 五月雨
14/19

第5章 覚醒

「さあ……兄さん」


 草色の瞳が、上目遣いに見つめてくる。


「ここが、あなたの暮らしてきた村です。父と母と私と……村の仲間達。お母様も含め、かなりの人数が流行病で亡くなりましたが……」


 リーネの視線を追い、やや寂れた村の光景を見渡す。外にいる者が少ないとはいえ、この静けさは異様だった。


「……それも半年前のことなのか?俺が行方不明になったという……」


「はい。私達は族長――お父様から、疫病の対策を任されました。村の法術師だけでは、明らかに手が足りません。族長の許可を得て、助けてくれる冒険者を探しにウゥヌス・リトラの街へ向かいました」


「……………」


 リーネのする話は、何から何まで身に覚えがなかった。


 彼女に聞く限り、その冒険者は結構簡単に見つかったのだという。六人組の旅人で、構成はエルフが一人、ドワーフが一人、獣人が一人、そしてニンゲンが三人。


 明らかに裕福な様子の彼らは、リーネの頼みを二つ返事で聞き入れた。しかも一切金を受け取らず、疫病の原因となった魔獣や街道に出没する盗賊まで退治してくれた。


 これで全部丸く収まる――誰もがそう思ったとき。兄のネフラが冒険者達を裏切った。用済みの彼らを毒殺しようとしたのである。神の末裔たるニウェウスが、野蛮な原種に救われるなどあってはならぬ。間違いは糺すべきなのだと。


 リーネは泣いて抗議したが、全く聞き入れられなかった。逆らったのはこのときが初めてであり、多少は驚いたのかもしれない。厳しく叱りつけるばかりだった兄も、黙って聞き分けのない妹から距離を置いた。


 エルフとドワーフと獣人、ニンゲン二人の中毒死を確認。あと一人のニンゲンは急流に落ちた。いずれ毒が回って野垂れ死にしたのだろうと推察される。


 誰も彼らの死を問わない。砂色の髪と白い膚、翠玉の瞳を持つエルフの女性ルーナのことさえ。アトルムを知らない彼女は、一度も自分のことをニウェウスと呼ばなかった。


 それから数日後、兄ネフラは忽然と姿を消す。共に歩哨を務めていた幼馴染みセインによると、彼の知り合いを名乗る女が訪ねてきたという。今にして思えば様子がおかしかった、目を離すのではなかったと頻りに後悔していたが……


「殺されても文句は言えないと思います。異種族というだけで、一方的に殺そうとしたのですから」


 やはり身に覚えのない話である。だが事実ならば、確かに文句は言えない。他者を狙う者は、同時に自らの命も危険に曝す。その覚悟がなければ戦場に立つ資格などない。


「でも彼は、兄さんを赦してくれました。『それなりに苦しむでしょうが、命までは取りません。その日を楽しみにお待ちなさい』……そう仰られて」


 僅かに涙ぐむリーネを、ウィルは複雑な思いで見守った。


 それなりに苦しむ――言われてみれば、確かに苦しんでいるだろう。主としてウィルではなく、彼の周りにいる罪もない者達が。いや彼自身とて、確かにアトルムなのだ。リーネと兄妹のはずはなく、その時点で彼女の論理は破綻している。動揺して一緒に来てしまったが……その必要は最初からなかったとみるべきだろう。


 せめてもの収穫は、案外ニウェウスが話せる相手だということ。それが分かっただけでも価値はある。エアには余計な心配をかけたかもしれないが。


 怒ったときの顔を思い出し、ふと笑みを浮かべる。


 たったひと月なのに、あの顔と別れて随分久しいような気がする。それほど自分は、エアとの暮らしに慣れていたのだ。額に汗して日銭を稼ぎ、一緒に祝杯を上げる。時にはクララや他の仲間もいたが、隣はいつもエアだ。彼女の隣こそが自分の居場所――いつしかウィルは、漠然とそう思うようになっていた。


「お前……ネフラなのか!?いつ戻った!?みんな心配してたんだぞ!?」


 エルフにしては長身の男が、ウィルの肩を叩いてくる。その馴れ馴れしさに戸惑いを覚えるも、幸い向こうには気づかれなかったらしい。こちらの首に太い腕を回すと、彼は再会の喜びを全身で表した。


「闇の領域で行方不明になったって聞いたからよ、俺はてっきり死んだものと……おい、ちゃんと足はついてるよな?」


 冗談めかして屈み、ウィルの足元を大袈裟に覗く。矯めつ眇めつ角度を変えるが、取り立てて変わったところは何もない。当たり前のことを確認して初めて、男はようやくリーネのほうに向きなおった。


「…セイン。本当に心配をかけたわ。あなたには、いくら謝っても足りないくらい」


「いいってことよ。こいつは俺にとっても兄弟だからな。兄貴分の心配をするのは、当然のことだろう?」


 また涙ぐむリーネの身体を、セインが軽く抱擁する。アトルム同様、ニウェウスにも挨拶で抱き合う習慣はない。つまりは……そういう関係なのだろう。そしてネフラも、二人の間柄を認めていた。全く覚えはないが、そんなことは今更である。機嫌の悪い兄貴分に首を傾げつつ、セインは仕事へ戻っていった。


(……夜を待って、脱け出すとしよう)



 ☆★☆★☆★☆★☆



 ニウェウスの食卓は、アトルムのものと大差なかった。


 季節の野菜と果物が並び、ニンゲンの街から仕入れたとしか思えない肉や魚の料理。何のことはない、彼らも時代の変化に順応しているのだ。さすがにドワーフ商人が来ていることはなかろうが、街へ出た冒険者の土産だろう。あるいは高い知能を生かし、商売に手を染めた者さえいるのかもしれない。味付けはエアのものより淡白だったが、それなりに味覚を愉しませることはできた。


(それにしても……)


 食後の茶を飲みながら、先程顔を合わせた族長ナスカのことを思い出す。


(ニウェウスというのは、みんなああなのか?行方不明の息子が見つかったとはいえ、あまりにも親馬鹿が過ぎる)


 ウィルが居室に入ると、族長はいきなり涙ぐんだ。それから猛烈な勢いで歩み寄り、あっと思ったときには抱き竦められていた。この間、僅か二秒。子供を持てば分かるのかもしれないが……アトルムの親子関係は、もう少し冷静というか理性的だったと思う。


(あのセインという男も、勢いだけで動きそうな雰囲気をしていたな……ナスカといいリーネといい、思ったより頭の構造は単純なのかもしれん)


 そんなことを考えつつ、残った香草茶を飲み干す。それは疲れた精神に効くという貴重なものだったが、彼の心を覆っている暗雲を晴らすことはできなかった。


「お替わり、いかがですか?多めに摘んできたから、まだまだあるんですよ。悪くならないうちに、使ってしまわないと……」


「いや、とりあえずいい。もう三杯目だぞ?茶だけで腹が一杯だ」


「あ……ご、ごめんなさい」


 思わず本音を洩らしてしまい、身体を小さくして謝る。だが気を取り直すと、急須の古くなった茶葉を捨てながら微笑んだ。


「そろそろ休みましょうか?大分お疲れのようですし……寝室の用意はできています」


 確かに疲れている。脱け出すのは後にして、ひとまず提案に従った。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 窓の隙間から、蒼い光が零れる。


 銅の月は狂気。蒼の月は理性。そんなことを最初に言ったのは誰だったか。


 月の女神リネーアは、狂気と理性を司る。この世界に住む人々は、古より月の光に神の恩寵を重ねていた。


 滾る狂気と冷たい理性。一枚の葉の表と裏。取り繕った理性は些細なことから歪み、時に狂気へと変わる。本能と直感に従う限り、他愛のない獣のままでいられるのに。それができなかったリネーアを、人々は恐れると同時に憐れんだ。自らの理想を追い求め、最期は外道に堕ちた女神。彼女が罪を悔いるとき、蒼い光が現れるのだという。再び狂気に囚われたとき、銅の光が現れるのだという……


「…兄さん?もう眠ってしまいましたか」


「……………」


 まだ起きていた。眠れるはずがなかった。しかし返事をする気にもなれない。無言のまま背中を向け、ひたすら寝返りを耐え忍ぶ。


「憶えて……ませんよね。こんな晩のこと……私は病に伏せっていました。兄さんが、その薬草を採りに出かけてくれて……」


 ウィルの返事を待たず、そのまま語りはじめる。彼が聞いているのかどうかは、あまり関係がないようだ。やや疎ましくはあったが、それも一時的なこと。リーネが眠った頃を見計らい、そっと脱け出すつもりなのだから。


「でも……結局手に入れることができなかった。それどころか迷子になってしまって……今でこそ考えられませんけれど。兄さんにも、子供の頃があったんですね」


 当然のことを口にして、くすりと小さく笑う。その笑顔は嬉しそうであり、また寂しそうでもあった。


「あのとき……熱に浮かされた私が、何を考えていたか。兄さん、知っていましたか?…薬なんて要らない。みんな傍にいて、ただ手を握ってさえくれれば。そう思っていたんです。なのに……お父様もお母様も、兄さんを捜しに行ってしまった」


「……………」


 脇腹が苦しくなり、若干の身動ぎをする。同じく背中を向けているらしいリーネは、ウィルが眠っていないことに気づかなかった。


「病み上がり後も、私は兄さんのことを恨みました。いえ……きっと羨ましかったんだと思います。自分は放っておかれたのに、兄さんには二人とも駆けつけてくれた。私は両親に愛されていないのかもしれない。私は要らない子なんだって……真剣に悩みました」


 子を愛さない親はいない――そう反論してやりたかった。実の親でなくとも、バルザはエアに惜しみない愛情を注いでいる。逆に血縁のネロ族長は、エアのことを庇護すべき同胞の一人としか見ていない。疎遠な肉親は他人も同然だが、手をかけた相手は我が子のように可愛い。あの親馬鹿なナスカのこと、これだけ素直な娘が可愛くないはずはないのだ。


 衣擦れの音と共に、リーネが寝返りをうつ。背中を向けているため顔は見えない。だが次に聞こえた声は、意外なほど幸せな響きを伴っていて。


「本当に悩んだんですよ?どうすれば、お父様とお母様に振り向いてもらえるのか。術の練習をしたり、お裁縫を学んだり……私は二人の血を引いているのに、一体何が足りないんだろうって。でも……」


 ――血。その言葉を聞いた瞬間、ウィルの心臓が大きく跳ね上がった。


「…今なら分かるんです。自分の考えが間違っていたと。私を表立って可愛がれば、兄さんは必ず辛い思いをする。それでも私は、結局分かり合うことができたのですから」



 ☆★☆★☆★☆★☆



「…兄さん?」


 少し驚かせてしまったかもしれない。心臓が跳ねる勢いのまま、急に身体を起こしたから。心配しなくてよいと首を振って頷く。


「眠れないようだ。少し散歩してくる」


 リーネは家に残った。様子がおかしいとは思ったが、ここは村の中。そうそう危険なことが起きるはずもない。


 星空の下に出てきたウィルは、先程のリーネの言葉を思い出していた。



 

 ――私は二人の血を引いているのに。




 それはつまり、ネフラがナスカ達の血を引いていないことを意味する。


 ネフラとリーネは、実の兄妹ではなかった。だとすれば種族が違うからといって、ウィルがネフラではないという根拠にならないのではないか……?


 とはいえ常識的に考えれば、ニウェウスの集落でアトルムなど育てられない。ネフラが拾われた子だろうと、悩むことはないはずなのだ。


(俺はウィルだ。どこの馬の骨とも分からない、名無しの行き倒れ……)


 ライセンで暮らした半年の間に、過去のことはあまり意味を成さなくなっていた。


 若長バルザから聞いた限り、族長の裁定は永遠の先延ばしとも取れる内容だったという。異種族と判明したら即刻追放、それまではバルザとエアの二人が監視。何のことはない、それまでの暮らしを続けろとのお達し。


 新たな生活は、ウィルに安らぎを与えた。このまま留まってよいなら留まりたい。ライセンの一員として、叶うものなら死ぬまでずっと。ニンゲン相手の小競り合いで功を示し、実力が認められ信用も得た。養女とはいえ愛娘と一緒にニンゲンの街へ出ることを命じられたのも、バルザが全幅の信頼を寄せてくれたから。


 ドワーフと知り合い、ニンゲンと知り合い、それなりに友人ができた。冒険者稼業にも目途が立ち、いずれ街を去るときまで何とか暮らせるだろうと。そう思い始めたとき、ウィルの前に現れたのがリーネだった。


(このままいなくなるべきかもしれない)


 一度ライセンへ報告に戻り、それからドゥオで待っているエアを迎えにゆく。イラリオとリタに対してはバルザを通じて説明し、あえて誤解される態度を取った非礼を詫びる。あれは争いを避けるための一時的な措置、冷静に話を聞いてもらえば解るはずだ。


 リーネとは今生の別れとなる。そうなるようにしなければならない。彼女が兄の喪失を受け容れることはないだろう。余計な火種を生まないためにも。


(さて。どれを通ってゆくか……)


 表へ出て、四方向に延びた道の先を窺う。族長の家は村の中心にある。恐らく単に古いからというのはライセンと同じ。だが景色の印象は大分異なる。


 アトルムの集落に比べて、住居の密度が高い。個々の家が寄り添うように建ち並んでいる。また他者への干渉が強く、ほとんど一人になれるところがない。昼間は誰もいない場所が、夜は歩哨の戦士達で軽く賑わう。葡萄畑の外縁、橋の袂、水源の泉。どこへ行っても声をかけられ、皆が皆揃って曖昧な反応に首を傾げる。


(何なのだ……ここの連中は。俺を監視でもしているのか?)


 辟易とする。だが理解できなくもない。死んだと思っていた仲間が、記憶を失くして帰ってきた。それも半年後に。何らかの謀略を警戒しないほうがどうかしている。


 ヒト目を避けて根菜と薬草の群れに迷い込んだ。開墾中なのだろう、手入れの行き届かない一角がある。茂みの中から、彼を呼ぶ潜めた声がする。


「…ネフラ殿。こちらですっ……」


 何やら慌てているが、ウィルのほうに見つかって困る事情などない。強いて言うなら、黙って脱け出そうとしていることがリーネに知られたら困るか。


「誰だ」


「ユアンです。どうぞ、こちらへ……!」


 もう一度誰だ、と訊ねたくなる悪戯心に封をして言われるままついてゆく。そういえばリーネの縁者以外にも、不本意ながら関わってしまった相手がいる。


 丈の長い葦原の陰で、見覚えのある顔が囁く。


「ネフラ殿に会わせたいヒトがいます」


「……………」


「いや……本当はあなたも御存知なのですが」


 それこそ誰だ、と訊きたい。ヒト目を避けて、況してやヒト伝に会いたがるなど。まず以て無難な話とは思えない。


「…断る。用があるなら家に来ればよかろう」


 ウィルとすれば、明朝にはサラサから消えているつもりだが。ナスカ族長やリーネの前で言えないようなことなのか。


 失敗続きのユアンとしては、子供の使いで終わるつもりはないらしい。


「ですが。ネフラ殿は、またすぐにライセンへ潜入するつもりではありませぬか?…若長も心配しておられます。あの計画は一体どこまで進んだのかと」


(あの計画とは何だ?そもそもユアン達が進めていたのは……)


 ふと思い出す。この男を生かしておいたのは、アトルムに扮した強盗など離間工作の黒幕を聞き出すためだった。フェリテ族に預けた時点でタルカスの名は聞いており、目的を達成していたが糾弾する手段がなかった。リーネやナスカに話したところでユアンの自白以外に証拠はなく、やめさせることはできなかったろう。


 だが、この状況は好機である。謀略の罪は問えなくとも、仲間だと思っているネフラの口から説得すれば。リトラ評議会の実力者達は、内心アトルムとも和解したいと考えている。野心的な若長にエリク達の首輪が填まるまで、あと少し時間稼ぎができれば。


「…分かった。どこに行けばいい」


「は、はい。西側の資材倉庫です……?」


 急激な心境の変化に戸惑っている。断られると思わなかったところで断られ、今度は大した理由もなく意を翻す。ユアンの知るネフラは、斯くも気紛れな人物ではなかった。


(もしかすると、更に困らせるかもしれないな)


 次も上手くできなければ、ユアンの面目は丸潰れだろう。


(今は、少し待て。まだだ、もう少し……そのまま。そのまま……ああ、そうだ)


 ……永遠に。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「…ようお越しくだされた。無事お戻りになったと聞きましてな……」


「ああ……」


 この男も例に洩れず、ウィルの曖昧な反応に戸惑う。ユアンが耳打ちする。


「…若長。ネフラ殿は記憶が」


「分かっておる。だがネフラ殿であることに変わりはあるまい」


 大丈夫だとばかりに頷き、ウィルを村外れの小屋へ誘う。畑の資材を仕舞っておくための場所、それなりに大切だが警戒は薄くヒト目につきにくい。夜は収穫前の作物と、集落自体を護ることが主になるからだ。


 ニウェウスの中には、ブラッドのような部族はない。ニンゲンやドワーフとの関係は概ね良好、侵入者がいるとすればアトルムか腹を空かせた獣人くらいのもの。


「俺に話とは……?」


「決まっております。二十年前の屈辱を晴らし、今度こそ連中を根絶やしにするのです」


「……………」


 立場が違えば、こういうものだ。その出来事は、アトルムの側では『セシルの惨劇』として記憶されている。


 タルカスにしてみれば、勝ち戦にライセンが水を差したとの認識だろう。それゆえ雪辱をと意気込むのだ――あのときは自分達のほうから仕掛けたことを忘れて。


 一番最初はどうだったのか?どちらが先に仕掛けて報復したのか。古すぎて事の発端が明らかではない。迫害を受けたアトルムの先祖が大陸から逃げてきた経緯を考えれば、多数派のニウェウスが異物を排除しようとした可能性が高いと思われるが。


「…今なら確実に勝てるのです。始祖四氏族は弱体化し、ライセン以外はまともな体を成しておりません。ブラッドとかいう不確定要素はありますが、それは向こうにとっても同じこと。無頼の輩など恐るるに足らんでしょう」


 威勢よく長口上を言いきった。ユアンも同じ考えなのだろうか?横目で窺うと意を強めるように何度も頷いている。あまり自分の頭で考えない男なのかもしれない。


(アトルムを滅ぼせれば何でもよいのか……?)


 あまりの杜撰さに、眉を顰めたくなってしまう。


 勝算を口にするなら、もっと先のことを考えなければ。ニンゲンの国に参画する話は、恐らく耳に届いているのだろう。ニウェウスは幾千の友軍を得ることになる。


 それにしても、だ。ここで力を落とせば、対等な同盟など望むべくもない。アトルム共々隷属させられるかもしれないと、何故考えないのか?


 アトルムともニウェウスとも、できればニンゲンやドワーフとも争いたくない。それがウィルの偽らざる正直な気持ちだ。しかし、それを言っても通じるまい。彼らの計画がどれほど無謀か、詳細に示す必要がある。


「…今なら勝てるというが、彼我の戦力比をどのように見ている」


「三対一。無論、我がほうが三です。三倍の兵を用意すれば、容易く攻め落とせると言いますからな」


 誇らしげに胸を張る。だがそれは、ウィルにとって根拠あるものとは言い難い。


「…三対一……?」


「ブラッドの分を差し引いております。先程も言いましたが、無頼の輩は数のうちに入りません」


 都合のよいものの見方だ。タルカスの見立ては、連中が漁夫の利を狙って動かないことを前提にしている。頭数と個人の資質、参戦する動機や士気の高さ。地の利など。それらを総合的に勘案してウィルが導き出した結論は……


「…四対三だ」


 あまりにも認識が違ったのだろう。視線と呻き声で先を促す。


「単純な戦力ではライセンよりブラッドが上だ。他の始祖三氏族にも齢百五十を超す長がそれぞれいる。セシルの若長が生き残っていることも確認した」


「……………」


 沈思黙考する若長を不安そうに見つめるユアン。一方でウィルにも縋るような視線を向けていた。自分はどちらにつけばよいのか?とでも言わんばかり。


「…ネフラ殿は、長達が『魂消し』を使うと……?」


「今のところ考慮には入れていない。だが使うものと考えるべきだ」


 すなわち四対三よりも不利になる。どれほどの力を発揮するか、正確には不明だ。完全な未知数であり、生きるか死ぬかの博奕に等しい。


 『魂消し』とは創術の究極奥義、我が身を強大な魔獣に変える。元の姿に戻ることはできず、理性もなくなってしまう――それゆえ『魂消し』と呼ばれる。敵味方の区別もつかなくなる諸刃の剣だ。このままでは村の存続さえ危うい、そのような局面を迎えた熟練の創術師が全存在を賭して決断するという。


 そしてニウェウスには、これに対抗し得る秘策がない。誰ひとり生き残らないかもしれない愚行を、安易な自殺行為を戦と呼べるか。


 妄執に取り憑かれた男は、それでも諦めようとしなかった。


「…これは常なる小競り合いに非ず。生存のための闘争とあらば女王も力を貸しましょう。ティターニア陛下がお立ちになり、全軍を鼓舞する運びとならば。万一敗れたとしても黄金樹の元へ敵を誘い込みさえすればよいのです。必ずや我らは……」


「勝てると思うのか?森の守護者達を失ってなお?そもそもカインが参戦する保証はどこにある。連中はアウラよりも種の揺り籠たる黄金樹に忠誠を誓う。他の三部族が全滅しようと中立を破るまいよ。絶対にな」


 そして、もうひとつ。あえて口にしなかったが、女王ティターニアが戦に加わることは決してない。史上最高齢のヒトたる彼女は、ニンゲンとエルフとを、ニウェウスとアトルムとを問わず争いを否定する。生まれは確かにニウェウスであり、父なる神カインと母なる神サラサの因子を色濃く受け継いで顕現したと言われている。


 創世の礎アウラと親しくなったエルフの女性は、同胞の弥栄を強く願った。その願いを歪めて叶えられ、あらゆるヒトは一度ニウェウスの奴隷となった。


 そのことを憶えている者は、ティターニアを除き誰もいない。アウラの記憶が書き換えられ、歴史が修正されたからだ。ニンゲンの言霊使いリュドミーラがアウラを糾弾し、ティターニアが加護の放棄に同意して今の世界があるという。


 世界は最初からリュドミーラのものということになった。全ての良きものと悪しきもの、あらゆる罪と誉も。残らず彼女のものだったことにして。言霊使いの死後、帝国は呆気なく滅んだ。最初からそうなることが役割だったかのように。


 世界がティターニアの罪を忘れても、彼女は自分を赦さなかった。誰も本心では信じようとしない己の罪を吹聴し、敬意を遠ざけることで自らを裁く。進んで魂の牢獄に繋がれる者が、栄光を求めて立ち上がることはない。


「この戦は無謀なのだ。我らは共に敗者となる……勝つのは傍観者を決め込む余所者のニンゲン達だ」


「聞けませんな。そのような敗北主義……しばらく見ないうちに、ヒト変わりされたのではありませんか?」


(…別人なのだから当然だ)


 とは言えない。ほとほと呆れた――まさか、ここまでとは。


 やはりナスカ族長に話すしかない。直接ニウェウスを害してはいないゆえ、さほど重い罰は与えられないだろうが。それでも動きを鈍らせることができるはず。


 膨らみかけた欠伸を嚙み殺す。思っていたのとは違うものの、悪くない散歩になったようだ。今寝台に潜れば、きっと朝までぐっすり眠れる。


 二人に背中を向け、去り際に改めて忠告した。


「軽挙は慎まれよ。一度始めたら取り返しがつかぬ。何人もの、同胞の命が失われる」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 若長タルカスは、今年で二百歳だった。


 物心ついたときは、今より遥かに不穏な時代。何かよくないことがあれば、全て異種族の仕業と考えていた。


 当然、戦など日常的に起こる。いや戦こそが日常だったかもしれない。


 大きな戦は七度あった。そのうち四つで家族を亡くしている。最初は父、次は姉、その次は母、そのまた次は息子。特に父を殺されたときのことは忘れようがない。


 父の仇は、当時まだ若長だった現在のライセン族長ネロ。成人して間もない弱卒のタルカスは、彼にとって障害物にしかならなかった。仲間と共に纏めて薙ぎ払われ、次に目を覚ましたときは集落の広場で応急処置を受けていた……


 それから百年以上が経ち、タルカスは当時の父を上回る実力を身につけた。


 そして気がつく。今の自分を以てしても、あのときのネロにさえ及ばないと。敵は更に鍛錬を重ねて始祖四氏族の族長。すなわち『魂消し』を習得した可能性が高い。実際に使うところまで追い詰めれば仇を討ったと言えるが、味方にも甚大な被害が出る。そのような勝利を果たして父が喜ぶのだろうか?


 この頃からタルカスは、権力志向を強めてゆく。個人の力で勝てないのなら数の力で倒せばよい、と。だが、この男は否定した。偉大な才能や経験の前では、烏合の衆など無意味であると。若長たる彼自身も、敵の若長ひとりと潰し合うのが限界だと。


(若造が……図に乗りおって)


 確かに族長の子らは優秀だ。兄ネフラは精霊の扱いに長け、謀を得手としている。愚直な父と違って、将来優れた指導者となるに違いない。妹のリーネも術の才能に恵まれており、幻影術の巧みさと法術における詠唱の正確さは目を見張るものがある。優柔不断な性格は弱みと言えるが、その点は優れた戦士であり許婚のセインが補ってきた。


 未来のサラサは、この三人を中心に回ってゆくだろう。文字どおり家族を犠牲にして部族のために尽くした彼ではなく。子供が泣き止まない、熱を出したと言っては振り回され、長の務めを丸投げしていたナスカの後継者達が。


 タルカスに子はない。六十年前、初陣に先走って死んだ。ニウェウスは子が生まれにくい種族、もう一度授かることはあるまいと半ば諦めてもいる。


 この流れを止めるなら今だ。もはや今を措いて他にない。


(ニウェウス千年の栄光のために!)


 拙速は巧遅に優る。俄かに駆け寄り、右腕を突き出した。


 それなりの手応え。踏み固められた地面に生温かいものが零れる。


「若長!?何を……」


 刃先が届く刹那、ユアンの手がタルカスの腰に当たった。攻撃が逸れ、手傷を負わせただけに終わる。動けないほどではないが、出血は決して少なくない。


「…貴様の言うとおり、確かに無謀かもしれん」


 再び腰に短剣を構えた。


「ああ、従ってやろうではないか。貴様をこの世から排した後でな!」


「闇霊よ!我が身を影に!」


 ウィルの姿がじわりと滲む。日中の光以上に、闇夜の影は捉えにくい。ウィルは手傷を負い、タルカスは攻め手に欠く。戦いの腕はタルカスに一日の長があるも、条件が対等ではないということ。襲って傷を負わせた以上、族長の元へ駆け込まれたらタルカスに先はない。逆にウィルは逃げ切りさえすればよいのだ。


 ユアンは咄嗟に止めたことを悔やんでいた。争いを避けようと無意識にしたことが、タルカスを窮地に追いやるかもしれない。早く親を亡くした自分を、息子の代わりとはいえ案じてくれた恩義。一生かけても返しきれるか。


 彼が扱える精霊は『熱』と『光』の二柱。『光』は目立ってしまうゆえ頼れない。ならば近づいて直接、手形の焼印を与えるのみ。今ならウィルの注意はタルカスに向いている。葦原の茂みに隠れ、不意討ちを狙う。


(もっと近くに……今だ!)


 できるだけ引きつけて飛び出す。争う二人の間に割り込み、ウィルに組みつこうとした。熱の精霊を宿した者は、触れただけで他者に火傷を負わせられる。覆われていない部分を上手く摑めたら、これで終わりにできるかもしれない。


 だがユアンは、気づくのが遅れた。攻撃に集中するあまり、捉えにくい影を捉えることに集中するあまり……ウィルが宿す精霊を変えたことに。それゆえ見つけることができたのだが、反射的に飛びついてしまった。拳ほどもある無数の礫がユアンを襲う。


 茂みから飛び込んできた伏兵に、ウィルとタルカスは驚いた。ユアンのことは意識から消え、どちらも敵が現れたのではと思ったのである。


 即死だった。当たりどころが悪かったのだろう。殺してもやむを得ないと覚悟して放った弓矢は急所を外れ、他の者を狙った礫が命脈を断ち切った。


「…な……?」


 先に反応したのはタルカス。だが意味のある言葉は出てこない。直接手にかけたウィルの衝撃は更に大きかった。面識ある相手を殺したのは初めて。


 覚束ない足取りでタルカスが前に踏み出す。


「ユア……」


「ヒト殺しだッ!」


 畑のほうから声が上がり、双方とも反射的に振り向く。


 目撃者は全力で走っていった。村の中ではなく、見回りの戦士達がいる外のほうへ。正しい判断なのだが、冷静かつ的確過ぎる。二人がその事実に気づくことはなかった。


「…だが。これで……」


 タルカスの姿が溶けてゆく。今度は彼が『闇』の加護を受けたのだ。僅かに遅れてウィルも離脱を試みるが……遅かった。無数の足音に取り囲まれてしまう。


 ヒトの波を割って現れたのはリーネの許嫁セイン。


「…お前が……?」



 ☆★☆★☆★☆★☆



(馬鹿な)


 否定する言葉を無意識に飲み込んだ。


(あり得ない。こんなことは)


 しかし事実だ。目の前にあるものを否定するな。そのうえで真相を探れ。彼にも戦士としての、リーネに相応しい男としての矜持がある。


 セインにとってネフラは尊敬できる兄貴分だ。腕力ではセインが上だが、精霊術や考えること全般ではネフラが上。新しいことを始めるときは必ずネフラの意見を聞く――という流れができていた。人望あるセインがネフラを頼ることで、あまり愛想のよくないネフラの評判も上がっていた。その事実をセインは知らない。


「……ったのか」


「………?」


「…お前が、やったのか。と訊いている」


 戦士達の間に動揺が奔る。


 何故黙っているのか。後ろめたいことがなければ答えられるはず。そういえば族長の息子は、半年近くも行方不明だった。つい今しがた、黄昏時に帰ったらしい……


「答えろ!ネフラ!」


 セインが吼える。


「…そうだ。俺が」


「そやつを捕らえよ!族長の子とて、同胞殺しの罪は免れんッ!」


 タルカスだった。適当な場所に隠れ、知らぬ顔で戻ってきたのだろう。ウィル以外の者には、さも今駆けつけたばかりのように見える。


「貴様……!」


 気魄を受け流し、あろうことか不敵な笑みを浮かべる。


「随分ヒト変わりしたようだが……あなたは本物のネフラ殿ですか。もし贋者ならリーネ殿の責任は重大。場合によっては族長の資質も問わねばなりませんな」


「……何だと?」


 前々からセインは、この男が嫌いだった。優れた戦士でありながら、出し惜しみして他人を使うことばかり考えている。偉そうなのはネフラも一緒だが、彼は自ら率先して動く。兄貴分が俗物と関わるのを、セインは苦々しく思っていた。


 この殺人がネフラを陥れようとする罠だとしたら。セインにネフラの無実を証明することはできない。このようなとき、ネフラならどうする……?


 ヒトだかりの中から、再び唐突に声が上がった。


「わ、私は見ました!若長がネフラ殿と一緒にいるのを!」


「!?」


「ユアンも一緒でした。三人で何か話して」


「黙れいっ!いい加減なことを!どこのどいつだ!」


 ざわめきが広がってゆく。しかし名乗り出る者はない。




 ――そうなのか?

 ――そういえばユアンと……

 ――俺も見たぞ。

 ――二人で歩いて……?




 セインは別のことが気になっていた。


 いないのである。ネフラを問い詰める話の流れを変えた声の主が。


 思い出せない。あの声を聞いたのは最近。だが、それはいつ?どこで?


「…とりあえず、族長の家に行きましょう。若長も、ネフラ殿もそれでよろしいですか」


「事故だったと思いたいが……さすがに、これは」


「ユアンをこのままにはしておけません。ひとまず族長のところへ」


「……分かった。いずれ殺したのはこやつだ。それだけは間違いない」


 三度念を押し、一旦矛を収めた。内心はどうあれ、表面上は自信ありげですらある。だが若長の信も揺らいでいる。もしネフラが贋物でも、そう無理なことは言えまい。


 と、そこで俄かに旋風が吹く。かなり強い。これは精霊の力によるものだ。


 反射的に頭を護った戦士達の隙間を、浅い翠色が駆け抜ける。すぐ腕を降ろして堂々と対峙するセインを目もくれず素通り。淡白な兄貴分にしても雑過ぎる。


(…そうだ。さっきの声。このことを俺達に教えた、最初の)


 はたと思いつく。村の外にいたセイン達に事件のことを伝えにきた誰か。顔は暗くて見えなかったが、あのときは不思議に思わなかった。しかし今は。


「誰なんだ、あいつは……?」


 ここにいる誰の声とも違っていたのである。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 ナスカ族長の決断は迅速だった。直ちに自ら戦士達を率い、ユアン殺害の犯人を追う。


 捜索班の編成に際して、ナスカは若長タルカスを要員から外した。若手戦士達の噂に配慮したのである。被害者と一緒にいたところを目撃されている彼は第二の容疑者。いつどこで負ったか説明の曖昧な傷もあり、証拠隠滅を警戒しつつ身の潔白を証明させるための措置。ナスカは我が子を信じているが、タルカスを疑っているわけでもない。


 班を四つに分け、二つをタルカス以外の若長に、一つをナスカ自身が。残る一つは留守番の連絡役を。セインとリーネを含む族長の信頼が特に厚い者達数名に。


「父さん……」


 出がけの父は、娘の姿を見止めて振り返った。


「大丈夫……とは言い切れないのが悲しいな。こちらのことは君とセインに任せたよ」


「……はい」


「何があったのか、自分の目と耳で確かめてこようと思う。君も自信を持って、君の真実を見極めなさい」


 父と娘の短い時間は終わった。昼間は半年ぶりに帰った息子が主役であり、リーネもそのこと自体に不満はない。むしろこれから幸せな日々が戻ってくるはずだったのに、もう壊れかけていることのほうが悲しい。


「あの子も帰ってくる。きっと私達より辛いはずだ。下手に考えさせるより、身体を動かしていたほうが楽なのだろうが……」


 出立する父親を広場まで見送った。入れ替わるように現れた女性がひとり、リーネの元へ歩いてくる。先程噂したばかりだが、今日は一番遠い畑で冬支度をしていたという。これほど遅くなったのは、彼女の病的とも言える凝り性のせい。擦れ違いざま苦しげに俯いたナスカの顔を、不思議そうに見つめている。


「何かあったの?随分物々しいけれど」


「…義姉さん。落ち着いて聞いてくださいね」


 搔い摘んで事情を説明する。彼女の夫が自分をアトルムと思っていること、その可能性が決して低くないことは伏せて。


「……ネフラが……!?」


「一箇月前、ニンゲンの街で私が見つけて。今日の夕方、一緒に帰ったんですが……ずっと様子がおかしくて。寝つけないと散歩に出たまま」


「風変わりはいつものことだけれど。あなたが言うのなら間違いないのでしょうね……」


 ネフラと同時にナスカ夫婦の元へ引き取られた彼女は、リーネを妹のように可愛がっている。風変わりで済ませられるのは、その頃からの経験が大きい。結婚を決めたのもほとんど成り行き。拾われたネフラの年齢は分からないが、当時の彼女は十一歳。その頃の身長差から、自分のほうが三つほど上だと思っている――今でも並みより少し高い。


「この大事なときに……あの脳筋はどこへ行ったのよ。リーネの傍にいないで」


「…誰が脳筋だ。バラしてリュンクスの餌にするぞ」


「そういうところよ。少しは族長を見習いなさい」


 うっせ、と短く反論しながら背負った野菜籠を降ろせと合図する。


「ところで、あんたも留守番なのか?俺達は若長を監視すればいいんだよな」


「形のうえではタルカスが長。私達は彼の補佐でしょ」


 どちらが直接指示を受けたのか分からないようなことを言う。セインの悪い癖だが、この程度で引き下がるのは少々おかしい。何か気になることでもあるのだろうか?荷物を丸ごと受け取りながら、視線は明後日の方角に向けられていてどこか上の空だ。


「後でみんなに分けるんだから、落とさないでよ?」


「ああ……って、重いなコレ!?」


「私も手伝います。ただ待っているのは落ち着かなくて……」


「ん。じゃあ大根の皮剝きでもお願いしようかな」


 籠の中身は、畑に残った今季最後の作物。これを干したり塩に漬けたりして、食卓の足しにするのだ。意図的にマナを減らして時間を遅らせられるアトルムと違い、ニウェウスの村では野菜の鮮度を保つのにも苦労する。


 とはいえ意外に信心深い性質であり、便利だろうと創術に手を染めるつもりはない。そこは夫と同じ、創術を穢れた邪法と見做していたのである。


(…彼が、ヒトを殺した?)


 何かの間違いだろう。どうせ権力欲の強い誰かさんが流した嘘に決まっている。


 無言で裏切りの罪に怯える彼を、ただ黙って慰めた。この事実を知っているのは、同じ屋根の下で寝起きしていた彼女ひとり。


(用済みのニンゲンを始末しただけで震えていた。同胞を殺めるなんてできるわけない)


 サラサでは今なお『強いネフラ』で通っている。だが、その実像は……今、無条件で傍にいてあげられる確かな味方が必要と思う。彼の弱さを知る者として。


「…それでいいのか。義姉貴は」


 今すぐネフラの元に駆けつけなくて。本当は会いたいのだろう。自分の目で真実を確かめたいのだろう、と。


 傍目にも焦れているのが分かった。族長への信頼とは物事の性質が違う。


「義姉さん……?」


 リーネも心配している。背中から月影を浴びているため、どのような顔をしているのかまでは分からない。


「筋肉馬鹿のくせに生意気。リーネもありがとうね」


「おいコラ。その差は何だ、馬鹿義姉貴」


「野郎と女の子の差かしら。同じ雑言で返しているうちはまだまだね、頭に酢が入った育ち過ぎの大根君」


 かなり口は悪いが、セインと違って終始笑みを崩さない。そのあたりも一流の俳優と大根役者の差だろう。


「…外の空気、吸ってくる。後のこと頼んだわね」


「いいから早く行けって」


「兄さんのこと、よろしくお願いします」


 可愛い義妹と、追い出すような根菜の見送りを後にして。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「…『変わりゆくもの』よ。我が身の傷を癒せ」


 創術の神に祈り、全身の傷を塞ぐ。これで応急手当は完了したが、ウィルの力量では体力まで回復することはできない。血液不足なのだ。足元がふらつく。どこかで休まなければ。しかし今の彼に、誰が一夜の宿を貸し与えよう?


(このまま逃げ切れればよいが)


 今はまだ獣人族のいる緩衝帯。フェリテ族に頼んでユアンを保護していた場所だ。あの好奇心旺盛な栗鼠達も、さすがに昨日の今日ゆえ吊るされた恐怖は憶えているらしい。後払いの報酬で食糧と水を貰うことも考えたが、全く姿を見かけなかった。


 いずれ食べなければ弱ってしまう。重い身体を引き摺りながら食糧を探す。


 山葡萄は鉄分が豊富、貧血を軽減すると言われている。血液そのものの不足をどの程度補えるのか分からないが、何もしないよりはマシのはず。


 水場は前に来たとき押さえてある。多少の傾斜があるゆえ、もう少し休んでから。夜が明ければ、もっと安全に辿り着けるだろう。


 ここ数日に起きたこと、この先しなければならないことを整理する。


 まず昨夜。知人の豪商リウ老人の護衛として執政官エリクの館に入り、どうやったら会合の場に近づけるか往生しているときにリーネと再会した。アトルムと発覚する予想外の事故があったものの、評議員達は概ね好意的だった。


 このあたりから複雑なことになっている。人相が冒険者を謀殺したリーネの兄に似ていたため、ハーフ・アトルムの評議員ヒルダとリウ老人がウィルの素性を暴露した。そして今度はそれを信じないアトルムのリタがリーネにも敵対的な態度を取ったゆえ、力の均衡により争いを避けるべくアトルムに擬装しているニウェウスのふりをした。


 無論、そのような技術はない。アトルムはニウェウスに擬装できるし擬装していることを見抜けるが、ニウェウスは擬装できないし見抜くこともできない。


 その場は事なきを得たが、どうしても気になることがあった。リーネの兄ネフラを知る者は、皆ウィルこそネフラだと言う。リーネとネフラの故郷サラサへ行ってみることとし、夜通し歩いて朝になったところまでが一日目。


 二日目、以前捕虜にして匿っておいたニウェウスのユアンを拾う。彼もウィルがネフラだと思い込んでおり、適当に話を合わせながらサラサへ。義兄弟のセイン、父ナスカと対面を果たしたが何の感慨も湧かなかった。当然である。


 深夜。そろそろ帰ろうと家を脱け出したとき、半ば強引に若長タルカスと引き合わせられた。彼がアトルムに罪を着せる擬装強盗の黒幕と知り、ネフラの顔でライセンとの開戦工作をやめるよう説得したが失敗。口封じのため殺されそうになった。その際に事故でユアンを殺めてしまい、タルカスはそれさえも利用してウィルの抹殺を図った。


 騒ぎを聞いて駆けつけたセインになじられるも、幸いタルカスがユアンと一緒にいたことを見ていた戦士がおり、少し疑惑が逸れたところで脱出。現在に至る。


 ユアンを殺したのは事実だが、同時に事故でもあり、半分は正当防衛に起因する。このまま大人しく捕まって殺されるつもりはない。


 サラサの中では、贋物のネフラだったで済むだろう。リーネやナスカだけの責任が問われることはあるまい。あのタルカスという男が実権を掌握しない限り、アトルムとの全面戦争は避けられる。すなわち最小限の目的は果たした。


 だが、この後どうするか。当初の計画どおり、ライセンへ逃げ込むわけにはゆかない。ネフラ似の顔とウィルの名は、サラサ中に知れ渡ってしまった。ニウェウスとの同盟を目前にしたニンゲンの街も安全ではない。となれば選択肢は一つ。


「……ブラッドか」


 これまでに聞いた様々な悪評が脳裏に浮かぶ。


 曰く弱肉強食。強き者は弱き者に何をしてもよい。


 曰く略奪者。アトルムもそれ以外も見境なく、奪えるものは何でも奪う。


 戦災孤児が受け容れ先の村に馴染めず、問題を起こして追放された後、新たに作ったという無法者の集まり。


 ヒトの入れ替わりは意外に激しく、内部抗争で死ぬ者がいるのは勿論だが外部との出入りも少なくない。奴隷にされて逃げ出す者と、罪や掟破りを犯してブラッドへ逃げ込む者。ウィルの場合は、まさしく後者に当たる。


 ニウェウスの一部が目論んだ謀略を止めようとして、よもやニウェウス同士の権力争いに巻き込まれるとは思わなかった。予想外が重なったとはいえ、彼を兄と信じたリーネは、翌朝どのような顔で事件の顛末を聞くのだろう……?


 心が痛んだ。本当の妹ではないが、記憶の混乱からそのような幻覚を抱いたことはある。優柔不断で頼りなく、放っておけない妹。まさにリーネは幻そのままだ……


 だが、もう会えない。会うわけにはゆかない。


 ネフラに擬装してサラサへ入り込み、若い戦士を殺したのはブラッドの間者だった。これならリーネの心を傷つけず、ライセンにも迷惑をかけなくて済む。


(…すまんな。迎えに行けなくて)


 極度の疲労から眠りに落ちてゆく。


 遭難と奇襲を恐れ、捜索は一時中断された。


 そして日が出ると共に再開される。


 翌朝ウィルは、幾つもの足音が近づく音で唐突に覚醒した。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 ニウェウスとアトルムの緩衝帯。ナスカは己が指揮する戦士達に命令を飛ばした。


「必ず三人以上で動くように。お互い見える距離を保つこと。目標を見つけたら仰角四十の信号弾を撃て。私が空間ごと隔離する」


「お言葉ですが、それでは……かなりの出血と聞いております」


「応急手当くらいするさ。二、三日飢えさせてみたらどうだろうね?」


 族長の軽口を聞いて、戦士達は戸惑う顔を見合わせた。


 口調はいつものナスカである。しかし内容はえげつない。出血を止めたとしても重傷、怪我人の水と食糧を三日も断つなど。


「こうでもしないと捕まらないよ。被害も出したくない」


 子供達が幼い頃、家族でかくれんぼをしたことがある。リーネやセインは程なく見つかったが、ネフラだけは日が暮れるまで見つからなかった。本気で捜索すべきか迷ったとき、いつにも況して寂しそうな息子がふらりと出てきたのだ……


 無口な子供であり、戦場の焼け跡で拾われる前のことは何も語らない。皆は鬼畜なアトラ共が攫って奴隷にしたのだろうと噂したが、どうもナスカは腑に落ちなかった。


 アトルムは創術で膚の色を変える。ただし、これは自分にしか使えない。だが……もし新たな術が発明されたとしたら。創術に天賦の才を持つ子供だとしたら。


 とにかくネフラは、異様に隠れるのが上手かった。無意識に気配を殺し、息を潜めて。奴隷だったからなのか、それとも別の理由によるものが。


 やがて家族以外とも話すようになり、彼は過去を忘れたようだ。


 それでも拾われたこと自体は憶えていたのだろう。血を分けた初めての子供リーネが誕生すると、家族との間に一時的な隔たりが生じはしたが。


 その頃にはナスカも、ネフラを我が子と考えるようになっていた。危うくリーネのほうを泣かせるところだったと後から聞き、悩ましく思うと同時に幸せを噛み締めたことも憶えている。爪先ほどの不安は、泡のように消えていた。


「…族長。各班、準備整います」


「うむ。その場で待機」


 数の力は、偶然を必然に押し上げる。量が質に転化する、とも。


「…では始めよう。総員五歩進み停止、相互に位置を確認。別命あるまで反復」


 捜索は典型例だ。特別な力がなくとも、肉眼でものを見ることはできる。静止物でも同じだが、逃げようとする目標が相手ならば、なおのこと効果を発揮する。気紛れに向きを変える無数の視線を、全て避けきることはできないからだ。


 ナスカ達の作戦は、程なく効果を発揮した。


 分かれて歩く戦士達が数名、空に向けて火矢を放つ。その交わる場所に敵が隠れているはず。見えている場所なら、指差すだけで結界の起点を示すことができる。


 不自然に開けた茂みの中。あれは恐らくフェリテ族の塒。


「…『変わらざ」


「『変わりゆくもの』。時を越さしめよ。三が一の如し。○×△◆$%*@#!」


 気づかれたようだ。途中からは速すぎて詠唱が聞き取れない。


「るもの』よ。彼」


 一直線に駆けてくる。『マナ収束』と『加速』を行ったのだろう。


「我を隔」


 それにしても顔色が悪い。時間を巻き戻す奇蹟は使っていないようだ。


 予め指定しておいた時刻の状態に肉体を再構築するもので、死なない限り復元できるが直近の記憶を失う。現状では戦況を見誤る危険性が高い。


「て」


 あと一音節。それで『断絶』の詠唱が終わる。外側からは認識できない『無』が現れ、何もないかのように向こう側の景色を歪めて映し出す。内部は完全な闇、彼我を隔てる結界に触れることすら叶わない。閉じ込められた者は絶対の壁と感じるだろう。


 しかしナスカは、唱えきることができなかった。


 重なっているのだ。予測断絶線とネフラの身体が。このままでは切れてしまう。


 『断絶』には、そのような使い方もある。不完全な結界の欠片をバラまき、不可視の刃とする――『断裂』。だが今必要としているのは、敵を倒す力ではない。


 術を中断した。マナが空間に霧消し、敵との時間速度差がますます大きくなる。


「散開せよ!取り囲んで押さえるのだ!」


 連れてきた戦士達は、実のところ単独だと大した戦力ではない。その代わり自分の役目を果たすことで、本来以上の力を発揮できる戦い方を教えた。


 一方アトルムは、集団戦闘より個人の生存を目的とした戦法に長けている。戦場のあらゆることを学べ――育成方針は同じでも、運用においてはまるで違う。片や代わりが利くように、片や一人でも生き残れるように。


 戦略の相違は、それぞれが扱う術の特性から導かれたものだった。


 文字どおり世界の法則を司る法術。空間に影響を与えるものが多く、乱戦になれば味方を巻き込んでしまうため、慎重かつ統制の取れた集団行動を必須とする。


 対して創術は、己の肉体とマナそのものを操作する。便利に聞こえるが、他人に直接影響を与えることはできない。自分の周りにマナを集めて時間速度を高め、相対的に敵の速度を遅くしたり。単純に肉体を強化したり。


 法術は概して創術より強いが、原理を知らなければ本来の力を発揮できないという。


 神代の知識は失われている。法術に比べると、単純な創術は扱いやすい。


 サラサの戦士達にとって幸いだったのは、ウィルにも彼らを殺す気がなかったこと。高速で動き回るものは手強いが、統制の取れた連携で対抗すれば数の力が生きてくる。徹底した防御と円陣内の飽和攻撃。これならば時間速度差の影響は大きくない。


 土の精霊が攻撃を弾き、熱の精霊が身体的接触を拒む。風の精霊が風圧で接近を押しとどめ、光と闇の精霊が視界を奪い、水の精霊が牽制し、火と凍の精霊が攻撃する。


 基本は連れてきた十人の戦士達が行い、倒された者がいれば、その穴埋めを六柱の元素精霊と契約したナスカが行う。役割の組み換えも即座に指示する。


 ほぼ互角の戦い。だが独りで動くウィル側の消耗が激しい。


 徐々に追い詰められてゆく。マナ収束による時間速度の上昇は場所に対して働くものであり、混戦状態となれば術者の優位は失われる。身体強化のほうも一時的に腕力を増したり素早く動けたりするが、稼働限界は短く筋肉そのものを著しく傷める。それまでに追手を倒すか逃げるか。反動で力尽きたところを悠々と捕まえられてしまう。


 包囲の輪を狭めたりもしない。ひたすらウィルの消耗を待っているのだ。ナスカの指揮は的確であり、交代で戦士達を休ませてもいる。


(…万事休すか)


 動きを止め、輪の中心に立ち尽くす。牽制の水球に顔を撃たれて目が覚めるも、身体のほうは既に限界だ。炎弾と氷塊が迫る。あれを喰らえば確実に意識を失う。連れ戻された村では厳しい尋問が待っている……



 ☆★☆★☆★☆★☆



「…おや。お困りのようですねえ」


 緊張感のない声が響いた。輪の中心を警戒しつつ、周囲にも注意を払う戦士達。仲間がいたのかもしれない。だが勝利は目前、一人くらい油断さえしなければ……


「それじゃあ駄目なんですよ。真言法を相手にするときは武装を不揃いにして分散。見られないようにもしませんとね?」


 ウィルが、もうひとり。歪んだ表情を引き締めると完全に区別がつかなくなった。一番驚いているのは、顔貌を偸みとられた当の本人で。


「…お前、は……?」


「お手伝いしますよ。ひとりでは逃げられないでしょう?」


 歌うように囁く。喋れば分かりそうだ。声に滲む厭らしさで。


 贋者の指先が光る。あり得ないほどのマナを込めて。踊る――文字を紡ぐ。それはニンゲン達が真言と呼び、エルフ達の忌み嫌う言霊。礎の魂を削り、また記憶を弄ぶもの。


「これで動けなくなぁりまっした。駄目ですよ?全員が同じ模様の服を着るなんて。流行を追うばかりでなく、少しは個性というものをぅぉおっと」


 味方したはずの満身創痍が牙を剝く。


「術を解除しろ」


「重ねがけは強制力を落とすのですがねえ。仕方ありません」


 また指が踊る。ウィルを止める代わり、ナスカと数人の束縛が解かれた。すかさず短剣を奪い、手近な一人の喉元に埋める。ヒトからモノへ、何の感慨もなく。


 戦慄した。その無造作、片手間の何気なさに。


 このような真似ができる者、やりそうな人物に心当たりがある。自らを異界の冒険者と称し、誰も知らない大陸の国から長い長い旅をしてきたと吹聴して憚らない。


 通称『姿偸み』。ネフラに仲間を奪われ、自らも殺されかけた男。


「さあて、ここからは競争です。どちらが多く壊せるか……はいっ!」


 再びウィルを解放、動けないままの戦士を一人刺し殺す。


「…貴様……!」


 ナスカ達の注意も闖入者に向いている。逃げるなら今だが、そうするわけにも。戸惑っている間に、また一人。これで三人目。残り八人。


「止せと言っている!」


「お気に召しませんでしたか?せっかく『ぼおなすすてえじ』を用意したのに」


「……………っ!」


 ウィルを手伝うと告げた言葉の真意。


 本当にそうか。ネフラは彼にとって仲間の仇。嫌がらせをすることはあっても助ける理由などない。ウィルがこの場を離れたとして、そのまま殺戮を続けるのではないか。


「要らないなら、いただいちゃいましょう。私がぜぇんぶ♪」


 瞬く間に二人殺害。動ける戦士のひとりが仲間を庇って深手を負った。


 意図的にそうしたのだ。わざと攻撃を遅らせ、間に合うかもしれないと思わせて。すなわち動けない三人は餌。ナスカともう一人を誘き寄せるための。


「…調子に乗るなよ。ニンゲン……!」


 言霊の重ね掛けで支配が緩んだとき、脱出できたのは優れた術者だったゆえ。高い濃度のマナに耐性を持つ、すなわち敵の術にも抵抗しうる。


 幸か不幸か、周りの味方は激減した。今なら大掛かりな奇蹟も可能。多少は味方を傷つけるかもしれないが、このまま全滅するよりは。


 こうなってはウィルも近寄れない。救われておいて何だが、『姿偸み』の敗北を祈るしかなかった。追手が四人だけなら逃げきれる、とも。


 その期待は脆くも崩れ去った。


 法創術は言霊より上位――言霊で法創術は止められない。それは世界の真理。


 だが止めることはできなくとも、避けることならできるかもしれない。


 術の選択を誤った。一撃必殺の威力と範囲の広さを意識するあまり、付け入る隙を残してしまった。法術を活かしきるには、神代文明の失われた知識が要る。


「『変わらざるもの』。汝が口づけは小さき綻びを――」


「遅いです」


 投げつけた長剣が戦士の胴を貫き、それを確かめる間もなく地面に伏せる。法術の効果範囲から逃れるためだ。『断裂』は途中で放棄され、元の正常な空間に戻る。一つだけ喰らったが傷は浅い。この場に動くものはナスカ、ウィル、『姿偸み』の三人。


 この機にナスカが動いた。敵は言霊使い、利き腕を奪えば大した術式は書けなくなる。口頭でも多少の効果は得られるが、記述式ほどの脅威にはならない。


(右腕を潰せば……!)


 殺して構わない相手だが、この男にはまだ使い道があった。恐らくユアンを殺した真犯人。捕まえることができれば、息子の疑いを晴らせる。


(火傷や凍傷では半端だ。叩き折るか切り落とすのがよい)


 風の精霊を宿して見つめる。息子は、それだけで理解してくれたようだ。小さく頷き、同胞の亡骸に刺さった刃を引き抜く。


 矢継ぎ早の鎌鼬、下手をすればウィルの首が飛ばされかねない。あえて『姿偸み』の後ろから――自分に向かって風の刃が飛んでくるような角度から迫る。ナスカは石礫や火炎弾など攻撃手段を次々と変更、言霊による防御を難しくする。またアトルムのウィルとニウェウスのナスカに装備の共通点はほぼない。検索条件が緩いほど大量のマナを必要とし、その割に効果が薄くなる。一括して弱体化するのも無理。


 精霊は言霊の下位にあるが、存在自体を否定するような理不尽は通じない。礎の女神を押さえ、アカシャの支配を確立すれば可能になるかもしれないが。


 防戦一方の言霊使い。その右上腕を、ついにウィルの短剣が切り落とす。これで脅威はなくなった。それどころか、すぐ手当てしなければ命に関わるだろう。


「降伏したまえ。皆の前で真実を明かすのだ」


「…はあ。それは、あなたの息子さんが同胞を殺めたということでしょうか」


 死ぬほど出血しながら、普段の表情と変わりがない。自分の部屋で寛いでいるかのように。一瞬腰が引けるナスカだったが、ふざけた返答に対する怒りのほうが勝った。


「恍けるな!全部君の仕組んだことだろう!」


「いいえ?…つまりこれは取引で?やってもいない罪を認め、息子さんの代わりに粛清されろと。苦しまない方法を選んでやるからとか、そういう?」


「……………」


 『姿偸み』の言い分は正しい。ユアンを殺したのは、間違いなくウィルなのだ。


 だが、この場合。もはや『姿偸み』の立場はなきに等しい。サラサの戦士を七人も殺している。減刑など考えようもないし、よくて彼自身言ったとおり楽な死に方を選ばせてやるのが限界。どうせなら七人も八人も一緒。マシな取引と言えなくもない。


 おかしな方向に動きつつある。まず何よりウィルはアトルムだ。ネフラではない。罪を免れるのはよいが、ナスカとリーネに事実を理解してもらわなければ。


 皮算用。二人の思考を評すれば、そのような言葉になる。


 だが『姿偸み』は、左手の指を一本――殊更に高く持ち上げた。


「実は私、両利きなんですよ。元はと言えば左利きでね?」


 同時に二人は不可能。だが一人なら可能。


 『姿偸み』の狙いはひとつ。仲間の仇に大きな苦しみを与えること。


「…少しだけなら、精霊も使えるんです。努力して契約も増えましたし」


 無手だからと油断していた。少々言霊を使ったところで決定打にはならないと。


 目標が一つなら。時刻と居場所が特定できるなら、条件検索は必要ない。




 ――ナスカ=サラサ。五〇九三九三六六四七一から五〇九三九三六七〇二九、座標一四三三四六一九、二六七三二四一、〇。特定。上記個体、五〇九三九三六七〇四四から五〇九三九三六七〇四七まで行動不能。




「あはッ!見ぃつけた?」


 二度の重ね掛けにより支配が緩み、三人の未熟な戦士達が解放される。自らの優勢とみた彼らは、重傷の敵を無視してウィルに挑みかかろうとする。ナスカの注意が逸れた刹那に防御を捨てて組みつく『姿偸み』。その狙いにウィルが気づいたのは、邪悪な言霊使いの色味が深い枯葉の様相を得てからだった。


「退けっ!俺に構っている場合か」


 三人は未だ気づいていない。ナスカが倒れたら次は彼らの番なのだ。目撃者は全て口を塞ぐ。ユアンも、他の戦士達も、ナスカも。皆ネフラの仕業にするため。


「…ぐぁ……ね、フ、ラ………」


 首筋と腕に蛇の巻きついたような跡が刻まれる。愛の営みを思わせる執拗な絡みつき、それはウィルの目に致命傷と映った。もはや力なき痩身の位置を僅かにずらし、再び頬ずりせんがごとく抱きかかえようとする……


 雑魚共に構っている暇はない。力ずくでも押し通る。リーネはナスカの父、ここで死なせるわけにはゆかないのだ。


(…違う)


 それだけではない。もはや目を背けるのは難しくなってきている。


 ネフラはナスカの実の子ではない。二十年前、アトルムの領域へ侵攻したとき拾われた。


 約半年前、ナスカの養子ネフラは森で行方不明になった。同じ頃、記憶を失ったアトルムの青年がライセンのエアに拾われた。


 ニウェウスのネフラが消えた時期と、アトルムのウィルが現れた時期は概ね一致する。そしてネフラを知るヒトビトは皆、ウィルをネフラと認識する。


 姿を見るや、裏切り者として『不屈の闘志』亭から追い出した冒険者達。


 ウィルをアトルムと知ってなお、変わらず慕い続けたリーネ。


 行方不明となっていた兄貴分の帰還を手放しで喜んだセイン。


 同胞殺害の嫌疑をかけられても、彼を息子と呼ぶナスカ。


 アトルムだからネフラではないという単純な正論に縋りついてきたが。


 ニウェウスと思い込んでいたアトルムのネフラ。その可能性を否定するのは。


「退かないか……!」


 『風』『水』『凍』――三つの力を等しく宿す。一度も試したことはないが、不思議と自信はあった。ルークの探索法を真似したときから、できるかもしれないと。


 現象精霊『嵐』。実体なき巨獣の腕は、周囲の全てを薙ぎ払う。


「…あぁあ……これは、いけません。『神宿り』になりかけています」


 言霊使いは珍しく慌てた様子で呟いた。


「少々苛め過ぎましたか。もう少し耐えてくれると思ったのですが……」


 仕方のないヒトですねぇ、と隠しもしない嘲笑を浮かべる。


 マナ残量は僅か。これなら餓死する前に収まるだろう。『神宿り』とは普通、心の揺らいだ依代が精霊に魂を明け渡しすぎたため発生する。だが今、ウィルの心は揺らいでいない。怒りの感情――『火』『熱』など相反する性質の精霊が歯止めをかけている。


「まあ、いいでしょう。傷の手当てもしなければなりませんしね」


 ふわりと気配が薄れた。呻くナスカを見下ろし、聞く者なき別れの挨拶を告げる。


「リーネさんの父親を殺すのはあなたです。まだまだ報いは始まったばかり。この程度で折れてもらっては困りますよ?」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 雲雀の声がする。長閑な昼下がり、ウィルは森の隙間で目を覚ました。


(…俺、は……?)


 気を失っていたらしい。その割に調子はよく、少し力が入りにくい程度か。大きな外傷は見当たらない。手足の数も揃っている。


 自分でも嫌になるほどの冷静さで、周囲の観察を始める。いきなり起き上がるなど論外、瞼を開けることさえしない。近くに敵がいないか探っているのだ。


 風の音だけ。身じろぎはおろか呼吸の気配も。原則、村の外で会うものは敵。たとえヒト型であっても、問答無用で襲ってくる者がいるからだ。クァトゥオルの廃墟で遭遇したアトルムの女リタのように。


 溜息を洩らしつつ、ゆっくり瞼を上げる。


 視界に広がったのは、恐るべき破壊と殺戮の痕跡だった。


「……………っ!」


「…ようやく、目が覚めたかい」


 微かな声が聞こえる。これは族長ナスカのものだ。


「無理を、しない子だったが……村を出て、少し変わった、のかな?頑張る…のはよい、が、無理をし過ぎては、いけな」


 激しく噎せる。血を吐いているようだ。そういえば致命傷を負わされて――警戒をかなぐり捨て、全速力で這い寄る。


「…復讐のつもり、だったかもしれない。二十年の長きを仇と暮らし、ただひたすら強くなることに力を注いできた君だ。私達家族の愛は、迷惑だったかもしれないが……」


「喋るな。今、治療を」


「……君がアトルムでも、ニウェウスでなくとも関係ない。君は私とルイーザの息子だ。リーネの兄だ。私達四人は家族なのだ……」


 確かに創術は効力を発揮した。しかし全身をくまなく焼かれており、命を繋ぎ止めるには足りない。零れてゆくほうが速い。何倍も。何十倍も。


「…本当にアトルムなのだね……ふふ。そうか……騙された、よ………」


 嬉しそうに、愉快そうに、ナスカは安らかな笑みを浮かべた。


「…父、上……?」


 答えなかった。それは、もはや息をしていない。


 嫌になるほどの冷静さは発揮されなかった。代わりにウィルを支配したのは叫び。声すら忘れてしまう魂の亀裂。


「…………………」


 動けなかった。どれほど、そうしていたのか分からない。


 父を死なせたのは自分。たとえ直接手を下さなくとも。いや救おうとして失敗したのかもしれない。この場に『姿偸み』の死体がないのが何よりの証拠。ウィルが半ば『神宿り』と化したのを見て、あの冷酷な、残虐な……軽薄な男はさっさと逃げ出したのだろう。ナスカの外にも四人の戦士が生き残っていたはず。捕まっていないところを見ると、彼ら諸共ナスカを巻き添えにして命の燈火を揺らがせなかったとは言い切れない。


(…リーネ。セイン……ユアン、タルカス………ナスカ)


 ライセンを離れて以来、出会ってきたニウェウス達の名前。リーネ以外は数分から半日の関わり。それでも分かる。彼は自分の父親だったのだと。


 義妹。義兄弟。同胞のひとり。若長。育ててくれた父親。


 リーネ。セイン。ユアン。タルカス。ナスカ。


 リーネ。セイン。ユアン。タルカス。ナスカ。


 リーネ、セイン、ユアン、タルカス、ナスカ……


「……ネフラ?」


 息も絶え絶えの女が、凄惨な光景と唯一の生者を認めて驚愕する。


 低く心地好い声音。非難の色を帯びてさえ懐かしさを覚える。恐れを知らぬ罵倒。だが全ての言葉は思い遣りと優しさに裏打ちされている。あの誇り高い自分が、彼女に叱られるのだけは厭ではなかった。何があろうと離すまい、そう誓っていたはずなのに。


 無論、憶えている。かけがえのない、そのヒトの名前は。


「…ユリアナ」


 妻の名を唱えた瞬間。ニウェウスのネフラは、長い眠りから覚醒した。

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