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灰色の森  作者: 五月雨
13/19

第4章 戦慄

 風が吹く。苛烈な日差しに温められ、潮の冷たさも孕んだ矛盾する風が。


 空には岩雲、夕立雲。まだ日暮れには遠いが、恐らく今日も降るのだろう。森の中にいた頃はさほど気にしなかったが、木々の天蓋を持たないニンゲンの街では、突然襲ってくる豪雨もそれなりの脅威だ。洗ったばかりの衣服を着替えなければならないし、下手をすると明日着る服がなくなる。かといって大量に予備を購入する余裕はない。ニンゲンの街へ出て暮らすこと二箇月。冒険者という職を見つけてなお、金銭感覚を磨く毎日だった。


「んうっ………く………はぁ~」


 座ったまま背伸びをして、それから思いきり肩を落とす。


 埠頭の桟橋に腰掛け、砕けた波頭を爪先で弄ぶ。このところ仕事がなく暇なときは、いつでもそうしていた。水平線の彼方を眺め、明日の天気を占う。陸に上がってきた海獺をからかって遊ぶ。夕立にやられて腹立ち紛れに海へ飛び込む。身投げと勘違いされて付近の漁師に助けられたり、クラゲに刺されて余計に腹が立ったり。実際に飛び込んでみて初めて、エアは自分が泳げないという事実を認識した。


「……ふぅ」


 今度は溜息をつく。


 若長にして養父のバルザからは情報を集めてこいと言われているが、それは冒険者仲間のクララから聞いた話でほとんど終わっている。


 馴染みのドワーフ商人ラダラムを護衛しながら通りすがりに見聞きしたトレス。


 島の外にも繋がっていることから、生活の拠点としていた港街ドゥオ。


 冒険者や傭兵の数に違いはあるが、その考え方は基本的に変わらない。森を襲ったクララの仲間達のように、未だ夢を見ている者は少数派だ。なりたての冒険者にその傾向が強く、半年も経つ頃には現実を認めて目先の生活費を稼ぐようになるという。


 事実その裏は取れた。ここにいる間、エアは大勢の冒険者達が落ちぶれるのを見てきた。金ずくの何でも屋に看板を替え、それでも惨めな犯罪者へと転落する者達。


 開拓時代が終わった今、危険を買う冒険者の需要は少ない。街の治安を維持する衛視となれた者は幸運であり、また何でも屋で食い繋ぐためには高い実力が必要となる。かつて冒険者が興した夢の都は、もはや夢の欠片もない現実空間に支配されていた。


「……遅い」


 待っているのは、同じ任務を帯びて一緒に行動していた相棒のウィル。


 この一箇月、彼はある調査のためウゥヌス・リトラに残っていた。そろそろ戻ってよい頃である。だが一向に戻ってくる気配はなかった。


「遅い」


 もう一度、声に出して呟いた。胸の奥に潜む不安が、徐々に形を成してくる。彼の身に何かあったのだろうか。とてもではないが、これ以上は我慢できそうにない。


 身体をバネにして立ちあがると、エアは宿への道を全速力で駆けだした。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 ウゥヌスへ向かうことを、まずクララに断らねばならない。


 クララは稼ぎを必要としている。その相棒であるエアが突然いなくなったら、神社の家計を直撃する。代わりの仲間を世話してくれるよう、冒険者の店に頼むのだ。


 クララは明るいうちから、店で管を巻いていることが多い。よさそうな仕事が入ってきたとき、誰より早く手をつけるためだ。


 とんだ不良娘、そして報われない役割でもある。神社の子供達を案じていながら、その子らのため危険な仕事に就いていながら、あまり顔を合わせないゆえ懐かれることもない。私みたいのは元気で留守がいいんです、と自虐的に呟くのを聞いたことがある。


 港から『不屈の闘志』亭へは、ドゥオの街を反対側まで突っ切ってゆく。とはいえ居住区を騒がせると衛視が面倒臭い。必然的にヒトの往来が激しい大通りか、旅人が必ず通る城門の前を駆け抜けることになる。


 外周のほうがヒト通りは少ないが、距離は圧倒的に大通りが短い。どちらにするか一瞬悩み、エアは大通りを選んだ。買い物客で賑わう道を亀のように進んでいると、ここで聞こえるはずのない耳慣れた声に呼び止められる。


「やあエア、久しぶりだね。元気だったかい?」


「…フラン?」


「見つけられてよかった。全然連絡がなかったからさ、一度様子を見てこいって言われたんだ」


 命令は恐らくバルザから。シェラにも心配をかけたかもしれない。


 エアはそのあたりウィルに期待したが、そこまでの余裕はなかったようだ。襲撃犯のニウェウスを軟禁するため、森の中にある獣人族の緩衝帯へ向かうと言っていた。さほどライセンとも離れておらず、寄ろうと思えば数時間で着く。


「あんたがここにいるってことは、ゼクスも来ているの?」


 従兄弟同士の二人は、割と常に一緒だ。夜這いの付き添いまでするほどである。ゼクスは付き添われるほうだが、フランがいるなら彼もいると考えるのが自然。


「いや。ゼクスは来てないよ。彼は今、命懸けの特訓中だからね」


 意外な答えに思わずきょとんとする。


「……え、何?」


「文字どおりの意味だよ。ウィルより強くなるんだ、って。半分若長の陰謀みたいなものだけど、強くなったからって君をものにできるわけじゃないのにね」


 ここでいう若長とは、エアの養父バルザのことだ。


 最近ゼクスは、とある女性に夜這いをかけて失敗した。本人は気乗りしなかったのだが、バルザとフランに引きずられて仕方なく。その女性とはバルザの恋人の三代前の先祖で、族長ネロの妹の五代後の子孫。名をリシリアという。


 そのとき立ち塞がったリシリア親衛隊を相手に、ゼクスは無様な惨敗を喫した。いや戦いにすらならなかった。バルザの指示があったとはいえ、リシリアの小屋へ一直線に突入しようとして背後から突風を浴びせられ気絶。目が覚めたら夜は明けており、枕元に座った優しげな女性が慈愛の瞳で彼を見つめていた……という次第。


 それ以来、ゼクスは親衛隊の教えを受けている。リシリア、バルザ、親衛隊、ゼクスら各々の思惑は全く噛み合わないものだったが。


「…知ってる。会ったことはないけど」


 ネロ族長の他にひとり、遠い親戚の女性がいると。あまり遠すぎて実感はないが、他の同胞達は更に遠いゆえ親戚と呼ぶだけのことでしかない。


「一度陣中見舞いに行ったら、それはそれは優しく介抱されててさ。僕は、もっと刺激的なほうが好みなんだけどね」


「いけない、こんな話してる場合じゃなかったんだ」


「……ぉあぅ」


 会話の文脈を無視、黙殺される快楽に身震いするフラン。喜ばせる気は毛頭なかったが、問題ないゆえ改めて無視。ついてくるよう促し、再び『不屈の闘志』亭へ急ぐ。


 幸か不幸か、そこにクララはいなかった。店主ハリスに伝言と仕事の便宜を頼み、足早に店を出る。ひと月過ぎてもウィルが戻らないことは、歩きながら説明した。


「…どうしたんだろう」


「分かんない。だから確かめに行くの」


 旅支度は常にしてある。いつでもライセンへ戻れるように。アトルムとバレたら逃げられるように。そうでなくとも冒険者の仕事は即応を求められることが少なくない。


「仕事か?今日も精が出るな」


 城門の番をしていた衛視が声をかけてくる。以前、ヒト買いに攫われたところを助けたことのある男だ。本当は男色家だったのだが、そのことは秘密にしてある。口止め料として礼金を弾ませて以来、それなりに関係は悪くない……と思う。


「まあ、そんなとこ」


「戻ったら呑みにいこうぜ。その……クララ嬢も一緒に」


「結局それが目当てなんでしょ。自分で誘えば?」


 意地悪く返し、街の外へ出る。オオハラ商店の親子を追いかけたときの、ウゥヌスへ続く街道だ。行きも帰りも馬だったから、自分の足で歩くのは初めてかもしれない。


「それで?ゼクスのやつは毎日どんな目に遭わされてるの?」


「…聞いてくれるかい?これがどうしようもなく面白いんだよ。彼にとっては二秒で瞬殺されるより、素敵なお姉さんの膝枕が怖いみたいでさ……」


 フランと話しながら、しばらく進む。


 城壁全体が見える場所で一度だけ。じっと来た道を振り返った。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 村の噂話を早々に切り上げる。エアとしては、元々あまり興味のあるほうではない。報告に寄らなかったとはいえ、今すぐ帰れとは性急。何かあったのだろうか。


「最近、ブラッドが不穏な動きを見せてるんだ」


 具体的には、戦士を呼び戻している。これは尋常ではない。


 そもそもブラッドは、ものの考え方が全く違う。身分制度があり、ここだけ捉えればニンゲン社会に似ていると言えなくもない。それも彼らとは無縁だろう大陸の国だ。


 腕っぷしの強い者は戦士と呼ばれ、村の外に出て他所の集落やニンゲンから食糧などを奪ってくる。弱い者は強い者に養ってもらい、その代わり絶対服従の奴隷となる。人格は認められず、ニンゲンの農家が所有する牛や豚も同然。争いの決着は全て力ずく。昨日まで威勢を誇った戦士が翌朝には冷たくなっていることも珍しくない。


 一方、原始的ながらエルフ初の分業社会でもある。真似する気はさらさらないが、ニンゲンは同じ方向性を洗練させて大きな力を得た。そう考えると無視できないのだ。


「…どこを攻めるんだろ」


「うん。正直僕には、同族を巻き込んだ自殺行為としか思えない」


 二十年前は、ブラッドもアトルムの一員として戦った。敵の前で共食いする危険を理解しているはずなのだ。


(もしかしてサラサを?)


 セシルの村を滅ぼしたニウェウス北の大集落。エア自身、その後の小競り合いで父を亡くしている。幼かったため実感はないが、恨みに思う者は少なくない。しかし。




 ――森を侵しているのは確かだが、それが連中の全てというわけでもないからな。




 若長バルザがニンゲンを表した言葉。ブラッドやニウェウスも四氏族を侵すが、それが全てではない。結局敵になるという結論は同じだとしても。


「それで私達は?何か指示があったんでしょ」


「うちが警戒を強めたから、連鎖的にサラサも警戒を強めてる。手早くニウェウスの情報も集めて、一度帰って来いってさ。それを四氏族の連絡会に報告する」


 僕も手伝うよ、と付け足した。表層的な情報でも、数を集めれば何か見えるかもしれない。族長達はそのように考えているのだろうか。


 何か摑んでいるとしたら、恐らくウィルのほうだ。エアもクララと親しくなりはしたが、分かったのはクァトゥオルの建設が『子供の遊び』だったことだけ。冒険者協会も物資の手配ならしてやる、あとは勝手にやれと。三都市を代表する評議会はなおのこと。しかし次の侵攻がないという保証もないのが現状である。


「…『雪』の情報は摑んでない」


 周りの目を気にしながら、あえて隠語に言い直す。


 エルフとの関わりを避ける。二人が街へ来たとき最初に定めた方針だ。『闇』か『雪』か見分けるのは難しく、もし間違えれば大きな危険が伴う。ならばいっそ二人だけでも、ニンゲンを探るうえで支障はないと思ったのである。


 それが、ここへきてこの騒ぎ。フランはサラサの動きをライセンに反応したものと言ったが、本当にそうなのか。族長や若長達は、偶然時期が重なっただけと考えているのかもしれない。その恐れが杞憂とは限らないことを、エアとウィルは知っている。


「行こ。まずはウィルを見つけないと」


「…一緒じゃなかったのかい?」


「『雪』のことは当てがあるんだ。その関係でね」


 別行動をとった理由の半分は、エアが怪我をしたから。一方でクララと依頼人を少しでも早く安心させたいという気持ちもあった。あのときは最善だと思ったし、今も後悔はしていない。問題は捕虜の『雪』を、ウィルがどこに隠したか分からないこと。全部歩き回って調べるには、獣人族の住む緩衝帯はあまりに広い。


「…何にしても、やはりウィルを見つけないことには始まらないんだね」


 珍しく真剣な表情のフランに頷きを返す。手掛かりはなくとも、それが一番の近道だ。


 ニンゲンの街でエルフは目立つ。ウゥヌスに着けば、すぐ合流できるだろうと。


 だが思惑どおりにはゆかなかった。『不屈の闘志』亭の本店を訪ねたエアとフランに、まだ現役の冒険者と言って通じる主人アイナは首を傾げたものである。


「ウィル?…そういえば最近、あまり見ないな」


 やはり一度は顔を出したらしい。情報を得るのに必要となるのはカネとコネ。口惜しいがウィルなら一人でも立派に仕事をこなし、然るべき相手の信用を得るだろう。冒険者として実績を重ねれば、有力な評議員の目に留まるかもしれない。


「…いや。あいつは一度も仕事を受けていないぞ?最初の印象が悪すぎたからなあ」


「それって何か失礼なことを?彼、正直だから」


 フランが失笑。君が言うの?とでも考えていそうだ。視線はアイナに向けたまま、器用に尻を抓り倒す。捩りきる。


「違う違う。やらかしたのはこっちさ。リーネが執り成してくれなけりゃ……いつか殺してたかもしれない」


「……そ、それは穏やかじゃないね」


「どういうことですか。詳しく教えてください」


 あまり愉快な話じゃないんだが、と前置きして語られた話は、本当に不愉快だった。とあるニウェウスが冒険者を騙し、目的を達成した後で毒殺した。結果として片棒を担ぐ羽目になったリーネなる女の兄であり、ウィルはその男に似ているという。


 その男ネフラとして店から追い出されたウィルだったが、エアの連れと知っていたハーフ・アトルムの評議員ヒルダの保証により誤解は消えた。アトルムの仲間がニウェウスのはずはないという単純な理屈だが、アイナ達には詳細を伝えていないという。それを教えては、エルフ達の世話役として具備すべき信用を失ってしまうから。


 根拠など示さなくとも、ヒルダの言葉は信頼と同義。彼女が別人と保証すれば、冒険者達は真実とみる。一緒に仕事をしたときアトルムと察し、そのうえでニンゲンに害を為す存在ではないと認めたのだろう。ゆえにエアが仲間と恃むウィルのことも助けてくれた。詳しいことは全て伏せる、一切の責任を自分が背負う形で。


(…ありがとう。ヒルダさん)


 異様にヒト懐こく、やたら身体的接触を求めてくるのには閉口したが。クララと同程度にはヒルダのことを好きになっていた。依代としての能力の高さ、アトルムの血を引くゆえの親近感、混血でありながらニンゲン社会で生きることの苦悩。差別があるにもかかわらず素直な心根を保ち続けられることへの敬意。


 まだ痛そうに尻をさすりながら、フランが口を挟む。


「…ところで、そのリーネちゃんさ。ウィルとはどういう関係かな?できれば話を聞きたいけど、ここで待ってたら今日中に会える?」


 行き先を知っているかもしれないと思ったのだ。ニウェウスと関わるのは避けたいところだが、止むを得まい。ウィルにも友好的だったとのこと、大丈夫だろう。


 だが上手くゆかないときはつくづくそうなのだと、二人は思い知らされた。


 何故か申し訳なさそうなアイナが、苦笑いを浮かべて頷く。


「…最近、リーネも顔を見せないんだ。今時ああいう子は珍しいからって、みんなで可愛がり過ぎたかなぁあ……」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 リーネ戻ってきとくれぇと泣き出すアイナを宥めるのもそこそこ、エアとフランはウゥヌスを後にして森へ向かった。ここはアトルムとニウェウスの緩衝帯。原初の昔から存在する、獣人族だけが棲みつく領域だ。


 捕まえたニウェウスを獣人族の縄張りに隠すことは、ウィルと別行動をとるときに二人で話し合って決めた。『不屈の闘志』亭や依頼人には、誤って射殺したことにしてある。下手なことを喋られては拙いし、かといってライセンへ連れ込むわけにもゆかない。


 恐らくウィルなら、栗鼠の獣人フェリテ族を使ったと思う。ドワーフの武装商人ラダラムの案内で最初に街へ出たときも、僅かな果物と引き換えに安全な道を教えてくれた。そのことを憶えていれば、いや歳の割に老練な彼が憶えていないはずはないのだ。


(フェリテ達がいそうな場所は……巨きな木の根元?)


 全体的に育ちすぎて、栗鼠の獣人は木に登れない。本物の栗鼠は食糧を求めて木に登るが、獣人は知恵を活かしてヒトのように働く。幹を揺らして落ちてきた実を拾い、あまつさえ森を訪れる余所者達から簡単な仕事を請け負って珍しい果物をせしめる。この習性というか社会構造を利用すれば、一人では手に余る雑用を押しつけられるというわけだ。


 エアの胸までしか背丈のないフェリテは、基本的に弱い。術を使うとも聞かないゆえ、争いなど以ての外だ。外敵が来たら、とにかく逃げる。そのような連中が怯えながら、大事な保存食を隠しつつ平和に暮らすとしたら……


(木の洞か、茂みの中。低木の枝が絡み合ってると、もっといい)


 フランにも狙いの地形を教え、探すこと数十分。意外とあっさり目的の場所は見つかった。つい最近まで使われていた水差し、誰かを休ませていただろう寝藁。果物の残滓、食器の類……昨日今日にできたとしか思えない三対の足跡。


 にもかかわらず、捕まえておいたはずのニウェウスがいない。世話役兼見張りに従事していたと思われる栗鼠の獣人達も。


「…痕跡がある。誰もいないのはどういうこと……?」


「普通に考えれば、助けが来て逃げたんだろうね。入ってきた足跡は二つ、出てゆくほうは三つあるから」


 フランの言うことはもっともだ。しかし問題は、ある。


 捕虜を逃がしたのは誰か。この場所はウィルとエアしか知らないはず。


(まさかウィルが……?)


 何のため?泳がせて様子を見ようと考えたのか。仮にそうだとして、もう一つの足跡はどう説明する。リーネとかいうニウェウスの女が、今も一緒に行動していると?


「憶測は禁物だよ、エア」


「……そうだね。私、どうかしてた」


 両手で顔を叩き、心の空気を入れ替える。


 確かに分からないことは多い。とりあえず情報を並べてゆくと、そんなわけないだろうと苦笑いする内容になってしまう。だから悩む必要はないのだ。それは事実ではない。


「ここからなら近い。一度村に戻ろう」


 そうすれば、若長達の知恵も借りられる。エア達には分からなくとも、経験豊富な先人が何かを導き出すかもしれない。そのためには情報だ――可能な限り詳しく。足跡の大きさを図ろうと、落ち葉だらけの地面に片膝をついたとき。


「…お前達。そこで何をしている?」


「っ!?」


 フランの反応が遅れる。まだ街の中にいるような気でいたからだ。


 膚を白くしていれば、ニンゲンの街では襲われない。しかし森の中では、それも時に逆転する。浅黒いエルフと出会ったときは危険の種に他ならない。


「リタ様下がって!ニクス共です!」


 反射的に短剣を引き抜いて応戦する。女二人のうち背が高いほうの斬撃だ。そのくせ重圧は感じない。一体何を食べたら――いや食べなかったら、ここまで痩せるのか。手足が長く見えたため必要以上に飛び退ってしまう。


 エアも失念していた。森へ戻るときは擬装を解いたほうが楽。ニウェウスに襲われるのは元からであり、同胞に殺されるより何倍もマシだからだ。


「待ってください!僕達もアトルムです!ライセンから来ました!」


 フランの言葉に、リタと呼ばれた女が戸惑う。しかし、それも一瞬のことだった。後ろのエアが強烈な敵意を示したのである。


「…思い出した!あんた、あのときの女でしょ!?」


「あのとき?…そうか、お前はリドとメイアの……」


 言われて初めて、リタもエアのことを思い出したらしい。クァトゥオルの廃墟で問答無用に襲いかかり、ウィルを殺そうとしたのである。好奇心から『精霊の目』を試し、それに偶然リタがかかった。同じことをしようとしても、次は多分失敗する。幸いなことに、あれから彼女とは一度も会っていない。


「…まだ、あの男と一緒にいるのか。あれは危険だと教えたはずだ」


「知らないわよ。誰が敵の言うことなんて信じるものですか」


「敵、か。我々アトルムの敵は、ニウェウスだけだと思っていたがな」


「よく言うわよ。いきなり殺そうとしておいて。知り合いのドワーフに聞いたわ。セシルの若長だったくせに、今はブラッドの一員?堕ちればどこまでも落ちぶれるものね」


「…?何か勘違いをしているな。私はブラッドの者ではない。それより、ここに捕らえていたニクスを知らないか。正確には私ではなく、あの男が匿っていた者だが……」


「あんた達が逃がしたんでしょう!?」


「違う。話を聞け!」


「何をよ?いきなり襲ったこと、忘れたとでも思ってるの?」


「ちょ、ちょっと待ってエア。どうしてこうなるんだい?僕には何が何やら」


「分からないでしょうね。でも説明してる余裕はないの」


 相手の実力は本物だ。前回は三人だったから立っていられた。あの頃のエアでは、対等に向き合うことすら覚束ない。多少マシになったとはいえ、いやマシになったからこそ勝てないと分かる。戦うか逃げるか、今すぐ決めなければ。


 無論、逃げる。徒に死ぬのは愚かなこと。どれだけ手強い敵も、仲間と一緒に戦えば勝てるはず。兄ルークや若長バルザ、ついでのおまけにゼクスもいれば。


「……仕方ないな。サツキ」


「はいリタ様!」


「お前は男を押さえろ。できるな」


「が、頑張ります」


「傷つけても構わん。だが、絶対に殺すなよ」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 リタの姿が薄れてゆく。しかし完全には消えず、後ろの景色がそのまま見えたりはしない。曖昧なヒト型の揺らめきが残る。


 光の精霊を宿したのだ。自我の半分近くを明け渡している。この状態で神宿りにならないのは、相当熟練した依代の証。ヒルダはこれを『ノルンの鏡』と呼んでいた。


 その恐ろしさは、扱う者が持っている他の資質に拠るところが大きい。たとえば純粋に依代の技だけを高めたヒルダは、偵察を試みる際に使うことが多かったという。


 リタには今、偵察の必要がない。隠れて敵をやり過ごすのでもない。エアを無力化して捕まえようとしている。つまり彼女にとっては、これが攻撃の構えということ。


 一度目を離せば、居場所が分かっていてさえ確認に時間がかかる。背中を向けて走り出した途端、どこから来るか分からない短剣の群れに襲われるだろう。


(…厭味な手。自分が相手より強いことを、ちゃんと理解してるんだ)


 じりじりと後退する。同じだけリタも間合いを詰める。横目でフランの様子を確かめた――あちらは幸い優勢のようだ。エルフとしては虚弱なフランも、骨と皮のような相手には負けなかったらしい。リタの戦術を拝借、要所要所で姿を消しサツキを翻弄する。攻撃は疎かになってしまうが、今の目的は逃げること。卒がない。


 フランの準備は整ったようだ。適当な場所を見つけ次第、遁走するのみ。


 走りやすいが開けていない場所。低木の茂みを脱け出せば、周りは全て森。飛び道具は遠くまで届かず、視線が通りにくいため見失いやすい。先に動いていたら、同じ手でやり返されたろう。今のエアにできて精霊を宿したリタにはできないこと。


「…『変わりゆくもの』。私の手足に力を貸して……!」


 今だ。ここからなら、ひと呼吸する間に木立の中へ逃げ込める。


 もう後ろは見ない。あと少し、あと少しだ。


 フランも考えを察して退く。こちらは余裕がある、リタの居丈高な連れが、意外に臆病だと分かったからだ。牽制の一撃を放ち、サツキを怯ませる。、


 立ちはだかる大きな茂みを、エアは一気に飛び越えた。


 本来は不可能だが、今は『変わりゆくもの』の加護がある。微かに躓き、転がって距離を稼ぐ。そして再び立ちあがった――と思ったのだ。全力で駆け出そうとする右脚を。左脚を両腕を引っ張るものがある。無様に転んだ。吊るし上げられる鼠のように。


 現象精霊だ。草木ある限り、森の指先はどこまでも届く。


「エア!」


 即座に向きを変えたフランがサツキを捕まえようとする。両手首を摑んで強引に押し倒した。人質交換に持ち込む。仕切り直してどう出るか、これは一種の賭け。


「や……離し、て。おねがい」


「へ?あ、その」


 狙いは悪くなかった。が、経験に優る相手を見くびったのは誤り。必死で覆い被さるフランは……今、極めて無防備に近い。


「えいっ(はぁと♪)」


「ぐぼがっ」


 聞くに堪えない雑音を上げて仰け反る。


「やりましたよリタ様っ!敵のシソンハンエイをボウガイしました!」


 そして蹲った。この痛みを分かち合える者は……残念ながら、ここにはいない。


「…あ、あぁ。私には到底できそうもないな……」


「そんなまたまたぁ。リタ様は、とぉっっっても素敵ですよぅ?(はぁと♪)」


 絡みつく熱い視線を黙殺して。


「……見張っていろ。くれぐれも油断は禁物だ」


 茂みの向こうでは、エアが戒めを脱け出そうと足搔いていた。しかし無駄である。森の王の手指となった蔓草は、次から次へと涌いて褐色の膚に喰い込む。


 きりがない。森はマナの宝庫だから。無生物の雷や嵐、吹雪などと違って。草木は生命を宿し、生命は混沌界からマナを汲み出す。そこに在る限り、尽きることはないのだ。


 大きな石を適当に幾つか。這いつくばったエアの前に腰を落ち着ける。


「まず私の話を聞け。お前の話は、それからだ」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 遡ること七日前。ウィルは月影が差し込む街外れの林にいた。


 目の前にはリトラ評議会議長の邸宅。今宵有力者達が会合を開くという。荘重な石造りの裏門では、何人もの傭兵達が頻繁に入れ替わり不審者を探している。固く閉ざされた表門は比較的少ないが、それでも警戒厳重であることに変わりはない。


 今からウィルは、この屋敷へ忍び込む。出席者達の本音を盗み聞きするのだ。


 無論、何の根回しもなく侵入を試みるわけではない。懇意になったリトラ随一の富豪リウ=ズーシュエン――彼の護衛として中に入る手筈となっている。依代に気づかれるため、精霊の力を借りるわけにはゆかないからだ。


 その先は自助努力である。護衛が立ち入れるのは最初の詰所まで。無事衛兵の目を盗めたとして、次は罠だらけの庭と迷路仕立ての屋敷が侵入者に牙を剝く。度々訪れているリウ老人も、使用人の案内なしでは邸宅に辿り着けないという。万が一捕まっても執り成してくれる約束だが、それでは目的を果たせない。腹の内を知ることができない。


「庭を散歩しても……?」


「構わんが、妙な好奇心は起こすなよ。手順を踏まないで近づくと、罠が発動するからな。エリク様の趣味さ」


「……分かった。気をつけよう」


 周りは同業者との世間話、あるいは賭けごとの類に興じている。最初に出てくるのは誰かといった罪のないものから、誰と誰がセラ教の宮司に酔い潰されるかといった少々洒落にならないものまで。


 いずれも緊張感はない。自分の雇い主が害されることはないと、ここの警備を信用しているのだろう。もしくは契約外であるゆえ関係ないと思っているのか……


 ここに至るまで、ウィルは様々なニンゲンから情報を集めていた。


 リウ老人からは、彼個人がエルフとの良好な関係を望んでいるという話を。商売上ドワーフ族とも繋がりがあるらしく、その伝手でアトルムとも取引したい意向を暗に仄めかされている。不老長寿の秘密を教わりたいという私的な願望にも根差してのこと。


 ゆえに信用できる。全ての種族が平等だの、仲よくすべきだのという綺麗事よりは。リウ老人が生きている限り、商人達の暴走は抑えられるだろうと。


 次に調べたのは神社だった。


 一応仲間にも神職はいるが、あれは特殊な事例である。エアが聞き出したところによれば、幼馴染みの冒険者達に連れられてライセンの襲撃に参加。その幼馴染み二人を喪った。アトルムへの復讐心を滾らせており、同じ魔族の小人や獣人も避けるようになった。彼女に話を聞いても、恐らく偏った答えしか出ないだろう。


 一般的な認識を聞く必要があるのだ。幸い多くの神社は敷居が低く、余所者のエルフが世間話を持ち掛けても気楽に応じてくれた。森の外へ出てくるエルフは大抵変人であり、何を知りたがっても不審に思われなかった。魔神を忌み嫌うことからも、聖神の信徒とニウェウス族はそれなりに親和性が高い。


 この島で支配的な宗派はなく、強いて挙げるなら大陸南部の亡命者達が信仰していたセラ教。次いで戦乱を逃れてきた農民達のラフィニア教。クララが属するルースア教団の規模は三番手に位置する。


 セラ教の神職は、端的に言えば個人主義だ。法を遵守する自由も、犯して罰せられる自由も認める。組織として決まった方針などない。判断の基準は「各自の都合に照らしてどうか」。セラ教全体の邪教認定を防ぐために緩く繋がっているだけ。


 ラフィニア教は何も摑めなかった。正直な感想を言えば不気味である。農民の信者達に怪しいところはない。異様さを覚えるのは、常に十人以上で行動する謎の神職達だ。


 社はなく、常に世界中を旅している。それらしきものと言えば、大陸で宗教戦争の嵐が吹き荒れた時代に彼らが前身を作ったとされる『神社庁』。大陸の東側に寄り添う、このリトラより小さな島だ。名前はなく、単に社領とか荘園などと呼ばれている。


 しかし現在、ラフィニア教徒の帰るべき社はそこにない。神社庁の設立直後にあった神の啓示とやらに従い、世界中を巡り歩いている――部外者には一切目的を明かさないまま。他人に対して何かをしようという意思は感じられず、言うなれば観察されているような。さすがに妄想だと思うが……牧場の家畜を見守るような。


 衛視隊は、無害な給与取りの集団と化していた。思想や信条はなく、市内の平穏を守るのみ。城壁の外は評議会と冒険者達に任せており、ほとんど関心がないらしい。


 最後が、その冒険者である。そして背後に控える冒険者協会と評議会。


 クァトゥオルの事件については、俄か冒険者の火遊びと判明した。いつの世も軽率な若者はいるが、問題は協会や評議会にそれを許してしまう素地があること。唯一の生き残りであるクララに処分はなく、ウィルがヒト違いされたときのように冒険者の店への出入りを禁じられたわけでもない。


 すなわち不問だ。表向き交流がないとはいえ、普通は使者を送るなりする。一方的に危害を加えたのだから。街の様子も平穏そのもの。これでは、まるで……


(…ニンゲンはアトルムとの戦を恐れていない)


 または望んでいる。ニンゲンは肥大化する種族だ。特に理由はなくとも、他者を排除し、己の生活圏を野放図に拡げてゆく。順番の問題に過ぎないことだが、彼らの野心が先に向かうのは獣人族の住む草原か。あるいは黄金樹を抱く太古の聖域エルフの森か。


(やはりエアを帰して正解だったな。あいつは隠密行動が苦手だ)


 心の中で呟き、苦笑する。この家の主は、頭がおかしいと。


 罠、罠、罠。生い茂る植え込みの中にボウガン。足の踏み場もない虎鋏。落とし穴、落ちた先に竹槍がありそう。他にも罠、罠、罠、罠……


(さて……どこから入る?裏口は警戒厳重、表側にもヒト目がある。側面の植栽を分け入った先は、罠で埋め尽くされている)


 精霊の力を借りれば、側面から入れなくもない。しかし、それでは護衛の依代達に見つかってしまう。よもや、ここまでとは――途方に暮れたとき、何者かが遠くで枯れ枝を踏み折った。咄嗟に短剣の柄を握る。断じて気のせいなどではない。


 害意を微塵も感じさせないそれは、ゆっくりと姿を現した。


「…ウィルさん。お久しぶりです……」


 笹の葉の形をした耳、華奢な体格。どちらもエルフ族の特徴だ。草色の瞳に淡雪の膚と黄金の髪も今は一緒。ウィルのそれらと違って、女のほうは擬装ではない。どれも生まれたままの最初から持っているもので。


 知っている顔だった。老人の縁者を助けたとき、成り行きで行動を共にして以来。


「…リーネか」


「はい。しばらくお会いできませんでしたので、どうされたのかと心配しました……」


 奇妙なことを言う。確かに十日ほど会っていないが、別段問題を抱えてもいない。そもそも単なる知り合いであり、そこまで心配される謂れはない。


(そうか。こいつは一度、俺を兄と間違えたのだったな)


 リウ邸を出た後も何かと話しかけてきたし、非番の衛視やセラ教徒と飲み明かしたときも一晩中捜しまわったという――まるで本物の家族みたいに。要は懐かれてしまったのだろう。兄ではないと理解しながら、兄と瓜二つのウィルに面影を重ねて。


 二人が兄妹ではないという確かな証拠はある。擬装を解いた本当のウィルは、赤い瞳に褐色の膚と白銀の髪を持つアトルム。出自の詳細はどうあれ、敵対するニウェウスの娘と家族であるはずがないのだ。


 それより今は、この状態をどうすべきか。


 面倒な相手に見つかった。ニウェウスという意味でも、リーネ個人の意味でも。


 彼女はウィルがアトルムだと薄々感づいている。そのうえで懐くのだから理解に苦しむが、屋敷への侵入を企んでいると知ったら確実に心配する。


 そして反対する。衛兵に漏らしたりはすまいが、別の方法で妨害を試みるだろう。


「いや……何だ。元気、だったか」


「ウィルさんは、そのようなこと仰いません」


「誤解だ。俺も社交辞令くらいは言う」


「……………」


 何か危ないことをしようとしている。そう察したのかもしれない。ウィルの顔を見つめてくる。緊張した様子で、じっ、と。


(失敗だな。今夜は諦めるか)


 ドゥオへ戻るのは遅くなってしまうが。溜息を洩らし、詰所のほうへ歩き出した。その腕を取るリーネ。笑みの消えた顔をウィルに向け、小声で囁く。


「…ついてきてください。お屋敷の中へ御案内します」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 衛兵詰所の前に戻ると、そこは宴の様相を呈していた。さすがに酒は出ていないが、寒空の下でただ主を待たせるのは、ということらしい。


 『不屈の闘志』亭で顔見知りになった男がウィルに野次を飛ばす。


「何だよぉ……見ねえと思ったら、女とシケこんでやがったのかあ」


「黙れ。やかましい」


 ひゃははは、と笑い。粗野な男達には、馴染んだ相手のものなら罵倒さえ好ましいものに映るようだ。慌てて離れるリーネ。とはいえウィルの腕に触れたままでは、むしろその事実が分かりやすくなって逆効果なのだが。


(どこへ行くのだ……?)


 周りの者は誤解しているが、ウィルこそリーネに手を引かれていた。


 リーネは屋敷の表玄関へ向かっているように見える。そこには立哨が二人、彼らは食事を受け取っていない。まさかとは思っても念のためか。恐らく単純な実力行使では通れまい。他の兵を詰所の中で休ませる、余裕の表れが間接的な根拠。


「どうした?お前さんらは飯、食わないのか」


「お嬢さん、こっちは罠しかないっすよ。見たって全然面白くないと思うぜ?」


 長槍を持った傭兵二人、それぞれが警告を発する。


 とはいえ、さほど威圧的ではない。リーネはこれを狙ったのだろうか。


「ま、そういうことだ。俺達は貧乏籤引いちまってお預けだけどな……」


 こちらは壮年の、先輩らしき傭兵が言う。拒絶の意思を明確に伝えながらも、あまり反感を抱かせない口調。さすがに年の功、後輩よりも手慣れていた。


「申し訳ございません。私達だけいただいてしまって。実は……」


 照れたように笑いながら小さな紙縒を出す。怪訝そうに見つめる傭兵達。


「…実は、種火を切らしてしまって……ごめんなさい。よろしければ、少し火を分けていただけないでしょうか?」


「そういうことかぁ。見かけによらずドジだな?…俺の好みかも」


 崩れかかった男の頭を、先輩傭兵がどやしつける。


「いいから黙って仕事しろ。お嬢さんも困ってるだろうが」


「へいへい」


 舌打ちしつつ懐を探り、携帯用の種火を取り出す。虹色に輝くミスリルの容器は、ホビットの手による高級品だ。まず一介の傭兵が気楽に買えるような代物ではない。多分に得意気な若者の横顔を、壮年は溜息交じりに睨みつけた。


「……まったく。これだから最近の若いもんは……金で身を飾るより、もっと先にすることがあるだろう。なぁ、お嬢さん。あんたもそう思わんか?」


「お説教は聞き飽きたぜ。とりあえず剣さえ使えりゃモテた、あんたらの時代とは違うんだよ。これからの男は、もっと流行に敏感でないとな」


「歳下でも相手はエルフだぞ?向こうにとっちゃ瞬きする間にお前はジジイで、昼寝して起きたら墓の下だ。人間の流行なんざ花火みたいなもんだろうが」


 二人の様子に愛想笑いを浮かべつつ、そっと紙縒を差し入れた。ほとんど煙を出さず先端に橙色の火が燃え移る。あとはランタンに移して絶やさないよう気をつけるだけ。


「ありがとうございます。助かりました」


 ランタンを地面に置き、ゆっくりと丁寧に頭を下げる。そのとき風が吹いて、灯りが大きく揺らめいた。三人とも慌てて駆け寄り、中の火を覗き込む。


「気をつけてくれよ。種火は無限でも、紙縒は限りがあるんだからな」


「まったくだ。俺の娘も結構ドジだが、あんたほど危なっかしくはないなぁ」


「すみません。よく、そう言われるんです。でも本当に大丈夫ですから……」


 二人の前にランタンを掲げ、にっこりと微笑む。草色の瞳が硝子越しの光に照らされ、一番星を宿したような淡い金色に輝いている。色の組み合わせを考えれば、普通そうはならない。しかし気の緩んでいた傭兵達が、その事実に気づくことはなかった。


「ほら……大丈夫でしょう?小さな炎が綺麗に燃えて……ゆっくり、ゆっくりと燃えて……空で輝く月のように、優しくあなた達を見守ってくれる……」


「……んぁ……?」


「大丈夫です……今夜だけは、何があっても大丈夫。あなた達を脅かす者はいないし、館に入り込もうとする賊もいない。平和で何事もない、ほんの少し退屈な夜……」


 リーネの言葉について、二人の傭兵達が同じように復唱する。


「……何も……ない。今夜は、何もない。平和で退屈な、いつもの夜……」


「そう……何もないの。今夜は何も起こらなかったの。私はここへ来なかったし、来たのは雇い主の古い友人達だけ……」


「……友人、達、だけ……」


 ここでようやくリーネが振り返る。他に何か訊いておくことはなかったか?


「…割符や合言葉。罠の発動を止めるようなもの。危険なく館へ入るために必要なものがあれば貰ってくれ」


 無言で頷き、夢心地の傭兵達に向き直る。


「割符や合言葉、罠を止められるもの。普段お客さんを通すときに、渡したり教えたりしているものがあればください。全部」


 衛兵に出くわしたときの符丁と、小さな鈴をひとつ受け取った。


「この火が消えたら、あなた達は正気に戻ります。それまでは……誰に訊かれても、私の存在自体を思い出すことができない」


 風に瞬くランタンの光が、傭兵達の精神を徐々に支配してゆく。無論それを操っているのはリーネだ。このような使い方をする限り、別に依代として優秀である必要はない。音や光を自在に操れるのなら、精霊術を使わなくても構わないのだから。


 ヒトの心を意のままに弄ぶ、ニウェウスや一部の蛮族にのみ伝えられる邪法。時に軽蔑と畏怖の念を込めて、それらは幻影術と呼ばれていた。


(…知覚暗示に記憶暗示か。怖ましいことをする……)


 アトルムは幻影術を嫌う。だが口には出さなかった。


「…まいりましょう。早く今のうちに」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 元冒険者エリク=ハーレイの館は、無数の罠に守られていた。


 驚かせるだけの無害なものから、落とし穴の底に仕掛けられた鋭い竹槍まで。結ばれた草、吊るし紐、飛びかかる網。勝手口の傍に置かれていた虎鋏などは、明らかに何かを勘違いしている。一回りも二回りも大きく、館への侵入を試みる者はヒト型だけではないというのか。自宅に魔獣相手の罠を仕掛けるなど正気の沙汰ではない。


 立哨からくすねた小さな鈴は、それら全てを無効にした。原始的に見えるが、言霊を使っているらしい。この音を響かせている限り、罠を発動させてはならないと。


「……ニンゲンというやつは」


 先程の嫌悪感も忘れて、足を止めたウィルが呟く。


「つくづく偏執狂なのだな。自分が極めた道を、誇示せずにはいられない」


 リーネも立ち止まる。こちらは、さほど不快に彩られていなかった。


「…ニンゲンの寿命は短いです。自分の生きた証を、形として残したい。手に入れたものが大きいほど、その気持ちが強くなるのではないでしょうか」


「そういうものか。俺には理解できんが……」


 つまらなそうに頭を振ると、リーネも小さく笑って頷いた。


「私も理解はできませんよ。ただ……」


 訊ねる視線を見つめ返した。


「……いざ死ぬとなったら、ニンゲン以上に取り乱すかもしれません。長い寿命が残されている分、なおのこと惜しくなって。嫌です死にたくない、助けてくださいと……必死に泣き喚くような気がするのです」


「ニンゲンを馬鹿にはできない、か」


 悔いが残るのは、やり残したことに比例する。


 歩き出したウィルに続いて、再び二歩後ろを進む。


「エルフが何も残さないのは、まだ手に入れられると思っているうちに死んでしまうから。天寿を全うしたエルフは未だ存在しません」


「……………」


 その指摘はもっともだ。元はアトルムとてニンゲン。与えられた条件が違えば、行動も変わる。神の末裔たるニウェウスも、例外ではないということか。


「…どうやら着いたようです」


 第二の詰所だ。ここが最後の砦である。先程聞き出した符丁を伝えれば、何事もなく通過できるはずだが。


「符丁をお願いします。それと御用件も」


「『五つの星は未だ揃わず。されど、いつの日か共に輝くだろう』」


「あなた達が……失礼いたしました。どうぞ、お通りください」


 実のところ、ウィルは符丁をよく聞いていなかった。いずれ来訪の目的を伝えていないが、衛兵達は警備に戻ってゆく。本当にこれで大丈夫なのか。


「…そういえば、君の目的を聞いていなかったな」


 最初のときも同じだった。御縁があるからとか、困ったときはお互い様とか。


 今更だが、理由になっていない。前のときは、行方不明の兄かもしれないと思ってこじつけたと考えることもできよう。しかし今回は……今回もやはり。


 視線を逸らす。そして寂しそうに呟く。


「…ごめんなさい」


 胸元を押さえ、俯いただけだった。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「エリク様。レオリオ様がお見えになりました」


「やっと来たか……いや、すまん。通してくれ」


 壮年の男が頷く。案内されてきたのは、黒い法衣を纏った神職風の人物。こちらも若いとは言えず、とうに三十路を超えている。他の客達は揃っており、どうやら彼が最後だったようだ。片手を挙げて挨拶すると、使用人の娘に語りかけた。


「君は下がっていい。茶も不要だ。こいつは酒しか飲まんからな」


「畏まりました。御用の際は、いつでもお呼びください。別室に控えておりますので」


 日が暮れて四時間。模範的な態度に苦笑する。


「たまには休め。私も家事が嫌いではない。腕を鈍らせてくれるな」


「では……お言葉に甘えまして。失礼いたします」


 長い黒髪の頭を丁寧に下げ、ようやく娘は客間から退出した。その途端、意味深な笑みを浮かべてレオリオがエリクに流し目をくれる。


「……随分と優しいじゃないか?『氷』の二つ名で呼ばれていた頃とは、えらい違いだな。そろそろお前も色気づいて、あの娘に手を出したのか?んん?」


 とても神職とは思えない言動だったが、レオリオの場合はこれでよい。


 彼の崇める神は、自然な生き方を尊重する自由の女神セラ。全ての責任を負う限り、ヒトは好きなように生きてよい。セラ教団リトラ支部の長を務めるレオリオは、女神の教義をこれ以上ないほど忠実に実行していた。


「そんなヒト聞きの悪い事実はないが……近々結婚を申し込もうと考えている。暇を求められたら、勤め先は紹介するつもりだ」


 元冒険者の告白に、後輩達から気の早い祝福が飛ぶ。特殊な人種の冒険者は、仲間と結ばれない限り引退後も独身である者が多かった。


「そちらこそ、どうなんだ?近頃は頻繁に夜会を催して、とある令嬢に御執心と聞くぞ」


「まあな」


 否定しなかった。


「お前のことだから、どうせ遊びなんだろうが」


「まさか。彼女のことは大切にしているよ。最近ようやくエスコート以外で手を握ったばかりだ」


 どよめきが広がる。古馴染みの仲間は、概して遠慮というものがない。


「……お主が?」


「……あなたが?」


「……お前が、か?」


「貴様ら……ジーナ婆さんまで。みんな俺のことを何だと思ってるんだ……」


「「「色魔」」」


 三人の声が揃う。もはやレオリオに勝ち目はなかった。


「いや……話が逸れたな。今日集まってもらったのは他でもない。英雄リトラの名を冠した、三つの都市の将来について話し合うためだ」


 姿勢を正し、気を引き締めて出席者達全員の顔を見渡す。


「この街が建設されて百年。そろそろ我々も、次の段階に移行すべき時が来ていると思う。国軍の整備。法律の制定。そして……議会の創設。これらは皆、ファロス同盟では二百年以上も前に行われていたことだ。我々に同じことができないはずはない」


 エリクの言葉に驚いた者はいなかった。別に根回しをしたわけではない。表立って口にはしなかったが、このまま先に進むことはできないと考えていたのである。ニウェウス達との交流も盛んになり、ここ十数年は概ね平和な日々が続いていた。クァトゥオル・リトラという不安要素はあるものの、今のところ獣人を含めた先住民との関係は良好。わざわざ危険を冒してまで、領土を拡大する必要はなかった。


「そうね……彼の言うとおりかもしれない。そもそも私達は、土足で他人の家に上がり込んだ侵略者。安定した暮らしを営めるなら、これ以上を望むべきではないと思う」


 依代の女ヒルダが、自分の意見を口にする。角度によって色彩を変える異様な髪は、幾柱もの精霊と契約を結んだ達人の証。こよなく自然を愛しており、常々エルフ族や獣人族に同情的な発言をすることが多かった。


「おいおい、じゃあ何か?お前は英雄リトラの行いを否定するのかよ。彼のお蔭で、故郷を追われた連中も新天地を手に入れられた。奴らに同情するのは勝手だが、俺達にはこの街を守ってゆく責任がある。いくら何でも聞き捨てならねぇ発言だぜ?」


 直ちにレオリオが反論する。口調こそ軽いが、彼の目は真剣だ。それもそのはず、今交わされた議論は、リトラの短い歴史における血塗られた暗部そのもの。これから先住民との融和を図るにしても、謝罪を含んだ泥沼の展開だけは避けなければならない。さもなくば、彼らがこの島に住むこと自体認められなくなってしまう。今更出てゆけないとなれば……多少の理不尽は承知の上。もはや居直るしかなかった。


(……そういうことか。それならば納得がゆく……)


 隣の部屋に入ったウィルは、扉の前で聞き耳を立てていた。続き部屋であり、偶然リーネがここを発見したのだ。壁と違って隙間があるゆえ、話の内容を聞き取りやすい。


 言わば彼らは、アトルムと同じ立場に置かれている。この島に最初からいたのは一部の獣人族、ほぼ同時期にリーネ達ニウェウスの始祖神達。先住民の目から見れば、後からやって来たアトルムもニンゲンと同じ侵略者なのだ。もっとも森を守ることにかけては、それなりの実績ゆえ奇妙な信頼を得ていたが。


 自分達なりの正当性を見出し、都合の悪い部分には蓋をする。そうしなければ、いずれ社会が立ちゆかない。お前は侵略者の子だ、罪深い殺戮者の子だと。そんなことを言われ続けて成長すれば、精神のどこかに必ず歪みが発生する。


 自分は悪くない。悪いのは父や母、祖父母だ――彼らを断罪すれば、自分だけは正しい側にいられる。だが、その代償は自らの根源を否定する度し難い矛盾。何も考えない者達は、どこ吹く風で済むかもしれない。だが指導者となる優秀な者達は……彼らがその病に罹れば、社会は激しく動揺する。


「……先人の偉業を否定するつもりはないわ。あなたとは違う別の見方を示しただけ。この島に来なければ、きっと私も今頃は死んでいた」


 ヒルダの釈明を受けて、今度はレオリオのほうが言葉に詰まる。何らかの事情を知っているのだろう。続けて彼女を責めることはしなかった。


(……アトルムの先祖達は、故郷の大陸で苛烈な迫害を受けていたと聞く。理由はどうあれ、彼女も同じか……)


 ふとリーネが、どんな顔で話を聞いているのか気になった。


 頭上の暗がりは、何の表情も浮かべていないように見える。


 関心がないのだろうか?いや……必ず目的はある。要人の館へ潜り込む危険まで冒して、何もないということがあるか。


 だが不審でもある。庭にいたということは、リーネも誰かの護衛として来たはずだ。ウィル同様、リウ老人に随行できる立場だったにもかかわらず。彼女は眷属の使用人リンファと親しい。老人も少々女好きだ。男の自分より頼みやすかったろうに……


 重い沈黙を、執政官の力強い声が破る。


 隙間に漏れる光の向こう、再び耳を聳てた。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「……我々の前には」


 机の上で両手を組み、エリクが出席者全員を見渡す。


「今、二つの道がある。人間と小人、慣れ親しんだ種族だけで先へ進むか。エルフや獣人を迎え、かつてない国作りを始めるか。いずれかの道を、早急に選ばねばならない」


 世界は混迷の時代を迎えている。大陸を支配した王国は、二つとも百年程前に瓦解して小国の群れとなった。商人達にしてみれば、安全な交易路が失われたことを意味する。


 一度離散したファロス同盟は、貿易港の連合体として復活しつつあるという。衰退する旧宗主国の憂き目を他所に、我が世の春を謳歌しようとしているのだ。


 リトラの港町ドゥオは、神社庁のある聖地へと続く重要な中継地点になりうる。だが逆を言えば、絶海を隔てた孤島の港に回り道以上の価値はない。今は戦乱が吹き荒れているため需要もあるが、もしも平和になってしまったら。


 答えは簡単だ。すぐ寂れてしまう。大陸東岸や陸路が息を吹き返す前に、できるだけ食い込んでおかなければ。リトラ商人と関わる必然、利益の構造を創り出す。千年の積み重ねに基づく都市機能の充実を上回る何か。


「エルフ族は内陸の民だ。獣人族は組織の運営に向かない。少なからず意思決定の速度が鈍ることは認めよう。だが、あの快楽都市でさえ人間以外の権力者はいなかった。彼らを迎えることによって、我々に新しいものがもたらされると期待したい」


 一度言葉を切り、皆の考えが纏まるのを待つ。


 やがて左に座った最古参の老婆が、音もなく静かに右手を挙げた。いつも何かと口煩いが、公の場において発言を求めるのは珍しい。他の出席者達は、それだけに固唾を飲んで彼女の挙動を見守っている。


「ジーナ様。あなたはトレス・リトラの建設にも貢献された、我々にとっては生ける伝説。是非、忌憚のないところをお伺いしたい」


 小柄な真言法師は紅茶を一口含むと、軽く咳払いして頷いた。


「あー……長く喋るのは久し振りだから、多少の不調法は許しておくれね。それであたしが訊きたいのは、エルフ族の定義だよ。同じエルフと言っても、みんなが知っているとおり大きく分けて二つある。神々の末裔ニウェウスと魔神の下僕アトルム。この場合アトルムは含むのか、含まないのか。そのあたりを教えてほしくてね」


 やや咳き込むと、ジーナは再び紅茶の容器を手に取った。残り少なくなったのを見て、代わりを淹れるためヒルダが素早く席を立つ。使用人の娘が用意した魔法瓶には、まだ充分な量の紅茶が入っている。文字どおり魔法がかかっているため、どれだけ時間が経とうと冷めない。傾けた瓶の口から、淹れたて同然の心地よい香りが客間中に広がった。


「…………………」


 息苦しい沈黙が、議論の場を支配する。


 それぞれ独自の情報源を持つ彼らは、ドワーフ族とアトルムの繋がりを知っている。彼ら魔神の眷属が、創術で色を変えニウェウスとして街に潜入していることも。普通の市民は、この事実を知らない。被害がないゆえ、今のところ伏せているからだ。


 真の平和を望むなら、彼らも迎え入れるべきだと思う。それが一番望ましいことだと、分かってはいるのだが……


「……時期尚早、だな。婆さんが示した第三の道は」


 レオリオがぽつりと洩らし、それに何人かが同調する。先住民への配慮を唱えたヒルダでさえ、この点に関しては同意見だった。


「ニンゲンの市民は、アトルムのことをよく知りません。魔獣を産むという噂だけが独り歩きして、彼らを邪悪な種族と決めつける……」


「その魔獣にしたっていろいろさ。エルフ並みに賢いやつから獣同然まで。フンババやバグベアなんかのでかいやつは、別にアトルムから生まれたわけじゃないんだがね。魔獣にヒトが喰われれば、何でもアトルムのせいにしよる。嘆かわしい限りじゃ」


 ゆっくりと溜息をつき、ジーナが締め括る。ニウェウスと獣人の受け入れについては、反対意見がなかった。いずれ正式な使者を立てて、政権への参画を促すことになろう。細部の調整は残っているものの、これで大体の方針は決まった。


「……というわけです、リーネ殿。私達の意思は纏まりました。ニウェウスの代表として、あなたの言葉を頂戴したい」


 言うが早いか、続き部屋の扉が開く。草色の瞳がエリクの傍らに寄り添った。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「い、今まで隠れていたのか?」


「俺達の話を全部……!」


「騙されたのは、お前達だけではないぞ」


 またひとり暗闇から。それが議員達の混乱に拍車をかける。


 ウィルだ。エリクとリーネを見据えて扉の前に立つ。


「君は館の主と繋がっていた。俺が忍び込もうとしているのを見て、滅多な行動を起こさないよう共犯者のふりをした」


「…すみませんでした。他にどうしようもなくて」


「事実を確認しただけだ。謝る必要はない」


 驚いた評議員達も、リーネの件は飲み込んだ。エリクが手引きしたこと、結果的に聞かれても困らない話だったことが理由である。


 しかしウィルに対しては違った。執政官の館に忍び込もうとしたこと、何よりあの男に似ている。冒険者に疫病の魔獣を退治させ、恩知らずにも毒殺したリーネの兄に。


 評議員ともなれば、事情は知っている。特に冒険者出身の者――仲間を殺めた敵は絶対に赦さない。今まで見逃していたのは、生き残りの言霊使いが執り成したのと、森に帰ったものと思っていたからだ。


 妹のリーネが彼らの友になっていたこともある。だからといって、何事もなかったかのようにニンゲンの領域を闊歩するのは違う。


 視線が集まる。誰かが口火を切れば暴発するかもしれない。


 ヒルダが何か言おうとする。先に声を上げたのは、会議の間ずっと黙っていた老人。


「こちらは儂の客人じゃが。はて、誰と勘違いなさっておいでかの?」


 運輸業組合の長リウ=ズーシュエン。多くの店や仲卸が彼のタオ商会と契約を交わし、リトラに流れ込む積荷の三割を運ぶと言われている。生粋の商売人であり、転んでもただでは起きない。出し抜かれたときは必ず報復し、被害額以上の利益を奪い返してきた。


 一方でリトラの多数派民族ツォン人の顔役でもある。『血は水より濃い』との言葉を体現し、頼ってくる同胞には手厚い庇護を与えるという。


 その彼がウィルを客人と呼んだ。窮鳥懐に入らば何とやら――友と認めた相手を、絶対に見捨てることはない。


 だが冒険者にも意地がある。この街を外敵から護ってきたのは、他ならぬ自分達であると。その治安に胡坐をかき、甘い汁を吸っているだけの商人共とは違う。顔役だ長だと吹いてみても、所詮は命も懸けられぬ臆病者ではないか、と。


「…御老人。下がっていてもらおう。これは俺達の問題だ」


 戦士風の男が凄む。しかしリウ老人は顔色ひとつ変えない。そのことがますます元冒険者達の機嫌を損ねてしまう。今にも枯れ枝に摑みかかりそうな筋肉の塊――かなり肝の冷える光景だ。自分がネフラではないと証言すれば――そう考えたヒルダをレオリオが止める。浮かべた忍び笑いは、これから何が起きるか分かっているようだ。


 ふざけてこそいないがエリクも静観。ジーナはつまらなさそうに余所見している。三人ともリウ老人が怪我をするとは考えていない。


 正直、ウィルはここまで肩入れしてくれるとは思わなかった。まるで不法侵入の罪を不問にせよと言わんばかり。そういえばリンファに念を押された気がする。旦那様はあなたを『朋友』とお認めになりました、決して裏切ったりなさいませんよう……と。


(もしものときは護らねばならない)


 たとえ相手が異種族、ニンゲンであっても。


 老人は命を懸けている。信用という商人の命を。見捨てるなど信義に悖る。


「いいや?やはり勘違いをしておるな」


 長い溜息を洩らすと、いつになくにやりと嗤った。


「これは儂の問題じゃよ。ウィル殿は、お前さんらの憎むネフラではない。膚の色を変えて潜り込んだアトルムじゃからのぅ」


「な、何?なん、なん……」


 開いた口が塞がらない、とはこのこと。元冒険者が譫言のように繰り返す。


「だから、云うておるじゃろうが。ウィル殿はアトルム、ネフラはニウェウス。同一人物のはずがないとな」


 戸惑いとざわめきが広がる。


 これにはレオリオも驚愕した。あの笑いは単に、リウ老人が年季の違いを見せつけるだろうと思ったからに過ぎない。そしてヒルダの判断を信じていた。よもやその根拠がアトルムだとは。依代でもエルフでもない老人が、同じ答えに辿り着くとは……


 ヒルダの決め手はウィルの相棒だった。ハーフ・アトルムを見たときの反応、嘘をつけない少女の懐きよう。アトルムには、同胞か否か見分ける手段があると聞く。誰も確かめていないはずがない。


「あの……」


 予想に反して首を傾げるリーネ。


「全部事実だ。俺はアトルム、ライセンの里から来た」


 白状するしかない。リウ老人の言葉を信じて。


 怯えるかと思った。あるいは敵意を。現実は、それらと少し違い。


「……ライセン、ですか」


「生まれ故郷ではない。サラサとの戦は未経験だ……恐らくな」


「……………」


 嘘をついたことになる。それはリーネにも解っただろう。


 二人の兄と妹がいる、両親はいない。そう説明した。怪我や病気以外で死ぬエルフは珍しい――最後の戦は二十年前。エアの年齢を考えれば、実の兄妹ではないことが。


「な、なあ。あんた本当にアトルムなのか?」


「ん……?」


 元冒険者なのだろう。意を決して話しかけてきた男がいる。


「…不躾で悪いんだけどさ。膚の色を変えるところを、見せてくれないか?その……少しでも、慣れておきたい」


 気づけば、周りにヒトが集まっていた。


 その中にはリーネもいる。思えば彼女に本来の姿を見せたことはない。さほど驚かなかったのは、何となく察していたからだろう。差別心の薄い彼女だからよかったものの、やはり余所のエルフと不用意に関わるべきではない。


「よく見ておけ。何度もやると疲れるのでな」


 あえて緩やかに、膚の色を戻してみせた。皆、言葉を失う。


「…こういうことだ。俺はネフラとかいう、あんた達の仇ではない」


 隣の者と感想を述べあう評議員達。リーネはやや複雑そうだ――兄の形をしたものが、部族の宿敵に変わってゆくのだから仕方あるまい。


 満足げに涙ぐむヒルダを、レオリオが何やら茶化している。エリクは相変わらず無表情だが、この状況を悪く見てはいまい。ただ……ウィルとリーネが隠れていた続き部屋と反対側の扉を見つめていたように感じたのが気になる。


 だが今は礼を言うのが先だ。一時はどうなるかと思ったが、とりあえず問答無用に殺されることだけはなくなった。アトルム全体にとっても喜ばしい。


「リウ殿……」


「おお、お前さんか。宴は愉しんでおるかね?」


 老人の言葉に苦笑を浮かべる。


「宴だったのか……?」


「ヒトが笑顔で語らうならば。酒がなくとも、美味い飯がなくともな」


 騒ぎを起こした老人は、のんびりと茶の残りを啜った。


「…何故、判った?」


 ウィルがアトルムだと。仄めかされて否定はしなかったが、肯定もしなかったはず。ブラフや誘導尋問の類にしては、外れたときの危険が大きい。


「……そうさなぁ」


 空になった器を見つめると、老人は鷹揚に頷いた。そして……


「勘じゃよ。老いぼれの数少ない取り柄じゃて……」


 などと楽しそうに笑ったものである。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「ライセンってさ、始祖四氏族のひとつなんだろう?格式とか厳しいのか?」


「いや。だが俺は拾われた身でな……族長には会ったこともないのだ」


「…なあ、聞きにくいことを聞いてもいいか?ウチの粋がった連中が」


「クァトゥオルのことだな。悪いが本気でやらせてもらった。そちらは遊びかもしれんが、子供達が焼かれかけたり笑いごとではなかった」


 この場に遺族が、親しい者がいたかもしれない。だが、ここは譲れないところだ。


 気まずい雰囲気を察して執政官エリクが間に入る。


「我々の総意ではないことだけは理解してほしい。本来ならば、こちらから使者を立てるべきところだったが……」


 ちらりと続き部屋を見遣り、すぐに視線を戻す。


(…まただ。もしや隣に誰かいるのか?)


 リーネと同じように。アトルムとの連合は否決されたが、用意周到なエリクのことだ。どこぞの部族と話をつけ、了承が得られたら紹介するつもりだったのかもしれない。


 普通に考えれば、持ち込むべきは最大勢力のブラッド。しかし連中が聞く耳を貸すか。そうなると次は始祖四氏族、中でも一番力を残しているライセンとなる。サラサの名代を呼んでいるのだから、この場で和解を仲介できれば都合がよい。


(誰が来る?普通に考えれば筆頭若長のグスマだが……)


 または交渉に長けたバルザ。切り込み役のシェラ、況してや族長ではないだろう。


「…ではリーネ殿、改めて自己紹介をお願いする……」


「……はい。『陽の眠る里』サラサが族長ナスカの娘リーネです。突然の来訪と皆様に隠れておりましたこと、改めてお詫び申し上げます。ですが先程エリク様が仰せのとおり、私達もあなた方との諍いは望んでおりません。無事建国となりました暁には、四大部族の長または名代の者を、議員として派遣する用意ができております。そのようなつもりはございませんが、これは人質と受け取ってくださっても構いません……」


 そう断った上で、リーネは自分がサラサの代議員に就任する旨を伝えた。


 四大族長の娘ならば、人質としての価値は充分にある。自由に故郷へ戻ることはできなくなるが、これで和平を結べるなら安いものだ。父や他の族長達の思惑はどうあれ、彼女自身はそのように考えていた。


(…族長の娘を人質に?まさか……)


 ライセンにおいて、その立場に一番近いのはエアだ。まだその段階ではないが、将来的にそうなることは充分考えられる。


 族長ネロとは一度しか会ったことがないという。それもウィルの処遇を決める会合の場でだ。二人の仲を訊いたとき、バルザも困ったような顔をしていた。己が末裔として、まともに愛されているかどうかさえ怪しい。


 今回のリトラ行きが、そのための布石だとしたら。余所者を厄介払いしつつ、遠い孫娘を終の住処たるニンゲン社会に馴染ませようと。その場合、エアはライセンの血脈を継ぐ者として期待されていないことになる。


 エアが特別視されているのは族長ネロの末裔であること、または必ずしも始祖ライセンの子孫のみによる純血の子だからだけではない。


 そもそもアトルムとは、遡れば全員が四大始祖の末裔である。男女四人が互い違いに子を生し、四つの集団に分かれて暮らしたのが氏族の始まりだ。


 たとえばライセンとアンバーは女系、リアムとウォルトは男系。男子であるネロの系譜という時点でライセンの直系とは言いにくい。それでもエアが直系と呼ばれ、村の中で特別視されるのは何故か。これにはアトルムの習わしが関係している。


 始祖四氏族とこれに連なる村では、子供が生まれたとき自分達の始祖の遺伝情報をどれだけ受け継いでいるか確かめる。奇形や不稔を防ぐため時々外部の血を入れることから、大抵は二十パーセント前後。高くても四十パーセント以内に止まるのが普通だ。


 ところがエアだけは、五十パーセントを超えていた。これがいかに異常か分かるだろう。子は親に似るものだが、隔世遺伝にしても程がある。千年の時を越えて、始祖ライセンの実子が突然降臨したにも等しい。


 つまりエアは、アトルムの祖先崇拝における象徴。伝統的な思考に基づくならば、ライセンとの適合率ができるだけ高い男子と交配させる。そして多くの子を産ませ、時代と共に薄まった氏族の血を再び濃くしようとするだろう。しかし。


(他の三氏族は滅亡寸前だ。彼らを同胞として受け容れるなら、むしろ特定の始祖の血脈に偏らないほうがよいかもしれない)


 ブラッドのこともある。彼らの横暴に対抗して生まれたイラリオのこともある。どちらも始祖の血脈に囚われない、新しい考え方の村だ。今後もアトルムの社会で影響力を保とうとするなら、今後は何に軸足を置くか考えるべき時が来ている。


「……そこまで覚悟してるんなら、何も言うことはないな。先程話したとおり、俺達はあんたらを迎え入れる。今後とも、互いに良き隣人であり続けたいものだ……」


 そっと歩み寄り、レオリオがリーネに右手を差し出す。アトルム同様、ニウェウスにも握手の文化はない。しばらく戸惑っていたリーネだったが、やがて覚悟を決めると強張った笑みを浮かべながら男の右手を握り返した。


「…よろしく、お願いします。森の外を知らない田舎者ゆえ、御迷惑をおかけすると思いますが。どうぞ、いろいろ教え……!?」


 後ろから忍び寄ったヒルダがリーネに抱きついた。突然のことに驚き、小さな悲鳴を上げてしまう。二人は知り合って半年になるが、だからといって馴染めないものは馴染めない。ニンゲンにとって身体的接触は親しみの表れ、それがエルフには奇異に映る。困惑顔のリーネを見て、議員達の間から陽気な笑みが洩れ出した。


「肩に力が入ってる。心にもね」


「…やっ、いきなり何ですか。離して……」


「だーめ。久しぶりなんですもの、目いっぱい成分を補給しなくちゃ」


「意味不明なこと言わないでください。それと三日前に会ったばかりじゃないですかぁ……」


「足りない。全然足りないわ。もっともっと可愛がらせて?」


 リーネの背中に腕を回して何度も頬ずり。今度は悲鳴を上げなかったが、げんなりしている。こういうところはアトルムの血と言えるのかもしれない。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 窓を突き破る音がして、そちらのほうへ無意識に視線を向けた。彼らがいたのとは反対側の部屋。そこから何者かが飛び出したらしい。


 恐らくエルフ。減速していることからアトルムだ。基礎的な創術のひとつ『重力低減』。高所から飛び降りても地面に叩きつけられなくなる。跳ぶ前に喚んだのだろう、急激に地面を隆起させて虎鋏や他の罠を篩い落とす。何もない大地に降りるや、塀の外まで伸びた陸の橋を一気に駆け抜けてゆく。


 窓辺に立つウィルを、不審な影はちらりと振り返った。鋭い視線と引き結ばれた唇は、あと少しで目的が叶うところを邪魔された女の口惜しさを物語っている。


「あいつは……?」


 クァトゥオルの廃墟で遭遇し、姿を見るなり襲いかかってきたアトルム。今は膚の色を擬装していない。隣に並んだエリクがウィルの視線を追う。


「知っているのか」


「ああ……」


 ドワーフの武装商人ラダラムが言っていた。二十年前ニウェウスに滅ぼされた集落セシルの生き残り。今どこで何をしているのか、詳しいことは知らない。


「イラリオの若長だよ。二箇月前、彼女のほうから接触があった。騒ぎを起こす気はない、これまでどおり街に入るのを認めてほしいと頼まれたのだが……」


 名はリタ。ヒルダがハーフ・アトルムと知るや、すぐさま執政官との会談を求めてきたという。あまりの性急さに、エリクのほうが間を置きたくなったほど。いつもブラッドの脅威に曝されている集落の若長としては、何としても後ろ盾が欲しかったのだろう。ライセンが武力を示した今なら、屈辱的な条件を呑まずに手を結べるかもしれないと。


「いずれブラッドは討たねばならないと考えていた。が、それはライセンを含む四氏族と慎重に議論を重ねたうえでのことだ」


「あんなふうに急がれちゃあな。悪い奴じゃないんだが……正直、困っていた」


 エリクの呟きにレオリオが相槌を打つ。


 二人の考えでは、リタをライセンへの使者にするつもりだった。イラリオのみと講和しても価値は薄いが、アトルム同士なら話しやすくなる。将を射むと欲するなら先に馬を射よ、とはニンゲンの古い諺。結果的に馬の機嫌を損ねてしまったが、レオリオは問題なかろうと思っている。順番が逆になっただけで、イラリオを救うつもりはあるのだから。


 ただし、それには時間がかかる。表向きは従来の冷戦状態を保ち、まず個人的に息のかかった冒険者達からアトルムへの偏見をなくしてゆく。ブラッドに対してはクァトゥオルと同じことをしつつ、それを公表しない。邪悪な妖魔を討伐したとか人間の勝利だとか、余計なことを言わず黙っている。四氏族と綿密に打ち合わせた計画に従い、ブラッドを完全に消滅させたうえで大々的に同盟を発表する……はずだった。


「まさか爺さんが本命を連れてくるなんてな。あいつには悪いが、こっちは手間が省けたよ」


 陽気に笑うレオリオ。無表情のエリクも結論としては同じらしい。


 本当にそれでよいのか。あの女を放っておくと、何かよくないことが起こりそうな気がする。客として招かれたのなら、普通に歩いて帰ればよかったはずだ。まず間違いなく、ウィルの姿を見て態度を変えたとしか思えない。


 リタは今も、ウィルがネフラだと信じているのだ。追い詰められた獣は、何を仕出かすか分からない。少しでも早く誤解を解いておかなければ。


「…用事を思い出した。今日中に済ませたいことがある」


 エリクと無言で握手を交わす。いつでも来いと意味深に語ったのはレオリオ。碌でもない予感がするのは……気のせいではなかろう。バルザと同じ趣味人の気配がする。


 リウ老人の姿は消えていた。言霊使いの老婆と何やら話していたが、二人とも先に休んだのかもしれない。ニンゲンの年寄りは朝が早く、その分眠るのも早いという。


 皆が窓の外に注目している今なら、容易く抜け出せる。堂々と客間を横切り、扉を開けて廊下へ。手の中で鈴を鳴らし、罠だらけの庭を全速力で駆け抜ける。


 それから暫くして。ようやくリーネはヒルダから解放された。


「…ウィルさん……?」


 彼がいないと気づいたのは、下弦の月が中天を飾る刻限だった。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 躊躇を振り払い、真っ暗闇の廊下へ飛び出す。


 遠ざかる足音の幻を聞く。単純に同じ道を走っても駄目。追いつくためには、どこかで先回りしなければ。


(やっと逢えた……帰ってきてくれた。もう、どこへも行かせない。絶対に、どこへも行かせない……!)


 草色の瞳は、薄く夜露を浮かべていた。


 兄ではない。彼がアトルムと知って、無理矢理納得しようとした。


 それでも気持ちが邪魔をする。信じたい気持ちが理性を曇らせ――都合のよい結論に辿り着く。何か凄い方法を見つけてアトルムの中に潜り込んだ優秀な兄が、正体を悟られないよう妹の自分にも嘘をついているのだ、と。


 いつも厳しく、甘えさせてくれない兄。彼女にはほとんど興味がなさそうな、兄と同じ姿をしたヒト。迷子になったら捜してくれる。どうしようもないときは助けてくれる。どちらも仕方なく不機嫌そうに。とても似ている。別人だなんて信じられない。


(…ネフラ兄さん。どこへ行ったの……?)


 侵入者が残した痕跡を辿って街へ。見違えるほど低くなった塀を飛び越せば、その先に罠はない。行き先がどこであれ、目的の見当はついている。兄はあれを追っていったのだ。過去の自分を知り、秘密を暴露するかもしれない口を封じるために。


 できれば、これ以上無駄な血を流してほしくなかった。無事でいてくれるなら、アトルムのふりをしていても構わない。もしも二つのエルフ族が和解したとする。その程度の違いは些細なことになるからだ。


 兄と呼べなくても。妹と呼んでくれなくても。ただ一緒にいられるのなら。


「……勘違いだと言っている。俺はお前と同じアトルムだ……」


「……私と、同じ……?」


(いた!)


 ウィルの背中を見つけて駆け寄ろうとする。


 その足を棘のある声が止めた。ここからはよく見えないが、誰かと話をしている。相手は執政官の館から逃げていった女だろう。


「……同じ、と言ったのか。歪なヒトガタの分際で」


 暗がりに潜んだ影が、ゆっくりと右手を腰に回す。


「斬り捨てられんうちに消えろ。恩人との約束を違える気はないが……邪魔をするなら容赦はせん」


 その声に聞き覚えがあった。


 闇の中から鍔鳴りが滲む。月影を吸い込む濃やかな褐色の膚。氷雨の髪。林檎を思わせる二つの紅玉。背筋が寒くなる。兄が消えた半年前、事件の片隅に彼女はいた。


「おやめなさい!戦うなら、私も相手になります」


「ネフラの妹か。相変わらず兄離れできないようだな」


 口調は穏やかながら、武器を鞘に戻すことはしなかった。


 それがアトルムとニウェウスである。会話が成り立つだけでも稀有と言えよう。


「…リタさんですね。初めてお目にかかります。ネフラの妹リーネです」


 こちらは武器を抜かない。もっとも彼女が携えているのは、護身用と呼ぶにもおこがましい。枯れ枝を割ったり削ったりが精々だろう。


「何だ。私に用などないはずだが」


「いいえ。兄が消えた日以来、あの方とお会いできておりません。あなたなら何か御存知なのではないでしょうか?」


「……察しろ。『姿偸み』とてニンゲンだ。仲間を皆殺しにした男の妹など、顔も見たくあるまい」


 『姿偸み』という人物のことを、ウィルも少しだけ知っている。エアと一緒に始めてニンゲンの街へ出てきたとき、道案内をしてくれた男。ドゥオの冒険者の店で、仕事仲間の候補として紹介されてもいる。結局断ったが。


 そのとき抱いた印象は「やたら愛想よく胡散臭い」。仲間が死んだことを稼ぎの問題として捉えるような言動に忌避を覚えたのである。


 怪しげな優男を通じて、二人は互いの存在を認識した。リーネはリタのことを、兄が問答無用で殺そうとした理不尽な行為の被害者として。リタはリーネのことを、愚かしい兄に振り回される憐れな妹として。


(その愚かしい兄は、自分ではないのだが……)


 とはいえ外見がウィルによく似た、ネフラという名のニウェウスらしい。


 そしてリーネとリタの間では、彼が本物のネフラもしくは代用品になりつつある。若長バルザが不稔処理の有無により判別し、評議員のヒルダとリウがそれぞれの見識からアトルム認定したにもかかわらず。このような茶番、そろそろ終わりにすべきだろう。


「…リタと言ったか。お前は何故、俺がネフラだと思う?」


 リーネの存在に力を得たのではないが、改めて訊く。


「俺はニウェウスではない。その時点でネフラではなくなるはずだ」


「ならば、その娘はどう説明する。お前がアトルムでもリーネはニウェウスだ。兄に似ているというだけで、種族の敵を受け容れられるものなのか?」


 追及の矛先がリーネに向く。これは的を射ていた。相当分が悪い。リーネはウィルがネフラだと信じている。だが証明はできないし、するわけにもゆかない。どうすればよいのか。兄が兄であることを隠し、この場を切り抜けるには。


「……そうだとしたら、大変ですね」


「何……?」


「私達は今まで、見分けがつかないアトルムを受忍してきました。次はあなた方の番ですと、私が言ったらどうなさいます?」


 兄だとの証明はしない。だが彼の味方という立場は鮮明にする。判定の抜け穴を見つけたのがニウェウスなら、兄でなくとも同胞に肩入れするのは自然。


 リーネの牽制は、予想以上の効果を発揮した。元よりリタもその恐れを危惧していたからだが、アトルム全体に揺さぶりをかけたのはやり過ぎだったかもしれない。


「…半年前のことは、申し訳なく思います。エリザさん達の死は、私にとっても悲しいことでした。赦してはいただけないでしょうが……もう」


 過ぎてしまったこと。これで終わりにしようと。


 対するリタの声は冷たかった。


「こいつがネフラかどうかなど、我らが生き抜くうえでは些細なこと――そう言いたいのだな、お前は」


「……………」


 その解釈は脅迫めいている。だが双方に利益を生む。よってリーネは否定しない。


 言い争う女達を前に、ウィルは混乱していた。


 アトルムかニウェウスか?ウィルかネフラか?…無論『アトルムのウィル』に決まっている。されど未だ記憶は戻らない。どこの誰だと自信を持って言えない。リーネの好意が。リタの敵意が。どちらも真逆――『ニウェウスのネフラ』を向いている。


 矛盾だ。しかし全てを知れば、然るべきところに落ち着くのだろう。


(俺は……真実を摑む。それまでは、エア達の元に帰れない)


 底冷えする決意を固め、唐突に宣言した。


「…リーネ。村に帰るぞ。報告せねばならん」


「!?…は、はいっ!」


「穢れた妖魔など捨ておけ。今更隠しても無駄だ」


 泰然とリーネの傍まで移動し、小剣の切先をリタに突きつける。


「お前のせいだぞ。せっかくライセンへ潜り込めたというに、全て台無しではないか」


「…す、すみません……」


「まあいい……問題はこの女だ。口を封じれば、作戦を続行できるが……?」


 殺気を感じて退く。豹変に戸惑いつつも、未だリタは落ち着きを失っていなかった。


「お前次第としよう。始祖四氏族の使者に手を出せばどうなるか、な」


「…二人と戦うほど愚かではない。別に戦端を開くため来たわけではないのでな……」


 短く祈りを唱えると、リタの膚が白に変わる。新雪のごとく輝いていた銀髪も、くすんだ淡い黄金色。不快なことに、瞳の色はリーネと同じ草色だった。


「ナスカ族長に伝えろ。飽くまで滅ぼそうとするなら、アトルムは死力を尽くして戦う。貴様が考えるほど、我らの力は弱くない」


「憶えておく。それで痛い目を見るのは、お前達のほうだがな?」


「……………っ!」


 肩越しに睨むと、リタの姿は闇の向こうへ消えていった。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「さて、と」


 小剣を鞘に戻して振り返る。視線が合った途端、リーネの全身がびくりと震えた。


 ネフラという男は、余程厳しい兄だったらしい。当面の脅威が去ったにもかかわらず、妹の身体は硬く緊張したまま。


(現状では、それも……)


 無言で踵を返し、街の外へ歩いてゆく。立ち竦んでいたリーネも慌てて後を追う。横に並ばず三歩後ろを。あまり気分のよいものではない。


「…塒はどこだ。ひとりでは心許なかろう」


 妙な後ろめたさのせいかもしれない。余計なことを言ってしまう。戸惑いを隠せずにいるリーネも、指先で目尻を拭いながら微笑む。


「そんなことまで気を遣ってくださったのは初めてです。鈍間な私は、兄さんを怒らせてばかりでしたから」


「……そうか」


「優しさを見えにくいところに隠している、そういうヒトでした」


 その男に似ているなら、自分も同じなのだろうか。しかし。


「分かっています。あなたが別人ということは……正直、違う意味で怖かったりもします。昔の兄さんはああでしたから、本当に驚きました」


 涙声で悪戯っぽく笑う。


「…兄さんが、もっと優しくなってくれたら。そうなったらいいなって、ずっと思っていたんです。本物の兄さんが戻らないのは寂しいですけれど……思い出なら、また作ってゆければいい。私達には、気の遠くなるほど長い時間が残されているのですから」


 隣に並び、そっと左腕を取る。初めは指先、やがてしっかりと。


 照れたような笑みを浮かべて。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「寄るところがある。お前にも関係があるはずだ」


 かつて捕らえたユアンという男。熱の精霊を宿すことで膚の色を偽り、ニンゲンの馬車を襲ってアトルムの仕業と誤解されるように仕組んだ者。


 あれから一箇月以上経過する。そろそろ傷は癒えた頃だろうし、同時に栗鼠の獣人フェリテ族の手には負えなくなる。日に三度水や食料は与えられるため、考えようによっては気楽なものだが。自分勝手に欺瞞工作を仕掛けるあたり、好戦的な男のようだ。堂々と怠けられるからといって、虜囚の身を甘受するはずはない。


「ユアンという男だ。知って――」


「同郷の方です。昔、畑の土作りを教わ……」


 期せずして三人の声が唱和する。


「「「……あ」」」


 自由の身となったユアンが、一匹ずつフェリテ達を吊るしているところだった。


「助けて!」


「たすけてぇ」


「タスケテー!」


「助けてぇえええ!」


「……………」


 溜息と頭痛を堪える。


 まだ火炙りにはされていない。食べられるとは思えないが、食べたいとも思わないが加工されたら終わりだ。彼らは一応ヒト、さすがに止めておく。


「…ユアン。村に戻れば保存用の」


「いえ、コレを食べるつもりは……世話になった自覚もありますし」


 頑なに看病をやめないため、少しだけ実力行使に出てみたとか。


「……依頼は完了だ。いろいろ悪かったな」


 手分けして戒めを解き、一人ずつ労をねぎらう。ユアンが解放した者は、碌に話も聞かず全力で藪の中へ逃げ込んでゆく。それでも全員が揃うまでは、物陰で震えながら作業を見守った仲間意識の強さは立派かもしれない。


 フェリテ達は忠実に働いてくれたようだ。ユアンの栄養状態も悪いようには見えない。果物と水以外、他に何を食べさせていたのかは不明だが。


「リーネ殿が御一緒とは……やはりネフラ殿でしたか。息災で何よりです」


「ユアンさんも。行方が分からなくなったと聞いて、何があったのかと心配していました」


 見知った顔に出会い安心したのは、どちらかと言えばリーネ。ユアンのほうは、相変わらず反応が乏しいウィルに違和感を覚えている。自分を殺さなかったことや匿ったこと、リーネの緊張した様子から、ネフラであること自体は疑っていない模様だが……


「…ネフラ殿?」


「兄は記憶を失っています。ようやく私のことを少し思い出しただけなのです」


「そうでしたか……あのときアトラのふりをしていたのは?」


「重傷を負い倒れていたところを、偶然奴らに拾われた。私の膚の色は、ニンゲンの邪法で浅黒く変えられていたからな」


「なんと……」


「だが悪いことばかりでもない。連中が秘してきた『創術』の基礎を習得できた。どう役立つかは知らぬが、これで奴らの手の内を少しは読めるかもしれん」


 ……というのが、ここへ来るまでの間に示し合わせた筋書きである。


 本当のところは不明だ。膚の色は変えられるが、ニウェウスの変異体が生まれるのを抑制する処置まで誤魔化す手段があるとは思えない。それゆえウィルは絶対、リーネも……恐らく兄妹ではないと思っているはずだった。


 ネフラだと思うが確認できない、ネフラではないが証明しない――この二つを使い分け、サラサとライセンの溝を埋めてゆく。姑息なニンゲンのやりそうな手口だが、ここで戦争などしたら本当に呑み込まれてしまうかもしれない。それぞれの大切なものを護るため、好き嫌いは関係なく見習うところは見習うべき。


 ユアンには騙されたままでいてもらう。ウィルが確実にニウェウスではないと知ったら、排他的な思想に染まる彼は、志を同じくする仲間に密告するだろう。


 なるべく発言を控えるしかない。兄に代わって、リーネが次の行動を提案する。


「戻りましょう、サラサへ。私達の家族が待つ故郷へ……」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 それから数日後、同じ場所。エアとフランがリタとサツキに捕まったとき。


「改めて自己紹介しよう。私の名はリタ。お前達ライセンとはブラッドを挟んで反対側にある、新興部族イラリオの若長だ」


 悪びれた様子もなく、同胞の女は名乗りを上げた。


「お前は私を知るまいが、私はお前を知っている。メイアとは共に肩を並べて戦った仲で……リドはお前の成長を楽しみにしていた。メイアは先に逝ったが、お前という宝を自分に残してくれた、とな」


「……………」


 エアの父リドが、それから間もなく戦死したことは知らないらしい。だがエアを生んですぐ亡くなった母メイアのこと、あるいはエア本人の出自について。口から出まかせにしては正確だ。両親の友人という話も全く嘘ではないのだろう。


「……用件は何です。私の相棒が、どうかしましたか?」


 言葉尻は丁寧に、だが全く顔を向けない。同胞の若長に対する姿勢としては、明らかに不遜。微かな吐息を洩らすと、リタは自らの右膝に左膝を載せた。


「よく聞け。あれはニウェウスだ。お前達ライセンは騙されている。今のうちに縁を切ったほうがいい」


「……何ですって?」


 それは忠告にしても、あまりに突拍子のない話だった。


 出自は不明にせよ、身体がアトルムのものであることはバルザが確認している。幻影術や言霊には、それすらも誤魔化してしまう未知の奇蹟が存在するのか。それらのことを抜きにしても、エアはウィルと過ごしてきた時間を信じたかった。


「ウィルはここに来ていたはずなんです。ニンゲンの動向を探るために手分けして……私はドゥオで待ってたのに、約束の日を過ぎても戻らなくて」


「なるほどな……だが私は奴個人を知っている。あれの正体は、北の大集落サラサが族長ナスカの息子だ。名前はネフラ。妹のリーネが迎えに来て、ニンゲン共と同盟を結び自分の村へ帰っていった。記憶も戻ったようだし、まず裏切ったとみて間違いはなかろう」


「記憶が……!?」


 それ自体は喜ばしいことだ。しかし、その結果敵対するのであれば話は違う。


「……リタ様、でしたっけ?僕も……っ、ずっと不思議、だったんですよ……あれほどの戦士、が……どうし、て創術の基礎、も扱えない、のか……って」


「フラン!?」


「気安く名前呼ぶなボケ。男の分際で」


「ぐぼがっ」


 今度は踏みつけられて呻く。一方で愉悦の笑みが潜んでいるのを見つけ、サツキは激しく怖気を震う。這いずるフランを殴る蹴る、寄るなヘンタイと大騒ぎ。


 リタは彼の検査結果を知らなかった。ウィルがニウェウスなどと、彼女のほうこそ担がれているのではあるまいか。いずれにせよ、情報は共有されるべきだろう。


「……ライセンへ戻ります。一緒に来てください」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 その晩。若長バルザは、頗る機嫌が宜しかった。鬼もとい娘の居ぬ間に晩酌ならぬ昼酌を愉しみ、日の高いうちからほろ酔い加減だったのである。


 深い琥珀色のそれを、幾つかの氷と共に原液のまま注ぐ。やはり堪らない――これで五杯目だが、何杯だろうとイケる。このために生きている。器を前に深呼吸、まず芳醇な香りを楽しむ――彼の愛娘が帰宅したのは、まさにそのときであった。


「……師匠。ただいま戻りました……」


「ごぶっ!?」


 噎せながら慌てて器を背中に隠す。その試みは失敗し、貴重な命の水は勢い余って床に琥珀色の地図を生んだ。それを横目で追い、だが歴戦の勇士は被害を最小限に抑えるべく抗う。古い諺の『覆水盆に返らず』とは確か地面に落ちた場合だったよなあ、床の場合は大丈夫じゃないかなどと未練がましいことを考えつつ。


「一度も連絡しなくてすみません。引き際というか、出てくる頃合いが分からなくて」


「お、おお……最初はそういうもんさ。気にするな……今日の晩飯はアローナに貰ったよ。あいつはルークと仲がいいから、俺はそのついでだ」


 そのまま炊事場へ向かおうとしたエアを、冗談交じりに呼び止める。振り向いた彼女の顔を見て、ようやく娘の唯事ではない様子に気がついた。


「どうした。暗い顔をして……そういえばウィルの姿が見えんようだが。まさか、あいつの身に何かあったのか?」


「そこから先は、私が話そう」


 戸口に立つ余所者の姿を、バルザは唖然として見つめた。


「イラリオの若長リタだ。お前が奴の身体を調べたバルザだな?幾つか訊ねたいことがある」


 フランとサツキは、村の広場に待たせていた。フランは使い物にならないゆえ、正確に言えば居合わせた戦士達と恋人の惨状を聞いて駆けつけた若長シェラが。


 数いるうちの一人とはいえ、自分の恋人を不能に追い込んだ相手と仲よくできるはずがない。こちらはこちらで一触即発の危険を孕んでいたが、若長グスマの奇蹟によりフランの機能は回復する。シェラの実力をもってすればサツキなど瞬殺できること、穏健派の新興集落イラリオとは前々から友好的な関係を持ちたいと考えていたこと――それらも相俟って、今のところ災いは未然に防がれている。フランのアレだけを除いて。


「……俄かには信じられん話だな」


 溜息を洩らしつつ、バルザが呟く。


「だが、これは真実だ。村のため……娘の安全を想うなら、避けて通ることはできない」


 こちらも溜息をついて、リタが重々しく応じた。


「根拠なき結論は願望だ。お前には、奴を同胞と断定した理由を聞かせてもらいたい。重要な任務を与えた以上、それなりの確信するところはあったのだろうな?」


 向けられた鋭い視線を、バルザはさも心外といった様子で正面から受け止めた。


「根拠ならあったさ。俺はあいつの身体情報を調べた。我々アトルムと違って、ニウェウスの情報は歪な形をしている。生殖能力の区画を確かめてみれば、誰でも簡単に分かるからな」


「膚の色は見なかったのか?それが最も分かりやすい指標だ」


 なおも食い下がるリタに、バルザはうんざりした様子で大きく頭を振った。


「調べる必要があったのか?生殖機能に異常がなけりゃ、そいつは間違いなくアトルムだ。姿形はエルフだったし、膚の色はそのものを見れば分かるしな……お前さん、一体何が言いたい?俺には何のことか、さっぱり分からん。理解できるよう教えてくれ」


 ウィルの生殖機能は、全く制限されていなかった。ならばアトルムと思うのは当然ではないか。そんな当たり前の主張が、どういうわけかリタには通用しない。挙句これまで以上の深い溜息をつくと、イラリオの若長は何かを観念した様子で力なく呟いた。


「……確かめなかったのだな…………」


 それはバルザを責めているのではなかった。エアの気持ちを思い遣っているのでもない。あえて言うならば……遠い過去に犯した自らの罪を悔いている。決して赦されることのない、大きな過ちを――二人の目には、彼女の態度がそんなふうに映った。


 無言のまま瞑目し、やがてゆっくりと顔を上げる。その憔悴ぶりは、不敵な自信に満ちた若長を別人のように見せかけていた。


「二十年前……セシルの集落が、ニウェウスに滅ぼされた。文字どおり跡形もない、完膚なきまでの破壊だ。ほんの幼子に至るまで、容赦なく殺された」


「その戦なら知っている。俺も参加していたからな……あのときは、大勢の同胞達が亡くなった。忘れようとして忘れられるもんじゃない」


 バルザが吐き捨てるように言うと、リタも頷いて同意した。


「そうだ。あのときの恨みを、私は未だ忘れることなく持っている。当時の私は、セシルの若長だった。父も母も兄弟姉妹も……全てが瓦礫の下に葬られた。五歳の息子を守るために、私の友は魔獣――グリフィンと化して戦った」


 そこで言葉を切り、つとエアに視線を向ける。彼女はまだ、悲惨な殲滅戦を経験していない。これから自分がする話を、この若い娘はどのように聞くのだろう。どうして諦めた、何故もっと努力しなかった。そう激しくなじるのだろうか?…それもいい。確かに自分は、滅びた村の光景を前に挫折した。


 誰もいるはずがない。生き残れたのは自分ひとりなのだと。碌に同胞を捜しもせず、さっさと逃げ出してしまった。変わり果てた故郷の見えないところへ。何も考えることなく、ただ眠っていればよい場所を求めて。死のうとだけは思わなかった。今も消えない復讐の炎が、胸の奥に燃え滾っていたから。


「その少年は、少し変わった子供だった。精霊を見る術には長けていたが、言葉を話す能力は他の子より遅れていた……創術は純粋な知識だからな。依代は才能があれば言葉など要らない。私は彼を、我が子のように愛したよ」


「……………」


「不憫な子だった。容姿のせいで父親に疎まれ、外に出て遊ぶこともできず……母親と私だけが、心を許せる数少ない相手だった。もっとも外に出ていたら、不憫どころの話ではなくなっていたがな……」


 右手で顔を覆い、涙を堪えるように両目を擦る。彼女の話は、どうやらこれで終わりらしい。二人が戸惑いの眼差しで見つめると、リタは語気鋭く訊ね返した。


「……まだ分からないのか?」


 再び遠い視線になり、苦悩を顔に滲ませる。


「あの子――ディムは、生まれつき身体の色が薄い色無し子。瞳も髪も膚も、抜けるように白かった。見た目は……ニウェウスも同じだったのだよ」

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