閑話休題6 ウィル=ライセンの彷徨(後篇)
証文の調査は、後日リンファが自ら行うと申し出た。事実を知られたくない者もいるからである。同じ境遇にあった彼女なら、その点は問題ない。
「その際は、また御助力をお願いするかもしれませんが……」
「はい。この街にいるかぎりは、お手伝いします」
足を痛めてリンファに肩を借りているが、懲りてはいないらしい。遠慮がちにウィルを見上げ、それからにこやかに笑う。
「…俺は何も言っていないからな?」
とりあえず屋敷へ。法創術を頼れば出自が割れる。ウィルに使ってほしいとは言わなかったし、リーネも瞬時に怪我を癒すほどの高度な術は使えないようだった。
「乗ってくれ」
リーネの前にしゃがむ。非力なリンファが肩を貸していたのでは埒が明かない。
「え、でも……」
「いいから乗れ。このままでは日が暮れてしまう」
「……申し上げにくいのですが、わたくしも旦那様のお世話がありまして……」
夕刻前には、屋敷へ戻ってくることができた。カフェでも集合住宅でも時間をかけてしまい、少しばかり移動に手間取ったらこの様だ。
庭の見える客間へ通されると、まずは応急手当て。妙に慣れたもので、数分とかからず手際よく終わった。それから屋敷の主リウ=ズーシュエンへの報告に向かう。
敷地に入るときは、そういえば誰も見かけなかった。これ見よがしの屈強な護衛達に、どこの馬の骨とも知れぬ異種族を招き入れると伝えなくともよかったのだろうか。普通は先に伝える。武器の類は取り上げ、主の部屋を念入りに固めておく。
「お茶を用意させますので、ごゆっくりお寛ぎくださいと」
そんなことを考えているうちに、リンファが戻ってきて主の言葉を伝えた。
「身内の者が、お手数をおかけいたしました。御迷惑でなければ、今しばらく夕餉の席までお付き合いください……わたくしからも、何卒お願い申し上げます」
微妙な空気のまま数刻を過ごすことになる。
最初の十数分は、招いた側の礼儀としてリンファが二人を歓待した。リーネがウィルを兄と間違えたこと、まだ関心があることを察したのだろう。
そのリンファが台所へ去ってしまうと、場の空気は気まずくなった。そろそろ赤の他人がいてはしづらい話でもと気を利かせたようだが、残念ながら逆効果だった。リーネ一人でウィルに立ち向かう勇気はないらしい。そのくせ諦めようとはせず、時折茶の替えを持って現れるリンファを拝むように見つめる始末。
(何なのだ、こいつは)
リーネといいリンファといい。女という生き物は、こうも手間がかかるのか。
そういう意味では、エアの手間がかからなさすぎた。クララのことも任せきりだったし、こうして考えると面倒をみているようで実はみられていたのかもしれない。
あれで細やかな気遣いのできる少女だ。さりとてウィルのいない間に羽根を伸ばし過ぎていたら、厳しく叱りつけることに結局変わりはないのだが。
☆★☆★☆★☆★☆
「…その」
沈黙が破られたのは、リーネが三杯目の茶を飲み干したときだった。
「リウ=ズーシュエン様、どのような方でしょうね」
「……………」
「気さくな方だと嬉しいんですけれど……」
「さあな」
こちらは口をつけていない。取り越し苦労なのだが、リーネは無防備が過ぎよう。
「……興味がない」
ウィルとしては、訊いたことに応えてくれるだけで充分なのだ。
「そう……ですか」
それきり口を噤む。傷ついたとしてもウィルが慰める道理はない。ゆえに再び沈黙を破ったのもリーネのほうだった。
「あの……」
再び上目遣い。疚しくなくとも言い出しにくいとこうなるようだ。それで何を言われるのか見当がついてしまう。
ウィルのことだ。ヒト違いの理由を知りたいのだろう。
「…妹さんがいると、仰いましたよね。差し支えなければ、どのような方か教えていただけないでしょうか……?」
少し外れた。兄ではないことの根拠として、出まかせの家族をでっちあげてある。両親はなし。一番上の兄がバルザ、次兄ルーク、自分、末の妹エアというふうに。
アトルムとニウェウスの差に触れる部分をぼかせば構わないだろう。ルークが魔獣であること、母系社会であること、林檎のこと。他種族から見れば自由過ぎる恋愛観……
「…歳は十ほど下だ。成人して間もないゆえ、ヒト里に慣れさせるため連れてきた。仕事の都合上、今は別行動だがな」
言い終えて気づいた。話すならニンゲンの領域に来てからのこと。素性がバレるような真似はしていないはず。村のことを訊かれたら不躾のひとことで済ませればよい。
額に汗を浮かべながら。まだ足が痛むのだろう。
「…お仕事と仰いますのは、冒険者でしょうか……?」
「ああ。無理をしないほうがよいのではないか」
「いいえ。大丈夫です……もっと妹さんのことを聞かせてください」
この頑なさは何なのか。ウィルが兄ではないこと、まだ充分に納得していないのは分かる。自分の居場所を誰かに奪われたような気分になっているのではないか。
「料理はできる。正直、かなり美味い。俺も練習しているが、なかなかあの味は出せないな」
「……………」
また、あの視線だ。ウィルと話しているとき、リーネはたまにひどく驚いたような顔をする。そんなことがあるはずはない、とでも言わんばかりの。
今の話の、どのあたりがあり得ないのか。エアの料理が美味いこと……ではないだろう。リーネは彼女を知らない。他に考えられるのはウィルが他人を褒めたこと、たとえ簡単なものであっても料理をしていること。『不屈の闘志』亭での一幕もある。行方不明の兄と重ねられているのだとしたら、その男はどれだけろくでなしなのか。
「掃除や洗濯は次兄の役目だ。生まれつき精霊と繋がりが強くてな。そこまでの才能はないが、俺も見習いがてら手伝っている」
では長兄ことバルザが何をしているのか問われると……答えに詰まる。必要最小限の狩りや採集はしているが、それ以外の時間は。恋人がいるわけでもなし、概ね飲んだくれている。そもそも舶来の琥珀色は、どうやって手に入れているのか。
若長であるバルザのことは言わない。アトルムの文化や社会の構造に触れる。幸いと言うべきか、リーネも二人の兄達にはあまり関心がないようだった。
「妹さん、優秀なんですね」
どうだろうか。成人前に偶発的な初陣を迎えたらしいが、それは独断専行の結果であり、直後に命じられた任務では大人達の同行を命じられたと聞く。若長並みの力を持つ兄ルーク、一足先に成人していたフランとゼクスの三人だ。
すなわち成人とは名ばかりで、まだまだ半人前。フランとゼクスも一人前と呼ぶには少し足りない。
リーネはウィルの沈黙を肯定による謙遜と受け取った。
気が弱くて何も決められない自分。そのくせ想いだけで突っ走る。いつまでも兄離れできないから帰ってきてくれないのではと、自虐的な妄想を抱いてしまう。
本当の兄妹なのですか、とは訊けない。実は記憶を失くしてなどおらず、もうサラサに帰りたくなくなったから別人のふりをしているのではないか。そもそも、そのような家族は実在しないのではあるまいか……?
だが今は。ウィルの話を鵜呑みにする。
すぐ諦めてしまうところも、愛想を尽かされる原因と分かっていてなお。
受け容れるしかない。ただ切なくなる。胸が苦しくなる。
本当に、捨てられたような気がして。
☆★☆★☆★☆★☆
リンファが呼びにきたのは五分後だった。あるいは気を遣ったのだろうか。それくらい絶妙な間のよさである。
「さあ、どうぞこちらへ。主リウ=ズーシュエンは席に着い」
言葉が凍りついた。開放的な露台に背の高い老人がひとり、どれも中身が半分ずつしかない大皿達の円卓で寛いでいる。ウィルとリーネは呆気にとられたが、リンファは直ちに状況を悟った。よもやこの短時間でやられるとは――庭に立てかけてあった箒を摑み、いつになく鋭い視線で周囲の山水を睥睨する。
「…な、何でしょう?」
「さあな……」
リンファの意外な凛々しさも驚きだが、ウィルにとっては使用人の雄姿を泰然と眺めている老人のほうが異様だった。この悠長さ、自らに仕える者への信頼か。いや、ここで何が起きたのか知っている。または、その両方。
精霊に魂を半分開放、瞑目して探知の構えに入る。
困惑と怒り、これはリンファ。痛みによる疲労と恐れ、これはリーネ。好奇心と愉快さと微かな焦り、これは目の前で呵々大笑する老人か。
枯れた大きな右手で宥めるように空を撫でると、館の主は眷属の娘に語りかけた。
「よいではないか。若い女子との間接接吻、儂は大歓迎じゃよ」
「旦那様っ。そのようなこと」
「リンファも手を焼いておるようじゃ。お客人、助けてはもらえんかのう?」
動けないリーネを老人の隣に座らせ、ウィルは向かい側に着席した。
「もう去ったようだ。犯人がひとりなら、これだけ食べれば今夜は来るまい」
改めて惨状を見渡す。老人と客二人、リンファを加えて四人としても多すぎる馳走の山。軽く十人前はあったろうか。料理は食べきれないほど用意するもの、なくなれば歓待が足りないことを意味する――後で知ったことだが、これもツォン人の習慣らしい。
「ほっほ。精霊をお使いになりますか。その若さで探索にも応用が利くとは。同じことができる冒険者なぞヒルダ殿くらいのものでしょうな?」
驚いた。依代への理解ではなく、ウィルが自分より若いと見抜いたことに。
「……分かるのか?」
「分かりますとも。こういう歳になると、仕種や言葉遣いで何となく……な」
ウィルを見、リーネを見。うん、と頷く。
「お嬢さん。お厭であれば別の皿を用意させるが……大皿の飯を喰うは朋友の証。リンファが言うところの『泥棒猫』も、さほど悪い子のような気がしておらぬのじゃよ」
こうまで言われた手前、断るのは難しかった。ニウェウス四大氏族がひとつの長の娘と名乗ってしまっている。立場上、有力者の心証を損ねるわけにはゆかない。
「わ、私も構いません。その……リウ様は、『泥棒猫』さんの姿を御覧になられたのですか……?」
盗み食い犯まで『さん』付けとは。思わず吹き出しそうになったウィル。リンファは怒りを隠さない――といっても可愛らしいものだが。遠い親戚という二人の関係、実態は祖父と孫に近いのかもしれない。
「猫の獣人じゃった。この島では珍しかろう?」
確かに。物好きな老人が面白がるのも頷けた。しかし、それだけに面白がっているだけではよくない気もする。
「ニンゲン同士の争いに口を出す気はないが。最近伸している商会の中には、大陸から来た者もいると聞くぞ」
「そうなのです。わたくしも心配で……お二人からも、お諫めしていただけませんか」
穀物の種籾に肉や卵を和えて炒めたものを取り分けながら、リンファが口を挟む。先にウィルとリーネの分をよそったのは、まさか毒味ではあるまい。自分にも寄越すよう主に促され、一瞬不服そうに見えたのは考え過ぎだ。
「暗殺者かもしれんと?儂を殺めたくらいで何が得られるものか」
くだらん、と笑い飛ばす。標的を目の前にして、食事だけ盗み食いして逃げる殺し屋。確かにそのような者はいまい。だがリトラの流通を牛耳る豪商の排除は、計り知れないほど大きな利益を生む。取引先を奪うくらいのことはできるだろう。
それでも老人の結論は変わらない。顧客の信用は自ら築くべきもの。その程度で傾くなら、タオ商会の身代は滅ぶ運命が決まっている。
とはいえ、重さを増したリンファの視線には首が竦む。一代で大店を創りあげた剛腕実業家を以てしても、身内の心配を無碍にすることはできないらしい。
「…あぁ……まあ、うむ。儂もあの子と話してみたい。手間をかけるかもしれんが、捕まえてみてくれんかの」
「それは正式な依頼か?俺をこの屋敷の用心棒として雇うということでいいか」
「俺ではなく俺達じゃな。そちらのお嬢さんにも頼む。なに、怪我が治ってからで構わん。ゆっくり慌てず療養されよ」
麗しき森の乙女は目の保養になるでな、と本気か分からない冗談を言う。
翌日の朝餉から、ウィルの孤独な戦いが始まった。
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使用人の朝は早い。まだ暗いうちに井戸水を汲み、飯を炊くための火を熾す。
そして主菜と副菜。今日からウィルとリーネは身内ゆえ、昨晩ほどの豪勢なもてなしはしない。さりとてリトラ有数の豪商の家、やはり相応の手間暇はかける。灰汁抜きや浸け置き――実際に調理する前から、泥棒猫との勝負は始まっている。
就寝前、ウィルは何やら働くリンファから聞くとはなしに聞いていた。明日の献立は栗御飯――意外にもニケアの料理だ。昨夜は謝礼を兼ねた晩餐ゆえ、ツォン人の誇りに懸けて民族伝統の宴席を用意したが。普段の暮らしは、あまり囚われないという。
旧世界にいた頃のニケア人自体「何でもあり」の民族で、古くはツォン人、新しくはエレン人の真似をして己の文化文明を補強し、周辺諸国に伍してきたとか。ある意味リトラのありようは、古代ニケア人の故郷に近いかもしれない。
「ツォン人とニケア人は因縁がありますから、そんな言いかたをすると怒ったり嫌がるヒトもいるんですけど……」
皮剝きした栗の実を水に浸しながら、リンファが教えてくれた。晩餐のときもそうだったが、普段の作業をしているとウィルのことも怖くなくなるようだ。
「わたくし達はリトラ人。ツォン人とニケア人でもありますけど、それは大陸だって一緒ですし。利害関係の合うヒトと仲よくするほうが、現実的だと思うんですよね」
日が昇る前。ウィルは今、台所にいる。
金庫番も料理番も一手に引き受ける、最初の印象より遥かに優秀だったリンファの姿はまだない。
猫似のルーマも獣人族。一概には言えないが、栗鼠の獣人フェリテは食い意地が張っている。もしかしたら調理前の素材も狙うのではと。残念な勘が的中した。
狙いは浸け置きしてある栗……ではなくて。籠に山ほど積みあがった見事な柿。このままでは渋くて食べられないため、皮を剝いて干すか大量の酒で漬けるか。まあ放っておいても向こうが痛い目を見るだけなのだが、無駄に歯形をつけさせることもあるまい。リウ老人は喜ぶとしても、リンファの機嫌が悪くなるのは明らかだ。
声をかけて己の存在を知らせる愚は犯さない。このまま一気に捕縛する。
身体を動かせば物音が立つ。しかし幸いにも、柿の籠が置かれているのは土間。大地の精霊に呼び掛けて陥れるのだ。大半の獣人はマナに対する感受性が鈍い。
あらゆる精霊との共感覚を解除。大地の精霊だけに絞り込む。楽しげに揺れていた三毛猫の尻尾が、ぴくりと動きを止めた。
(な……!?)
籠を中心に背丈ほどの穴が開く刹那、獣人はひょいと身を躱した。御丁寧にも、柿や山菜など旬の食材を両手一杯に抱えて。そのまま持ち去るかと思いきや、元のように並べなおして当初の目的を達成する。だが次の瞬間、嬉しそうに握っていた橙色の宝石を落としてしまう。年齢不詳の童顔を情けなく歪め、尖った猫耳はぺたりと項垂れる。
「…うぇ。マズっ……」
「当たり前だ。それは渋柿だからな」
「……信者のおばちゃん達が言ってたの、そういうことだったんだ……」
正面から仕掛けるしかなくなった。会話の内容とは裏腹に、追い詰められたのはウィル。先程の身のこなし、かなり『泥棒猫』は素早い。ルークでも追いつけるかどうか。小柄ゆえ一度捕捉すれば何とかなると思うが、簡単にできるなら苦労しない。
「そういえばお兄さん、新しいヒトだよね。前のヒトはどうしたのかにゃ?」
くひ、と意地悪く笑う。馘首になったとでも思ったのだろうか。リンファのこと、むくつけき護衛のこと?後者については生活空間に踏み入らせないのだそうだ。すなわち中庭から館にかけてはリウ老人とリンファだけ、今はそこにウィルとリーネが加わる。もしかしたら昔は他にも誰かいたのかもしれない。
「…多少の怪我は覚悟してもらうぞ。雇い主から傷つけるなとは言われていないのでな」
屋敷の損傷についても同様だ。なるべく配慮するにせよ、相手の実力が分からない以上、小屋の一つや二つ、窓硝子十枚は壊すと言ってある。
風の精霊に切り替え、牽制の鎌鼬を放つ。避けて姿勢が崩れたところに体当たりして捕らえる、というのが基本戦術だ。これなら建物の被害は最小限に止められる。もっとも盛大に出血する恐れはあるゆえ、リンファが卒倒すること請け合いだが。
「おおおっと危にゃい!…そういう戦術かあ。なら、あたしも本気を出さにゃいと」
更に速さの磨きをかけてくる。何か呟いたように見えたのは気のせいだろうか。
(いや待て。これは……)
単に速くなっただけではない。明らかに先手を読まれている。具体的には、風の精霊が牽制攻撃を放つ瞬間を。
この『泥棒猫』にはマナが見えている。濃度が高くなった方向から攻撃が来ると察して、事前に避けやすい有利な場所へと移っているのだ。
マナが見えているのに、自分は術を使わない。マナを見る能力と扱う能力は一体だ。どちらか片方だけに習熟することはないにもかかわらず。
(こいつは何者だ……?)
まさに得体の知れぬ存在。ただの浮浪者であるはずがない。
「とりあえず今は、このあたりかにゃ」
四隅のひとつに追い詰めたかと思った。しかし、それは『泥棒猫』の思惑どおりだった。石壁を利用して三角跳び、折れ曲がった向こうの天端に乗る。
「じゃあ準備ができた頃にまた来るね!ばいにゃら~」
のそのそ起きてきたリンファが台所の惨状を見て固まる。
壁際に大きく空いた穴、傷だらけの柱、土間全体が水浸し。被害は、ほとんどウィルの術によるものだ。『泥棒猫』は落とし穴の上から野菜籠を救うことさえしており、それでいて食べたのは渋柿ひとつだけ。むしろ被害を抑えたほう。
「……す、すまん」
「旦那様がいいと仰いましたので。わたくしは何も申しません」
寛容な言葉の背中から、肌寒くなる何かが滲み出ていたのは言うまでもない。
朝食の準備ができる頃、また『泥棒猫』はやってきた。結局ウィルは為す術なく、世にも珍しいと思われたリンファ二度目の爆発を見たのである。
☆★☆★☆★☆★☆
『泥棒猫』は食事の都度、几帳面に現れた。そしてリウ老人がまあよいではないか、と顔を綻ばせる程度の量を残して去ってゆく。
当然リンファは機嫌が悪い。非力な自分同様、主の信頼に応えきれないウィルに対しても厳しくなる。女衒紛いの男から救ってもらったことなど、もしかしたらとうに忘れているのではないか。二人揃って残り物を甘く煮た薄い粥を啜っている。
怪我人のリーネに対してだけは、さすがにおかしなものを出せないようだ。『泥棒猫』が満足して去った後に支度を始め、滋養あるものを食べさせている。奥の客間まで甲斐甲斐しく運び、寝床から一歩も離れず療養させるほどの手厚い看護ぶりだ。
「あの……私だけ、こんな」
「旦那様の御指示です。お気になさらないでください」
では俺の扱いも旦那様の指示か、とウィルが聞いていれば思うだろう。この場にウィルはおらず、リーネも今日の二人が何を食べたのかは知らない。
朝昼晩と三連敗のウィルは、翌日に向けて作戦を練っていた。
別に食の貧しさを患ってのことではない。閉じ込められているわけではないゆえ、外へ食べにゆこうと思えば出かけられる。仕事の辞退もできなくはないが、それではニンゲン社会に大きな影響力を有する実業家の懐に入り込んだ好機を逃してしまう。
実を言うと、ひとつだけ妙案がある。しかしそれに頼るのはできれば避けたいし、他のあらゆる可能性を試して失敗したときの切り札と認識していた。
「次は……本気だな」
屋敷への被害を最小限に抑えるため、リンファには屋外で調理することが自然な献立にするよう頼んでおいた。
明日の朝食は焼き魚である。これなら煙を避けるために外へ出てもおかしくない。折しも季節は雨季から乾季へ移る頃。秋刀魚や鯖、鰺など旬の魚が美味い。
鮮度の問題から、早朝ウィルとリンファは連れ立って魚河岸へ足を運んだ。
悩みのなくなったリンファは、思いのほか明るい。道行く人々と挨拶を交わし、食材の値段や品揃えなど冬越しに必要な情報を集めている。ごく自然に。
流通業者の使用人として、無意識に覚えてしまった癖だという。家政婦ひとりの話だけで商いを変えたりはしないが、地に足を着けた生活者の声も聞きたがるのだそうだ。
「あいよ、頼まれてたもの。そっちの兄さんが新しいヒトだね」
「ええ……まあ」
四人前の魚を受け取る。
「一人増えたって聞いたからさ。てっきり女の子だと」
増えたのは二人では。そういえば『泥棒猫』も言っていた。前のヒトはどうしたのか、と。口ぶりからすると、そう昔のことではないのかもしれない。
せっかく市場へ来たのだから、他の食材も買い足してゆく。一人では無理だが、今日は荷物持ちがいる。エルフは総じて力が強い。
屋敷へ戻り、庭先に七輪を置いて秋刀魚を焼きはじめる。匂いに釣られたのだろう、間もなく植木の枝葉に潜む一対の猫耳――いや本物の猫も含めると三対。あからさまな罠なのだが、それでも現れるという確信がウィルにはあった。
その瞬間は、唐突にやってくる。茂みの中から本物の猫が飛び出し、戸惑いながらも邪険にするリンファの注意を惹く。押しては退き、退いては押すの繰り返し。もう一匹加わり、余裕の失せたリンファが毛を逆立てた猫みたいになる。
だがウィルは動かない。ツォン人の古い諺に『漁夫の利』というものがある。相手を喰おうと、あるいは殺そうとする鴫と蛤が、貝殻に嘴を突っ込んだ状態で睨み合う。そこへ通りかかった漁夫が両者を苦もなく捕え、二つも獲物を手にするという話だ。
今回の場合、鴫は本物の猫で蛤はリンファ。獲物が秋刀魚、漁夫は『泥棒猫』のつもりだろう。しかしウィルにとっては『泥棒猫』も鴫だ。獲物は豪商の信頼と様々な情報。真の漁夫となるのは、自分だけでよい。
三色の毛皮は、何の衒いもなく突っ込んできた。腰の短剣を抜いて真っ向から迎え撃つ。盗み食い犯を捕まえるのではなく、リウ老人の命を狙って現れた暗殺者を排除する――という設定で。つまり、まずは大人しくさせる。相手の生死を問わないところまで行動基準の警戒段階を引き上げる。これがウィルの本気だ。
戦闘目的が変わったことを『泥棒猫』は敏感に察した。こうなると双方とも手加減は難しい。昨日まで一方的に攻めていたウィルも反撃を受けるようになる。
「…へえ。お兄さん、強いね?」
「お前こそな。そろそろ術を使わないのか」
「もう使ってる。これだけ速度差があって続くんだもん。割に合わないよ」
「………?」
昨日とは口調が違う。しかし強さといい獣人が術を用いることといい、他人の空似とは思えない。斯くも特殊な敵が二人いて堪るか、というわけだ。
『泥棒猫』も第一目標を秋刀魚からウィルに切り替えたようだ。最大の障害を排除し、それから美味しく主菜を頂戴する。割に合わないという言葉に反して、どこか楽しそうに見えた。そもそも、これだけの力を持つ者が食い詰めるなど考えにくい。現物給付先払いの護衛でもやれば糧にありつけるはずなのだ。
労せず質のよい食事を奪えたから来ていたとすれば、今後は来なくなるかもしれない。さりとてリンファでは対処不能、ウィルが帰ったら元どおりになってしまう。話をしてみたいというリウ老人の望みも叶わないことになる。
(ここで決めねばなるまい)
心の呟きが聞こえたのか、『泥棒猫』は唐突に距離を置いて塀の上に飛び乗った。
「今日は諦めるけどさ。本当にお腹空いてきたし」
右手を当てると、打てば響くようにぐう、と鳴る。
「また来るよ。お兄さんと遊ぶの楽しいから♪」
去っていった。深追いはせず、そのまま見送る。暗殺者向けの対処をしたゆえ、どうしたものか迷ったのだ。先程の物言いが気になったこともある。
とりあえず今朝の仕事は終わり。ほっと溜息をつく。
リンファが小走りに駆け寄ってきた。
「あの……ウィルさん」
何やら困惑している。その顔を見ただけで、大体あったことの予想はつく。大変申し訳ないのですがと前置きして、再びあの上目遣い。
「…もう一度魚を貰いに行くの、付き合っていただけませんでしょうか?その……猫達に全部、食べられてしまって……」
☆★☆★☆★☆★☆
あれから『泥棒猫』は姿を見せなくなった。既に三日経っており、食事専門の護衛という奇妙な立場のウィル達は、そろそろお役御免されてもよい頃だ。このまま何事もなければ、リウ老人に少し踏み込んだことを訊いて一度ドゥオへ戻ろうと思う。
今日も今日とて、朝早くから買い出しに出かける。リンファの外出にウィルが同行するのは日課となっていた。
まず食材の保護、そしてセドリックから奪った怪しげな証文のこと。リンファ一人では頼りなく、ウィルが調べようにも冒険者の店の目が光っている。そこで自主的に動く被害者を知人が手伝う、という形にしてみた。冒険者の店としても一般市民を巻き込むのは本意ではない。ある意味リンファは、ウィルにとっても自分の身を守る盾だった。
「いい、お天気ですね」
「ああ」
「食べたいものはありませんか?今日は張り切ってますから何でも作りますよ」
「ああ……」
リンファもウィルのいる生活に慣れてきたようだ。気のない返事を返し、視線で街路樹の梢を梯子する。
前から気になっていた。少し病んでいるかもしれない。日当たりなどを考慮せず道端の硬い土に押し込め、適当な世話をしているからだろう。森では環境にそぐわぬものから脱落してゆくが、ここはそうではない。言うなれば死にかけの病人を無理矢理永らえさせ、興味本位で晒し者にするようなもの。
(これだからニンゲンは……?)
屋敷から最も近い枝葉の中に、何かいる。
風の流れを無視した静寂が仄かに。玄人であるがゆえ気配を断ちすぎているのだ。不自然さに慣れた街のニンゲンならともかく、エルフの耳目は欺けない。
「…リーネを呼んでくれ」
「はい」
リンファが一足先に屋敷へ戻って五分後。裏口から庭園に入る。
兼ねてからの打ち合わせどおり。唯一外からも見える大木の前に立つ。すぐ塀に飛び移れるため、脱出を図ったときの動線が読みやすい。容易に挟み撃ちできるのだ。今頃裏通りには、店の正面から出た不審なヒト影が屋敷の前を通りかかっているはず。
明後日の方角を向いて座り、精霊を宿して気紛れな指示を与える。さも練習しているかのように。無論、欺瞞工作だ。依代でもなければ、働いているマナがどの精霊によるものか判別するのは難しい。
風、火、土……と順番に切り替えてゆく。以前より早く、滑らかになっており、長足の進歩だ。そして水に変わったときこそ、作戦開始の合図。
滝のような局所的豪雨が降った。僅かヒトの肩幅ほど、恐るべき精密さである。ウィルも水の精霊と契約しているが、真似できる自信はない。
「うわぷ!?…ごほげへっ」
まず伏兵の存在に驚き、気づかれていたと知って逃げようとするが遅い。狙いすました突風に煽られて転がり落ちた先は落とし穴。軽く壺焼き、それから生き埋めにする。
外からリーネが戻ってきて、首だけの哀れな獲物を見つめた。リンファも恐る恐る顔を出すが、こちらは竹箒を握りしめて及び腰。
普通の反応である。真に平凡な家政婦なら。
「…そんなに怖がらなくてもよくない?お姉さん結構強いでしょ」
微妙に傷ついたようだが、今そのことはよい。リンファが強いとはどういう意味か。
「チャラいお兄さんは?最近見ないけど喧嘩でもしたの?」
「……………」
「もしかして別れた?演技が本気になったとかする?」
「お兄さんって……まさか」
リーネも同じ答えに達したらしい。疑似餌に釣られた間抜けな魚が一匹。それに釣られた更に間抜けな魚がもう一匹。
「ここまでだな。それとも茶番は終わっているのか?」
「…いつから、気づいてました……?」
「確信したのは今だ。違和感そのものは前からあった」
一度目。セドリックという男がリーネに鼻の下を伸ばしていたとき。まだ心を残しているのかと思ったが、もっと単純な話だった。
二度目。『泥棒猫』との会話。『前のヒト』とは誰なのか。他に女の使用人がいただけなら、このような言いかたはしない。
三度目。魚河岸で四人分の魚を受け取ったとき。
四度目。これは何となくだ。私生活にお粗末な問題を抱える優柔不断さと、家政婦としての合理的な仕事ぶり。
そして彼女の主たるリウ老人が、恐らくエルフとの繋がりを望んでいる。獲物が主人に興味を示した時点で茶番は無駄になった。それでも退くに退けなかったのだろう。
「…騙してすみませんでした。でも夫のことで困っていたのは本当です」
借金の証文と思ったものは、浮気相手の記録だったわけだ。全員ではあるまいが、疑いの目を向けるには充分。
「……夫だったのか」
「それでリンファさん。この子は、どうします?」
再び視線が集まる。小柄な猫の獣人とはいえ、首から下を埋めた土の重量は相当なもの。全く身動きが取れず、困った様子でなはははと笑う。
「できれば助けてほしいなー……なんて」
無言で朝餉の支度を始めるリンファ。手伝うウィルとリーネ。『泥棒猫』を捕まえたら、庭で食事を摂ろうと決めていた。猫耳もとい旬の景色をゆっくり堪能しながら。
「この卓はここでいいのか?」
「もう少しこちらへ……水面の紅葉が一番綺麗に映るんです。リーネさんは火の具合を見ていただけますか?わたくしは食材を運んでまいります」
「それなら私が。結構力はあるんですよ」
「俺も手伝おう。そのほうが早く終わる」
「ねえ、ちょっと……」
これからの季節は保存食しか食べるものがなくなる。燻製、腸詰、干し果、漬物……悪くはないが、やはり新鮮なものを生で調理するのは格別だ。
石の架台に木炭を並べて火を熾し、そこに鉄製の網を載せる。この上で焼いた肉と野菜を特製の調味料につけて食べるのだ。旧いニケア語でBBQ――『どきゅなりあじゅ』共が浮ついた自分達を世に晒すためやった遊び。隠語で表さねばならないあたり、あるいは危険な行為だったのかもしれない。
「ねえってば……」
「お肉は焼いていいですよ。旦那様をお呼びしてまいりますね」
「ああ」
「こ、こういうのも楽しいですね。私は、お野菜のほうを……」
蒸発する水分と脂。芳しい匂いが漂ってくる。
地面から生えた生首には目もくれない。いや時折申し訳なさそうにリーネだけは視線を泳がせるが。それに気づく度、リンファとウィルが無言で頭を振った。
「酷いよ!?あたしだって食べたいのにっ!」
☆★☆★☆★☆★☆
リウ老人が現れたのは、焦げるのを見かねたウィルとリーネが肉を一皿平らげた後だった。屋敷の主が来たのを見て、二皿目に取りかかる。
「やあ、すまなんだな。歳を取ると着替えだけでひと苦労じゃ」
上座に着くと、紅葉を映した池との間に生首が鎮座する。あまり楽しいものではないが、主人たっての望みとあらば使用人としては仕方ない。獣人の赤い瞳に視線が合うと、老人は自分に差し出された木皿を箸もつけず押し戻した。
「置いてやりなさい。さぞ腹が空いとるだろう」
「……旦那様が仰るのでしたら」
渋々といった様子で獣人の鼻先に置く。とはいえ届くか届かないかの微妙な距離に置くことだけは忘れない。
暫し焼いては食べ、焼いては食べる。最初は甲斐甲斐しく働いていたリンファも、主人に言われて自分の食事を始めた。客の二人は元々世話をかけていない。自分の分は自分で焼き、むしろリンファの手伝いさえしている。
片付けが終わる頃になっても、生首の前に供えられた皿の中身は変わらなかった。あまりに絶妙すぎて、必死に伸ばした舌先が辛うじて触れる程度。この様で何ができるとは思わないが、念のため警戒していたウィルは見ている。猫耳童顔娘の苛烈な百面相を。
「…さすがにもう、いいですよね?」
リーネが歩み寄り、皿を近づけてやる。これ以上は可哀想だと思ったようだ。ウィルとしては甘い気もするが、決めるのは屋敷の住人だ。
顔を脂で汚しながら一瞬で平らげると、リーネが口元を拭いてやる。老人は満足げにほっほっと笑った。己が眷属の仕打ちをさらりと棚に上げて。
炭火を片づけ、円卓で食後の茶を愉しむ。選んだのは熱めに淹れて冷ましたプーアル。昔からツォン人の間では、脂の強い料理を食べるときに欠かせない。
「さて。引き留めたのは他でもない。儂がお前さんと話をしてみたかったからじゃ」
目を白黒させる。まさに泥棒猫の彼女から何を聞こうというのか。
「…あたしと?どうして?」
「そんなに構えんでもいい。ただの趣味じゃよ」
「子供みたいな外見の異種族の女の子を捕まえさせるのが?」
「ほっほ。これは、なかなか辛辣じゃのう」
じっと猫耳獣人を観察する。商売柄多くのヒトビトを見てきたリウ老人は、仕草や言葉の端々からおおよその年齢が分かるという。しばらく無言で見つめていたが、やがて空を見上げると溜息。不可解そうに、ふぅむと漏らす。
「……子供でないのは確かじゃが。どうもお前さんは分からぬな……」
本当は見えている。優に百歳を超えていると。いるのかもしれないが、そのようなルーマは聞いたことがない。
見た目が一生幼いままなのは、猫の獣人の特徴だ。他の獣人も老化が遅かったり、成長した後は死ぬまで衰えない者もいる――エルフと同じように。
わざと明るい声で言い直し、重くなった空気を払う。
「大陸から来たのじゃろ?何か面白い話でも聞かせてもらえんかと思うてのぉ」
「面白い話……例えば?」
「…半年前に大陸からやってきた冒険者。ルーマの娘もおったと聞くが、お前さんと関係があるのではないか?」
根拠のない憶測だ。島には一人もいないとはいえ、大陸では比較的ありふれた種族。それこそ西の自治都市群に行けば、冒険者を生業とする猫の獣人が結構いる。
ただ、今この時期。異様に優れた冒険者の一団が訪れ、忽然と姿を消してから半年。冒険者は皆怪しいが、猫の獣人ほど分かりやすく関係を匂わせる者はいない。
「……彼らは今、どこにいるの?知ってるなら教えて」
リーネが息を呑んだのを、猫耳は見逃さなかった。
「何か知っているのね?あの六人のことを」
ふらりと席を立つ。草色の見開かれた瞳は何も映していない。
「…リーネさん?」
リンファの呼びかけにも応えず屋敷の中へ。足は治ったはずが、前より不器用な歩き方で。事情を知らないウィルでもおかしいと思う。
「話してくれぬか。力になれるやもしれん」
「…死ぬはずなんてない。きっとみんな生きてる。たとえ相手が神でも……」
既に老人の話など聞いていなかった。言葉遣いが変わったことにも、このときのウィル達は誰も気づかなかったのである。
☆★☆★☆★☆★☆
その日のうちに、獣人の尋問が始まった。
それほど警戒するつもりはなかったが、挙動不審のリーネに獣人のほうが剣呑な態度を示したからだ。ゆえに現在も地面から生えたままである。
同情的だったリーネが寄りつかなくなったため、餌付けはリンファの仕事となった。実はリウ老人の護衛兼懐刀と発覚した今は堂々としている。一方で捕まえたときの怯えようも演技ではないのだろう。相手が本当に動けないと理解したからこそだ。
「本当のことを話してください。あなたはファロス市国の間諜で、先に来た六人も浸透工作を図った仲間なのでしょう?」
「違う。全然違う」
この押し問答の繰り返し。
余計な情報を与えないよう、ウィルとリーネは獣人との接触を禁じられた。老人が直接会いにくることもない。リンファに任せておけば大丈夫と判断したのだろう。すなわち『食事の護衛』任務は終了したことを意味する。
にもかかわらず、二人は未だ屋敷に留め置かれている。
リーネの怪我は癒え、同時に与えられた仕事も完遂。対アトルムの方針を探るというウィルの目的は未達成だが、そろそろ訊けば教えてくれそうな気がする。外部との抗争にあまり積極的でない南の村アダムの眷属を名乗っていたことが幸いした。
このまま護衛として雇うつもりなのかもしれない。だがウィルには、一度ドゥオまで戻らねばならない事情がある。まだ状況が見えないからと、ライセンへの第一報を欠かしたまま。エアが報告に帰って不在なら、それはそれでよいのだが。
「ないない。私、死ねないもの。殺そうとしても簡単にはね。何なら試してみる?」
リンファと猫耳の会話が聞こえてくる。接触は禁じられているが、話を聞くなとは言われていない。物騒な言葉面の割に、命がなくなるかもしれないという危機感はなかった。
「くだらない。そんなことをして何の得があるのです」
「身動きできるようになる。さすがに窮屈で……痛いのは嫌だから、そもそも本当のことしか言っていないけれどね」
生き埋めを逃れれば、脱出の可能性が出てくる。手足の痺れが酷くて音を上げたにしては顔色がよすぎだ。やはり脱出を狙っているのだろう。
「それとも怖いこわ~い男のヒト達を呼ぶ?このナリでもよければ望むだけお相手するわよ。ちなみに可愛い女の子は大歓迎ね」
げんなりした呆れ顔のリンファに色目。
(……なんて会話だ)
いずれ拷問は覚悟のうえらしい。それにしても、殺されないならともかく死ねないというのは……?
このままでは不便だから、と前置きして猫耳。
「私は……そうね、エミル。今後ともよろしく♪」
明らかに偽名と疑われる名乗りかただった。
☆★☆★☆★☆★☆
縁側で寛ぐウィルの元へ、蒼白い顔のリンファが歩いてくる。
他にも出入り口はあるが、一番日当たりのよい場所なのだ。書斎に飽きた屋敷の主も、日に一度は庭を眺めに来ることが多い。
「どうした。顔色が悪いぞ」
あえて知らないふり。下世話な話に巻き込まれては堪らない。
「…何でもありません。何でも……」
リンファのほうも忘れるつもりのようだ。まあ常識的な判断である。
「あれ?どうなさったんですかリンファさん。顔色が優れないようですけれど」
「……………」
あれから二日。やや落ち着いたリーネも奥から出てきた。
こちらは本気で心配している。何でもないなどという雑な返事では、決して納得しない真面目さがある。
「…ああ。いえ、その……」
かといって正直に答えたくない。男のウィルとは違った理由で。相手がリーネだから、リーネがこういう人物だから。大半が歳上であるはずのエルフに対し、まさかこのような気持ちにさせられるとは思いもしなかったが。
「長らく尋問して疲れたのだ。休ませてやれ」
「…あ。猫さんの……」
「そうだ。なかなか本当のことを言わんらしい」
それは大変ですね、と真に受けるリーネ。どうやら誤魔化すことができたようだ。このところ彼女も出かけることが増え、何やら忙しく過ごしている。不審な点が見当たらないことまで疑う余力はないのだろう。
「お茶を淹れてまいりますね」
勝手知りたる他人の家。ここに招かれてから既に八日経つ。
あれほど疲れていたのに、忠実な使用人は庭の手入れに取りかかっている。毎日地道に働いているゆえ、それほどやることはなさそうだったが。引きこもりがちなリウ老人を喜ばせるために、三年前から主の許可を得て庭づくりに励んでいるのだという。
なかなかできることではない。最初は職人の手を借りたのだろうが、維持してゆくには相当な根気強さが要る。
(ここでは戦ってばかりで、まともに眺めたことがなかったな)
この屋敷に初めて来たときのことを思い出す。
街中の一等地にありながら、贅と意匠を凝らしたツォン風の造り。池と、巨石と、樹木と、小さな離れに橋。遥か昔の先祖が憧れた『シィエンレン』の住処『シィゥアイタオヤァン』――余程気に入っているのかリンファにそう教えられた。もっとも『シィエンレン』が何者で『シィゥアイタオヤァン』が何なのかは、さっぱり分からなかったのだが……
間もなくリーネが戻ってきて、枯れ色の茶を縁側に置く。それを見てリンファはようやく客人に茶を淹れさせてしまったと気がついた。ウィルとリーネがエルフ語で意思疎通したせいである。その意味では確信犯だったと言えなくもない。
「……ありがとう、ございます。でも今後、このお屋敷でエルフ語は禁止です」
器を取るとウィルの隣に腰掛けた。リーネも反対側に並んで座る。
このような建物の造りは、元々ニケア人のものだという。土地を贅沢に使うため廃れかけていたものを、こちらの世界へ送られてきてから再現したのだそうだ。
風通しがよく、暑い季節は過ごしやすい。冬は精密に造られた雨戸を嵌め、更に屋内を何層にも仕切って段階的に寒さを防ぐ。
別の見方もできる。ある意味これは城だ。夏は塀を乗り越えて袋の鼠になった侵入者を見つけやすく、冬は木と紙でできた迷路に誘い込む。廊下だけを歩いて老人の書斎に辿り着くことはできないそうだ。間違いとは言えまい。
☆★☆★☆★☆★☆
「…そういえばエルフの方は、亡き神の御言葉をお話しになるのでしたね」
冷たい器を受け取り、一気に流し込む。
「神といっても様々だ。ほぼ全ての言語が神に由来するのではなかったか?」
「ええ。違うのはツォン語とハン語。同じく日常語のエレン語は、無暗に奇蹟を招かないよう神々より授かったものと言われています……」
その奇蹟を起こしてしまう言語を、アトルムや小人族は捨てていない。礎の女神アウラとの絆の証として、分不相応な何かを願ったりせぬよう慎重に言葉を選びながら使っている。ニンゲンの言霊使いが弄ぶのも、ニケア語やアトルム語と呼ばれる同じものだ。文字の種類が多く、読み書きまでとなると全く不自由のない者は限られる。
その点、法創術のエルフ語やニウェウス語などは一種類で大文字と小文字が二十六個ずつ。生き物としては近縁でも、全く違う系統の言語と言わざるを得ない。
「…『シィエンレン』とは不老不死の存在。無為自然を体得し、あるがままに生きることでヒト本来の力を手に入れた者達……」
よく考えると誰かさん達に似ていますね、とリンファが微笑む。
どちらの始祖も確かに元はニンゲンだ。しかし身体に全く手を加えず、いつの間にか神になっていたなどということがあるだろうか。ただ自然体を貫くだけで強くなれると思うほど、ウィルは信心深くも神秘主義者でもない。
無言で二人の話を聞いていたリーネが呟く。
「四柱神は、神になることを望まなかったと伝えられています。邪なる者の手に落ちて事情を知らぬまま罪を犯し、後悔してアウラの守護者を務めるようになったと」
アトルムの伝説も、そのことを否定しない。というよりさほど関心を払っていない。重要なのはアウラが運命の監視者の虜となっていること。ニンゲンの創術師がアウラに味方する魔神王から知識を授かり、進化の階梯を登ったことのみ。
(今の言葉。やはりニウェウスで間違いないようだな)
無理に話を合わせたりはしない。こちらの尻尾を摑ませないよう、これまで以上に上手く立ち回るだけである。
「身近な同胞を守れるなら、俺はそれで構わん」
反論されたにもかかわらず、リーネは何故か嬉しそうに苦笑した。
「リンファさんは、不老長寿に興味がおありなのですか?」
「わたくしが、というより旦那様です。このお庭の由来を説明しましたとおり、旦那様はシィェンレンに憧れていらっしゃいますので……」
「それで俺達を屋敷に招いたと?」
エルフの加護は出自の機微に触れる情報だ。おいそれと話すわけがない。
アトルムとニウェウスでは、厳密に言えば不老長寿の仕組みが違う。元の技術は同じだが、前者では採用されなかったもの。代表的な例は魔獣の不稔化だが、他の形質において無自覚な可能性はある。争いを避けるため、暗黙裡に触れないこととしているのだ。
「それより俺は、もっと現実的な話をしたい。先日アトルムの集落を冒険者が襲ったと聞く。あれはニンゲン社会の総意か?一部の暴走か?」
執政官は。評議会は。神社は。リウ達商人は。大多数の力なきヒトビトは。エルフ全体との関係を変更する動きはあるのか。
「聞かせてもらいたい。君達が我々エルフ族との……」
途中で気づいた。事はニンゲンとエルフに収まらないと。
「…他種族との間を、どうしたいと考えているのか」
リトラのニンゲン達は、大半が大陸南部から渡ってきた者達と聞く。その大陸南部では、形式的にせよ小人族も領内に含む国があった。獣人とニウェウスも自由に出歩く、ここと似たような雰囲気の土地だったらしい。『鮮血の魔王』を自称した最後の皇帝の代には、全ての神を否定するなどキナ臭くなり、誰も近づかなくなってしまったが。
そこから始まる戦乱を逃れた者達が、現在のウゥヌス・リトラを建設した。つまり最初から、ニンゲン以外の種族と共存する素地があったと言ってよい。
この国を支配するのは冒険者と商人。実利本位の彼らが、いつまでも無益な争いを続けるだろうかという期待はある。だが一方で、現実主義者は冷徹だ。このまま睨み合いが続けば、自らの戦力が上回ったとみるや殲滅戦を仕掛けてくるだろう。
「…ウィルさん。あなたは……」
族長の娘を名乗ったリーネも、関心がないはずはない。事がアトルムの殲滅だけで終わるのか。共通の敵を失えば、互いに配慮する必要はなくなる。出生率も含めた人口と経済力の差。もしも全てのニンゲンが、その気になったとしたら。
相手をヒトと思わず、名声のために狩りたてようとする目。勝手に襲って仲間を殺され、憎悪と復讐に滾る心をウィルは知っている。
「明日、ここを出る。その前に老人と話をさせてもらいたい」
近い将来、エルフ族は滅亡するかもしれないのだ。
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「お客人。知りたいことがあるそうじゃな」
「リンファに伝えたとおりだ。あなたの存念を聞かせてほしい」
庭へ出ると、老人は自らの理想とする風景に溶け込んだ。
まるで一枚の絵。リンファが語る仙人界とは、このような場所なのか。
「…千載一遇の機会を逃したのじゃよ」
「……………?」
「儂らツォン人は、太古の昔より不老不死を求めてまいった。ニケア人に巻き込まれ、この世界へ飛ばされる前からの」
あまりの唐突さに、ウィルはリウ老人が何を言っているのか分からない。
ニケア人は最大の人口を有する民族。旧世界の同盟相手エレン人を騎士階級として取り込み、今は複数の国に分かれたが同一の文化圏を形成している。
とりあえず彼らのことはよいと言ったものの、言わずにいられないあたり因縁があるようだ。そのことはウィル達エルフ族と何の関係もない。
「半年程前、ニウェウスの求めに応じて冒険者達が魔獣退治を行ったことは御存知かな」
答えるまでもない。老人の側も一応確認しただけ。ここウゥヌスにおいては、それほどの事件だったのだ。
ニウェウスはニンゲンが島に住むことを認め、ニンゲンは街へ出たニウェウスをニンゲンと同等に扱う。そして今回ニウェウスの側から助力を求め、ニンゲンがそれに応じた。今後も友好が深まってゆくのだろうと、誰しも信じて疑わなかったのに。
「冒険者達は死んだ。依頼は果たしたものの、何らかの不透明な事情が原因で」
「うむ。両者の関係を壊しかねなかった……だが儂にとって重要なのは、二人の男女が死んだことそのものなのじゃ」
私的な知り合いだったのか。どうもそうではないらしい。
「儂はこれまで、不老不死の秘密を得るためにエルフとの関係を重視してきた。シィエンレンではないと分かっておるが、藁にも縋る気持ちでな」
エルフは不老だが不死ではない。長寿と不死は似て非なるものだ。しかし目標には近づける。長寿を実現すれば、更に探求を続けてゆく時間の猶予が得られるのだから。
「だがニウェウス達は皆、口を揃えて言いおった。我々は神の似姿であり、最初からこうだったと。そのようなとき本物が現れたら、お前さんどうする?」
「それは……」
答えに窮した。そもそもウィルはシィエンレンが実在するとは思っていない。リウ自身が半信半疑なのに、どうするもないではないか。
老人は一息つくと、無念そうに呟いた。
「あれは噂だった。彼らのうち二人が『ドウシ』を名乗っていると。シィエンレンは古ニケア語で『センニン』、『ドウシ』はその弟子じゃ。道半ばとはいえ本物の教えを知っておる。奇蹟や言霊では説明のつかぬ不思議な力を使えたそうじゃからな」
しかし二人が死んだことで、再びシィエンレンへの道も閉ざされてしまった。不老不死へと至る道――それをツォン語では『タオ』と呼ぶ。
「…だからエルフとは争わないと?」
不老長寿の秘密を探るために。だが、それは既に一度失敗したのではなかったか。
老人は不敵ににやりと笑った。
「…エルフ族は二つ。儂は小人の商人とも縁があるでな……?」
「聞かなかったことにしておこう。俺がニウェウスなら不信の種になるのではないか?」
「正直、お前さんのことはよく分からぬ。ニウェウスのような、アトルムのような……真面目で残酷、無関心のくせ優しい」
リンファのことを言っているのだろう。老人が礼らしき言葉を口にしたのは、結局この一度きりだった。
「話の通じる相手と繋がって損はなかろう。相手がニウェウスでもアトルムでもな」
夕刻、ウィルとリーネは屋敷を離れる。
幾許かの謝礼と手土産を受け取り、庭の勝手口から通りへ出た。正式な招待客ではないゆえの配慮かもしれない。振り返って挨拶を交わす。
「それではリンファさん。またお会いしましょう」
「はい。今度はお買い物に付き合ってください」
「うふふ。楽しみですね?」
女同士、いつの間にか意気投合したらしい。互いの両手を握り、嬉しそうに笑いあっている。ウィルにとってはどうでもよいことだが。
「……自分は、関係ないって顔してますね」
「ああ。事実、無関係だからな」
挨拶もせず歩き出した。早く適当な宿泊先を見つけなければ。この島は小さく、地元の旅人はあまりいない。旅籠に泊まるのはドワーフの武装商人か貿易商に限られており、船が入港したときは空き部屋が少なくなるからだ。トレスやドゥオにいた頃は、寝床に困ることなどなかったのだが。間の悪いことに、外洋船が二隻入ってくるのを昼前に見た。
「……頼みたいことがある」
「はい。私にできることでしたら」
打てば響くように。黙って後ろをついてきたらしい。
「誤解を、正してもらいたいのだ」
☆★☆★☆★☆★☆
「いいの?帰してしまって」
揺れを感じて生首が呟く。
「不老不死の扉を開く鍵かもしれないのに」
現れたのは屋敷の主だった。声は届くが、まだ遠い。眷属の娘が尋問するときに使う色褪せた長椅子に座る。その脇に小さな土産をそっと置いた。
「お前さんのほうこそ只者ではあるまい?リンファが言っておったよ。十日も押し固められて死なずに済むヒトなどおらんとな」
猫耳――自称エミルは答えない。代わりに全く別のことを口走る。
「エルフと争わないっていうの、あれ嘘でしょう?」
杖を弄ぶ老人の手が止まった。土産を解き、包んでいた綺麗な布で赤い果実を磨きはじめる。とても落ち着いた緩やかな手つき。
「…どうして、そう思う?」
「勘よ。女の勘……というのは冗談。ドワーフの武装商人にクァトゥオル向けの物資を運ばせたのはあなたじゃないの」
冒険者協会を通じ、運輸業組合として引き受けた仕事だった。正規の会員を行かせるのは危険が伴うため、友好中立的かつ部外者の小人族に依頼したのである。戦争には協力しないと組合長権限で潰すこともできた。しかし……
「最近、縁遠くなったでな……ブラッドのごとき殺人狂は論外じゃが」
「…子供?大好きな女の子を苛める男の子みたいな?」
「そう取ってくれても構わんよ。独身の頃は、嫁さんの気を惹きたくて随分と揶揄ったもんじゃ」
争いを仕掛けるつもりはないが。
アトルムが素性を偽り、ニウェウスとしてニンゲン社会に溶け込む。何事もなかったように今までと同じ時間が流れてゆく……それは違うと思うのだ。
「経済とは常に新しい血を求める……あぁいや、誤解を生む表現じゃったかな。エルフという異物の混入が、我々人間社会にどのような変革をもたらすか。混沌の発生と収束……その過程にこそ商機はある」
「…マジもんの拝金主義者ね。ついていけないわ」
「誉め言葉と受け取っておこう」
老人は、手にした林檎にナイフを入れた。
☆★☆★☆★☆★☆
「……というわけでして。この方は、私の兄さんではありませんでした」
冒険者の店『不屈の闘志』亭本店。黄昏時、ヒトが最も多い頃を見計らってウィルとリーネの二人は食堂を兼ねた酒場にいる。
「根拠は」
「他に家族がいます」
今回、生じてしまった誤解は二つ。一つはリーネが行方を捜していた兄が見つかったというもの。もう一つはウィルがヒト違いで咎人扱いを受けたこと。
このウゥヌスにおいて、すなわちリーネの兄が罪人である。名前はネフラ、姿形がウィルと酷似しているらしい。
「本当を言うと、あの後ヒルダに確かめたんだ。ネフラに生き写しのエルフを見なかったか、『仕事』の結果どうだったか」
結果はシロ。詳しくは教えてくれなかったが、総合的に考えてあり得ないと。
現役最高の冒険者にして政庁評議員ヒルダの仕事。それはニンゲンの領域――リトラの街に足を踏み入れるエルフ族の調査。その中には調査対象がハーフ・アトルムという彼女の特殊な素性を知ったとき、どのような反応を見せるかも含まれる。
「妹の前で言うのも何だけどさ。とんでもない奴だったよ」
店の主アイナ=セラタが憤る。
「半年前、このリーネが村の代表として店に来たんだ。危険な魔獣が出たから、退治してほしいってね」
よくある話だ。依頼人がエルフという点を除いては。ニンゲンの村と違い、エルフの大人は全員戦士。問題が起きたからといって、余所者を頼る必要はない。
そこで派遣されたのが、当時最強とみられていた一組の冒険者。彼らは土地の者ではなく、未知の力を幾つか持っていたという。彼らはアトルムの存在自体を知らず、ゆえに憚りなく助けを借りて無事仕事を成し遂げた。
問題は、この後である。
野営を兼ねた勝利を祝う宴の席。リーネの兄ネフラは冒険者達を毒殺した。
泣きながら問い詰める妹に、兄は嘯いたそうだ。誇り高きエルフが劣等種族に救われた、そのような事実があってはならない、と……
それから少しして、ネフラの行方も分からなくなった。
幼馴染みと一緒に付近の森を哨戒中、訪ねてきた知人と話をすると言ったきり。
無愛想な男だったが、いつにも況して不機嫌に見えた。あるいはこのまま戻れなくなると、彼には分かっていたのかもしれない。
「冒険者は、仲間を裏切った奴を許さない。罠に嵌めた奴も許さない。それがたとえ依頼人や仲間の家族だったとしても」
ネフラに制裁を加えたのは、咄嗟に毒殺を免れたひとりと噂されている。本人は何も言わないが、昔のまま飄々としているのは為すべきことを終えたからだと。
『姿偸み』。トレスに来たばかりのウィル達を、冒険者の店へ案内した人物である。
「…あの男が……?」
「あたしらにネフラを殺すなと言ったのもあいつだよ。正直、何が何だか分からないね」
「……………」
仲間を五人殺された。しかも騙し討ちで。
相当な恨みがあるはずだ。それを殺すなとは理解に苦しむ。
(どういうことだ……?)
復讐鬼の気持ちなど本人しか分かるまい。沈思黙考するウィルの前に、巨大なエールのジョッキが音を立てて鎮座した。
「ま、辛気臭い話はここまでさね。今宵はあたし達の出会いの盃といこうじゃないか」
ニンゲン、ドワーフ、ホビット、獣人……そしてエルフ。見ればあらゆる種族の冒険者達が、それぞれの器を掲げて鶴の一声を待ち望んでいる。中には無理矢理ワイングラスを握らされた、既に赤い顔のリーネも。
「それじゃあ、いくよ。リトラ共和国と、あたし達冒険者の弥栄を願って!」
――乾杯!
祝福の歓声は、街道を越えて森の縁まで響き渡った。




