閑話休題6 ウィル=ライセンの彷徨(前篇)
エアがドゥオ・リトラのうどん屋で染みを作っている頃。相棒を馬に乗せて送り出したウィルは、ウゥヌス・リトラの街を散策していた。
百十一年前、大陸から渡ってきたニンゲンの冒険者が築いた街。建設には既に親しくなっていた小人の職人や獣人の労働者も協力したという。
それゆえ最初は魔に堕ちた原種が侵略してきたの、アトルムが同じ魔族を介してニンゲンを操っているのと謂れのない流言飛語が囁かれた。
何回かの戦争を経て、ニウェウスはニンゲンと暗黙の不干渉を結んだ。互いの領分を犯さず、今ある生活圏でそれぞれの暮らしを営もう、と。
先住者の彼らにとっては、多分に譲歩した内容である。しかし大陸からの援軍を仄めかされれば、やむを得ないと言えよう。
アトルムも同じことを望んだが、残念ながら叶わなかった。
魔獣の問題である。こればかりは概ね事実ゆえどうしようもない。馴染みのドワーフ商人が仲裁してなお、リトラの後継者達は未だ首を縦に振ろうとしない。
(だからこうして、我々のほうが誤魔化すことを覚えたわけだな)
店先の硝子窓に映った己の姿を確認する。病的なまでに色が薄く、原種のエレン人すら上回る白さ。連中の先祖が『雪のように白い』と名乗ったのも頷ける。
膚や髪、瞳の色以外に両者が大きく違うこと。ニウェウスは空間と法則を司る法術を、アトルムは時間と物質を司る創術を得意とする。この創術で身体の色を一時的に変え、ウィルとエアはニンゲン社会に潜り込んでいる。先日行われたライセン襲撃事件の背後関係、もしいるのなら黒幕を突き止めるためだ。
街へ出て数日経ったが、調査はほとんど進んでいない。ニンゲンの隊商を襲っていたアトルムはニウェウスの擬装であり、アトルムの印象を悪くしようと暗躍する者達のいることが分かったくらい。
偶然知り合ったルースア神職との繋がりを活かし、幾つかの仕事を経て冒険者の店から信用を得た。こちらも偶然だったが、神職の少女クララは襲撃に参加した者のひとり。間接的に殺されかけたエアは複雑かと思いきや、意外なほど馴染んでいる。演技などはできない子だから、ウィル同様なるべく忘れるように努めているのだろうか。
恋愛に偏った思考などの問題はあれ、クララは仕事仲間として優秀だった。
思わぬ収入を得て、今は懐も潤っている。ようやく先のことを考える余裕ができ、いよいよ本格的に調査を始めるところ、だったのだが……
(ひとりがこれほど気楽なものとは思わなかった)
エアの監督から解放されて。常時ニウェウスのふりさえしていれば、エルフと関わらないようにすれば気兼ねなく過ごせる。
ウィルの意識の中に、ひとりで過ごした記憶はない。あるとすれば、エアに拾われてからライセンの会合が彼を受け容れる決定をするまでの数日間だ。
その日の晩、ウィルはウィルの名前を貰う。どこの誰か分からない自分は過去へと去り、新しい自分が生を享けた瞬間だった。
(そういえば、この名をつけてくれたのもエアだったな。危うく犬か猫みたいなのをつけられるところだったが……)
恩知らずな思考を巡らせていたことに苦笑する。エアが助けてくれなければ死んでいたというのに。もしバレたら三日間食事抜きの刑だろう。
☆★☆★☆★☆★☆
しばらく考えなしに歩いてみる。ウゥヌスの動向を探るといっても、余所者のウィルにはどこから手をつけてよいか分からないのが実情だ。
とりあえず中央広場へ向かうと、大きな銅像が目を引く。台座に刻まれた碑文を追えば、非凡な男の半生と業績の一端を知ることができる。
英雄レオンハルト=リトラ。戦乱により居場所を失った人々を引き連れ、この島に移住した大陸出身の騎士である。
僅か百年前のことながら、彼の生涯は謎が多い。
騎士だったことは分かっているが、領地や所属はどこなのか。いかなる経緯で主君の元を離れたのか。貴族か平民か。家族や仲間はいなかったのか。最強と謳われた剣の腕は、どのようにして身につけたものなのか。
英雄は何も語らないまま死んだ。ようやく港らしいものができた頃――まだ四十にも届いていなかったろう。島を襲った海賊団の全滅と命を引き換えにして。
これでお終いと思われた。何もかも消えてなくなると。だがしばらくして、彼の後を引き継ぐ者達が現れた。新天地を拓くという理想に賛同して集まった冒険者達。最初から同行していた者、噂を聞きつけて後から渡ってきた者。商機を嗅ぎつけて投資する者、神の教えを説いて人々の救いたらんとする者。
リトラの後に続く者達は、不安を抱えながらも大きな希望に満ちていた。それがこの国の、一番最後に現れた侵略者達の歴史である。
(追い詰められたのはアトルムだ。ニウェウスとニンゲン、二つの勢力に睨まれてしまっている。連中が敵と見做すのはアトルムだけ……)
英雄の銅像は、ウィルに何の感慨も与えなかった。アトルムの祖が成し遂げた比類なき偉業のせいかもしれない。その結果が妬みと恐怖による迫害だとしても。
ニンゲン達はどのような反応を見せるだろう――アトルムが彼らのよき隣人として暮らしていることを知ったら。錆びついた銅像を見上げ、中央広場を後にした。
☆★☆★☆★☆★☆
結局、冒険者の店へ来ることになる。
名はどの街でも同じ『不屈の闘志』亭。首都ウゥヌスを本店として、港湾都市ドゥオと交易都市トレスに支店を置いている。
とはいえ歴史は意外と浅く、本店ができたのもトレスの開発が始まってからだ。人口増加により法では裁きにくい揉めごとが起き、また冒険者の質を担保する必要が生じたからこその自発的な措置。それまで開拓団の防人だった戦士達は、新たに組織された衛視隊と冒険者協会のどちらかを選んで所属することになった。
リトラではそれゆえ衛視と冒険者の境が曖昧であり、冒険者稼業を給金の足しにする半人前の衛視も少なくない。
冒険者協会の本部も兼ねる本店は、ウゥヌス市街の外れに建っている。衛視隊との棲み分けが行われたとき、あまり近くてはお互いやりにくかろうと決めたことだ。
他にも合理的な理由はあって、たとえば海や異種族からの侵攻に対する防備。衛視は街中の治安維持に特化しているが、冒険者の本領は野戦。奇襲に目を光らせるなら、すぐ外へ出られるほうが何かと都合がよい。
店の場所は、仕事で来ることがあるかもしれないからと三号店の主に聞いていた。迷うことなく見つかる。ニンゲンの街にも大分慣れてきたと思う。
まずは腹拵えだ。扉を押して中に入る。何か食事を――と言いかけて、店内の異様な雰囲気を感じて呑み込む。
全員が敵意を持ってウィルを見ていた。
そこに奥からひとり女が現れる。
鍛えているが、冒険者としては普通だ。知性、容姿、金、人柄――他人を従わせることのできる力はひとつではない。
ゆっくり歩いてくると、女はウィルの顔を見上げた。声は抑制されており、それでも隠しきれない感情の激しさが伺える。
「よくこの店に顔を出したもんだね?」
「何……?」
御挨拶である。そもそもこの女とウィルは初対面だ。他の店でも悪評が流れるような真似はしなかったはず。何故ここまで嫌われなければならないのか理解できない。
「あいつが頼むから、あんたは殺さない。でもね、ここの連中は赦しちゃいないんだよ。我慢してる今のうちにとっとと消えな」
呆気にとられてしまう。
考えられるとすれば、記憶を失う前の自分だ。詳しく話を聞きたいところだが、とてもできそうな雰囲気ではない。ひとまず争いは避けなければ。
「……悪かった。邪魔をした」
振り返る刹那、視界の端に女の顔を捉えた。厳しい表情が一瞬、当惑と怪訝に彩られたような気がしたのだ。
いずれにせよ、誰かと間違えられている。そういえば前にも似たようなことがあった。クァトゥオルの廃墟を調べたとき、襲いかかってきたアトルムの女。
「どういうことだ……?」
ラダラムは二十年前の生き残りと言っていた。ニウェウスとの間で大きな戦があり、そのとき滅ぼされた集落セシルの一員。
あの女はウィルをニウェウスと誤解して襲ってきた。エアがいなければ、どちらかが死ぬまで戦っただろう。しかし彼がアトルムであることは、若長バルザが創術を用いて間違いないと確認している。
そしてもう一人。アトルムに化けて暗殺を請け負い、ウィルとエアの護衛対象を襲ったニウェウスの男。情報収集のため生かしておいたが、どういうわけか最初からウィルに友好的だった。まるで敵地へ潜入した仲間に対するがごとく。
気分が悪くなってくる。それぞれの話が矛盾しているのだ。真実が隠れているとして、どの情報が誤っているのか。意図的に嘘をついている者さえいるかもしれない。
(…今度会ったら、詳しく聞き出さないとな)
雑多な往来にひとり、溜息が零れる。
☆★☆★☆★☆★☆
ウィルが冒険者の店を出た後、入れ違いに訪ねる客があった。
ニウェウスの娘である。名をリーネという。
誰も目を合わせようとしない。まるで通夜のように黙って酒杯を傾けている。陽気なここの連中にしては珍しいことだ。
「今日は静かですね。どうかされたんですか?」
誰となく訊いてみるが、反応はない。不機嫌そうに黙り込んでいるか、困ったような笑みを浮かべているかのどちらかである。
店の主アイナ=セラタに助けを求めた。いつも豪快に笑う彼女の様子が一番おかしい。難しい顔をして俯くばかり。
エルフを避けているとか、リーネ個人が疎まれている事実はない。種族を問わず男も女も、愛され過ぎて困るというのがリーネの実感。街へ来るようになって半年経つのに、未だ初々しさが抜けない彼女の世話を何くれと焼く。にもかかわらず今の状況はどうだ。店の主人と冒険者達は、明らかに何かを隠している。
「ハルトさん。何かあったんですね。教えてください」
「…いや。その、な……」
いつもリーネの頭を撫でようとしてはアイナに叱られている戦士だ。大雑把だが面倒見はよく、若者を子供扱いするのが玉に瑕。沈黙に耐えかねて口を開く。
「…お前さんの兄貴が戻ってきたんだ。大分雰囲気は変わっていたが……」
息を呑んだ次の瞬間には店を飛び出していった。
何人か腰を浮かせて心配そうに腕を伸ばすが、もう遅い。リーネの姿は往来のヒト混みに紛れて見えなくなった。
いつもと変わらない『不屈の闘志』亭が戻ってくる。
「余計なこと言うんじゃないよ」
主の女が男を小突く。
「あの子だって、やっと呪縛から逃れたのにさ……」
アイナの声は、どこか優しくも悲しげだった。
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本腰を入れて情報収集に取りかかる。
まずは噂。冒険者あがりの実力者は四人。
『氷』の異名を持つ執政官のエリク。『混沌』の依代ヒルダ。『生殖者』の聖職者レオリオ。トレス・リトラ開発を主導した真言法師ジーナ。しかし、この線は諦めたほうがよいかもしれない。
『不屈の闘志』亭本店の一幕である。頼まれたから殺さないとは、さすがに穏やかではない。あの様子では話を聞くのも無理。あれだけ嫌われておきながら、二号店や三号店には『過去の自分』の悪評が届いていなかった。そちらのほうが意外なほど。
視点を変えようと、街の隅々まで歩いてみる。今の目的は、ニンゲンの指導者達がどちらへ向かおうとしているのか探ること。
様々な職能の者が集まり、分業して必要なものやことを賄うのがニンゲン。戦士だけの考えで動くものではない。それぞれ言い分があり、概ね平等なエルフとは必然挙動が違ってくる。表向きの長は冒険者でも、実権は他の誰かに握られているかもしれない。
具体的には実業家だ。手広く商い、この島の通貨の流れを操っている何者か。
繁華街へ足を運ぶ。客の多い店は流行っているのだろうが、儲かっているかというと必ずしもそうではない。街へ来て日も浅いが、それくらいは分かるようになった。ドワーフの行商人ラダラムと飲み明かしたお蔭である。本当に儲かっているのは、他人の商いがどう転んでも自分は影響を受けない仕組みを持っている者。
たとえば農民は作物が穫れなければ飢えるが、八百屋は他の者から高く仕入れて高く売れば問題ない。仕入れたものを運ぶ御者は、野菜の積荷が少なくなっても代わりの商品や旅人を載せれば同じだけ利益が上がる。そのように運賃を設定するのだ。
つまりニンゲンの実業界において、力を持っているのはそのような商いを営む者と推察される。重要に見えても、生産者は権力者たり得ない。完全な自給自足かつ生産手段を独占しない限り。エルフの常識を忘れておく必要がある。
リトラ最大の流通業者、タオ商会。冒険者あがりの御者を多数擁し、内外に隠然とした影響力を持つ。店は簡単に見つかったが、伝手もなく入り込める場所ではない。
(…アユミの祖父母に会っておくべきだったな)
タオ商会の主とは、三十年来の付き合いだという。
今からトレスに戻って紹介状を貰うか?だが何と事情を説明すれば?
いっそ忍び込む?会合の場に潜み、盗み聞きするしかないのではと思う。
(まさかな。そんなことをすれば発覚したとき言い逃れのしようがない)
商会主リウ=ズーシュエンの邸宅は、大路に面した本店の後ろにあった。
裏手に回り、広大な屋敷の正門前を通る。油断ならない目つきをした屈強な護衛達がこれ見よがしに立つ。不埒者がおかしな気を起こさないよう、警告を発しているのだ。未然に防ぐためと考えるなら周囲への気遣いと受け取れなくもない。
無関心を装って通る。途中エルフの男と擦れ違ったが、明らかに顔を背けていた。あれでは疑えと言うようなもの。アトルムの正体がバレバレである。
(不器用な奴がいるものだ。エアだってもう少し上手くやれるのに)
依頼主への報告があるゆえ先に帰した相棒は、足を挫いていた。今頃は傷の手当てを済ませ、痛みに呻きながらそれでも食事を頬張っているだろうか。食い意地が張っていれば怪我の治りは早い。その意味では、あまり心配していなかった。
役目から解放されたはずが、まだエアのことを考えている。戸惑い半分、自分もそろそろ食事にするべく、どこがよいかと思案する。そういえば表通りにこぢんまりとした寛げそうな店があったなと、閑静な住宅街の角を曲がろうとしたとき。
「……ですから、あなたとはもう関係ないと」
押し殺した女の声が流れてくる。
怪訝に思い、足を止めた。しかし、まだ振り返らない。自分こそ無関係であり、積極的に関わる必要がないからだ。
「そう言うなよ。見たところ独りじゃないか。本当はそろそろ寂しくなってきたんだろ?」
「…っ!?そんなことありません……!」
揉み合うような気配が伝わってくる。これは只事ではない。
「男がいると安心って言ったのは君だよ?また面倒みてあげるからさ」
「……それくらいにしておくのだな!」
結構な距離があった。争う男女はリウ邸の前、そこからウィルは二軒ほど離れている。ゆえにらしくないが、やや大声を出す羽目になってしまう。
そのことが男を刺激した。
身形はよい、しかし卑俗な雰囲気が染みついている。肩を怒らせてウィルに詰め寄り、脂臭い煙の混じった不快な息を吐きかけてくる。
「…何か言ったかい。エルフのヒト」
酔ってはいないが淀んだ目。里を出たことのないエルフが想像する、無知で愚かなニンゲンの典型と言ってよい。
正直、反吐が出る。関わらなければよかったと、心の底から思う。
だが途中でやめるのも癪だ。元より不粋な真似をした下等生物が悪い。
「ああ。本当に面倒なのだがな……やめろと言った。嫌われていることくらい分かるだろう。無駄な努力はせぬほうがいい」
「…嫌われている?無駄……?」
ニンゲンの男は愉快そうに呟く。
「…こいつはいい。君の目には、僕が彼女に愛されようと必死で頑張っているように見えたのかね?」
女は辛そうに目を背けるだけ。では先ほどの言い寄る言葉は何だったのか。強引に縁りを戻そうとしていたのではなかったのか。
「っくっく……まあいいや。今日はこれで退いてやるさ……いずれ僕には逆らえないんだ。そのことを忘れるなよ」
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勝手に嘯くと、ニンゲンの男は去っていった。
ウィルとしては、元々分からない話が更に分からなくなっただけだ。これ以上、関わる必要はない。
無言で歩き出した腕を、ニンゲンの女が慌てて摑む。
「…あ、あのっ。お礼を」
「不要だ」
軽く振り払おうとするも、意外に力が強い。
「……離せ」
「で、ですからお礼を……」
「要らないと言っている」
「………っ」
涙目の上目遣い。これで落とされる者もいるのだろう。しかし異種族のエルフ、況してニンゲンが弾圧するアトルム相手に効くものではない。
「…迷惑だ」
もう一度強く振り払うと、女の手は離れた。それからさっさと背中を向けて歩き出す。予定どおり、表のカフェで軽食を取ろうと。
曲がり角へ戻ってきて、足音が増えていることに気づく。
「……何故ついてくる」
目は口ほどにものを言う。何も喋らなかったが、考えていることは読めた。聞こえよがしに溜息をつく。
「…分かった。好きにするがいい。だが店は決めさせてもらうぞ」
三歩後ろをついてくる。どうでもよいゆえ、顧みて確かめることはしない。
店へ入り、カウンター席に着こうか迷ってやめる。礼を受けることにした以上、さすがに意地悪が過ぎるだろう。窓際に設えられた二人掛けのテーブルに決めた。
壁に張り出された献立を眺める。『不屈の闘志』亭以外で食事を摂ったことのないウィルには、ほとんど聞き慣れない単語ばかり。
「……俺は、こういう店の勝手が分からん。適当に選んでくれ」
海藻のサラダと芋のスープ、ハムエッグにトースト。リトラ島では少数派のエレン人が持ち込んだ料理。一方アトルムの食事は、ほとんどが肉か魚と野菜を煮込んだもの。それに生の林檎を添える。同じ大陸発祥でもニケア人の文化に近い。
「申し遅れました。わたくしはシュウ=リンファと申します」
最近はウィルも、名前で相手の属する民族が分かるようになってきた。
恐らくツォン人だろう。オオハラ商店のショウゴ、ユカリ夫妻と娘のアユミはニケア人。エアが仲間にと連れてきたクララは名前こそエレン風、しかし膚の色や顔の造形を見ると混血に違いない。エレン人とニケア人は、大陸の北部で同じ国を築いている。
ちなみにツォン人の料理は油をよく使う。物珍しさも手伝ってエアは喜んだが、正直ウィルの口には合わなかった。
「どうぞお召し上がりください。先程も申し上げましたが、お礼のつもりです。それと、あの……」
「何だ」
トーストを摑み、千切って口に入れる。まあ、悪くない。微かに麦の甘味があり、獣の乳から作った油で下味をつけているか。これだけでは素っ気ないゆえ、塩を振って卵と肉の薄切りを焼く。芋のスープは慣れた味、サラダは……正直よく分からない。
「…あなたの、お名前を」
言われてみれば、まだ名乗っていなかった。面倒に思うあまり、無意識に避けていたのかもしれない。ウィルだ、とだけ自己紹介する。
しばらくの間、二人は黙々と食事をした。
特別腹が空いていたのではない。ウィルのほうには話すことがなく、リンファは時折何か言いたそうにするが結局やめてしまう。
そうしているうちに、食後のデザートが運ばれてきた。さすがに林檎ではない。翠色の葡萄マスカット――ニウェウス達が好み、種族の象徴として大切にしている果物だ。アトルムにとっての林檎と言えば解りやすいかもしれない。
やはり拒否感はある。さりとて断るわけにもゆかなかった。大多数のニンゲンにとって、街で暮らすエルフとはニウェウス。一部のヒトビトにとっては公然の秘密だが、よもやアトルムが入り込んでいるなどと。いずれにせよ、ここは平然を装うべき。顔に出したり、下手な演技をしてはならない。
一粒取り、さも平然と口に含む。
(……これは)
酸味のない甘さ。林檎とは違って果肉も柔らかい。皮も食べられないことはないが、捨てるのが普通だという。いや……そのようなことより。
何故、違和感がないのか。初めて食べる敵の味――口に合ったのだろうが複雑だ。林檎は酸っぱいと感じたはず。物が小さかったにせよ、それにしても。
難なく一皿を食べ終える、思わぬ現実を消化しきれない。これは真剣に向き合うべきことなのか。軽く流してしまってよい話なのか……
「…お気に召しませんでしたか?エルフの方なら」
「いや。それより用があるのではないか。礼のためだけにしては強引過ぎる」
驚いたふうもなく、項垂れて再び上目遣いに見つめてくる。この姿勢がウィルは嫌いだ。情けないというか、どうにも卑屈な感じがする。
「あの男のことだな。あれをどうにかしてほしいと」
「………はい」
口火を切ってしまった。己が堪え性のなさに苛立ちが募る。
リンファの父親が、あの男に借金をしていた。それを盾にいろいろ求めてくるのだが、そのこと自体は別に違法ではない。従わなければよいだけだからだ。
一番の問題は、何をされても黙っている彼女の性格。つまり舐められているのだ。ほどほどのところでやめておけば、事を荒立てたりしないだろうと。
「ならば冒険者の店を紹介しよう。本店の主は女性らしい。その手の話も」
駄目である。先程追い払われたばかりではないか。この街の冒険者達は、どういうわけかウィル――過去の誰かによく似た彼を苦々しく思っている。
申し訳ないが、これ以上付き合っている暇はない。
「あ、あのっ」
立ち上がりかけたウィルを、慌ててリンファが止める。
「何だ?」
「ええと……その」
言いにくそうに視線を逸らす。
「言いたいことがあるなら、はっきり言ってくれ」
エアのおヒト好しが感染ったか。あのとき限りのつもりで助けたのに。そのうえ冒険者の店まで案内しようなどと。だが女の言葉は、ウィルの想像を遥かに超えていた。
「…あなたが、助けてはくれないのでしょうか?」
絶句する。今、彼女は何と言った?
助けてくれないのか、だと?通りすがりに一度小悪党を追い払っただけで、何故こうも図々しい頼みごとができる?
正式に依頼したいと言うならよいだろう。受けるかどうかは別として。いずれにせよ冒険者の店は通すべき。闇で――この表現も何やら癪だが――仕事を請け負って目をつけられるのは、絶対に避けねばならないこと。
「…店に顔を出せない事情がある」
「お礼なら十分にします。ですから……!」
また上目遣い。しばらくじっとウィルを見つめた後、お願いしますと勢いよく頭を下げた。これも想像の埒外であり唖然とする。
金は払う、だから危険な橋を渡れと。このような話、下心がある男でも聞くかどうか。あまりにも虫がよすぎるというもの。
気がつくと、冷たい声が滲んでいた。
「…君は自分の運命を、見ず知らずの他人に開かせるのか」
息を呑み、悲痛に歪めた顔を上げる。
「そんな……わたくしはただ」
「では、どういうつもりなのだ?都合よく利用するのではないと説明できるのか」
「……っ!」
すぐ他者を頼ろうとするニンゲンへの微かな苛立ち。
どこからともなく湧いてきた。この感情は初めてではない。
「……話にならないな」
いつどこで経験したか。恐らく過去の自分に繋がっている。その意味では助けた甲斐があったかもしれない。記憶を取り戻す足掛かりとなる、不快に満ちた何か。
百イェン金貨を置き、おもむろに立ちあがる。思わぬ出費だが仕方ない。この卑賤な空気に、これ以上耐えられそうもなかった。
「失礼する。今後はもっと気を――」
「兄さんっ!」
――つけるのだな。苦々しい言葉は、草色の瞳に呑まれて消えた。
「…やっと……やっと、見つけました……っ!」
☆★☆★☆★☆★☆
「……兄さん、ですよね!?私です、リーネ……『日の眠る里』サラサ、族長ナスカが第二子。あなたは第一子で私の兄の……!」
「悪いがヒト違いだ。俺は君と会ったこともない」
本当にそうか。自信の持てないところはある。現にエアと話しているとき、昔同じことがあったような錯覚を何度かした。
よくよく相手を観察する。肩で息をしながら両膝に手を突き、それでも決して逃がすまいとウィルを見つめる少女――いや女か。雰囲気が頼りないだけで、エアより五つは歳上だろう。今は興奮しているが、普段はこう……優柔不断な感じではないか。
(……あのときと同じだ)
バルザに頼まれ、一人でニウェウスとの緩衝帯へ出かけるエアを尾行したときのこと。途中でバレかけて焦ったが、今それは関係ない。父親の気持ちと兄の気持ち――二つの想いを秤にかけ、前者に従いつつも、より後者に共感を覚えた気がする。
だが彼女は絶対に違う。ウィルの妹ではあり得ない。『日の眠る里』サラサが族長の娘――紛れもないニウェウスと、自分で名乗りを上げたのだから。
「まさか……記憶が?」
よろり、と一歩後ろに下がる。
確かにそうだ。そのとおりなのだが、ここで退くと面倒なことになるかもしれない。
「家族もいるぞ。跳ねっかえりの妹が一人と、心配性の兄が二人。親は……既に亡くなって久しいがな」
概ねエアの家庭の事情に、三男として自分を嵌め込んだ。事実そのような暮らしをしていたのだから違和感はない。何を訊かれてもそれらしく答えられるだろう。
「そう……ですか」
石の床にへたり込む。まだ呆けているが、大分落ち着いてきたようだ。一方的に捲し立てるのではなく、ウィルの話を聞こうとしている。
「……兄としか思えません。本当に兄さんではないのですか?」
「ああ。俺は君の兄ではない」
視線を合わせて強く言い切った。
突然の来訪者にリンファは戸惑いを隠せない。
「…あの、こちらの方は……?」
「……申し遅れました。『日の眠る里』サラサが族長ナスカの娘リーネです。どうぞお見知りおきください」
淀みなく述べた、そのことに憮然とする。
余計な詮索を避けるため、普通エルフは故郷や出自に触れない。思わず失念するほど慌てていたと想像はつくが。
ウィルがアトルムである可能性に気づいたのだろう、一瞬怯えた顔を見せる。しかし争うつもりはないのか、胸に手を当てて深呼吸をした。
「……し、失礼しました。私てっきり兄さんだとばかり……」
「構わんさ。少しばかり驚いたがな」
注目していた客の視線が解散する。どうやら何事もなく収まったと、退屈と安堵が半分ずつ。ニンゲンのこういうところは好きになれない。
リンファが笑顔で頷きかけてくる。一度見捨てたにもかかわらず、リーネを交えて食事を再開することに異議はないようだ。感謝と幾許かの謝罪を込めて目礼する。
「ウィルだ。これも何かの縁だろう」
「あ、ありがとうございます……?」
ウィルも訊きたいことがある。冒険者の店から追い出される原因となった男、それが恐らくリーネの兄だ。今後のことを考えれば、別人と証明しておいたほうがよい。
「それで……ウィルさん。こちらの方は」
会釈して席に着くと、どこか同じ匂いのするニンゲン女性へ視線を送った。異種族ながら同性の気安さか、ウィルのときより滑らかに自己紹介する。そういえばエアとクララも、いつの間にか打ち解けていた。男の彼が呆れてしまうほど。
「シュウ=リンファと申します。ウィルさんには、わたくしが抱える問題の相談に乗っていただいていおりまして……」
「えっ……!?」
思わず腰を浮かせた。そこで驚かれるとウィルも戸惑う。
一瞬遅れて、己が失態を理解する。
「…あっ!?いいえ!そういうことではなくて!」
「ああ……」
別段気にしなかったのだが、こういう場合の生返事は更なる憶測を呼ぶ。
「違っ。えと、その」
「何か頼んだらどうだ?店の者がこちらを見ているぞ」
「~~~~~っ!」
睨まれているわけではない。ウィルが『不屈の闘志』亭本店に足を踏み入れたときのほうが、遥かに殺気立っていた。それでも迷惑な客くらいには思われていよう。
「…食後の飲み物を、お願いします……」
このときのリンファは実に頼もしかった。
☆★☆★☆★☆★☆
湯気を立てる黒い飲み物が運ばれてきた。
コーヒーというらしい。話は仕切り直しである。
「すみませんでした……」
何となくだが、リーネという女のことが分かった気がする。
事情を搔い摘んで説明した。リンファが亡き父の借金を盾に絡まれていること、依頼を受けるなら無料でモグリとはゆかないこと、理由あって冒険者の店に仲介を頼めないこと。最後のひとつを聞いたとき、何故かリーネは困ったように微笑んだ。
「…私も、お手伝いいたしますね?」
「いいのか?店との仲介まで頼むことになるが」
「構いません。困ったときはお互い様です」
「……助かる。正直、色恋沙汰には疎くてな」
「わ、私も詳しいわけではありませんけれど……まずリンファさん。あなたのことを教えてくださいませんか?」
最初は不審なほど怯えて見えたが、その印象はリンファと向き合った途端に消えてなくなる。巧みに緊張を和らげ、必要な情報を聞き出してゆく。ウィルにはできない芸当だ。ここまで違いを見せつけられたら、お粗末だったと認めざるを得ない。
単純に男を殴れば済む話と思っていた。しかし相手が痛みを恐れなければ、この方法は効かない。何度でも同じことが起こるだろう。ずっと傍にいてやることはできないからだ。
三十分かけてリーネがリンファから聞き出した情報は次のとおり。
リトラ随一の流通業者タオ商会、その当主リウ=ズーシュエンに仕えて八年になる。
十五歳で奉公に上がり、現在までずっと。商会の仕事ではなく、屋敷の中で身の回りのことを任されていた。所謂メイドとか小間使いの類である。
タオ商会の創始者ともなれば、その財産を狙う者は多い。にもかかわらず自分に降りかかる火の粉すら払えない使用人とは。少しどころか大いに不自然だ。もしここにクララがいれば別の職業を疑うところ。
「……わたくしがズーシュエン様の遠縁に当たる者だからです。愚図で気弱なお前は、どこへ行っても働き口などないだろう、嫁入りが決まるまではうちで働きなさいと仰ってくださいまして」
「なるほどな。愚図で気弱か」
「…そこを納得されましても……」
「話が逸れたな。しかし俄然興味が湧いてきた。正確に言えば、君の主なる人物のほうにだが」
よもやタオ商会の当主に繋がりがあるとは。リンファの素性を聞き出してくれたリーネには感謝せねばなるまい。
「これは取引だ。我々は君の問題を解決する。その代わり君は主人に我々を紹介する。君の主を含む商人達が、異種族との関わりをどう考えているのか訊きたい」
リンファは迷っている。恩義と我が身の安全を天秤にかけているのだろう。
「…旦那様が、お困りになるようなことはできません。わたくしが話したことも、旦那様がそのような考えをお持ちであることも言わないでください」
得た情報を使うのは、森の中に限ること。傍観者に徹し、ニンゲン社会には影響を与えない。それがリンファの出した条件だった。
「私は構いませんけれど……ウィルさんもよろしいですか?」
「ああ。だが防備を固めるくらいのことはするぞ?攻められると知っていて自分の身を守らないなどあり得ないからな」
ドワーフ族を介して戦をやめるよう働きかけたりするかもしれない。もっとも口下手な種族ゆえ、過度の期待は禁物だが。
「…よかったです。ほっとしたら、お腹が空いてきました」
儚く微笑むリーネ。しかし改めて考えると、彼女がこの件に関わる利点というか動機が見えない。突然現れて兄呼ばわり、手伝いを申し出る。さすがに不自然だ。
(…何者だ?嘘をついているとは思えんが……)
横目で様子を窺うと、真剣な顔で絵入りの冊子と睨み合っている。
チョコレートケーキとアイスクリームパフェ、抹茶プリンを追加注文。これ全部一人で食べるのか――甘いものは別腹というが、恐るべき健啖ぶり。
この程度の不摂生なら、エルフの健康に支障はない。そのように設計されたからであり、また森の住人は街へ出てからもよく動く。
二人が唖然と見つめる中、リーネは甘味の山を征服した。
満足そうに口元を拭い、それから真っ赤になる。透き通るような雪色の膚は、体内の様々な変化を包み隠さず見せてしまう。
「…す、すみません。私だけ勝手に」
「まったくだな。突然話に加わったかと思えば、いきなりの大食いだ」
今度は蒼くなった。恥じるというより恐縮している。上目遣いでウィルの顔色を窺う。口ほど機嫌は悪くないと感じて、そっと溜息をつく。
しっかりしているようで間が抜けている。間が抜けているようでしっかりしている。素直なエアや疑り深いウィルより敵地への潜入に向いているかもしれない。素でやっているのか、それとも演技なのか……何にせよ今日は、つくづく上目遣いに縁のある日だ。
利用できるものは利用しておく。だがエアとは違う意味で苦労させられそうだと、こちらは大きな溜息をついた。案の定、心の中で考えた傍から。
「これも試してみていいですか?今度は兄さん達も一緒に」
「だから、俺は君の兄ではないと言っている……」
☆★☆★☆★☆★☆
リンファの案内で男の住処へ。そこそこの集合住宅に住んでいるらしい。
「…ここです。わたくしは旦那様のお屋敷に部屋をいただいておりますから、住んでいたことはないのですが……」
父親が借金を残して死んだとき、返済を待ってくれたうえ甘い言葉をかけられ、ふらふらついていってしまったという。やがて似たような女達も出入りしていることに気づき、縁を切りたいと願うようになった。今にして思えば、自分の家を持たないのは、こうして力押しに訴えられたらいつでも逃げられるようにと考えてのことかもしれない。
「それならそれでいいのでは……?」
「借金が消えたわけではない。島を出るのならともかく、またいつ戻ってくるか分からんだろう」
実を言うと、返済の目途は立ったという。だが金を渡したとして、男が素直に証文を返してくれるか分からない。ゆえにまだ金ができたことを伝えていない。そこに未だ自分が優位な立場にあると誤解しての先程の狼藉。ここは信頼できる人物に立ち合いを頼み、一日も早く関わりを断ちたいと考えたのである。
「そういうことか……なら、初めからそう言え」
さも無償の善意を期待するような言葉を使うから。その程度のことであれば、冒険者の店を介するまでもない。仕事といっても立っているだけだ。一度助けた手前、金など貰わなくとも最後まで付き合うのは吝かではない。
「セドリックさん?お話ししたいことがあるのですけれど、いらっしゃいませんか?」
昨日の今日というか今しがたのことであり、リンファやウィルは警戒されているゆえリーネが呼び出しをかけた。知らない女の声なら、女衒紛いの下種な男はほいほい出てくるだろう。そこで一気に取り押さえるという算段だ。
然程待たせず、だが疑わせる程度には時間を置いて男が出てきた。女達に恨まれている自覚があるのだろう。笑顔は硬くぎこちない。そしてリーネの後ろにウィルとリンファの姿を見止めて発した言葉がこれである。
「…あっ!?」
慌てて閉めようとする扉と壁の間にリーネが爪先を突っ込む。
「っ!?…痛いです、兄さん……」
涙目で振り返るリーネ。すぐ閉められる恐れがあるからと教えたのは確かにウィルだが、もう少し上手くやれるものと思っていた。本当に爪先だけを挟んだら痛いに決まっている。小指を家具や建物の壁にぶつけたみたいに。もう四分の一歩踏み込み、土踏まずのあたりを扉にぶつけられたら痛くなかったのだ。むしろ、よくここまで器用に爪先だけを突っ込んだものだと感心する。
「…兄さんに、やれって言われましたから……っ」
「とりあえず開けるぞ。いいというまで足を抜くなよ」
兄ではないと指摘するのも疲れた。何か経緯があるのかもしれないが、今は後回しだ。
「は、早く助けてくださいね……」
上目遣いに振り向く娘を間に挟み、男達の力比べが始まった。
「……う、おぉおお……!」
「い、痛い!痛いです痛い」
「あと少しだ、我慢しろ……諦めが悪いぞ、せめて最期くらい立派に」
「そんなもののために死ねるかよ!?」
一部の例外を除き、個人の能力においてエルフがニンゲンに劣る部分などない。結果は見えているのだが、このときのセドリックは鬼気迫るものがあった。命が懸かっていれば本来以上の力が出せると。まさしくその典型である。
「リンファ。何でもいい、こいつの力を鈍らせてくれ」
「え?あ、は、はい」
隙間に手を差し込み、男の肘の内側を擽った。激しくはせず、表面を指先で撫でるようにゆっくりと。あれは見ているほうもむず痒くなる。
「ぐぁ……は!や、めっ」
堪らずセドリックが手を離した。ウィルが踏み込み、リーネの身体も突き飛ばされて中に入る。体勢を崩したリーネに寄りかかられ、修羅場にもかかわらずセドリックの顔が僅かににやけた。リンファの眉間に皺が刻まれたのは気のせいだろうか。
リーネはすぐ身体を離してウィルに寄り添う。信頼されたものである――まだ兄だと思っているのかもしれない。
「リンファ。金を」
品のよい紙で包まれた硬貨の束を預かり、肩で息をする男の足元に放り出す。鈍い音と共に転がったそれを、ウィルの顔と油断なく見比べている。
「利子付きで一万七千八百三十五イェン六十四センだ。行政府の認めた最高利率により計算してある。誤りがあれば今すぐ払おう。二度と彼女の前に姿を見せるな」
リトラ一の豪商リウ=ズーシュエンの家内使用人だけあって、待遇はかなりよい。給金の前借りなどせずとも、数年で返す目途はついた。あとは証文を取り返せば、リンファは晴れて自由の身。意に染まぬ男との関係を強いられることはなくなるのである。
「どうした?早く受け取れ。そして証文を出せ。そうすればこれまでの無法は大目に見よう。衛視に訴え出れば、金を回収するどころではなくなるのだからな」
無論、ただ赦すつもりはない。それでは気の弱さをいいことに、再びリンファに絡むだろう。殺さない程度に痛めつけるのはウィルの中で決定事項だった。しかし。
「…し、証文はないな。もう売ってしまったよ」
「何だと?」
さすがに予想できなかった。よもや恐喝に加えて詐欺までとは。
「そうか。ならば金は払わんし、衛視に突き出すしかあるまい。真の債権者が誰かは知らんが……もしかすると払わなくてよくなるかもな」
世間の目があるゆえ、罪人から買ったなどとは言えないからだ。
が、証文は取り戻す必要がある。何かの拍子にセドリックと同じようなことを考える輩が現れるかもしれない。拳の手指を鳴らしながら近づくと、情けなく悲鳴を上げた。
「ひぃッ!?」
「心配するな、顔は殴らん。腕の一つや二つは折れるかもしれんが、女を誑し込むのに支障はなかろう」
「…あ、あの。あまり無茶なことは」
リンファが怯える。かえって罪に問われることを恐れたのか。
「楽して稼げるはずだったのに、話をややこしくしてくれた奴がいる。冒険者は傍若無人で欲深いからな?」
すなわち逆恨み。他の誰も責任はない。
まず一撃。左腕の付け根に右拳が炸裂。呻いて床に倒れたところへ膝、足首、腿へ蹴り。気絶しかねない頭と胴体は避けている。力ずくで証文の在処を吐かせ、新しい債権者とできれば穏便に解決した後で衛視に突き出すという筋書きだ。買った相手も同じ穴の狢なら、無論同じことをする。行き着くところに辿り着くまで。
「がっ……げへごほっ。な、何なんだよお前は……」
「証文はどこだ。誰が持っている」
しばらく無言の応酬が続いた。ウィルは黙って蹴り、セドリックはひたすら呻く。何の感情も抱かず正確に、ただ必要だからやっている。
筋が通っているとはいえ、恐るべき冷酷さだ。嗜虐の心はなさそうだったが。リーネに止められるまで、そのことに全く気がつかなかった。
「……あの。そこまでしなくても、よろしいのではないでしょうか……?」
「む……」
怯えている。が、何故かその様子に既視感を覚えてしまう。
「…もうしねえよ……もうしねえ。二度とその女には近づかねえ……」
足元から漏れ聞こえてきた。当初の予定どおり、頭や胴体には傷ひとつない。だが片足が変な方向に曲がっている。熱が入り過ぎて折れたのだろう。
「…証文はどこだ。誰に渡した」
「……元から、渡してねえよ……そこの、一番大きな引き出しッの二番底に……」
紙の束が見つかった。しかし、この中からリンファの父親のものだけを見つけ出すのは骨だ。一枚とは限らないし、真贋の吟味にも時間がかかる。
「数日預からせてもらう。金を返しにきた者がいれば、俺のほうへ回してくれ。他におかしな真似をしていないなら構わないな。それと……この金は貰ってゆく」
床に置かれた包みを拾う。
「何言ってやがる……そいつは俺の」
「損害賠償と慰謝料だ。三日と空けずクガイに通えば、この程度の額では済まんだろう」
縋りつく男の手を蹴り払い、とどめの一言。
「ついでに債権整理をしてやろう。既に完済しているものはないか、違法な取り立てをしているものはないか。こちらも暇ではないが乗りかかった船だ。気にするな」
「……………」
充分に懲りたことを確かめると、三人は男の住処を後にした。




