序章 夢惑い
魔獣が迫る。獅子の身体と鷲の頭を持つ、恐るべき巨大な魔獣が。
古の昔、六柱の魔神が戦のために創造し、現在は野生化したもの。獰猛な肉食獣である彼らは、目に入った獲物を引き裂き喰らわずにはいられない。
草木も眠る真夜中過ぎ。不摂生なヒトであれば夜食が欲しくなる頃。窮屈な森を器用に飛び回り、じわじわと獲物を追い詰める。腹が空いたのなら獣を狩ればよかろうに、しかし魔獣は諦めない。何本矢を受けても執拗に追いかけてくる。縄張りを土足で荒らした罪は、命を以て贖わねばならなかった。
(…術さえ使えれば……!)
その哀れな獲物が激昂する。浅黒い膚に銀の髪、甘く繊細な面立ち。先端が鋭く尖った笹の葉のような耳。どれも普通の人間とは違う。創世の礎アウラを崇め、森と共に暮らす亜人族アトルムの特徴だった。
「…貴様などに喰われるか」
素早く矢を番えて続けざまに三本放つ。うち二本が命中するも自分の居場所を教えただけ。暗闇を見通す猛禽の瞳が、再び彼を捕捉した。
「鳥なら鳥らしく、夜は寝ていろ……!?」
慌てて地面を転がり、巨大な嘴をかわす。あんなものが当たったら、簡単に心臓を潰されてしまう。続いて前足の鉤爪、息もつかせぬ連続攻撃。片方は運よく外れたものの、一つを肩に喰らって激しく木の幹へ叩きつけられる。すぐ立ち上がろうとして果たせず、その場に座り込む。強烈な吐き気と、世界の全てが回っているような眩暈。出血の衝撃と脳震盪で、身体が思うように動かない。このままでは……間違いなく殺される。
「馬鹿な……」
魔獣が迫る。鋭い鉤爪と巨大な嘴を持つ、血に飢えた魔獣が。
こんなはずがない。現実であるはずがない。何故自分が、こんな目に遭わねばならぬ。部族のために尽くし、侵略者共と命懸けで戦ってきた自分が。これはおかしい。絶対に何かが間違っている。くだらない悪夢なら、さっさと消えろ。いつものように目を覚まし、妹と向かいあって朝食を摂り、一緒に森の巡回へ出かける。あいつは気が弱いから、とりあえず結婚するまでは自分が傍にいてやらなければ……
目を覚ましたいのなら、意識を強く持って無理矢理瞼を抉じ開けなさい。そうすれば、どんな悪夢も尻尾を巻いて逃げてゆくから――幼い頃に聞かされた、今は亡き母の言葉を思い出す。いつもの寝台で目覚めたら、心配そうに覗き込む妹の顔があるはずだ。それを宥めるのはひと苦労だが、今の狂った状況よりはマシに違いない。
(………………?)
エルフ族の青年は、心の中で首を傾げた。彼の視線は、眼前の魔獣を食い入るように見つめている。その紅玉を――瞬きすらやめてしまった紅蓮の瞳を。更に見開くことのできる方法はあったのだろうか、と。