虚の痛み
ある日、俺と大学の先輩である英は、もう一人の先輩、渡井にとある写真を見せられた。
山を麓から見上げるようなアングルで、停留所の切れ端が写り込んでいる。おそらくバスの中から撮ったものだろう。
「この虚には何があると思う?」
ここ、と指さしたそこは新緑の中、ぱっくりと穴が空いたように黒くなっている場所だった。
「なんです? 謎かけですか?」
「普通は中身がないから"虚"なんじゃないの」
「英、お前夢がねえな」
「何言ってるんだ。こんなの木が生えてなくて影になってるだけだろう」
「なら、何故そこだけ生えないんだ?」
「そこだけたまたま池だとか石だらけとか、大きな岩とかあって木が生えないんじゃないですか?」
はたまた洞窟じみたものかあるのかもしれない。そう考えると、冒険好きな少年心がくすぐられる。
しかし、それを表に出すのも気恥ずかしくて俺はわざと夢のないことを言った。
「まあでも、見た目はちょっとわくわくするけど行ってみたら普通の山なんでしょうね」
「実際に行く奴いると思う? 多分ど田舎だよこれ」
写り込んだ停留所の看板もだいぶ古い。
「……通るバスも少なそうだし、少なくとも俺は降りませんね」
「俺は降りて行ったけどね」
「行ったのかよ」
俺のツッコミに、けらけらと渡井は笑う。英は呆れて肩を竦めていた。
「だって気になるじゃん。んで、山に入ってみたわけだよ。明るかったし行けると思ってな」
「何かあったんですか?」
「老婆がいた」
山に出る老婆……もしや山姥?
「山姥と思うだろ? んで、聞いてみたらーーそこ管理してる地主だった」
「ええー……」
つまり本当にただの山か。
「『こんな辺鄙な場所に旅行者か?』って。ちなみにそこはどえらい傾斜だったんだが、その人多分そこを落ちるより早くてな。ひょいひょいって降りてきてた」
「その人、実は猿だったりしなかった?」
「しねえよ。俺の乗ってきたバスがもう行っちゃったことにめちゃくちゃ気落ちしてたし。……1時間は待たなきゃ次のバスは来ないから」
好奇心のために1時間犠牲にした渡井の根性を俺は尊敬した。
「その人と別れて、俺は虚の方に向かったんだ。近付いてみたらなんとなくあれかなっていうのはわかった。あたりは明るいのに、その部分だけどんなに目を凝らしても何も見えなかったからな」
そう語る渡井の目には影が落ちて黒々としているが、その中にははっきりと好奇が光っているのがわかった。
「でさ、山道なんて慣れてなかったけど、どうしてもそれが気になって、早く行かなきゃいけないってすげえ焦ってきたんだ。――結果、全力疾走で転んだ」
「ええ!? 大丈夫だったんですか!?」
「運良く木の幹に引っかかって転げ落ちはしなかったし、腹打ったけど痛みも何も感じなかったから平気だった。すぐ起き上がって走れたし」
少々惚けて渡井をマジマジと見るも、本人の言葉通り大きな怪我をしているようには見えなかった。
「で? そこまでしてたどり着いた場所には何があったんだい?」
「何も」
「え?」
「何もなかったんだよ」
何も、とは一体どういうことなのか。俺にも英にもわからず、二人して首を傾げていた。
「石も岩もない。崖にもなってないし、池があったわけでもない。洞窟というより切れ目が近いな。ぽっかりとした空間だけが広がってた――深淵ってまさにああいうものを言うんだな」
地割れ、なのだろうか。
「俺もなんなのかはわからん。ただ、そこを覗いて見ても岩肌も何も見えない。何かおかしいなと思ってたら、そこでふっと意識が浮上したんだ。そんで気付いたら、俺はバスの中にいた」
「へ?」
「バスはあの山の前の停留所にいたんだ。時間も、俺がバスを降りた丁度その時刻」
「まさかの夢オチかよ!」
俺は一気に脱力した。心配して損した。
「俺もそうかと思ったよ。ただな……」
英はごくりと喉を鳴らした。
「まさか、地主のお婆さんが乗ってきたとか……」
「勿論――乗ってこなかった。代わりに、よくわからん爺さんが降りて行った」
「なんだそれ」
英もここで脱力した。
「でも、どうなんだろうな」
ほら、と見せられた脇腹には、赤黒いものが痛々しく湿布からはみ出ていた。
「あれが夢なら、俺は転んでいないのに」