帰りたい場所
残酷な描写注意
日々の生活の中で、不意に郷愁に駆られることはないだろうか。俺はある。
実家暮らしで地元育ちの俺には、家以外に帰る場所などありはしない。にも関わらず、テレビに出る高原や、映画の一幕、そして窓から見える青々とした空を見てしまうと無性に"帰りたい"と感じてしまうのだ。
「疲れてるんじゃないの?」
大学の先輩、英の言葉はごもっともではあるが、それは違う。短期バイトも試験も終わった俺は今、夏休みという学生の特権の中にいるのだ。何に疲れるのだろう。ゴロゴロ疲れか。
もう一人の先輩、渡井ならばわかってくれるはず…そう思って、俺は彼を探しにラウンジを出た。ジリジリと照りつける日差しを避けるように影を選ぶ。
俺たちの憩いの場であるラウンジと、講義室以外で、渡井のいる場所というのはだいぶ限定的だ。当たりをつけて行ってみると、ほどなく彼を見つけた。
「渡井先輩、何見てるんですか?」
「……ちょうちょ」
しゃがみ込み、じっと何かを見つめる渡井の向こうをそっと覗く。そこには、本当に大きな翅を広げた黒い揚羽蝶がいた。だが、様子がおかしい。
「え? これ生きてます?」
立派な右翅と違い、左翅がひしゃげて潰されてしまっている。そのせいか、風に揺られるような小さな動きしか見えなかった。
「……生きてるよ。さっきから少しずつ歩いてる」
トン、と渡井が近くの地面を叩く。すると蝶は、渡井から逃げるようにひょこひょこと、見てるこちらがハラハラするくらい必死に動き始めた。
「これ以上、いじめないであげてくださいよ」
「いじめてないぞ」
案の定、バランスを崩して転げた蝶はひっくり返ってしまった。バタバタと脚を暴れさせる蝶に、俺は見ていられなくなって渡井の隣にしゃがみ込んだ。
「ああ、もう……」
可哀想だが、無事な翅を掴もうとする。だが、蝶の必死の抵抗に、こっちまで千切れるのではと怖くなって離してしまった。
悪戦苦闘を繰り返すも、せっかく元に戻せたのに暴れて自らひっくり返った蝶に閉口した。
「そうじゃない。ほら、こうだぞ」
今度は渡井が、蝶の脚に指を差し出した。
本能的なのか、ひしと掴んだ蝶を手で支えながら指をくるりとひっくり返す。あっさりと蝶を地面に離してやると、蝶はまたひょこひょこと歩き出した。
「……俺の苦労はなんだったんだ」
落ち込む俺に、渡井は笑った。
「さっきからああやって戻してやってたんだ。あいつも慣れたんだろ」
「それをずっと見てたんですか?」
「ああ」
そう言って蝶を見つめる渡井の横顔は、いつもより穏やかで、なんだか寂しそうに見えた。
「あいつはどこに行くんだろう」
「行くってか……俺たちから逃げてるんじゃ」
「炎天下のアスファルトに向かってか?」
「蝶にそんなことわからんでしょう」
「だが、俺はわざわざ茂みに下ろしたりしたんだぞ。何故鳥の目から遮ってくれる茂みも木も影もない場所を目指そうとするんだ」
「まあ……木とかの近くの方が他の天敵もいるでしょうし」
「どうかなあ」
その答えはあの蝶しか知らない。
ひょこりひょこり、曲がることも知らずに地獄に向かっていく。助けなければ、と思うのに、俺は動くことができなかった。
――いいなあ。
うっかり、俺はそんなことを考えてしまったのだ。何故なのかは俺にもわからない。
「あいつは、皆はどこへ帰るんだろう」
呟く渡井は、目を細めていた。
一瞬俺たちを取り巻いた風が、まるで蝶の背を押すように吹き抜けていく。
――ひょこり、ひょこり。
てっきり、オカルト的なものを求めてここにいるのかと思っていた。
――ひょこり、ひょこり……。
渡井が、この動物たちの慰霊碑を訪れる本当の理由……俺は、彼の心の一端を覗いた気がした。