山衣かぞえ唄【ひ】
山に入ってはいけない。
山神様がいるから。
唄を聞いてはいけない。
山神様の唄だから。
唄を聞いたら――
「山にいっちゃいけねえのが祭りの日だけってのは本当なのか?」
その声に心臓を掴まれて、私は思わずひしゃげた声を上げた。冷たい汗が一気に背中に吹き出してくる。
そうしてしばらく固まっていた、と思ったのだが、おそらく一分も経ってなかったと思う。
「姉ちゃん?」
「……彰人」
声が震える。
「――忘れなさい」
* * * * * *
あれは、何年前のことだったか。
いつもつまらなさそうな顔であちこちに悪戯していた男の子がいて、私は華奢な優しい子と一緒にいつも振り回されてた。
彼らの名前はもう思い出せない。元気にしているだろうか。
「今度は何したの?」
「……なにも」
その日、華奢な子は呆れたように悪戯っ子を見ていた。彼はいつも以上に口をへの字にひん曲げていた。その頭には、小さなコブがあった。
「じゃあ何で怒られたの?」
「……婆ちゃん家の壁に泥がついてた」
「それで?」
「……放っておいた。それだけ」
どうやらその日は冤罪だったらしい。彼が拗ねるのも頷けた。
しかし、だとすると――
「じゃあ、誰が泥を付けたの?」
恐る恐る口を挟んだ私に、二人はしばらく考え込んでいたが、最終的には揃って肩をすくめた。
「……さあ」
「……通り魔?」
はて通りがかりに泥をかけるような人がいたか、と考える間も無く、私は言った。
「拓ちゃんは?」
悪戯っ子は「ああ」とすぐ納得したが、華奢な子は「ないない」と首を振った。
私はそれに反論した。
「でも――ちゃんはこの間泥かけられたじゃない」
――果たして、私は彼らをなんと呼んでいただろうか。
最早名前すら朧げだが、少なくとも、華奢な子が拓ちゃん――私の幼馴染によく嫌がらせされてたのは確かだ。
私は彼によく遊んでもらっていたし、彼は以前はいじめっ子ではなかったのだが。
「……じゃ、あいつがやったのか?」
「違う、と思うよ」
何故か否定した華奢な子は、少し迷ったように付け加えた。
「……断言はできないけど」
「じゃあ、聞いてみるか。本人に」
「え? ホントに?」
言い出したのは私だというのに、私が一番乗り気ではなかった。
あの時、私は本当に何も考えず軽い気持ちで言ったのだ。それで拓ちゃんを糾弾するなんてことになってしまうのはとても気が引けた。
だって、拓ちゃんの本質はいじめっ子とは言えなかったから。華奢な子に泥をかけた時、実は彼が綺麗なタオルも用意していたのを私は知っていたのだ。
「まあ確認だけなら……」
その華奢な子も、少々複雑そうな顔だったが了承していた。
――ちょっと揶揄いのネタにしたかっただけなのに、拓ちゃんに変な罪を擦りつけてしまったかもしれない。
内心気は重かったものの、今更引っ込みはつかなかった。その上、二人にくっついてばかりだった私に「一人だけ残る」という選択肢はなかったのである。――その日までは。
「はあ? 俺がなんで――の婆ちゃん家に泥引っかけなきゃいけないんだよ」
「お前ならやるだろ」
「同感」
上から、拓ちゃん、華奢な子、悪戯っ子である。私はヤキモキしながらその会話を聞いていた。
「だって、こいつには前泥かけてたんだろ」
華奢な子を指差しながら悪戯っ子は言った。何故か目撃者の私の方がその発言にヒヤリとしていた。
「う、うるせー。――は良いんだよ!」
「なんでだよハゲ。言ってみろよハゲ」
いつものことだが、華奢な子は拓ちゃんには厳しかった。しかしそれにしてはどこか面白がっているような余裕があるようにも見えて、私は人知れず安心していた。
「ハゲてねーよ!」
「今はな」
「うるせー! とにかく俺じゃねーんだよ! もう――なんて知らねーバーカ!」
涙目になった拓ちゃんは、走って公園を出て行ってしまった。
「やったな」
「いい気味」
二人は、これまたいつもの流れ通り、満足気にそれを見ていた。一方、拓ちゃんとそれまで遊んでた子たちは半ば呆れ気味に、半ば面白そうにチラチラと二人を見ていた。
そして私は、罪悪感と情けなさに内心落ち込んでいた。
最初に言い出したのは私だと言うのに、拓ちゃんに「疑ってごめん」と謝ることも、自ら拓ちゃんを傷付けないように聞くこともできなくて、最後まで二人に頼りきりだった。
「泥をつけたのは拓郎じゃないだろうけどね」
華奢な子はそう言った。
私がホッとしつつも「何故」と聞くと、今度は肩をすくめて見せた。
「アイツの嫌がらせは気を惹くためのものだからだよ。本当にアイツがやったなら、あそこまで頑なに否定しないよ」
「へえ……へ?」
悪戯っ子は気の抜けるような声で固まった。
一方の私は納得したものだ。
「ヒントは、拓郎の好きなやつ」
「は?」
「――ちゃん、それヒントじゃなくて答えだよね」
当時の私は、そのことを当然のように知っていたから。
女の勘というやつはやはり鋭いのかもしれないし、拓ちゃんがわかりやすかったというのもあった。……いや、私がずっと目で追っていたからかもしれない。
「流石に知ってたか」
「うん。拓ちゃんは――ちゃんが好きなんだよね」
「はああ?」
唖然とする悪戯っ子に、華奢な子は微笑した。――拓ちゃんが惚れるのもわかる笑みだった。
「割とあからさまだと思ってたけど、気付かなかったのか」
「気付くわけないだろ。だってお前男じゃん!」
――華奢で見た目じゃわからなかったが、彼は確かに男の子だった。
「あっちは俺のこと女の子だと思ってるらしいね」
「……」
何とも言えない顔になって、悪戯っ子は呻いた。
「……可哀想に。初恋がこんなんとは」
「こんなんとはなんだよ。俺、りさちゃんほどではないけどそれなりに可愛いだろ?」
珍しく悪戯っぽく笑う彼は本当に、性別を超えた天使のオーラを纏っていて、とても眩しかった。流れで私のことも褒めてくれていたが、私なんかより余程可愛かった。
――いつか……いつか生まれ変われたら、あんな綺麗な子になりたいものだ。
悪戯っ子は呆れたようにため息をつくと、「話を変えよう」と私に話を振ってきた。
「今日のお祭り、一緒に回らないか?」
「うん。良いよ。りさちゃんは?」
真っ先に答えたのは華奢な子だったが、私の夏休みは二人といるのがお決まりだったのだ。もちろん返事も決まっていた。
「いく」
普段の私の休みは、家に引きこもるか、実は心配性の拓ちゃんに引き摺り出されるかの二択だったが、この二人がやって来る夏休みだけは別だった。
二人と一緒に過ごして、拓ちゃんに絡んで絡まれて遊んで……いつもと違うそれは特別で、とても楽しかったのだ。
その時も、楽しさのあまりつい調子に乗った私は話してしまったのだ。
「そういえばね。知ってる? 本当は、お山に入っちゃいけないのは、お祭りのある今日だけなの」
その時には犯人探しなんてどうでも良くなっていた。そんなことより、楽しいことがたくさんあるのだから、と。
そういえば、あの時の犯人は結局誰だったのだろうか。




