水底の少年
――覗き込んだ川の中から、彼が見ていた。
あれは何年前のことだったろう。少なくとも、橋の欄干に背が届くような身長ではなかったのは確かだ。
だから僕は欄干の間に顔をねじ込ませ、ゆらめく水面に目を凝らしていた。
見えたのは、橋の下から覗く顔だけだ。穏やかな流れの中、黒い前髪が広がりうねっていた。その目は水の中で光っていて、薄く笑っていたのを覚えている。
僕はしばらく目を離せなかった。
「どうした? 何か見えたか?」
父の言葉に、僕は首を横に振っていた。正直に話すと、父はよく悲しげな顔をしたから。
黙って欄干から離れて、近寄ってくる父の手を掴むと、父はそのまま僕を肩車してくれた。
一気に高くなった目線からまた川を見てみたけど、そこにはもう誰もいなかった。
昔はお盆の時期になると、そうして田舎の祖父母の家に必ず出向いていた。でも正直、僕は乗り気じゃなかった。
両親はずっと祖父母と、それから同居してる伯母さんたちと話してばかりだったから。
大人たちのおしゃべりに参加してもつまらない。伯母さん夫婦の子供は中学に上がってから外に行ってばかりで、遊んでくれなかった。
一人で山や川に行くことも禁止されていたし、テレビもつまらなくて本当にやることがなかった。
でも、その夏は少しだけ違うものになった。
家が見えてくると、伯母さんの車の隣に見慣れない車が停まっているのが目についた。真っ黒な大きいワゴン。
「まさか、久斗さんと美智子さんが来ているの?」
聞き慣れない名前だった。
「久斗は、俺の従兄弟なんだ。お前が生まれた時にも奥さんと一緒に駆け付けてくれたんだぞ。……来るなんて聞いてないが、どうしたんだろうな?」
両親は心底不思議そうに何か話していたが、僕はまた大人かとがっかりしていた。
結局、僕は拗ねて意地でも父の肩から降りなかった。父は頑張って頭を下げて玄関扉をくぐり抜けてた。
「久斗! 元気だったか」
「紀夫も、元気そうだな」
久斗さんと、隣にいた奥さん――美智子さんは僕を見て「大きくなった」と驚いていた。
人見知りの僕は固まってて、父はやっと肩から下ろすことができていた。
「うちじゃなくてここに来るなんてどうしたんだ? 連絡くらいしてくれれば……」
「いや、まあいきなり決まったから……」
「まさか何か……」
会話の中身はあまり覚えていないが、久斗さんは歯切れが悪かった気がする。
それから麦茶を用意してくれた伯母さんに連れられて、深刻そうな顔をした大人たちは家の奥に行ってしまった。僕はまだ祖父母にも顔を見せてなかった気がする。
「……良い子にしてるのよ? いいわね」
母がそう言って襖の戸を閉めると、僕はテレビのある部屋で転がってるしかなかった。
風通しの良い部屋でいつの間にかうとうとしていた僕は、テレビの――お笑いやってたのかな――笑い声に目が覚めた。
そのテレビを消したら、ぱしゃりという水音が耳に付いた。大人たちが戻ってきたわけじゃなかった。
代わりに、縁側の向こう――庭に誰かがいた。
外は眩しかったが、目を凝らすと同じくらいの歳の子がしゃがんで庭の池を覗き込んでいるのが見えた。
黒い浴衣着て、後ろで髪を結んでる女の子だと思った。
誰だろうと思って、多分マジマジと見てたんだろうね。それは振り返ったんだ。
僕はびっくりして動けなくなった。
――だって、そいつは狐の面を被ってたんだ。アレは本当に驚いた。
固まってる僕に向かって、そいつは歩いてきた。そういう時は障子を閉めてしまえば良いんだけど、そんなこと考え付かなかった。
「君、誰?」
高くもなく低くもない声はちょっとか細くて、セミの音にかき消されそうだった。体つきも同年代にしては細かったし、恐怖も警戒も微塵も感じなかった。
でも声は出なくて、しばらく黙ってそいつを見てたら、そいつは耐えきれなくなったようにぼそりと言ったんだ。
「……あの、遊ばない?」
あんまり寂しそうだったもんで、僕は頷いた。暇だったし、この子も多分そうなんだろうと思って。
遊ぶ、となると僕の舌はようやく回り出した。
「何して遊ぶ?」
「えっと……何かある?」
そう聞き返されて、僕はしばらく考え込んだ。
下手に音を立てたら、大人たちにバレてしまう。それはなんとなく避けたかった。
「川、行かない?」
「……えっと、その、いいよ」
ちょっと歯切れの悪い返事だったが、僕は川に行けるのが嬉しくて気にしなかった。
その後「和也」と名乗った彼に、やっと男だとわかった。ずっとお面を被っていたから、顔じゃ判断なんて付かなかった。
それで、そのお面はなんなのか聞いてみると、父親に買ってもらったのだと嬉しそうに言っていた。
「被ってて暑くないの?」
「平気」
僕はそんなもんか、と気にしないことにした。
川に着いた時、あの少年もいるかなって思ったけど、そこには誰もいなかった。
「まずは水切りしよう。勝負だ」
「水切り?」
最初こそ、首を傾げて僕を見ていた和也だったが、すぐにコツを飲み込んだのか上手いこと跳ねさせていく。思いの外白熱した試合になって、僕は暑さも忘れて躍起になっていた。
和也はそこらの石を手当たり次第に投げては感触を確かめていた。それを見て、僕はより良い石を探して河原のあちこちをウロウロしていた。
あれは石選びが大事なんだ。
夢中になって橋の袂にまで行ったんだけど、視界の隅に何か揺らめくのが見えて止まった。
すぐにわかったよ。あの顔だ。髪が揺らめいているんだって。
――さっきまでいなかったはずなのに。
ここで、僕はちょっと怖くなった。祖母や母を呼びたかったけど、声は出なかったし、呼んで届くような距離でもなかった。
視界の隅の揺らぎは徐々に大きくなっていく。僕は恐る恐るそれに目を向けてしまった。
そこには顔しかなかった。
橋で見た時と同じように僕を見ていた。だが、それはかなり不自然な位置にあった。
川岸スレスレのその場所は、僕の足首まで水が来ないくらいの浅い場所だった。でも、その顔は確かに水の中を揺蕩っていたんだ。
まるで水底に沈んだ映像が張り付いているようだった。
「えっ」
思わず声をあげてしまった僕を見て、そいつはますます笑みを深くした。釣り上がった唇は青くて、目は爛々と輝きだして……今思うと、獲物を見つけたと言わんばかりだった。
それは唇を開いて、何か言おうとしていた。僕は震えながらそれを見ていて――
パシャッ
その顔が突然歪んで、やっと僕は解放された。石が落ちてきたのだと気付いたのは、和也が後ろから声をかけてきた時だった。
「ごめん、大丈夫か?」
僕はその場にへたり込んでいた。川原はちょっと湿ってたけど、その時は気にならなかった。
和也に肩を叩かれ、僕は振り向いた。その瞬間、目から何か溢れてきて、やっと自分が泣いてることに気付いた。
「……帰ろう」
返事もろくに返せなくて、何度も頷いた。
帰る頃には空は赤くなってて、お母さんたちに怒られた。涙目の僕には焦ってたけど、話を聞いたらまた怒られた。
そして、和也は美智子さんに抱きしめられて、僕よりもめちゃくちゃ心配されてた。彼は久斗さんたちの子供だったんだ。
久斗さんに面を外せって言われて、しばらく戸惑ってたけど気不味そうに外してた。
その顔見て、思わず悲鳴をあげちゃったよ。
「あの顔だ!」
和也は困ったような、泣きそうな顔で僕を見てた。大人たちも困った顔をしてたと思う。
そしたら、それまでずっと黙ってた祖母が、そこでやっと口を開いたんだ。
「水底に映しとられたんだな」
それが、僕らの最初の出会い。その夏も、次の夏も、僕らはあそこで遊んでた。……川遊びは大人がいる時だけになったけど。
――え? 大人たちは何の話をしてたのかって? 予想は付くけど、僕の口から言えないな。




