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空夢枕

 ある日、夢に英が登場した。


『明日、良いことあるよ』


 この時、彼が珍しくとっても良い笑顔だったのを覚えている。


 翌朝、たかが夢だと普通に大学に行った俺は、その張本人とばったり出くわした。


「東雲くん、おはよう。これあげる」


 ぽん、と渡されたのは、もうじき中間試験の待ち受ける講義の過去問だった。


「多分あの人今年はこの問題から出す気がする」

「うわっありがとうございます」

「いやいや。今朝、たまたま思い出したんだよね」


 そういう英は、昨日夢に見たような珍しくとっても良い笑顔だった。周囲の女子がざわめいているのがわかる。


 その過去問と英の読みは、大当たりだった。

 良いことあった。




 またとある日。今度は渡井が夢に出てきた。


『明日、面白いことがあるぞ』


 こちらは見たことない黒い着物姿で、なんだか意味深な笑みを浮かべていた。

 こういうの2回目だな、と思いながら大学に行き、ラウンジの渡井に声をかけ……ようとした。


「……」

「ご……ごめんなさい!」


 顔の右半分が、白くてなんか甘い。

 声のする方が見えずに顔を向けると、何人もの女学生が引き攣った顔と声で俺を見ていた。

 その隣では、誰かが真っ白な顔で俺に頭を下げた。その顔から、べちゃりと白いもの――ホイップクリームが落ちた。


 その時流行っていた、誕生日顔面パイ投げの流れ弾に当たった瞬間だった。


「ぶっふ……」


 最悪の事故に静まり返るラウンジの中、見える左目が、テーブルに突っ伏して必死に笑いを抑えている酷い先輩の姿を捉えていた。

 面白くないが、お詫びにもらったケーキは甘かった。




 またとある日。

 夢に女の人が出た。


『……』


 紙か布でできたお面を顔に付けていて、表情がわからない。赤い袴に白っぽい羽織を重ねており、どうも昔の人のようだった。

 何故か睨まれているように感じて、俺は本能的な恐怖に動けなかった。まさしく蛇に睨まれた蛙だ。


『……』

「ひっ……」


 その人が黙ってこちらに手を伸ばしたことで、俺はようやっと逃れようと背を向けて……目が覚めた。


「なんだったんだ……」


 よくわからないままに、俺はその日も大学に向かった。




 ぼんやりと歩いていた俺は、突然首に衝撃を感じて後ろに倒れ込んだ。

 首が絞まって変な声が出た気がする。


「げほっ……何……」


 一瞬何が起こったのかわからなかったが、どうやら首筋を誰かに引っ張られたらしい。

 後ろを振り向こうとした俺だったが、咄嗟に首を動かすことができなかった。

 

 ドシャ


 すぐ目の前に風を感じた次の瞬間、顔に何か生暖かいものが飛んできたのだ。

 俺の鈍い頭は、それがなんなのか理解するのに盛大に時間をかけていた。遠くに悲鳴が聞こえた気がしたが、しばらく頭は真っ白なまま、俺は呆然とそれを見ていた。

 目の前で、その潰れた何かがぐるりと回る。


『あ゛ー……じっばい、じっばい……』


 潰れた何かから、潰れた声がした。




 次に気付くと、俺は白いベッドに横たわっていた。


「え、あ……ああ……」


 生暖かい感覚が顔に残っている気がして拭う。

 だが、そこには何もなかった。


「……夢?」


 そこでやっと俺は部屋の中を見回す。

 そうだ。ここは渡井の家だ。俺は大学帰りに遊びに来て、ゲームしてたら画面酔いして寝かせてもらったのだ。


「先輩? 渡井先輩ー」


 声をかけてみたが、どうやら出かけているらしい。もう外は結構暗くなっているのだが、いつ帰ってくるのだろうか。

 そこでふと、先程の夢を思い返す。


 ――あの道、知ってるところだった。


 知ってるも何も、俺はその道を通ってこの家に来た。あれは、渡井の家の近くにある道だ。

 そこにあるビルから――落ちてきたのだ。

 不安に駆られて少し様子を見に行こうと思ったその時、ガチャリと玄関が開く音がした。


「ただいまー」


 能天気な声に、やはりただの夢だったかと安心する。


「あっお帰りなさい。すみません寝ちゃって……」


 そう声をかけた俺は、渡井の顔を見て固まった。


「遅くなってごめん。はいこれ。……どしたの」


 渡されたスポーツドリンクを呆然と受け取りながらも、俺は礼の一つも返せずにいた。

 言葉が出なくて、自分の頬を指差す。


「せ、せせせん……」

「んあ? 何その顔……」


 そう、渡井も自分の頬に指を置き……一瞬その眉根が寄った。

 どこか青白い顔に映える、少し粘性のあるその液体は、渡井の指に絡みつくように纏わりついていた。


「ちゃんと拭いたと思ったのにな……」

「ま、まさか、先輩……」


 先程夢で感じた生暖かい何かと、その赤い液体がダブる。


「ごめんごめん。大丈夫。俺が怪我したわけじゃないし犯罪犯したわけでもないから」


 違う。そうじゃない。そうじゃないのに、俺の口はなかなか回らない。


「び、ビル……落ちて……」

「ビルは落ちないぞ。とりあえず落ち着いて一回それ飲みな」


 そこらにあったティッシュで顔を拭きながら、渡井は何もなかったように言った。なんだか、それを見ているとまるで俺がおかしいみたいだ。

 いや、もしかしたら俺は変な夢を見て頭が混乱しているだけなのかもしれない。とりあえず、俺はスポーツドリンクをグビグビと飲んだ。


「ビルは落ちないが、ビルからは落ちてきた。……即死だってよ」


 やはり、この人はなんてことないようにとんでもないことを言っている。


「むしろ、なんでしのくんからその言葉が出てきたのかが気になるんたけど」

「……夢、見たんす。すぐそこの道歩いてて、突然首根っこ引っ掴まれたと思ったら目の前に……」


 あれが、落ちてきたのだ。


「あの、渡井先輩は」

「同じだよ。ちゃんと掴まれた。誰かはわからないけど、お陰で俺は助かった」

「そ、その後は……」


 俺の頭にこびりついたあの声は、思い返してみるとどこか笑いを含んでいた。


「周りの人とか、警察にも随分心配されたよ。現実感なさ過ぎて、今んとこ何とも思わない」


 どうやら、あの声は渡井には聞こえなかったらしい。俺はホッとした。

 考えてみれば、どうせあれは夢だ。現実では落ちてきた人は即死で、声なんて出せるわけもない。


「しかし、しのくんの夢凄いな。他はどんな夢見たんだ?」

「他……あっ。英先輩とか、渡井先輩も夢枕に立ったことありますよ」


 俺は、話題を逸らすよう変な夢の話をする。


「夢枕に立つって言ったら俺ら死んでることになるけど」

「すみません。けど、ただの夢とは思えないんです。だって二人が未来を予知したんですよ――」


 俺の話を聞いた渡井は、不思議そうな顔をした。


「なんか、しのくんに起こることを予言してるっていうか……俺ら本人に起こることっぽいな」


 キョトンとした俺は、真面目に思い返してみる。


『良いことあるよ』


 次の日の英は、滅多に見ない良い笑顔だった。余程嬉しいことでもあったのだろう。


『面白いことがあるぞ』


 次の日、俺は散々な目に遭ったが、渡井は大爆笑していた。ちなみにそれからしばらくは散々同じネタで弄られている。


「……俺、なんのためにそんな夢を」

「さあ。まあ落ち込む知らせより、良い知らせの方が良いじゃん」


 渡井にとっては良くても、トイレで真っ白なホイップクリームを頑張って落としていた俺は何も良くない。


「渡井先輩にだってよくないことが起きてるじゃないですか」

「しのくんの夢の通りに俺は助かったぞ。……なんであんな往来のあるとこで死んじゃったのかね」


 結局はそこに話が戻ってきてしまった。

 渡井はぼんやりと天井を見上げている。その視線の先には、あのビルでこちらを見下ろす人影がいるのかもしれない。

 その顔を見ながら、俺はあの言葉を思い返す。


 ――じっばい、じっばい……。


 ――失敗、失敗……。


 なんだか気分が悪くなってきて、俺は頭を振って手元のスポーツドリンクを飲んだ。



 そういえば、あの女の人の夢はなんだったのだろう。あれこそ「夢枕に立った」と言うべきなのだろうか。

 だが、あの夢が本当に「夢に見た本人に起こる出来事」を示すなら……。

 脳裏を、まるでこちらを掴もうとしているようなあの腕がよぎる。


「こんな時間だし、今日は泊まってけ」


 渡井は眠そうに欠伸をした。

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