夢の痕は引き攣れて【後】
「なんだかすっきりしないもんだ」
元来た通路を戻りながら、渡井は口を尖らせた。
俺もまた物足りなさを感じていた。
「別に、何もなければそれに越したことはないでしょ」
「でも、それじゃ英先輩の聞いた声とか、あの足音みたいなのは……」
すっかりお開きモードの英に、釈然としない俺はそう言い募った。
「低い声は隙間風だろうね。足音は家鳴りか、あるいは壁が崩れてる音かも」
「そうかもな」
だが、あっけらかんと言う二人に、俺だけまるで駄々をこねているように思えてしまって黙りこくる。
そうしてぼんやりと前を歩く二人の後ろから建物を出たのだが、ふと意識が背後に持っていかれた。
未練たらしく後ろを気にしていた訳ではない。
俺たちの歩く場所は、コンクリ固めの地面から雑草と砂利に変わっている。
当然、それらを踏みつける足音も、硬いものから柔らかいものへ変わった……はずだ。
――なんで硬い音が……まだ後ろから……?
沸々と湧き上がる嫌な予感に、ざわりと首筋から全身が総毛立っていくのを感じる。
咄嗟に声が出せなくて、俺は反射的に斜め前の渡井のパーカーの裾を掴んだ。
「ふぉ?」
ちょっとばかり後ろに傾いた渡井が振り返る。
俺を見たその視線が、そのまま俺を通り過ぎた。
「……誰だ?」
「何?」
英も振り返る。
俺には後ろを見る勇気はない。だからひたすら固まって、二人の顔を見ていた。
だってこの時、俺たちは完全に足を止めていたというのに、やっぱり足音は聞こえていたのだ。
カツ……カツ……。
足音にしてはゆっくり過ぎる。走れば逃げられるかもしれない。……俺の足は動かなかったのだが。
「……誰かいるね」
「ああ。歩いてくる」
何故、この二人はこんなに落ち着いているのか。
「俺に見えてんならどうせ人間だろ。ヤバそうだったらすぐ逃げるぞ」
「ああ。東雲くん行けそう?」
「なん、とか」
足音はもうザッザッという柔らかなものへ変わっている。ゆっくりとした音とは裏腹に、それはどんどん近付いてきていた。
渡井は一歩、その人影に向かって進んだ。
「誰ですか」
「――」
低い音が、何か答えた気がした。
足音はもうすぐそこに迫ってくる。
「……男の声の正体かもね」
ぼそりと英が言って、これまた前に出た。
さて、俺はこの間、情けないことに先輩二人に庇われて男に背を向けていたのだが、ここでようやっと振り向くことができた。
ひょろりとした黒い人影は、30代くらいの男の人だった。
足が悪いのか、手に杖を持っている。やけにゆっくりとした足音だと思ったのは、どうやらあの杖の音だったらしい。
ギョロリとした目が、俺の懐中電灯の光を反射してギラリと一瞬光ったが、その男は途端に眩しそうに目を細めた。
「なんばしよっとか!」
「す、すみません!」
怒ったような嗄れ声に、俺は隣の二人に習って懐中電灯を逸らす。男はしぱしぱと瞬きを繰り返した。
「ほんなこてあくしゃう――【判別不能】――どきゃんしよっと?」
「ほん……え? え?」
呪文の如き言葉の羅列に戸惑う俺たちに、男はもう一度口を開く。
「お前らはなんでここにいる? なんか用か?」
話を聞くところによると、どうも男はここに住み着いたホームレスらしい。先程の言葉は出身地の訛りのようだ。
こんな時間にいるということは、ホームレスだろうか。その割には服が破れてたり汚れていたりという不潔な感じはしないし、比較的若い。警備員、というのも不自然だ。
しかし、普通に生きた人間であるとわかって俺はホッとしていた。
「勝手に入っちゃってすみません。誰もいないと思って探検してました」
「ここの関係者の方ですか?」
流れるように、渡井と英が話し出す。
男は不機嫌そうに低く答えた。
「……まあ、色々あって昔っから住んでるんだよ」
この若さでホームレスか。リストラでもされたのだろうか。あまり深く聞かない方が良いように感じる。
「お仲間にも伝えとけよ? 前々から冷やかしに来るやつが多くてな」
「わかりました。お騒がせしてすみません」
英はしれっと了承したが、ここに冷やかしに来るようなお仲間は他に知らない。
それを知らない男はため息をついた。
「前に来た奴らは最悪だった……落書きしておいて、俺が出ていくと脇目も降らず逃げて行きやがった」
俺にはその人たちのことをとやかく言えない。俺と同じく心霊現象だと思ったのだろう。
「あの……少し聞いて良いですか?」
「なんだ」
渡井は珍しくおずおずと聞いている。
「この発電所、何故途中で工事を止めちゃったんでしょうか」
「あー……そりゃ、戦争のせいさ。終戦後に代替わりした地主と揉めてな。もっと適した場所がみっかったんで、そっちに流れていきおった」
俺は目を剥いた。流石、昔からここに住んでいるだけある。
工事の顛末は英の予想通りだった訳だ。
「んじゃ中の機械類も、そっちに移ったんですか」
「いやあ、あれらは軍に取ってかれたらしい。海でそのままお陀仏だろうな」
「……ちなみに、この発電所で事故は」
「建設途中で細々したのはあったと思うが……」
記憶を探るように首を捻る男は、誰に聞いたのかめちゃくちゃ詳しかった。その彼が知らないのならば、大きな事故ーーパイプラインの不備による死亡事故はなかったのだろう。
俺は怯えていた自分がとても恥ずかしくなって、最後に男に深々と頭を下げたのだった。
「マジでビビりました……」
「東雲くんすごい顔してたね」
「いやいやいや、お二人があれだけ落ち着いてるのがおかしいんですって!」
「怯えてる人がいると不思議と落ち着くもんだよ」
俺は怯えていた反動なのか、テンションが上がっていた。それを見て、英は笑いを噛み殺している。
「それに、不良集団とかじゃなかったから逆に安心したよね」
「ああ確かに……でもあの人、足以外に怪我もなさそうでしたし、そういうヤバい奴らはあんまり来ないのかもしれないですね」
「逆に、あの人が怪談話の核になったんだろうね」
確かに実際にあの男に怯えて逃げ帰った集団もあるようだし、彼らが「男の声を聞いた」「足音がした」と言えば、簡単に噂話として広がっていくだろう。
思いがけず怪談話の真実を見つけ出してしまったのだ。俺は渡井に視線を向けた。お目当ての幽霊こそ見れなかったものの、噂の収集者としてこれ以上面白く喜ばしいことはないのではないか。
だが、何故か彼は奇妙なものを見る目で俺たちを見ていた。
「……二人とも」
「え? なんすか?」
「あの人のこと、どう見えたんだ?」
それまで上手いこと回っていた俺の舌だったが、戸惑ったように動かなくなる。
「僕には、30代前半くらいの……なんとなく幸薄そうな男の人に見えたけど」
「お、俺もです」
渡井はますます変な顔で、思わずと言ったように発電所の門扉の方を見返している。
俺も見たが、もうあの人はいなかった。
「……ちなみに格好は?」
「白いシャツにズボン。割と清潔感あったし、ホームレスになって日が経ってそう、には……見えなかった……けど」
英の顔が強張っている。……俺も同じ顔をしていただろう。
『昔っから住んでるんだよ』
――それにしては、綺麗過ぎる。
街から車で20分もかかるあの場所は、電気も水も止まってるのに。
「……車に戻るぞ」
世にも珍しい渡井の運転によって、ただ草だらけなだけの山道は、めちゃくちゃ揺れる悪路へと変貌する。
「……あの人、何者だったんでしょうか」
後部座席に乗せられた俺は必死に手すりに捕まってそれを聞いた。
「……なんばしよっと――あれは『何してるんだ』っていう九州の方言だ。お雛ちゃんから聞いたことがある」
よく舌を噛まずに喋れるものだ――俺は半ば麻痺した頭でそんなことを考えながら、ルームミラーごしの渡井を見る。
「なんで、九州なんですかね?」
ここは本州だ。本州の、しかも内陸部だ。
「あそこの工事の時に九州から技術者の何人かが招集されたらしい。やたらあそこに詳しかったし、まずその関係者に違いないだろうな」
「なんでまた九州から……?」
「最初に地熱発電所が作られたのは九州なんだ。だからそのあたりから工事に慣れた人を呼んだんだ」
――かつての工事技師が、あそこに住み着いてる……? いや、そんなまさか。
「ご家族かもしれないじゃないれすか」
舌を噛んだ。
「こっちで、あんなバリバリの九州訛りに育ったってか? ……まあ、本人が言ったように色々あったんだろうが、俺の知ってることからはここまでしか想像できない」
ルームミラー越しに、渡井と目が合う。心なしか顔色悪く口を押さえる俺を見て少しだけ笑って、彼は何も言わずにまた運転に集中した。
その隣の英は黙って揺られていた。
「……お前には、どう見えたの」
その英がボソリと言ったのは、見慣れた景色にやっと落ち着いてきた頃だった。それまでは聞かないようにしていたのだろう。
英の顔は、後ろの俺には見えない。対する渡井は真面目な顔で、ちらりとその英の方を見ていた。
「腰の曲がった、えらい高齢の爺さん。腕も顔も、見える範囲全部の皮膚が引き攣れてた。……ありゃ火傷の痕だ」
足を引きずり、全身に火傷を負い……あの人は何故あそこにいるのだろうか。
「戦争被害に遭ったのが、機械だけのはずがない。それが、あの怪談話の本当の核を――『火傷の男』を作り出したんじゃねえかな」
俺たちに見せたあの姿は――もしかしたら、彼があの発電所で、夢と希望に輝いていた頃のものかもしれない。




