この歪んだ世界の醜さよ
「こんにちはー……起きないか」
俺は小声で呼びかけると、諦めてテーブルに座る。同じテーブルに突っ伏す渡井は、パソコンを放置してレポートらしきものを涎塗れにしていた。
俺はふと、その横に置いてあるものを二度見した。
――眼鏡?
黒い縁がレンズの周りをガッチリ覆っている。丈夫そうな作りだ。
しかし、渡井は目が良かったはずだ。
ブルーライト対策かと思ったが、どう見てもレンズにはブルーライトカット特有の黄色が入ってない。
では野暮ったいが伊達眼鏡だろうか。年中無地のシャツで過ごすこの先輩に、そんなお洒落心があったのか。
俺は悪戯心がむくむくと膨れ上がり、そっとそれを手に取った。
「うわっ」
レンズ越しにテーブルを見ると、予想外に度が強い。俺はしぱしぱと瞬きながら眼鏡を戻した。
誰かの忘れ物かと思ったが、こんなキツイ眼鏡をかけるほど弱視の人が眼鏡を忘れていくとは思えない。
――変だな……。
考えれば考えるほど、俺の首は傾いていく。
だが、知ってるだろう渡井が起きないのならば仕方がない。俺は母親が妹のついでに作ってくれた弁当を取り出した。
結局、渡井が起きたのは、俺が完全に食べ終わってスマホで適当にSNSを流し見ている時だった。
「んあー?」
寝起きの渡井はすこぶる目付きが悪い。
「おはようございます」
「おはよう……しのくんか」
「先輩、その眼鏡どうしたんすか?」
早速聞いてみると、渡井はぼんやりとそれを見て「ああ」と吐息混じりに呟いた。
「買った」
「……凄い度がキツイですけど、目悪くないですよね?」
「これかけたの?」
怪訝な顔の渡井に一応首を振る。
「レンズ越しの世界がめちゃくちゃ歪んでて見にくいのでやめました」
「この世界は美しくも醜いもんだぜ」
――なんか違うな。
そうは思ったが、ちょっとカッコつけた先輩を立てるべく、ツッコミはやめておく。
「なんだ、かけてないんだ」
「かけると何かあるんですか?」
「かけてみる?」
殊更楽しげに、ニィと笑う渡井に嫌な予感がした。
「……わかったわかった。そんな捨てられそうな犬みたいな目をするな」
すると今度は少し困った顔になる。
捨てられそうな犬に弱いらしい。次から利用させてもらおう。
「これな。曰く付きってやつなんだよ」
「げっ」
そんなものこんな場所に持って来たのか。
かけてはないが、レンズ越しに見てしまった俺は大丈夫だろうか。
「今、特に変なことがなければ大丈夫だろ。多分」
そんな即効性がある不確かなもの、ますます持ってくるなと言いたい。
「元の持ち主は脳の病気で、幼い頃からの弱視だったんだよ。この眼鏡がなきゃ歩くのも覚束ないレベルの。そんで、小学生6年生になって、ついに眼鏡の限界に来た」
「眼鏡で矯正できないレベルになったんですか?」
「そ。元々、矯正してもあまり良くはならなかったようだが、そこからさらに弱視が進行してしまったらしくてな」
そこまで行くとどんな視界なのか、俺には想像も及ばない。
「眼鏡があっても一番前の席。眼鏡外さなきゃいけない水泳なんかはできなくなった」
可哀想に。俺にはうたた寝もできない一番前の席は地獄席だったし、水泳は夏の楽しみだった。
「その程度で終わるならまだ良かったよ」
渡井は苦い顔だ。
「問題は、母親が過敏になっていったことだ。危険なことはさせないようにと体育自体を見学、遊びに行くのも禁止。本や漫画、ゲームもそうだ。視力がこれ以上落ちないようにな」
「うわあ」
何もそこまで禁止しなくても良いのではと思う。
「そこまでいくともう精神面には毒ですよ」
「まあな……元々、3歳までに気付いて処置できていれば、そこまで視力が落ちることもなかったんだ。それを知って、死ぬほど後悔して、眼鏡越しにも目を細める息子を見る度に追い詰められたんだろう」
なるほど、子を思っての行動が暴走したのか。
「それでもやり方が不味かったのは確かだ。息子は孤立して、やがて虐められるようになった。それでも、中学生になって環境が変われば変わるって信じて、なかったことにして耐えていた。……だが、中学生になっても変わらなかった。何も」
覚えがある。中学に行っても、友人の顔ぶれに代わりはなかった。
私立に行く以外、同じ学区のものは近所の中学校に持ち上がりなのだ。メンバーが変わらなければ、基本的な扱いも変わらないということか。
「一番の虐めは、やはり眼鏡だったらしい。眼鏡を取り上げて、動けない彼を見て笑ってたんだと」
――反吐が出る。
「相変わらず、彼は何もなかったように学校へ行ってた。親にも、先生にも、虐められてるなんて言わなかったそうだ。……だが、ある日命を絶った。それで全てを知った母親は精神病院行きだ」
不意に、渡井が眼鏡を手に取る。
「そんで、自殺現場に落ちてたのがこれ。体育館で、彼を虐めていた奴らが見つけた」
そんな場所で命を絶つとは、いじめっ子にあわよくば見せつけてやろうと思ったのだろうか。
「皆、流石に呆然としていたらしい。だが、一人だけ、何故か落ちていた眼鏡を手に取り、かけた奴がいた――何故そんなことをしたのかは本人にもわからないらしい――その時、おかしなことが起こった」
「まさか、変なのが見えたとか……」
「違う。……逆だと」
「逆?」
――見えない?
「そこにあるはずの死体が、見えなくなった」
そんな馬鹿な。
英がよく見るらしいあやふやなナニカならともかく、そこに確かにあるはずの物体が見えなくなるなんてことがあるのか。
「そいつも、驚いて振り向いた。仲間の方をな。……誰もいなかったんだと。それ以降もな」
「それでな、しのくん」
「……なんですか」
俺と渡井の周りだけ、とても静かに感じる。
そんな場所で出た声は思ったより小さかった。
「これ、かけたらどうなると思う?」
「俺とか、見えなくなるんじゃないですか?」
「正解は……」
渡井はそっと、殊更ゆっくり眼鏡を目元に持っていく……。
そして、渡井の顔が苦しげに歪んだ。俺はすぐに眼鏡をはたき落とそうと手を伸ばした。
「――キツ過ぎてかける前に限界。目が回って吐きそう……」
「いやいくらなんでも弱過ぎないですか?!」
結局、レンズ越しに俺を見ただけで、そのままぐったりとテーブルに伸びてしまった。どうやら先ほども気分が悪くて寝ていたらしい。
再チャレンジにも失敗したのだから、もう諦めて処分してもらうのが一番だろう。
「……そりゃあ歪んでて、醜くて、目障りだよな」
「ん?」
無料のウォーターサーバーから紙コップに水を入れて来た俺は、それを渡しながらくぐもった声に耳を澄ませた。
「でも、たとえ見えなくても、なかったことにはできないんだよ……そんなこと一番知ってるだろ」
誰に向けての言葉なのか、俺にはわからない。
ただ、俺は酷く悲しくなった。
醜いものさえ見ないふりをすれば、世界は美しく感じるのでしょうか。




