魅入られたもの【前】
神は言っているーー長くなったなら、もう分けてしまえ。
「しのくん、今日泊まれる?」
その連絡が来たのは突然だった。大学帰りの俺は泊まりの荷物なんてあるはずない、と丁重に断ったのだがーー
「へーきへーき。英もそのパターンだし、服とか足りないのは俺の貸すよ。なんならコンビニでなんか買ってきてさ……良い肉貰ったから今日は鍋パーティしようぜ」
その時はもう夕方で、俺の腹の虫は「肉」という言葉に矢庭に騒ぎ出してしまった。……電話越しに笑い声が聞こえたからおそらく聞かれていた。
「じゃ、そういうことで。早く来ないと肉なくなるからな」
そうして始まったお泊まり会は、なかなか賑やかだった。
鍋の肉を取り合ったり、風呂の順番は腕相撲で俺以外の二人が蹴り合いになって泥沼化したり、渡井に借りたジャージは手足長過ぎたりもしたが、まあ楽しかった。
ちなみに俺は肉戦争も腕相撲もボロ負け。渡井に悔し紛れに「妖怪、手長足長め!」と言ったら逆に喜ばれた。畜生。
そこからはいつぞやのようにゲーム大会だ。流石に夜だからか、二人は小声で罵り合いながら熾烈な戦いを繰り広げていた。
これもボロ負けの俺は半笑いでゴロリと横になって、文字通りの低みの見物と洒落込んでいた。
だが、ふと気付くと、賑やかで明るい部屋は一転していた。冷たい部屋に差し込む柔らかな月光が目に入る。どうやらいつの間にか眠っていたらしい。布団がかけられている。
そっと起き上がってみると、英も渡井も俺と同じように床に転がって雑魚寝していた。誰一人、部屋主すらソファもベッドも使っていない。
――トイレ行きたい。
もぞもぞと、俺は足音を立てないようにトイレへ向かった。
そして戻ろうとして、ひゅっと息を吸い込んだ。
――リビングへ向かう扉のすりガラスの向こう、ぼんやりと、誰かが立っている。
先輩のどちらかが起きたのだろうか。
それにしても様子がおかしい。顔は俯いているし、ふらふらと体が揺れ、それに合わせて腕がぶらぶらしている。
――寝てる、のか?
とても意識的な動きには見えず、立ったまま寝てると俺は無理矢理結論付けた。
意を決して扉を開けるが、ぎぃ、という音にもそれはやはり反応しない。そろりと足を運んでいくと、それは英だった。
人形のような綺麗な顔が、目を閉じたまま揺れている。
「……英先輩?」
そっと声をかけるが、英は起きない。
体を揺すってみても、倒れることなくその場に止まっていた。
俺は救いを求めて渡井の方を見たが、こちらは気持ちよさそうにグースカ寝ている。
「英先輩……先輩! 起きてくださいよ」
俺はさらに音量を上げた。あわよくば渡井も起こそうと思ったのだ。
先に起きたのは、英の方だった。
カッと目を見開き、それまで整っていた呼吸が荒くなった。
俺はビクッとしたが、とにかく起きてくれたことに安心した。
「よかった……」
「んむう……」
一方の渡井も、唸って眉間に皺を寄せながらぼんやりと目を開けた。……これは覚醒まで時間がかかりそうだ。
「……しののめくん」
英は俺を見た。
月光が入るとはいえ部屋は暗いが、その顔が青白く、汗が光っているのがわかった。
「ありがとう。……今、立ったまま金縛りにあってた」
聞いたこともない英の状態異常に、俺は何かが起きているのだと、だから二人は肉を餌に俺を泊まりに誘ったのではないかとようやっと悟った。
……その割には結構な量の肉を取られた気がしたが。
「しのくん。先週の土曜日、肝試しあるって知ってたか?」
やっと目が覚めた渡井はソファにどっかと座り込んで聞いてきた。
「知ってましたけど……」
俺はその時のメッセージを確認する。何故か個別連絡で回ってきたそれは日時と集合場所のみの指定で、行き先は「お楽しみ」とのことだった。
タイミングの悪いことに、俺含む一年生は必修科目の課題――先輩たちにも悉く「あれはクソ」と呼ばれるほどの量と期間だ――に追われてそれどころではなかった。
「マジかよ……俺、実は嫌われてる?」
それを知った渡井はどんより重たい空気を背負ってしまった。
どうやら何も知らされていなかったらしい。
「いやそんなことありませんって。ていうか、あれ渡井先輩の企画じゃなかったんですか?」
「違う……」
「誰だってお前が言い出したんだって思うよ。それに嫌われてるの多分僕だから……あんまり誘われないし」
水を飲み、落ち着いたは良いものの重苦しい空気を纏う英を俺はまあまあと宥めた。
「英先輩、いつもこういうの参加しないじゃないですか」
誘うのも悪いかな、と他の先輩がボヤくのを俺は聞いたことがある。
「……だからだよね。だからなんだよね」
知ってたー……と突っ伏した英に、一体何があったのだろうか。もしやいつの間にかあらゆる連絡網からハブられてしまったのか。
「僕には、飲み会だと連絡が来てた」
なるほど。飲み会ならば、と行ったら肝試しに連れて行かれたのだろうか。
「どうも初めから僕を肝試しに連れて行く企画だったみたいで……」
「なんじゃそら……」
石なんぞ見てどうする――墓場への肝試しにそんなことを言っていたこの男を連れて行ってどうなるというのか。
「渡井も東雲くんもいないし、乗った車は君らとは行ったことのないボロボロの神社だし……ああ言う場所で割を食うのはいつも僕なんだ」
俺は一瞬、英は内弁慶なのだろうかと思ってしまった。英には他にも友人がいるはずなのだが。
「仕方ない。聞いたメンツの中じゃ、お前だけだろ……視えるの」
「そうだよ……ああそうだよ。そのことも、この大学じゃ二人しか知らない。気分は一人だけ笑ってはいけない大晦日の番組だ」
「言うても、視えないふりなんて俺らがいないとそんな変わるか?」
「変わる。大いに変わる。味方がいるって思うと気が楽」
少しは俺の存在も助けになっているのかと思うと、こんな状況ではあるが少し嬉しいと感じる自分がいる。暗い顔の英に、今はそれが少しだけ後ろめたくなった。
「あと視えないからこそ、気が大きくなってあれこれやらかす奴は一定数いるんだよ。二人は……いや、東雲くんはそんなことしないし、そういう奴から離れられる口実に持ってこいだ」
「おい。俺は」
「お前なら、迷わず捨てて逃げられるから」
一人にはなりたくないが、危ない奴には近付きたくないという。その気持ちは大いにわかる。
渡井に関してはノーコメントだ。
「で、何かやったんですか?」
「そう……そうなんだよ」
とても真剣な……いや悲壮な顔で英は話し始めた。
飲み会なのに車移動なんておかしいとは思ったんだよ。でも、運転するのは下戸の間宮だし、美味しい店でも見つけたんだろうと思ってついて行ったんだ。
それが、車はどんどん山の中入って行くし、他のやつはニヤニヤして僕を見てくるしで、「ああこれは担がれたな」ってわかった時には後の祭りだった。
勿論、文句は言ったけどね。
あちこち欠けたりした山道の階段を登って行ったら、鳥居が見えてきた。神社だったよ。
もう祀られてないみたいで、手入れされてない小さな社にはあちこち草が伸びまくっててさ。
嫌な予感がして、早々に切り上げようとした。
でも、車の鍵持ってた間宮が嫌がって……僕、なんでかあいつに目の敵にされてるんだよね。
それで、徒歩で帰れる場所じゃなかったから諦めたよ。
ほんとさ、怖いなら来なきゃいいのになんで怖がって他人に抱きついてくるのかね?
――あ? 春木さんとかだよ。そうだよ渡井、お前と仲良しの春木さんだよ。……は? 特に仲良くない? ああ、それでか。それで僕に乗り換えようとしたと。……はぁ。
……話逸れたけど、その神社には「願いの井戸」って言うのがあったんだ。渡井は知ってるって言ってたよな。
お金を入れると、願いが叶う井戸……ありがちだ。ベッタベタのベタだ。
馬鹿なことに「お金残ってんじゃね?」って、持ち込んだ酒を飲んでた唐田が騒ぎ出して、井戸の蓋をずらしにかかったんだ。止めても無駄だった。
……でもね。蓋がずれていくと隙間から、むわあって湿気みたいな気持ち悪い空気が溢れてきた。なんか鉄臭かったよ。
皆も感じたみたいで、誰も何も言わなくなった。あの唐田でさえ、引き攣った顔で手を止めたんだ。
だから、僕はそこで「帰ろう」と声をかけた。
そしたら、間宮のクソ野郎が「なんだよしらける」とか言いながら、石を拾って隙間から井戸に落としたわけ。
――でも「ぽちゃん」とも「かつん」ともしなかったんだ。
間宮もおかしいと思ったみたいだけど、後に引けなかったのかな。確かめようとして無理矢理蓋をずらしたんだ。
むわっとした熱気は上に散ったみたいに落ち着いた。
「暗すぎて見えねー」
その間宮の言葉に、固まってた他の人たちもわらわらと動き出して、井戸を覗き込んだ。
僕も覗かされたよ。遠慮したのに……。
んで、何もないってことで解散。間宮はそこからご機嫌さ。何せ、骨のある奴だともてはやされたんだから。
……本当、自分が視えないなら何もないってなんで言えるんだろうね。
――確かに、中は暗かったよ。でも、僕には懐中電灯の光を反射する二つの丸いものが確かに視えた。……目、だと思う。




