八
「雪」
「……あ」
雪は萎縮しながら頭を下げた。
雪を呼び止めたのは長屋の住人おとよである。
おとよは旦那と、雪と同じ歳の娘と三人で暮らしている。会うたびに難癖やら悪態をついてくるので、正直雪は苦手だった。
「りんから聞いたよ。あんた、家にも男を上げるようになったんだってね」
りんはおとよの娘である。
おとよのようにあからさまな態度は取らないが、普段は興味のないように目も合わせようとしないのだが、時折、雪の悪口を誰かと語らっては、笑っている。
「男の方なんて、上げていません」
「今だってあんたの家にいることはみんな知ってるんだから。隠したって無駄だよ」
辰巳がいることが知られてしまった。
もし番所に誰かが行っていたらと、雪の顔は青褪める。
しかしそれは、杞憂に終わった。
「お前の男好きには困ったもんだよ。
この長屋にはねぇ、りんだって住んでるんだ。悪影響ったらありゃしない」
辰巳がどうというわけではなく、おとよの関心は雪にあるのだった。
(やめて。そんな大声で話したら、辰巳さんに聞こえちゃう……)
戸口の向こう側には、辰巳がいる。
いくら願ったところで、おとよの声は嫌でも聞こえているはずだ。
そして雪は、辰巳が怪しい人物として番所に突き出されるようなことはなく、ただ自身の噂に拍車がかかっただけだと悟った。
「そんなに男が好きなら、女郎にでもなればいいんだ」
おとよの言葉は、雪を傷つけるのに充分だった。
言葉自体の意味と、辰巳に自身の噂を吹聴されたことで、雪は二重に苦しんでいた。
怖くて、悔しくて、雪は言葉が出なかった。
泣きそうになるのを止めたのは、勢いよく開かれた戸口の音だった。
「…………」
家の中にいるのは、辰巳をおいて他にはいない。
つまり今、戸口を開けて雪の後ろにいるのは辰巳だ。
おとよの言葉を聞いた辰巳は、きっと忌むべきもののように自分を見ているに違いない。
雪はとても、後ろを振り返ることはできなかった。
すると、視界に映るおとよの顔に恐怖が滲んでいた。
恐れをなしているのか、一歩、また一歩と後退る。
次いで雪は考える間もないまま、腕を引っ張られて家の中に引き込まれていく。
おとよの姿は戸口に遮られた。
「ちっ、うるせぇばばあだ」
掴まれた腕は離され、辰巳は部屋に引き返していく。
雪はやっと、辰巳を見た。
「……聞いてしまったんですね」
この人にだけは知られたくなかった。
雪はそう、切実に思った。