五
数刻後、すでに他の住人たちは寝静まったようで、辺りは暗闇と静寂に包まれている。
その中でぼんやりと、辰巳の傷口を照らすのは行燈の明かりだった。
まだ傷口は、完全には塞がっていない。
幸いにも利き腕ではない左腕を怪我していたので、さほど日常生活に支障はきたさなかった。
「……っ!」
傷口から雪に塗ってもらっている薬が染み、辰巳は顔を歪めた。
「あと少しだけ、我慢してください」
雪は、自分が悪いとでも言うように、申し訳なさそうな顔をしている。
今日までで辰巳がわかったのは、雪は大人しいだけでなく、遠慮深い女だということだ。
傷の手当て、食事の用意、他にも至れり尽くせりだ。
主導権は雪にあるはず。でも雪は、見返りを求めたり、一言も気の強いことを言わない。
むしろ機嫌を損なわせないように気を遣っている。
何気に飯が美味いと囁けば、お世辞だと思われる。
雪の料理を美味しいと感じているのは本心だった。
なのに、褒められること自体を経験してこなかったとでもいうような反応をされる。
「終わりました」
腕には新しい晒が巻かれていた。
「他に怪我をしているところはありますか?」
「腹が、少し。蹴られたんだ」
おもむろに、辰巳は着流しの袖から手を抜いて、上半身を露わにした。
雪はといえば、反射的に顔を逸らしてしまった。
「どうした?見てくれねぇのか」
見慣れない男の身体を目の当たりにして、雪はたじろいだ。
しかし怪我をしていると言われた以上、背けたままではいられない。
具合を見ようと伸ばした手は刹那、辰巳に取られ、ぐいと引っ張られる。
前のめりに倒れ込んだ雪の身体は温かい肌と触れ合い、感触がこれでもかと伝わってきた。
急に引き寄せられたことで、すぐには状況が理解できなかった。
顔を上げれば、辰巳の顔が間近にある。男の身体にもたれかかり、触れ合う手と手。
状況を理解したときには、雪は顔を赤らめ硬直していた。
「お前は、気を許しすぎだ」
いとも容易く、触れることさえできる。
こうして、引き寄せることも。
「…………」
熱のこもった辰巳の視線に耐えきれず、雪は視線を逸らした。
やんわりと抵抗したくらいでは離してくれない。
辰巳が何を言いたいのか、雪にはわかる。
見知らぬ男と一つ屋根の下で暮らしている事実を、改めて教えてくれたのだ。
もしも、求められたら……
微かな期待を抱いているということは、辰巳のことが嫌ではない証左だった。
「……ごめんなさい」
激しく波を打つほどの鼓動、しかし雪の心は徐々に冷静になりつつある。
自分を女として求めてくれる人など、いるわけがない。
辰巳はただ単に、警戒心のない少女を注意しているだけだ。
期待など、羞恥でしかない。
「何で謝るんだ。俺は……」
辰巳は雪の身体を離して、しかし言葉の続きは言わなかった。
「お腹、少し痣が」
「こっちは大したことない。……悪かったな」
雪は謝られる理由がわからなかった。
聞き返さなかったのは、気まずい空気ができてしまったからである。
辰巳の鍛えられた身体、声、そして感触を忘れられないまま、雪は寝床についた。
目を閉じても、瞼は揺らめいてしまう。
眠りにつくまでには、時間を要した。