四
紺色の暖簾に弥勒屋の文字。
戸口は開け放たれたままで、中を窺えば、昼の混雑時を過ぎていて客がまばらにいる程度である。
雪は一呼吸して、足を踏み入れた。
「いらっしゃい!」
愛想よく挨拶したのは、中年と思われる女だった。
この人が女将だろうか。
好きなところに座ってと、これもまた気持ちのよい返事をされる。
飯屋に入るには珍しいであろう女一人で来たのにも関わらず、特に驚きもせずに応対されたことに感じ入ってしまった。
だが、雪は客ではない。
雪は女を呼びとめた。
「あの、すみません。この店のご主人か、女将さんはいらっしゃいますか?」
女はきょとんと、雪を見返す。
顔にある皺は歳を感じさせてしまうが、張りのある声と仕草は若かった。
「主人なら向こうに、女将は私だけど」
やはり女は、この店の女将だった。
女将の指さした先にあるのは、おそらく調理場だろう。
「辰巳さんから文を預かっているんです。和泉さんに、お渡ししてほしいそうで」
和泉に文を渡せ、とは辰巳から言付かっていることであった。
「あら、辰巳ったら最近、音沙汰なしだったから心配していたのよ。和泉も知らないって言うから」
辰巳が怪我をしていることは伏せることにした。
女将に隠したいことかもしれないし、言ってしまって女将の不安を煽ってもいけない。
心底、辰巳の安否を心配していたような女将は、一瞬辰巳の母かとも思ったが、料理屋の子どもが浪人のわけがない。
親しくしている間柄といったところか。
和泉は友人なのか、それとも……
もしも辰巳の好い人だったら……そう思えば、雪の心はもやっとした何かに襲われた。
「辰巳さんは元気です。今日は来れないそうで、私が代わりに来ました」
自分は何を考えているのか。
雪は自分に呆れて、思考を遮るように言葉を紡いだ。
「そうかい。なら安心したよ」
女将は笑顔で文を受け取った。
挨拶もそこそこに帰ろうとした雪の足は、女将の言葉で止まった。
「辰巳にこんな可愛い子がいたとわねぇ」
すぐには女将の言葉の意味が理解できなかった。
そして理解できたときには、女将が次の言葉を続けていた。
「ぶっきらぼうな人だけど、根は優しいからさ。辰巳のこと支えてあげておくれよ」
「ちが……」
「ご馳走さん」
否定しようとした言葉は、食事を終えた客の声に被せられた。
「ありがとよ!また来ておくれ」
女将はそそくさと、食器を取り下げにかかる。
雪には目で挨拶をして、奥へと消えていった。
いつまでも客ではない自分が店に居座っていても邪魔なだけだと、雪は否定することをやめて、店を出たのだった。
(どうしよう……誤解された)
やはりきちんと弁明した方がよかったのだろうか。
しかし、わざわざ弁明するためだけに店に引き返すのは大袈裟だ。
(きっと、後で辰巳さんが誤解を解いてくれる)
申し訳ないのは、自分なんかが好い人だと思われたことだ。
誤解とはいえ、辰巳は嫌がるに決まっている。
雪の足取りは重かった。
神田から帰る道すがら、すれ違う行商から夕餉の買い物をする。
いつもなら最低限の栄養のあるおかずを一品作るか、買うか、朝炊いた米をおじやにしてしまうかという簡単な料理しかしていなかった。
しかし客人がいる以上、手抜きはできない。
料理ができないわけではないので、苦労はしなかった。
「文は女将さんに渡しました。辰巳さんのことが心配だったそうです。怪我をしていることは言っていません」
雪は夕餉の準備をしながら辰巳に話しかけた。
「そうか。あの店にはほぼ毎日行ってるからな。女将と主人とは親しいんだ」
今度お前も来い……と言おうとして、辰巳は慌てて口を閉じた。
(俺は、何を言おうとしている……?)
「先に食べていてください」
こと、と食器を卓に置いた音で、辰巳は我に返った。
動揺は表には出ていたかったようで、雪は気づいていない様子だ。
雪が差し出した皿の上には、大豆の煮物が置かれている。雪はすでに、他のおかずの調理に取りかかっていた。
食欲をそそられる匂いに腹の音が鳴る前に、辰巳は素早く大豆を口の中に入れた。
怪我をしている辰巳を気遣ってか、柔らかくなるまで煮込んである。
(美味い)