三
雪は早速、男に紙と筆を差し出した。
「どうぞ」
「ありがとよ」
男はすらすらと文字を書き連ねていく。
思わずじっと男の手元を見ていたことに気づいて、雪は腰を上げた。
見たところで文字は読めない。
だが、人の文を盗み見るのはよくないことだ。
隠す様子も咎められもしなかったが、何も言わない男に急に恥ずかしくなる。
そして、字が書けることが少しだけ羨ましかった。
(大人しい女だ……)
何も尋ねてこないどころか、自分からは会話すらしようとしない。
男はお喋りな質ではなかったので、無闇に話しかけられるよりはましだった。
今も一心に、内職だろうか、巾着袋を作っている。
「すまねぇ。もう一つ、頼まれてくれねぇか」
男は書き終えて折り畳んだ文を渡した。
「これを、神田にある弥勒屋に届けてくれ。主人か女将に渡せばいい。辰巳からって言えば、向こうもわかる」
「辰巳……さん?」
「俺の名前だ」
「あっ……名乗り遅れました。私は雪です」
恥ずかしがるように、失礼な振る舞いをしてしまったことを後悔するように、雪はおずおずと口を開いた。
辰巳に対して詮索はしないように心がけていた雪は、自身の名前をあえて教えなかったわけではない。
ただ、言う機会がなかっただけである。
辰巳はそんな雪の様子を、何度か瞬きしながら見つめた。
慌てた様子に、ただの大人しい女ではなく、少女の可愛らしさを見つけてしまった。
「いや、俺の方こそ遅れた。名前くらい聞いてもよかった……って、俺も同じか」
「……弥勒屋、ですね」
「ああ。世話になるな」
よかった。怖い人ではなさそうだと、雪は安堵する。
少し話したくらいで、会ったばかりの辰巳の何がわかるというのか。
しかし雪は、気を許しすぎているとは考えていなかった。
弥勒屋は、神田にある一膳飯屋だという。
所在を辰巳から細かに聞き、雪は弥勒屋へと赴いていた。
雪の住む長屋は湯島天神の近くにある。北には上野、もう一足行けば浅草が望める。
そして、南にあるのが神田だった。
長屋から神田まではそう遠くなく、雪は神田に行くのには慣れていた。
というのも、雪は内職で巾着袋を作っているのだが、その納め所が神田にあり、足繁く通う場所である。
弥勒屋は巾着袋の納め所からは離れているので、初めて通る道ではあったが、何となく町の構造が頭に入っている分、迷うことなく辿り着くことができた。