三十四
見ず知らずの男二人に引きずり込まれたのは、どこか人気のない橋の下。
陽はもう、沈みかけている。
勾引かしか、雪が瞬時に頭を過ぎったのはその可能性だった。
恐怖で締めつけられた身体は助けを求めたいのに、一人の男に口を塞がれていて声を出せない。
必死に抗っても、力で敵うはずがなかった。
もう一人の男が、雪の着物を無理やり脱がせにかかる。
雪はそこで、男たちの目的が読めてしまった。
必死に拒絶して、口の呪縛が解けた刹那、雪の悲痛な声が漏れた。
「いやっ!辰巳さん、助け……」
頬を襲った容赦のない痛みに、雪は眩暈を起こしそうになる。
口の中に鉄錆の味が広がり、恐怖は倍増して声も出せなくなっていた。
「恨むなら辰巳を恨めよ」
降り注ぐのは、二人の下卑た笑みだった。
「雪……?」
夜半、辰巳は朝に伝えた通りに、雪の家を訪れていた。
しかし、健気に待っていると言ってくれた雪の姿がない。
和泉という邪魔が入った所為で、肝心なことは言えなかったが、想いは通じ合ったはずだ。
出て行ったという考えも一瞬浮かんだが、朝の雪の様子からもすぐに否定できる。
ならば、雪はこんな真夜中にどこへ行ってしまったというのか……
いつものようにあやとりをしながら待っている雪を想像していた。
朝に炊いた飯はお櫃に入ったまま。
家を出る前まで作っていたであろう巾着袋が増えているだけで、あとは朝の様子と変わりがない。
嫌な予感とともに、辰巳は急いで雪の姿を探しに外へと引き返した。
「お雪ちゃんがいない?」
長屋の近辺に雪はいなかった。
雪がよく足を延ばしていた神田まで探しに行って、弥勒屋にいた和泉に事情を話し、雪を探すのを手伝ってもらうことにした。
「心当たりは?」
「知っている限りは探したはずだ。それに、俺が来ると知っていてそう遠くまで行かねぇと思う」
「なら、もう一度長屋の近くを探してみよう。何かわかるかもしれない」
もしも雪の身に何かがあったら……
辰巳は冷静ではいられなくなっていた。
和泉も内心穏やかではないが、辰巳の気持ちを汲み取って思考は冷静に努める。
「この先は?」
「どぶ川に架かる橋があるだけだ。まさか……」
そんなところに雪がいるわけがない。
雪が住んでいる長屋からは近く、長屋に続く道の両手には延びきって放置されたままの草木が生えていて、和泉はその草木に目をつけた。
和泉は草木を提灯で照らす。
「不自然な跡がある……人が」
通ったのかもしれないと言い切る前に、辰巳は草木の先を抜けようとしていた。
痛い、怖い……
身体は悲鳴を上げているのに、ぴくりとも動かない。
男たちは、ことを済ませただけでは満足しなかった。
懐から取り出した匕首で、命までもを奪おうとしていた。
(このまま……死んじゃうんだ)
どんなに苦しくても、助けを求める気力はない。
すでに身も心もたくさん傷つけられていて、雪は静かに死を受け入れることしかできなかった。
刀身の煌めきから目を逸らして横を見やれば、地面に落ちた簪が視界に映る。
雪は簪に手を伸ばして、最後に幸せな夢を見ようと、辰巳と一緒に浅草へ行った日のことを瞼の裏に思い描いた。
「雪っ!!」
まさに男が匕首を突き刺そうとした瞬間に聞こえた辰巳の声で、匕首は雪の間際で止められた。
「ちっ、見つかっちまったか」
「逃げるぞ」
辰巳は地面に横たわっている雪を見て、すぐさま駆け寄る。
雪を殺そうとした男たちは逃げてしまったが、男たちを追いかけるよりも、雪の方が優先だ。
「…………!」
間近で雪を確認できたとき、その無残な姿に目を見開いた。
「雪!しっかりしろ、雪!」
殴られたような痕、何より胸を抉るのは凌辱の痕だった。
「……酷い」
和泉は怒りで震えながら柄を握る。
あとは言葉にできない怒りや哀しみが込み上げるだけだった。
辰巳も言葉を紡げないまま、雪を抱えて歩き出す。
動いた拍子に、雪の手から何かが落ちるのを和泉は見た。
辰巳は気づかないで、そのまま雪を連れ去って行く。
(これは……)
雪が最後に縋った大切な簪は、土に汚れてしまっていた。




