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まつとし聞かば  作者: 夏野
第一幕 少女、雪中花の如く
31/202

三十

 知りたくないわけではない。

 正体を知ってしまえば、辰巳がいなくなってしまいそうで、雪は何も聞けなかった。


 言葉で聞いたことはないけれど、自分は愛されている。

 雪はそう信じていた。


 一緒に浅草へ出掛けたあの日の出来事も、夢ではないのだから。


「雪、何かあったのか?」


 不安が顔に出てしまっていたのだろうか。雪は辰巳に(さと)られまいと努める。


「何もないですよ」


 雪は嘘を吐いていると、辰巳はすぐにわかった。

 わかりやすい様子だったわけではなく、気持ちの機微(きび)に気付けるほどまでには、一緒に過ごしてきた。


 また誰かに、嫌な噂の一つでも言われてしまったのだろうか。

 それとも、雪が不安に思っているのは他の誰でもなく自分の所為(せい)ではないだろうか……

 辰巳は充分すぎるほどに、心当たりがあった。


夕餉(ゆうげ)、作りますね」


 雪は腰を上げて、準備をしようとする。


 もう一度、辰巳が雪に問おうとした刹那(せつな)、来訪者が現れた。


「伊吹さん……」


 先日に続き、伊吹は突然やって来る。

 切羽詰まっているような伊吹を見るのは、初めてだった。


 伊吹の視線は、雪ではなく辰巳へと注がれる。


「お前の所為で、お雪ちゃんが悪く言われるんだ」


 辰巳に(にら)み返されたところで、伊吹は(ひる)まない。

 焦燥(しょうそう)、怒り、どれをとっても、雪のためにという大義名分の前に、伊吹は自身の感情さえ見失っていた。


「ただ、お雪ちゃんの体が目当てなんだろ?」


「ちが……」

「だったらなんだ」


 雪の否定を(さえぎ)ったのは、辰巳の声だった。

 その言葉は雪を()てつかせ、声すら出せなくなった。


 辰巳は雪の肩を自身の方へ、伊吹に見せびらかすように引き寄せる。


「俺たちのことは、お前にとやかく言われる筋合いはねぇよ。雪も嫌がってねぇしな」


 雪が可哀そうで、同時に不純だと伊吹は感じた。

 信じていた気持ちは打ち砕かれて、雪に対する恋慕(れんぼ)の情は消えてしまった。


 雪を見つめる伊吹の顔は苦しそうで、やがて(あきら)めたようなやるせない表情へと転じさせる。


 その後、何を言うでもなく伊吹は静かに、雪の家を去っていった。


「なぁ、雪……」


 そっと立ち上がった雪に、後の言葉は続かなかった。

 雪は何事もなかったかのように夕餉を作り始めた。



(そう、だったんだ……)


 信じていた人に裏切られたのは、伊吹だけではなく、雪も同じだった。


 辰巳は自分を()いてなんかいない。求めているのは体だけ。


 何度疑っても、愛されているのだと信じていたかった。

 父にとってお金をくれる自分が都合のいい子どもだったように、辰巳にとっても都合のいい女に過ぎなかったということだ。


 (みじ)めな自分は、いまだ事実を受け入れることができないのか、涙は出てこなかった。


 ある日の昼、雪は長屋の外で伊吹とばったり会った。


 気まずさはなかった。あるのは、もう昔のようには話せない冷え切った他人の関係だった。


 二人は挨拶(あいさつ)もなしに背を向けて去る。

 雪は数歩、歩いたところで後ろから伊吹の声が聞こえた。


「お雪ちゃんが、そんなに汚い子だとは思わなかったよ」


 立ち尽くしていたら、夏の陽射しを受けて、額から頬へと汗が(したた)り始めた。


 うるさいほどに鳴いている蝉は、遠くでその存在を主張している。

 近くでほくそ笑んでいたのは、雪の不幸を願う少女だった。


 雪は地面に足を着く感覚さえ定かでないまま家に戻り、戸を閉め、一人になったときにはじめて(むせ)び泣いた。

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