三十
知りたくないわけではない。
正体を知ってしまえば、辰巳がいなくなってしまいそうで、雪は何も聞けなかった。
言葉で聞いたことはないけれど、自分は愛されている。
雪はそう信じていた。
一緒に浅草へ出掛けたあの日の出来事も、夢ではないのだから。
「雪、何かあったのか?」
不安が顔に出てしまっていたのだろうか。雪は辰巳に悟られまいと努める。
「何もないですよ」
雪は嘘を吐いていると、辰巳はすぐにわかった。
わかりやすい様子だったわけではなく、気持ちの機微に気付けるほどまでには、一緒に過ごしてきた。
また誰かに、嫌な噂の一つでも言われてしまったのだろうか。
それとも、雪が不安に思っているのは他の誰でもなく自分の所為ではないだろうか……
辰巳は充分すぎるほどに、心当たりがあった。
「夕餉、作りますね」
雪は腰を上げて、準備をしようとする。
もう一度、辰巳が雪に問おうとした刹那、来訪者が現れた。
「伊吹さん……」
先日に続き、伊吹は突然やって来る。
切羽詰まっているような伊吹を見るのは、初めてだった。
伊吹の視線は、雪ではなく辰巳へと注がれる。
「お前の所為で、お雪ちゃんが悪く言われるんだ」
辰巳に睨み返されたところで、伊吹は怯まない。
焦燥、怒り、どれをとっても、雪のためにという大義名分の前に、伊吹は自身の感情さえ見失っていた。
「ただ、お雪ちゃんの体が目当てなんだろ?」
「ちが……」
「だったらなんだ」
雪の否定を遮ったのは、辰巳の声だった。
その言葉は雪を凍てつかせ、声すら出せなくなった。
辰巳は雪の肩を自身の方へ、伊吹に見せびらかすように引き寄せる。
「俺たちのことは、お前にとやかく言われる筋合いはねぇよ。雪も嫌がってねぇしな」
雪が可哀そうで、同時に不純だと伊吹は感じた。
信じていた気持ちは打ち砕かれて、雪に対する恋慕の情は消えてしまった。
雪を見つめる伊吹の顔は苦しそうで、やがて諦めたようなやるせない表情へと転じさせる。
その後、何を言うでもなく伊吹は静かに、雪の家を去っていった。
「なぁ、雪……」
そっと立ち上がった雪に、後の言葉は続かなかった。
雪は何事もなかったかのように夕餉を作り始めた。
(そう、だったんだ……)
信じていた人に裏切られたのは、伊吹だけではなく、雪も同じだった。
辰巳は自分を好いてなんかいない。求めているのは体だけ。
何度疑っても、愛されているのだと信じていたかった。
父にとってお金をくれる自分が都合のいい子どもだったように、辰巳にとっても都合のいい女に過ぎなかったということだ。
惨めな自分は、いまだ事実を受け入れることができないのか、涙は出てこなかった。
ある日の昼、雪は長屋の外で伊吹とばったり会った。
気まずさはなかった。あるのは、もう昔のようには話せない冷え切った他人の関係だった。
二人は挨拶もなしに背を向けて去る。
雪は数歩、歩いたところで後ろから伊吹の声が聞こえた。
「お雪ちゃんが、そんなに汚い子だとは思わなかったよ」
立ち尽くしていたら、夏の陽射しを受けて、額から頬へと汗が滴り始めた。
うるさいほどに鳴いている蝉は、遠くでその存在を主張している。
近くでほくそ笑んでいたのは、雪の不幸を願う少女だった。
雪は地面に足を着く感覚さえ定かでないまま家に戻り、戸を閉め、一人になったときにはじめて咽び泣いた。