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まつとし聞かば  作者: 夏野
第一幕 少女、雪中花の如く
30/202

二十九

 一目惚れ、だったのだと思う。

 長屋に越してきた初日に、猫と(たわむ)れている姿を見て、単純だけど、可愛いと感じた。


 実際に話してみれば大人しすぎる性格で、滅多に笑いもしない暗い娘だった。


 時たまに見せてくれる笑顔。その笑顔をもう一度見たくて、でも何度話しかけても滅多には笑ってくれない。


 しばらくして、彼女に関する悪い噂を聞くようになった。


 男好きで、出合茶屋(であいぢゃや)で色を売っている女の子。


 そんな噂を信じるわけがなかった。

 彼女は純粋で、とても出合茶屋にいるところなど想像もできない。


 彼女は長屋の住人に嫌われている。その理由はわからない。

 でも、自分だけは彼女を信じている。


 (まれ)に見る彼女の笑顔を毎日見たかった。

 この想いを伝えられずにいれば、いつの間にやら彼女の隣を歩く男が現れた。


 湯島天神で見かけた男、それに偶々(たまたま)夜の長屋で見かけた男。

 二人は違う人物だった。


 もしかして、彼女は本当に噂通りの人ではないのか……?


 そう思い始めるようになってしまったのは、最近だった。


(違う。お雪ちゃんはそんな子じゃない)


 伊吹は、自身の愚かな考えに、必死に首を振った。


 雪が噂のような人ではないという、確たる証拠がほしい。

 伊吹の脳裏(のうり)にこびりついて離れないのは、自分にではなく違う男に向けていた笑顔だった。


「お雪ちゃん!」


 急に家に入り込んできた伊吹に、雪は巾着(きんちゃく)袋を作っていた手を止めて身体を強張(こわば)らせる。


 驚いたものの、相手が伊吹だとわかり、ほっとした。


「どうしたんですか?そんなにあわてて」


「あの男とはすぐに別れるんだ」


 湯島天神で見かけた男は雪と一緒に歩いていただけで、ただの知り合いかもしれない。

 だが、家の前で熱い抱擁と接吻(せっぷん)を交わしていた男は……


「何を……」


 唐突に言われた言葉を、雪はすぐには理解できなかった。


「お雪ちゃんは(だま)されているんだ。あんな男といたら、もっと悪い噂が立っちまう」


 それが辰巳のことを指しているのだと理解したとき、雪は自然に口走った。


「あの人のことを悪く言わないで。伊吹さんは何も知らないでしょう?」


 長屋で見かけた男は、りんの言っていたように胡散(うさん)くさい浪人に見えた。

 雪みたいな大人しくて純粋な子が、関わっていい人物ではない。


 伊吹はあせるあまりに、周りを見失っていた。


「なら、お雪ちゃんはあの男のことを知ってるのか?」


 雪は言い返せなくなった。

 いまだに辰巳が何処(どこ)に住んでいるのかも、出自さえ知らない。


 りんに詰め寄られたときと同じ心地だった。

 相手のことを知らないのに、どうして遊ばれていないと言えるのか。

 伊吹もまた、そう言っている。


「もうあの男と関わっちゃいけない。お雪ちゃんがだめになる」



 雪に詰め寄ってから数日後、伊吹は盛大な溜息を吐きながら、井戸をんでいた。


 あれから雪と顔を合わせることはなかったものの、雪との気まずさは以前よりも深刻なものになってしまった。


「伊吹さん、元気ないみたい。何かあったの?」


 落ち込む伊吹に声をかけたのは、同じ長屋の住人のりんである。


「お雪ちゃんは絶対、だまされてる」


「………………」


 開口一番に雪の名前が出て内心、気を悪くしたりんだったが、伊吹の手前、顔には出さずに聞いた。


「早く目を覚まさせないと、お雪ちゃんが可哀そうだ」


「本当にそうなのかな?」


 伊吹はりんを見返した。


「お雪さんは騙されてるんじゃなくて、愛し合っているだけかもしれないよ」


「でも……」


「それか噂の通り、お互いに割り切っている関係だったりしてね」


 雪はふしだらな女だと、思い込ませればいい。

 あと少しで、伊吹の心は雪から離れるとりんは確信した。


「お雪ちゃんに限って、そんなわけ……」


「いま、お雪さんの家には男の人がいるよ」


 手に持っていたおけが滑り落ちて、ごとんと地面を打ちつける。

 まるで、伊吹の心の衝撃のような音を立てた。


「確かめればわかるかも」


 伊吹は恐る恐る、長屋の裏手に回った。

 中を望めるような隙間はなかったが、簡素な板で作られた長屋は、耳をすませば声が漏れ聞こえてきた。


 人の家に聞き耳を立てるなど(はばか)られる行為だ。

 しかし、誰もいない長屋の裏手にて、伊吹に躊躇ためらいはなかった。


「お前も段々、よくなってきただろ?」


 雪の家から男の声がした。

 眩暈(めまい)を起こしそうになったのは、雪の声がはっきりと聞こえたからだった。


「辰巳さん……」


 雪は何度も、男の名前を呼んでいた。

 苦しみながらも(えつ)が混じった、(あえ)ぎの中で。


 真昼間からことに及ぶ雪は、およそ伊吹の知っている雪ではなかった。

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