二十九
一目惚れ、だったのだと思う。
長屋に越してきた初日に、猫と戯れている姿を見て、単純だけど、可愛いと感じた。
実際に話してみれば大人しすぎる性格で、滅多に笑いもしない暗い娘だった。
時たまに見せてくれる笑顔。その笑顔をもう一度見たくて、でも何度話しかけても滅多には笑ってくれない。
しばらくして、彼女に関する悪い噂を聞くようになった。
男好きで、出合茶屋で色を売っている女の子。
そんな噂を信じるわけがなかった。
彼女は純粋で、とても出合茶屋にいるところなど想像もできない。
彼女は長屋の住人に嫌われている。その理由はわからない。
でも、自分だけは彼女を信じている。
稀に見る彼女の笑顔を毎日見たかった。
この想いを伝えられずにいれば、いつの間にやら彼女の隣を歩く男が現れた。
湯島天神で見かけた男、それに偶々夜の長屋で見かけた男。
二人は違う人物だった。
もしかして、彼女は本当に噂通りの人ではないのか……?
そう思い始めるようになってしまったのは、最近だった。
(違う。お雪ちゃんはそんな子じゃない)
伊吹は、自身の愚かな考えに、必死に首を振った。
雪が噂のような人ではないという、確たる証拠がほしい。
伊吹の脳裏にこびりついて離れないのは、自分にではなく違う男に向けていた笑顔だった。
「お雪ちゃん!」
急に家に入り込んできた伊吹に、雪は巾着袋を作っていた手を止めて身体を強張らせる。
驚いたものの、相手が伊吹だとわかり、ほっとした。
「どうしたんですか?そんなに慌てて」
「あの男とはすぐに別れるんだ」
湯島天神で見かけた男は雪と一緒に歩いていただけで、ただの知り合いかもしれない。
だが、家の前で熱い抱擁と接吻を交わしていた男は……
「何を……」
唐突に言われた言葉を、雪はすぐには理解できなかった。
「お雪ちゃんは騙されているんだ。あんな男といたら、もっと悪い噂が立っちまう」
それが辰巳のことを指しているのだと理解したとき、雪は自然に口走った。
「あの人のことを悪く言わないで。伊吹さんは何も知らないでしょう?」
長屋で見かけた男は、りんの言っていたように胡散くさい浪人に見えた。
雪みたいな大人しくて純粋な子が、関わっていい人物ではない。
伊吹は焦るあまりに、周りを見失っていた。
「なら、お雪ちゃんはあの男のことを知ってるのか?」
雪は言い返せなくなった。
いまだに辰巳が何処に住んでいるのかも、出自さえ知らない。
りんに詰め寄られたときと同じ心地だった。
相手のことを知らないのに、どうして遊ばれていないと言えるのか。
伊吹もまた、そう言っている。
「もうあの男と関わっちゃいけない。お雪ちゃんがだめになる」
雪に詰め寄ってから数日後、伊吹は盛大な溜息を吐きながら、井戸を汲んでいた。
あれから雪と顔を合わせることはなかったものの、雪との気まずさは以前よりも深刻なものになってしまった。
「伊吹さん、元気ないみたい。何かあったの?」
落ち込む伊吹に声をかけたのは、同じ長屋の住人のりんである。
「お雪ちゃんは絶対、騙されてる」
「………………」
開口一番に雪の名前が出て内心、気を悪くしたりんだったが、伊吹の手前、顔には出さずに聞いた。
「早く目を覚まさせないと、お雪ちゃんが可哀そうだ」
「本当にそうなのかな?」
伊吹はりんを見返した。
「お雪さんは騙されてるんじゃなくて、愛し合っているだけかもしれないよ」
「でも……」
「それか噂の通り、お互いに割り切っている関係だったりしてね」
雪はふしだらな女だと、思い込ませればいい。
あと少しで、伊吹の心は雪から離れるとりんは確信した。
「お雪ちゃんに限って、そんなわけ……」
「いま、お雪さんの家には男の人がいるよ」
手に持っていた桶が滑り落ちて、ごとんと地面を打ちつける。
まるで、伊吹の心の衝撃のような音を立てた。
「確かめればわかるかも」
伊吹は恐る恐る、長屋の裏手に回った。
中を望めるような隙間はなかったが、簡素な板で作られた長屋は、耳をすませば声が漏れ聞こえてきた。
人の家に聞き耳を立てるなど憚られる行為だ。
しかし、誰もいない長屋の裏手にて、伊吹に躊躇いはなかった。
「お前も段々、よくなってきただろ?」
雪の家から男の声がした。
眩暈を起こしそうになったのは、雪の声がはっきりと聞こえたからだった。
「辰巳さん……」
雪は何度も、男の名前を呼んでいた。
苦しみながらも悦が混じった、喘ぎの中で。
真昼間からことに及ぶ雪は、およそ伊吹の知っている雪ではなかった。




