二
おさいには六つになる息子がいた。
息子は手習所に通っているのだが筆達者だそうで、両親がたくさん紙を与えて文字を書かせている。
その反故紙を、おさいは長屋の住人に備忘録やら書留用にと分け与えていたのだった。
「すみません、雪です」
呼びかけてすぐに戸口が開いた。
姿を現したのは、おさいである。
「おや、何だい」
おさいは雪を見て、眉を顰めた。
嫌なものを見たような態度をされ、事実そうなのだが、雪は慣れていた。
「あの……反故紙を一枚もらえないでしょうか?」
「もらってどうするんだい?」
まさか用途を聞かれるとは思わなかったので、雪は戸惑った。
おさいは反故紙を分け与えるときに、いちいち用途など聞いていなかったはずである。
「……えっと、書き留めたいことがあって」
怪我をしている浪人を匿っている。その浪人が、文を書きたいのでもらいたい、とは、口が裂けても言えない。
雪は咄嗟に嘘を吐いた。
「あんた、字なんか書けないだろ。何に使うか知らないけど、迷惑をかけられるのは御免だよ」
つまり、雪にあげる紙はないということだ。
僅か数日足らずで手習所を辞めた雪が、字を書けないのは事実である。
おさいがその事情を知っているのかはわからなかったが、頭から無学な女だと、決めつけているのかもしれなかった。
「迷惑は……」
かけないと言おうとして、おさいは戸口をぴしゃりと閉めた。
たった一枚の反故紙すら、雪はもらえなかった。
雪は仕方がないと肩を落として、紙と筆は四文屋で買うことに決めた。
物言わぬ戸口の前に居続けたら、情けなくなって泣きたくなるだけである。
雪が四文屋へ行こうと身体を翻したとき、声をかけられた。
「お雪ちゃん」
振り返れば同じ長屋の住人、伊吹がいた。
歳は雪の三つ上で、貸本の行商をしている青年である。
「これを使いな」
そう言って、伊吹が差し出したのは真新しい紙だった。
伊吹を見返せば、優しい笑顔がある。
「いいんですか?」
「帳面の切れ端で悪いけど、今はそれしか持ってないんだ」
「そんな大事な物を……」
「俺しか見ない帳面、一枚千切ったところでどうってことないさ」
遠慮しながら受け取った紙は、確かに千切ったような跡が端にあった。
もちろん、何も書いていない紙である。
「筆はあるかい?」
「いえ……」
「わかった。今すぐ持ってくるから」
「あ、あの」
急いで踵を返した伊吹は、顔だけ雪に向けた。
「ありがとうございます。とても助かります」
この長屋の住人で唯一、雪に優しくしてくれるのは伊吹だけだった。
住人に何か言いがかりをつけられたときに庇ってくれたり、時々気にかけてもくれる。
伊吹は誰にでも親切で、雪が長屋の住人から嫌われていることを知っていても、態度を変えたりはしなかった。
雪と関わるのはやめろ、お前まで変な目で見られてしまうと、伊吹が言われているのを雪は聞いたことがある。
それでも伊吹は、普通に話してくれた。
感謝はしているが、本当に伊吹が悪く言われるようなことがあってはと、雪はなるべく関わらないようにしている。
だけど、伊吹の優しさはうれしかった。
顔は自然と綻ぶ。
筆と墨まで貸してくれた伊吹に充分に礼を言って、雪は家に戻った。
(へへっ……いいもん見れたな)
雪は滅多に笑わない。
しかも話しかけても、会話が続かなかった。
それでも伊吹が雪に話しかけるのは、伊吹の心をくすぐる、ごく稀に見ることのできる雪の笑顔が見たいからだった。