二十四
「ふふっ」
触れ合う間際で女がくすりと小さく笑う。その仕草さえしなやかだった。
雪が抵抗しなかったことに満足したのか、女は雪から離れた。
「どうして、私をここに連れてきたんですが?」
この質問は今さらだったが、美人に詰め寄られた照れを隠すために雪は言った。
「困っていたから助けてあげたくなっただけ。余計なお節介だったら帰っていいよ」
「もしかして、化粧を……?」
女はそうだという返事の代わりに、雪が買ったばかりの化粧品を手に掲げる。
要は、化粧のやり方を教えてくれるようだ。
「あとは、貴女をもっと可愛くしてあげたかったの」
店内には雪と女の二人しかいない。
一つ一つの音が研ぎ澄まされて、相手の息遣いすら互いに聞こえてしまう。
雪は女に化粧を施されるままに身を委ね、女の説明に懸命に耳を傾けた。
紅の差す塩梅や塗る箇所、どれをとっても化粧というのは複雑で難しい。
女は化粧に慣れているが、雪は化粧に慣れていない。相反する二人は、けれど波長が合うのか、話していて互いに居心地がよかった。
「終わったわよ」
最後に、唇に紅を引いて、女はそっと指を離した。
雪が女に促されて鏡を見れば、知らない自分の顔があった。
「化粧って、こんなに変わるんだ……」
少女の顔からはあどけなさが消え、誘うような唇には色気があった。
大きい瞳を潤ませれば、地味な面影は消えている。
「元がよくなきゃ、こんなに綺麗にはならないわ」
女はどこまでも褒めてくれるが、今まで可愛いと言われたこともなければ、見違えたのだは化粧と女の技術のお蔭だと、雪は思っている。
この姿ならば、辰巳の隣を歩いても恥ずかしくはないだろうか……
「通りすがりの者に、こんなに親切にしてくれてありがとうございます」
「堅苦しくしなくていいよ。私は紫乃ってんだ」
「雪、です。紫乃さんはここで働いているんですか?」
「一応、主人をやらせてもらってるの」
女は自分よりも少し歳上くらいに見える。
もしかしたら、実年齢よりも若く見えているのかもしれない。
いずれにせよ、そのくらいの齢で店の主人とは感心するしかなかった。
「雪が思っているような店じゃないよ、ここは」
いきなり呼び捨てで呼ばれたことに内心驚くも、紫乃からであれば嫌ではなかった。
紫乃は、少し翳りのある笑みを見せる。
「一見、ただの居酒屋に見えるだろうけど、鈴鹿に来る客は男ばかり。その客の相手をするのは女たち。二階ではその男女が二人きりになれる。そういう店よ」
かの有名な吉原のように幕府から公認されてはいないが、岡場所やここ鈴鹿のように、幕府の非公認で女が色を売る場所は数多に存在している。
つまり鈴鹿は、一階は飲み屋の体を装っていて、二階がことに及ぶ場となっていた。
雪は紫乃の言葉の意味を理解できないほど、初心ではない。
「雪から見たら汚いところでしょ」
「泥団子を売っているならまだしも、汚いなんて、そんなことありません」
「……っく、泥団子って……」
紫乃は一瞬だけ驚いて、すぐに堪えきれずに噴き出した。
面白いことを言った自覚がない雪は、瞬きをくり返して紫乃を見る。
「そんな風に言われたの、はじめてよ」
「ごめんなさい、可笑しなことを……」
「違うのよ。こういう店で働いていると、悪く言われることが多いから。気にしちゃあいないんだけどね」
「そんな……悪いことなんてしていないのに」
「まあ、お上の禁制には従ってないんだけど。でもそうね、私たちは何も悪いことはしてないわ」
色を売る女は、とかく蔑まれることが多い。
誤解ではあるが、色を売っているという噂がつき纏う雪もそうだった。
「あんたのこと気にいっちゃった。よければ仲良くしたいな」
私なんかでよければ、と言おうとして、雪は違うと思い直した。
「私も、紫乃さんと仲良くしたいです」
二人が得たのは、理解者だった。
他人から蔑まれていようと、信じるに値する存在がいる。
雪はこの出会いを、嬉々として胸に刻みつけたのだった。
「上手くいくといいね。好い人がいるんでしょ?」
女はこの手のことを、機微に感じ取れる。
雪は頬を染めて、小さく頷いた。




