二十三
辰巳は前触れもなく、雪の家に訪れる。
二、三日が経てば帰り、そしてまた雪に会いに来る。
雪が知っているのは、辰巳は主に用心棒の仕事をしていること、好物はけんちん汁で和泉とは親友という、細かいことを除けば、たったそれだけである。
前にも増して、雪が辰巳のことを知りたくなってしまったのは、辰巳に対する情が深くなったからとしか言いようがない。
しかし何も聞けないまま、辰巳との関係が続いていたある日のことだった。
「一緒に、浅草に行かないか?」
雪は巾着袋を作っていた手を止めて、後ろを振り返った。
辰巳は背を向けている。
「芝居小屋でも、何なら浅草じゃなくて、雪の好きなところでいいんだ」
辰巳と過ごす平坦な時間が、不満だったわけではない。
けれど、辰巳の誘いは、表情に現れてしまうほどにうれしかった。
「浅草の芝居小屋は、一度行ってみたかったんです。小さい頃、おとっつあんに見世物小屋に連れて行ってもらったことはあるんですけど、芝居小屋は今の今まで行ったことがなくて」
役者は、それこそ錦絵のように華々しいのだろうか。
皆が夢中になる演目を、一目見てみたかった。
それに、辰巳と共に行けるのなら、どこだっていい。
「なら明後日、迎えに来る」
ただの気まぐれだったとしても、夢物語ではない。
針を動かしてしまえば手元が狂いそうだったので、雪は心を落ち着かせることに努めた。
浮かれていたのは束の間で、雪にはやらなければならないことができた。
辰巳と出かける。
ならば、身形を整えなければならない。
辰巳に浅草に誘われた日の翌日、幸いにも準備をするのに一日の猶予があった。
一緒に歩いても恥ずかしくないようにしなければと思えば思うほど、雪は焦っていた。
巾着袋を作る内職だけで何とか生活を保てている雪の懐は、そう多くはない。
新しい着物を用意するのも、古着屋で良さそうなものを選ぶのが精一杯だ。
雪が一番悩んだのは、化粧である。
乙女の盛りだというのに、雪は普段、化粧のやり方すら充分に知らない。
店に来てみたものの、ずらりと並ぶ化粧品を前に、何を買えばいいのか、どう扱えばいいのか、途方に暮れていた。
けんちん汁の作り方を教わったときと同じように、また尾花屋の内儀であるおまちを訪ねようかと思ったが、何度も忙しいおまちを頼ることはできない。
もしも母がいてくれたら、友達の一人でもいたならば、苦労はしなかっただろうと、雪は己の不甲斐なさに幻滅した。
「貴女はこの色が似合うわよ」
いつの間にか、雪の隣には艶のある女が立っていた。
女は美しい顔で微笑みながら、雪に言う。
まったくの他人であったが、圧倒的な美しさゆえか、それとも女の雰囲気が心地よい所為か、雪は警戒しなかった。
雪は女に勧められるまま、紅を取る。
「塗ってあげるから、ついてきて」
あれよあれよと雪は女の勧める化粧品を買い、初めて会った女の後をついてゆく。
女は偶々店に居合わせただけの客だった。
辰巳にも言われたことがあるが、やはり自分は警戒心がないのかと、雪は思う。
女の意図がわからないまま連れてこられたのは、鈴鹿という店だった。
昼間は営業していないのか、暖簾は上がっていない。
二階建てで、一階は広い座敷となっていた。
「ここは、料理茶屋ですか?」
弥勒屋のように座敷は衝立で仕切られており、女に案内された店の奥には厨房もあった。
厨房の、さらに奥には小部屋があり、女はその部屋に雪を座らせる。
「まあ、そんなとこかな」
曖昧な返事だった。
女の話し方や動作は落ち着いていて、ゆったりとした春の長閑さを思わせる。
「あの……」
雪の隣に座った女は、徐に雪の両頬を包むように触れた。
驚き固まっている雪は、すぐ近くにある女の顔を見て、暢気にもその整った美しい容姿に見惚れてしまった。
「すごく可愛い……」
女から漂う匂いが、頭を摩耗させる。
次第に女が距離を縮め、今にも触れ合おうとしていた。




