五十四
「位牌は、姉さんが持っててくれ」
留五郎を菩提寺に弔った後で、鈴彦は雪に言った。
父と再会して、義理の弟との関係も良好になったとはいえ、留五郎は鈴彦の母と所帯を持ったのだ。
つまり、位牌を持つ正当な主は、母亡きいま、鈴彦ということになる。
雪は断ったが、鈴彦は不満な様子を一つも見せずに、再び口を開いた。
「親父は姉さんの元に帰ってきたんだ。それに俺には、お袋の位牌がある」
だから充分だと、鈴彦は雪に位牌を渡した。
「鈴彦……ありがとう。いつでもおとっつぁんに会いに来てね」
「ああ。姉さんの上手い飯も食わせてくれよ」
留五郎の死から、一月が経った。
広くもない部屋の中では静介が昼寝をしていて、なのに寂しく感じられる。
父と過ごした日々は、あっという間だった。
しかしその刹那に、雪は満たされていた。
朝も拝んだ位牌に向かって、雪は再び合掌する。
瞼の裏に焼き付いているのは、留五郎と見た桜だった。
思い出して、雪は小さい声で泣いた。
戸口が開く間際の、がたっという音が聞こえて、雪は慌てて涙を拭った。
「おかえりなさい」
部屋に入ってきた人物は、ゆっくりと近づいて、雪の身体を包み込んだ。
「俺の前では無理するな」
「無理していません。こんなに、甘えてるもの」
雪は身体を反転させて、辰巳に強く抱き着く。
涙が止まったのは、無理をしているからではないという証拠に、雪はたおやかな笑みを浮かべた。
「辰巳さんが、今日も無事に帰ってきてくれてうれしい」
雪を引き寄せた辰巳は、その唇を奪って、離して、次はどちらからともなく重ねる。
幾重も交わしたこの所作を、二人が飽きることはなかった。
「雪、愛してる」
「私も、愛しています」
うっとりと見つめ合って、再び触れ合った瞬間、その声は聞こえた。
「おっかちゃ……」
ぎくりとした雪は、慌てて昼寝から起きた静介を見る。
寝ぼけ眼を擦っていて、両親の情事には気づかなかったようだ。
「おっきしたのね。すぐに夕餉を作るから」
立ち上がろうとする雪の耳元で、辰巳がやけに甘い声で囁いた。
「続きは夜だ」
箱入り娘のように耳まで真っ赤になった雪は、小走りに台所へと向かう。
ばっちり目を覚ました静介と遊んでいる辰巳は、すでに父親の顔をしていた。
おかしくなって、雪はくすりと笑う。
些細なことに喜んで、笑っていられるような日常が続きますようにと祈りを込めて、雪は家族のために料理を作る。
天窓から、遅咲きの桜の花弁が一枚、迷い込んだ。




