五十二
「おとっつぁん、起きてて大丈夫?」
昨夜も咳が止まらず、なかなか寝付けなかった留五郎は、翌日になって見違えるほど回復していた。
食事も喉を通り、言葉も滑らかである。
一時のことかもしれないが、それでも雪には喜ばしいことだった。
「ああ。今日は不思議と何でもねぇんだ。折角だから、桜でも見に行かないか?」
「でも……」
雪とて留五郎と桜を愛でたい。
だが、いくら調子が良いとはいえ、病人に無理をさせることはできなかった。
桜は満開を過ぎ、明日にでも枝が寂しくなりそうなこの頃、今日を逃せば、桜を愛でられるのは来年になってしまうかもしれない。
来年には、もう……
雪はその先を考えそうになって、無理やり思考を止める。
「本当に、大丈夫なんだ」
結局、雪は留五郎に押し切られる形で、近所の道に聳えている、一本の大木の桜まで足を延ばした。
七割がた姿を止めている桜は、それでも見応えが充分である。
風が吹いていて、幾度も花弁を攫っていったであろうに、眺めていても寂しい気持ちにはならない。
まるで雪たちに見せるために、懸命に咲き誇っているようで、それは病身でありながら、雪に思い出を与えようとする留五郎のようにも感じられる。
「今まで一度も、花見にも連れていかなかったな。雪と一緒に桜を見ることのなかった人生だと思ったら、どうしても、来たかった」
残された時間の中で、あとどれだけ雪と一緒に過ごせるのだろうか。
その時間は、過去の償いをするには足りなくて、留五郎の未練は、雪に償いきれないことである。
何度だって、雪と桜を愛でる時間はあったはずだった。
できなかったのではなく、しなかった。
やり直せるのならばやり直したいという愚かな願いは、決して叶うことはないのだ。
「おとっつぁん。私、すごく幸せだよ。今日でおとっつぁんとの花見の一生分を味わえたんだから」
留五郎が見た雪の横顔には、うっすらと涙が滲んでいた。
すぐにその涙を拭って、雪は留五郎に微笑む。
「見て。静介ったら、あんなにはしゃいでる」
静介は地面に落ちた花弁を集めては、ばっと花弁を舞い散らせている。
雪は桜を見るよりも、可愛い我が子を愛おしそうに眺めていた。
親とはそういうものなのに、そんな簡単なことさえできなかったのだと、留五郎はやはり自身の行いを悔いた後で、娘に愛情を向けることを忘れなかった。
その日は早く休むと言って寝床に入った留五郎は、翌日の朝になって容態が急変した。
「親父!!」
鈴彦が辰巳に呼ばれて駆けこんだときには、留五郎は虫の息だった。
留五郎の右手を握る雪は、今にも泣きそうな顔で、留五郎に囁いた。
「おとっつぁん、鈴彦が来てくれたよ」
鈴彦は雪とは反対側に座し、留五郎の左手を握りしめる。
握り返す力は、雪も、鈴彦も感じられなかった。
「おとっつぁん」
「親父」
一瞬、留五郎が微笑んだ気がした。
再び二人が呼びかけようとしたとき、留五郎の両目から、一筋ずつの涙が零れ落ちて、呼吸が止まった。
「嫌っ……!おとっつぁん、おとっつぁん……起きてよ……」
取り乱して泣き叫ぶ娘と、放心して涙を流す息子は、やがて訪れるときを迎えた。
あまりにも静かに、安らかな終焉だった。
右の手には幼い娘が、左の手には幼い息子がいた。
どちらも可愛くて仕方ないから、この手を離したくなかった。
これから何処へ行くのだったか、思い出せない。
だけど目の前に広がる眩い世界に、不安はなかった。
大好きな子どもたちと一緒に、留五郎は陽だまりの中に消えていった。




