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まつとし聞かば  作者: 夏野
第五幕 草の縁
199/202

五十二

「おとっつぁん、起きてて大丈夫?」


 昨夜もせきが止まらず、なかなか寝付けなかった留五郎は、翌日になって見違えるほど回復していた。

 食事ものどを通り、言葉も(なめ)らかである。


 一時のことかもしれないが、それでも雪には喜ばしいことだった。


「ああ。今日は不思議と何でもねぇんだ。折角だから、桜でも見に行かないか?」


「でも……」


 雪とて留五郎と桜を愛でたい。

 だが、いくら調子が良いとはいえ、病人に無理をさせることはできなかった。


 桜は満開を過ぎ、明日にでも枝がさみしくなりそうなこの頃、今日を逃せば、桜を愛でられるのは来年になってしまうかもしれない。

 来年には、もう……

 雪はその先を考えそうになって、無理やり思考を止める。


「本当に、大丈夫なんだ」


 結局、雪は留五郎に押し切られる形で、近所の道に(そび)えている、一本の大木の桜まで足を延ばした。


 七割がた姿を(とど)めている桜は、それでも見応えが充分である。

 風が吹いていて、幾度も花弁を(さら)っていったであろうに、眺めていても寂しい気持ちにはならない。


 まるで雪たちに見せるために、懸命に咲き誇っているようで、それは病身でありながら、雪に思い出を与えようとする留五郎のようにも感じられる。


「今まで一度も、花見にも連れていかなかったな。雪と一緒に桜を見ることのなかった人生だと思ったら、どうしても、来たかった」


 残された時間の中で、あとどれだけ雪と一緒に過ごせるのだろうか。

 その時間は、過去のつぐないをするには足りなくて、留五郎の未練は、雪に償いきれないことである。


 何度だって、雪と桜を愛でる時間はあったはずだった。

 できなかったのではなく、しなかった。


 やり直せるのならばやり直したいというおろかな願いは、決して叶うことはないのだ。


「おとっつぁん。私、すごく幸せだよ。今日でおとっつぁんとの花見の一生分を味わえたんだから」


 留五郎が見た雪の横顔には、うっすらと涙が(にじ)んでいた。

 すぐにその涙をぬぐって、雪は留五郎に微笑む。


「見て。静介ったら、あんなにはしゃいでる」


 静介は地面に落ちた花弁を集めては、ばっと花弁を舞い散らせている。


 雪は桜を見るよりも、可愛い我が子を愛おしそうにながめていた。

 親とはそういうものなのに、そんな簡単なことさえできなかったのだと、留五郎はやはり自身の行いを悔いた後で、娘に愛情を向けることを忘れなかった。


 その日は早く休むと言って寝床に入った留五郎は、翌日の朝になって容態が急変した。


「親父!!」


 鈴彦が辰巳に呼ばれて駆けこんだときには、留五郎は虫の息だった。


 留五郎の右手をにぎる雪は、今にも泣きそうな顔で、留五郎に(ささや)いた。


「おとっつぁん、鈴彦が来てくれたよ」


 鈴彦は雪とは反対側に座し、留五郎の左手を握りしめる。

 握り返す力は、雪も、鈴彦も感じられなかった。


「おとっつぁん」

「親父」


 一瞬、留五郎が微笑んだ気がした。


 再び二人が呼びかけようとしたとき、留五郎の両目から、一筋ずつの涙がこぼれ落ちて、呼吸が止まった。


「嫌っ……!おとっつぁん、おとっつぁん……起きてよ……」


 取り乱して泣き叫ぶ娘と、放心して涙を流す息子は、やがて訪れるときを迎えた。


 あまりにも静かに、安らかな終焉しゅうえんだった。



 右の手には幼い娘が、左の手には幼い息子がいた。


 どちらも可愛くて仕方ないから、この手を離したくなかった。


 これから何処(どこ)へ行くのだったか、思い出せない。

 だけど目の前に広がる(まばゆ)い世界に、不安はなかった。


 大好きな子どもたちと一緒に、留五郎は陽だまりの中に消えていった。

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