三十六
鈴彦は先日会ったときと同じで、雪に怒りを向けている。
竹刀を持っていたので、鈴彦は御子柴道場の門下生だったのだと、雪は初めて知った。
そして辰巳も、実は鈴彦が雪の義弟であることを知らなかった。
辰巳は今、和泉から雪の噂を流していたのは鈴彦であると聞いて、道場に来ていなかった鈴彦の家を訪ねているので、すれ違っている最中である。
もしも雪が、あるいは辰巳が鈴彦の名を口にしていたら、鈴彦が道場へ入門したことを留五郎に話して、留五郎の口から雪か辰巳に知れていたら、起きようとしている事態にはならなかったかもしれない。
まるでどうしても雪に苦難を与えたいという何者かの強い意志が存在するかように、雪が歩む道は平坦ではなかった。
「無礼だぞ鈴彦。この人は師範代の奥方だ」
「なん、だって……あんたが、師範代の……」
鈴彦の様子がおかしいことに、左近は怪訝な顔でみた。
道場から雪たちを見ていた門下生たちも、不審に思って外に集まっている。
「お前、どうかしたのか?」
門下生の一人が尋ねた。
「こいつは浮気女なんだ!」
雪は声を失った。
当てずっぽうで言っているのならばいい。だけど、そうでないとしたら……
鈴彦はやけに確信めいていた。
「何言ってんだよ。頭でも打ったのか?」
「師範代の妻になれるようなろくな女じゃないんだ!皆、騙されるな!俺の親父だけじゃなくて、師範代や皆のことも騙そうとしているんだ!」
夫を裏切ってしまった過去は消えない。過去を隠しているに過ぎない。
辰巳の妻にはふさわしくないと全否定されて、雪はやっぱり無理だったのだと絶望する。
師範代の妻ならば、堂々としなければいけないのに……
(私には、できない……)
心の中では大きく震えて泣いていることが、弱いという何よりの証だと雪は実感した。
「この……たわけが!!」
大股で鈴彦に歩み寄った左近は、鮮やかな手捌きで、鈴彦を背負い投げた。
その一瞬の出来事に、雪は我に返る。
「誰に言われたか知らんが、お前は己の目で見たのか?人の悪しきところを己の力で計れないような者に、人を非難するなどもっての外だ!」




