十七
初夏の日差しが、障子戸を通して家の中を照らす。だが、心地よいはずの長閑さを、辰巳は感じることができなかった。
(ったく、どこに行ったんだ)
内心苛々してしまうのは、雪が家にいない所為である。
いつもは雪がどこに出かけようが、辰巳の知ったことではないし、気にもならない。
だが今日に限っては、雪が家にいないことで微睡の中へと溶け込めなかった。
そう、辰巳は確かに昨日、雪にこう言ったはずだった……
「明日、ここを出ていく」
辰巳は雪と夕餉を食べているときに、何気なく呟いた。
もう看病されなくてもいいほどに、傷は癒えている。
元々が赤の他人同士。これ以上、辰巳が雪の家にいる理由がなかった。
「わかりました。まだ薬は必要でしょうから、持っていってください」
「ああ。後でかかった分の金はやるから安心しろ」
「そんな……大したお金は使ってないので、大丈夫です」
雪の言う通り、心苦しいが礼はしなくていいのかもしれない。
銭をあげるのが嫌だというけちくさい理由ではなく、雪ともう一度会ってしまえば、雪との関わりを諦めることができなくなってしまいそうだったからだ。
そういえば怪我をしたときに助けてくれた人がいたと、ふと思い出す程度でいい。
しかし、出て行くと言って悲しまれなかったり、最後の日だというのに家にいなければ、別れを惜しまれていないのだという寂寞に襲われてしまうのだった。
辰巳が一人悶々としている頃、雪は尾花屋の前にいた。
尾花屋は、雪が内職を請け負っている仕立て屋である。
職人風の男が何人か、店を出入りしている様子を見ているだけで、雪は中に入ろうとはしなかった。
今日は内職で作っている巾着袋を届けに来たのではなく、尾花屋の内儀であるおまちに聞きたいことがあり、訪ねてきたわけであるが、店に来たところで足を止めてしまっていた。
(仕事中に行ったら、迷惑かけちゃう……)
店を切り盛りしているおまちの日常は忙しい。
皆が店の中でせっせと働いているであろう昼時に、足を踏み入れてよいものか、雪は悩んでいた。
(でも……)
雪にはどうしても今、おまちに聞きたいことがあった。
それはおまち限定で知っているわけではなく、おまちが知らない可能性も充分にあったが、雪は他に頼れる人がいなかった。
そして、雪が聞きたいことは、まったくの私情である。
よくしてもらっているといえども、働いている最中に聞くことではないと、雪は理解していた。
やはりおまちに聞くのは申し訳ないと、雪が引き返そうとしたとき、店の中から出てきた男に声をかけられた。
「この店に用?」
雪はその男に、見覚えがなかった。男は辰巳と同じくらいの歳に見える。
何年も尾花屋に通う雪は、店に勤めている職人たちをある程度は知っているのだが、目の前にいる男は今までに一度も見たことがない。
それもそのはずで、男は職人ではないようだ。
証拠に、辰巳と同じ物を腰に携えていた。
「俺はここの用心棒。って、昨日雇われたばかりなんだけどね」
刀の柄に片手を委ねて答える、男の雰囲気は威圧的な感じがなく、柔らかい。
柔らかいといえば伊吹もそうだが、伊吹とは違って大人の余裕があるように感じられる。
「おまちさんはいらっしゃいますか?」
「いるよ。まあ、入りなよ」
男が促してくれたお蔭で、雪はおまちに尋ねる決心がついた。
突然の来訪だったがおまちは怒りもせず、雪を出迎えた。
「何かあったのかい?」
巾着袋を納めるとき以外に、雪が尾花屋に来るのは初めてであった。
おまちは珍しいといった表情をしている。
「どうしても、おまちさんに聞きたいことがあるんです。くだらないことで申し訳ないんですけど……あの……けんちん汁の作り方は知っていますか?」




