十六
克草塾の門を潜ると、開け放された部屋に並べられた書物が目を惹いた。
しかし雪たちの姿は見えず、辰巳は克草塾の中へと足を踏み入れる。
行き当たった部屋から、人の声が聞こえた。
ぼそぼそと漏れ聞こえる声は、珊石と雪のものである。
母の声を聞いた静介は、待ちきれないといったように戸を開けてしまった。
部屋の中には雪と珊石、それに寛石がいた。
筆を持つ雪の正面にいるのは、手ほどきをしている珊石といった構図である。
「おっかちゃ……」
雪の邪魔をしてしまったと立ち尽くす辰巳とは別に、静介はお構いなしに雪に泣きつく。
「ごめんね。おっかさん、夢中になって静介を迎えに行くのが遅れちゃった」
「この……馬鹿たれがっ!!」
珊石は立ち上がり、本日二度目となる鉄拳を辰巳に喰らわせた。
「何しやがる!お前の所為で、静介が余計に泣いちまってるじゃねぇか!」
珊石の剣幕に衝撃を受けた静介は、雪の胸の中で盛大に泣き喚いていた。
雪と寛石が必死になって、静介を宥めている。
珊石はそれを見て、一度咳払いをした。
「失礼した……儂が言いたいのは、何故もっと早くに、お雪さんのことを儂に教えてくれなんだということだ」
「雪を……?」
少しして、もしや珊石は雪に懸想したのではと、辰巳は邪な考えが過ぎった。
だが、すぐに珊石は辰巳を睨み返す。
「阿呆なことばかり考えているから、妻の才に気づけなかったというところか……辰巳、お雪さんは賢いぞ」
はじめに気づいたのは寛石だった。
寛石は雪にかな文字を教えていたのだが、明らかに雪の覚えは凄まじく、呑み込みが早かった。
しかも覚えたばかりの文字を、教本にある文字のように書いてしまうのだから、驚かずにはいられない。
しかも雪は、手習所に行っていないも同然ときたのだから、珊石に雪のこと告げたのである。
雪は天才かもしれないと。
寛石の言に興味を持った珊石は、自ら雪に手ほどきをして、寛石同様に雪の才を実感したのである。
「子どもの頃から学んでいれば、優れた逸材になっていたであろうに……いや、今からでも遅くはない!お雪さん、今後は好きなときに尋ねてきなさい。ここで思う存分、勉学に励むといい」
好きなだけ勉学ができる。
雪は高揚と共に、辰巳を見やった。
優しい顔で頷く夫と珊石に、雪は頭を下げた。




