十
「めっ、それはおとっつぁんが借りたものよ」
部屋の隅に置いてあった、辰巳が貸本屋から借りた書物を静介が手にしているのを見て、雪は取り上げた。
小さい子どもは何をしでかすかわからない。
赤子の頃のように手にしたものを口に含んでしまうようなことはしないだろうが、書物をびりびりに破いてしまうことを平気でやってのけてしまうのだ。
悪意がないから、推し量れないところである。
「おっかちゃ、よんで」
しかし静介は辰巳が読書をしている姿を見て、それが読むものであると認識していたらしい。
そういえば、静介は読書中の父の膝の上に乗って、大人しくしていることがあると、雪は思い出す。
「叱ってごめんね。静介はちゃんと書物のことをわかっていたのね」
静介がにっこり可愛い笑みを浮かべるも、雪の表情は少し暗かった。
「おっかさんは……」
字が読めない、と言おうとしたところで、ちょうど辰巳が帰宅した。
「おとっちゃ!」
静介の興味が書物から辰巳に移ったことに、雪は安堵する。
帰ってきた辰巳に抱っこをねだる静介の姿は、日常となっていた。
「静介はおとっつぁんのことが大好きね」
辰巳の顔も、心なしか柔らかい。
その日の夜半、雪は夜なべで内職の巾着作りをしていた。
三日後には尾花屋に納品しなければならないため、家事や静介の世話でできなかった分を巻き返していたところである。
切りのいいところまで仕上がったので終わりにしようと裁縫道具を片付けていると、辰巳の貸本が視界に入った。
字が読めることが、羨ましいのだと思う。
手習所を入門してすぐに辞めた雪は、もっと勉強したかったという未練がまだあることに気づいた。
見たところで読めないというのに、雪は書物を手に取りたくなった。
そっと、手を伸ばすと……
「雪」
「ひゃっ」
呼びかけられた声に驚いて、雪はびくりと身体を震わせた。
「ごめんなさい、勝手に……」
「いや、構わねぇけどよ」
辰巳は雪が字を読めないことを知っている。
その雪が書物を手にしようとしたところを見て、辰巳は今までの予想が確信に変わった。
好奇心に満ちた雪の瞳はきっと、書物を、字を読みたいのだ。
「あの……少しだけ、読んでくれませんか?」
昔の雪なら本音を打ち明けずに寝入っていたのだろうが、雪はこうして辰巳に甘えることを覚えた。
雪のお願いを、彼が断るわけがない。
雪は辰巳に後ろから抱きすくめられる形で、書物と対峙した。
こうして夜半の朗読が始まったのだが、雪は辰巳の言っていることのすべてを理解はできなかった。
手習所に行って学を身につけていれば理解できるだろうに、急に辰巳との距離を感じて、内心落ち込んでしまう。
「……おっかちゃ」
隣に雪が寝ていないことに不安を覚えて起きてしまった静介は、眠たい目を擦りながら雪の元にやってくる。
雪が優しい言葉をかけながら静介を寝床に戻す様子を見ていた辰巳は、雪の肩越しに見てくる静介がふくれっ面をしていることに、夕方はあんなにじゃれてきたのにと、息子の敵意に戸惑った。
いや、よく考えてみればわかることだ。
雪をとるなと、静介は言っている。
母のことが大好きで甘えん坊な静介に、ほんの僅かに嫉妬したことは、雪には内緒だ。
静介を寝かしつけた雪もそのまま寝てしまい、夫婦の時間はあっという間に終わった。
翌日、雪は道場から帰ってきた辰巳に告げられた。
「手伝いに行ってほしいところがあるんだ」




