九
愛想が良いとは言えないが、悪い人ではなさそうというのが、弥七が抱いた辰巳に対する印象だった。
酒が回って女房との惚気話を始めたときには弥七の方が恥ずかしくなるも、女房への愚痴一つない辰巳に、なるほど道理でと思った。
夫婦仲が円満なのは、二人の相性と、辰巳が女房を立てているからだろうと合点する。
きっと、女房も辰巳を立てているに違いない。
ただ好きでいるだけで夫婦間が上手くいくわけはなかったのだ。
弥七が久しぶりに家に帰ると、お清はまだ起きていた。
お清は怒っていないようで、辰巳と飲みに行った話を聞いている。
「楽しかった?」
「ああ。また飲みに誘ってみてぇな」
「……ねぇ」
お清は真剣な顔で、弥七に切り出した。
「博打をやめろとは言わないから、せめて行く回数は減らして。いざというときに、太郎がひもじい思いをしたら可哀そうでしょう?」
「わかった。約束すらぁ」
太郎を蔑ろにしているような父親の振る舞いにお清が怒っていたことを、弥七は辰巳と話すまでわからなかった。
弥七の真摯な眼差しに、お清はほっと胸を撫で下ろす。
「私も、もう昔のことは言わないから」
「やってなきゃいいって、そういう考えがお清は嫌だったんだろ?」
「うん」
「俺が軽率だった。俺にはお前しかいねぇからよ……許してくれ」
「次はなしだからね」
雪は戸口が開く音で目が覚めた。
辰巳が帰ってきたのだとわかり起きようとするも、瞼は重く、体を動かすことも困難だ。
音をたてないようにゆっくりとした足取りで、辰巳が寝床に来る気配がした。
再び意識が夢の中に向かおうとしていた直後、背後から抱きしめられる感覚で意識が冴え渡った。
「起こしたか?」
辰巳は酔っているのか、気怠そうな声が雪の耳をくすぐる。
漂う酒の匂いだけで雪は酔ってしまいそうだった。
「……辰巳さんは、我慢していませんか?」
酒を含んだ辰巳は、普段よりも口が回りそうな気がして、雪は尋ねた。
道場の師範代という仕事は、剣が捨てられない辰巳にとってはありがたい仕事なのかもしれないが、今まで気楽に用心棒をしていた辰巳が、毎日汗みずくになっていることに不満があるのではないかという懸念を、雪は聞きたかった。
「今の生活は前よりも生きやすい。これでも道場では上手くいってるから安心しろよ」
くるりと身体を反転させて、雪は辰巳を見た。
優しく頬を愛でる辰巳の、その手が欲しくて。
「雪は、我慢してねぇか?」
「我慢はしてないけど、不安がいくつか……」
言ってみろと問う辰巳の声は、やはり酩酊が混じる甘ったるさがある。
雪はときめく心を抑えて、呟いた。
「師範代になってから身形がきっちりしたから……その……言い寄られたりするんじゃないかって」
他の女から口説かれるのではないかと言う雪に、辰巳は自分に魅力を感じてくれていること、それに雪が嫉妬をしてくれることに高揚した。
(雪って、こういうところあるよな……)
自分まで恥ずかしがってしまう言葉に、常ならまるで初心であるかのように反応するのだろうが、酔っているときには余裕が出てしまう。
「気配もねぇな」
「あと、もう一つだけ……いつか辰巳さんを許せなくなったら……もしそんなことがあったらって」
この先どうなるか、未来を知ることができるわけもなく、もしもという事態を考えてしまう。
忘れてしまいたい過去に、嘆いているのだ。
「雪……繋ぎとめさせてくれ」
未来はわからずとも、今の雪の不安を拭い去ってやりたい。
雪が求めてくれるようにと願って……
「ふふっ、お酒の味がする」
「嫌か?」
「もっと味わいたい。頂戴」
夫婦円満の秘訣は、それぞれだ。




