四十三
辰巳が信濃に帰還して、三年の月日が経とうとしていた。
再び藤次郎の下で剣客商売を始めた辰巳に反抗心はなく、むしろ取り憑かれたように仕事をこなしていた。
辰巳の瞳からは情が失せ、氷のように冷たくなり、風体もやさぐれてしまった。
そんな辰巳にも、憧憬とも呼べるような感傷に浸っていることが偶にあるのだ。
そのときは決まって、江戸の方角を見つめていたのである。
さとは秘かに、顔を顰めていた。
欲しい人を手に入れたのに、さとの心は満たされていなかった。
辰巳の心には、江戸に置いてきた妻子の姿が残っている。彼は忘れようと努めているらしいが、いつまで経っても忘れられずにいる。
江戸の方角を見ているときも、さとに雪を重ねているのも、辰巳が無意識に行っていることだった。
あとどれだけ我慢すれば、辰巳は江戸に残してきたすべてを忘れてくれるのだろうか……
もしかしたら……と、さとが危惧していたときに事件は起こった。
「大変だ……!」
ある日、同じ剣客仲間の一人が辰巳の住処に飛び込んできた。
顔は切羽詰まっていて、仲間の様相は事の重大さを物語っている。
「藤次郎が、やられた……」
藤次郎負傷の知らせは、寝耳に水だった。
今までどんな強敵だろうとあの手この手で掻い潜り、何より腕っぷしが強かった藤次郎に限って、意外だと言う他はない。
追い詰めた相手も気になったが、兎にも角にも、容態を確認するために、辰巳は急いで藤次郎を訪ねた。
「……たつ……」
「動くな。大人しく休んどけ」
命に別状はなかったものの、藤次郎が負った傷は深い。
全身を数ヶ所斬られていて、出血が多い所為か気力がなかった。
意識があるだけでも頑丈な身体であることを示している。
普段は貶めることはあっても、貶めらた姿を見たことがないだけに、今の姿は哀れに思えた。
「ざまあねぇな……」
しわがれた声は、酷く弱々しい。
藤次郎を襲った敵は、最近信濃で幅を利かせている剣客集団だという。
いずれは対立するだろうと辰巳が暢気に構えていた一方では、すでに起こるべき事態は過ぎていた。
藤次郎だけでなく、他の仲間も深手を負っているか、あるいはこと切れてしまっていた。
敵討ちとはご立派すぎるが、みすみす黙っているわけにはいかないと立ち上がりかけた辰巳を、藤次郎が制する。
「お前は江戸に帰れ」
辰巳はその言葉に一瞬目を見開き、黙ったまま藤次郎の言葉を待った。
「相当仲間がやられた。残ってる連中は解散させる」
そのとき辰巳は、藤次郎の来し方を悟ったような気がした。
自らが頭に上り詰めた集団を、いとも簡単に解散させる決断をした藤次郎に、未練は感じられない。
藤次郎も自分と同じで、流れるままに剣客をしていただけなのかもしれないと、内なる片鱗を見つけてしまった心地になる。
「今さら帰ったところで、もう無理だ」
会いたいという気持ちは消えてくれなかった。
けれど、残酷なほどに月日は流れ、取り戻せないものがある。
「女房と子どもの顔を拝むくらいなら許されるだろ」
身体の痛みに耐えかねた藤次郎は、顔を歪ませる。
言葉を紡ぐのもやっとだろうに、辰巳が止めても、藤次郎は先を続けた。
「……さとのことは俺が何とかする。…………すまなかった」




