四十
雪を殺す、という脅しは辰巳には効果的だった。
しかしそれは、辰巳が信濃行きを了承しなかったときの、最終手段に過ぎない。
はじめから雪を殺してしまえば、辰巳は決して信濃には行かないどころか、藤次郎の命を全力で奪いにかかるのだから。
だが、すぐに雪が殺されはしないといっても、安心はできない。
信濃へ行かなければ雪は殺されてしまうし、常に雪が危険にさらされている状況となってしまったのだ。
藤次郎とさとは、逆らえない辰巳をいいことに、何度も説得のために呼び出していた。
「何が目的だ?」
その日はさとに呼び出されていたのだが、人気のない場所でいきなり抱き着かれた。
雪に内緒で女と、しかも過去に情を寄せていたさとと会っていることも充分に後ろめたいのに、さとは幾度も誘ってくるのだ。
「貴方と一緒にいたいだけ。だから会いに来たのよ」
辰巳を信濃に連れ戻したいのは藤次郎ではなく、さとの意思だった。
藤次郎は妹の願いを叶えるために、わざわざ江戸まで出向いて辰巳を探したのである。
別れ際に嫌いと言ったくせに、さとの考えが読めない。
夫と別れ、諦めたはずの禁忌の戀に身をやつし、また代わりが欲しくなったとでもいうのだろうか……
「俺といても、お前は幸せにはなれない」
「……そんなにあの人のことが好きなんだ」
たとえ純粋にさとから好かれていたとしても、昔ならいざ知らず、振り向くことなどあり得ない。
どんなに美しい仙女でさえ、雪には敵わないのだ。
「お前の色気でも落ちないとはな……」
辰巳に会いに行っていた妹が秘かに打ちひしがれているのを見て、藤次郎は言った。
藤次郎としても、かつて辰巳が本気でさとを慕っていたのを知っていたので、妻を娶っていたのは誤算だったが、さとに誘惑されればいつかは落ちると踏んでいた。
一番の誤算は、辰巳がさとよりも想う女ができてしまったことである。
子どもまで生まれるとあっては、ますます難しい。
そこで藤次郎は、辰巳を脅し続けて音を上げさせることにしたのだ。
「大丈夫だ。手立てはいくらだってある」
雪と生まれてくる子どもを捨てるか、それとも想いを貫き通す代わりに失うか。
辰巳はそのどちらかを選ばなくてはならなかった。
雪を殺そうとしているなら、その前に藤次郎を殺してしまえばいいと、相変わらずの物騒な考えは浮かんだものの、藤次郎は一筋縄でいくような人物ではない。
力量の差もあるのだが、臆病風に吹かれているのではなく、問題はもっと別のところにある。
まずは気持ちの問題だった。
これから父親になろうとしている自分が、人を殺めて物事を解決しようとすることに躊躇いが生じた。
そんなきれいごとを言っていられるほど、藤次郎が生易しい人物ではないからこそ、辰巳は何も決断できずに、神経をすり減らしていくことしかできなかったのである。
さとが心変わりをして、二人が信濃へ帰ってくれる甘い期待を抱いては、そんなことにはならないだろうとも、どこかで諦めていた。
「どうかしました?」
腹が大きくなった雪と往来を歩いているときに、視線を感じることは一度ではなかった。
藤次郎か、それとも藤次郎が雇った手下でもいるのか。
わかるのは、辰巳が想いを曲げられないように、藤次郎も考えを改めることはないということだった。
常に危険は隣り合わせにあった。
心配そうに振り返る雪は、常日頃の辰巳の態度に不安を覚えている。
辰巳は決断のときを迫られていた。




