三十
結局のところ、信じられるのは己だけ。
きれいな生き方をしていても、災厄は突然に訪れて、大切なものを奪ってゆく。
南雲家を出奔し、一人ぼっちとなった幹之進の生活はすさんでいた。
生きるためには他人を傷つけることも、盗みを働くことも厭わなかった。
護身に覚えたのは、粗削りな剣法である。
武家の嫡男として大切に育てられていた頃の面影はとうにない。
しかし武士の血が混じっているからか、剣は性に合っていたらしい。
いつしか剣客集団に腕を買われ、属することとなった。
幹之進は、この頃から辰巳と名を改める。
そもそも南雲家を出奔してから幹之進の名を捨てていた。
名前がないと不便だと剣客仲間に言われて、そのときに適当に付けてもらった名である。
剣客集団に属する前から刀で人を脅し、傷を負わせることをしてきたが、殺めたことは一度もない。
剣客集団は剣の使い手の猛者たちが集まっているとはいえ、その内実は、依頼人から命じられた標的を暗殺し、金を稼ぐ者たちだ。
辰巳もまた、人を殺めて生きる道を選んだことになる。
初めて人を殺めたのは十三のとき。依頼は、ならず者たちの暗殺。
恐ろしくも一人目を斬るときに躊躇いがなかった。
辰巳は、自分が人ではない化け物のように思えて、こと切れた死体を前に自嘲の笑みを浮かべようとするも、脳裏に蘇った記憶を振り払いたくて、すぐに二人目に手をかける。
『坊ちゃま』
妙は決して、幹之進とは呼んでくれなかった。
『妙が母上ならよかったのに』
今生の別れに、握れなかった妙の手。
自分の世界から妙は姿を消してしまったのに、思い出までもは消えてくれない。
きっと妙は極楽にいて、化け物の自分は死んだ後にも妙に会えないのだ。
汚れてもなお、妙に会いたかったのだと辰巳は自覚した。
およそ十年の歳月が過ぎ、辰巳は過去に惑わされることもなく、淡々と仕事をこなしては剣を振るっていた。
その日、辰巳は沖倉藤次郎に呼び出されていた。
つい最近のこと、剣客集団の頭が亡くなり、代わりに頭を務めるようになったのが藤次郎である。
歳は辰巳よりも少し上であり、若い身空ながら、抜きん出た才覚によって、頭に抜擢されたのであった。
冷酷無慈悲。
藤次郎を表すなら、その言葉が的確だろう。
目的のためなら手段を選ばず、あくどいこともしてのける男だった。
絶対に敵には回したくないと、辰巳は秘かに思っている。
庭木は枯れ果て、今にも倒壊しそうな廃寺を、藤次郎はいつも待ち合わせ場所にしていた。
おそらく次の仕事を指示されると踏んで赴いた廃寺には、先客がいた。
藤次郎ではなく、若い女だった。
極寒とまでは言わないが、じっとしているには寒い冬の夕暮れ。
その女は体を小さくさせて、蹲っている。
女も、誰かと待ち合わせをしているのだろうか。
辰巳が来たことに気づいたものの、動く気配はない。
真っ当な暮らしをしている若い女ならば、辰巳を見ればその雰囲気に危機を感じるのか、逃げ出す者が大抵だ。
なのに興味がないと言わんばかりに、女は一度ちらと辰巳を見ただけで、そのままでいる。
「お前も、誰かを待っているのか?」
興味を持ったのは、辰巳の方だった。
そうよ、と呟いた女はそっけなくて、動いた唇の艶めかしさに、釘付けになる。
これが辰巳と《《さと》》の、邂逅だった。




