二十一
「酷い顔」
誰かに殴られたのだと一目でわかる辰巳の頬を見て、さとは少しだけ驚いたように言った。
昨日、辰巳と一緒にいたところを雪に目撃され、その偶然の出来事にさとの口角は上がっていた。
出合茶屋から出てきたところを、信じられないといった様子で佇んでいた雪に、見せつけることができたのだから。
逃げる雪を追いかけて行った辰巳だったが、その後のことは何となく想像できる。
三年間も姿を消していた夫を受け入れるお人好しの女でも、さすがに今回ばかりは許せたものではないだろうと、さとは辰巳が戻ってきてくれるのを待っていた。
そして辰巳は、予想していたようにやってきたのだ。
辰巳の傷は雪にやられたのか、それとも彼の親友である和泉にでも殴られたのか、はたまた何処ぞで喧嘩にでも巻き込まれたのか、考えを巡らせてみたけれど、さとにとってはどうでもいいことだった。
「仕舞いにしよう」
瞬間、さとは目を見開いて辰巳を見る。
「……もしかして、あの人は辰巳のことを許したっていうの……?」
「お前を抱いたときに雪との関係は終わっていたんだ。俺はこれ以上、雪を裏切りたくない」
辰巳は自分のものになったと確信していたさとは狼狽した。
「どうして!どうして私のことを捨てるの!辰巳がしてきたこと全部、あの女にばらしてやるんだから」
さとは最後の切り札を出すも、辰巳の決断は揺るがなかった。
「構わない。……お前が見ているのは、俺じゃないだろ。お前は……」
さとは髪に刺していた簪を引き抜いて、先を辰巳に向けた。
許さないと言わんばかりに、さとの目は怒りに満ちている。
「さと……」
彼女の名前を呼んだ、その言葉が合図になった。
さとは迷うことなく簪を、辰巳の脇腹に貫いてみせる。
「……うっ…………!」
鋭利でない簪が脇腹を貫いた痛みは、じんわりと身体に侵食する。
さとは怒っている。けれど殺そうとまではしていないことを知っていて、彼女を傷つけてしまった報いを受けることにしたのだ。
さとは急に我に返って、自分のしでかしたことに手を震わせて身を引く。
指先には辰巳の血が纏わり付いていた。
「辰巳が悪いのよ。……もう、貴方の顔なんか見たくない」
思っていたよりも出血していて、痛みで脂汗が浮かぶ。
貧血のような症状に見舞われながら目指したのは、弥勒屋だった。
しかし表ではなくて裏戸に手をかける。
裏戸は、卯吉とお松夫婦が起居している部屋に通じていた。
「辰巳?どうした……」
珍しく裏戸から入ってきた辰巳に、はじめに気づいたのは卯吉だった。
そして、辰巳が押さえている脇腹から滴っている血に、声を失くす。
お松も気づいて、慌てて辰巳に駆け寄った。
「この怪我が治るまでいさせてくれ……」
辰巳は力なく、その場に座り込んだ。




