十六
右手でさしていた傘、辰巳に渡そうと持ってきた左手に握る傘が、どちらも音を立てて落下した。
辰巳が音に気付いて、弾かれたように振り返ったときには、雪の全身は雨で濡れていた。
「雪……!」
雪の視界が酷くぼやける。
瞳を覆っているのは雨か、それとも零れ落ちる涙か。
その場にいたくなくて、雪は一目散に翻して駆けた。
信じていた。疑いもしなかった。
なのに真実は想いに反するもので、すべてを否定する。
冷える身体よりも、雨を吸った着心地の悪い着物よりも耐えがたいのは、この目で見た光景だ。
辰巳たちのいない方へと闇雲に走る雪は、人目も気にせず走る姿を、すれ違う人に奇異な目で見られる。
雪を追う辰巳の声が、響いていた。
だが、雪の感覚には何も入らない。
「待て!……雪!」
手首をぐいと引っ張られた衝撃で立ち止まる。
抵抗しないのを感じて、辰巳はそっと腕を離した。
雪は振り返った。
引き止めても言い訳すらできない辰巳は、黙ったまま、歪んだ顔で雪を見る。
対して雪は、何の感情も伺えない虚ろな表情をしていた。
「私も、他の人と寝たの……だから辰巳さんが他の人と寝ても、私は何も言えない」
辰巳は驚くどころか、表情すらそのままだった。
それを見て、雪は悟ってしまった。無表情から一転、目を見開く。
「知ってたの……?」
「雪が……橘花って店にいたのを見たんだ。でも俺は……」
雪が橘花で逢瀬を重ねていたとは、さとから聞いたことである。
辰巳は自身の目で見るまでは信じないと、不安を払拭させるために赴いた橘花の店先で、雪が嘉兵衛と出てくるのを見てしまっていたのだった。
(ああ、なんだ……私が嘉兵衛様と寝たから、辰巳さんも……)
裏切られたことを知ったから、辰巳も裏切った。
つまりは、因果応報……
帰ってきてくれた辰巳と、昔のように一緒にいたかった。
しかし、その幸せを手放したのは自身の所為だったと雪は得心する。
母は自分を置いて出て行った。父は自分を捨てて出て行った。
何をしたわけでもなく零れた二つの過去。
今度は自らの手で過去を零してしまったのだ。
「聞いてくれ。お前の所為じゃ……」
「もう、いい」
雪は再びその場を駆けだした。
裏切られた哀しみは尽きなくて、その原因が自分にあるのだとしたら、訪れた痛みこそ終焉を物語っているのかもしれない。
すべてはもう、崩壊していた。




