九
赤子の頃より重くなった静介を抱えて、辰巳は神田の町を歩いていた。
飴でも買ってあげようか、それとも静介は外で走り回る方が好きなのか。
何も知らない我が息子は眠っているかのように大人しい。
「行きたいとこあるか?」
「みろくや」
返事は期待していなかった。
ただ小腹が空いているだけかもしれないが、意外にも返事をくれて浮かれてしまう。
だが、その場所に足を向けるのは躊躇いがあったので、すぐに心は落ち着いた。
きっと、自分が帰ってきていることを弥勒屋を営んでいる夫妻はすでに知っているのだろう。
悪戯をしてしまい、怒られるのが嫌で家に帰りたくない子どものような気持ちで、辰巳は江戸に帰ってきてから一度も、弥勒屋へは足を運んでいなかった。
それに、常連客である最近気まずいままの和泉と顔を合わせる恐れがあったので、なおさらである。
(逃げてばかりだな……)
いい大人が、しかも一児の親が、かっこ悪いことをしていると、辰巳は腹をくくった。
「よぉ」
昼時を過ぎて、ちょうどお松は暖簾を下げているところだった。
「辰巳……」
お松は辰巳を前に、放心したように立っていた。
やがて泣いているような、怒っているような顔で辰巳に詰め寄る。
「今まで何処に行ってたんだい!急にいなくなったと思ったら、今日和泉から帰って来たって聞いて、これから会いに行こうとしたら……」
勢いで捲し立てるお松は混乱している。
お松の言葉は、本来雪が言いたい言葉のようにも聞こえた。
店の中に入れば、主人の卯吉は安心したように目を細めた。
「本当に帰って来てらぁ……静坊、おとっつぁんが戻ってきてよかったな」
うんうんと頷くお松は、涙まで流している。
今さら、二人がどんなに自分を気にかけていてくれたのかを思い知って、二の足を踏んでいた自分がひどく情けなくなった。
静介は泣いているお松を心配そうに見ていた。その静介を心配させまいと、お松は笑顔で言う。
「なんでもないよ。そうだ、美味しいものを作ってあげるからね」
「すまねぇな。暖簾下げちまったのに」
お松は頭を振った。
「お前さんが帰ってきてくれて、私だってうれしいんだから」
じんわりと、生温かいものが心に染み込む。辰巳は久方ぶりにその感覚を味わった。
雪は変わってしまった。自分が帰ってきたことがうれしくないのかもしれない。
だって和泉と懇ろになっていれば、邪魔な存在でしかない。
和泉だって、邪魔者が帰ってきたと思っているに違いない。
とは、なんて愚かな考えだったのか。
自分がどう思われているかを気にしてばかりで、雪のことも、和泉のことも考えていなかった。
お松と卯吉に対しても、二人の気持ちを蔑ろにしていたのだ。




