三
雪が紫乃の家にいる頃、長屋には一人の来訪者がいた。
「辰巳……どうしていなくなったりなんかしたんだ」
自分を責めて聞けないでいるであろう雪の代わりに詰め寄るのは、彼の親友の和泉である。
辰巳が口を閉ざしていることに腹を立てるのは当然で、言えないということは、辰巳にもそれなりの事情があるのだと思えばこそ、頼ってくれない薄情さに傷ついてもいた。
「出て行く前、辰巳はあの女と会っていた。もしかしたらって何度も考えたけど、まさか……」
辰巳は本気で雪を愛しているように思えた。いや、本当に愛していたのだ。
だが、再会した昔の女を選んでしまったとしたら。過去の想いを忘れられずにいたのなら。
そんな訳はないと何度も首を振っても、何一つわからない状況では完全に否定できなかった。
「お前が聞きたいのは、どうしていなくなったじゃなくて、どうして帰ってきた、だろ?俺が帰ってこなければ、雪と一緒になれたかもしれねぇのにな」
「辰巳、俺は……」
「お前の雪に対する感情は、ずっと前から知っていた」
やはり辰巳には気づかれていたと、和泉は今さら恥ずかしい気持ちにもならなかった。
すでに気持ちを雪に打ち明けているとはいえ、今の今まで言わずに内に秘めていたのは、辰巳との関係がぎくしゃくしてしまうことを恐れたためでもある。
それは、和泉の気持ちに気づいていて何も言わなかった辰巳も同じだった。
絶対に惚れるなと、釘は刺していたが……
「でも、辰巳のことを心配していたのは本当なんだ。お前が帰ってこなければなんて、一度も思ったことはない」
「…………」
「お雪ちゃんは、ずっとお前だけを想って待っていた。なのにお前はだんまりだ。今までお雪ちゃんがどれだけ苦労したか、たっぷり恨み言を聞かされるといい」
和泉はそう言い捨てて、長屋を後にした。
「……言えるもんなら言ってるさ」
彼の呟きは、誰にも届かない。
幼子を一人で育てた雪の苦労は、想像しているよりも苦しかったであろうことは明らかだ。
なのに、雪はどうして自分を責めてこないのか。
いくら怒らない大人しい性格の雪とはいえ、せめて泣きつかれてもおかしくはない。
愛が冷めるには充分な仕打ちをした。雪が待っているという確信はなかった。
雪が他の人を選んでいる未来も想像していた。
だから、雪が待っていてくれた事実に、身勝手ながら言いようのない高揚を覚えたのだ。
願いの前には貪欲で、雪を苦しめることしかできなかった。




