九
雪は男を誑かす悪い女だ。
出合茶屋に男を呼び出しては色を売っている。
長屋の住人が言う雪の噂は、このようなものだ。
四年前に雪の父が家を出て行った後、雪は長屋の住人達から噂を囁かれるようになった。
噂が立ってしまったきっかけは何なのか、当の雪はわからない。
出合茶屋に行ったことも、ましてや男の人と付き合ったこともなければ好意を抱いたこともない雪には、まったく心当たりがなかった。
はじめは根も葉もない噂だから、そのうち忘れ去られるだろうと、反論すれば噂が大きくなってしまうと懸念したこともあり、気にしないことにしていた。
けれど、一向に噂は絶えなかった。
我慢ができなくなって違うと言った頃には、誰も信じてくれなくなっていたのだ。早くに否定したとして、信じてもらえたとは疑問だが……
誰が広めた噂なのかは、今となっては知ることはできない。
知ったところで、浸透してしまった噂を取り消す術がなかった。
長屋の住人が雪の噂を本当のことだと信じている理由は、雪の両親にある。
雪の母は、雪が幼い頃に家を出てしまったのだが、それというのも他に男ができたからという訳がある。
以来、雪は父と二人で暮らしていたのだが、父は家に寄り付かず、いつも博打にのめり込んでいるか飲んだくれているような、所謂ろくでなしだった。
その父も、再び所帯を持ったときに、雪を置いて家を出てしまっている。
そんな両親の子どもは両親と同じだと、噂が生まれる前から住人に認識されていたのだ。
とにかく辰巳に噂を知られてしまった以上、辰巳からも疎まれてしまうのだと、雪は溢れ出しそうな涙を必死で堪えていた。
「お前が悪く言われるのは、俺がいるからってわけでもねぇんだろ」
辰巳がいてもいなくても、雪の噂は存在した。
ただ匿っているだけとはいえ、実際に男を家に上げているのを見られてしまったのだから、噂は強固なものになったのも事実である。
「私は男を誑かす女……らしいです」
「らしいって、他人事だな」
「ただの一度も、辰巳さん以外はこの家に誰も上げたことなんてないのに……」
「勝手な噂が広まってるってか?」
火のないところに煙は立たないというが、こと雪の噂に関してはまったくもって当てはまってはいないのだ。
しかし、それを証明できるのは雪本人だけであり、赤の他人の、出会ったばかりの辰巳には通じない。
辰巳は、愛想を尽かして出て行ってしまうだろうか。
そもそも愛想を尽かされるほど親しい間柄ではないのだから、心配するだけ無駄というものだ。
「陰湿な奴らだな。あいつらの方が、よっぽど卑しい人間だ」
雪は耳を疑った。驚いて辰巳を見やる。
「どうして、私を信じるんですか?」
「あんたが噂は嘘だって言ったんだろ」
「でも……」
雪一人が違うと言っているだけで、どうして少数の方を信じるのか。
しかし辰巳は揶揄っているようには見えない。
「他人が何て言おうと、あんたをどう思うかは俺が決めることだ。あいつらの噂より、お前の方が信用できる」
期待などしていなかった。
だからか、それとも複雑な感情は抜きに辰巳の言葉が胸を打ったのだろうか。
溢れてしまった涙は、最初に涙が出そうになったときとは別の意味だった。




