モグラ④
「何が卯月だっ! ふざけやがってっ!」
この子供っぽい声はモランのものだ。先ほどまで地面にのたうち回っていたはずだが、復活していたのか。アオリの戦いに夢中になっており、まったく気付けなかった。いつの間にか、背後まで取られているのだ。ヨミは驚いてしまう。
そして更に驚くべきことが起きた。モランは鉤爪をヨミの首に突きつけて来たのだ。
「あわわわ。いったい何を」
「黙ってろっ!」
鉤爪が首に擦りつけるように当てられた。
太陽は昇り、昼に近づきつつある。空気も地面も生温い暑さで、服も蒸れて体に張り付いてくる。しかし、この鉤爪はその中でも氷のように冷たくて硬質。それからすぐに針に刺されたような痛みが走った。見えないが首が僅かに切れたかもしれない。
危なくなれば迷わず首を掻ききることだろう。モランのことは詳しくないが、それはよく分かる。 動きの感じから見ても彼のダメージは回復している。最低レベルの自分では抵抗もできない。 迂闊に動くのは危険だ。
「どうだっ! バカ女っ!」
勝ち誇ったように声を張り上げた。ドゲルの戦いを見てはいたが、それでもヨミとアオリとの距離はけっこう離れていた。モランが声を荒げたことで、ようやく気付いたのか彼女はこちらを見る。
すると腰に手を当てて、面倒くさそうに頭を掻いた。それから呆れたように息を吐いた。
「人質とか。小者丸出しだね」
「うるさいっ」
煽られてはいるが、モランは乗って来ない。やはり人質を取っているおかげで安心感があるのか。
ヨミの首に絡めた腕に更に力を込めた。
「一歩でも動いて見ろっ! こいつの命はないぞっ!」
「セリフもベッタベッタだし」
ヨミは不審に思った。 彼女がつま先を地面に付けて軽く回すと、トントンと地面を叩くのだ。そして脚を上げながらこちらを睨んでいる。あれはひょっとしなくても準備体操をしているんじゃないだろうか。蹴る準備は万全ってことなんじゃないだろうか。
モランも勘づいたようだ。微妙に腕が揺れている。そりゃあドゲルの二の舞になるのは嫌だろう。ヨミもできればお断り願いたい。どうやら彼女は自分のことを知っているようだが、それでも人質としての価値まではないということだろうか。
こちらの準備などお構いなしに、彼女が前に足を踏み出した。それから、きょとんとした顔で首を傾げる。
「一歩でも動いたけど」
ヨミとモランは固まっている。二人とも考えていることはだいたい同じであった。なに言ってんだこの女は。ヨミもすでに恐怖の対象はモランではなく、アオリに移っていた。何をしでかすか想像できない危うさが彼女にはあるのだ。
「まあいいか。面倒だから進むね」
そう言って一歩ずつ近づいてくる。お気楽な散歩のように、スイスイと歩いてくる。
「ちょっ、動くなっ! 動くなっ!」
「アオリさん。ダメですっ! ダメですよっ!」
必死になって留めようとするが、彼女はどんどん距離を詰めてくる。
やがてヨミ達の前に到達。地面をトントンしている。もう彼女の間合いに入っていることはなんとなく分かる。そして、彼女はちょっとだけ笑みを作ると、すぐに真顔に戻った。ヨミはその瞳に一瞬だけ鮮やかな光が灯ったことを見逃さなかった。この人やる気だ、と思った。
「ヨミくん。動かないでね」
「うごうごうごうごうごうごうごっ!」
「アオアオアオアオアオアオっ!」
すっかり気が動転してまともに話せなくなった二人には目も暮れない。右脚という名の彼女の矛は至近距離から突き込まれた。予備動作もほとんどなかったせいか、めちゃくちゃ速い。間近で見ると、細長い棒にしか見えない。その標的はおそらく彼女の狙いどおりであった。それはヨミの腹部。ちょうど鳩尾の辺りだった。
(人質って何?)
そんな疑問が頭を掠める。敵が人質を取って来たら普通はどうするだろうか。言われた通りに動かないのがまず一つ。しかし、それだと敵の思うつぼだから、何かの策を講じて敵だけを倒す。普通ならこうするに違いない。せめて敵を狙うようには攻撃するはず。
だが、今の彼女はどうだろう。人質を狙っている。ヨミを狙っている。まるで親の仇でも討ち取ろうかという迫力で、ヨミの腹部を破壊しようとしているのだ。まさかヨミの腹は本人も気付かないところで彼女の親を殺していたのだろうか。先手を取って謝っておけば許してもらえたのだろうか。
そんなことを考えたところでもう遅い。彼女の右脚はもう放たれたのだから。そしてもうヨミの服に触れて肌に触れて、あとは腹部の破壊を待つばかりなのだから。
「ぎゃあああああっ!」
思わず呻き、目を閉じた。終わった。何もかも終わってしまった。ヨミもどうせ死ぬなら痛いよりは痛くない方いいと思うタイプだったが、どうやら自分が望む死に方はできないようだ。なんだか腹の辺りが生温い。たぶん見たら酷いことになっているのだろう。だって背中の辺りまで、その感覚が続いているのだ。血だろうか。前から蹴られたのに、背中から血。それってつまり……いや、やめておこう。考えないようにしよう。これから信じられないほどの激痛が待っているのだろうか。なんでドゲルのように気を失わなかったんだ。自分の意識が憎い。どうして素直に途切れてくれなかったんだ。そして安らかに眠らせてくれなかったんだ。
「…………あれ?」
目を開けた。待っていても痛みがないので不審に思ったからだ。 それから、ゆっくり自分の腹に目をやった。
驚いた。彼女の攻撃はまだ終わっていなかったのだ。いや、終わっているのかもしれない。ともかく彼女はまだ足を降ろしておらず、その足はヨミの腹部に刺さったままだった。
そう、腹に刺さったままなのだ。血も出てこない。痛みなどもさっきからまるで感じないが、自分の腹部は彼女により綺麗に貫かれていた。ここで気の弱い人なら卒倒してしまうかもしれないが、ヨミはそうならなかった。それはきっと彼女のその蹴りに殺気のようなものが一切感じられなかったからだろう。少しだけコウヨウに似ていた。彼の戦いを見たときに感じたものと彼女のものはよく似ていた。
そして、彼女の狙いが自分でないこともこのときようやく分かった。
「……あ……が……」
背後の男が体を震わせて悶絶しているのだ。そのまま体を支えられなくなり、ヨミの背中にもたれかかるように倒れていく。
うつ伏せで倒れたモランは完全に気を失っている。もう起き上がってくることはないだろう。
これで脅威は去った。だが、疑問も残った。
彼女はヨミの腹を貫き、後ろにいるモランの腹を突き刺した。ここまでは理解できた。しかし、なんで自分が無事でモランが攻撃を喰らったのかが分からない。
それをアオリに聞こうとしたら、邪魔が入った。
新たな敵。そいつはどこからともなくヨミ達の前から現れた。
仮面に長い爪。毛の付いた外套。グランだ。先ほどからいなかったが、ここにきてヨミ達を襲おうというのだろうか。ヨミはともかくアオリはピンピンしているので、なんの心配もなさそうだが。
しかし、どうやらグランにはもう戦う気がないらしい。こちらを見ながら舌打ちすると、そばで転がっているモランを担ぎ上げ、背を向けて走り出した。続いてドゲルを担ぎ上げる。
もう一度こちらの姿を確認すると、そばの穴に飛び込んで姿を消した。
あの穴はおそらくグランが自分で掘ったものだろう。ヨミが初めて彼らと遭遇したときもあんな穴から現れたのだ。
今まで姿を見せずこのタイミングで出て来たということは、逃走経路を確保するために穴を掘っていたのだろう。それは彼が用意周到だということではなく、たぶん元からそういう役割を担っていた。何か起こった場合に逃走する役目はグランと決まっているはずだ。動きからして手慣れていたし、そんな保険もなければ他の冒険者にとっくに捕まっていたと思うからだ。
アオリはグランの逃走中は何もせずに見ているだけだった。グランも遅いわけではなかったが、彼女は最初から動こうともしていなかった。ヨミの背中をポンと軽く叩くと、歩き出した。ついて来いという意味だと分かった。
しかし、その前にヨミはあることを思い出し、声を上げた。
「あああああああっ!」
あるはずもないのに、腰の辺りに手を触れた。
「何? どこか痛いの?」
アオリは首を傾げるが、ヨミはそれどころじゃない。
クエストで運んでいる石。あれのことを忘れていた。あれがなければクエストが失敗する。ランドのランクが落ちてしまう。ランド達が悲しんでしまう。そんな姿を自分は見たくない。
たしかドゲルがそのまま持っていたはず。ドゲルはグランに運ばれていったからもういない。だが、あれだけ激しく戦っていたのだからどこかに落としているかもしれない。とにかくドゲルはいた辺りを探してみる。
膝を付き、地面を嘗め回ように見るが、発見できない。木が折れた位置も念入りに探すが、そこにもない。地面を触る。どこかに埋まってたりもしない。もしかして落とさなかったのだろうか。それとも、そのまま持ち逃げされたのか。それは困る。非常に困ってしまう。ドゲルへの怒りとかどうでもいい。あれがないだけで息が苦しいのだ。
「ヨミくん」
「ちょっ、話しかけないでくださいっ!」
彼女には感謝しているが、今はそれどころじゃないのだ。必死に周りを見る。四つん這いになり地面を凝視しながら隈なく探索する。
でも、ない。どうしよう。このままじゃ。どうすればいいんだ。
そのとき、頬にぴたっと何かを当てられた。アオリがいたずらでもしたのかと思い、腕で振り払う。すると、ボトッと何かが落ちた。見ると、そこには道具袋。中を確認するとあの石だ。見間違いじゃない。数も全てある。壊れてもいない。
目が潤んできた。良かった。これで大丈夫だ。クエスト達成できる。
「私のおかげだよ」
アオリが誇らしげに胸を張る。涙が出て来た。
「うわあああああんっ!」
感情に任せて、抱きついた。
「ちょっ、くっつかないでよ。そこ胸だから。ヨミくん。触っちゃってるから。揉んじゃってるから」
「アオリさああああんっ! 好きですっ! 大好きですうっ!」
「ほーら。よしよし」
「うわああああんっ!」
というわけで、ヨミが落ち着いたあと、二人は森を出たのだった。